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2024年9月23日 (月)

野田地図「正三角関係」SkyシアターMBS(ネタバレあり)

<2024年9月21日(土)夜>

戦中の日本、とある地方で行なわれている裁判。被告は父親殺しを疑われている花火師。起訴したのは地元の検察官、弁護するのは東京から来た弁護士。検察官が被害に遭った番頭たちを証人に出して被告の当夜の行動を示せば、弁護士は花火師の2人の弟を証人に立てて父親の酷さと兄の無実を申し立てる。空襲警報で何度も裁判が中断しながらも、他にも証人が入り乱れて、花火師と父親のこれまでの関係と当夜の出来事が少しずつ明らかになっていく。

前情報は入れないように注意して、大阪まで出掛けてきました。それは後で書くとして、カラマーゾフの兄弟を下敷きにしたという野田地図の新作。カラマーゾフの兄弟は未読なのでそちらとの比較はできませんので後からWikipediaで粗筋だけ確かめましたが、見所はありつつも大阪まで遠征させるものではないぞという出来。以下結末まで含めたネタバレです。

3人の兄弟が上から花火師、物理学者、牧師を目指してそうなったとオープニングで話されますが、スレた観客としてはここで「花火に物理学者なら爆弾?」と気が付いて、火薬を探す花火師に絡んで早い段階でウランという言葉が出てきたので、それで牧師なら教会で原爆で「パンドラの鐘」のリメイクか、と身構えながら観ることになりました。長崎の地名を出すのはだいぶ後まで引張ったのに、どうしてあんな早い段階でウランと明かしてしまったのか理解に苦しみます。後半、父親と花火師とで取合った女性としてグルーシェンカが出てきますから、それでしばらく引張ればよかったのに。

もっとも、E=mc^2もかなり前倒しで話していました。その物理学者の弟が原爆研究に携わり、その起爆に花火師の兄の腕前を云々というところは「東京原子核クラブ」を思い出させるような設定です。

牧師を目指した三男はどうもぱっとしないというか、話に絡むのが薄い。もちろんヨハネの黙示録の夢を見て原爆の投下を暗示するとか、兄が数式を話す手伝いをするとかあったのですが、都合よく話を進めるための役どころかと観終わったときには感じました。

で、観終わったところで思い返して、やっぱり「パンドラの鐘」だったと考えました。原爆投下の話にアメリカ人パイロットの会話を挟んだり、ラストが焦土になったりして、原爆を落とすなんてアメリカ人はとんでもねえよなと思わせる展開でした。だから一瞬、パンドラの鐘から20年経って還暦を過ぎて、野田秀樹も転向したのかと驚きました。

ただし竹槍で飛行機を落とす訓練をする場面を挟んだり、兄が戦死した電報を配る配達人を挟んだり、いまいちすっきりしないラストの長台詞だったりを考えると、あれはやっぱり、負け戦になっただけでなく焼け野原を引起した天皇の責任を訴える芝居だったのかと考えました。ここまでは観終わってホテルに戻って考えたところです。

その後、家に戻ってこの感想を書くためにカラマーゾフの兄弟の粗筋をWikipediaで読みました。割と芝居は原作の設定に則っているようで、次男が無神論者なことに加えて、三男の仕える牧師が亡くなって死体の臭いがきついから神への疑念を抱くところも原作にありました。神などいない、つまり現人神などいないに掛けていますよね。やっぱり「パンドラの鐘」だったと強く確信した次第です。ただの反戦ではないですよね。天皇を描かないようにしながら天皇の責任を問うためにカラマーゾフの兄弟を借景にした芝居だったと理解しました。

おかげで遠征させるものではないぞと考えた理由も整理できました。大きなところでは脚本が理由です。もともと難解なカラマーゾフの兄弟に寄せすぎて、野田秀樹の芝居の特徴である遊びが絡ませつつ、しかも天皇を描かずに戦争責任を問う(問うように誘導する)展開がかなり挑戦的です。予想では、カラマーゾフの兄弟を深く読んでいた人ほど脳内で補完して驚けたのではないかと思います。が、題名しか知らない自分にそれは無理でした。むしろ野田秀樹の過去作をそれなりに観た経験が邪魔をしたかもしれません。脚本で細かいところを言えば、途中で無理して韻を踏むような台詞を入れていましたが、あれは日本語の通じない外国人対策でしょうか。軽く飛んでいくような台詞が魅力の野田秀樹なのに、べったり重たく感じていまいちでした。

そして、3人兄弟が出てくるなら協力するにしても対立するにしてももっと互いが絡む要素を入れておくべきでした。特に長男の花火師が弟2人とあまり絡まないため、ラストの長台詞が活きない。序盤のあれだけでは足りない。いや違うか、弟に限らず長男が絡む他の役が少ないから、普段の生活感を感じられず、ラストの長台詞を語らせるのに向かなかったのですね。ここはカラマーゾフの兄弟に引張られすぎて野田秀樹が怠ったのではないかと想像します。

この3人兄弟ですが、悪くはなくとも良くもない。主人公となる長男の花火師を演じた松本潤は身のこなしがさすがでしたが、役に動きが感じられない。そういう脚本だと言えばその通りですし、どっしりとした存在感と言えばどっしりとしていましたが、主人公には前のめりな姿勢が求められるのが野田秀樹の芝居です。どうにもならないラストに向かって疾走して、力技でラストの長台詞を料理してほしかった。それは次男の物理学者の永山瑛太も同じで、後半のあるところから原爆の開発を目指すことが明確になって、兄に仕事を頼んで巻込むことになるのだから、そこからは悩みつつも危ういところへまっしぐらな様子を見せてほしかった。

そんな中で三男役を演じた長澤まさみが何とも不思議な印象で、野田地図2回目かな? 出番は少ないながらも声が耳を惹く。後半、早替えでグルーシェンカとの2役になったら遠目にもスタイルのいい姉ちゃんで、誰だこの役者と一瞬わかりませんでした。なんというか、助平心とは別の健康美のような華で気を惹かれました。それも助平心だろうと言われればその通りですが、「紫式部ダイアリー」よりは圧倒的によくて、カンパニーに馴染んでいました。ただし馴染んだだけでは駄目なのが野田地図で、そこにもうひと工夫がほしかった。2役どちらとも遊ぶ余地があった役のはずですが、役を役通りにこなして終わってしまいました。

圧倒的によかったのが脇だったはずの池谷のぶえで、ウワサスキー夫人というふざけた役名が体現するべきおふざけを完璧以上にやってのけました。声と言い仕草といいとぼけぶりといい、それでいて締めないといけないところもその延長でやってのけて、そうそうこれこそ野田秀樹芝居だよと出番のたびに考えました。あとは竹中直人も検察官と父親の2役ですが、どちらも渋い出来でいい感じでした。役者野田秀樹はいつも通りですが、村岡希美と小松和重が上手いだけで終わってしまったのがもったいない。もう少し遊べたところを上演時間の都合と外国公演向けに整理されたのかもと妄想します。字幕翻訳の都合でアドリブに近い言葉遊びネタが出来なくなるのだとしたらもったいないですね。そうなると池谷のぶえのやり方が正解になる。

あとはコロス。近頃の野田地図はコロスが美しくて、遠目にもよくできていたというか、遠目のほうが楽しめます。絵作りが上手ですよね。井出茂太を振付に呼んでいるだけのことはありますが、台詞も一部持たされてよく全うしていました。スタッフは今さらですが、ひびのこずえの衣装を挙げておきます。

だから総評は、脚本が無理な挑戦をして乗越えられなかったところを役者でカバーしたかったけれど、主役3兄弟がお呼ばれ感のあるお行儀のよさで天井を破れず、脇は脇で海外公演の都合で字幕をいじるような遊びを封じられて、それでも活路を見出した池谷のぶえの圧倒的技巧と、それに匹敵する長澤まさみの華と、それだけ無理をしてもなお形になったカラマーゾフの兄弟原作の骨格で何とか繋いでみせた仕上がり、でした。観てよかったかと聞かれればよかったと答えますが、遠征した甲斐がありましたかと聞かれれば私にとっては微妙でした。

そもそも東京公演、いつも通り舐めていたせいで前売りを買えずに当日券狙いになったのですが、4日間6公演でくじ引きに挑んで6回返り討ちに遭いました。うち3回が1番違いで、特に3回目の1番違いを引いた最後は、もう東京公演は諦めろという当日券の神様の啓示が降りてきましたね。お前以外にどれだけ当日券に祈りをささげる者がいるのか考えたことがあるのかと声が聞こえました。神はいます。いますけど、当日券の神様に座席は作れない。ただ差配するのみです。

ちなみに今回の当日券、東京公演がリストバンドによる抽選、北九州公演がオンラインによる先着、大阪公演がオンラインによる抽選でした。このあたりはスタッフの都合によるものか、いろいろな販売方法を試して次回に活かすつもりなのか、わかりません。東京公演では番号発表と自分の番号から察するに、毎回だいたい15倍から20倍くらいの倍率だったと推測します。リセール狙いは最後までやっていましたが、全滅しました。

ぼろ負けして発想を切替えられたので、大阪公演の予約が始まるところに間に合って何とか確保できました。前後左右全員双眼鏡持ちという座席でした。いい劇場なので見切れはありませんでしたが、遠いものは遠い。おかげで芝居から距離を置いて眺められたのはあったかもしれません。

それにしても純粋な遠征目的の旅行は人生2度目でしたが、宿の予約を舐めていたら高い宿になるし、昼間は観光で大阪を歩いてみようとうっかり歩いたら疲れて死にそうになって芝居の前に宿でひと休みしたりで、偉い目に遭いました。歩いたのは自分の物好きなのでさておき、東京に芝居を観に遠征してくる人たちはチケットが取れた瞬間に宿の予約に手が動いたり、持っていく荷物や格好も決まっていたり、このあたりはもうルーチンになっているんでしょうか。翌日の午後は早めに引揚げたつもりですが、家に戻ってから後片付けに追われるわ次の日に起きてもまだ足が痛いわで、遠征不慣れなばかりにへろへろになってしまいました。予定を組むのが嫌いなので割と行き当たりばったりで直前に決めるのですが、そういうことをやりたければ身体を鍛えるところから始めないといけないと思い知らされる遠征でした。

2023年10月10日 (火)

御園座主催「東海道四谷怪談/神田祭」御園座

<2023年10月8日(日)昼>

民谷伊右衛門は浪人して貧乏生活に甘んじている。妻のお岩は男の子を産んだが産後の肥立ちが悪く、邪険にしている。そこに隣家の伊藤家から薬の差入が届き、お礼に訪ねたら一目ぼれした孫娘と一緒になってくれないかと頼まれて出世のために承諾してしまう。一方、夫の留守に薬を飲んだお岩は顔が崩れてしまう。実は伊藤家が伊右衛門の妻を陥れたものだった。

要らない了見抜きで芝居を観るために初遠征。妻を邪険にして悪い男ぶりの仁左衛門の伊右衛門と、恨めしやと恨みがエスカレートする玉三郎のお岩が見どころです。ただ、玉三郎は思ったよりも背が高いのですね。一人で演じる場面で思ったよりも背が伸びて、そこだけ驚きました。登場人物ではもうひとり、按摩宅悦を演じた片岡松之助がお岩に同情する役どころを上手く演じていたのがよかったです

役者の演技には満足しても、どうも足りない気がすると思って調べたら、通しではお岩の妹の話があったんですね。それは足りないわけだ。全体にモノトーンの舞台や衣装ですが、恨めしやというくらいだからそれは合っている。けど、なかなか悲惨な場面が続くので、拍手のしどころに欠けるのが困りました。

それを補うのが神田祭で、鳶の頭と芸者の設定を、派手な背景と派手な衣装でぱあっと明るく踊ります。こっちの玉三郎は仁左衛門とじゃれ合って実に上手で、芸者なのに初々しい。仁左衛門もそこにいるだけで格好いい。周りもとんぼを見事に決めたりして、拍手も遠慮なく何度も出ました。

観られた場面にはすべて満足しましたが、できれば四谷怪談は通しで上演してほしかった。名古屋だと出張公演になるから費用がかさむにしても、やっぱり歌舞伎座より高いチケット代になるからにはねえ、という点には不満の残る公演でした。

劇団四季「キャッツ」名古屋四季劇場

<2023年10月7日(土)夜>

ジェリクルキャッツと呼ばれる個性豊かな猫たちによる年に1度の舞踏会。長老猫に選ばれた猫が新しいジェリクルキャッツとして次に生まれ変わることができるが、選ばれるのはたった1匹だけ。その1匹に選ばれるために猫たちは夜通し歌って踊り続ける。

わざわざ観に行ったわけではなくて、別件のために名古屋に行くなら観光もしようと探しているときに見つけたもの。劇団四季のストレートプレイは1度だけ観ているけどミュージカルはまだだなと思い出したので、特に期待せずに観たのがよかった。満足度が高かったです。

まず演目が、1匹に選ばれるためにひたすら歌って踊るというのがよかった。筋も少しはあるけれど、そこまで追わないで歌と踊りに集中できるので。そして有名な猫の扮装をした役者が歌って踊るわけですが、歌も踊りも一級品でした。

まず歌が明瞭。おおぜいで歌っても歌詞がわかるように発声と発音の訓練をされた歌声で、これが浅利慶太の目指した成果だという歌声でした。

歌についていえば、日本語訳詞がわりと主旋律にきれいに乗っていて、クレジットには「日本語台本 浅利慶太」とあるので、浅利慶太の翻訳ですよね。ほぼ全部日本語にしてあそこまで乗せてくるのは単なる翻訳を超えた仕事ぶりです。あと、声を埋もれさせない音響も預かって力がありました。

そして踊りは、脚が上がるあたりの振付は若干ウエストサイドストーリーっぽさを感じないではありませんでしたが、とにかく脚が上がるし、回るし、飛ぶし、足場の狭いところでもものともせずに踊ります。単純に観ていて気持ちがいいです。これも訓練の賜物という踊りでした。

客席に入って目につくのは二階席まで派手に飾り付けられた美術ですが、美術も動きます。そこに仕掛けも用意して、照明と合せて、専用劇場の長所を十二分に発揮しています。役者は客席にも来てくれますが、近くで見ても猫の衣装とメイクはそこまで違和感ありませんでした。よくできていますよね。

で、ソロでも歌よし踊りよしの役者が揃っていたのですが、それはそれとしてこの日個人的に気になったのは、泥棒雌猫ランペルティーザ役の清水杏柚でした。背丈は下から数えたほうが早いくらい低い人でしたが、目を引くパフォーマンスをするのはタッパじゃないなと教えてくれました。

ということで観終わって満足しましたが、観る前にもよかったことがあったので2つ。ひとつは残席状況をかなり細かく発表してしかも1日複数回更新していること。あとは客入りに合せて3段階に料金を分けていること。やっぱりロングランで自前のチケットシステムを導入しているとそのあたりまでできるようになるのだなと思いました。子供料金半額も実現しています。

これは好きになる人がいるのもわかりました。ということで、もう何本か追ってみたいと思います。

2017年5月11日 (木)

ローザンヌ・ヴィディ劇場製作「ウェルテル!」静岡芸術劇場

<2017年4月28日(金)夜>

引越した先で知合った女性シャルロッテに恋したウェルテル。彼女にはすでに婚約者がいた。叶わぬ恋に悩み自殺するまでの話をウェルテルとして演じる一人芝居。

初日。マイクとカメラでライブ映像を映したりしながら演じ通す。ドイツ芝居(というか原作小説)は強度があって何とでもいじれるとの評判は伊達ではない。恥ずかしながら原作を読んでいないのだけど、開演前にSPACのメンバーがロビーで粗筋解説していた。粗筋がわかったからといって楽しむのに問題ないとの判断もあってのことだと思う。

実際の上演は、本人が客席とのコミュニケーションを楽しむスタイルを好んだようだけど、ドイツ語メインかつ字幕にいろいろ問題があって客席との齟齬が多く、結構滑った。途中で日本語を繰出したり四苦八苦していたのだけど個人的にはことごとく裏目に出ていた。演技はよかっただけにもったいない。

齟齬について補足しておくと、客席に話しかけたりリアクションを期待した芝居が開演直後から多数あったのだけど、英語ならともかくドイツ語だと客席に通じる割合が低く、反応が鈍かった(出来なかった)。特に、途中で一度終わったように見せかけて退室する演出があったのだけど、そこで拍手なり笑いなりを期待していた役者と、いやいや全然終わりじゃないだろそんなのネタだってバレバレだから拍手も笑いも無しで続きを早くというスレた客席(自分を含む)とで思いっきり食い違って、非常に気まずい進行だった。客いじりなんて日本人が日本人を相手にしても難しいのだから、最後まで飛ばしてもらってもよかったと思う。クラシック音楽の演奏会みたいに、最後にわっと拍手するのもいいものだ。

あと字幕はひどかった。台詞と全然合っていないだけでなく、先に進みすぎた字幕を戻したりして(PowerPointのスライドをキーボードで行ったり来たり操作するような)、初日ゲネですらなかった。字幕の完成が遅かったのか、ビデオ含めて一度も上演内容を確認せずにぶっつけ本番でやったのか、字幕のオペ担当が急病で代理になったか。すくなくともドイツ語がまったく分かっていなかったのは確かで、通訳が客席後方で待機していたのだから(オペも客席後方だった)通訳に任せたほうがまだマシだったはず。

字幕についてはもうひとつ。天井の高い劇場の後方を目一杯ライブ映像に使っていたので、字幕がさらにその上に表示された。たぶんそれが原因で、客の目線が上に寄って、客席とコミュニケーションを取ろうとした役者が映像トラブルを疑って最初に何度も後方を確認していた。字幕の配置場所はもっと配慮があってもよかった。映像を使うから悩みどころだけど、重ねてしまってもよかったと思う。途中で前方に幕を追加する演出があって、それがまた悩みどころだけれど。

終演後は役者のフィリップ・ホーホマイアーのアフタートーク。客席から集めた質問を宮城聰が訊く形。ちょっとうろ覚えだけど覚えている範囲でメモ。間違っていたらそれは私が悪い。当日パンフの内容が混ざっているかも。

・小さい頃に独学で詩を勉強した。中学生になって授業でコッポラの映画を観たあと、教師から感想を求められた。他の同級生が何も感想を言わない中で、自分は机の上に立って詩を朗読した。あれが自分の初の演劇体験。

・その後、演劇学校に入って役者の勉強をしたが、そのころに演出のニコラス・シュテーマンと知合った。今回上演した芝居は演劇学校で最初に発表したもので、基本的にはその20年前のときと同じ演出で今回も上演した。「若きウェルテルの悩み」はドイツでは全員が知っている有名な小説で、(一般階級の男性が恋に破れて自殺するというのは発表された1774年当時では衝撃的な内容だったため)ドイツの小説史上でもとても重要な位置づけがされている。

・演劇は自分にとってはこれしかできないもの。他の仕事をやったら「カローシ(過労死)」してしまう。

・普段はできるだけ自分をニュートラルに保って、何かあったときにそれを即座に自分の中に取りこめるように努めている。取りこんだものを芝居に出す。(通訳補足)今回の上演で「津軽海峡冬景色」を流したが、あれは前日の懇親会で流れた曲を本人が耳にして、その場でダウンロードして、今日の芝居に使うことを決めた。

・上演中は飛行機のパイロットのつもりでいる。出発地と到着地は同じでも、周囲の状況は違う。雲の中をどうやって抜けていくか、風が吹いている中で無事に離着陸できるか、状況が毎回変わる中でどうやって運転するかが大事になる。芝居の上演も状況が毎回異なる中で、運転を調整しながら、到着地を目指している。

・(今までで一番記憶に残る公演は?)毎回違う状況で運転しているので、どれが記憶に残るということはないが、今日の公演は滅多にない公演だった(客席の反応が鈍かったことを指している)。

・(ひとつの演技に複数の感情が込められていたが、どのようにしているのか?)自分たちは普段の生活で、すでにそのように行動している。演技でも、できるだけ自分自身を正直に解放するように演じると、そこに複数の感情が表れる。

・(劇中で食器を割る場面で、何のためらいもなく食器を割っていたのに魅了されたが、ためらいはないのか?)あの場面はウェルテルの心がそれを欲しているので、ためらいはない(宮城聰も面白い質問と言っていたけど、日本人ならもったいない意識が働きがちなところ、どうももったいない感覚自体が伝わっていなかった?)

・(大きい声を出すにはどうすればいいですか?)筋肉を鍛える!

こういうトーク、向こうの人たちはとても真摯に応対する印象がある。芸術の国と芸能の国の違いかもしれないけど、ストレートでいいなあという感想と、もう少し照れてくれたっていいんじゃないかという感想と、半々。

2011年11月 4日 (金)

松竹主催「美女はつらいの」大阪松竹座(ネタばれありあり)

<2011年11月3日(木)昼>

すばらしい歌唱力を持ちながらあまりに太っており、かつ病気の父親を抱えるため、歌が下手な美人歌手のゴーストシンガーを務める主人公。憧れのプロデューサーには応分の扱いをしてもらえるも、美人歌手やマネージャーからはさんざんな扱いと迫害を受ける。自殺を試みるまで思いつめた主人公は整形外科に通い大手術を受ける。美人になった主人公は別人の振りをして元のプロデューサーのオーディションを受けに行く。

ブログを書き始めてからたぶん初の遠征。もうアレがアレしてアレなんで「そうだ京都へ行こう」とか考えていたんだけど、どうせなら変わったことをしたいと考えて思いついたのが松竹著作権問題。どうせなら実物を見比べてやれ、でも「原作」の漫画はいまさら売っていないだろうから芝居だけ観てもわからないか、まあ交通費も馬鹿にならないし漫画がなかったらやめとこう・・・ジュンク堂、お前の品揃えには脱帽だよ、だったら観に行ってやるよ。

ということで原作5巻を大人買いして事前に読んだ上で、日帰りで行ってきました。以下全力でネタばれ。観に行った理由が理由だから許されたし。

まず内容「だけ」で言えば、これは裁判官が別物と判定したのもしょうがないというほどの別物。舞台が日本か韓国かは置いといて、まず漫画で言えば

  • 大学生の大学生活が中心(主人公が学生なのか、学食でバイトしていただけの若者なのかがいまいちわからない)
  • 1話目の1ページ目が整形済みの段階でスタート
  • 憧れの彼を、地味ブリッコ二股女から略奪して紆余曲折を経て付合いはじめる(2巻まで)
  • 付合いをご破算にしそうなイベント(妹にばらされそうになる、うっかり情けをかけた別のブスに振り回される、偶然会った彼の先輩にほれる)(4巻まで)
  • 同棲を始めるもお互いの欠点が目に付いて、さらに他の女から略奪の働きかけを受け、整形を白状するも、めでたしめでたし(5巻)
  • 全体に、「美女に対する誤ったイメージを実行して嫌われそうになったのを、ブス(不幸な立場一般)の気持ちがわかるためにリカバリー」というパターンのコメディ

というもの。これに対して芝居は

  • 音楽業界の歌手とマネジメント側が中心、主人公には歌唱力という能力あり
  • 主人公を誘導して(もてあそんで?)、無料で整形して、さらにサポートするのが天使という設定
  • ブスがいじめられ、さげすまれ、憧れのプロデューサーのパーティーで恥をかかされ、自殺したくなるまでが大半、加えて整形して正体を隠してオーディションに受かってデビューするまでが前半
  • 整形してデビューしたものの実は整形前にもプロデューサーが好意を寄せていたことを知って後悔する、事務所の方針で「美女らしい」振舞いを叩き込まれるが却って性格がゆがんで忙しくて会えない親の面倒を見てくれていた友人と険悪になる、主人公のデビューでクビになった美人歌手から正体を追及される、並行して事務所の契約トラブルでプロデューサーが自己嫌悪に陥る、コンサート当日に事務所が解散同然になってしかも正体がばらされてブーイングの中でステージに上がって謝罪して応援されて歌ってめでたしめでたしの後半
  • 全体に、シンデレラストーリーをベースに「ブスの悲哀」「正体を隠して美人になったための苦労と苦悩」を描いた物語

というもの。共通点らしきものは「主人公が整形して美女になる」「美女らしい振舞いをしようとして失敗するエピソードがある(エピソード自体はまったく違う)」「他の女に正体を追及されてばらされそうになる(追求される理由が、身内からの追及と、クビの恨みとで違う)」「格好良くて女に困らないような男が、外見無視の性格重視で相手を選んでいる」くらい。これだけじゃさすがにどこにでもある話の設定。今回の一件を知らない人が両方を観て原作関係を指摘できるとは思えないし、指摘できたとしてもその話を聞かされた人は「でもそれってよくあるパターンじゃないの」と返事するレベル。

なので、作品面から著作権を追求するのは無理、この芝居が映画を参考にしている証拠を探すしか手段がないんじゃないか、というのが私の印象。さすがに当日パンフレットは買わなかったけど、ぱらぱらめくった感じでは映画のことすら一切触れていない。触れていないことが逆に確信犯だと思うんだけど、それは証拠にならないので、クレジットで誰か映画にかかわっている人を探すとか、韓国での上演時の資料を探すとか、韓国から舞台化の申し込みがあったときの記録を探すとか、そういう方法しか思いつかない。「原作」者と講談社におかれては大々的な調査となって面倒かもしれませんが、ここで一発かましておかないと後でもっと面倒な犠牲者が出ると思いますので、最低でも「あそこは無断でやるといろいろうるさいからパクるのはやめておこう」と知らしめる程度にはがんばってほしい、それがコンテンツ海外展開先駆者の苦悩と承知して引受けてほしい、と勝手に願っております。背中から撃つようなことをブログに書いておいて勝手に願ってんじゃねーという感想を持たれるかもしれませんが、作品面については正直に、正直に。

ここまでが騒動に対する意見。ここからが芝居の感想。

面白いといえば面白いんだけど、いくらミュージカルに単純明快はありがちと言っても、それ以上にそのご都合主義はどうなのよ、という点が散見。

  • 天使という設定を持込むことで、貧乏な主人公の大規模整形費用が無料になること(あるいは、ゴーストシンガーをやっているのに家賃を滞納するほど貧しいこと)
  • いくら性格重視の男だからって、ブスの主人公にほれるきっかけがわからない(歌唱力にほれたって設定を新曲の場面で描いたのだとは思いますが)
  • 整形や芸能界に対する台詞に違和感を感じる

とくに最後が不思議で、最初は芝居だからいじめも何事も大げさにやるのだと思っていました。けどプロデューサーの台詞に、美人歌手はダンス、XX(失念)、整形、ダイエットと努力している(大意)とあって、え、整形って努力に含まれるの? 他の役に言わせるならまだしも、ひょっとして韓国ではそれが普通? みたいなカルチャーギャップが芽生えたのがひとつ(他に、いまどきニュートラル(ナチュラルだったかも)美女なんてありえないという美人歌手の台詞もある)。あともうひとつ、事務所のトラブルに「奴隷契約」とかでてきて、あれ、ダブルキャストのもうひとりのヒロインの所属ユニットで実際に騒動になっていなかったっけ? 全部作り話と思っていたけど実はかなり現実が反映されている? だとすると他の部分、ブスへのいじめや美女は何をしても許されるという設定もかなり韓国の実情を反映しているのかも、といらぬ想像が湧いてしまったのがもうひとつ。だから、これは口パクかも、あの人はどこか整形しているのかな、このくらいのいじめは日常茶飯事なのかな、と今観ている芝居に対していろいろ考えてしまって、何かですね、素直に楽しめなかったんですよ。

役者についていえば、主人公のパ・ダは結構観られたし、聴けた。でもクライマックスの音響オペはもっと落としたほうがいいと思う。プロデューサー役のオ・マンソクは演技も歌も力不足。一番よかったのは、天使役兼整形外科役兼あといくつかを演じたキム・テギュンで、何をやるにしても余裕が感じられたし、声も出ていた。あと父親役の人がちょっと気になったけど名前不明。アンサンブルは振付はさておき、全体にもう少し揃えてほしかった。あと日本語を混ぜるのであれば謙虚さよりも面白さを追求してほしい。エンターテイメントをやっている最中に卑屈に見られたらアウト。その点でもキム・テギュンはよかった。

あと雑感。チケットは9割がた売れていてびっくり。客層は40以上の女性団体が主、もう少し若目の女性が若干、40以上の女性に連れられてきた旦那さんがごく少数、自分は希少種。拍手はプロデューサー役に一番多かったので客層は男性スター目当てだったと思われる。いわゆる韓流が最近批判されているけど、こういう人たちにそれなりの需要があるとわかったのは収穫。他の観客のおしゃべりによると、原語には言葉遊びがちらほらあってもっと笑えるらしい(韓国語と日本語を流暢に話している人だった)。あと別の観客は騒動のことを知っていて、でもシンデレラストーリー自体がよくある話だろと自分と似たような感想を話していた。大阪松竹座は3階席まである、新橋演舞場の幅を狭くしたような劇場だけど、どこから観てもわりと観やすくてよい、そのかわりロビーが狭い。かに道楽は何件もある。読み終わった漫画はどうしよう。

どうせなら京都に寄ってきたかった、1日つぶして高い交通費で日帰りで何やってんだと後悔はしきりだけど、反省はしない。それにしてもやったことはフリーのライターみたいなものだけど、事前調査に交通費に芝居にと金ばかりかかって、もっとまじめに調べるなら映画のDVDを買うとかもあるし、これは儲からん、フリーの収入3分の1則(サラリーマンの3倍もらって やっとサラリーマンと同じくらいの稼ぎになる)は本当だ、と実感した。