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2024年8月25日 (日)

National Theater Live「ザ・モーティヴ&ザ・キュー」

<2024年8月14日(水)夜>

映画で人気のスター俳優が結婚間もない仕事として舞台の「ハムレット」に挑む。その演出家にはかつて共演したことがあり、自身も「ハムレット」を含むシェイクスピア作品に主演して絶賛されていた年長の男性をイギリスから指名する。だがスター俳優が主導するはずだった芝居が、役作りの困難から演出家と、やがてプロダクション全体との衝突につながる。演出家は他のメンバーから解決を求められるが、芝居に対するスタンスの違いを埋められずに適切な対策が取れず、追込まれていく。

てっきりよくできた作り話のつもりでしたけど、休憩明けの脚本家と演出家のインタビューで実際にあった話に基づいて作られた話だと知りました。新婚のスターがリチャード・バートンとエリザベス・テーラー、演出家がジョン・ギールグッドです。いやもう映画に詳しくなくてすいません。

そして話自体が非常によくできていました。演出家が主演俳優に悩まされて、誰もいなくなった稽古場で椅子を相手役に見立ててシェイクスピアの台詞のように悩みを吐露する前半最後の場面は、誰が観ても名場面という名場面でしょう。ただ個人的には、後半頭に俳優の妻に演出家が呼ばれて、あなたは芝居一族の御曹司、夫は炭鉱作業員の息子で父親に見捨てられて姉夫婦に育てられた正反対の人(大意)と伝えて食い違いを助ける場面や、俳優がホテルで台本片手に悪戦苦闘する場面も心惹かれました。

脚本の展開で稽古場の場面と他の場面、それをハムレットの台詞で滑らかにつないでいくあたり、どことなく日本の小劇場っぽいなと観ながら考えていたのですが、ようやく思いついた。マキノノゾミの舞台がこんな作りが多いですね。何が違うと言われても困るのですが、私のイメージする海外演劇は舞台転換も含めてリアリティ重視なので、それとはちょっと違った作りでした。

おまけで、題名にもなっている「ザ・モーティヴ&ザ・キュー」、いわゆる「動機ときっかけ」と訳されて目にしていた言葉のことが、前半最後の場面のおかげで少しだけわかりました。私は役作りのメソッドに「動機ときっかけ」が必須とは考えない、いろいろなやり方があるはずだしそれで構わないだろうと考える人ですが、現代的な芝居に仕上げようとすればするほど、プロダクション全体が統一されたメソッドで臨んだ方がいいのはわかります。それが劇団ごとの味だったころから、舞台界共通の手法になろうとしているのかなと思ったり思わなかったり。

上演終了間際に観たのですが、機会があったらもう1回観てみたいなと思わせる話でした。

2023年12月30日 (土)

National Theater Live「スカイライト」

<2023年12月30日(土)朝>

ロンドンの、治安がよくない地域でアパートに独り暮らしをする女性の元に、かつて一緒に暮らした一家の息子が訪ねてくる。女性が出て行き、母が亡くなってから父の様子がおかしいので会ってほしいと言う。息子が帰ったあと、父である男性が訪ねてくる。女性は実家を出て男性が経営するレストランで勤務し、その一家に見込まれて一緒に住んでいたが、男性と不倫関係にあり、関係が妻に知られてから姿を消していた。話は近況の報告からお互いの価値観、そして過去の出来事と様々に進む。

National Theater Liveの10周年記念アンコール上映をやっていたので急遽参戦。一度日本上演を観ていますが、こちらは本場の再演版。

設定がかなりすっと入ってきたのは、出演者の歳の差が見た目でわかりやすかったのと、舞台美術であまりいい地域のアパートではないことが伝わったのとがあります。男性側のビル・ナイがやり手の実業家にしては甘い雰囲気でやって、女性側のキャリー・マリガンは教師っぽさがあまりなかったけれど、それでもがっぷり組んだごりごりの会話劇。そういう芝居が観たい気分だったのでちょうどよかったです。喧嘩をしてもうるさくならない芝居はいいものですね。

幕間に脚本のデヴィッド・ヘアーがインタビューで出てきて、当時の社会の様子を書いたと話していましたけど、答え合せするのはつまらない。そこは観て考えたいです。

2023年8月 6日 (日)

ゲキ×シネ「薔薇とサムライ2」

<2023年8月5日(土)昼>

もと女海賊のアンヌが女王となって治める国、コルドニア。近隣の国、ソルバニアノッソを治めるマリア・グランデが併合の野望を見せる中、なんとかそれを阻止しようとする。一方そのころ、遠方の島で麻薬効果のある塩のことを調べていた五右衛門は、塩と島民を攻め取ろうとしたコルドニア軍を追って、かつての旧友アンヌの治めるコルドニアにやってきた。

最近NTLiveを観ていたところ、劇団☆新感線の芝居の映像化がちょうど上映されていたのでこちらにも参戦。古田新太の五右衛門で始まったシリーズも、古田新太の身体をそこまで動かすことができず、天海祐希を事実上の主人公に持ってくるなどいろいろ工夫を重ねての上演。変装して化けた設定で早乙女友貴に殺陣を任せるというのは、

中身は安定の新感線ですが、映像で若干落着いて観ると、大量の登場人物に見どころを用意するので賑やかでわちゃわちゃしつつ、起承転結のしっかりしたよくできた脚本ですよね。もともとわかりやすい脚本を、さらに分かりやすく伝えるために説明台詞も多めに入れて、中島かずきの脚本はいまどきに合せてチューニングされた親切設計です。

役者で言えば天海祐希です。記憶喪失して怪盗として活躍する、という設定を挟むことで男役を復活させるとか、無理やりすぎて笑えますが、これも後につながるのだから脚本は上手。天海祐希の男役は初めて観ましたが、たしかに格好いい。その場面の相手役を務めたマリア・グランデこと高田聖子がウインクと投げキスを受けて「殺して、殺して~」と叫ぶところまで込みで笑ってしまいました。なるほど、あれが宝塚。

ちなみに天海祐希だけでなく他の役者も大活躍でしたが、私が一番よかったのは高田聖子です。やはり何をやらせても何か客の心を捕まえにくるところのある女優です。

で、映像化の話ですが、いい話で言うと、映画館のアップにも耐えられる今どきのメイクはすごいという発見がありました。あと、客席の笑い声を絞って一部にしか入れなかったのは、映像的な観やすさとしては良かったです。

悪い話で言うと、ちょっと新感線の舞台には難しいなというのがありました。というのも、もともと新感線は広い舞台を役者が動き回るアクション舞台です。なんでもない場面でも歩いたりします。これをアップ多めで追おうとすると、ややカメラが追いつかないし、なんとなくうるさくなるんですね。割と場所と動きは決まっていてもカメラアングルに制限のある以上、どうにかしないといけないんですけど、まだ処理しきれていない感がありました。殺陣は派手に見えると言えば見える、何をやっているのかわからないといえばわからない。

それと声ですね。ハウリング防止のためか、身に付けているマイクと、歌で使うマイクが違っていて、それでレンジが違って若干違和感がありました。で、身に付けているマイクもやや声が籠って聞こえる人がいて、まあ難しいです。

音と言えば休憩時間中、音なしで時間と役者紹介の映像を少しだけ流していましたけど、ちょっと静かになりすぎでした。NTLiveだと休憩時間中の客席の音と映像を流しっぱなしにしていましたけど、あれはあれで効果があったんだなというのは発見です。いまどきだと客席を撮影するのにも神経質になるところですが、何かいいやり方を見つけてほしいです。

National Theater Live「かもめ」

<2023年8月4日(金)夕>

電波すらろくに届かない、風光明媚であること以外何もとりえのない退屈な田舎の島。女優の母を持つが精神不安定で叔父に預けられている息子と、伯父の娘である従妹は、夏休みで戻ってきていた母たちを前に余興の実験的な芝居を見せるが、失敗する。本土の街に行きたいけど行けない、行きそびれた人間の様子を描く。

たしかオリジナルはロシアの田舎だったけど、それを現代風にリライト。電波も届かない湖のある島に設定を置換えての上演。だけどそれは格好が今風になる以上に効果があったとは良くも悪くも思えない。まあ「かもめ」です。それよりはリライトで細かい設定をいろいろ変えたところほうが効果が大きい。

演出で、オリジナルだと売れていて鼻持ちならない作家として描かれているところ、神経質で自分の成功にまったく懐疑的な作家として描かれました。これで芝居全体が、田舎にいる人たちが街に憧れるというより、田舎に引っ込んだり、田舎にいたまま街に出そびれた大人たちが、残された自分の人生に絶望するところがより強調されていました。撃たれたかもめの扱いが雑で、最後にニーナがコンスタンチンに対してまだ作家のトリゴーリンが好きだと言うあたりといい、椅子を動かすだけで場面を作っていくそっけない舞台美術と合せて、ものすごく地味、そして苦いところを突いてくる演出でした。

休憩時間中に息子が出ずっぱりで横たわる映像が流されていましたが、あれはオープニングの失敗した芝居をばっさり切った代わりの演出でしょう。最後、椅子をかもめの形に並べて見せたところと言い、古典の上演には海の向こうもいろいろ考えるんだなと思いました。

2023年8月 4日 (金)

National Theater Live「リア王」

<2023年8月3日(木)夕>

三人の娘のうち、末娘の婚約者選びが二人に絞られたとき。老いて王の責務から逃れたいために、王の立場以外は王国を分割して娘たちに与えようとする王。上の娘二人は王を称えて領地を得るが、末娘は父への愛情を正直な言葉を伝えたがために領地を得られず、それを聞かされた婚約者の一方からは逃げられたため、フランスへ嫁ぐことになる。王は上の娘二人に月替わりで世話になると言うが、一番愛していた末娘への心変わりを目の当たりにした二人は父への不信を覚える。

服装はいまどきっぽくて、短剣は出てきますけど兵士が普段持っている武器が銃なのは「ハムレット」と同じ。定番なのか費用その他制作上の都合なのか。それでも芝居になるからシェイクスピアはよくできていますよね。

話がどこまでオリジナルに近いのかわかっていないですが、今回はリア王は我がままで横柄で野蛮ではあるものの、追放された後になるほど同情の余地があるような役でした。そのあたりは役者の技量もあると思います。荒野の場面は本水でしたね。道化はあまり目立ちませんでした。

それで、王の忠臣の二人、ケント伯とグロスター伯ですが、ケント伯は女優が演じました(王を男装して追いかける)。この工夫のおかげか女優の技量のおかげかはわかりませんが、王に同情を集めるところに一役買っていました。今回の一押しです。グロスター伯は追放された王を探しにいくところからどんどん動き出して、両眼をえぐられたあと、追われた長男エドガーに連れられていく場面の演技はリア王に迫るものがありました。

こうやって年配組の役に同情が集まる理由のひとつに、若い悪人役をより悪く描いたためもあります。特に次女リーガン役は、リア王を追放するのも、グロスター伯の両眼をえぐるのも、グロスター伯の私生児エドモンドを誘惑するのも、露骨に悪く見せてきます。この次女とエドモンドを取りあう長女ゴネリルという構図で、どんどん同情が無くなる仕組みです。エドモンドは父への復讐というより、すべてを手に入れられる機会が巡ってきたから手に入れてやろうといった風情です。

だからリア王の狂気というよりは、リア王と上の二人の娘、そしてグロスター伯とエドモンド、父から奪う子供を強調した演出ですね。その分だけきつい場面の演出も派手につけて、迫力満点の仕上がりでした。

そして今回も日本で芝居で見るよりわかりやすかったのですが、理由のひとつに気がつきました。字幕で見ると情報量が落ちるから、特に人名のやりとりがすっきりするのですね。それは気付きでした。

National Theater Live「フリーバッグ」

<2023年7月29日(土)夕>

仕事の面接に来た女性が語り始める自分の話。セックスについての奔放な話、亡くなった友人の話とその友人と一緒に始めて経営している喫茶店の話、再婚してから仲が良くない父と羨ましい姉の話、あれやこれや。

NTLiveアンコール夏祭りの1本。随分と露骨なセックスの話が初めから終わりまでふんだんに出てきて、ノリだけなら日本の小劇場のような(といってそこまで露骨なのはなかなか見かけない)雰囲気の芝居でしたが、そこで描かれているのは半分病気のような主人公、あるいは上手くいかない人生を好転させるきっかけがつかめないで少しずつ少しずつ悪い方向に押し流されていく主人公です。

多少は録音した声も使う一人芝居ですけど、練られた脚本と、絶妙の間合いで進めていく演技。脚本と出演の両方をやったフィービー・ウォーラー=ブリッジはべらぼうに頭がいい人ですね。最後にきれいにつなげたかと思ったら落ちも用意して、これがイギリス流かという一本でした。

ただひとつ惜しいのは撮影された当日の客の反応で、なんか全体に笑いを待ち構えているようなところがありました。調べたら、これはもともと2013年のエジンバラ演劇祭で上演した10分の一人芝居が元になっていて、そこから2016年と2019年のBBCのテレビドラマがあって(この脚本と主演も同じ)、そのうえで2019年の今回の一人芝居になったようです。だからテレビドラマでお下品なノリを知っていた観客がそれを期待して、そらきた、と笑っていたみたいです。笑いだすのが早すぎるんですよね。

たしか柄本明だったと思いますが、売れてしまって何をやっても観客が笑うようになってしまったら終わりだ、と言っているのを読んだことがあります。それを読んだときはよくわかりませんでしたが、はからずも実例を見て、なるほど、これでは考えつくされた脚本と演技がもったいないというのがわかりました。

2023年7月16日 (日)

National Theater Live「ハムレット」

<2023年7月15日(土)夕>

王である父を亡くして悲しみに暮れるデンマークのハムレット王子。それから二か月しか経っていないのに母が叔父と再婚を決めてさらに悲嘆していた。だが父王の亡霊を見たと夜警の兵士から教えられて見張っていると、はたして父王の亡霊と出会う。叔父に毒殺されたのだと伝えられたハムレットは、叔父に復讐を果たすために狂人を装って機会をうかがう。

オセロー」を観たらアンコール祭りをやるとのことで見物。衣装や役や小道具で若干の現代風アレンジがされているけど、まあ丸ごとハムレットのはず。一部の役で黒人の役者が起用されたり女性に置きかえられたりしているのは、なかなか今様なのだろうなと。

ベネディクト・カンバーバッチ主演と言われてもピンとこなかったけど、確かに主演を務めて最後までテンションを切らさないところはさすが。殺陣をつけているとはいえ最後の決闘は結構危なく見えてどきどきする。ただ今回だと、一番の出来は王妃だった。弱きものよ汝の名は女なりだけに収まらない、再婚を決めるまでにいろいろ葛藤があったし今もいろいろ考えているのだろうなと思わせる現代的な役作りですね。僅差で二番目は叔父の新王。卑怯な人物とはいえ、王の弟として育ってきた貫録と、王位の簒奪を狙った人間の強かさ、諦めずに状況を自分の都合のいい方に持っていこうとする粘り強さを見せてくれた。ハムレットも十分よかったけど三番目ですね。次が僅差でオフィーリア、また僅差でレアティーズ。

あとは映像で観ていると意識しづらかったけど、長い一幕の終わりに舞台を汚して、二幕はそのまま演じる美術はすばらしかったですね。外の場面を外っぽく見せつつ、屋敷の場面は崩れていく王家の荒廃した心象につなげる。始まる前にわざわざ美術も名前を紹介していましたけど、なるほど会心の美術でした。あれは1日2公演できるんだろうか。

で、やっぱり字幕で観ると余分な台詞の修飾が減って、理解が進みます。かっちりと王家と忠臣一家と友人の関係を描いた演出に、はっきりした字幕で、ようやくハムレットの物語を理解した気分になりました。字幕でたぶん2か所誤植があって、それが惜しい。

なるほど四大悲劇に数えられているだけのことはある、とわかって大満足でした。

2023年7月 2日 (日)

National Theater Live「オセロー」

<2023年7月1日(土)夕>

ヴェニスで将軍を任されているムーア人のオセロー。上院議員ブラバンショーの娘デズデモーナと愛し合い、ふたりはブラバンショーに内緒で結婚したが、デズデモーナが本気のためしかたなく結婚を認められる。直後にキプロス島を守るためにオセローが派遣されるが、結婚したばかりのデズデモーナも付いていく。キプロス島は嵐のために敵の船が引返して無事だったが、嫌いな将軍にいいことが続く旗手のイアーゴーは、副官のキャシオーがデズデモーナと密通をしているとオセローに吹込み、両者の追落しを狙う。イアーゴーが自分の妻エミーリアに手に入れさせたハンカチのためにイアーゴーの言うことを信じてしまったオセローは嫉妬に苦しむ。

シェイクスピアの中でも観たことのない演目だったのでこの機会にと鑑賞。衣装がモダンでスタイリッシュな舞台だけど、脚本は一応原作通りなのかな? 芝居で観るとシェイクスピア特有の良くも悪くも回りくどい台詞を追うのに苦労することがあるけど、字幕頼りで観たらこれが随分とわかりやすくて今っぽい。なるほど、四大悲劇と言われるだけのことはある。内容の是非を問わなければ、この芝居はタイトル役のオセローより敵役のイアーゴーのほうが役としては「おいしい」ですね。

今っぽいのは現代の問題を反映させてそういう演出にしたと幕間の裏話で話していた。イアーゴーの妻エミーリアが後半に後悔するところはMeToo運動なんかを踏まえたらしく、短い出番ながらも激しい主張。あとイアーゴーがオセローを陥れた理由を問われた最後のあたりは、人種差別の意図。幕間の裏話によると黒塗りの役者が白人のデズデモーナ役とキスするのが大騒ぎになったこともあるんだとか。

だとしても、全体にすっきりと観やすい話だった。役者に外れはないので落着いて観ていられる。これも幕間の裏話によると周囲に座っている役者のリアクションも演出をはっきりさせるために効果的だったらしいけど、映像だとそこは一部しか観られなかったので、効果は不明。

全体によくできていたので、迷っている人なら観て後悔はないでしょう。

2023年1月 9日 (月)

National Theater Live「レオポルトシュタット」

<2023年1月9日(月)昼>

オーストリアに住むユダヤ人の家族。迫害から逃れて暮らすウィーンで長男がキリスト教に改宗してまで努力して成功者になったメルツ家と、父母は田舎に暮らすが子供たちがウィーンに出てきてメルツ家の長女と縁戚関係になったヤコホヴィッツ家。交流の多い両家が、メルツ家でクリスマスを祝う1899年から、1900年、1924年、1938年、1955年を通じて、一族の歴史を辿る。

舞台収録を映画館の鑑賞に堪えるように映像化したNational Theatre Live。日本公演を先に観ていたのが予習になって、展開を追う以上の余裕を持って観られました。場面ごとに子供の役者が大人の役者に交代することは、外国人の顔をそこまで細かく見分けられないと割りきって最初から見た目で追うのを諦めたら話に入れました。

で、やっぱり当事者としてユダヤ人の歴史に関係している本場は強かったです。超がつくオーソドックスなストレートプレイで何なら日本公演とほとんど変わらない演出でしたけど、声に迷いがありません。特に序盤の言い争いが力強い。座組全体で脚本の理解と演出の方向決めが揃った仕上がりでした。がっちり仕上がりすぎて観終わった後に少し気分が悪くなりました。

海外贔屓でためにするということではなく、ユダヤ人問題はやっぱり日本人には縁が遠いという話です。

今回観て気がついたことをいくつか。

現地演出だと場面転換で当時の写真をスクリーンに大量に映すのですけど、現実にもこういう出来事があったんだと伝えるのと同時に、あれだけ大量の写真を入手できるあたりが舞台となった本場だなということ。

最後に家系図を伝えるところが、1幕最初のエミリアのアルバムの写真に写る人物の名前を忘れてしまうという話とつながっていること。これは日本公演でも気がつくべきでした。ちなみに家系図も何回かスクリーンに映す演出です。

あとヘルマンは時間が経つごとにはっきりと態度を変える演技で、これが日本公演と一番印象の違う役でした。最初の立派な押出しから、妻の浮気相手を前にして怯んでウィーン社会に幻滅してしまうところ、そして最後に息子をアーリア人にするためにかつての妻の浮気相手に大金を払って一筆もぎ取っておいたことを自慢気に言うところ。おそらくこの一筆もぎ取っておくあたりが、良くも悪くもユダヤ人はしたたかだというのが現地の理解で、でもそう振舞うところに押しやったのは浮気相手の将校で、みたいな連想を誘う演技でした。

逆に日本公演で良かったのは、ナチスの将校がアルバムを踏みつける場面ですね。あれはあの場の力関係以上のユダヤ人の立場を表す象徴的な演出でした。現地だとそこまでやるとくどくなるのかもしれませんが、日本人の自分にはわかりやすかった。

笑える場面はほとんどないのでこれから観に行く人は体調万全で臨んでください。休憩なしなのでその点も注意。

2022年6月26日 (日)

National Theatre Live 2021「リーマン・トリロジー」(2回目)

<2022年6月26日(日)昼>

おかわり

1日1回上映ということもあってか、土曜日は前売完売でした。この日も最前列端以外は埋まっていました。この映画館は2スクリーンしかないのに、4時間コースの上映を突っ込んでくれたわけですが、この週末の興行については報われたかと。

前回は字幕を追って台詞がほとんど耳に入っていなかったので、今回はなるべく英語の台詞を、調子だけでもと聴いてみました。やっぱり普通の英語じゃないですね。英語素人が聴いてもわかるくらい、口語でなく文章っぽい、それも凝った文章っぽい英語でした。つまり詩ですね。

そしてツイストからのラスト、2度目だけど前回よりも諸行無常を感じざるを得ない。こういう感覚は西洋にもあるんだなと今さら思いました。

見直せたので悔いはない。すっきりしました。