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2024年6月15日 (土)

劇団四季「オペラ座の怪人」神奈川芸術劇場ホール

<2024年6月8日(土)昼>

オペラ座の備品がオークションに出されている。それを競り落とす子爵夫人が昔を思い出す。それはオペラ座のオーナーが交代して、新作の稽古中に挨拶にやって来たときのことだった。座席と高額の報酬を要求する手紙と、それが叶えられない場合にとオペラ座で頻発する事故に立腹して、プリマドンナが降板してしまう。当時端役の1人だったクリスティーヌは急遽抜擢されて大成功を収め、子供のころに出会っていた子爵と再会する。だがその成功の裏には、「先生」として毎夜クリスティーヌの歌を訓練するオペラ座の怪人の存在があった。

有名な作品です。粗筋は知っているしミュージカルだしで、安い席で臨みました。それで見切れになるのは覚悟していたから納得しました。

ただ、「オペラ座」の怪人なんですよね。なので登場人物がことごとくビブラートたっぷりのオペラ歌唱でした。その上、席が悪かったのか安い席まで音響の手が回らなかったのか外部劇場では調整に限界があるのか、オーケストラの音が目一杯張り出して歌声に重なってしまいました。そうすると明晰な発声を旨とする劇団四季でも何を歌っているのか歌詞がわかりませんでした。

つまり見切れと不明な歌詞で、何のために観に行ったのかわかりませんでした。慣れた人なら歌詞を脳内補完しながらソプラノとテノールを楽しめたのでしょうが、ミュージカル素人の私には無理でした。慣れない分野ほどいい席を狙うべきだったと勉強になりました。

ゴツプロ!「無頼の女房」本多劇場

<2024年6月7日(金)夜>

昭和二十三年の東京。人気作家の塚口は自宅に押掛ける編集者を待たせて二階で原稿を書き続ける。言論の鋭さと、躁鬱が激しくて二階から庭に飛び降りたりするような奇行を行なうことから無頼派作家と呼ばれる塚口を内縁の妻は支えるが、その妻にも我儘を言っては編集者や作家仲間の付合いを優先させてしまう。そんなある日、塚口が原稿を書き上げて編集者と飲みに行くが、編集者が原稿を忘れてしまう。それは塚口が以前に愛していた女流作家との話を描いたものだった。

坂口安吾をモデルにしつつ、その妻と周りの人物に焦点を当てた1本。中島淳彦脚本は初見ですけど、いい意味で小劇場らしい大らかさに溢れた仕上がりでした。

それぞれ欠点なり弱点なりの多い登場人物たちを前向きに仕上げてくるところはお手本です。一方で、熱量を前面に出した塚口に対して登場人物全員、距離感にある程度の齟齬があり、塚口が面倒見のいい相手は冷静で、塚口に親身な人ほど塚口が我儘をいうのは、世の中そういうところがあるよね、といったところでした。それがある出来事をきっかけに爆発する脚本、よくできています。

ただ、「贋作・桜の森の満開の下」は観たことがあっても、私は坂口安吾を1本も読んだことがないんですよね。だから一生懸命原稿を書いているのはわかっても、女流作家の話と、台詞でいくつか出てくる話以外、どういうことを書いている作家なのかがわかりませんでした。職業作家として生活のために原稿を書く必要があるのはわかりますが、無頼派として飲み歩く以外に作家としてのインプットをどこでしているいのかがわからなかった。「原稿を走る筆の音が、まるで身を削る刃物の響きに聞こえて」という台詞が浮いていた。脚本に足りなかったことをひとつだけ挙げるとしたら、塚口の作家面です。

ただしタイトルロールはその妻ですし、その分だけ周りの人間を描いています。いまなら編集者はもっと無礼な人間に描かれてもいいんじゃないかと思いますが、初演が2002年らしく、それならしょうがないです。個人的に好きな場面は、お手伝いのかんのひとみが爆発するところ、匿われに来た女流作家の妹を作家仲間の久保酎吉が口説こうとするところ、その妹の鹿野真央が姉の靴を置いて姉の身体を順番に思い出すところ、です。本筋と関係あるようなないようなところにも見所、演じどころの多い芝居でしたし、役者もそれによく応えて、しかも最後はばっさりと終わるところが、いろいろ見事でした。

近ごろの流行りである精密に深彫りしていく演出の芝居とは反対でしたが、脚本には合っていましたし、それで楽しめました。急に芝居を観られることになったので何を観ようか迷って選んだのですが、我ながらいい選択でした。

フライングシアター自由劇場「あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た」新宿村LIVE

<2024年6月7日(金)昼>

王が滅ぼした国の女王との結婚を数日後に控えたある日、家来が王に訴える。息子の婚約者がである女性が、息子の友人と心を寄せ合っているのだという。女性は友人の女性に別れを告げて森に駆落ちするが、これが息子に告口して二人で森に向かう。その夜の森では職人一同が王の結婚式で上演するために稽古に励んでいた。だが森の中では妖精の王と女王が喧嘩中であり、これを何とかするために妖精王はいたずら好きの妖精パックに命じて目を覚まして初めて見た者を好きになる媚薬を女王に塗るように渡す。妖精パックがあちらこちらで媚薬を塗ってしまい・・・。

えーと、すいません、日にちを置いて感想を書こうとしたらチラシがどこかに紛れてしまいました。が、Wikipediaを見たところ家来の「娘」が婚約者の「男性」がいるにも関わらず別の「男性」と恋仲になり、という筋ですね。なんか間違いながら観ていたようです。大勢に影響はありませんが、そのくらいの集中力だったということで、あらかじめ断っておきます。

元は「真夏の世の夢」ですが、人間の王と家来に関わる話、妖精の話、稽古する職人の話、役者がそれぞれで1役ずつ持った上で、さらに役者としての独白を持たせるように構成された芝居です。全員白い衣装で、舞台は白い幕に、木とか城とかの形に切り出した白いパネルを役者が動かします。だからしつらえだけなら学芸会と言っても当たらずとも遠からずです。

そのくらいぎりぎりまで削った舞台美術にも関わらず、やっぱり観るに値する出来に仕上がっています。ひと言でいえば役者が達者。王様から壁(笑)までこなす島地保武と、軽く明るい声がアクセントの谷山知宏のコンビがいい味出しています。この2人に、割とフラットに演じた大空ゆうひの3人が身体に存在感がある。四角関係の婚約騒動組も頑張ります。

なのですが、役者だけではない。やっぱりこれは演出の串田和美の意思が色濃く貫かれているから観られる芝居になっているんですよね。終盤に暗転して「壁を壊せ」という声と工事機器で壁を壊す音を挟んでくる。この壁が、劇中の王と職人と妖精であったり、それを演じ分けないといけない役者であったり、あるいは芝居の世界と役者自身の独白による現実の世界との壁でもあり、しっかり作り込んだ商業演劇とそこまでやらなくたって芝居は芝居というミニマムな演劇との壁でもあり、宝塚からダンサーまで多岐にわたる出自の役者の混成チームのことでもあり、いろいろ捉えられます。とにかく役者になんでも分け隔てなく演じさせることで、そういう壁を取っ払って見せたところに意味があるのかな、と受取りました。もちろん、客に向けても壁を取っ払ってみろよと訴えるところもあるのでしょう。

それは今の時代となってはやや純朴に過ぎるメッセージではないかと思わないでもないのですが、それにも関わらず一定の説得力を持って成立っているんですよね。挙げたようないろいろな壁を取っ払った芝居を実際に創ってみせたというだけでなく、様々な立場から長年芝居を創り続けてきた、松尾スズキに「真面目に不真面目をしている」と言わしめた串田和美の矜持みたいなものが支えになっているのでしょうか。「K.テンペスト2019」もそうでしたけど、いろいろなアレンジを施すことがあっても芝居の核は外さない自信があるのかもしれません。

その串田和美の役者ぶりですが、やや声は小さくかすれているものの以前とさほど変わりません。それより独白の場面とは一転、パックを演じているときのあのじゃれるような、思い出しながらやっているような、ふざけた様子はまさにいたずら好き妖精ですね。

2024年5月27日 (月)

劇団青年座「ケエツブロウよ」紀伊国屋ホール(若干ネタバレあり)

<2024年5月26日(日)昼>

婦人解放運動の先駆け、無政府主義者、奔放な恋愛で全国に名をとどろかせた伊藤野枝。女学校を卒業して初めの夫と結婚したものの、数日で家を飛び出して英語教師の家に身を寄せたが、そのままでは済まないため福岡県は今宿村にある生家に親から呼寄せられた。その実家に里帰りした伊藤野枝と、振回される周りの親族たちを描く四幕。

マキノノゾミ脚本で宮田慶子演出なら鉄板だろうと考えて観に行きましたけど、期待通りの面白さで存分に楽しみました。大半が九州弁ですけど、だいたい雰囲気でわかりますから心配無用です。

伊藤野枝というと芝居では「美しきものの伝説」や「走りながら眠れ」で観ていましたけど、それらとはがらりと変わったのは実家を舞台にしたから。猪突猛進(劇中では「有言実行」)な柄でありながら、家族だって言い分はあるから遠慮なくその我儘を責めてくる。そこに東京が舞台では出来なかったような対等な言い合いが生まれます。

今回は那須凜が騒ぎの真ん中で存在感を示して、いつの間にかタイトルロールを張れる女優になっていたのに驚きましたけど、周りの鉄板ベテラン勢がまだまだとばかりに貫禄で迫ってくるのがたまりません。回りくどい思わせぶりなど一切抜きで大喧嘩する一幕で魅せた祖母役の土屋美穂子のあの説教ぶりは痺れます。舞台の真ん中に陣取って決して怒鳴らず周りを抑える叔父役の横堀悦夫の存在感、ちょっとだけ強さを見せる母親役の松熊つる松、父親役の綱島郷太郎と世話役の小豆畑雅一のすっとぼけぶりとか、いいですよね。

あとは新劇の流れを汲む劇団として、着物が全員板に付いているのがいいです。それを最後に(身内では)大杉栄と二人だけ洋服にしたところは「人形の家」を思い出しました。あれも新しい時代の女性を描いた芝居です。そしてこの芝居では伊藤野枝の我儘を我儘として描きながら、「我儘を通して、周りにいっぱい迷惑をかけて、でも姉はそれでよかったんです(大意)」と言える線を狙ってその通りに仕上がっていました。そこがこれまでの伊藤野枝の描き方と異なって、さすがマキノノゾミ、さすが宮田慶子の仕上がりでした。

だから安心して観ていたら、最後にあの曲はちょっと合っていないかな。直接描かないだけで史実ではそんな幸せな最後じゃなかったぞと言いたいのはわかりますが、この芝居ならもう少しからっと賑やかに締めてもよかったと思います。でもそれくらいですね。後ろの席は空いていたみたいなので、行けば観られると思います。何かこの期間に適当な一本を探している人はぜひ。

2024年5月26日 (日)

新国立劇場主催「デカローグ5・6」新国立劇場小劇場(ネタバレあり)

<2024年5月25日(土)昼>

タクシーの運転手を殺して金を奪った青年。弁護人は研修の間に死刑の廃止を願うようになってから雇われた新人弁護士だった「デカローグ5」。友人の母の家に寄宿して郵便局で働く青年は、毎晩向かいの部屋に暮らす女性を覗くのが趣味だったが、それが高じてやりすぎてしまい「デカローグ6」。

デカローグ5は投げっぱなしの印象。一応、初めと終わりを妄想も駆使してつなげることで、青年がどうしてタクシー運転手を殺そうと思うようになったのかは想像が付きますけれど、だからといって青年に同情が湧きません。

これはタクシー運転手を演じた寺十吾が非常に上手に演じたのに理由のひとつがあります。これ、ネット情報だと違いますが、チラシだと「傲慢で好色な中年の運転手」と書かれています。ただ、客を選ぶのはその通りですが、客の方もせかすというか行儀が悪いというか、乗車拒否したくなる理由があって、そこに殺されてもしょうがないなという理由は見えませんでした。むしろよくいるおっさんです。

それに対して、青年役の福崎那由他がただの挙動不審以上の演技が出せなかった。終盤の面会で客を掴んで一理あると思わせないといけないのに成功していません。

それと新米弁護士の渋谷謙人も、死刑廃止を願う台詞がいかにも弱い。ここは面接官の斉藤直樹や裁判長の名越志保も相手役として助けていたのですが、乗りきれなかった。最後の死刑の瞬間に皆が顔をそむける演出があったから、別に死刑廃止を願う意見に距離を置いた演出を目指したとも思えないのですが。

結局、タクシー運転手が一番まともそうな客を選んだら一番まともじゃない客に当たって殺されてしまう不運に当たった、犯人を捕まえてみたらこれまでの人生に不運はあったにしてもいきずりのタクシー運転手を殺してもしょうがないとはとても言えない動機だった、それを弁護した弁護士は若いなりの理想は持っていたかもしれないけれどいきずりの強盗殺人を弁護できるだけの理屈は持合わせていなかった、という仕上がりです。十戒の「殺してはならない」を犯した人間を死刑で殺すのは是か非か、みたいなところを狙いたかったのかもしれませんが、あるいは人が人を殺すようになるまでには1つの失敗からどんどん取返しのつかないところに転がっていってしまうのだと示したかったのかもしれませんが、役者が追いついておらず投げっぱなしで終わってしまいました。

デカローグ6は団地の向こうの部屋を覗くという、ようやく団地らしい美術の必然が出てきた1本。そこから転がって転がって転がる展開は芝居らしい進みです。

ただ、設定にいかにも古さを感じてしまったのがつらい。現代日本はストーカーに刺すか刺されるかの時代なので、覗いた相手に覗かれた側が興味を持つという展開にはできません。そのあたりが、もちろん芝居だから作り話なのですが、ファンタジーに思えてしまったのがつらいです。そのファンタジー感を、天使役の亀田佳明が真っ白い服装でさらに進めることになっていました(あとでひっくり返りますけど)。

それでも、大勢を相手にすることに疲れて変わった青年に興味を持つ女性に、自分の子供が家に寄りつかなくてその友人が暮らすことで安堵を覚える婦人が、独り暮らしはつらいと話すあたりは今様というか、普遍的です。だからやりようによってはもっと上手くできた。

それがいまいちになったのは、一に脚本。もう少し登場人物の情報整理をすっきりさせてほしかった。覗かれる女性が画家であるとは代理人が出てきて早めにわかるけれど、絵を描く、つまり働いている感じは皆無。青年の仕事ぶりと比べて情報量が落ちすぎです。青年も、友人の母の家に寄宿する青年という関係がわかるのは少し後になってからだし、外国語の勉強に熱心な青年という情報もかなり後に唐突に出てくる。

その不十分な脚本を元に役作りするのが、青年役の田中亨も、覗かれる画家役の仙名彩世も追いついていなかった。不十分なりに何とか持ってきてくれとも思いますが、あの脚本でさてどうするかと聞かれると迷うところです。小劇場出身役者ならもっと何とかしたかもしれませんが、他の4人がチョイ役含めていい出来だったのがまた、もったいないというかなんというか。

この5と6は、脚本の不親切さを演出と役者でどうにもしきれなかった、という感想です。映像だともう少し情報が多かったのかもしれませんが、舞台にするならもう少し工夫してほしいです。

2024年5月12日 (日)

青年団「思い出せない夢のいくつか」こまばアゴラ劇場

<2024年5月11日(土)夜>

歌手とマネージャーと付人が、営業先に移動するために夜中の電車に乗っている。煙草を吸いに行った別の車両では、妙な乗客に話しかけられて辟易とする。車中のこととてたいしたことができるわけでもなく、取りとめもなく交わされる会話の数々。

マネージャー役の大竹直と歌手役の兵頭公美は2019年版と同じ、付人が南風盛もえで今回は変わりました。元は緑魔子主演の外部プロデュースのために書かれた、銀河鉄道の夜をモチーフに作られた一本ですけど、当日パンフには「阿房列車」をセルフカバーする形で作られたとありました。冒頭にほとんど同じ会話を出してきたので、両方観るとそこは同じような台詞でも変わるものだなと。

あれと言えばこれと返せるくらい話が合う付合いの長い歌手とマネージャーで、別の人間と結婚数ヶ月で破綻した歌手はマネージャーにひそかに好意を寄せている、というところまでは2019年版と同じです。ただ2019年版は、「夫婦が似るって本当ですか」と聞く若い付人に懸想するマネージャーと、それを察していながら知らん振りして若い付人を遠くへやれないか考える歌手、という関係に見えました。そこが今回は、すでにマネージャーと付人は付合っていて、付人は歌手を尊敬していて、歌手は二人を応援する、という関係に見えました。はっきりとした応援の台詞や笑いの終わりに泣いたように見せる演技が前回はあったか、思い出せません。

前回観たときもいいなあと思いましたが、この芝居にはマネージャー役の大竹直と歌手役の兵頭公美の組合せが似合っています。青年団で平田オリザの演出に応えつつ、普段の青年団らしくない雰囲気も出せますよね。南風盛もえも好演でした。

S高原から」「銀河鉄道の夜」と来て、「阿房列車」に続けてこの「思い出せない夢のいくつか」を観て、こまばアゴラ劇場の閉館前の観劇を締められたのはよかったです。「思い出せない夢のいくつか」を最後の1本にしたかったので、それは上手くいったし、最後の1本にふさわしい仕上がりでした。

青年団「阿房列車」こまばアゴラ劇場

<2024年5月11日(土)夕>

娘夫婦を訪ねるために電車に乗っている夫婦。何となく気のない会話しているところに若い女性がやって来て向かい座る。夫は何かと話しかけるが若い女性には迷惑そうである。

「旅行ですか」と話しかけるところから始まる三人の会話は、平田オリザの本に書かれていたかな。オチのない会話が続く中、三人の誰がいるかいないかを使って描かれる夫婦の関係です。

何かと夫に気を使うのに夫から気に掛けているようで雑に扱われる妻、妻には気のない会話をするのに若い女性には何かと話しかけたい夫、夫に話しかけられても迷惑そうにするのに夫のいないところでは妻に自分から話しかける若い女性、実に上手です。三人とも好演でしたが、役どころもあってかたむらみずほがやや目立ちます。

若い女性が社内販売の売り子を務めるのが二役ではなく別人であると劇中では示しながら進むところは、一見笑いを取りに行ったように見えます。だけど娘に会いに行くことを話す中で「もうすぐですね」と話したり、偽卵のことを話したりするあたり、どことなく孫のことを予感させます。

初演は平田オリザ初の外部への描き下ろしだそうですが、平田オリザのお手本のような芝居でした。

2024年5月 2日 (木)

青年団「銀河鉄道の夜」こまばアゴラ劇場

<2024年4月25日(木)昼>

学校でいじめられっ子のジョバンニが、町の夏祭の夜に、唯一の親友カムパネルラと銀河鉄道に乗って銀河を旅する。

前に一度観ていて、今回が二度目。ダブルキャストの初日でチーム白鳥座。相変わらず本家の宮沢賢治は読んだことがないのですけど、オープニングの暗転の中で騒ぐところの他にも細かい工夫が増えて演出には磨きがかかった印象。

初日だったせいか、青年団の芝居には珍しく精緻さよりも勢いで押しているように見える場面が散見した。やっている人たちは好きな演目なのだろうかと感じさせる場面が多く、その分もう少し、仕事に徹してほしいという印象を覚える仕上がり。どれだけやっても宮沢賢治のフォーマットから外れない脚本だけど、といってそのまま好きにやればいいってものでもないのだなと勉強になった。

新国立劇場主催「デカローグ2・4」新国立劇場小劇場

<2024年4月22日(月)昼>

夫が瀕死の病に倒れて入院している妻は、同じ団地に住む主治医を訪ねて夫の余命を知りたいと詰寄るが、主治医は医者として教えられないと断る。何としても知りたいと詰寄る妻は、不倫相手の子供を宿している、自分の歳ではこれが最後の出産の機会だが夫が治るなら堕ろさなくてはいけない、だから教えてほしいと詰寄る(デカローグ2「ある選択に関する物語」)。父は出張の多い働き盛り、娘は演劇学校の学生の父娘二人。出張前に請求書の支払を忘れていた父は娘に支払を頼むが、請求書と同じ引出しには自分の死後に開封するようにと書かれた封筒が入っていた。この封筒を自分の鞄に入れて持ち歩いていた娘は中身を読もうかどうか迷う(デカローグ4「ある父と娘に関する物語」)。

大きな感想は「デカローグ1・3」に書いたので手短に。

デカローグ2。産むか堕ろすか迷う役の前田亜季、伝えてはいけないのだが家族の過去という葛藤を抱えて迷う医者役の益岡徹。どちらもいいのですが、不倫相手役の近藤隼の微妙な軽さが残りました。ここだけ種類の違うリアリティを追おうとしたというか。

デカローグ4。父親役の近藤芳正と娘役の夏子の熱演が見ものの1本です。真面目な近藤芳正もいいものです。途中に出てくる演劇学校の場面で先生役の近藤隼がなんか笑わせてくれるというか、目を引きます。

新国立劇場主催「デカローグ1・3」新国立劇場小劇場

<2024年4月21日(日)昼>

大学の教授は別に仕事を持っている妻が長期赴任中のため息子と二人暮らしをしており、姉の助けを借りながら子育てをしている。世の中の大抵のことは計算できると早くにコンピューターを学んでいた教授は息子にも手ほどきをしており、息子も覚えが早い。そんな教授に信心深い姉は、新しく建つ近所の教会に息子を連れていくのはどうだと勧めるが、教授はあまり乗り気ではない(デカローグ1「ある運命に関する物語」)。クリスマスイブの晩、妻と子供にプレゼントを持って帰った男だが、女性が家を訪ねてくる。相手はかつての不倫相手で、夫が失踪したから一緒に探してほしいと頼む。男は妻を誤魔化して、自分の商売道具であるタクシーに女性を乗せて夜の街を人探しに走り回る(デカローグ3「あるクリスマス・イヴに関する物語」)。

ポーランド作られた、十戒に基づいた10本の連作テレビドラマを舞台化するシリーズ。元のテレビドラマは観たことがありませんが、同じ団地に暮らす人たちという設定になっていて、1本ずつは独立して観られるものの、それぞれの作品の間に薄いつながりがあるようになっているそうです。今回もそれを踏襲しています。

同時上演の「デカローグ2・4」も観たうえでの感想になりますが、役者の熱演は良とするも脚本演出スタッフワークでしくじった仕上がりでした。

まず自分は聖書にも十戒にも馴染みがありません。だからそこにぴんときません。それでも1本1本の芝居はまとまっていて、十戒を知らなくても楽しめます。1本1本それぞれに、ある状況に追込まれた人間が出てきて、その追込まれたところでいかに振舞うかが見所です。そもそも宗派によって細かい違いがあるみたいですが、Wikipediaに載っていたカトリック風の十戒をメモとして写しておきます。少なくともここまで1-4はその通りでした。

1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。

ただ、元が映像の芝居をおそらくほぼ同じ時間(50分から60分)で上演しようとしたのでしょうか。全体に間延びしました。元のテレビドラマはそこを映像で魅せていたのではないかと推察します。今回の舞台でもところどころで映像を使っていました。だけどテレビや映画では映像だけで主役を張って演出として魅せられますけど、舞台の映像はあくまでも芝居を助ける立場だと私は考えます。だから特に、それで時間を持たせようとした3だったり、鳥の飛び立つ映像で娘の先行きの不安を暗示した4などは映像の使い方が間延びに感じられました。

先にスタッフワークを書くと、美術と映像が喧嘩していました。まず美術自体、団地らしさを出すために2階建てにしていましたが、2階建てにしなくても全然いける話ばかりでした。しかも部屋の間取りを思いっきり無視した演出です。あれで通した役者の演技はさすがでしたが、いやもう平場の舞台を場面転換すればいいじゃないかといいたいです。そしてその2階建ての美術の手前に小さいスクリーンを設けるのはいいですが、奥にも映像を映します。これが2階建ての美術に邪魔されて映像の効果を半減させていました。音響照明が頑張っていた分だけ、もったいなかったです。

間延びの話に戻ると、これは脚本(上演台本)にも拠ります。10本の話をこの後も含めて5公演に分けての上演にまとめていますけど、それでも長い。私の感覚では「デカローグ1・3」を一本にまとめて前半、「デカローグ2・4」を一本にまとめて後半、休憩を20分を挟んでも3時間の1公演に押込むくらいでよかったです。

そうなると元のテレビドラマの設定を若干いじるところが出てしまうかもしれなくて、それは著作権の都合で無理かもしれませんし、昨今は原作を無視しすぎて映像化したところが叩かれたりしていますけれど、そこは何とかならなかったか。はっきり言えば10本通して1日上演できるくらいにしてほしかったです。「グリークス」という10本のギリシャ劇によるひとつの物語の前例があって、これはギリシャ悲劇ですから著作権はありませんけど、演出と予算は別にして脚本はそれができるくらいまで圧縮してほしかったです。

それと脚本はもうひとつ。元のテレビドラマでは10本の間に緩いつながりがあって、登場人物であったり話であったり、ちらっと別の話で触れるところが売りなようです。それは特に、登場人物のチラ見で今回は実現しています。ただ、本当にちらっとしか出てきません。同じ団地という、おそらく映像なら誰でもわかる設定があったらその世界への没入感につながったかもしれませんが、今回はいらなかったのではないでしょうか。話を圧縮するとこのあたりの緩いつながりが崩れて、反対にテレビドラマにはなかったつながりが生まれてしまいそうですが、それはそれとして挑戦してほしかった。

その緩いつながりのひとつに、10本全部に出てくる天使の男性があるらしくて、今回は亀田佳明が受持っていますけど、ここまでのところ1人多役以上のものが見えません。そこは脚本か演出でわかりやすくするところでした。

かれこれ考えると、企画の発案者とされている今回の演出家の小川絵梨子も、上演台本を書いた須貝英も、きっと原作のテレビドラマを好き過ぎたんでしょうね。「団地らしさを出すために二階建ての美術は外せない」「この展開にあの映像が挟まるのは再現したい」「あの1本のあの場面でこっちの1本のあの役が出てくるのは実現したい」とか盛上がったのではないかと妄想します。10本を1日で上演するために脚本演出を工夫せよと押付けてくる人がいなかった。私のここまでの不満はすべて企画の段階で撒かれた種のように思えます。妄想ですけど。

これだけ書きましたが、この後の「デカローグ5&6」「デカローグ7&8」「デカローグ9&10」の出来が役者以外にも素晴らしかったら手のひらを返す準備はしています。

で、ここまで吐きだしたので本編の感想は短めです。

デカローグ1。息子役の石井舜が熱演、高橋惠子が安定でしたが、芝居全体で見ればノゾエ征爾の父親役に負うところが大。役者ノゾエ征爾を初めて意識しました。

デカローグ3。小島聖の不倫相手役と、人探しに付合って熱心でマメな男役の千葉哲也、どちらも好演です。特に小島聖の役は、男と女とで見え方の違う役ではないでしょうか。怖いです。この1本には、クリスマスイブでご機嫌な警官と不機嫌な警官が出て来ますけど、なんか浮いているというか、都合で出したように見えるのが惜しいです。もう少し方々にクリスマスイブらしさを出す演出を足してもよかったのではないでしょうか。