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2022年7月 2日 (土)

2022年上半期決算

恒例の決算、上半期分です。

(1)松竹製作「三月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

(2)加藤健一事務所「サンシャイン・ボーイズ」下北沢本多劇場

(3)小田尚稔の演劇「是でいいのだ」三鷹SCOOL

(4)新国立劇場主催「ロビー・ヒーロー」新国立劇場小劇場

(5)イキウメ「関数ドミノ」東京芸術劇場シアターイースト

(6)日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」下北沢本多劇場(1回目)(2回目

(7)松竹製作「六月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

(8)鵺的「バロック」ザ・スズナリ

(9)新劇交流プロジェクト「美しきものの伝説」俳優座劇場

以上9公演10本、隠し観劇はなし、すべて公式ルートで購入した結果、

  • チケット総額は81750円
  • 1本あたりの単価は8175円

となりました。なお各種手数料は含まれていません。

観ている本数の割りに単価が高いのは歌舞伎2本のせいで、それを除けば単価5000円弱です。やっぱり歌舞伎は高くつきます。

また今シーズンは映画館で観る芝居映像に初挑戦しました。

(A)National Theatre Live 2021「リーマン・トリロジー」(1回目)(2回目

と同じものを2回繰返しました。こちらは

  • チケット総額は6000円
  • 1本あたりの単価は3000円

です。各種手数料が含まれていないのは同じです。

自分の都合から振返ると、1月2月は新型コロナウィルスの第6波で引きこもり、3月に減少傾向になってきたので観始めたものの、4月5月は忙しいのと観たい芝居が公演中止になったのとでタイミングが合わずにまた減って、5月後半から6月で取返したのが主な傾向です。この中で思い入れがあって明確に観たいと願ったのは「ドライブイン カリフォルニア」です。このブログを始めることなった芝居だからです。

芝居を観始めたころは、今はなき「えんげきのぺーじ」というWebサイトに感想を書込んでいました。私の「六角形」という管理人名も「えんげきのぺーじ」で使っていたハンドルネームです。その後ブログが登場して、早い人たちは自分のブログを開設して感想をまとめていました。「ドライブイン カリフォルニア」の再演を観たのがそのころです。観終わった後、この面白さを長さを気にせずに書きたいという想いと、書いた文章は他人の管理するWebサイトにまかせるのでなく自分で所有したいという想いと、両方に突き動かされてブログを開設しました。

やりたくないことは多くてもやりたいことの少ない自分が、明確にやりたいと自覚して行動に移した数少ない事例です。そのような情熱をかき立ててくれた芝居として長年片思いして、それが高じて今回2回も観てしまいました。18年前の芝居を観て当時と同じくらいの満足感を得られたということは、当時でも高かったクオリティよりさらに高いクオリティで上演してくれたことになります。満足しました。当時と今回の関係者に感謝です。

SNSがあまり好きではなく今でもブログに書いているのは、「長文と所有」というこのときの想いが続いているからです。当時は18年も続くとは考えませんでしたが。その後、長い文章をブログでは書けるので短く表現できるようになりたいという願いが増えましたが、それは同じ内容をできるだけ端的に的確に表現したいという願いであり、140文字など決まった上限に収めたいという欲とは違います。

ちなみに「えんげきのぺーじ」は短文感想の自由投稿欄が、今でいうメインコンテンツでした。最初は文字数制限がなかったところ、長文感想を書込む人が増えたので、1本200文字くらいの文字数制限が導入された記憶があります(曖昧)。私は今も昔も文章が長くなりがちなので、なるべく短い文字数でたくさんの感想を書けるように、新聞の三行広告のような文体で書込んでいました。あのころの文体が今に残っていますね。今期だと(4)(7)(8)あたりにその名残があります。自分の文章の癖がいったいどこから来たんだと悩んでいたのですが、あのころの短文感想が理由だったかと思い至りました。時期によってムラがあってもブログを続けている理由のひとつに文章が上手くなりたいという願いがあったので、癖の由来に気がついて、この文章を書きながらちょっと感動しています。

ただ、本当に文章が上手くなりたかっただけなのかな、と改めて考えています。そもそも書きたいことがないのに文章の巧拙だけを問うてもしょうがなく、書きたいことがあって始めて文章の技術が必要になるのですから。

「ドライブイン カリフォルニア」の再演を観たときと同じ情熱を等しくすべての芝居に持っていたわけではない、それでも文章を書いていたのは自分の気持ちを整理して把握したいためであり、文章欲とは重なるところもあるけど似て非なるものだったのではないか。そんな基本以前の話を今さら考えています。

(9)を書いたとき、これは何日がかりになるだろうと身構えていたのですが、1日であっさり書けました。書きはじめるまでに2日ありましたし、それなりに時間はかかりましたが、書きたいことは初稿で書きだせました。文章が上手くなくとも、書きたいことがあっさり書けた経験を通じて、文章力の上達とは違うところにも自分の欲がありそうだと気が付きました。私が欲していたのは自分の気持ちを整理することで、その手段としての言語化や文章化とごちゃ混ぜにしていたようです。文章が上手くなりたい欲は間違いなくあるのですが、気持ちを整理したい欲はそれ以上に大きかったです。

振返ってみれば、観た芝居の好き嫌いを本当に自分の気持ち通りに判断できるようになったのはここ数年のことです。ブログに書いた後でいや待てよと悶々とすること幾たびか。そう言えるようになるまで本当に長かった。それが行き過ぎて、芝居自体の感想にとどまらず、メタな周辺情報が増えたよじれた感想が増えました。安からぬ木戸銭を払っているのだからもっと積極的に芝居に没入して楽しめばいいのにと自分で自分にツッコミを入れる日々です。一方で、周辺情報も含めた妄想を刺激するところまでが木戸銭の対価だと主張する自分もおり、そこは性分だとあきらめています。

そんな気分で上半期の芝居一覧を眺めると、新作が1本もありません。一応(4)は日本では初演だと思いますが当然公開は海外初演、他は古典も現代劇も再演ものばかりです。さらに大半は過去に観たことのある芝居です。気になっていたものをもう一度観るのはかまいませんが、初挑戦要素が少なすぎです。ならばそれが悪いか。そうでもない、むしろこれでもいいんじゃないかと最近は思えます。

好感度の高かった芝居を取上げると、過去の感想の疑問が解決できたり前作からの半分続きだったりで見納め気分になれた(3)(8)、お手本のようながっちりとした構成にぴったりのキャスティングを実現した(4)、ようやく観られてこれぞ新劇と堪能した(9)、そして上にも書いた通り思い入れのあった(6)、です。1本選ぶなら思い入れ抜きでも小劇場が生んだ名作と呼べる(6)、僅差で次点が(9)になります。

あとはやっぱり(A)ですね。西洋芝居は、古典はいざ知らず、近現代の芝居は(4)のようにはっきりしたテーマとがっちりした構成を持ったもの、あるいはエンタメに徹したものの両極端が多いと思っていました。が、会社の発展と倒産までを創業者一族の視点で描いて、雰囲気と余韻が支配する(A)のような芝居が大成功するあたり、偏見だったと反省します。原作はイタリアとのことで、やっぱりヨーロッパの文化は奥が深いです。舞台映画1本目にして緊急口コミプッシュを出して、思わず2回観てしまいました。

打率はそこそこ、当たった時の満足が大きい、さらに過去に気になっていた芝居がいろいろ観られた、本数は少なくても結果として満足、が上半期の総括となります。

あとは下半期に向けてです。ストレートプレイはミーハーに演目に選んで、古典やミュージカルを増やしてもよし、他の趣味の割合を増やしてもよし、もう少し肩の力を抜いて気楽に芝居を観ることが今後の目標です。目標に掲げている時点で力が抜けていないのが難点です。

新型コロナウィルス前は3年連続50本以上、2019年は63本観ました。観るのが仕事の人、まだ見ぬ才能を探す業界人、あるいはこの業界を目指して目と耳の修行をする人なら年間100本が目安のひとつとは以前から考えています。でも趣味で観る人には100本どころか50本でも時間と金と体力が一苦労です。年間の本数がそこまで多くない代わりに観ている年数が長くなったので、日本語のストレートプレイなら一般観客として最低限の鑑賞力は身に着きました。なので、本数を追うことは控える方針です。なお過去にも似た宣言をした覚えがありますので話半分で読んでください。

ただし鑑賞力とは別に選球眼という軸があって、一般観客には観ている演目を味わう鑑賞力よりも、好みに合う演目を選ぶ選球眼のほうが大事というのが最近の自分の意見です。これこそ養うためには本数が必要だったのですが、今後数年単位で観る本数が減ったら選球眼が維持されるか衰えるかは気になります。

芝居以外の話題だと、半年前に書いた話の続きですね。表現の自由を巡る話は、今まさに参議院選挙の最中で現在進行形です。新型コロナウィルスは、落着くかと思ったら次の変異株なのか人の移動が増えたのか、また陽性者が増加傾向にあります。戦争の話は、ロシアとウクライナは始まってしまいましたが、そこが難攻したせいか中国は自重していますので自重が続くのを願うばかりです。ただし物資物流の混乱はもうしばらく続きます。これらに加えて、新型コロナウィルス以外にサル痘の話、酷暑と電力の話、秋口以降の食料品事情がどのような形になるか、あたりがいま挙がっている話題です。

それでも日常は続きます。その合間をぬって、不要不急の文化で息抜きをして、また日常を生抜ければと願っています。引続き細く長くのお付合いをよろしくお願いします。

2022年6月26日 (日)

National Theatre Live 2021「リーマン・トリロジー」(2回目)

<2022年6月26日(日)昼>

おかわり

1日1回上映ということもあってか、土曜日は前売完売でした。この日も最前列端以外は埋まっていました。この映画館は2スクリーンしかないのに、4時間コースの上映を突っ込んでくれたわけですが、この週末の興行については報われたかと。

前回は字幕を追って台詞がほとんど耳に入っていなかったので、今回はなるべく英語の台詞を、調子だけでもと聴いてみました。やっぱり普通の英語じゃないですね。英語素人が聴いてもわかるくらい、口語でなく文章っぽい、それも凝った文章っぽい英語でした。つまり詩ですね。

そしてツイストからのラスト、2度目だけど前回よりも諸行無常を感じざるを得ない。こういう感覚は西洋にもあるんだなと今さら思いました。

見直せたので悔いはない。すっきりしました。

新劇交流プロジェクト「美しきものの伝説」俳優座劇場

<2022年6月25日(土)夜>

国として活発だった大正時代。西洋に刺激された政治活動、女性解放運動、小劇場運動で、それぞれ活躍していた当事者たちの活動と交流の日々を描く。

有名なので観たいと願っては見逃し続けて、ようやく初見。追加公演で◇の配役(モナリザ=安藤みどり、サロメ=畑田麻衣子、尾行=星野真広)の日程。ものすごくよくできた脚本を、この上なく丁寧に仕上げて、これが初見でよかったと言える1本です。そしてそれだけに、芝居ではなく当時の実在の登場人物たちの意見に物申したくなる1本でした。

先に芝居の感想です。最近では昭和大正の再現なんて困難なところ、その雰囲気が受継がれている新劇の劇団が公演することで、非常に統一された仕上がりでした。劇場にもポスターがあった通り初演は文学座だし、登場人物のうちの小劇場運動関係者はさかのぼれば今回上演した各劇団のルーツです。いい悪いを超えてこれが本家による公演だというある種の正解感がありました。

それを実現した役者陣は新劇系の役者が並んで、普段新劇の劇団をあまり観ない自分には新鮮でした。その印象は「探せば名手はいるものだけど、こんなに名手が大勢いるとは知らなかった」。堺俊彦役の能登剛が出版社内で相手を軽くいなしつつ何となく腹で別のことを考えていそうな調子とか、久保栄役の古谷陸が劇団活動を批判する台詞の圧を島村抱月役の鍛治直人が少ない相槌で受けるくだりとか、今どきの芝居ではなかなか観られない場面です。

やっぱりですね、小劇場活動の元がスタニスラフスキーだメイエルホリドだと言っても、長年のうちに独自の演技メソッドが育ったのが日本の新劇劇団だと思います。たとえて言うなら楷書の演技。真面目な台詞はもちろん軽い台詞にも、いい意味で重さがあります。今回の脚本にもあった通り新しい演劇を志向するところから始まって、やがて日本人による日本を描いた脚本を上演しつつ、シェイクスピアその他の海外名作の翻訳も並演した歴史。これを言い換えると、今どきの目線では不自然な台詞でも成立させられるよう意味を込めて発声できるようにと格闘した歴史の成果です。さらに脱線すると、現代の小劇場出身の役者は、これもいい意味でもっと軽く自然に台詞を言う技術が磨かれた人が多いです。そういう脚本が増えたのが主な理由とみます。

話は戻って、観ていて安心できたもうひとつの理由がビジュアル面です。特に衣装や大道具小道具などに抜かりがないのは、開演してまもなくわかりました。着物がもはや時代劇の衣装になっている昨今、きっちり仕上げてくれたのは新劇の歴史あってのことです。

これらをまとめた演出は鵜山仁。見る人が見れば演出の癖があったのかもしれませんけど、もともと脚本を丁寧に演出する人です。観た感想では変にいじらずにきっちり立ち上げました。それでいて、必ずしも登場人物を全面肯定した雰囲気に流れず、落着きも感じられました。1968年の初演から半世紀、ここで書かれた大正時代からだと1世紀。脚本に希望として描かれた内容がその後どうなったかの回答はある程度出ています。座組の中でこの脚本の内容に目を輝かせる人ばかりではないのでしょう。演出が目指したところは不明ですが、結果として過剰な時代賛歌にならず、登場人物とその持論を立ち上げるところにつながっていました。

新劇合同プロジェクトとして取上げられるのにふさわしい脚本であり、またそれに見合った仕上がりに満足しました。

とここまでが芝居の感想。ここから先が芝居に出ていた登場人物の持論について。

芝居の出来がよく、登場人物とその持論が立ち上がったからこそ、その持論の欠点も見えてきました。

たとえば政治活動。社会主義者の多い登場人物ですけど、人によって多少の違いはありながら共通しているのは反政府ということ、そして打倒した後のことについて無責任であることです。大杉栄が「政治はトーキングよりアクション」「無政府主義者は政府を打倒したら野に下れ」という台詞がありますけど、無責任の極みですよね。打倒したからには運営して責任を引受けろよ、倒すところだけ楽しんで食い逃げするなよ、と。台詞をもじるなら政治はトーキングでもアクションでもなくオペレーションです。十二国記を読んだことがある人なら「責難は成事にあらず」で通じるでしょう。

女性解放運動も色恋沙汰の話はちょっと皮肉の入った台詞があちこちにありますがそれは置いておいて、松井須磨子の自殺の話題。その理由のひとつに観客の目になぶられて(大意)というくだり。そもそも江戸時代から役者の不行跡は瓦版のネタなわけで、そういう興味の目で見られる職業に乗込んできたら、初の女優だから芸術だからといってもしょうがないわけです。芸だけを評価してもらってしかも食える道なんて、並大抵の人が到達できるものではありません。昨今でこそ、SNSの発達であまりに直接的な悪口雑言が増えすぎて控えましょうと言われていますが、大勢の賞賛だけを集めて興味や非難は止めてくれなんてそんな美味い話はありません。ふたつよいことさてないものよ、ですね。

で、小劇場運動。新しい演劇を広めたいという意気込みと表裏一体で、どうしても観客を啓蒙するという意識がついて回るのですね。大きなお世話です。観客のひとりひとりに生活があり、時間を割いて木戸銭を払って芝居を観に来る。そこにエンタメを求めて何が悪かろうというものです。これを両立させるために島村抱月は、少人数を相手のサロンでは芸術的な芝居を上演しつつ、大劇場では一般受けする興行で稼ぎ、それを芸術と興行の二元論と言っています。ひとつの方法です。感想に書いた場面では、島村抱月の活動を矛盾していると久保栄が批判していますが、半分あっていて半分間違っています。そもそも趣味に啓蒙すること自体が大きなお世話だからです。

政治と言わず演劇と言わず、あらゆる分野で新しいことを始めたいなら「俺の言うことは楽しい、君たちにはこんないいことがある、だから俺に任せろ」で誘うべきところです。それを、雑に左翼と書きますが、左翼思想が強ければ強いほど、「俺の言うことが正しい、お前らは無知で間違っているから俺を認めて従え、でも後のことは知らん」の3拍子になります。了見が間違っています。こういっちゃ何ですけど、この間違った3拍子の了見は今の左翼に全部残っていますね。

亀戸に引っ越した伊藤野枝の台詞に「下町に引っ越したらみなさん荒っぽいですけど気の置けない人たちですのよ」なんてのがありますけど、こんな人たちの唱える民衆とは何なのか。よく聴くと実に微妙な台詞がそこかしこに散りばめられています。散りばめられているというとちょっと違いますね。そのつもりで読んだら芝居の意味が反転するように、登場人物の典型的な主張を取上げて煮詰めた台詞で脚本を書いたというほうが正しい。演出次第でどちらにでも上演できる点で、おそろしく完成度の高い脚本です。

そんな中で一番直接的な表現が、ロマン・ローランの引用である「民衆が幸福なら、広場の中心に杭を立てて花を飾れば人が集まり祭りが始まる。このような幸福な民衆に芸術は不要である(大意)」です。感想に書いた久保栄が島村抱月の劇団活動を批判する時に出てきます。脚本では「だけどそのような幸福に民衆は永遠に到達できないので、芸術は常に必要である(大意)」とも続きます。私にはこの場面が「誰も民衆の幸福を実現できなかった」と聴こえました。

初演の1968年は第二次世界大戦後です。戦前の理想論も敗戦後には空論にみえたでしょう。だけど新劇の歴史は紡がれたし、敗戦してなお自分たちの生活もここにある。だからここに取上げたような活動が、そういう理想論を本気で信じて活動していた人達が美しく見える。なんならこのうちの何人かは処刑されたからこそ、より美しく見えた。初演の時点で美しく見える時代だった。それは関係者には語り継がれる伝説であり、内実は空論の伝説だった。「美しきものの伝説」はそういう両面を含めてつけられた題である。脚本家の意図は知りませんが、私はそのように受取りました。

ここまで感想の射程圏が広がったのは、一にも二にも芝居の出来がよかったからです。ものすごく考えさせられました。登場人物の当時の主張を批判することと、芝居の出来が良くて褒めることは両立します。美しく力強い仕上がりだったことは、あらためて記載しておきます。

<2022年6月27日(月)追記>

全面改訂。

日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」下北沢本多劇場(2回目)

<2022年6月25日(土)昼>

おかわり

もう一度観ておきたいなと願っていたら都合のいい日程で良席が確保でき、公演初日直後と東京千秋楽直前の1か月で何か変わるかも興味があって、珍しい二度見です。

ネタの場面に多少アレンジというかアドリブがあったみたいだけど、驚くことにほとんど変わっていなかった。この変わっていなかったというのは、初日直後で観た時点でほぼ完成したクオリティで提供されて、それが1か月後もダレていなかったことを指します。構成のしっかりした脚本だからやりやすいだろうし、プロならそれができて当たり前と言えなくもないけど、やっぱりすごいです。

麻生久美子が学生から現在まで声色を変えて幅広く演じているのにも今さら感心しましたけど、阿部サダヲがあのテンションをきちんと出し続けていたのはもっと感心しました。

他の役者も含めて、脂の乗りきった仕事ですね。いい時期にいい再々演が巡り合った公演でした。

2022年6月13日 (月)

National Theatre Live 2021「リーマン・トリロジー」

<2022年6月11日(土)夜>

19世紀半ば、ドイツからアメリカに移民してきたヘンリー・リーマンと、後を追ってやってきた2人の弟。南部に店を構えて、生地を扱う店から綿を農場から工場に売る卸に、さらにニューヨークに進出して綿取引を手がけたところから商売を広げて金融機関になり、21世紀に破綻するまでのリーマン一族とリーマン・ブラザーズの経営を描く。

舞台収録を映画館の鑑賞に堪えるように映像化したNational Theatre Live。知っていたけど観たのは初めて。2019年にロンドンで上演されたものだけど、芝居の面白さと映像化の上手さと、両方にびっくりした。

そもそも書籍が日本語翻訳されて、面白いらしいと評判を見かけたのが「リーマン・トリロジー」を知った最初。本屋で手に取ったら2段組みで辞書みたいな分厚さ、しかも全部3行ずつ書いてあって、トリロジーだからそういう形式なのか、さすがに無理だとその時は手を引いた。そのあとでNational Theatre Liveがあるのを知ったけど、観に行ける範囲の上映は終わったあと。さらに評判を見かけてうわーもったいないと思っていたら今回リバイバル上演ということでようやく観られた。「トニー賞ノミネート記念」らしい。

今回の特別上映は、ブロードウェイ版「リーマン・トリロジー」に出演したアダム・ゴドリー、サイモン・ラッセル・ビール、エイドリアン・レスターの3人が今年、それぞれにトニー賞の主演男優賞にノミネートされたことを記念して行われるもの。なおこのたび上映されるのはロンドンで上演されたオリジナル版となり、レスター役をベン・マイルズが演じている。

それで知ったのは、原作はイタリアのラジオドラマで9時間あったということ。そりゃ2段組みで辞書みたいな分厚さになる。そこから芝居用に再構築しても、1幕1時間強、2回休憩を挟んで3時間40分の超大作になるのはしょうがない。

で、舞台美術があって役者がいて、芝居っぽい場面も当然あるけど、どちらかというと動きながら詩を朗読していると表現したほうが近い。創業者である3人兄弟がアメリカに移民してきたところから始まる3世代を3幕で描く壮大な物語で、そういうところもトリロジーなんだろうけど、これをおっさん3人だけで演じるのがまたすごい。

ひとり複数役が特別に珍しいというわけでもないけど、とにかく常に誰かがしゃべっている。しかも一度台詞担当になると長い。なのに普通に見えて、こちらも普通に観ていられる。途中でようやく、これはハイレベルすぎて普通に見えるんだと気が付く始末。芝居っ気が混じっても朗読要素が多いので、よほど台詞をしっかり言えないとこの長時間は持たない。日本だと橋爪功クラス。それが3人。

これで描かれる話が、やっぱり面白い。生地から日用品に取扱いを増やす、火事になった農園を助ける代わりに収穫される綿で支払を求める、綿のまま取引するのが儲かるなら他の農園にも取引を広げる、と機を見るに敏な商売人の魂。なのに、というかだからこそ、耳元を冷たい風が吹いて自分の時代が終わったことを悟ってしまい次世代に席を譲る時。その代替わりを経て堅実な現物商売から金融取引に移行する過程。「我々にとっての小麦は金です」とかしびれる台詞。物語の強度に役者のレベルがつりあって、それを生かす最低限の美術と音楽。字幕も字数短く抑えて読みやすかったけど、英語がわかる人が観たらもっと楽しかったんだろうなと思うとちょっと悔しい。

映像化の違和感が全然ないところもすごかった。テレビで舞台映像を観るときにいつも残念なのが音声で、ホールの遠くから録音している感じが劇場とは違いすぎるところ。これが今回、劇場で生の役者を観ているのと同じくらい違和感がなかった。実際には劇場よりもクリアで、音声の録音がクリアなのは理由のひとつ。だけど、おそらく役者ごとに録音した音声を、場面ごとに役者のいる位置から聴こえるように音声の位置を合せていたんじゃないかな。テレビよりも映画館だから合せやすいだろうとは思うけど、そこまでやったらその分の手間は当然かかっているわけで、どうだったんだろう。少なくとも臨場感のある音声だった。ほとんど意識しないで聴ける音声はすごい。

上映時間が普通の映画の倍のせいか、入場券が3000円だったけど、惜しくない。やればここまでできるんだぜとハイレベルな仕事ぶりを見せられて堪能した1本。大満足。

<2022年6月14日(火)追記>

全面改訂。

鵺的「バロック」ザ・スズナリ

<2022年6月11日(土)昼>

娘が放火して屋敷が火事になり行方不明になった名家。ひとりだけ生き残った妹は屋敷を再建し家庭を持つも、怪しい雰囲気の消えない屋敷を敬遠した家族は結局別の家に暮らして屋敷は空き家となる。やがて病気になり余命いくばくもない妹は、屋敷の解体を了承し、子供たちと一晩を屋敷で過ごす計画を立てる。集まった夫も子供たちも不満や不安を抱えて一家団欒とは程遠く、悪天候で外出もままならない中で、屋敷の不思議な現象に巻きこまれる。

新型コロナウィルスの初期に上演された芝居の再演で、その前に上演された「悪魔を汚せ」に近いテイスト。その数十年後の続編に見えるけど、姉妹関係や屋敷の場所が違うみたいだから別設定で、これ単発で観ても楽しめる。

前回は「金田一耕助も警部も出てこない金田一耕助モノ」という酷い話だったけど、今回はホラー要素のある酷い話ベースにしつつ、救いのある描写に落着いた。そうは言っても酷い話なので勢いが重要なところ、テンションの高さで最初から最後まで押切ることに今回も成功して、楽しめた。ただ、脚本でラストがちょっと長くて間延びしたところも前回と同じで、あれはもったいなかった。

スズナリだから場面転換で美術を動かすなんてことはできなくて、屋敷のロビーだけで展開される。だけど場面数のやたら多い脚本。これを実現するのが、決して広いとは言えないスズナリに目いっぱい建込んで奥行きも出した2階建ての舞台と、それを生かしていろいろな場面を切りかえるための照明と音響。ホラーなんてうっかりするとギャグになるところ、今回成功した理由の半分くらいは劇場の限界まで挑戦したスタッフワークで、前回以上に感心しきり。

<2022年6月14日(火)追記>

全面改訂。

2022年6月 6日 (月)

松竹製作「六月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

<2022年6月4日(土)昼>

妻と母の不仲に悩まされるも戦の才と忠誠心あふれる家臣に恵まれた信康が織田信長の勘気を受けて謹慎を命じられる「信康」。山王祭の江戸で芸者や鳶たちが踊りや芸を披露する「勢獅子」。

時間の都合で第三部が観られず、ならばと第二部に挑戦。

「信康」は染五郎が歴代最年少の17歳で信康を演じるのが目玉だったけど、「役者は声」派の自分には残念な出来。どれだけ見た目に凛々しく大声が通っても正直な声が出ていないのは駄目。役作りをどれだけ頑張っても声で結果が出せないのは駄目。贔屓のアイドルの初舞台なら温かい目で見守っても高麗屋でこれは駄目。信康、信長双方の家臣役や徳姫など正直な声の出せる役者が揃っているので、この公演の最中に吸収してほしい。家康の白鸚の活舌が衰えすぎなのも厳しかった。去年の弁慶では体力はまだしも活舌が悪いとは思わなかったけど。晩年の家康ならしっくり来たけど、40歳になるかならないかくらいの時代なので、貫禄は十分でも活舌で年齢が狂うのは困る。

「勢獅子」はにぎやかな踊り多数。獅子舞が出ているから正月の演目かと思って調べたら山王祭が舞台でちょうどこの時期の話題。我ながら祭りの季節感に鈍い。

2022年5月31日 (火)

日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」下北沢本多劇場

<2022年5月28日(土)夜>

毎年の竹神様の祭が唯一の楽しみである田舎の、さびれた食堂兼ホテルの「ドライブイン カリフォルニア」。経営者の妹が離婚して中学生の息子と戻ってきた。その息子が事故で死んでしまうが、成仏する前に幽霊となって、母が店で働いていたころからの店と家族の歴史を辿る。

粗筋だけだと何とも味気ありませんが、2004年の再演版を楽しんだ観客として今回も楽しめました。松尾スズキの代表作のひとつに数えられるべき素晴らしい芝居です。出だしが若干固かったけど、途中から乗ってくる大人計画の面々と、大人計画以上に大人計画っぽい熱演のゲスト達とが一体となって繰広げる、悲劇と喜劇の混在や、小劇場感とプロ感の両立。特定の役者やスタッフパートを取りあげるのが忍びない、全方面に底が高い仕上がり。

2004年当時は純粋に笑える場面で笑って、感動する場面で感動していました。今回少し違う感想として、この脚本は誰かを悼む心情で書かれたのではないかと思えるような、追悼の情を照れ隠しの笑いで覆った弔辞のように見える場面が度々ありました。いやまあ、幽霊が振返る設定だし、日本総合悲劇協会名義だから、そう見えて不思議ではないのですけど。役者の熱演ゆえでしょうか。

休憩なしで2時間15分。いい芝居には短時間で密度濃く描くものと、長時間経ったことに気が付かないものとがありますけど、これは後者です。新型コロナウィルスの中止とか起きずに千秋楽まで走りきれることを願います。

2022年5月23日 (月)

イキウメ「関数ドミノ」東京芸術劇場シアターイースト

<2022年5月22日(日)昼>

自動車事故の再調査で保険調査員に集められた関係者たち。自動車が歩行者をはねたはずなのに、歩行者は無傷で自動車が大破、助手席の同乗者が瀕死の重傷となる。関係者の証言を再確認しても原因は不明のまま。話が行き詰って大半の関係者が帰ったところで、目撃者の一人が仮説として提案したのが「ドミノ理論」。世の中には願いが何でもかなう人間が存在し、その願いが通常は月や年単位でかなうところ、今回は思った瞬間に願いが叶う「ドミノ1枚」現象だったのではないかという。提案した目撃者はこの仮説を確かめるためにある手段で検証を開始する。

2014年の再々演2017年の別企画公演に続いて3度目。今回はちょっと仕上がりが粗かった。もともと多少のことは気にならないよくできた脚本だから、過去の脚本で古くなったところやつじつまが不明だったところを手直ししたものの、ほぼそのままです。一番の違いが新しくオープニングとラストを追加したことで、これがいろいろ悪手。普通の人は観て楽しめますが、私には残念でした。以下、ネタバレにならないように配慮した拗らせたメタな感想ばっかりです。観てない人にはまったく参考になりません。

新しく追加されたオープニングとラストは、芝居の解釈の余地を残さない直球のメッセージ。もともとこの芝居は寓話らしさが魅力のひとつで、ラストの異なる2014年版でも2017年版でも余韻が残りました。今回この台詞を受持った安井順平はメッセージを担う十分な出来でしたし、芝居全体の造りもより誤解なくソリッドになっていましたけど、余韻は全部飛びました。ああ、これが「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」ことへの対応の実例なんだと合点がいきました。

演劇は観ている側の想像力も試される余地の大きい表現形式でもあり、だけど生身の人間が目の前で演じることで多少の不明点も何となく通じるところが他の表現形式にはない武器のひとつです。演者と観客との間に第三の舞台が立ちあがるというアレですね。なのにここまで言う。今回は観客の想像力を信じるのを止めたんだと思いました。観客の反応を探る実験なのか時代への対応なのかはわかりません。

メッセージを追加した賛否について1日考えましたが、アリかナシかで言われればアリですけど、好きか嫌いかで言えば嫌いです。ただ、以前の脚本をそのまま上演したら、おそらく好きだけど古いという感想になったはずです。わがままな観客ですね。上演自体を古臭く感じさせないためのアップデートとしては必要だったのかなと思います。難を言えば、メッセージを出す側のポジションが曖昧でした。オープニングの親や教師や上司にっていう台詞、上演側の人たちもすでにそちら側の立場に入っていておかしくない年齢であり、自分たちをどういうポジションに置いてこの台詞を書いたのかは気になりました。

そして、直球メッセージの副作用として、お前らどうなんだというのが出てしまった。初演のころには特に気にせずに書いたであろう設定に、年月が追いついてきた。結果、この追加したメッセージに胸を張ってイエスと言える出演者がどれだけいるかという話です。新型コロナウィルスで公演中止も経験した後ならなおのことです。

それかあらぬか、本来なら劇団員も脚本の設定に近い年齢になって演じやすくなっているはずですが、今回はなんかチグハグ感の残る舞台でした。幕が開いて1週間経っていないといえばそうですが、それにしても仕上がりが悪い。さすがに演出家がもっと磨いておいてほしかったです。ここで話は飛んで、メタな感想もいいところですけど、これが精一杯なら劇団が解散するかもと想像しました。

役者では安井順平と温水洋一、たまに太田緑ロランスがいい感じでした。役でいうと小野ゆり子は、アップデートされたつじつま合わせの中で終盤の説得力の要なので、もう少しがんばってほしかった。後半の浜田信也と盛隆二のかけあいが今回好きな場面で胸を打つものがあって、決して上手くないものの成立させるために上手さだけではなく思いも要求されるところ、あんなやり取りが場面として成立するところが演劇だよなと観終わってから思いました。

2022年5月 7日 (土)

新国立劇場主催「ロビー・ヒーロー」新国立劇場小劇場

<2022年5月6日(金)夜>

ニューヨークのアパートでロビー駐在の夜勤警備員として働くジェフ。毎晩勤務を見回りに来る上司は真面目だが尊敬できる。毎晩のように勤務中にアパートを訪ねてくる警察官は住民の一人に入れあげている。そのパートナーとなった見習い中の女性警察官はそうと知らず頼れるパートナーに好意を寄せている。ある日上司の様子がおかしいのでジェフが尋ねると、弟が警察に逮捕されたといい、何かできることはないかと心配する。パートナーを待つ女性警察官には好意を知らずうっかり警察官が住民を訪ねる目的をばらしてしまい、警察官に睨まれる。

ネタバレを回避しつつ一言で言ってしまえば、論語の有名な一説。むしろ孔子がなぜああ言ったのかを現代のシチュエーションで描いた会話劇。もっと小さいところでは、言いたいけど言えないことが人にとってどれだけ辛いかを描いた話ともいえる。これが4人の会話量かというくらい台詞だらけで休憩込3時間弱の芝居だけど、後ろに行くほど引込まれる力作。

脚本上、上司役が黒人であることが最初はよくわからなかったこと(アメリカの上演なら黒人が演じるから問題にならない)を翻訳で調整できなかったかという願いと、これだけやったのにあのラストは緩くないかという点にツッコミはあるけど、それくらいどうってことないと言えるくらいの脚本だった。親世代の話が遠まわしに土台になっているのが上手い。

駄目な役も愛嬌があって憎めないので、どの役の立場に感情移入するかが観る人によって変わりそう。これは観た人の感想が知りたい。自分はおっさん組の立場に同情してしまった。

場面転換以外で効果音はあっても音楽がないにも関わらずダレさせなかった役者が大豊作。愛嬌のある表情と台詞回しにくにゃくにゃした動きでジェフを演じた中村蒼が、台詞を言っていないときの仕草も含めて目が引かれる。その愛嬌を際立たせるのが上司の板橋駿谷と警察官の瑞木健太郎の(役としてはぶれるけど)ぶれない役作り。見習い警察官の岡本玲は若干硬かったけど終盤の説得場面は素晴らしかった。

桑原裕子演出は久しぶりだったけど、ここまで仕上げて来るとは正直予想していなかったのでうれしい誤算。それを支えたのは万全にして安定のスタッフワークだけど、今回はアメリカ現代劇にも関わらず日本語として違和感をほとんど感じさせなかった翻訳を挙げておく。