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2023年3月14日 (火)

Bunkamura企画製作「アンナ・カレーニナ」Bunkamuraシアターコクーン

<2023年3月12日(日)昼>

19世紀のロシア。公爵の次女であるキティは田舎で領地経営を行なうリョーヴィンと惹かれあっていたが、親の決めた青年将校ヴロンスキーと婚約するためプロポーズを拒否する。公爵の長女であるドリーはすでにオブロンスキーと結婚して子をもうけていたが、オブロンスキーの浮気に激怒する。兄のオブロンスキーから仲裁を頼まれた妹のアンナも子を持つ既婚者だが仲裁のためにモスクワに上京する。ここでアンナと出会ったヴロンスキーが恋に落ち、ペテルブルクまで追いかける。婚約者に逃げられたキティは憔悴し、浮気相手が地元までやってきたアンナの夫カレーニンは何とか事を収めようとする。だがアンナの妊娠が発覚する。

小説を読んだことがない私が超おおざっぱにまとめると、愛と結婚とは何か、という芝居でした。タイトルロールのアンナを巡る三角関係と、ドリーが浮気した夫をどうするかと、キティが果たして復活できるかと、大まかにこの3つの関係で描きます。

ただ宮沢りえ演じるアンナ・カレーニナの役どころがヤバかった。浮気したところまではまあいいとして、モスクワの社交界での扱いに耐えられずに、しまいにはヴロンスキーのことまで疑うようになっていく有様はメンヘルの一言です。宮沢りえの説得力でかろうじて成立するくらいです。

そして一度はドリーに許されたもののまた遊ぶオブロンスキーに対しては、就職口が決まって借金を返す当てはついたものの、ドリーは出て行くことを選びます。

さらにこの演出は、その陰で子供が犠牲になることを描きます。アンナはカレーニンとの間にもうけた息子を引取ろうとしますし息子も母恋しさに父に反抗しますが、ならアンナが引取ればいいのか、カレーニンの何が悪かった、という問題でもあります。

小説は未見ですが、チラシにある「真実の愛を求める人間たち」は、まあ嘘ではないでしょうか。どちらかというと、浮気相手に走ったアンナ、浮気したオブロンスキー、双方に対して突き放した感じのある演出でした。

このドロドロとの対比でひときわ輝いてくるのがキティとリョーヴィンのカップルです。チョークと黒板を使った二度目のプロポーズの場面や、初産を控えて誤解と思い込みで喧嘩するところから仲直りする場面など、言葉を選ばずに言えばバカップルです。なのですが、いいじゃないか小さな誤解くらいと思わせる勢いがあります。ここで振りきった浅香航大と土居志央梨は記録しておきたい。

神父を目指していたリョーヴィンの兄を看取る場面、妻の出産の無事を願って「誰もいない部屋でひとり言葉をつぶやくならこれは祈りではないか(大意)」と気がつく場面、こちらのカップルに色恋を超えて相手を想う愛が描かれます。

個人の意思の尊重が行き過ぎて夫婦も子供も訳が分からなくなった現代社会です。それもいいけど、夫婦と子供という基本のコミュニティについてもう少し考えなおしてみないか、個人の自由と家族を維持する努力とに折合いを付けてみないか、自分で行動できる大人と庇護を必要とする子供との違いに目を向けてみないか。そういう演出だと私は受取りました。最初1時間くらいはとっちらかった座組だなと思っていたのですが、終わってみたら子役含めていい座組に見えた、そういう芝居でした。

私が最近ラノベを読みすぎて「真実の愛」と見ると後ろに「(笑)」が浮かんで見えるようになってしまったで、その点は差引いてください。

ナイロン100℃「Don't freak out」ザ・スズナリ(若干ネタバレあり)

<2023年3月11日(土)夜>

大正から昭和戦前ごろの山奥。精神病院の院長一家が住まう屋敷では、兄が地下に閉じ込められ妻が弟と再婚しているものの、その弟は母親の言いなりで、娘は婚約者と遊び歩き、息子は学校で孤立している。そんな屋敷に住込みで長年奉公する女中の姉妹から見た家族の事情と姉妹の事情。

コンパクトに見えてぎっしり詰込まれたスズナリに不気味な歌まで登場。久しぶりのナイロン100℃はよくできているけどこちらに引っかかることなく終わってしまいました。

精神病院を経営する一家が、他人に対して酷薄で自分勝手でいっそ精神病患者みたいである、という設定はきっちりしています。ただ地下に自分から閉じ込められた(といいつつ・・・)とか、母親が孫に対していじめをした3人の復讐のことだけを覚えておけばいいとか、どことなく新型コロナウィルスの医療機関の振舞を揶揄したような設定ですね。長男は医師会会長(外出制限が言われていた時期にお出かけ報道がありました)、母親が政府の対策委員会(3人は三密を連想させます)、その言いなりの次男が首相(最後とか)、あたりが基本線でしょうか。そのへんはまあ、いいです。立場と意見によって見えた景色も違ったでしょうから。

問題は、全体に役者がつるっと流れてしまったところ。休憩なしの2時間20分でこの筋立てならもっと濃密にできたであろうところ、ほとんど全員の役者がそのまま流れていきました。メインの1人である妹女中の松永玲子とか、他の舞台だったら何かしら残してくれるような役者なのに、あれだけ見せ場もあったのに、あっさり流れてしまいました。姉女中の村岡希美も、他のベテラン勢もほとんど同様。二役をやった入江雅人と、ちょい役の大石将弘あたりには役の体温を感じましたが、そのくらいでした。

半分ホラーなので体温高めで演じられるほうが困るかもしれませんが、まあまあステージ数の進んだ状態でこれってどうなんだというのが終演直後の感想です。KERA芝居だって当たりはずれもあれば、こちらの好き嫌いもありますけど、こんな感想は初めてです。これはこれでアリなのか、自分の芝居の好みが変わってきたからこの感想になったのか。しばらく考えましたけどこれを書いている時点で結論は出ませんでした。

2023年2月23日 (木)

松竹主催「霊験亀山鉾」歌舞伎座

<2023年2月23日(木)夜>

相手を闇討ちにし、敵として追われる身である浪人の藤田水右衛門。その石井家の弟に敵討ちとして見つかるも策を弄して返討ちにする。藤田家ゆかりの者たちに手引きで逃げる水右衛門だが、石井家の関係者がなお敵討ちで追い続ける。

前回の国立劇場から歌舞伎座に移って仁左衛門の一世一代。なんか記憶にある筋書きと微妙に違う気がする。時間を短くするために多少辻褄を合せたのかもしれない。それで仁左衛門の出番もやや減っているような。

仁左衛門は相変わらず悪い役で恰好よかった。ただ前回は今回より良席で観られたという差を考えても、ややパワーが落ちてぎりぎり感がある。ここで一世一代の判断は正しい。その分というか二役の隠亡の八郎兵衛が、特に揚屋の場面がよい感じ。芝翫の源之丞は水右衛門との差を出そうとしたせいかちょっとおちゃらけすぎ感がある。

場面転換で幕を引いた前を使って、狼退治とか瓦版とかをいれることで客を待たせる時間が少ないのは良い工夫。こういうのはもっとやっていいと思うのですよね。

2023年2月16日 (木)

パルコ企画製作「笑の大学」PARCO劇場

<2023年2月11日(土)夜>

昭和戦前。浅草の喜劇劇団「笑の大学」の座付作家は、来月上演する芝居の脚本の検閲結果を確認するために警視庁を訪れる。今月から担当になった検閲官はこのご時世に喜劇の上演はけしからんという堅物。脚本の書直しか上演中止かを迫る検閲官に、座付作家は翌日までの書直しを選ぶ。

名前は知っていたけど観たことがなかった三谷幸喜の再々演二人芝居。無理な書直し指示と、それをかいくぐろうと更新される脚本。粗筋で展開はだいたい想像がつきますね。そして文句なしに面白かったです。

キャスティングは2人ともはまり役でした。座付作家の瀬戸康史は笑わせたがる性分と、何とかしてやろうという根性の両面を表現。検閲官の内野聖陽は度が過ぎていらいらするくらい堅物でありつつ、家族その他の話で奥行きを表現。観たのが日程初期のため2人とも若干固いところが残っていましたが、それがむしろ設定に合って良い方向に作用していました。

シリアスな設定と喜劇脚本という相反する組合せ、起承転結とおもいきや起承転転結の展開、昨今の流行よりやや押さえられた情報密度と展開速度でありつつ1時間50分に収まる無駄のなさ。どこを取っても一級品の脚本に恵まれたキャスティングで、誰が観ても面白い仕上がりはさすが三谷幸喜です。若干難癖をつけるなら音楽はもっと少ないほうがいい、少なくても行けたと思いますが、その辺は好みの範疇です。

昔の上演を観た人は比べてあれこれ言うかもしれませんが、映画も含めて観たことのなかった自分には文句ありません。開演から4ステージ目ですが3割くらいスタンディングオベーションでした。ひねくれものの私でも観終わって思わずスタンディングオベーションで腰を浮かせそうになった出来です。いまさら緊急口コミプッシュを出したりしませんが、大満足でした。

ここまではすぐに思いついた感想で、ここからは蛇足の妄想です。

この芝居は検閲官という役と時代背景を置いていますが、個人的にはスポンサーやいわゆるお偉いさんのことを揶揄した芝居じゃないかと読みとりました。

三谷幸喜は自分の芝居や劇団を、劇場を出た後はなにも心に残らないような芝居が理想、同時代に何も影響を及ぼさなかった劇団などと評しています。この辺りは喜劇好みの三谷幸喜が狙っていた作風でもあるでしょう。

今でこそお笑いが一世を風靡していますが、笑いや喜劇を一段下に見る風潮は、20世紀にはまだ残っていました。個人的には、笑いを目指してつまらなかった時のつまらなさ、くだらなさ、醜さの下限がストレートプレイよりひどくなるという笑いの特性に基づくもので、今でもまったく根拠のないものでもないと考えています。それはさておき。

この芝居の初演はラジオドラマで1994年。劇団は10年目、脚本家としてもキャリアを積んでいましたが、まだ大手を振って威張れる前の時代です。後に「ラヂオの時間」のもとになった脚本を書直された1993年のドラマ「振り返れば奴がいる」の翌年で、古畑任三郎の初回は1994年です。

何を言われようが受入れて書直す、なんならそれでもっと面白くして見せる、という本作の話は、そのころの三谷幸喜の脚本家のキャリアから来た話だと思います。それをそのまま描くわけにはいかないので検閲官という設定まで出てくるある種壮大な喜劇論になってしまいました。が、結果として「劇場を出た後はなにも心に残らないような芝居が理想」を作風とする三谷幸喜としては異色に分類されます。他に観てわかる限りでは、離婚を扱った「グッドナイト スリイプタイト」くらいです。

25年ぶりの上演について三谷幸喜は、似合う役者が見つかるまで上演したくなかったと言っています。それ自体は本当でしょうが、自意識が前に出ている脚本を上演したくなかったという気持ちもあったのではないでしょうか。それを解禁していいと思えるようになった心境の変化がどのようなものかはわかりません。ただ、今後の新作はもっと伸び伸びとした芝居が増えるような気がします

2023年1月23日 (月)

風姿花伝プロデュース企画製作「おやすみ、お母さん」シアター風姿花伝(ネタばれあり)

<2023年1月21日(土)夜>

母と離婚して戻った娘が2人暮らしする家。母が娘に身の回りの世話を頼んでいるが、娘は亡くなった父の残した銃を探している。2時間後に自殺するために使いたいのだという。母は冗談だと思って取り合わないが、娘は自分が亡くなった後の身の回りの始末を進めていく。

今回の風姿花伝プロデュースは母と娘の2人芝居を、実の母娘である那須佐代子と那須凜が演じるという取り合わせ。しんどい会話劇は、客観的な感想だと脚本の読み違えがあったと言いたいけれど、個人的にはむしろそこに見応えがあったというややこしい感想です。2人ほぼ出ずっぱりの熱演なので観た人たちの感想が気になりますが、以下ネタばれで自分の感想を。

母が娘に家事をいいつけたり、自殺前に娘が家事のあれこれを片づけるところから、普段の生活で母がいろいろ娘に依存していることが伝えられます。この過程で、娘はてんかんの発作で子供のころからいろいろ上手くいかず、結婚して息子ももうけたものの夫とは離婚して息子は犯罪で逃亡中で人生になり、薬のおかげでここ1年ほど発作が収まったものの、それで頭が冴えた結果、人生に未練をなくして自殺に思い至ります。

脚本だけ追っていくと、よかれと思っていた母の振舞が娘から自信を奪うことになり、また母自身も自分の人生に我慢や諦めがあったことが明らかになります。ここを見ると、最近の言葉でいう毒親が、娘の行動からその事実を突きつけられて自覚する物語です。母役を演じた那須佐代子はおそらくこの線で役を作っていました。いい出来です。終盤にいろいろ気がついて食堂のテーブルで絶望した顔になる場面は絶品でした。

ただし今回、娘役を演じた那須凜が母役の引立て役に入らなかった。自分が亡くなった後の身の回りの始末をリスト化して積極的に進める様子だったり、ママのせいじゃないと伝える際の伝わらなさがわかっているニュアンスは、これだけきちんとした人でも、むしろきちんとした人だからこそ自殺を選んでもおかしくない世の中なのだと想像させてくれました。初演は1983年らしいですけど、この役作りの線が2023年にしっくり合っていました。

人によって意見はあれど、私は昔より今のほうが余裕のない世知辛い世の中になっていると思っています。特に先進国と呼ばれていた国は。世界が発展して国力が相対的に落込んでいるとか、社会が整う過程で無駄が省かれたとか、理由はいろいろあります。昔のほうがセクハラパワハラ上等でその点では今のほうが進歩しているでしょうし、やりたいことがあってそのパスを探せる人には最高の時代です。ただ、世間に求められるスキルが高くなり、それがこなせない人の就ける仕事や居場所はどんどん減っています。それが長く続いても耐えられる人と耐えられない人がいます。

母の説得に「それはここにいる理由にはならないの」と返すくだりの台詞回しは非常に胸に沁みました。理由なんてなくなってから人生本番なんだとおっさんになった今なら言えます。劇中の母も似たような台詞を言います。それでも自分は世の中に必要ないと考えるその真面目さは、今様の繊細な造形でした。

この線がもう少し掘れればよかったのですけど、残念だったことが2つあります。ひとつは那須凜が生き生きしすぎていて、人生への執着のなさが表現しきれていなかったこと。もうひとつは那須佐代子の役との調整不足で、脚本が求める以上にお互いのやり取りがチグハグに見えたこと。あと一歩で初演から40年後の日本にふさわしいところまで行けそうな手ごたえなのですけど、あと一歩が足りなかった。けど、見応え十分でした。

翻訳と演出は小川絵梨子ですけど、どういう方針で演出を進めていたのかは気になります。ちなみに翻訳だと、娘が母を普段はママと呼ぶところ、タイトルの台詞のところだけお母さんと呼ぶのが、娘の律儀さを最後まで表現していてよかったです。

最後にスタッフです。音響は効果音以外なしです。それで上演時間1時間45分を持たせた役者も凄いですけど、効果音以外要らないと決断できる音響も凄いです。衣装は母が身体にあった服装に対して娘には今どきのだぼっとした服装を当てて、年齢差以上に世代差を強調していました。あと美術は、この風姿花伝プロデュースでは毎回狭い空間に工夫しつつ安いわりに豪華に見える工夫がされています。今回だと家具を多く使って舞台の設営は奥の壁と台所だけ、屋根裏部屋は上手の劇場階段を奥に見せて利用、と毎度のことながら工夫された美術でした。

全部感想という名の妄想ですけど、妄想を誘ってくれるだけの熱演でした。

2023年1月 9日 (月)

National Theater Live「レオポルトシュタット」

<2023年1月9日(月)昼>

オーストリアに住むユダヤ人の家族。迫害から逃れて暮らすウィーンで長男がキリスト教に改宗してまで努力して成功者になったメルツ家と、父母は田舎に暮らすが子供たちがウィーンに出てきてメルツ家の長女と縁戚関係になったヤコホヴィッツ家。交流の多い両家が、メルツ家でクリスマスを祝う1899年から、1900年、1924年、1938年、1955年を通じて、一族の歴史を辿る。

舞台収録を映画館の鑑賞に堪えるように映像化したNational Theatre Live。日本公演を先に観ていたのが予習になって、展開を追う以上の余裕を持って観られました。場面ごとに子供の役者が大人の役者に交代することは、外国人の顔をそこまで細かく見分けられないと割りきって最初から見た目で追うのを諦めたら話に入れました。

で、やっぱり当事者としてユダヤ人の歴史に関係している本場は強かったです。超がつくオーソドックスなストレートプレイで何なら日本公演とほとんど変わらない演出でしたけど、声に迷いがありません。特に序盤の言い争いが力強い。座組全体で脚本の理解と演出の方向決めが揃った仕上がりでした。がっちり仕上がりすぎて観終わった後に少し気分が悪くなりました。

海外贔屓でためにするということではなく、ユダヤ人問題はやっぱり日本人には縁が遠いという話です。

今回観て気がついたことをいくつか。

現地演出だと場面転換で当時の写真をスクリーンに大量に映すのですけど、現実にもこういう出来事があったんだと伝えるのと同時に、あれだけ大量の写真を入手できるあたりが舞台となった本場だなということ。

最後に家系図を伝えるところが、1幕最初のエミリアのアルバムの写真に写る人物の名前を忘れてしまうという話とつながっていること。これは日本公演でも気がつくべきでした。ちなみに家系図も何回かスクリーンに映す演出です。

あとヘルマンは時間が経つごとにはっきりと態度を変える演技で、これが日本公演と一番印象の違う役でした。最初の立派な押出しから、妻の浮気相手を前にして怯んでウィーン社会に幻滅してしまうところ、そして最後に息子をアーリア人にするためにかつての妻の浮気相手に大金を払って一筆もぎ取っておいたことを自慢気に言うところ。おそらくこの一筆もぎ取っておくあたりが、良くも悪くもユダヤ人はしたたかだというのが現地の理解で、でもそう振舞うところに押しやったのは浮気相手の将校で、みたいな連想を誘う演技でした。

逆に日本公演で良かったのは、ナチスの将校がアルバムを踏みつける場面ですね。あれはあの場の力関係以上のユダヤ人の立場を表す象徴的な演出でした。現地だとそこまでやるとくどくなるのかもしれませんが、日本人の自分にはわかりやすかった。

笑える場面はほとんどないのでこれから観に行く人は体調万全で臨んでください。休憩なしなのでその点も注意。

パルコ企画製作「志の輔らくご in PARCO」PARCO劇場

<2023年1月7日(土)昼>

子供が習っているそろばん教室の先生の息子が結婚したと先生にお祝いを言いに来たのはいいが余計な一言が多い「まさか」。新作を盗作されて身投げするところを助けた狂言師のために長屋の連中が面白い話を教えようとする「狂言長屋」。堅物で通るが実は芸者遊び好きな大店の番頭が内緒で芸者を連れて向島の花見に繰りだしたらうっかり店の旦那と鉢合わせ「百年目」。

吉例企画。この劇場でやるからにはと噺以外の趣向も用意しているのでそこは観に行ってからのお楽しみ。おなじみのオープニング一言からマクラも工夫しての前半戦は素直に楽しむ。3本目だけ、もうちょっと縮めたほうが自分には好みだけど、人情噺なのでたっぷりのほうが好きな人が多そうで悩ましい。

面倒なことは考えずに素直に笑える、年の初めの1本に適した演目が選べて満足です。