2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

2024年7月 2日 (火)

2024年上半期決算

恒例の決算、上半期分です。

(1)ホリプロ/フジテレビ主催「オデッサ」東京芸術劇場プレイハウス

(2)(3)神奈川芸術劇場プロデュース「スプーンフェイス・スタインバーグ(片桐はいり版)(安藤玉恵版)」神奈川芸術劇場大スタジオ

(4)KERA CROSS「骨と軽蔑」シアタークリエ

(5)劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター(エルサレム・バージョン)」自由劇場

(6)MONO「御菓子司 亀屋権太楼」ザ・スズナリ

(7)パラドックス定数「諜報員」東京芸術劇場シアターイースト

(8)青年団「S高原から」こまばアゴラ劇場

(9)梅田芸術劇場企画制作主催「VIOLET」東京芸術劇場プレイハウス

(10)(11)新国立劇場主催「デカローグ1・3」「デカローグ2・4」新国立劇場小劇場

(12)青年団「銀河鉄道の夜」こまばアゴラ劇場

(13)青年団「阿房列車」こまばアゴラ劇場

(14)青年団「思い出せない夢のいくつか」こまばアゴラ劇場

(15)新国立劇場主催「デカローグ5・6」新国立劇場小劇場

(16)劇団青年座「ケエツブロウよ」紀伊国屋ホール

(17)フライングシアター自由劇場「あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た」新宿村LIVE

(18)ゴツプロ!「無頼の女房」本多劇場

(19)劇団四季「オペラ座の怪人」神奈川芸術劇場ホール

(20)東京喜劇熱海五郎一座「スマイル フォーエバー」新橋演舞場

(21)ナイロン100℃「江戸時代の思い出」本多劇場

(22)ほろびて「音埜淳の凄まじくボンヤリした人生」STスポット

(23)パルコ企画製作「ウーマン・イン・ブラック」PARCO劇場

以上23本、それと隠し観劇が1本ありますがそちらは非公開です。合計24本、すべて公式ルートで購入した結果、

  • チケット総額は 166600円
  • 1本あたり(チケットあたり)の単価は 6942円

となりました。なお各種手数料は含まれていません。また、上半期は映画館での芝居映像見物はありません。

チケット単価ですが、高いと言えば高い、こんなものかと思えばこんなものです。昔は均せば1本5000円の勘定でしたけど、物価が上がっての3割高くらいだと思えばしょうがない。願わくは6000円くらいに収めたいとは思いますが、歌舞伎を観なかった代わりに銀座有楽町方面に足を運んでいますし、ミュージカルをいくつか観たりしています。といって小劇場を増やして総額が上がる代わりに単価を下げるのは、近頃体力がきついので、どうなることやら、です。

寸評ですが、観終わったときにはそれなりに楽しんだ気分になったものでも振返ればどうかなというものもあります。だからその分は差引いてほしいのですが、やっぱりよくできていたよねの(1)、あと一歩がほしかったけれども挙げておきたい一人芝居の(2)、「ちゃんと負けないのがいけない」の名台詞が印象強い(6)、2度目でも楽しめた(14)、こういうのだよこういうのの(16)、元ネタはさておき仕立ては間違いなくぶっ飛び名人芸の(21)、名作にして名演の(22)、3度目を楽しんだ(23)です。

ここからもうひと絞りすると(16)(21)(22)ですが、上半期の1本を選ぶなら(22)です。他が好みの人もいるでしょうけど、(22)は観たのが千秋楽前日でなかったら緊急口コミプッシュを出していた仕上がりで、間違いなく名演でした。

上半期は今のうちに観ておかないとということで観た芝居がいくつかあります。まず、こまばアゴラ劇場閉館で観に行ったのが(8)(12)(13)(14)。これだけ観ればすっきりしました。それと歳が歳だからと観に行った(17)と(20)。これは串田和美のもう少し平気だろうという調子と対称的に、伊東四朗はきついなという印象でした。公演前半ならもう少し元気だったのかもしれません。

あとは代替わりというのでしょうか。二世がどうした何のそので女優を育ててみせた老舗劇団の(16)と、当たり役の後継者を無事に見つけられた(23)です。劇団四季はあまり詳しくありませんが、(5)や(19)には名作の引継ぎみたいな目的もあったのでしょう。それで言えば青年団も(8)なんかは昔よりも役者が入替っています。本拠地を移転して今後どうなるかです。

上半期の話題はいくつかありましたが、ブログに書かなかった宝塚のいじめ自殺事件の和解と、日本テレビと小学館の雑な仕事で原作の漫画家が自殺した話を挙げておきます。前者は自殺直後にふざけた顔の企画室長が出てきていじめはまったくありませんでしたと言い切ってからの無様な和解、後者はこれで怖がっちゃいけないとふざけた調子のまとめを書いた報道機関にあるまじき内部調査報告書、どちらも論外です。加害者側がそんなものを表に出してはいけないという判断が働かない時点で頭がおかしい。創作においては「頭がおかしい」は誉め言葉になり得ますが、運営において「頭がおかしい」は組織が駄目になっている、言葉通りの悪口です。いつからかああなったのか、元々ああだったのが今回明るみに出たのか、どちらなんでしょう。

この手の話題、去年から何なんだろうなと考えているのですが上手くまとまりません。考えのとっかかりとして「リスクを取るべき人がリスクを引受けて手を打つ代わりに、リスクの責任部分だけを他の人に押付ける行動をとり、上手くいったときの成果は攫っていく」「リスクを引受ける人の中には度胸一発でやりたい放題やる人が出てくるが、責任を押付けている人は何も言えないのでやりたい放題が増長する」「責任を押付けられた人は損を被って後始末をするが、報われない」「それは自分だけが儲かればよしとするビジネスモデルを考えれば理想だが破廉恥に過ぎて、だけどそれがまかり通る環境があった」「資金と志望者が潤沢な限りはやりがい搾取で回るが、それが先細りすると破綻する」までは思いついたのですが、まとめようとするとどうにも主語が大きくなってしまう。この話はこれ以上書くとそれだけで気分が悪くなりそうなので、書かずに考え続ける話題になりそうです。その他の上半期の話題はまあ、ぼちぼちです。

引続き細く長くのお付合いをよろしくお願いします。

2024年7月 1日 (月)

パルコ企画製作「ウーマン・イン・ブラック」PARCO劇場

<2024年6月30日(日)昼>

若い頃の仕事で忘れられない経験をして歳を重ねた弁護士。誰にも語らずに悩みつづけた弁護士は、他人にその経験を語ることで自分の悩みが吹っ切れることを期待して、経験を親族に伝えることを決意する。伝えるべき内容を書上げた弁護士だが、親族相手といえども人前での朗読は未経験で不慣れ。そこで役者を雇って劇場での個人レッスンを依頼する。弁護士の書いたものが素人には長すぎることを問題視した役者は、2人で芝居形式で演じることで、より短く効果的に伝えることを提案する。特に話の多い弁護士本人の役を役者が引受け、弁護士はそれ以外の人々の台詞を覚えるように提案する。さっそく稽古を開始する2人だが・・・。

ネタバレはしませんが、2003年と2008年、斎藤晴彦と上川隆也の組合せで前に2回観ています。それが今回は勝村政信と向井理の顔合わせ、となれば雰囲気も多少は変わるというものですが、いい芝居はやはりいい芝居でした。

渋い演技が昔の時代の雰囲気に合っていた斎藤晴彦と、イケメンでありながら実直な上川隆也との組合せは初めからじわじわと怖がらせていました。それが今回は、笑いを取ってから深刻に持っていく勝村政信と、背が高い足が長い顔が小さいこれで本当に日本人かの華やかな向井理との組合せは、明るい場面と暗い場面の落差で勝負です。

脚本演出が全体に、親切寄りになっていました。昔はあそこまで見せなかったような気がします。そのあたりは時代です。それもあるし、3回目だし、怖がることはないと思って観ていたのですが、音にはやっぱり驚かされます。客席にもスピーカーを仕込んでいるんですね、あれ。

初見の向井理が思ったよりも上手で、さすが二人芝居に抜擢されるだけのことはありましたが、多役をこなしてなおかつ本命の弁護士役の切実さを見せてくれた勝村政信の芸達者が一枚も二枚も上手でした。それはもう芸歴の違いとしか言えません。ただ、割と噛合わせのいい2人でしたね。

うっかり東京千秋楽を良席で観られたのですが、たまにはそんなこともあらあな、ということで。

2024年6月30日 (日)

ほろびて「音埜淳の凄まじくボンヤリした人生」STスポット(ネタバレあり)

<2024年6月29日(土)昼>

いい年齢の音埜淳はアニメ関係専門店で働いている息子と2人暮らし。外出から戻ってきて息子に宇宙人と会ったと打明け、熱心にパソコンに記録を残す。そこに音埜淳の弟がやってくる。妻と離婚することになったからここに住ませてほしいという。こうして三人暮らしが始まる。

名作にして傑作でした。当日チラシには観終わってから参考文献を読んでくださいと書かれていましたが、そこまで書かないと粗筋すらこれで終わってしまいますし、もう千秋楽なのでネタバレで書きます。

やや物忘れのひどくなっていた音埜淳の認知症が進む中での、本人の認知と振回される家族とを描いた作品です。宇宙人の話から始めて芝居の路線が不明確なところから、弟が来ると約束したのも、自分が食べたパンも、財布を持っていくのも忘れた話が重なる1場、やがて妻が亡くなっているのに帰ってこないと言って外出して靴を無くして帰ってくるあたりから観客に様子が共有される序盤の流れが本当に絶妙です。そこからどんどん不穏になり、家族にも事態がわかってくる中で、たまに笑いが入るところも本当に上手です。

音埜淳が話す宇宙人がどのように会話するかについての考察、人間は少しずつ順番に話すことしかできないのに、宇宙人は時間の概念がなくて過去も未来も丸ごと話すという考察が、そのまま周りの人から見た認知症の特徴になっているところが構成の要です。これにあるときは周りが振り回され、あるときは誤解されつついい方向に収まり、そしてラストの台詞のえええええ(さすがにネタバレ自粛)に繋がる見事さ。これぞ芝居でもあり、認知症を理解する方便のひとつなのかなと期せずして勉強になりました。

そして個人的にはアニメネタの最後、エヴァンゲリオンで動く使徒を機体が止めるけれども腕だけ動く話がぐっときました。アニメを観ていなくてもわかりますけど、よりによって転勤で数少ない身内が遠くに行ってしまう場面でそんなネタにするかという気持ちと、そこまでやってこそ芝居だという気持ちと半々です。今なら相談先も増えたでしょうからもう少し楽かもしれませんが。

で、これを演じた4人の役者が本当に見事です。音埜淳を演じて初演から唯一続投の吉増裕士の、真面目な声と表情を殺した演技とが、普段の場面でも独白場面でも回想場面でもぜんぶしっくりきて、ナイロン100℃の人なのに新劇の役者そこのけでした。その息子役の亀島一徳は受ける側の役ですが、初めは父親に乱暴な口をきいていたのが後半に行くにつれて周りのみんなに飲み込む言葉が増えていく様子が丁寧です。弟役の上村聡はなんとも胡散臭い雰囲気を出して上等で、胡散臭いところから終わりまで。そして息子からは叔父のはずなのに兄ちゃんと呼ばれる亡くなった妻の弟役の八木光太郎も、見た目を目いっぱい生かした優しい役に振って、親しいながらも疎遠で息子が相談できない叔父、という立場を好演です。

それと忘れてはいけないのが会場選びで、狭い会場を変形で使って、観客の出入り口、ふだんなら上演の上手下手で使われるであろう出入口、スタッフ控室? らしき出入口、4か所を家の扉に割当てて出捌けに使うことで、家の中で観ているような、至近距離よりさらに近い感覚を作り出していました。

「9年前に再始動したほろびての、最初の作品を作り直します。ずっとやりたかったけど、なかなか実現きなかった」と書かれているのは伊達ではなくて、再演に値する芝居でしたし、いまでも傑作ですが大勢の人目に晒して叩かれるともっといい芝居に成長する予感があります。これは当日パンフに書かれていましたが、狭い場所でも全国あちこちで上演できるように作ったそうで、そのためのショーケースも兼ねて会場選びをしたのでしょう。個人的には紀伊国屋ホールでの上演に耐えうる仕上がりだと思いましたが、ここまで狭い会場で観る臨場感も貴重です。照明は多少工夫していましたけどおそらく蛍光灯でも問題なくて、音響は吉増裕士の劇中パソコン操作だけですよね。これ、全都道府県制覇のツアーを目指すべきだし、全国あちこち、呼ぶべきです。劇場やホールでなくとも、医療や介護の関係者が呼んでもいい。ちょっと広い会議室なら上演できます。

タイトルで気になって、再演と読んで気になって、どこかで「ほろびて」の名前を観たなと思って、今期の数少ない発掘芝居に行くならこれだと思い極めて観に行ったのですが、大正解でした。芝居選びの勘が当たった時の喜びは観客の特権です。

2024年6月23日 (日)

ナイロン100℃「江戸時代の思い出」本多劇場(ネタバレあり)

<2024年6月23日(土)夜>

江戸時代、峠の茶屋を通り過ぎる侍を捕まえて、町人が話を聞いてほしいという。聴きたくない侍を無理やり捕まえて話を始めるが、その思い出話は今の話だったり何故かずっと将来の現代の話であったり。

初日。業界関係者もそれなりに多そうな客席の中、不条理劇というかナンセンスというか、そちら方面の仕上がりで笑わせてもらいました。あらすじを書くのは野暮なのでこれから観る人はまず楽しんでください。四話に分割されているのですが、冒頭の一話のかっ飛ばしかたは他では絶対真似できないであろうハチャメチャ振りなので、遅刻厳禁です。

役者で上手いけどこれ誰だろうと思ったら奥菜恵だったとか山西惇だったとか坂井真紀だったとか、あれっと思ったら池田成志が出ていたとか、あまり気にせずに観に行ったらゲストも力が入っていたので驚きました。ただ、散々KERA芝居に慣れている劇団員やゲストの中においても、メインの武士之助を初日から力強く立上げた三宅弘城は、エースの風格でしたと特記しておきます。

で、ここから先はネタバレを含みますが。

江戸時代の思い出と称して江戸時代から現代を思い出すあたりはナンセンスですが、それが20年前(30年前だったかも)のタイムカプセルを掘ろうと集まったら死体が出てきたのは意味深です。その後の疫病で飢饉の話であるとか、瓦版を買いたい人に餃子を売って餃子を買いたい人に瓦版を売るとか、茶屋を乗っ取って女郎屋になった主人が稼ぎ手の女郎を殺すとか、2年前(3年前)の新型コロナウィルス真っ最中の思い出話ですよね。飢饉でお客さんを食べた設定のあたり、あれは一般観客への恨みもあったんじゃないかと思います。死体を埋めた人たちがタイムカプセルを埋めたつもりになっているのも、終わったことにして勝手に美化しやがってというほどの意味ではないかと。

Don't freak out」のときはもっと恨み骨髄という印象でしたが、それを江戸時代まで遡った芝居にして笑いに昇華するあたりはさすがKERAという思いと、まだ納得していないんだろうなという推測と、観終わった後はその両方を考えました。私は志村けんが亡くなったあたりから芝居中断はやむなしと考えていましたから、今回の芝居だとみのすけ演じる人物から石を投げられる側です。だとしてもあの頃に「不要不急で無駄だからこそ芝居は文化たりうる」と考えたことは今のところ変わらないでいます。

東京喜劇熱海五郎一座「スマイル フォーエバー」新橋演舞場

<2024年6月23日(土)昼>

実は魔法使いが秘密で暮らしている現代社会。さる年老いた魔法使いの男性は銀行強盗が押入った場面に遭遇する。犯人が拳銃を撃ったところで時間を止めて弾を逸らしたのはいいが、その後で跳ね返って自分の足をかすめてしまう。しかもその場には都知事の母と娘が来店していたが、弾が当たって痛がる老人の苦しむ顔を見た恐ろしさのあまり、娘は笑うことを忘れてしまう。この娘に何としてももう一度笑ってもらおうと、人の心を動かす魔法を覚えなおすべく魔法学校に入りなおした老人だったが、生徒も先生も曲者揃いというか何というか。

あらすじは書きましたし、それなりに最後まで筋は通っていますけど、それよりは喜劇を転がすための設定の意味合いが強いです。開演前から言われた通り、気楽に観る芝居です。この日は客のノリもよく、釣られて気楽に笑いました。

観たのは伊東四郎が気になったのが第一ですけど、初めは観ていてどきどきしました。声に張りがないのと歩くのがゆっくりだったのが、振りなのかどうなのかわからなかったんですよね。最後に魔法で元気になる場面を披露するつもりじゃないかと。そうではありませんでした。動きが激しくなる場面では補助のように役者が付いたりもします。あれを観ると役者は足腰だと仲代達也が言った理由もわかります。

ただしそれを早い段階からネタにして、伊東四郎が年寄であることもたくさんネタにしていました。これが年齢層高めの客席に大うけで、あれだけできればまだまだ元気といわんばかりにからっと客席が笑っていたので、しばらくしたら年齢のことは気にならなくなりました。

で、芝居に沿ったネタだけでなく、伊東四郎の経歴を大いに生かしたネタも大いにありました。一瞬刑事のふりをして「お前は刑事か!」と突っ込まれるとか、そういうやつですね。「魔法が長すぎるからもっと短くしたらいいんだよ」「短く」「そうだよ」「ニン!」とか、ずるいですよね(笑)。そのへんはもう、楽しんだ人の勝ちです。

あとは動きや台詞回しがゆっくりでも、芝居が丁寧です。初めの銀行強盗の場面で弾筋を追う動きとか、しっかりまっすぐ線を引いていました。台詞も、年寄という設定が前提にあるものの、ゆっくりなりに芝居する。あれは周りが台詞を聴ける達者な役者ばかりなのも大きいと思います。

その周りですが、芝居の筋では都知事に松下由樹を持ってきましたけど、それは本物にサービスが過ぎる(笑)。来月の選挙云々とか、時事ネタもばっちりです。そしてレギュラーメンバーは、こちらも開演前に高齢化をネタにしていました。が、さすがに足腰は平気だし、芝居はこちらも達者です。三宅裕司や春風亭昇太や深沢邦之もいいですが、渡辺正行の軽さや、小倉久寛の変な役のこなし振りが、いいですよね。

ラサール石井だけ、滑舌が怪しくなっているところに年が出ていましたが、大過なく務めていました。「この議論の続きはX、旧Twitterで」「お前はそうやって議論するのがよくないんだよ!」と突っ込んでいたのは脚本家に拍手したい。熱海五郎一座の前身である伊東四郎一座の旗揚げ公演で、突っ込みができないことを悩む患者のラサール石井に医者の伊東四郎が「まずはそのままのことを言えばいいんだ」と言われて、聴診器を当てられて「お腹、胸、口、鼻、頭(適当)」となってしまうコントは私の芝居人生の中でも大好きな場面なので、いらん議論よりも役者に邁進してほしいです。

総じて、楽しんだもの勝ちの芝居であり、そのあたりが軽演劇なのかなと会得しました。そして年齢が高いにも関わらず軽い芝居を続けられる役者陣、すごいですよね。歳をとっても軽くいられるのって本当に見事です。

2024年6月15日 (土)

劇団四季「オペラ座の怪人」神奈川芸術劇場ホール

<2024年6月8日(土)昼>

オペラ座の備品がオークションに出されている。それを競り落とす子爵夫人が昔を思い出す。それはオペラ座のオーナーが交代して、新作の稽古中に挨拶にやって来たときのことだった。座席と高額の報酬を要求する手紙と、それが叶えられない場合にとオペラ座で頻発する事故に立腹して、プリマドンナが降板してしまう。当時端役の1人だったクリスティーヌは急遽抜擢されて大成功を収め、子供のころに出会っていた子爵と再会する。だがその成功の裏には、「先生」として毎夜クリスティーヌの歌を訓練するオペラ座の怪人の存在があった。

有名な作品です。粗筋は知っているしミュージカルだしで、安い席で臨みました。それで見切れになるのは覚悟していたから納得しました。

ただ、「オペラ座」の怪人なんですよね。なので登場人物がことごとくビブラートたっぷりのオペラ歌唱でした。その上、席が悪かったのか安い席まで音響の手が回らなかったのか外部劇場では調整に限界があるのか、オーケストラの音が目一杯張り出して歌声に重なってしまいました。そうすると明晰な発声を旨とする劇団四季でも何を歌っているのか歌詞がわかりませんでした。

つまり見切れと不明な歌詞で、何のために観に行ったのかわかりませんでした。慣れた人なら歌詞を脳内補完しながらソプラノとテノールを楽しめたのでしょうが、ミュージカル素人の私には無理でした。慣れない分野ほどいい席を狙うべきだったと勉強になりました。

ゴツプロ!「無頼の女房」本多劇場

<2024年6月7日(金)夜>

昭和二十三年の東京。人気作家の塚口は自宅に押掛ける編集者を待たせて二階で原稿を書き続ける。言論の鋭さと、躁鬱が激しくて二階から庭に飛び降りたりするような奇行を行なうことから無頼派作家と呼ばれる塚口を内縁の妻は支えるが、その妻にも我儘を言っては編集者や作家仲間の付合いを優先させてしまう。そんなある日、塚口が原稿を書き上げて編集者と飲みに行くが、編集者が原稿を忘れてしまう。それは塚口が以前に愛していた女流作家との話を描いたものだった。

坂口安吾をモデルにしつつ、その妻と周りの人物に焦点を当てた1本。中島淳彦脚本は初見ですけど、いい意味で小劇場らしい大らかさに溢れた仕上がりでした。

それぞれ欠点なり弱点なりの多い登場人物たちを前向きに仕上げてくるところはお手本です。一方で、熱量を前面に出した塚口に対して登場人物全員、距離感にある程度の齟齬があり、塚口が面倒見のいい相手は冷静で、塚口に親身な人ほど塚口が我儘をいうのは、世の中そういうところがあるよね、といったところでした。それがある出来事をきっかけに爆発する脚本、よくできています。

ただ、「贋作・桜の森の満開の下」は観たことがあっても、私は坂口安吾を1本も読んだことがないんですよね。だから一生懸命原稿を書いているのはわかっても、女流作家の話と、台詞でいくつか出てくる話以外、どういうことを書いている作家なのかがわかりませんでした。職業作家として生活のために原稿を書く必要があるのはわかりますが、無頼派として飲み歩く以外に作家としてのインプットをどこでしているいのかがわからなかった。「原稿を走る筆の音が、まるで身を削る刃物の響きに聞こえて」という台詞が浮いていた。脚本に足りなかったことをひとつだけ挙げるとしたら、塚口の作家面です。

ただしタイトルロールはその妻ですし、その分だけ周りの人間を描いています。いまなら編集者はもっと無礼な人間に描かれてもいいんじゃないかと思いますが、初演が2002年らしく、それならしょうがないです。個人的に好きな場面は、お手伝いのかんのひとみが爆発するところ、匿われに来た女流作家の妹を作家仲間の久保酎吉が口説こうとするところ、その妹の鹿野真央が姉の靴を置いて姉の身体を順番に思い出すところ、です。本筋と関係あるようなないようなところにも見所、演じどころの多い芝居でしたし、役者もそれによく応えて、しかも最後はばっさりと終わるところが、いろいろ見事でした。

近ごろの流行りである精密に深彫りしていく演出の芝居とは反対でしたが、脚本には合っていましたし、それで楽しめました。急に芝居を観られることになったので何を観ようか迷って選んだのですが、我ながらいい選択でした。

フライングシアター自由劇場「あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た」新宿村LIVE

<2024年6月7日(金)昼>

王が滅ぼした国の女王との結婚を数日後に控えたある日、家来が王に訴える。息子の婚約者がである女性が、息子の友人と心を寄せ合っているのだという。女性は友人の女性に別れを告げて森に駆落ちするが、これが息子に告口して二人で森に向かう。その夜の森では職人一同が王の結婚式で上演するために稽古に励んでいた。だが森の中では妖精の王と女王が喧嘩中であり、これを何とかするために妖精王はいたずら好きの妖精パックに命じて目を覚まして初めて見た者を好きになる媚薬を女王に塗るように渡す。妖精パックがあちらこちらで媚薬を塗ってしまい・・・。

えーと、すいません、日にちを置いて感想を書こうとしたらチラシがどこかに紛れてしまいました。が、Wikipediaを見たところ家来の「娘」が婚約者の「男性」がいるにも関わらず別の「男性」と恋仲になり、という筋ですね。なんか間違いながら観ていたようです。大勢に影響はありませんが、そのくらいの集中力だったということで、あらかじめ断っておきます。

元は「真夏の世の夢」ですが、人間の王と家来に関わる話、妖精の話、稽古する職人の話、役者がそれぞれで1役ずつ持った上で、さらに役者としての独白を持たせるように構成された芝居です。全員白い衣装で、舞台は白い幕に、木とか城とかの形に切り出した白いパネルを役者が動かします。だからしつらえだけなら学芸会と言っても当たらずとも遠からずです。

そのくらいぎりぎりまで削った舞台美術にも関わらず、やっぱり観るに値する出来に仕上がっています。ひと言でいえば役者が達者。王様から壁(笑)までこなす島地保武と、軽く明るい声がアクセントの谷山知宏のコンビがいい味出しています。この2人に、割とフラットに演じた大空ゆうひの3人が身体に存在感がある。四角関係の婚約騒動組も頑張ります。

なのですが、役者だけではない。やっぱりこれは演出の串田和美の意思が色濃く貫かれているから観られる芝居になっているんですよね。終盤に暗転して「壁を壊せ」という声と工事機器で壁を壊す音を挟んでくる。この壁が、劇中の王と職人と妖精であったり、それを演じ分けないといけない役者であったり、あるいは芝居の世界と役者自身の独白による現実の世界との壁でもあり、しっかり作り込んだ商業演劇とそこまでやらなくたって芝居は芝居というミニマムな演劇との壁でもあり、宝塚からダンサーまで多岐にわたる出自の役者の混成チームのことでもあり、いろいろ捉えられます。とにかく役者になんでも分け隔てなく演じさせることで、そういう壁を取っ払って見せたところに意味があるのかな、と受取りました。もちろん、客に向けても壁を取っ払ってみろよと訴えるところもあるのでしょう。

それは今の時代となってはやや純朴に過ぎるメッセージではないかと思わないでもないのですが、それにも関わらず一定の説得力を持って成立っているんですよね。挙げたようないろいろな壁を取っ払った芝居を実際に創ってみせたというだけでなく、様々な立場から長年芝居を創り続けてきた、松尾スズキに「真面目に不真面目をしている」と言わしめた串田和美の矜持みたいなものが支えになっているのでしょうか。「K.テンペスト2019」もそうでしたけど、いろいろなアレンジを施すことがあっても芝居の核は外さない自信があるのかもしれません。

その串田和美の役者ぶりですが、やや声は小さくかすれているものの以前とさほど変わりません。それより独白の場面とは一転、パックを演じているときのあのじゃれるような、思い出しながらやっているような、ふざけた様子はまさにいたずら好き妖精ですね。

2024年5月27日 (月)

劇団青年座「ケエツブロウよ」紀伊国屋ホール(若干ネタバレあり)

<2024年5月26日(日)昼>

婦人解放運動の先駆け、無政府主義者、奔放な恋愛で全国に名をとどろかせた伊藤野枝。女学校を卒業して初めの夫と結婚したものの、数日で家を飛び出して英語教師の家に身を寄せたが、そのままでは済まないため福岡県は今宿村にある生家に親から呼寄せられた。その実家に里帰りした伊藤野枝と、振回される周りの親族たちを描く四幕。

マキノノゾミ脚本で宮田慶子演出なら鉄板だろうと考えて観に行きましたけど、期待通りの面白さで存分に楽しみました。大半が九州弁ですけど、だいたい雰囲気でわかりますから心配無用です。

伊藤野枝というと芝居では「美しきものの伝説」や「走りながら眠れ」で観ていましたけど、それらとはがらりと変わったのは実家を舞台にしたから。猪突猛進(劇中では「有言実行」)な柄でありながら、家族だって言い分はあるから遠慮なくその我儘を責めてくる。そこに東京が舞台では出来なかったような対等な言い合いが生まれます。

今回は那須凜が騒ぎの真ん中で存在感を示して、いつの間にかタイトルロールを張れる女優になっていたのに驚きましたけど、周りの鉄板ベテラン勢がまだまだとばかりに貫禄で迫ってくるのがたまりません。回りくどい思わせぶりなど一切抜きで大喧嘩する一幕で魅せた祖母役の土屋美穂子のあの説教ぶりは痺れます。舞台の真ん中に陣取って決して怒鳴らず周りを抑える叔父役の横堀悦夫の存在感、ちょっとだけ強さを見せる母親役の松熊つる松、父親役の綱島郷太郎と世話役の小豆畑雅一のすっとぼけぶりとか、いいですよね。

あとは新劇の流れを汲む劇団として、着物が全員板に付いているのがいいです。それを最後に(身内では)大杉栄と二人だけ洋服にしたところは「人形の家」を思い出しました。あれも新しい時代の女性を描いた芝居です。そしてこの芝居では伊藤野枝の我儘を我儘として描きながら、「我儘を通して、周りにいっぱい迷惑をかけて、でも姉はそれでよかったんです(大意)」と言える線を狙ってその通りに仕上がっていました。そこがこれまでの伊藤野枝の描き方と異なって、さすがマキノノゾミ、さすが宮田慶子の仕上がりでした。

だから安心して観ていたら、最後にあの曲はちょっと合っていないかな。直接描かないだけで史実ではそんな幸せな最後じゃなかったぞと言いたいのはわかりますが、この芝居ならもう少しからっと賑やかに締めてもよかったと思います。でもそれくらいですね。後ろの席は空いていたみたいなので、行けば観られると思います。何かこの期間に適当な一本を探している人はぜひ。

2024年5月26日 (日)

新国立劇場主催「デカローグ5・6」新国立劇場小劇場(ネタバレあり)

<2024年5月25日(土)昼>

タクシーの運転手を殺して金を奪った青年。弁護人は研修の間に死刑の廃止を願うようになってから雇われた新人弁護士だった「デカローグ5」。友人の母の家に寄宿して郵便局で働く青年は、毎晩向かいの部屋に暮らす女性を覗くのが趣味だったが、それが高じてやりすぎてしまい「デカローグ6」。

デカローグ5は投げっぱなしの印象。一応、初めと終わりを妄想も駆使してつなげることで、青年がどうしてタクシー運転手を殺そうと思うようになったのかは想像が付きますけれど、だからといって青年に同情が湧きません。

これはタクシー運転手を演じた寺十吾が非常に上手に演じたのに理由のひとつがあります。これ、ネット情報だと違いますが、チラシだと「傲慢で好色な中年の運転手」と書かれています。ただ、客を選ぶのはその通りですが、客の方もせかすというか行儀が悪いというか、乗車拒否したくなる理由があって、そこに殺されてもしょうがないなという理由は見えませんでした。むしろよくいるおっさんです。

それに対して、青年役の福崎那由他がただの挙動不審以上の演技が出せなかった。終盤の面会で客を掴んで一理あると思わせないといけないのに成功していません。

それと新米弁護士の渋谷謙人も、死刑廃止を願う台詞がいかにも弱い。ここは面接官の斉藤直樹や裁判長の名越志保も相手役として助けていたのですが、乗りきれなかった。最後の死刑の瞬間に皆が顔をそむける演出があったから、別に死刑廃止を願う意見に距離を置いた演出を目指したとも思えないのですが。

結局、タクシー運転手が一番まともそうな客を選んだら一番まともじゃない客に当たって殺されてしまう不運に当たった、犯人を捕まえてみたらこれまでの人生に不運はあったにしてもいきずりのタクシー運転手を殺してもしょうがないとはとても言えない動機だった、それを弁護した弁護士は若いなりの理想は持っていたかもしれないけれどいきずりの強盗殺人を弁護できるだけの理屈は持合わせていなかった、という仕上がりです。十戒の「殺してはならない」を犯した人間を死刑で殺すのは是か非か、みたいなところを狙いたかったのかもしれませんが、あるいは人が人を殺すようになるまでには1つの失敗からどんどん取返しのつかないところに転がっていってしまうのだと示したかったのかもしれませんが、役者が追いついておらず投げっぱなしで終わってしまいました。

デカローグ6は団地の向こうの部屋を覗くという、ようやく団地らしい美術の必然が出てきた1本。そこから転がって転がって転がる展開は芝居らしい進みです。

ただ、設定にいかにも古さを感じてしまったのがつらい。現代日本はストーカーに刺すか刺されるかの時代なので、覗いた相手に覗かれた側が興味を持つという展開にはできません。そのあたりが、もちろん芝居だから作り話なのですが、ファンタジーに思えてしまったのがつらいです。そのファンタジー感を、天使役の亀田佳明が真っ白い服装でさらに進めることになっていました(あとでひっくり返りますけど)。

それでも、大勢を相手にすることに疲れて変わった青年に興味を持つ女性に、自分の子供が家に寄りつかなくてその友人が暮らすことで安堵を覚える婦人が、独り暮らしはつらいと話すあたりは今様というか、普遍的です。だからやりようによってはもっと上手くできた。

それがいまいちになったのは、一に脚本。もう少し登場人物の情報整理をすっきりさせてほしかった。覗かれる女性が画家であるとは代理人が出てきて早めにわかるけれど、絵を描く、つまり働いている感じは皆無。青年の仕事ぶりと比べて情報量が落ちすぎです。青年も、友人の母の家に寄宿する青年という関係がわかるのは少し後になってからだし、外国語の勉強に熱心な青年という情報もかなり後に唐突に出てくる。

その不十分な脚本を元に役作りするのが、青年役の田中亨も、覗かれる画家役の仙名彩世も追いついていなかった。不十分なりに何とか持ってきてくれとも思いますが、あの脚本でさてどうするかと聞かれると迷うところです。小劇場出身役者ならもっと何とかしたかもしれませんが、他の4人がチョイ役含めていい出来だったのがまた、もったいないというかなんというか。

この5と6は、脚本の不親切さを演出と役者でどうにもしきれなかった、という感想です。映像だともう少し情報が多かったのかもしれませんが、舞台にするならもう少し工夫してほしいです。