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2011年8月14日 (日)

(ワークショップ)新国立劇場演劇研修所「NNTドラマスタジオ オープンスクール(長いまとめ)」新国立劇場内稽古場

読む際の注意事項は目次をご覧ください。

(1)受講の感想

決まってから開催まで時間が足りなくてあまり告知できなかったらしいです。見逃した人、お気の毒でした。見つけて応募したのに落ちた人、観客の自分が枠を取ってすいません。見つけてスケジュールも大丈夫だったのに応募しなかった人、残念でした。ちなみに訊いたところでは、実技の都合で男女比を半々にした以外は、純粋な抽選だったそうです。

自分は「しのぶの演劇レビュー」で見つけました。最近は製作、制作のいろいろな案内も多く掲載されているので、定期的に確認するといいです。

講師陣を見た瞬間に3万円でこれはお得だろとは思っていましたが、実際に受講したら想像以上にどの講座も非常に充実していました。いや本当に。特に自分のように理論や歴史に疎い人間にとっては、目から鱗の連続です。一コマ3万円の価値があったと言っても大げさではない(さすがにそこまでは払えないですけど)。ワークショップがこんなに面白いものだとは知りませんでした。想像以上に実技が多かったのですが、それが研修所の方針に沿ったものであることは後で気がつきました。

すべての講座で共通していたのは「相手を聴くこと」「自分の身体感覚に敏感であること」「自分を表現するより全体をよくする事を目指すこと」で、それをどうやって実現するかを手を変え品を変え教えることが研修所の方針と理解しました。ここまでカリキュラムと講師陣の教える内容が統一されていると、研修所として目指すところにはブレがないのがよくわかりました。

あと、会場がすばらしかった。都心のあの場所に、使った稽古場はたぶん10間×9間×高さ4間。その広さによく響く音響と木の床に、ピアノはスタインウェイ。床には今まで立て込んだであろうセットの後が残っていて、いろいろな稽古の歴史を感じました。あの講師陣にこの場所で勉強できる研修生が本当にうらやましい。

自分の事前の想像ではもっと暇な、芝居と関係ない人が多く参加すると思ったのですが、芝居と無関係なのは自分ひとりで、あとはすでに役者のキャリアを歩いている人、あるいは役者のキャリアを検討している人ばかりでした。今回応募しなかったそういう人たちで、理論や歴史なんて役に立たないと思っている人、あるいは理論や歴史の存在自体を把握していないような人には、ぜひこのオープンスクールを受けてほしいです。これが自分の路線と合わないならしょうがないですけど、だとしても、こういうものがあり、こうやって教えていることを知ることは、世界が広がると思います。

オープンスクールの次回開講は未定とのことですが、観客の立場としては、芝居以前の芝居を撲滅するために、ぜひ定期的に、開講してほしいです。1回20人では受けられる人数も制限されますが、これより増えると授業の密度が薄まるので、1回あたりの人数を増やす代わりに、毎年どころか四半期に1回くらいのペースで、できるだけ多くの人が受講できるように開講してほしいと研修所および新国立劇場にはリクエストしておきます。今回、これだけの講師陣が揃ったのが偶然の産物らしく、次回開講が決定してもたぶん揃わないと聞きました。次回以降の受講希望者は、オープンスクール自体が講師陣の職務に組みこまれて無理やりにでも日程が確保されることを願ってください。

それとは別に、こういう内容を知ることは一般人としても有益なので、一般人向け中心にも企画してほしいです。今回、自分はたまたま夏休みの時期と一致したので平日でも受講できましたが、土日2日間で受講できるような短縮版とかできませんでしょうか。じゃあ何を削るかと言われると悩ましいのですが。

運営についてはひとつだけ、告知の時点で、抽選や料金振込などのスケジュールを事前に明示してもらえれば、自分の予定との調整がしやすかったので、そこだけは改善の余地ありと思います。当日運営から懇親会まではとてもスムーズで、まったく困りませんでした。この場を借りて感謝御礼を。

(2)当初の疑問について

目次にも書いたとおり、「正直な声に興味がある」、「芝居の面白さをもっと分析的に観られるようになりたい」、「研修所での教育がそもそも成立つのか気になる」という3つが受講動機でした。声については身体と聴くこととの両方から、面白さの分析については演出と戯曲の両面から、まだ把握できたとはとてもいえませんが、その取っ掛かりをつかむことができました。これはまあ、これから自分でもっと勉強していくことなので。

そして3つ目の研修所の教育について。3日目までずっと違和感を持っていたのですが、午後の宮田演説を聴いて気がつきました。教えることはできても育てることはできないのですね。どんな職業でもそうでしょうけど、役者は特に。

役者という職業は、特に研修所の方針では、身体や俳優の内なる衝動を重視するので、進捗を外部が把握してフィードバックを戻すことができない。アウトプットの良し悪しを判断するのにも能力がいる。そして何より、アウトプットに間違いはあっても正解はない。教えられるのはインプットの方法と、せいぜいアウトプットのための身体作りまで。インプットをアウトプットにつなげるところにこそ役者の役作りの能力が問われるのであって、そこは教えて教えきれるものではない。場合によっては足りないインプットから的確なアウトプットを出さないといけない。それが役者の職業といわれればそれまでですが、本当に難しい。どんな職業でもそれぞれの悩みはあるし、会社で必要とされる職種にも似ている側面はあるのですが、それでもまだ、目で見て教えられて、目に見えて進捗や結果を把握できることが会社の職種では少なくない。

今までいろんな役者を観てきて、あるいは研修所の上部組織である新国立劇場演劇部門の芸術監督として、「なりたいと思ってなれるならそんな結構な話はない」というのは本心でしょう。真摯に取組んでさえモノになるかどうかわからないのなら、中途半端な志望者がきたら追払わないと間に合いません。それを一言に集約したのが、栗山民也も言った「自立」という言葉なのかとこのときに気がつきました。むしろこれだけはっきり言ってくれた宮田慶子が4日間で一番優しい講師だったと思います。

それでなくとも仕分けと言われて久しい昨今、自分が同じ立場なら、毎年とは言わないまでも3年に一度くらいは大スターが出て「自分が今あるのは研修所のおかげです」と方々で発言してくれたら予算に運営にどれだけ助かることかと泣きが入るところです(調べたら、想像より少ない予算で運営されていました)。そういうプレッシャーを感じない、あるいは感じても前向きのエネルギーに変換できる人でないととても勤まりません。すごいですよね講師陣の情熱は。

で、そこまで考えた上でも、「芝居に関する支援を(研修所も含めて)国がやることか」という別の問いに対する答はまだ出ていません。日本の芸能界がスター主義でやってきたのはそれなりに需要があったためで、需要がないところに優秀だけどスターではない役者を供給するのがいいのかどうかはわかりません。その意味で、(まだ観たことはないですけど)宝塚は今まで上手にやってきたものだと感心します。結果で判断するなら、サッカーを参考にすれば20年(今が7年目なので、あと13年)見守って、そのとき初めて「あれ、最近の日本の芝居ってレベル高くなった?」となるかどうかです。ただ、今でも面白い芝居は面白いので、それがどうレベル高くなるのか、読めません。厚みが出てくるのかな。どちらかというと、役者より演出家のほうが需要があるのではとも思います。この問題は、今後も継続して考えていくことになりそうです。

(3)他の参加者の皆さんへ

今回のワークショップが充実していた理由の半分は講師陣とカリキュラムでしたが、残り半分の理由は皆さんのおかげです。ありがとうございました。いろいろな場所から、幅広い人たちが集まったものだと今思い返しても感心しています(皆さんから見れば、むしろ観客なのにワークショップに来た自分のほうが珍しかったでしょうが)。これで将来舞台で観られるのを楽しみにしています、と締めれば美しいのですが、自分はそんな素直な人間ではないので、ここから上から目線の話を少し。皆さんをぱっと見たときに、いい意味での「ずるさ」が少ない人たちだという印象を持ったので。

すでに役者のキャリアを歩いている人たちには頑張ってくださいとしか言えません。今さら私がどうこう言える問題ではありませんので。ただ、これから役者を目指したい人たちには、こんなしんどい仕事を本当に続けるつもりですかと訊きたいです。

私は観客として見巧者になりたいとは思いますが、それと同時に、つまらないものはそもそも観たくないとも思っています。映像と比べて生のパフォーマンスは、面白いものは映像より面白いけど、つまらないものは映像よりつまらないという特性があります。そして音楽など他の業界と比べても製作側の敷居が低いのが小劇場で、ハズレ作品にあふれています。そこでハズレをつかんだときの腹立たしさは映画や音楽の比ではありません。「観ることが、育てること」というキャッチコピーがあって、それはその通りだと思いますが、まだ育っていないものを観るだけの心理的、時間的、金銭的余裕は私にはありません。それは私に限らず、たいていの観客一般がそうだと思います。

皆さんが舞台に出演予定が決まって私に教えてくれたとして、今なら私は観る代わりにそのチケット代で一緒においしい食事を食べたい。観たくない芝居を観て腹を立てるくらいならそのほうがよほど楽しいです。タダでいいからと誘われればもっと観たくない。金を払ってでも観たくなるような芝居を観たい。この10年以上、車を買えるほどのお金を突っ込んで、小劇場から大劇場、来日公演、数は少ないですけど海外での公演まで、日本の自腹の一般観客としては多い部類に入ると思えるだけの舞台を観てきたつもりです。面白い芝居以上につまらない芝居にもたくさん遭遇しました。いろいろな事情で芝居を観るのを止めようと思ったときも何度かありました。そして実際に、芝居に費やせる時間は昔より減ってきています。それでも観るのであれば、単に上手なだけの芝居ではなく、自分にひとつでも多くの良い影響を与えてくれる芝居を、自分で選んで観たい。そういう芝居に出られるだけの実力が身について、そこに参加できる運に恵まれる人が皆さんの中にどれだけいるか。ゼロで当たり前、1人いれば上出来、2人いればラッキー、3人いたら奇跡だと思います。

自分は大学のときに演劇サークルに入っていて、そのときの先輩、同期、後輩たちでこの道を目指した人たちも何人もいましたが、モノになった人はひとりもいません(疎遠になったので最新の情報は知らないのですが、今調べてみたら、まだ続けている人はひとりは見つかりました)。何をもってモノになるというかは定義によりますが、専業で食べていけるという意味では、おそらく誰もいません。首尾よく研修所に入れて役者として能力が磨かれても、それでモノになるかどうかはまた別問題です。

単に芝居を続けるだけなら、就職先や職種さえ上手に選べば、社会人として続けることはできると思います(出張や転勤が少ない、比較的時間の融通が利く、etc.)。会社なんて踏み台にすればいいのであって、それを「いや、就職したら芝居はできない」と考えているのであれば、それは真面目にすぎます。すでに働いている人の場合は、働きながら関わることも考えてみてはどうかと思います。あるいは芝居の周辺職業に興味を持っていた人には、そこはビジネスチャンスが眠っていて、しかもその分野のパイオニアになれるチャンスだから、そこで第一人者を目指してはどうかと勧めたいです。怪我一発で駄目になる可能性があるのもアスリートと似ていて、何も好んでいきなりそういう職業を目指さなくてはいいのではと思います(ちょうど小劇場で上演していた「ナツヤスミ語辞典」に、怪我がきっかけで役者を辞める役が登場していましたね)。逃げ道を確保してから戦うのは卑怯でもなんでもないし、むしろ補給線を準備しないで戦い始めるほうが無謀だと思います。

こんなことを言って止めるくらいならそもそも役者という職業は目指さないでしょうし、それで中途半端に不満を抱えて歳を取ってからさいたまゴールドシアターに応募するくらいなら、さっさと挑戦して、さっさと飽きたほうが健康だと思いますので、たくさん場数を踏んでください。いま売れている劇団は、上り坂の時期に年間5、6本は上演しているので、アルバイトをしながら続けていくならそのくらいのペースを目指してください。ひとつだけ応援の言葉を言えるとすれば、モノにならなかったサークルの人たちも、飢えて死んだ人がいるとは(一応)聞いていません。今の日本に住んでいれば、戦争が始まらない限り、その心配はないと思います。

自分が観たいと思った芝居を調べたときに「あ、この人が出ている」というのが私の勝手な理想です。都内のあの劇場やこの劇場で、ひょっとしたらウェストエンドで、皆さんがクレジットされた芝居を観られることを楽しみにしています。

(ワークショップ)新国立劇場演劇研修所「NNTドラマスタジオ オープンスクール(4日目)」新国立劇場内稽古場

読む際の注意事項は目次をご覧ください。

<1限目「身体で語る」小野寺修二>

  • 床に手を付いて肘が伸びた状態で肘だけを内外に回転させる。たいていの人ができる。両腕を前に伸ばしてどこも触っていない状態で、手や肩を動かさずに肘だけを回転させる。たいていの人ができない。
  • 振返る動き。早い、普通、ゆっくり。あるいは首だけ、肩も、腰も。それだけで観ている人に伝えられる情報は変わってくる。
  • 知らない人は肘の回転の可能性について一生知らない。あるいは振返るときにどういうバリエーションがあるのかに気がつかない。でも知っていて10年試していれば、あるときできるようになるかもしれない。身体の部位の分け方にはいろいろなシステムがあるが、体の仕組み、可能性を知るきっかけをこの講義でつかめれば。
  • 動きは点で切替える。日常はグラデーションで切替わらない。泣くとき、驚くとき、etc. 感情も動きも、点で切替わったほうが面白い。
  • 円で歩く。普通に歩く。つま先だけで、かかとだけで、内側だけで、外側だけで。足の裏は普段4箇所で支えている。意識しているか。
  • 円で前向きに、腰を落として歩く。横向きに、足を前後に交差させて歩く。腰を落として横向きに足を前後に交差させて歩く。丹田(センター)を意識する。腰を落とした動きには、和物の舞台をやるときに向き合うことになる。
  • 立っているところから床に仰向けに寝るまで、等速で動いてみる。逆もやってみる。他よりも早くなったところ、あるいは遅くなったところが特に注意。それがきついところの場合が多い。日常生活では早く動けばきつい箇所は回避できる。どこがきついかに気づく。気づいたら、それを克服する方法と、回避する方法の両方を考える(床に仰向けに寝るという指示は出したが、まっすぐ動けとは指示していない。つらい箇所は横向きに動けば回避できるかもしれない)。
  • 立っているところから、横の床の1点を見て、頭がそこまで一直線になるように動いて身体を倒す。逆もやってみる。自分の頭がどうやって動いているかが自覚できないとできない。見た箇所が自分から離れた場所の場合は、そのまま倒れても届かない。足を上手に使いながら、それでも頭が一直線になるように。
  • 端から端まで歩く。こういう指示を出すとたいてい不自然な歩き方になる。きれいに歩こうとすると変。ホームの向こうから歩いてきたら避けたくなるような。日常生活ではたいていどこかに重心が偏った姿勢、動きになっている。自分や他人を観察してみる。重心がバランスした人を見つけたらラッキー、くらい珍しい。
  • 端から端までニュートラルに歩く。こういう指示を出すとたいてい気配を消すような歩き方になる。ニュートラルとは気配を消すことではない。ニュートラルな動きとは? 正解はない。ただ、もしそれに近い動きができるのであれば、演出する側はそこに指示を足せる。「普通に歩いて」という指示で役者に変な歩き方をされると、演出のしようがない。
  • 端から端まで、前、後ろ、反転(身体の向きを変えて、歩く向きはそのまま)の3つを指示に従って切替えながら歩く。前と後ろだけだとたいていの人ができる。そこに反転を足すとできなくなる。でも、そこで混乱したときに出た動きは自然な動きであることが多い。これもしばらくやっていればできるようになる。苦手な動きは、日常生活でやっていない動作であることが多い。普段からいろいろ試すとよい。
  • 自分の身体、自分の癖に自分で興味を持つ。習おうとするといろいろありすぎてきりがないし、その教師を信じる信じないの話になってしまう。自分で自分に興味を持てばそうならないで済む。
  • 2人1組(1):向き合って座った状態で両手をつなぎ、合図なしでバランスを取りながら立上がる。また座る。背中がもたれかかるように全体重を後ろにかけると体重差でバランスが難しくなる。腰を落として上半身をまっすぐにして、腰でバランスを取るともっと軽い負荷でバランスが取れる。そうすると、かなりの体重差でも立上がれる。片手でも大丈夫。
  • 2人1組(2):端から端まで、入れ替わり引張りあいながら進む。引張られて次に進んだときの勢いを次に伝える。できるだけ効率的に動きたい。効率的に動けているときはどんどん加速していく。
  • 2人1組(3):背中合せで座った状態から、合図なしで中腰まで立上がり、その状態で歩く。バランスはやはり腰で取る。歩く向きは背中越しに相手の反応で決める。反応は伝わる。
  • この手の2人1組をやる場合に、(1)や(3)で足を閉じた姿勢からスタートする人が多い。体育座りの習慣。足幅は適度に開いたほうが楽。閉じたほうがきつい。
  • 2人1組(4)人形:片方が人形で動かされた通りの姿勢を保つ。もう片方が人形を動かす人。どういう関節を動かしてどういう姿勢を取れるか。人形を動かす人は、関節を動かす前に何回か試しに動かしてから位置を固定すると、人形側の人が関節の感覚をつかみやすい。足を動かしたい場合など、どちらかに重心を寄せれば、もう片方の足は浮かせられる。
  • 2人1組(5)止まる:相手を触ったらそこで止まる。今度はもう片方が動いて、別のポーズで相手に触って止まる、の繰返し。触る、叩く、押す、はそれぞれ違う。触られて動き始めた側が、等速で動けば観るほうは動きに注目する。緩急のある動きで動けばパフォーマーに注目する。どちらを見せたいか。
  • 動くことは、相手の動きを受けて自分が動く。その繰返し。

身体だけのことをここまでまとめて意識したのは初めての体験で、「できるだけ効率的に動く」と「等速と緩急の違い」は改めて指摘されて気がつきました。もともとの身体状態の話を受けるボキャブラリーが不足していたので言われた内容を消化するには時間がかかりますが、でも面白かった。運動不足の自分には息切れしながら受けていましたけど、あと30分受けたかった。

<2限目「歌と演技」伊藤和美>

  • 歌の訓練でカラオケが上達してほしいわけではない。
  • 苦手な人はいろいろ。学校の授業で下手と言われて苦手意識を持った、音程が取れない、etc. 理由はいろいろだが、研修所の場合は1年から2年経つと、苦手な人でも苦手意識が取れてだんだん好きになる。
  • 音程については、音程と、その音程の声帯の筋肉の使い方の関連付けができていないから。
  • 楽譜が読めなくても、とりあえず音符の上げ下げがわかれば、あとは耳で聞いて覚えて何とかする。
  • 音楽的な説明が今回の中心。芝居との具体的な関係はまた別。
  • 「あー」の発声。口は大きく開ける。前歯が軽く見えるように、唇を巻込まない。口より上、目の周りの筋肉も動かして。
  • 腹式呼吸。口から吐く、吐ききったら止める、鼻から吸う。腰を盃に見立てて、腰を傾けて盃を空っぽにするイメージで腹をへこます。自分は腹式呼吸を推奨しているが、これが絶対ではない。教え方は教師によってそれぞれなので、自分に合った方法を見つける。
  • 怒ると喉が閉まる。怒った感情の曲に怒った感情をどう乗せるかは修行。
  • 10分CDのトレーニング(メモひとつだけ)。輪になって、誰かを指し示しながらハレルヤ。大きい輪、普通の輪、小さい輪。距離によって同じ「ハレルヤ」でも声は違う。好きなつもりで、嫌いなつもりで、大嫌いなつもりで。感情によっても同じ「ハレルヤ」でも声は違う。
  • 滑舌。母音がアエイエアエイエアエイオウで。(1)喉:A、K、H、Y、W、G (2)舌先と歯:S、Z (3)舌:T、N、R、D (4)唇:M、B、P
  • 歌。前日利用したテネシー・ウィリアムスのト書きに出てきた「エストレリータ」。原詞の訳を読んでから脚本を読み直すと、また違ったイメージが出てくる。音符の制限があるので原詞と訳詞とでどうしても細かい違いが出てしまうのはしょうがない。
  • 歌の練習。
  • BGMのある場面で、音楽に合わせて台詞を言わない。BGMはBGM、台詞優先。偶然タイミングがあうのはいいが、あわなくてもいい。
  • 芝居中に歌を使うと、表現される幅が広がる。歌が出てきたときに、苦手意識を前面に出すのではなく、どうやって作品世界を広げられるか、そう前向きに考えてほしい。

10分CDと歌の練習が、ちょっとテキストに起こしづらいので短いメモになりましたが、ああいうのは音楽用語でなんていえばいいんでしょうか。ハレルヤの練習、あれは確かに声が違って面白かった。

後でいくつか質問はしたのですが、自分は音痴で歌が苦手なので、練習方法についてもう少し質問をしておけばよかったと悔やんでいます。

<3限目「声と演技」池内美奈子>

  • 各種ウォーミングアップ。前の日までに感じられた感覚が感じられないことがあるかもしれない。毎日同じ感覚を味わえるとは思わない。また、感覚を感じられない日の感覚はどんなものか、探る。
  • 文章に合せて上下を指して、あるいは左右に動いて。作者の意図する前向きな単語(上向き)と後向きな単語(下向き)で。また役者の感情に役立つ(上向き)か役立たないか(下向き)で。
  • 2人1組。耳元でささやくように読む。

3日目の内容をもう少し進めたものですが、今回は上下の指差しや左右の動きで本当に上向きでいいのか、と迷って、声も迷うという体験をしました。それはそれで声に反映されていたので興味深い体験でした。ここらへん、練習に使ったソネットの内容をもっと納得を伴った理解をして、もう少し時間をかけると、台詞と動作と声がつながって、そのうち座ったままで動作なしでも内容の理解(感情?)が声に上手く反映されるようになるのだと思います。

本当、自分には4日間ではまったく足りなかったのが、惜しまれるところです。

ここまでで4日目終了。

(ワークショップ)新国立劇場演劇研修所「NNTドラマスタジオ オープンスクール(3日目)」新国立劇場内稽古場

読む際の注意事項は目次をご覧ください。

<1限目「声と演技」池内美奈子>

  • いつもどおり腰、肩の確認。これは自分の体の感覚を自分で手に入れるため。全身の筋肉を動かすのが目的ではない。自分で自分の感覚を手に入れる。できるだけ繊細になる。実際に何か動作をしたり、声を出したりしたときにそれが自分の体感で納得できるものかどうかを自分で判断できるようになるための基礎。
  • 呼吸。下から吸って吐いてみる。立っているときは足の裏から、座っているときはお尻から吸って吐くイメージ。
  • ハミング。上のハミング。鼻で「んー」と言ってみる。高音のハミング。下のハミング。口で「うー」と言ってみる。低音のハミング。高音のハミングは音(声)を共鳴させる仕組み。欧米人の声がよく通るのはこれ。実際に台詞を言う際には高音低音がバランスよく混ざるとよい。
  • 頭の上で手を動かして、一番高い声を出してみる。頭の上から高音が出るイメージ。
  • 片腕をまっすぐ上に伸ばして、ゆっくり下に下ろす。それにあわせて高音から低音に「あー」と言ってみる。崖から人が落ちるときの叫び声のような感じ。
  • 両腕を上下に伸ばして、同時にゆっくり上下を入替える。それにあわせて高音から低音に「あー」と言ってみる。その直後、両腕をまっすぐ前に伸ばし、一番普通の声で「あー」と言ってみる。これが自分の声の音程のほぼ真ん中。そのまま両腕を横に広げながら息が続くまで「あー」。
  • 鼻のハミングが上手くいかない場合、あるいはもっと効果的に行なう方法。猫の鳴き声。鼻でドラ猫のような鳴き声(喧嘩しているときのような声)を真似てみる。
  • 呼吸。顔の前に手を置いて、そこに届くと思うように息を吐く。手を伸ばして。少し先の床を指差して。そこにいる人を指差して。遠くの何かを指差して。距離に応じてそこに届くと思う息の量を調整しながら。指差す場合は具体的にピンポイントで。
  • 2人1組の声のゲーム(?)2種類。片方が動かす手の動きのイメージにあった声をもう一方が出す。片方が出した声のイメージにあった動きでもう一方が動く。
  • 歩きながら読む。2日目のルールに加えて、自分で歩く長さ、速さをその行のイメージに合わせて都度変えながら。その後、座って読んでみる。歩いたときの長さ速さの感覚が残っていたりしないか。
  • 2人1組。座りながら。一度2、3行読んでみる。終わったら、床におでこをつけて、猫の鳴き声のハミングで同じ箇所を読む。もう一度同じ箇所を読んでみる。高音の共鳴が混ざって少し響きが変わっていないか。

動きに意味をつけながら読むのですが、単に読んだ後でこれをやると、台詞と動きに解釈が混ざって、ちょっと声の調子が変わりました。これは結構面白い体験。それとは別にテクニカルなハミングの説明もいいです。

<2、3限目「戯曲を読む」宮田慶子>

  • 研修所、養成所に入ったからといって役者になれるわけではない。なりたいと思ってなれるならそんな結構な話はない。アスリートと同じ。自己ベストを更新する努力を何年も何年も行なってやっとモノになる人がいる。
  • 新国立劇場の研修所では上演する芝居の稽古や本番を必ず観る。それでトップレベルを目にして、目標「値」がはっきりわかる機会が持てるのはここの研修所のいいところ。
  • 自分探しなんてやめてくれ。そんなものは探しても見つかるわけがない。もっといいものを探してくれ。
  • たかだか20年少しの人生は人様に見せられるような面白いものか。謙虚でいてくれ、具体的なあこがれ(目標)の対象を持ってくれ。あこがれの対象はたくさん持ってくれ。やっているうちに目標「値」が上が(ってきりがなくな)ることを楽しんでくれ。日本にあこがれがなければ海外を見ろ。研修所で日々の課題をこなすことに精一杯で目標を見失なわないようにしろ。
  • 映画や芝居を観客目線で観て楽しかったとか言うな。あれは商売敵だ。他の役者がどうやって表現しているのかをよく観察しろ。映像だといいショット取りになっているので途中経過がわかりづらいが、舞台は生身の肉体なのでとても観察しやすい。
  • いい役者の芝居を観ろ。小劇場の弱点は仲間内の役者だけを観て、いい役者を観ないで育つこと。4、5年先輩なんてたいしたことはない。20年先輩を観ろ。座長の色しか出せない役者になるな。いろいろな演出家、国内だけでなく海外でも通用するカラーを身に付けろ。
  • 自立しろ。小劇場を観て、それでいいのかと思う役者がいる。独立する人もいるが、10年経っても同じ劇団でくすぶっている人がいる。10年経ってそうなら芽が出なかったということ。劇団寿命10年説とはそういうこと。
  • 映像だったり舞台だったり、媒体によって役者に求められるものは違うが、舞台役者はオールマイティーな実力が求められるので、そこからどの媒体にも出ていける。研修所は舞台役者を育てたい。
  • タレントと役者の違い。タレントは自分を売る。数年で飽きられるので、最後はプライバシーを売ることになる。役者は役を作って売る。役を作る能力があればプライバシーは問われないし、誰も気にしない。
  • 役者の身体は自分が預かっている商品。腐らせてはいけない。常に商品管理をしろ。畑から耕す八百屋になれ。身体も心も、自分のものであって自分のものでないように客観的に管理する。客観的に管理するのはいいことで、何か問題があったときの立ち直りが早くできる。
  • 稽古中は主観3割、客観7割。本番中は主観9割になっても客観1割は残す。本番中でも主観10割になるのはほんの一瞬。
  • 発声は腹、喉、口内を通した空気の送り出し。発音はXX(失念)。口の形はひとりひとり違う。母音と子音に分けて認識することで自分の癖を知る。体の癖と同じように口内の癖もある。欠点はカバーして長所は伸ばす。
  • 腹に落ちていない台詞を出すと喉をつぶしがち。

(ここから本読みについて、テネシーウィリアムスの「話してくれ、雨のように」)

  • 本読みでは最低限、稽古場にいる関係者全員に聞こえる声の大きさで、できれば空間が埋まる声の大きさで。みんなその声に反応しようと思って待っている。スタッフは一緒に芝居を作っている人。その芝居が好きだったり、その声を聴きながら自分のプランニングをしている。辛辣な意見を持っている。その人たちが聞こえない声を出すな。
  • 脚本をもらって自分の台詞しかチェックしない役者は馬鹿。まずは全体像を把握することが必須。
  • テネシー・ウィリアムスはおせっかいな作家で、演出プランのようなト書きが多い。でも書かれているならやらないといけない。それは台詞と同じ。そこに自分がやりたいことを乗せていく。
  • このト書きは、これがない場合に、これと同じような内容を役者と演出家とで作らないといけないプランニングのちょうどいいサンプルでもある。
  • 脚本はチェックしながら読む。チェックするとは、入れないといけない情報を確認すること。
  • 長台詞が多い。プランニングが大変。生まれてからそこまでの人生を作らないといけない。
  • 冒頭の「何時だ?」の一言にその役の人生を込めないといけない。
  • 記号をどう読むか。点線、棒線、句点、読点、クエスチョンマーク、エクスクラメーションマーク、傍点、etc. 作家によってルールが違うので読みながら判断する(テネシー・ウィリアムスはかなり独自なほう)。
  • 結構面白い。有名な脚本は暇なときに読んでおく。短い脚本なら1日使って口に出していろいろ試しながら読んでみる。

(ここから駄目だし、長台詞を読んだときの)

  • 最初に見つけた情報にいきなる乗ると、他の情報を見落とすことがあるから我慢する。キャッチした情報をすぐに信じないで疑っていると、言葉に重みが出てくる。
  • プランは100通り出せても、実際に使えるのは3通りくらい。全部試したら1本の稽古に3年かかってしまう。冒険するのはいいが、使えないものは早く捨てる。
  • 間違えないことを目指すのではなく、何かを出す(表現する)ことを楽しめるように。
  • 台詞は動機が大切。
  • 台詞を話す動機は大きく持つ。
  • その台詞の動機は何か。一言で言い換えるとどうなるか。
  • 誰に向かってその台詞を話しているのかを想定する。
  • 解放して話す。
  • 句読点でリズムを出すことがあるので注意。
  • 句点から句点までがワンフレーズ。これは一息で読む。
  • 理解と話す技術とをつなげられるように。口の中で100本ノック。いろいろな声も出してみる。
  • 顔が動くと声の調子も変わる。顔を動かして試す。
  • 長台詞を話すときにはどこかに「へそ(強調ポイント)」がほしい。

この講義中、あらゆる指摘が具体的に言語化されて指摘されるあたり、2日目の西川講座でも感じましたが、優れた演出家の言語化能力はすばらしいです。戯曲の読みももちろん行なったのですが、もらった戯曲のコピーが注釈で真っ赤で、ちょっと戯曲依存すぎてメモを起こせないので割愛しています。あと駄目出しは実際に読んだものを聞いていないとどういう指摘なのか理解しかねるところもありますが、なんとなく通じそうなので、メモをそのまま起こしました。

戯曲の読み方については、ちょっとジャンルは違いますが「本を読む本」を連想しました。直接ではないにしても参考になると思いますので、興味がある人は購入してみてはいかがでしょうか。

ただこの講義のポイントは、個人的には冒頭の30分の指摘。録音禁止と言われたこの4日間の中で、ここだけは録音して全国にばら撒きたかった。これで私の疑問のひとつも解決しましたが、これについてはまとめで。

もうひとつ個人的な話ですが、宮田慶子には「東京原子核クラブ」を改めて上演していただきたく。ぜひ検討を。

<サロン「音楽と芝居」小曽根真>

  • 即興1曲。
  • 海外でよく訊かれること。What do you want to do?
  • この時間は音楽と芝居の共通点について。
  • アドリブ(失念)。
  • メロディとリズム。ここにすごい情報量がある。リズムはみんなが責任を持たないとスピード感を出せない。
  • ハーモニー。長調が明るく、短調が暗いとは限らない。弾き方で変わる。
  • メロディとカウンターメロディ。カウンターメロディを固定してメロディラインを動かした場合とメロディラインを固定してカウンターメロディを動かした場合との比較。ハーモニー全体の雰囲気を変えられるのはカウンターメロディ。
  • 自分の好きな音楽家は、曲の全体像を把握した上で、自分の表現で音を出す。自分の出したい音を出して満足、という音楽家ではない。
  • 自分がどう弾くかより、相手がどう弾いたかを聴かないとつまらない音楽になる。そのためには全体像を把握する。自分を良くすることより作品全体を良くすることにJoyを見つけてほしい。
  • ダイナミクス。ピアニッシモはフォルテッシモと同じくらいエネルギッシュ。エネルギーを解放するように出すのがフォルテッシモ。エネルギーを細く出すのがピアニッシモ。
  • 昔アルバイトでラウンジでピアノを弾いていたときの話。どんなに音量を小さく弾いても、エネルギーを込めて弾いたらお客さんは会話を止めて聞いてくれた。そうしたら会話が止まったのを気にした支配人から「もっと小さい音で弾け」と言われた。もっと小さく弾いて、それでもお客さんは聞いてくれて、しまいにはもう小さくできなくなった。
  • 妻(神野三鈴)は一番小さな声を出すとき、最後列の後ろに放物線で落ちるように、できれば後ろの壁を抜けて外へ届くことを目指しているとのこと。
  • 自分が思ったものの3倍にしないと伝わらない。
  • 恐怖の正体は知らないこと。向き合って理解すると別にそこまで怖くないことが多い。知らないことと出会ったときに、向き合えるかどうかは知性による。
  • 生のパフォーマンスは栄養剤。感動とは別に、分析的な見方にもなるのは仕事柄そういうもの。
  • 芸術は自分の感性を戻すもの。合う合わないはあるし、パフォーマーも人間なので自分が観た回の出来が悪いこともある。お金を払ったから最後まで観ないともったいないと、特に日本人は思いがちだが、そういう場合は切のいいところで帰ってしまってもいい。
  • 自分の意見を持て。ただし評論家になるな。匿名の無責任な評価は嫌い。

「匿名の無責任な評価は嫌い」あーすいませんそれは私です。しかし金を払ってスカをつかんだときの腹立たしさもまた観客の正直な気分です。自腹でチケットを買うこと、最後まで観てつまらんものはつまらんと確認することがブログに書く時の自分の最低限のルールです。それで勘弁してください。

それとは別に、音楽と芝居との共通点、非常にわかりやすかったです。目の前1メートルでピアノが聴けたのは非常に贅沢な時間でした。

ここまでで3日目終了。

(ワークショップ)新国立劇場演劇研修所「NNTドラマスタジオ オープンスクール(2日目)」新国立劇場内稽古場

読む際の注意事項は目次をご覧ください。

<1限目「演技を考える」西川信廣>

  • ストレッチから。ジャンプは重心を上に放り投げるように。背中を叩く前と後とで前屈の伸びが違う。
  • 芝居を構成する具体的な要素は何か(劇場、演出家、役者、美術、観客、照明、、、)。その中でなくてもいいものは何か。
  • 最後に残るのは役者と観客。役者は芝居になくてはならない重要な役割。観客もいないといけない。観客がいないところで上演しても上演にならない。
  • 役者に求められるものは何か。集中力と解放。集中力は自分の内部ではなく外部に向ける集中力のこと。解放は無意識のうちにガードしがちな自分を解放すること。
  • 他にコミュニケーション能力、イマジネーション能力が求められている。
  • それらを総称して、「反応力が求められている」と定義する。
  • ゲーム。数字の伝言ゲーム、007、小さなちょうちんと大きなちょうちん(?)、動物の伝言ゲーム。
  • ゆっくりやれば間違えないがつまらない。他の人が流れを作ったらそれに乗る。あるいは自分で流れを作って乗る。そこで難しそう間違えそうと思って流れをパスしたらいけない。間違えを恐れずに乗る。スピードを早くするのは手っ取り早く流れを作るひとつの方法。
  • 芝居は脚本があるので、自分の番の台詞だけ話していてもなんとなく話は進む。(いつ自分が指名されるかわからないような)ゲームでは常に周りに注意を払わないといけない。でもそれは芝居も同じ。
  • 前の人が大声を出しても次の人が小声にすると、その次の人が大声に戻すのには大きなエネルギーがいる。そこで落としてはいけない。
  • 中途半端な声や動作で次の人を指名してはいけない。相手に伝えたい何かを声や動作に込めないといけない。別の言い方をすると、相手をどう動かしたいか。自分でどう表現するかではなく、相手にどうしてほしいか。
  • そうやると、相手が追込まれて、追込まれた相手の返しにこちらも追込まれて、ぎりぎりの勝負になる。そのぎりぎりの線を追求することが芝居の質を上げる。
  • 追込まれた結果、失敗することもあるが、その失敗が頭で考えた演技を超えたいい結果であることもある。ただし失敗のための失敗を狙ってもいい結果は出てこない。稽古のときから、ぎりぎりの線を狙ってたくさん失敗することも必要。
  • 動作の演技で相手に伝えるためには、伝えたい内容を、正確にイメージして演技をしないと伝わらない。
  • 脚本の台詞は変えられなくても、相手に何かを伝えるための「間」と「(感情の)強弱」は役者に任されている。手取り足取り教える演出家もいるけど、自分は役者を通した反応の流れを大事にしたい。その流れが最初から最後まで上手くつながったときに、観客もその流れに乗れて空間を共有でき、いい芝居になる。
  • いい芝居は、「観た」よりも「触れた」と形容したい。視覚はだましやすい。同じ空間で同じ空気に触れて過ごしたのだからこちらの表現のほうが好き。

ストレッチの小技で驚かしてから、トーク、ゲームと非常に上手な進行。そしてゲームを行ないながら、芝居の演出で何を狙うのかを的確な言葉で指摘されて、ゆるかったゲームが緊張感を持つようになる一瞬を観ることができました。関係者にはとても初歩的な内容かもしれませんが、芝居を観る側として、自分が考えるよい芝居を構成する基本のパーツをわかりやすく提示してもらい、とても参考になりました。

西川信廣演出芝居にはまだ縁がないのですが、いずれ観たいと思います。

<2限目「声と演技」池内美奈子>

  • 初日のように体の確認。気持ちいい箇所を見つけて、その気持ちよさに乗る。気持ちよさはセーフティーネットなので、それを無視して体の動きを試すと怪我をするので注意。確認の一環で目をつぶってもいいが、これは最終的に演技に還元されるので、目をつぶらないとできないということがないように。
  • 動くとき(走るとき)。眉間の奥を緩める。あごを緩めて口を指1本分くらい開ける。呼吸を止めない。
  • 歩きながら読む(1行読む、歩いて止まる、次の1行を読む)、座って読む、歩きながら読む(1行中のスペースがある箇所でターンを入れる)、また座って読む。歩きながら読んだ場合と、座りながら読んだ場合とで、文章の意味の理解にどれだけの違いを感じるか自分の声を聴きながら文章を理解しようとした場合はどうか。
  • 台詞は常に芝居中のその瞬間の気持ちで話す。脚本の台詞は、その場面の台詞の言い回しのためにあるのではなく、その役がその場面でそのような思考、気持ちになることを理解して役作りするためにある。

ストレッチは最初目をつぶってやっていたのがちと失敗でもったいない。声を出したのは2日目からで、動くことが読むことに影響を与えることが発見。これは3日目にもっと面白くなる。

<3限目「西洋演劇における舞台での立ち方の変遷」河合祥一郎>

  • 芝居を続けるためには自分の中にコアがないといけない。コアがないと流される。コアとは知識。その一環で舞台上の立ち位置の変遷を説明する。
  • 小さな劇場で作った芝居をそのまま大きな劇場に持っていっても合わない。逆も同じ。空間によって求められる芝居は違う。
  • 最初の演劇はギリシャ。アポロンが知性の、ディオニュソスが感性の神様で、演劇は後者に属した。当時の劇場は1万4000人収容という規模。
  • 当時は手前の広場でコロスが歌いながら踊り、舞台で台詞を話す役者はひとりだけ、仮面をかぶって、場面ごとに取替えて、演じられていた。それが役者が2人、3人と増えて、それにつれてコロスの人数が減り、今に至る。
  • そのころの舞台をプロセニアムと呼んだ。役者は仮面をつけて台詞を話すだけで、演技しないし動かない。だから当時の舞台は細長く、役者が立てるほどの幅しかない。仮面をつけるのが前提の場合、前が見辛いので、動くのは危なく、声でしか勝負できないという事情もあった。仮面は声がよく通るように口元が大きく開いていた。
  • コロスが歌い踊っていた円形のスペースをオーケストラという。ギリシャでは円形、ローマでは半円形、やがてオーケストラピットになる。
  • ここでシェークスピア。台詞で意味だけを伝えればいいというのは間違いという話。
  • 西洋の場合、「ライム(押韻):文章の末尾の発音が同じもの、偉い役の台詞という位置づけ」「リズム(韻律):文章の強弱のリズムが同じもの、庶民役の台詞という位置づけ」の2種類の韻がある。韻文という場合、日本人はライムだけをイメージしがちだが、リズムだけでも韻文という。リズムの例は、シェークスピアが好んだ弱強5歩格など(参考)。
  • イギリスでは、シェークスピアの時代のような形の小さい劇場を小指を動かしただけの演技でも伝わるという意味で「Little Place(?)」、プロセニアムアーチがあるような大きい劇場を「Main House」と呼んで区別することがある。立ち位置によって客席から演技が見えないMain Houseを嫌い、客席から舞台が近く感じられ、どこからでも舞台がよく見えるLittle Placeを好む役者も多い。
  • シェークスピアは1564-1616(「人殺し」の芝居を「いろいろ」書いた)の人。この時代の劇場はプロセニアムアーチのない張出し舞台で、3面が客席になるような台形。シェークスピアの死後、1618年に初めてプロセニアムアーチがついた劇場が立てられた。
  • テント型の小屋や、街頭の簡易舞台(?)でもよく上演されており、その場合の構成は昔の劇場と似ている。「舞台はLocus(ロクス):正式な役者が韻文を話す場所」「舞台前の円形スペースはPlatea(プラテア):道化が散文を話しながら客とコミュニケーションをとる場所」がセット。道化は客を呼止めるのが役目。
  • その後、スタニスラフスキーがプロセニアムアーチに「第4の壁(プロセニアムアーチのあちらとこちらで違う世界というリアリズム)」という理論を提供することになる(1902年)。それまでは、目の前に観客がいるのは舞台上の役者も承知の上で演じるのが前提。ちなみに、客電を落としたのはワーグナーが最初(1876年)。どちらも結構新しい。
  • シェイクスピアシアターと能舞台は似ている。それは目の前に客がいることを前提に演じ、舞台装置がなく、台詞一言で場面転換をしていた時代(この時代の舞台の構成は世界中で似ている)。プロセニアムアーチはリアリズムを目指し、幕を閉じて開いたら別の美術に変わる。
  • 独自の分類では、「シェイクスピアや能、歌舞伎のように、観客に向かって演技をし、時空を観客と共有するのが役者」「近代劇のように、戯曲の虚構の中で自分の中にリアルを作って演技をするのが俳優」。どちらがいい悪いではなく、現代の役者は脚本や上演空間によってモードを切替えて両方ができて一人前。スタニスラフスキー・システムは「俳優」のためのものにとりあえず区分。
  • スタニスラフスキーの本で前半で挫折した人がいるかもしれない。あれは前半は非常に読みづらいが、後半に台詞を届けることなど、大事なことがたくさん書かれている。読むなら後半まで読んだほうがいい。
  • 良い劇場。空間について。良い劇場は客席から舞台が近く感じる。つまり舞台からも客席が近く感じる。役者はその近さに耐えられないといけない。役者はどのような空間でも演じられるように、新しい空間を見るたびに、どうやってその空間を使うか、肉体的にどう調整すればいいか、常に考えることが必要。
  • 良い劇場。音響について。声がよく響くのはいい劇場。ただ、稽古場の音響がよくても、劇場の音響が悪いこともある。大勢の客が入れば(人間の体は音を吸収するので)音が悪くなることもある。台詞の意味を伝えるのにいっぱいで、声の調整まで気が回らない役者もよく見かけるが、そういうこともできないといけない。
  • 同時代の劇場は形が似ている。シェークスピア時代の劇場と、中国の京劇用の舞台は似ている。日本の能舞台も似ているが、これは中国の影響では。
  • 知識を得ることで何がなぜ大事なのかを再確認することができる。台詞の意味と感情とを結びつけること以外にも大事なことはたくさんある。一例。ハムレットで「Do it, England」という台詞があり、それを「殺れ、イングランド王」と訳したが、相手役に「弱い、原文の破裂音(Doの頭、itのt)の勢いがないから殺したいと思えない」といわれ、訳しかねて台詞をいう吉田鋼太郎にアドリブをやってもらったら「ぶち殺せ、イングランド王」と出てOKが出た。こういう(破裂音のような)ことにも気をつけることが大事。

劇場の推移を通じて、観客がいることを前提とした芝居と、観客がいないことになっているリアリズムの芝居との2種類に分類した名解説でした。いままで演技(演出)のタイプをどう区分すればいいのかが困っていたのですが、演技と演出のよしあしというか、相性を判断するときに、この分類が非常に役に立ちます。

<サロン「(タイトル失念)」中島しゅう>

  • ロンドンでの半年の映画撮影帰り。
  • 好きな劇場はベニサンピット。芝居は贅沢な仕事で、空間を選ぶ。ベニサンピットは使いにくいようで工夫次第でいろいろできて、客席まで含めた大きさも手ごろで、なくなったのが残念。
  • ヨーロッパだと、昔なにかに使われた建物がそのまま残っていて、使われていたころのエネルギーも残っていることが多い。それを生かした演出を考えたりもする。
  • 役者という仕事にはそれまでやってきて無駄になることがひとつもない、年齢にも関係ない。役者はそれが得。
  • 劇団を辞めて役者も辞めたはずだったが、声がかかって後1本、後1本とやっているうちにここまできた。その声を毎回かけたのが栗山民也。これまで芝居を好きだと思ったことはなかったが、ロンドンで30本くらい芝居を観たらすごい面白くて、自分が芝居が好きだと初めて自覚できた。
  • 劇団時代に山本嘉次郎(黒澤明の師匠)に言われて今でも覚えている言葉。「(芝居でも音楽でも絵でも)一番最高のものと一番最低なものとを知っておきなさい」。
  • 芝居とは何か。まず聴くこと。きちんと聴ければ自分の台詞は自然に出る。ロンドンでリチャード三世に出ていたKevin Spaceyのリチャードがアン王女をだます場面の聴き方は観ていて笑ってしまうくらい上手かった。外国のストレートプレイを観るのは、言葉がわからない分だけ肉体の使い方を観るのに集中できる。日本の役者も、きちんと聴くことができれば、言葉の問題以外は世界中で通用する。
  • 恥ずかしさには種類がある。日常の恥ずかしさと仕事の恥ずかしさがある。それが仕事であれば、日常の恥ずかしさは克服してこなす。その克服のためにいろいろな技術を習得する(ここのメモは自信なし)。
  • 稽古から本番まで、1回や2回は必ず落込むような失敗をしでかす。そこからのメンタル面での回復方法はそのときどきなので定番の方法はない。ただ、芝居が好きな人は、この失敗と回復まで含めて好きだったりする。
  • ひとつだけ後悔していること。若いうちに外国にいかなかったこと。借金してでも行っておくことを勧める。若ければ若いほどいい。芝居に限らず、またどちらが優れているということではなく、まったく違う文化に現地で触れることは見るもの聞くもの何でも刺激になる。

経歴の自己紹介がまた面白かったのですが、だいぶ割愛させてもらいました。聴くことを非常に強調していて、これだけキャリアが長い人でもそういう結論なのかと驚きました。

あと海外は、単なる旅行でも発見があって楽しいですよね。そこは賛成。

ここまでで2日目終了。

(ワークショップ)新国立劇場演劇研修所「NNTドラマスタジオ オープンスクール(1日目)」新国立劇場内稽古場

読む際の注意事項は目次をご覧ください。

<1限目「語ること、聴くこと」栗山民也>

  • 日本で演出をするときは4、5日で一度最後まで通す。そのほうが役者の肉体を通じた何かがわかりやすいから。ドイツで「マリー・アントワネット」の演出をしたとき、ドイツ人は何をやるにも質問をして、最初に通すまで1ヶ月かかった。でも1ヶ月前に質問をした内容を覚えて、克服している。日本人は忘れる。そのときの肉体的共通点を見つけることで、1ヶ月前のことでも覚えている。
  • (プロデュース制のように)いろいろなところから役者が集まって、稽古開始直後はお互いに共通点が少ないのは日本もドイツも同じ。ドイツの場合は「なぜ」という質問を共通語にすることでつながる。
  • 研修所の目標は「(役者が)自立すること」。自立についてどの程度の期間が必要かは人それぞれ。
  • 森光子は放浪記を2000回やっても飽きないという。「毎回新しい人、新しい言葉と出会うために舞台に出て行く」とのこと。
  • 声を出して話す、歩く、相手と向合う。優れた俳優がひとり歩いてきて「ここは海です」といえば観客は信じる。
  • 鶴見俊輔の言葉「教育はセーターをほぐす仕事」。教師がセーターを編む、それを生徒がほぐす、自分に合うように編みなおす。
  • 最近の世の中はコンフリクトフリー(衝突を避ける)のが主流。舞台はいろいろな衝突や失敗を試せる最後の実験場所。
  • 研修所の公演で少年口伝隊を来週上演する。ゲネプロを見たい人はどうぞ。
  • 参加者同士の自己紹介「なぜ私はここにいるのか」。

結局自己紹介で時間の大半を使ってしまったのですが、後で考えると、4日間を充実して過ごすためにこの自己紹介が非常に重要になっていました。ゲネプロ招待というサプライズも飛出して、とても興味があったのですが、そこは仕事を優先して、涙を呑んで不参加にしました(観たことあるので内容は知らないわけではない)。しかし研修所公演とは毎回スケジュールが合わなくて縁がない。

<2限目「日本の演劇」大笹吉雄>

  • 小劇場という呼称に絡めた日本の演劇の歴史について。
  • 日本の国立劇場は1966年の国立劇場が歌舞伎用に最初。演芸場は落語など、能楽堂は能狂言、文楽劇場は文楽(大阪)、沖縄に組踊、そして新国立劇場がオペラ、ダンス、近代演劇。ただしパフォーマーはいない。先進国で国立劇場のない国は少ないが、国立劇場があって劇場付のパフォーマーがいない国はない。これは日本の演劇の歴史に絡む。
  • 日本の芸能はもともと民間ががんばってきた。能なら5流派、狂言なら2流派、そこから特定の団体を選んだらえこひいき呼ばわりされるのでできない。歌舞伎は松竹。歌舞伎はスター主義。これもスターを引き抜いたら民業圧迫になる。文楽も松竹ががんばって支えていたが、経営上支えきれなくなり、各種団体出資の文楽協会に移管した。宝塚は今でも阪急。阪急の創立者の小林一三は東宝の創立者でもある。ちなみに約500人を抱えるのは世界的にも最大規模。
  • 日本で国が芸術作品のサポートを開始したのは1990年。前述の国立の劇場はすべて日本文化芸術振興会の管轄。日本文化芸術振興会は文化庁の管轄。文化庁は文部科学省の管轄。もともと補助金+興行収入でまかなう予定だったが、年々補助金は減っているので、興行収入を増やさないといけない。
  • ヨーロッパだと王様がパトロンだったので、「王立」と名のつく劇場に「王立」と名のつく劇団をかかえていた。そういう伝統。
  • 明治以降、近代化=西洋化を目指して、大きな変化があった。劇場の地位向上と女優の誕生。
  • 劇場は西洋のオペラ座を模して作られるようになった。その第1号が帝国劇場。それまでの劇場の形は「能狂言」「歌舞伎」「文楽」それぞれの形だったのが、プロセニアムアーチで舞台と客席に幕を挟んで二分するようになった。これは日常の再現、リアリズム志向のため。
  • それにあわせて女性の役を女性が演じるようになった。最初は芸者が女優になった。それで有名なのが川上貞奴。川上音二郎の妻。そのうち日本の風習と大きく異なる外国の脚本を上演できるように文芸協会が素人を玄人に養成することを始めた。それで有名な最初の女優が松井須磨子。ちなみにその脚本はイプセンの「人形の家」。
  • 美術の学校は設立された(今の東京芸大、当初は2つ)のに演劇の学校は設立されなかった。これは芝居を一段下に見ていたから。当時は遊郭と劇場は「悪所」と呼ばれていた。それが明治になって公的に法律で認められる際に、劇場を大劇場、小劇場と当時の法律で区分された。小劇場は小芝居を上演していた箇所で、実際に建物も大劇場より小さかった。また、小劇場は一段低いものと見られていた。
  • このころヨーロッパでリアリズムを重視した芝居が増えてきた。それに刺激されて明治の後期になって、日本でもそういう芝居を上演する劇団である自由劇場が創立された。これが新劇の開始。これは芝居の内容から、小規模な空間での上演を好んだため、新劇イコール小劇場となり、小劇場の「一段低い」という認識が薄れてきた。
  • 当時の役者は鑑札制だった。鑑札の発行は警視庁。プロとアマの境目ははっきりしていた。鑑札をもっているかどうか。上演台本は検閲されており、風俗を乱す役者は鑑札を取り上げられて舞台に出演できなくなった。これに反発した人たちが新劇に参加したが、その経緯から左翼がかっている人たちが多かったので「新劇」という言葉自体が嫌われるようになった。そのため「小劇場」という言葉が引っ張り出されて若者の演劇全般に使われているが、歴史的経緯からはこの使い方は間違っている。

この内容の、特に前半に書いた内容が、最近アーツカウンシル問題を眺めていた自分には非常にツボでした。曲がりなりにも民間で成立っていた、外国でだって成立っている国があるところに、なぜ国がサポートをするか。結局ここが私にはよくわかっていないんですよね。

あと、プロセニアムアーチの話は2日目に詳しく出てきます。これを2日目の講義と合せると、3時間で西洋と日本の演劇の歴史のアウトラインが勉強できて、ものすごいお得です。

<3限目「声と演技」池内美奈子>

  • 研修所で3年かけて教えている内容を、4日間でどこまで深く掘り下げられるかはチャレンジ。だまされたと思って、言われた内容をやってみてほしい。そこで疑問に思ったり客観的になったりすると効果が出ない。
  • 歩く(スピード5段階)、走る、周りと速度をあわせる、空間を埋める。
  • 腰、肩のきもちいい箇所、姿勢を探す。床に寝て、いろいろ身体を動かしてみる。おおまかに、体の上半分と下半分、腰周りと肩周りが筋肉が集まっていて自覚しやすい。顔の筋肉などでは行なわない。
  • できるだけいろんな筋肉を動員してゆっくり立上がる。まっすぐ立つのはつまらない。スパイラルを描くようにするのがお勧め。
  • 歩きながら、見たもの、触っているもの、聞こえたものを(心の中で)捨てる。
  • 歩きながらほかの人と目が合ったら、止まって顔のマスクをはずす。実際に手を使って念入りにはずす(はがす)動作を行なう。それでまた歩く。
  • 走っているところから、合図で止まって、体の気持ちいい動きをとる。

これは4日間通して実施しましたが、私なりの理解で最初に補足しておくと、
・よい声というのは役者が納得できる声で
・役者が納得できる声というのは身体が納得しているかどうかで
・身体が納得しているかを知るためには自分の身体の感覚をできるだけ細かく繊細に把握する必要があって(あるいは納得できる声を出せるように身体を扱える必要があって)
・そのためにいろいろ身体を動かしたり、探ったりする必要がある
そのためのトレーニングです。4日間で目指すところのイメージはわかって、面白い体験もいろいろしましたが、とても4日で会得できるものではありませんでした。簡単なものは自宅で継続的に試したいと思います。4日間やった割にメモの内容が短いのはご容赦。

また人それぞれによって得られる感覚が違う性質のトレーニングであり、講師も個々人の感覚を非常に重視して誤ったリードをしないように発言に最新の注意を払っていたため、やった内容のメモは残せても、それが何にどういう風に効くのかをテキストに落とせないという、とても特殊なトレーニングでした。これを定期的に受講できる研修生は非常に贅沢ですね。

<サロン「翻訳劇の楽しみ方」松岡和子>

  • 翻訳劇の、主に製作側の楽しみ方。「ロミオとジュリエット」のバルコニーの場面、「マクベス」の王殺しの場面をテキストとして利用。最初に朗読。
  • ロミオとジュリエットは結構恥ずかしい台詞。日本人のメンタリティでは言えない。海外のメンタリティ。役者は違うメンタリティを橋渡しする仕事とも言える。
  • 恥ずかしい理由のひとつは比喩が多いから。「太陽の・・・」など。でも万葉集、古今和歌集の時代の日本人はやっていたのでまったく違うメンタリティというわけではない。今の役者は比喩が苦手。本気で相手を「太陽」と思わないと言えないが、そういう台詞が苦手。
  • 翻訳者はほかの人のテキストを写すだけだから恥ずかしくないかというとそんなことはない。どうやって恥ずかしくない言葉を見つけるかが仕事。
  • 翻訳者はすべての役を演じながら適切な言葉を探すが、ひとつの役を通して演じる役者に、テキストの読み込みではかなわない。自分は都合がつく限り稽古場に参加するが、役者に教えられることは多い。
  • 焦った例。「結婚を考えている」という台詞。ロミオ17歳、ジュリエット13歳で、最初は謙譲語を使ったが、佐藤藍子が演じたときに、ジュリエットが立派な一人前の女性に見えたので、謙譲語の間違いに気がついた。対等感を出すような台詞に変えた。
  • 苦労した例。「私の旦那様」という台詞は今回はじめて追加。原文のMy Lordがこれまで訳せなかった。蒼井優がオセロのデズデモーナを演じたときの「旦那様」からようやくひらめいた。これは対等感とは別に、大人の言葉を真似することで大人ぶりたい子供という感覚も込めた。
  • 報われた例。テンペストで「子鬼」と訳した単語を、蜷川幸雄にわからないから今すぐ直してほしいといわれた。思いつかなかったので、すごい普通の言葉だったが「小さい者たち」という仮訳をひねり出した。そうしたら平幹二郎の演技が地面に向くようになった。後年、シェークスピアの故郷に宿泊した際に、地面を見たら、小さいきのこがひとつずつ生えているのをみて、これが「小さい者たち」だとわかった。ひねり出した訳が正しかったことがわかってとても嬉しかった。普通の言葉を選ぶことを恐れてはいけない。普通の言葉のほうが遠くまで届くこともある。
  • 翻訳者の使命」という本の一節。「原作に埋まっている意味を解放するのが役目」(管理人注:他にも書いている人がいました)。
  • ・ある役者に言われた支えになっている言葉。「知っているけど言ったことがない言葉(言い回し)ってたくさんありますよね」。そういう言葉を使えるのは翻訳劇の魅力のひとつ。

もっとお婆さん然としていると想像していたのですが、想像よりも若かったですね。話している本人がものすごく楽しそうにしている中で、翻訳するという作業で、一語一語をどれだけ大切に選んでいるのか、その一語がどれだけの影響力を持っているのか、台詞の大切さがとてもよく伝わる話でした。

そしてメンタリティの箇所。本気で相手を太陽と思えば言えるのであれば、ひょっとしてどんなでたらめな台詞でも役者のエネルギー次第でなんとか通用するのか? という別の疑問が浮かんできましたが、これはまったく別の話。

ここまでで初日終了。

(ワークショップ)新国立劇場演劇研修所「NNTドラマスタジオ オープンスクール(目次)」新国立劇場内稽古場

<2011年8月6日(土)- 8月9日(火)>

今まで個人情報に結びつくような情報は載せていませんでしたが(そもそも載せるような内容がなかった)、今回いろいろ思うところがあったので載せます。

受講動機としては「正直な声に興味がある」「芝居の面白さをもっと分析的に観られるようになりたい」「研修所での教育がそもそも成立つのか気になる」というもので、それに3万円払うのは酔狂な趣味だと自分でも思いましたが、終わってみれば3万円なんてタダみたいな、非常に充実した内容でした。

これをブログに載せることが講師陣の何らかのノウハウの流出になるかと考えましたが、これしきのメモでノウハウがなくなるような講師陣ではない(そんなこと言ったら鼻で笑われると思います)、そもそも受講していないと内容が理解できない、何よりテキストに落とせない内容が多すぎることから、載せても問題ないと判断しました。

以下お断り。

  • 録音禁止、撮影禁止のため、書かれている内容はメモを元に起こしたものとなります。そのため言葉や順番は正確ではありません。また、適宜端折っています。
  • 内容について、関係者からの間違いの指摘は受付けますが、無関係者からの内容についての質問は受付けません。またこの内容を参考にした人が何らかの被害や損害を蒙っても責任は負いません。
  • このブログでは敬称略で通しているので、今回も敬称略とします。
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分量が膨大なのでエントリーを4日分+まとめに分けています。以下目次。
1日目
2日目
3日目
4日目
長いまとめ