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2023年9月18日 (月)

梅田芸術劇場企画制作「アナスタシア」東急シアターオーブ

<2023年9月17日(日)夜>

帝政ロシアに革命が起きてロマノフ王朝は滅亡したが、パリで過ごしていて難を逃れた皇太后以外に、死体が見つからなかったため皇女アナスタシアはまだ生きているのではと噂されていた。アナスタシアを見つけたものには報奨金を出すという話に、サンクトペテルブルクでくすぶっていた詐欺師ディミトリと元伯爵のヴラドはアナスタシアの身替りを探す。そこにやってきたのが偽の国境通過証を求めるアーニャ。記憶喪失だがパリに行きたいとロシア中を歩いてサンクトペテルブルクまでやって来たという。これはものになりそうだと二人はアーニャにアナスタシアの情報を覚えさせてパリを目指す。

この日はこんなキャスティングでした。ミュージカルはダブルキャストどころかトリプルキャストまでやるので忙しいですね。私はこだわらずに時間の都合だけで観に行きましたけど、目当ての役者がいる人は大変です。

・アーニャ:木下晴香
・ディミトリ:内海啓貴
・グレブ:堂珍嘉邦
・ヴラド:大澄賢也
・リリー:マルシア
・リトルアナスタシア:鈴木蒼奈

筋は前半がロシアからの脱出、後半がパリでのあれこれときれいに通っているのでわかりやすいです。木下晴香は台詞はやや軽いですけど、歌は声に重さが乗っていていいですね。個人的にはややチャラいヴラド伯爵を演じた大澄賢也と、なんといっても皇太后をシングルキャストで演じた麻美れいがいいです。

日本語歌詞のイントネーションが曲の旋律に乗りづらいところ、麻美れいだけは少し台詞っぽさを混ぜていたのがよかったです。あれは海外もののミュージカルをやるときの解法のひとつだと思いますけど、他の人はあまりそういうのはありませんでしたね。

他にも劇中劇で白鳥の湖の超ダイジェストをやってくれるんですけど、全員上手でしたね。この前観ておいたのであれは王子様こっちは邪悪な魔術師と中身がわかってよかったです。

この日はアフタートークがありましたが、ちょっとリピーターチケットの宣伝が多すぎた。主役二人はフリートークが苦手そうだったので、事前に聞きたいこと質問しておいた方がよかったのではないかと思います。だいたい客が聞きたいのは、自分が芝居のどこで悩んだか(または大事にしたか)、相手役をどう思うか、同じ役を務める他の役者をどう思うか、くらいに集約されるでしょうし。その点、大澄賢也の「今回はあまり役を作らずに地でいけた」「いくつになってもときめきは大事ですよ」(どちらも大意)はアフタートークとして面白かったです。

あとは映像パネルを多用した美術が本当に見事だったんですけど、あれは映像を映した上にさらにプロジェクションマッピングを重ねて奥行きを出しているそうです。あとパネルとケーブルには絶対に触るなと厳命が出されているとか。あれは、映像も美術も海外のものをそのまま持ってきたのかな。クレジットがよくわかりませんでした。場面転換を素早くするために、オブジェらしいオブジェは上手と下手に固めて、電車みたいな大物はたまにひとつだけどんと出して、非常によく考えられていました。

話だけを考えると、前回の公演から今回の公演の間にロシアのウクライナ進行があって、あとはパリのエッフェル塔での写真撮影騒動があったりして、芝居鑑賞に邪魔くさい現実社会のノイズが増えているんですけど、それはそれ、これはこれで気にせずに観るのがよいかと思います。

劇団☆新感線「天號星」THEATER MILANO-Za

<2023年9月16日(土)昼>

口入屋の主人半兵衛、実は裏家業の元締、と思いきや実は妻の元締の身替りに見た目の怖さだけで婿入りした元は流れの大工の気弱な男だった。だが裏家業の同業者、白浜屋真砂郎から手を組むように持ちかけられたのを断ったため、たまたま江戸に流れてきていた一匹狼の殺し屋、宵闇銀次を差向けられる。もともと暮らしていた長屋に立寄った帰り道、雨の中で銀次に襲われた半兵衛だが、そこに雷が落ちて二人は気を失う。そこにいた半兵衛の昔なじみの占い師弁天に介抱されて目覚めたが、半兵衛と銀次の二人が入替っていた。

久しぶりの劇団☆新感線はチャンバラでした。以上。そのくらいまあ、いのうえ歌舞伎と聞いて想像できるいつも通りの劇団☆新感線でした。やや渋めなもののネタもそれなりにあって、安心して見ていられます。タイトルになっている天號星の入替りの話だけ解決はなくて「そういうものだ」で進みますが、受入れましょう。そうすれば親切な脚本とチャンバラが最後まで運んでくれます。

裏事情のようなものを察するに、客が求めるもののそこまで動きたくない古田新太にほどほどのチャンバラをさせて、代わりに早乙女兄弟に存分にチャンバラをさせるための設定なのではないかと思います。一応後半は古田新太もチャンバラしますけど、主人公は入替ったりする早乙女太一です。

そしてそれでいいんじゃないかと思いました。やっぱりチャンバラは身体の切れがある人がやったほうが格好いいです。あれだけ芝居を通してチャンバラできるなら、もう劇団員として毎回呼んでもいいんじゃないでしょうか。そう思わせる立回りの格好よさがありました。早乙女友貴演じる渡世人の人切の朝吉とのチャンバラになる前半ラスト、格好いいですよね。あれは拍手が起きます。

若干もったいなかったのが山本千尋で、素手のアクションの方が上手だったので剣を持たせずにかんざしとか短剣とか、もう少し得物を考えたかった。ひょっとしたら公演後半にはもっと慣れているかもしれませんが。個人的にはうさんくさい役の池田成志が久しぶりに観られたのが楽しかったです。

割と場面転換が多い芝居でしたが、場面転換の早さとチャンバラの事情を汲んで、舞台美術でオブジェも床もあまりないのですね。そういうところでも工夫をするのだなと、次の日のミュージカルともども感心していました。

2023年9月 6日 (水)

国立劇場主催「菅原伝授手習鑑 三段目/四段目/五段目」国立劇場小劇場

<2023年9月3日(日)朝、昼>

菅原道真が大宰府に追放されて、仕えていた梅王丸と桜丸は浪人の身。参詣する藤原時平に主の仕返しをと待ち構えて、藤原時平に仕えていた松王丸と争いになる。兄弟三人で争っていたが、騒ぎで車から出てきた藤原時平に睨まれて梅王丸と桜丸は動けなくなる。見逃された梅王丸と桜丸は、松王丸となお争おうとするが、まもなくの父の七十の祝いまでは喧嘩を控える。その七十の祝いのための父の家では、三人の妻が先にやってくるが、息子三人はなかなかやってこない。やっと来たかと思いきや(三段目)。大宰府の菅原道真が夢に促されて参詣に来たところ、菅原道真の様子を見に来た梅王丸が、藤原時平に命じられた刺客を捕まえるところに出くわす。藤原時平が天皇の座を狙っていると聞かされた菅原道真は怒って天神と化す。そのころ、菅原道真の妻を狙った刺客によって梅王丸と桜丸の妻は桜丸の妻八重の犠牲を出すものの何とか助け出される。また菅原道真の息子は手習鑑を伝授した武部源蔵に匿われていたが、藤原時平の追手が迫るところ、その日寺入りした子供を身替りにして松王丸の検分を何とか難を逃れたものの実は(四段目)。雷の鳴り響く御所に斎世親王、苅屋姫、菅秀才がやって来て、菅原道真の後を継げるように天皇に願い出る。それを止めようとする藤原時平とその仲間だが(五段目)。

初段/二段目」もたっぷりでしたけど、こちらも負けず劣らずたっぷりとした演目でした。実際にはチケット二枚で、四段目の頭、筑紫配所の段で道真が天神になるところで切られた二部構成です。いい切りかたでした。道真が怒り荒ぶって天神になるところは、火花に毛振りまであって一番派手に盛上がる演出ですが、人形遣いと太夫と三味線の息があって荒ぶる様子が実によかったです。

四段目はいわゆる寺子屋の場面で、やっぱり今の目で観るとひどい話だと思うわけですが、ここまで通して観ることで、武部源蔵には武部源蔵としての道真への恩義があり、松王丸は松王丸で道真への忠義を見せたい想いがあるという、物語の構図はしっくりきました。「梅は飛び桜は枯るる世の中になにとて松のつれなかるらん」と道真が詠んだことが伝わって、世間で「松はつれないつれない」と言われて苛まれるというのも、よくできた脚本です。五段目で復讐が果たされてめでたしとなります。

前半のダイジェストとか、寺子屋だけとか、それもいいかもしれませんが、やっぱり通しで観ることで、理解が深まります。道真と時平とその手下の線、道真と母と苅屋姫の線、道真と武部源蔵の線、道真と三人兄弟とその家族の線、これらの線をそれぞれ取出しても話は成立ちますけど、線が絡み合って一本の流れを作るところに長く演じられる古典演目としての力があるので、それを通して観るのは意義があるなと観客ながらに思うわけです。

ちなみに後半の頭に寿式三番叟の上演が挟まりましたけど、これもよかったですね。めでたい感じが出ていましたし、人形に踊らせてそこまで上手に見えるものだとは思いませんでした。あと、これは字幕がよく働きました。歌舞伎座で踊りを観ても唄がどうなっているのか聞いてわからなかったのですが、それを字幕で見ると、ちゃんと踊りの説明になっている唄でした。

2023年8月 6日 (日)

範宙遊泳「バナナの花は食べられる」神奈川芸術劇場中スタジオ

<2023年8月5日(土)夜>

独身、詐欺師、前科一犯、アルコール中毒で説教癖のある男性。出会い系のサイトで成りすましメールを送ってきた男性と会って、一緒に仕事を始める。その中で、出会い系を使って商売する人間を追ううちに出会った人物たちと巻き起こす騒動のあれこれ。

岸田國士戯曲賞作。粗筋の描きにくい話ですが、傑作でした。若干ネタバレで無理やり書くと、自己評価が低くて社会的に上手くいっていない人たちが、本名も知らずにあだ名で呼合いながら、それでも人を救いたい助けたいと思って行動するうちに自己評価が回復していく一連の話です。一人語りと役者同士の対話を行き来するので、生身の人間が演じることでもっとパワーアップされていました。

誤解を恐れずに言えばそこまで下品でない「フリーバッグ」の複数人バージョンです。観る順番が反対だったらもっと衝撃を受けたのにと嘆きました。「フリーバッグ」だと「芸人みたいに話さないで」と主人公が突き放される台詞がありましたが、この芝居だと「何とかしてよファンタジー」が登場人物の叫びでした。

起承転々結々くらいな展開だったり、こちらかと思わせて実はこちらでしたと思わせる演出だったり、いろいろあって最後はどちらに落とすかなと最後まで読ませないあたり、上手いです。その辺は観た人の楽しみということで、それ以外の感想をふたつ。

まず、一人語りと役者同士の対話を行き来する形式の芝居なのに、役者がみんな自然にこなしています。平田オリザの現代口語演劇、チェルフィッチュ岡田利規の「三月の5日間」に代表されるようなダダ語りを経由して、ここまで来たのかという印象です。いまどきの役者はこのくらいさらっとこなして当たり前なんでしょうか。

それとスタッフワークですが、中スタジオ、といってもそれなりに広くて高さもある場所を、正面のスクリーン脇以外は机やベッドといったセットで埋めてアクティングエリアを自在に動かす(全体を使うこともある)美術、カメラを含むこなれた映像の使い方、これらをサポートする照明、クリアで考えられた音響、適度に着替える衣装、などなどなどなどなどなどなど、公演規模の割りにすごく洗練されていました。私が最初に思いついた言い方だと、貧乏くさいところがひとつもありませんでした。

私の思い込みだと、演劇は身ひとつで何とかできる表現芸術の元祖で、その分だけ貧乏くさいところが付きまとって、それを払拭するのが商業演劇、みたいなところがありました。でも、出発点から志が新しいとここまですっきりした舞台が作れるんだというのは、発見でした。

神奈川芸術劇場ということで集客は苦戦気味だったみたいですが、スタジオを使えたという点では適した会場を使えたのだと思います。都内でもシアタートラムとか新国立劇場中劇場とか東京芸術劇場シアターイースト/ウエストとか、プロセニアムアーチがない劇場に向いた舞台ですね。

ゲキ×シネ「薔薇とサムライ2」

<2023年8月5日(土)昼>

もと女海賊のアンヌが女王となって治める国、コルドニア。近隣の国、ソルバニアノッソを治めるマリア・グランデが併合の野望を見せる中、なんとかそれを阻止しようとする。一方そのころ、遠方の島で麻薬効果のある塩のことを調べていた五右衛門は、塩と島民を攻め取ろうとしたコルドニア軍を追って、かつての旧友アンヌの治めるコルドニアにやってきた。

最近NTLiveを観ていたところ、劇団☆新感線の芝居の映像化がちょうど上映されていたのでこちらにも参戦。古田新太の五右衛門で始まったシリーズも、古田新太の身体をそこまで動かすことができず、天海祐希を事実上の主人公に持ってくるなどいろいろ工夫を重ねての上演。変装して化けた設定で早乙女友貴に殺陣を任せるというのは、

中身は安定の新感線ですが、映像で若干落着いて観ると、大量の登場人物に見どころを用意するので賑やかでわちゃわちゃしつつ、起承転結のしっかりしたよくできた脚本ですよね。もともとわかりやすい脚本を、さらに分かりやすく伝えるために説明台詞も多めに入れて、中島かずきの脚本はいまどきに合せてチューニングされた親切設計です。

役者で言えば天海祐希です。記憶喪失して怪盗として活躍する、という設定を挟むことで男役を復活させるとか、無理やりすぎて笑えますが、これも後につながるのだから脚本は上手。天海祐希の男役は初めて観ましたが、たしかに格好いい。その場面の相手役を務めたマリア・グランデこと高田聖子がウインクと投げキスを受けて「殺して、殺して~」と叫ぶところまで込みで笑ってしまいました。なるほど、あれが宝塚。

ちなみに天海祐希だけでなく他の役者も大活躍でしたが、私が一番よかったのは高田聖子です。やはり何をやらせても何か客の心を捕まえにくるところのある女優です。

で、映像化の話ですが、いい話で言うと、映画館のアップにも耐えられる今どきのメイクはすごいという発見がありました。あと、客席の笑い声を絞って一部にしか入れなかったのは、映像的な観やすさとしては良かったです。

悪い話で言うと、ちょっと新感線の舞台には難しいなというのがありました。というのも、もともと新感線は広い舞台を役者が動き回るアクション舞台です。なんでもない場面でも歩いたりします。これをアップ多めで追おうとすると、ややカメラが追いつかないし、なんとなくうるさくなるんですね。割と場所と動きは決まっていてもカメラアングルに制限のある以上、どうにかしないといけないんですけど、まだ処理しきれていない感がありました。殺陣は派手に見えると言えば見える、何をやっているのかわからないといえばわからない。

それと声ですね。ハウリング防止のためか、身に付けているマイクと、歌で使うマイクが違っていて、それでレンジが違って若干違和感がありました。で、身に付けているマイクもやや声が籠って聞こえる人がいて、まあ難しいです。

音と言えば休憩時間中、音なしで時間と役者紹介の映像を少しだけ流していましたけど、ちょっと静かになりすぎでした。NTLiveだと休憩時間中の客席の音と映像を流しっぱなしにしていましたけど、あれはあれで効果があったんだなというのは発見です。いまどきだと客席を撮影するのにも神経質になるところですが、何かいいやり方を見つけてほしいです。

National Theater Live「かもめ」

<2023年8月4日(金)夕>

電波すらろくに届かない、風光明媚であること以外何もとりえのない退屈な田舎の島。女優の母を持つが精神不安定で叔父に預けられている息子と、伯父の娘である従妹は、夏休みで戻ってきていた母たちを前に余興の実験的な芝居を見せるが、失敗する。本土の街に行きたいけど行けない、行きそびれた人間の様子を描く。

たしかオリジナルはロシアの田舎だったけど、それを現代風にリライト。電波も届かない湖のある島に設定を置換えての上演。だけどそれは格好が今風になる以上に効果があったとは良くも悪くも思えない。まあ「かもめ」です。それよりはリライトで細かい設定をいろいろ変えたところほうが効果が大きい。

演出で、オリジナルだと売れていて鼻持ちならない作家として描かれているところ、神経質で自分の成功にまったく懐疑的な作家として描かれました。これで芝居全体が、田舎にいる人たちが街に憧れるというより、田舎に引っ込んだり、田舎にいたまま街に出そびれた大人たちが、残された自分の人生に絶望するところがより強調されていました。撃たれたかもめの扱いが雑で、最後にニーナがコンスタンチンに対してまだ作家のトリゴーリンが好きだと言うあたりといい、椅子を動かすだけで場面を作っていくそっけない舞台美術と合せて、ものすごく地味、そして苦いところを突いてくる演出でした。

休憩時間中に息子が出ずっぱりで横たわる映像が流されていましたが、あれはオープニングの失敗した芝居をばっさり切った代わりの演出でしょう。最後、椅子をかもめの形に並べて見せたところと言い、古典の上演には海の向こうもいろいろ考えるんだなと思いました。

2023年8月 4日 (金)

National Theater Live「リア王」

<2023年8月3日(木)夕>

三人の娘のうち、末娘の婚約者選びが二人に絞られたとき。老いて王の責務から逃れたいために、王の立場以外は王国を分割して娘たちに与えようとする王。上の娘二人は王を称えて領地を得るが、末娘は父への愛情を正直な言葉を伝えたがために領地を得られず、それを聞かされた婚約者の一方からは逃げられたため、フランスへ嫁ぐことになる。王は上の娘二人に月替わりで世話になると言うが、一番愛していた末娘への心変わりを目の当たりにした二人は父への不信を覚える。

服装はいまどきっぽくて、短剣は出てきますけど兵士が普段持っている武器が銃なのは「ハムレット」と同じ。定番なのか費用その他制作上の都合なのか。それでも芝居になるからシェイクスピアはよくできていますよね。

話がどこまでオリジナルに近いのかわかっていないですが、今回はリア王は我がままで横柄で野蛮ではあるものの、追放された後になるほど同情の余地があるような役でした。そのあたりは役者の技量もあると思います。荒野の場面は本水でしたね。道化はあまり目立ちませんでした。

それで、王の忠臣の二人、ケント伯とグロスター伯ですが、ケント伯は女優が演じました(王を男装して追いかける)。この工夫のおかげか女優の技量のおかげかはわかりませんが、王に同情を集めるところに一役買っていました。今回の一押しです。グロスター伯は追放された王を探しにいくところからどんどん動き出して、両眼をえぐられたあと、追われた長男エドガーに連れられていく場面の演技はリア王に迫るものがありました。

こうやって年配組の役に同情が集まる理由のひとつに、若い悪人役をより悪く描いたためもあります。特に次女リーガン役は、リア王を追放するのも、グロスター伯の両眼をえぐるのも、グロスター伯の私生児エドモンドを誘惑するのも、露骨に悪く見せてきます。この次女とエドモンドを取りあう長女ゴネリルという構図で、どんどん同情が無くなる仕組みです。エドモンドは父への復讐というより、すべてを手に入れられる機会が巡ってきたから手に入れてやろうといった風情です。

だからリア王の狂気というよりは、リア王と上の二人の娘、そしてグロスター伯とエドモンド、父から奪う子供を強調した演出ですね。その分だけきつい場面の演出も派手につけて、迫力満点の仕上がりでした。

そして今回も日本で芝居で見るよりわかりやすかったのですが、理由のひとつに気がつきました。字幕で見ると情報量が落ちるから、特に人名のやりとりがすっきりするのですね。それは気付きでした。

asatte produce「ピエタ」本多劇場

<2023年7月30日(日)昼>

18世紀のベネツィアにある孤児院ピエタ。バイオリンと合唱が有名で、外の娘も含めて音楽教育とその演奏を売りにしている。そこでかつてヴィヴァルディが教えていた娘たちが、ヴィヴァルディの死後に織りなす人間模様。

粗筋書きにくいです。バイオリン演奏が上手な役にバイオリン奏者を、歌手役に歌手を起用する意欲的なキャスティングです。高級娼婦を演じた峯村リエがここまで来たかという演技で目いっぱい場を作って、ヴィヴァルディの妹を演じた伊勢志摩、有名歌手の姉を演じた広岡由里子で場を持たせた一方、本来主役のピエタ運営の小泉今日子と、かつてヴィヴァルディにバイオリンを習った貴族の未亡人の石田ひかりが撃沈。芝居の出来は音楽付きとはいえ芝居でこの値段でこの仕上がりではさすがに失敗作です。

直接の原因は孤児院やヴィヴァルディがいまいち感じられないうえに会話の弾まない脚本なのですが、いくらなんてもペヤンヌマキがここまでやらかすとは思えなかったので、勢いで原作本を買って読みました。

結果、そもそも一人語りが多くて芝居に向いていないうえに、原作ですでに孤児院の影は薄くてヴィヴァルディも設定のひとつとしか扱われていない、非常に芝居化の難しい原作に挑戦して玉砕したというのが私の結論です。

私が原作を読んだ理解では、楽譜を探すというのは、人物紹介のための理由と、最後の詩のための都合です。原作でもそこまで必死に楽譜は探していません。それよりは、一度は流行に乗ったものがやがて忘れ去られていくということと、ある程度年を重ねて子供のいない女性の立場とを重ね合わせた小説です。ヴィヴァルディは前者の代表、主要役者の演じた役は後者のバリエーションです。

ベネツィアと孤児院はこれを描くための設定で、東京と仕事に生きる現代女性でもいい。というか、東京と仕事に生きる現代女性で描くと生々しくなりすぎるからベネツィアと孤児院に置換えたのが原作と言ったほうがおそらく正しい。

木戸銭を払った客としての下世話な推測を言わせてもらえば、芸能界という水商売で酸いも甘いも味わった役者陣、特にアイドルという最前線で身体を張っていたプロデューサーの小泉今日子は原作に共感するところ大でしょう。「むすめたち、よりよく生きよ。」は後輩にも自分自身にも掛けたい言葉でしょう。

ただ、そういうのを全部すっ飛ばして芝居のことだけを考えるなら、もう少し翻案は考えられなかったかと思います。いくつか落とした個所はあっても、わりと原作小説に忠実な脚本にした結果、そのままやってもつまらない脚本になってしまいました。これで行くなら演出も担当したペヤンヌマキには小泉今日子と石田ひかりを峯村リエと同水準まで引張り上げてほしかったですが、でもこのとっかかりのない脚本ではそれも難しかったと思います。

そのあたり、原作者の条件、プロデューサーの希望、ペヤンヌマキの判断のそれぞれで、脚本化に当たって翻案の余地がどのくらいあったのかは、気になるところです。

<2023年8月9日(水)>

感想を投稿。原作を読んでいたら時間がかかりました。

National Theater Live「フリーバッグ」

<2023年7月29日(土)夕>

仕事の面接に来た女性が語り始める自分の話。セックスについての奔放な話、亡くなった友人の話とその友人と一緒に始めて経営している喫茶店の話、再婚してから仲が良くない父と羨ましい姉の話、あれやこれや。

NTLiveアンコール夏祭りの1本。随分と露骨なセックスの話が初めから終わりまでふんだんに出てきて、ノリだけなら日本の小劇場のような(といってそこまで露骨なのはなかなか見かけない)雰囲気の芝居でしたが、そこで描かれているのは半分病気のような主人公、あるいは上手くいかない人生を好転させるきっかけがつかめないで少しずつ少しずつ悪い方向に押し流されていく主人公です。

多少は録音した声も使う一人芝居ですけど、練られた脚本と、絶妙の間合いで進めていく演技。脚本と出演の両方をやったフィービー・ウォーラー=ブリッジはべらぼうに頭がいい人ですね。最後にきれいにつなげたかと思ったら落ちも用意して、これがイギリス流かという一本でした。

ただひとつ惜しいのは撮影された当日の客の反応で、なんか全体に笑いを待ち構えているようなところがありました。調べたら、これはもともと2013年のエジンバラ演劇祭で上演した10分の一人芝居が元になっていて、そこから2016年と2019年のBBCのテレビドラマがあって(この脚本と主演も同じ)、そのうえで2019年の今回の一人芝居になったようです。だからテレビドラマでお下品なノリを知っていた観客がそれを期待して、そらきた、と笑っていたみたいです。笑いだすのが早すぎるんですよね。

たしか柄本明だったと思いますが、売れてしまって何をやっても観客が笑うようになってしまったら終わりだ、と言っているのを読んだことがあります。それを読んだときはよくわかりませんでしたが、はからずも実例を見て、なるほど、これでは考えつくされた脚本と演技がもったいないというのがわかりました。

2023年7月16日 (日)

National Theater Live「ハムレット」

<2023年7月15日(土)夕>

王である父を亡くして悲しみに暮れるデンマークのハムレット王子。それから二か月しか経っていないのに母が叔父と再婚を決めてさらに悲嘆していた。だが父王の亡霊を見たと夜警の兵士から教えられて見張っていると、はたして父王の亡霊と出会う。叔父に毒殺されたのだと伝えられたハムレットは、叔父に復讐を果たすために狂人を装って機会をうかがう。

オセロー」を観たらアンコール祭りをやるとのことで見物。衣装や役や小道具で若干の現代風アレンジがされているけど、まあ丸ごとハムレットのはず。一部の役で黒人の役者が起用されたり女性に置きかえられたりしているのは、なかなか今様なのだろうなと。

ベネディクト・カンバーバッチ主演と言われてもピンとこなかったけど、確かに主演を務めて最後までテンションを切らさないところはさすが。殺陣をつけているとはいえ最後の決闘は結構危なく見えてどきどきする。ただ今回だと、一番の出来は王妃だった。弱きものよ汝の名は女なりだけに収まらない、再婚を決めるまでにいろいろ葛藤があったし今もいろいろ考えているのだろうなと思わせる現代的な役作りですね。僅差で二番目は叔父の新王。卑怯な人物とはいえ、王の弟として育ってきた貫録と、王位の簒奪を狙った人間の強かさ、諦めずに状況を自分の都合のいい方に持っていこうとする粘り強さを見せてくれた。ハムレットも十分よかったけど三番目ですね。次が僅差でオフィーリア、また僅差でレアティーズ。

あとは映像で観ていると意識しづらかったけど、長い一幕の終わりに舞台を汚して、二幕はそのまま演じる美術はすばらしかったですね。外の場面を外っぽく見せつつ、屋敷の場面は崩れていく王家の荒廃した心象につなげる。始まる前にわざわざ美術も名前を紹介していましたけど、なるほど会心の美術でした。あれは1日2公演できるんだろうか。

で、やっぱり字幕で観ると余分な台詞の修飾が減って、理解が進みます。かっちりと王家と忠臣一家と友人の関係を描いた演出に、はっきりした字幕で、ようやくハムレットの物語を理解した気分になりました。字幕でたぶん2か所誤植があって、それが惜しい。

なるほど四大悲劇に数えられているだけのことはある、とわかって大満足でした。

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