パルコ企画製作主催「人形ぎらい」PARCO劇場(若干ネタバレあり)
<2025年8月23日(土)昼>
現代大阪で上演中の文楽。夜には楽屋の人形置場で人形同士が会話する。いつも悪役の人形・陀羅助は、ヒロイン役の女性人形・姐さんに惚れるが、主役を務める人形・源太と2人して笑われる。姐さんに幸せになってほしい一念で脚本を書換えてほしいと近松門左衛門に直訴したりもするが当然断られる。そんなある晩、源太は顔を鼠に齧られる。それでも直された顔で何とか舞台には出た源太だが、山場の場面で顔のことが気になるあまりにとちって、それを恥じて劇場から失踪してしまう。姐さんに頼まれた陀羅助は源太を探して夜の大阪に飛出す。
粗筋がややこしいですが、人形同士が話すのに加えて、人形と人形遣いが話したり、近松門左衛門(の人形)が出てきたり、いわゆるメタな作りの芝居に仕立てられています。初めは劇場の中を舞台に話が進むので、近松門左衛門が出てきたところで江戸時代の話かと誤解していたのですが、どうやら現代の話である、と了解できたあたりから話もだんだんスピードが出てきて楽しめました。
万年脇役がヒロイン役に惚れてしまうとか、結局追いかける男をお福(という人形)が励ますとか、主筋は王道の友情もののような展開を押さえつつ、メタな作りで散々笑わせてから最後に(ネタバレ自粛)といった展開まで、ツボを押さえた脚本はさすが三谷幸喜です。
後半になってスピードが出てきた理由はもう1つあって、出だしが文楽の劇中劇で始まるのですが、ここは太夫の語りが本格で行なわれます。唸る形です。そうすると展開が遅い上に何を話しているのかわかりません。菅原伝授手習鑑を通しで観たときと同じ感想(前半、後半)で、字幕がほしい、となります。あとは前半、太夫が1人で複数役を語りますが、1人でやると会話を重ねられないので間を開けずに1人複数役で進めることになるのですが、切替の技術はすごいにしてもやっぱり不自然な間になって聞きづらくなる。
それが後半は人形の地の語り(と呼べばいいのか迷いますが)になるともっとくっきりはっきり話すようになって、間も取れるようになって、終盤は複数太夫が語る場面も出てきて、現代芝居に近くなります。こうなると人形が役者に見えてくる、そこにメタな展開が重なる、と楽しくなります。
で、もっぱら芝居は耳で楽しむ私ですが、やはり今回の人形スケボーを取上げないわけにはいかない。あれは裾をまくった脚と合せて、最高に格好いい場面でした。今回の文楽は「文楽人形に不可能はない。人間にできることで、私らに出来ないことはないんや!」という芝居中の台詞にもあったキーワードから始まったらしいですが、それを体現した名場面でした。
この場面に限らず後半は実に上手に人形が動いて、人形遣いとして出ながら監修を務めた吉田一輔が実現に預かってかなりの力があったらしいです。これは覚えておきます。
歌舞伎もそうですけど、伝統芸能の底力はすごいです。ただし本格古典が現代にフィットしない理由もわかってきました。(1)古典ばかり上演して現代の物語を上演しない、または現代人が観ても納得するように手直ししない、(2)テンポが遅い、(3)語り口が明晰でない、の3つです。このうち(1)は作品によっては通じるものもあるとして、(2)は賛否もあるでしょうが、(3)だけは私には受入れられない。芝居を耳で楽しむ癖のついた私には、何を話しているのかわからないのが一番のストレスになります。歌舞伎だって能だって、はっきり語ってもいいものはいいですから。そして今回の文楽もその証明です。はっきり語ってもいいものはいい。けど、あの唸りも含めての伝統芸能なんですよね。そこが悩ましい。
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