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2025年11月12日 (水)

松竹主催「吉例顔見世大歌舞伎(夜の部)」歌舞伎座

<2025年11月8日(土)夜>

春駒売りに姿を変えた曽我十郎と曽我五郎の兄弟が父の仇である祐経と対面する舞踊「當年祝春駒」。伊勢で歌舞伎を演じる一座が義経千本桜を演じてまあまあ評判を取っているが、上演のために役者をなだめたり大道具のトラブルに応じたりで舞台裏は大わらわ、狂言作者が振回されている。そこに座元が慌ててやって来る。上演中の義経千本桜は座元が原案を出していたが、実は上方の人形浄瑠璃で上演されていたものを勝手に盗んで上演していたのだが、原作の作者が芝居見物にやって来るという。その場で上演中止などと言われたら大損害なので何とか全力で上演して認めてもらおうと考えるのだが、そう考えない人もいれば、こんなときに失敗する人もいて一層大わらわに「歌舞伎絶対続魂(ショウ・マスト・ゴー・オン)」。

「當年祝春駒」は曽我兄弟ものってこんなに華やかな話だっけと考えながら美しい踊りを堪能。

「歌舞伎絶対続魂」は近年のオリジナル版は観た上で見物。義経千本桜も先月観たばかり。それなりに面白い場面も見所もあるもののオリジナルほどきっちり収まる脚本ではなく、個別個別の場面が独立感が強い。この辺は何度も上演して磨いてほしい。

こちらの不勉強を挙げれば、役者役はともかく、裏方の仕事が何をやっているのかよくわからなかった。大道具と附打と囃子方はわかっても狂言作者と座元と頭取の違いを前知識なしで理解できず。そこに拘らずとりあえず上演しようと頑張る人たちだと見做してしまえばいいと頭では分かるもののそれでは納得がいかない。三谷幸喜の芝居にしてはいささか不親切。

あとは客席。若い雰囲気がしたのは結構。だけど若干のネタバレ込みで書くと、終盤に「義経千本桜 川連法眼館」の場の一部を演じるけど、あの場の観客のノリが良すぎて公演1週間目にしてすでにリピーター多数かと疑われるレベル。ああいうのはこう、巻込まれるような感じで少しずつ盛上がるのが客席は望ましい。

役者寸評。現代風新作初演だと型に逃げられないので役者の役作りの地力が問われるところ、二日酔い役者の獅童がいい感じ。狂言作者の幸四郎は振回されたときの反応がややワンパターンになりがちなのが惜しい。座元の愛之助は何に慌てているのかわからないのでもっと工夫がほしい。あと目に付いたのは少しだけ出してほしい遊女役は、新悟でいいのかな、男女役のややこしいところを整理して上手。白鸚はちょい役すぎてもっと観たい。染五郎は現代風の劇展開はこれから。そしてこの大舞台にまったく負けない大道具の阿南健治と、なぜあそこまで可笑しくなるかの浅野和之は、さすが三谷作品を多数経験しているだけのことはあるし、期待した通りの間でやってくれるのがありがたい。

あまり花道を使わないのと、休憩挟まずの2時間5分で通してくれるのは親切だし、終わるのが8時前なのも遠方の人としてありがたい。ただ夜の部の開演が5時というのは結構慌ただしい。この日は昼に新宿で4時前まで別の芝居を観ていたので移動と食事仕込みで、せっかく銀座に行ったのにぶらぶら歩く余裕もない。歌舞伎だからそこはまあしょうがないとしても、やっぱり土日祝日は1時6時の開演がいい。

二兎社「狩場の悲劇」紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

<2025年11月8日(土)昼>

とある雑誌の編集長の元に男が訪ねてくる。雑誌に載せてもらえないかと前に置いていった小説の掲載可否を聞きたいという。まだ読んでいないと断る編集長に男は無理やり話を読んで聴かせる。元判事だったという男が自分が関わった事件だと断って話すのは、勤めていた領地の伯爵とそこに暮らす使用人たちを巡る話だった。

チェーホフに小劇場感を絡めて、永井愛ならではの手付きで丁寧に仕上げられていたものの芝居全体が平坦な印象。編集長を演じる亀田佳明と執事の佐藤誓の2人は内面のテンションが高くさすが。それと対比すると元判事の男を演じる溝端淳平は他はよくともテンションが欠けていたのが残念で、どんどん変わる庭師の娘は原田樹里だったけど門脇麦の降板代役で時間が足りなかったか。この2人の物足りない感がそのまま芝居の盛上がりの物足りない感になってしまった。

あとは原作が文学寄りなものの一応ミステリーのため、事件までの経緯を端折るのも躊躇われるけど、やはり事件が起きるまでが長い。休憩挟んで2時間50分をあと20分縮められないか。間延びした印象。

あとは芝居に関係ないけどセンターの通路前後に空席をたくさん作っていたのが悪印象。前売チケットであれより後ろの席で観ていた自分が損した気分。

2025年11月 3日 (月)

ほろびて「光るまで」浅草九劇

<2025年11月2日(日)夜>

ぼんやりとしか思い出せない男が語る、妻の実家に初めて顔を出した話。実家の家族とは折合が悪くもう10年以上帰っていない、結婚したことも手紙で知らせただけの仲だが、ある日妻が実家に帰らないといけないと言い出して一緒に妻の実家に出かける。挨拶した母親と兄は愛想よく歓迎してくれるが、姿が異なる別人だと妻が言う。

前に観たときが良すぎたので再挑戦のほろびてです。この4人の関係はどうなっているのか、という点を曖昧にさせ最後に明かすのは芝居の手法の1つですが、途中まではよかっですし、質は高いのですが、最後のオチが急展開過ぎて付いていけなかった。ちょっともったいなかったというのが感想です。

チラシやサイトには「過去に作った『公園』を原案として作成した、新作を上演します」とありますので、おそらく最後の場面は今回足したものではないかと思われます。ただ、それまでのぼんやりとした雰囲気、壊れそうなところを壊さないように努めるところをチラ見せしながら、唐突にかつ中途半端に具体的な話に飛びすぎでした。これがもっともっと具体的な現実の具体的な話だと野田地図なんかでも見かけるような展開になりますが、あちらはそれまで具体的な話に負けないくらいテンション高めのしゃべり通しで種を撒いて土台を作った上での急展開です。どれだけテンションの高い場面でも緩さと柔らかさが基にあって膨らませた場面をいきなり握りつぶすような展開は、うーん、どうなんでしょう。

役者は問題ありません。主人公の藤代太一と妻役の藤井千帆、母親役の佐藤真弓と兄役の佐藤滋。むしろ素晴らしい出来。舞台の奥を空けて楽屋まで見せるのは平成中村座が浅草でやっていたのを場所柄思い出しました。だから80分の芝居でしたが開演前のゼロ場を入れると2時間近くやっていたことになります。すっきりした舞台美術も、ほとんど流れないけど今時らしい綺麗な音響もよかった。ただ今回は私の好みに合いませんでした。

EPOCH MAN「我ら宇宙の塵」新宿シアタートップス

<2025年11月1日(土)夜>

星座と宇宙に詳しい父親が亡くなって5年、ほとんど口をきかなくなった息子は朝早くに家を出て行方不明となる。気が付いた母親は息子を探して家を出る。幸い行く先々で息子の手掛かりは得られ、息子と話した人たちも一緒に探すと申し出てくれる。

一人劇団として名前を見かけていたので観劇。評判通りの仕上がりでした。

息子を探す話がやがて、という展開は落着いて考えれば強引極まりないものですが、そこは日本の小劇場の伝統ある作風に則って笑いとテンションで納得させて引張ってくれます。そこに子供は人形を使って演じられていて、あの足を役者の足に付けて頭と腕を棒で動かすタイプの人形を何と呼ぶのか知りませんが、不思議と馴染んでいました。

そしてその作風に則りすぎるとやや貧乏臭い舞台になることもままあるのですが、今回は舞台の側面から背面までをLEDパネルで覆って、全面の映像を上手く使うことでむしろ洒落ていました。映像の観やすさの違いを気にして狭いシアタートップスで席種を4つも設けていましたが、2つくらいでよかったんじゃないかなと思います。ちなみに音響も綺麗で雰囲気を新しくするのに一役買っていて、音源と設備によってはこのくらいはできるのだなと再認識しました。

肝心の芝居ですが、全員よかった。とは言え池谷のぶえがやはり一頭抜けていて、真面目な役なのにふざけた場面で役と芝居の雰囲気を壊さずにふざけるのに付合える腕前は素晴らしいの一言。渡邊りょうは調べたらこれまで何度か観ていたはずなのにあまり記憶にないですけど、こういう弱いところの多い役もできる人なのですね。そこにテンション勝負なら負けていない異儀田夏葉はKAKUTAの人、見た目で勝負しつつ意外と動けるぎたろーはコンドルズの人だからそれは動ける、そして自分は子供の役で参加した脚本演出の小沢道成は、あちこちから狙った通りの役者を集められるのも実力のうち。

1時間半くらいだったかな、時間が短くとも密度で短いとは感じさせない。初演で読売演劇大賞を取ったのも納得でした。

文学座「華岡青洲の妻」紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

<2025年11月1日(土)昼>

江戸時代。紀州で医者をしている家族。息子の雲平、後の青洲は京都に勉強にやっている。その間に母親は娘たちと家を守り、息子のために近くの村の庄屋から嫁ももらっていた。まだ息子と顔を合せていない嫁は母親に可愛がられながら雲平を待つ。それから3年経って雲平が戻って来るが、母親は雲平にかかりっきりで嫁のことはすっかり放置する。亡くなった父の跡を継いで医者を務める傍ら、外科の患者を助けるために京都以来の麻酔薬の研究に打込む雲平を巡って、母親と嫁の諍いが増えていく。

有吉佐和子の原作を、本人が脚本を書いたのかな。昔から上演されている舞台らしく名前に聞き覚えがあったので気になって観劇。よく整った舞台だったけれど、少しずつ届いていないところがあって食い足りない仕上がり。

芝居の大半を占めるのは嫁姑の諍い。原作発表が1966年だから、その当時は今よりも大家族が多くて今よりも受けた題材でしょう。そこを丁寧に、どちらかに贔屓が傾かないように、かつどろどろしすぎないように演出していました。おそらく最後の場と合せて、どれだけいがみ合っても病気や寿命の前には小さなことであり皆平等であるという意図を狙ったのではないかなと観客としては想像しました。

それを実現するためには、まず脚本が足りません。原作未見ですが、一般に小説は舞台よりも長いものですから、原作の小説にはもう少し医者としての使命感や葛藤も書き込まれていたかもしれません。ただし脚本は嫁姑の話に多くを割いたため、そちらの場面が足りない。ないものは演出できませんから、やや手薄になるのは仕方がない。

それと役者です。一定の水準の演技も保っていたので安心して観ていられましたが、といってぐっと掴んでくるものも手薄です。演出の求める遠距離感を保ちつつ脚本にある近距離感を手の内に入れた感があったのは母親役の小野洋子くらいでしたが、それでもやややりすぎ感があったのは脚本の湿気のためでしょうか。そして今回の演出では雲平の役が重要になるのですが、演じた釆澤靖起には場面というか芝居を通して支える重さが見えなかったので一層奮起してほしいです。

あとはスタッフ。美術や照明はいい感じでしたが、場転で流れる音響がどうにも締ましません。芝居と馴染まない選曲でした。それっぽいバイオリンの曲ではありましたが、たぶんテンポが芝居と合っていない。

と、着物髷物をしっかりこなして見せたのはさすがだったのですが、消化不良で劇場を後にしました。そもそも小説の発表から半世紀以上経って、現代日本と照らし合わせて脚本の寿命が来ていると思われるので、もし原作にこれ以上の内容が書き込まれているならリライトに挑戦した方がいいのではないかと愚考します。

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