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2025年6月15日 (日)

THE ROB CARLTON「ENCOUNTERS with TOO MICHI」赤坂RED/THEATER

<2025年6月14日(土)昼>

とある島国に、国土と同じ大きさの未確認飛行物体がやってきた。時のプレジデントは国民に平静を呼びかけて対応を誓う。それから1年半、未確認飛行物体は何もしない。何もしなさすぎて国民どころか世界中が慣れてくる。プレジデントから備えを任されているジェネラルとセクレタリーは1年半何もないままの備えに対して意見が割れてくる。会議が終わったプレジデントがやって来て今後の備えについて相談を始める。

初見の相手に笑ってやるものかと斜に構えていたけど、うっかり吹き出すこと多数。非常にくだらない、この上なく「無駄」な芝居(褒め言葉)をここまで一生懸命やる団体が現代日本にあるとは思わなかった。

作演出の村角太洋がふざけた前振りから一転してジェネラルもやっていたましたけど(役者名義はボブ・マーサム)、この芝居でずっと厳しい顔を貫き通した役者としての能力も買いたい。プレジデントの森下亮は、舞台でありながらそのまま撮影すれば映画にもできるのではという雰囲気はまさにプレジデント。そしてセクレタリーの高阪勝之は顔の作りがもうふざけていて真面目にやるほどに嘘くさくなる。ちょうど劇団員が減ったところだったようですが、ゲストの役者選びからしてきっちりと選んでいました。

簡単なりにスタッフワークもしっかりしていて、特に音の質が高いのは体感的に芝居の高級感につながっていました。近頃はこういう芝居なのに安っぽくなりませんよね。

これだけくだらないのに芝居全体に品がありました。笑えれば何でもいいとは考えない、きっちりと作りこんだ話で笑わせる、それが当然だろうという古き良き職人魂を感じました。公式1時間20分、劇場を出た時間実測で1時間半という詰込み方も素晴らしいです。何となく応援したくなる雰囲気を出していました。

劇場を出てから考えましたが、今時ゲスト紹介から物販案内まで行なう最後の挨拶も含めて、ヨーロッパ企画に一脈通じるものがあります。どちらも京都が拠点のようですが、熟成する余裕というか隙間というか、そういうものがまだ京都にはあるのでしょうか。

2025年6月 7日 (土)

劇団普通「秘密」三鷹市芸術文化センター星のホール(若干ネタバレあり)

<2025年6月6日(金)夜>

コロナになって間もないころ、茨城のとある一軒家。年老いた両親が二人暮らししていたが、母が入院したため父の面倒を見るために子供のいない娘が戻ってくる。母のいない暮らしに慣れない父がいつもの調子で娘に頼むが、夫を置いて手伝いに来ている娘も疲れる。息子夫婦も様子を見に来るが、子供のこともあるためいつもは見に来られない。隣の家の夫婦も何かあったら手伝うと言ってはくれるものの両親と同じくらいの年齢のためしょっちゅうは頼れない。疎遠な従弟夫婦は妻の母の介護で妻が仕事を辞めている。そんな家族の物語。

年老いた両親の面倒を見る話と、今の高齢者の男性と女性の典型的な調子とを組合せて、それらの日常を茨城弁で淡々と娘を中心に描く1本。これを演劇用語で格好よく言えば現代口語演劇もここまで来たかとなりますが、緊張感の高い場面を淡々と描きすぎて、観ていていたたまれなくなる1本。

介護の話で最近観たものでは、ほろびての「音埜淳の凄まじくボンヤリした人生」がありましたが、こちらは認知症の始まった父の話とはいえ、その描き方にはまだ演劇らしい工夫があり、それがまたよく出来ていました。ところがこちらは演劇らしい組立にはしてあるものの、場面場面はまったくもって日常そのもの。コロナの時期を舞台にしてはいますが、それは手伝いや面会を遠慮する理由の1つとして機能しているくらいで、本編自体はとことんあり得る話を突詰めていました。笑えるような場面も少しはあって客席は笑っていましたが、それはこの話をロングショットで観られる人のための笑いで、クローズアップで観ざるを得ない自分にとっては本当に他人事ではない。

その淡々とした裏側で表に出てこない話があります。出てくる家族それぞれに秘密があって、そこに引っかかる人が観たらいたたまれなくなる妄想をいくらでもあてはめられます。

ネタバレというかなんというか、差支えない範囲で書くと、従弟夫婦は揉める場面を一番はっきりと描きますがその家族問題は曖昧に話されます。兄夫婦は共働きで子供がいるものの兄がそれ以上に非常に疲れて見えてその理由が描かれません。両親は互いの関係は後半で描かれるものの、父親の様子をあの年代の男性の典型で片づけていいのか実はXXXではないかという疑いが終わっても晴れません。そして娘は東京に暮らして夫がいて働いているものの、そちらがどうなっているかがさっぱり描かれません。にもかかわらず登場する家族が、当たり前から頼りにするところまで幅はありますが、娘が面倒を見れば両親の話は解決すると考えている。兄夫婦だけはいろいろ考えて妹と相談しますが、自分が引取って面倒を見られないのでいろいろ頼もうと考えることははっきりしている。

ちなみに現代勤め人だと兄夫婦の考えが正しいとなります。従弟の妻が母の面倒を見るために仕事を辞めていますが、それはなし。介護のセンターも地域ごとにだいぶ整備されてきており、そこに頼んで、買物なり掃除なりなんなり、いろいろな手伝いを頼めます。本当に体調や怪我がまずければ役所で認定してもらえれば補助金も出ます。そういう話は病院か役所で相談先を教えてもらえます。その手配のために会社の休日を取って休みます。自分は仕事を続けて、そのお金で手伝いを頼みつつ、会える範囲で休日に顔を出すことになります。そうしないと介護で潰れるから。一番貴重なのは人手で、そのためにお金を払うことになります。

みたいな話を少しでも書けるようになってしまった人間としては、本当に他人事ではない。この淡々とした話で役者の緊張感がまったく途切れない。本当に近頃の役者は上手で、今回も全員上手だったのですが、娘役を演じた安川まりを挙げておきます。脚本演出の石黒麻衣は近所の妻役で、小劇場界は脚本演出出演を普通にこなす人ばかりで恐れ入ります。しいて言えば両親以外の人たちの見た目がもう少し年上に見えるとよかった。引算の極みのような舞台と照明がこの淡々としたところと地続きで、そしてこの手の話らしく音楽なしなのはさすがです。

三鷹の公演ですが、金曜日の夜に観たにも関わらず満員御礼なのはさすがでした。あと二日間公演はありますし、出来だけなら緊急口コミプッシュを出せる出来ですが、よくできていてお勧めしたい気持ちと、よくできすぎていたたまれなくなる気持ちと、両方あるのでそれは止めておきます。日常は演劇並みの緊張感に満ちているのだという芝居だったので、ぼくのおもしろいしばいがうれないのはみんなのみるめがないからだ、みたいな人がいたらこの登場人物たちにお金を払って足を運んで楽しんでもらえるかどうかは基準のひとつにいいかもしれませんから観ておくといいです。今時はそんな人はもう淘汰されていなくなったかな。

劇団四季「ライオンキング」有明四季劇場

<2025年6月6日(金)昼>

サバンナの百獣の王の頂点に立ち一帯を治めるライオンの王ムファサ。いずれ息子のシンバが王を継ぐことになっており、ムファサの弟のスカーは面白くない。スカーは自分が王の座を継ぐべく、ハイエナたちと手を組んで一計を案じる。

私が劇団四季と聞けば言えばこれという演目でしたがようやく観劇。日本上演は今で27年目。現地上演から1年で引っ張ってきたのだから劇団四季の行動力には恐れ入ります。

粗筋はしごく単純なものの、音楽のよさと、それと動物を表す衣装というか仮面というか人形のインパクトで印象に残る1本でした。現地っぽい音楽多めにしつつ打楽器だけは手前で生演奏させて観客の興奮を煽るのはなかなかよいアイディアです。あと今時のミュージカルと比べると、舞台美術でが映像を使っていません。初演がだいぶ昔なこともあるでしょうが、照明でサバンナの朝焼け夕焼けを出すところが、このミュージカルの原始的な舞台設定とテーマにはしっくりきました。

出ていた役者は慣れたものですが、よくぞまあ吹替えみたいな声の役者を脇にここまで揃えたものです。普通の芝居なら浮くところですが、この舞台だと動物を人間が演じる違和感との掛算でむしろプラスになっていました。

もう少し踊りが多いほうが好みですが、気になっていた演目を観られてすっきりしました。

2025年6月 1日 (日)

シス・カンパニー企画製作「昭和から騒ぎ」世田谷パブリックシアター

<2025年5月31日(土)夜>

昭和の落着いた時期の鎌倉。芝居好きの教授の家に、贔屓の旅芸人一座から以前も相手をした役者たちが訪ねてくる。人気役者の木偶太郎は教授の長女のいい口喧嘩仲間だが、弟弟子の定九郎は次女に一目惚れしてしまい次女も満更ではない。次女の気持ちを確かめるのを手伝ってほしいと兄弟子に無理やり頼み込むところに見回りの巡査がやってきて、いい案を思いついたからと木偶太郎は協力することになってしまう。

本家の「から騒ぎ」は観たことがありませんが、昔ながらの芝居のだいぶ強引なところは多数あって、そこを大泉洋を中心とした手練れに突っ込みを入れさせつつの力技で乗り切って大笑いという仕上がりでした。

巡査がどうしてそこまで他人の家の話に深く関わってしかも引っ掻き回すのかと現代劇なら通じないところ、こいつがすべての元凶だと芝居の中で突っ込ませつつ、昭和もまだ五輪前くらいなら馴れ馴れしいくらい入り込むのもぎりぎりあるかなというあたりを狙って翻案するのはさすがでした。日本家屋も女中も旅芸人も、ぎりぎり残っていたでしょう。これはこの時代を選んだ三谷幸喜の慧眼です。

それでもシェイクスピア原作で、しかもあの時代の喜劇ですから、話の進め方は強引の一言に尽きるのですが、その強引を納得させる主役に大泉洋を選んだ三谷幸喜のキャスティングはさすがとしか言えません。出て来るだけで拍手をもらう大泉洋はずるいのですが、この荒唐無稽な話を観客に納得させられるイメージと見た目と腕前のすべてを兼ね備えた当代の一人です。その相手役の宮沢りえが芝居を引張るのではなく馴染むのも久しぶりに見ましたが、そういうときでもいい役者ですよね。シス・カンパニー所属とはいえ脇に小劇場で揉まれたベテランを当てるところの確かさ。だから全員役に徹しつつ、熱海五郎一座よりもよほど東京軽演劇ではないかという仕上がりでした。

ちなみにこの日は巡査役の山崎一が名手らしからず二度もトチって、二度目は客席が笑いつつ役者が笑わないようにこらえる中、後ろを向いてごまかしたところから一気に引き戻した松本穂香の根性は見事でした。

それにしても大泉洋と宮沢りえが、年齢不詳でした。芝居上は特に年齢は触れられていませんが、途中で身体を使って入替る場面もあったりして、三十代前半と二十代後半くらいかなあ、というつもりで最後まで観られました。これが売れっ子役者というものかと帰り道でしみじみ思い返していました。

日本家屋の一間が舞台なので蛍を除けば動きの少ないスタッフワークですが、全体に色が少ないところが、狙っていたのでしょうけどよかったですね。一人を除いて衣装は白またはかなり白に近いグレー、日本家屋も余計な色のついた置物は置かずに、庭の隅の緑は照明を隠して目立たせず。花火映えするのもありますが、全体にすっきりして、昔の日本の家はこんな感じだったよなと祖母の家を思い出しました。

役者良し、スタッフ良しですが、それらをひっくるめてさすが三谷幸喜とこれはシャッポを脱ぐしかない芝居でした。カーテンコールで大泉洋が「こんなくだらない芝居を皆様よくぞ」と話すような芝居です。そもそも元の題名からして「から騒ぎ」なのですが、ここまで真面目にくだらない話に徹した喜劇は昨今貴重なので、無事に千秋楽まで完走してほしいです。

<2025年6月18日(水)追記>

文章を少し調整。

2025年5月25日 (日)

ニッポン放送企画制作「リプリー、あいにくの宇宙ね」本多劇場

<2025年5月24日(土)夜>

100隻の宇宙船を宇宙のあちこちの惑星に派遣して、何らかの鉱物を発見できないかと探すプロジェクト。その1隻の宇宙船が成果も乏しく地球に戻る途中で、アンドロイドが異常事態を発見して船員をコールドスリープから起こす。なんとエイリアンの卵が船内に産みつけられていた。ここから次々と災難に見舞われる宇宙船は、はたして無事に地球に戻れるのか。

ヨーロッパ企画で上演されてまったく不思議ない脚本で、今回はB級スペースコメディで辻褄を合せたながらもでたらめなのはお馴染みの展開。今回は外部出演者に劇団員少々の陣容で上演。全員気を抜かずに演じていましたが、どうでもいい場面でも顔芸で演技をしてくれた伊藤万里華のテンションは目を惹きました。シシド・カフカはでかい、という以上にあっさり目の仕上がり、に見せて割と長台詞を軽くこなして、こなしすぎて、あれは周りがもっとテンションが高くないと良さが半減するからこちら側のテンションを上げる演出プランもあったのではないかとか、なんというかいろいろ惜しい。

よく出来ていて笑いどころ多数も、グルーブ感を感じさせるところまではいかず。前回観たのが同じ劇場で「来てけつかるべき新世界」ですから、やや点が辛くなるのはしょうがない。難しいものです。

<2025年6月1日(日)追記>

少しだけ文章を調整。

悪童会議「見よ、飛行機の高く飛べるを」こくみん共済coopホール/スペース・ゼロ

<2025年5月24日(土)昼>

明治44年の名古屋の女子師範学校。新しい時代にふさわしい女性像を探しながら学年中でも浮いてしまう2年生の杉坂は、学業運動なんでも随一の4年生の光島と、ある夜の目撃を通して意気投合する。教師から借受けた自然主義の小説や与謝野晶子発刊の雑誌に感銘を受け、他の生徒とも協力して宿舎内で回覧する雑誌の編集を目指す中、そのうちの一人が「問題」を起こしたところを目撃されてしまう。

やはり名作でした。「女子もまた、飛ばなくっちゃならんのです」の台詞が代表かと思いますが、それを補強する台詞も、否定する台詞も、あちこちに散りばめられていて、実によくできている脚本です。

終盤の裏で行なわれている運動会で、芝居の山場の裏の競技には綱引きを持ってきていることに今回気が付きました。脚本がさすがです。そして、光島の普段着を赤にしておいて、新庄が白組で白い衣装なところは、舞台作りが上手ですよね。スタッフワークに手抜きなしで、劇団名に相反して、この場面に限らず脚本を丁寧に立ち上げていました。

それは役者選びにも表れていて、年上組は腕のあるところで固めていました。菅沼くら役が千葉雅子、安達貞子役が砂田桃子、板谷わと役がザンヨウコ、青田作治役が新原武、板谷順吉役が柳下大、中村英助役が唐橋充、校長役が俵木藤汰です。全員いい感じですが、板谷順吉を演じて固い台詞もしっかりこなして見せた柳下大が発見でした。女生徒組もなかなかでしたが、ここは出だしは普通だったものの途中から思いっきり杉坂を演じてみせた今村美歩を挙げておきます。他もなかなかでした。

さすがに会場が広すぎて土曜の昼公演と言えども満席にはなりませんでしたが、それでも客を散らせずにきっちり前方に寄せて収めて客席密度を保った制作陣と、テンションを保って演じてみせた役者陣には拍手を送りたいと思います。

<2025年6月1日(日)追記>

少しだけ文章を調整。

2025年5月12日 (月)

イキウメ「ずれる」シアタートラム

<2025年5月11日(日)夜>

とある会社の社長の兄とその弟。豪邸を建てた両親は海外に移住して2人暮らし。弟は精神病院に半年入院して退院したばかりだが、仕事だけでなく家事一切すら行なうつもりはない。事情があって長年勤めていた家政婦に暇を出したばかりなので新しく人を探している。幸い隣町出身の格好の人材が応募してきたので兄は雇って働き始めてもらったが、弟は弟で怪しげな男を家に連れ込む。折しも、山を越えた隣町では豪雨災害の影響で人だけでなく野生の動物まで避難してきていると言われている。

初日。ああ、イキウメっぽい、という芝居。具象芝居ではあるけど、半分ネタバレで書くと「人魂を届けに」とか「新しい祝日」とか、そんな感じ。そこでいままでのイキウメと違うなと感じたのは、観客に芝居と距離を取らせたかったか、登場人物5人とも、素直に感情移入できないような要素を持たせていること。さらっとしていいように見せているけどあの役もしれっと酷いですから(ネタバレ防止)。

それなりに笑いはあっても、観終わってすっきりするかというと、そういう芝居ではない。こんな終わり方でいいのかという終わり方。こんな終わり方でもそれなり以上に格好が付いてしまう世の中になってしまった。そういう現代をイキウメっぽく切り取って見せた1本。

ケムリ研究室「ベイジルタウンの女神」世田谷パブリックシアター

<2025年5月11日(日)昼>

親から社長の椅子を譲り受けた、とある大デベロッパー会社の世間知らずの令嬢社長。1か月後に結婚を控える婚約相手の専務は次の市長選に打って出る予定で順風満帆。そのためにもと、街中の貧民街ベイジルタウンの再開発を計画する。隣接する区画を譲ってもらうため訪れた会社の社長はかつての小間使いだが、まったく覚えていない。そこに相手から持掛けられたのは、令嬢社長1人だけでベイジルタウンで着の身着のまま1か月無事に過ごせたら土地をただで渡す、過ごせなかったらただで譲るという賭け。こうしてベイジルタウンにやってきた社長令嬢だが・・・。

これがKERA芝居かと言いたくなるくらいの予定調和に充ちたハートフル不条理ファンタジーコメディ。相変わらず名人芸の映像とステージワークまでハートフルな絵を使って、お終いは思いっきり甘く巻いて仕上げた1本。緒川たまきに本気でぶりっこをさせてどこまで魅力を引出せるかに挑戦したに違いないので、主役が体調不良では中止もやむなし。もともと緒川たまきメインのKERAとのユニットでもあるし。

役者は書かれている名前から好きな人を選べばいいんじゃないですかね、1行目と3行目なんて誰を選んでもいいですよ、と言いたいところだけど、古田新太があの役かと言われるとそれは疑問。この日は台詞ととちっていたけどそんなことは関係なく、さすがに役に合わなさすぎじゃないのかと。

2025年4月20日 (日)

ラッパ屋公演「はなしづか」紀伊國屋ホール

<2025年4月19日(土)夜>

昭和10年代もようやく後半にさしかかるころ、まだまだ長屋住まいの落語家が3人、金がないなりに稽古に身を入れながら暮らしている。そんなある日、落語家協会の幹部の発表を知った浅草の寄席の席亭が長屋に駆込んでくる。政府に睨まれる前に時勢に協力するとして、郭話や心中ものなどの落語を禁演にするという。憤る3人と席亭だが、軍需で儲かって寄席を支えている旦那が結構なことだと口にするのには言い返せない。3人それぞれに落語家の道を模索するが、戦争の時勢はだんだんと日本に不利になっていく。

落語家2人に落語もわかる役者1人を中心に据えての公演。今時2時間を切って終わるのは好感度が高いし、物語は王道の展開でよくできているし、役者は上手。ただしそれに対して役者の数が多すぎた感がある。当時の雰囲気を伝えるためにもある程度は仕方ないけれど、単発の線で終わってもったいない役どころがちらほらあり。主役3人は柳谷喬太郎はあの役でいいとして春風亭昇太とラサール石井はなんだかいつも通りすぎいかにもすぎな役だったので入替えてみてもよかったかも。

2025年3月16日 (日)

ワタナベエンターテインメント企画制作「マスタークラス」世田谷パブリックシアター

<2025年3月15日(土)夜>

世界的なオペラ歌手のマリア・カラス。彼女が劇場で生徒を相手に公開指導を行なうマスタークラスが開催される。やってきた生徒を相手に指導を行なううちに、昔の思い出がよみがえる。

黒柳徹子がセゾン劇場の再演で演じたのを観て以来だから何年ぶりでしょうか。細かいところは忘れて臨みましたが、実はよくできた話だったのだなと観終わって感心していました。

前に観たときはマリア・カラスのとがったプライドと、生徒や他の有名な歌手に対して意地が悪い様子のところに笑っていた覚えがあります。今回それはそれとして、マリア・カラスが音楽に対しては真摯に臨んでいた面をそれ以上に強調する演出でした。で、そこを取出したら、考え方としてはやや古いものの、古いなりに筋の通った、そして極めるからにはひとつのことに打込むことが当たり前、当たり前にならざるを得なかった余裕のない時代で最高峰まで上り詰めた歌手の芝居に仕上がっていました。

それを演じた望海風斗も、出だしはやや硬かったものの後半は調子が上がっていました。宝塚トップも務めた喉の披露はほどほどに、だけど経験と貫録は引っさげて、いいマリア・カラスでした。他もなかなかいいのですが、演奏とスタッフ役の2人はともかく、歌手の3人が単体で観るといいのですがどうも馴染んでいない。歌唱力優先で選んだためか地の場面の調子まで大げさに過ぎる。これは公演後半になるほど馴染んでしっくりくるケースと見受けましたが、こちらはもう一度観るわけにはいかないので、演出でもう少し調子は均しておいてほしかったです。

あまり比べるものではありませんが、とはいえやはり黒柳徹子の芝居を思い出すと、前半最後の回想場面で「私は勝った!」と叫んだときのあの一声、あれで私は黒柳徹子を女優と認識したので、あそこにひとつピークがほしかったとは思いました。それは他の歌手に対して意地が悪い様子との裏返しなので演出に合わなかったかもしれませんが。まだ芝居に対してどんなものかと探っていたころに受けた強烈な印象というのはなかなか抜けないものだと、帰り道に自分も回想していました。

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