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2022年9月18日 (日)

野田地図「Q」東京芸術劇場プレイハウス(ネタバレあり)

<2022年9月11日(日)昼>

源平両家が勢いを競う都で恋に落ちた、平の螂壬生と源の愁里愛。駆落ちが行き違いで心中になりかけたところ、未来の螂壬生と愁里愛が助けて一命を取りとめる。だが心中が美談となった都で2人は表立った活動を許されない。

初演も観て、なんか後半違うような気もするのですが思い出せません。相変わらず粗筋を書くのが難しい芝居という印象は共通です。ただ今回、初演のすっきりしなさの理由がなんとなくわかりました。ひたすらその言語化に務めます。

俊寛のオマージュとかクイーンの音楽とか、全部おまけと言って悪ければちょうどいいから選ばれた飾りです。名前が大事な時代だからこそ成立っていた「名前を捨ててやってきて」と願う有名なジュリエットのバルコニーの台詞、それが匿名が当たり前の時代になるとどうなるか。それを源平を舞台にしてロミオとジュリエットで前半、後日談で後半を描くのは、さすが野田秀樹の目の付け所です。

後日談のパートでは、匿名による相手への中傷と名を広めて相手を圧倒しようとする対立が源平の合戦に発展。偽名で戦に出陣したロミオが負けて捕虜になる。ここで一瞬だけジュリエットとすれ違うも、ロミオはスベリア(シベリア)送りになる。

過酷な環境で捕虜労働にこき使われ、無価値になった金による看守の買収も失敗する。耐えかねた仲間の一人がロミオの正体をばらして看守の買収を試みるも、すでにロミオの名前に価値がなかったため失敗。これで一命を取留めたものの、捕虜釈放のタイミングで偽名のロミオは名前がなかったため釈放にならず、最後には捕虜のまま亡くなる。

愛する人をロミオに殺されて復讐のために追っていたトモエゴゼ(巴御前)は、ロミオが亡くなったことを確認すると自分も力尽きる。

名を捨てたばかりに自分としての活動もできなくなり亡くなるロミオや、相手(の名前)への復讐が過ぎてその先につながらない巴御前。言葉遊びから引用から社会問題まで、いろいろな要素を取込んで匿名の行く末まで批判的につなげる一連の流れはまさしく野田秀樹調で、こういうのを観たいから野田地図を観るんだという会心の出来です。

ならば内容にも納得がいくかというと、そこが悩ましいところです。以下はこの芝居が現実社会への批判を込めているという前提に立って、批判対象の現実社会の理解が私の理解とずれている、という話です。

ひとつは名を捨てたに掛けた匿名の扱い。ロミオの最後は捕虜のまま野垂れ死にです。名前を捨てて活動した個人の哀れな末路、と見えます。そして源平の対立で匿名の中傷を流していたのは戦の情報戦、組織によるものです。

でも世の中の匿名の大半は、普段は日常生活を送りつつ、SNSなどではID、ハンドルネーム、芸名、何と呼んでもいいですが、日常生活を隠したペルソナで発信する人達です。ロミオの個人と戦の組織の中間に位置します。このボリュームゾーンへの言及が欠けていて、匿名の扱いが極端すぎるように、乱暴な表現をすれば雑と感じます。

そこに暴力性を見出すなら、匿名個人の誹謗中傷のほうが適切です。匿名個人が、茶の間のテレビに文句を言う感覚でSNSに書込む。そうやって発信された誹謗中傷を真に受けて、酷いときには対象者が自殺に至ったとして、でも誹謗中傷をSNSに書込むような人たちほどそんなことを気にしないし反省もしないでまた誰かについて同じような誹謗中傷を書くし、前に書いた内容と正反対の意見でも気にしない。考えが変わったのではなく、文句を書くことが目的になっているような状態ですね。それが大勢とは言いませんけど、それなりの数はいます。

その前提に立つと、死んだロミオを見つけて目標がなくなって倒れるトモエゴゼだけでは、役として一途すぎます。源平の対立時にはその時の支配者である平家に文句を書くけど、そのあとで都が源氏の支配になったら源氏の文句を書くような無責任なコロスがいると、もっと厚みが出たのになと思います。

もうひとつは戦争の扱い。初演では徴兵からシベリア送りまで、日本の太平洋戦争をあつかっていると思えたのですよね。今回も後半ぎりぎりまではそう考えながら観ていました。当時の日本の指導者層の無謀無策な開戦のツケを無名な兵士が払わされたと考えるなら、齟齬のない展開でした。

ただ、ラストの松たか子の長台詞、無名戦士として扱わないでください云々を聴いた瞬間に、現在進行形のロシアとウクライナに意識が向いてしまったんですよね。意見はいろいろあるでしょうが、ロシアが先に仕掛けて、ウクライナが急いで防戦した初期の展開には異論がないでしょう。そうすると、先に仕掛けたロシアはともかく、ウクライナ側は名を捨てるの拾うのと言っている場合ではない。正真正銘、生活と命を賭けて戦うことになる。そういう戦いが今まさに行なわれています。

そしてその一環で情報戦も必要になるし、それは公式(顕名)の発信だけでなく、匿名による発信も必要になる。それは自国を鼓舞し相手国を攪乱するだけでなく、周辺国を味方につけることの必要性も現代では大きいからです。

さしたる理由もなく軍隊が攻めてくることが現実にあるし、それは海を挟んだ隣国であるという現実は、戦争と言えば太平洋戦争だった多くの日本人の戦争観を変えたでしょう。少なくとも私は変えました。初演の2019年なら問題にならなかったのに、現実が3年前の想像を追越して、脚本の戦争観が古く見えてしまいました。

ここから先は独断と偏見です。野田秀樹は個人を、それも理由はどうあれ自分から動く個人を描くのが上手な人です。逆に社会問題を描くのは苦手な人です。社会問題を借景に持ちつつも最後は個人の物語に落ちるといいのですけど、最後に社会問題が全面に出てくると違和感が残ります。人種差別を扱いつつあの女の話でまとめた「赤鬼」や、原爆投下の責任問題を扱いながらミズヲとヒメ女で引張った「パンドラの鐘」は、上手くいったほうの例ですね。

ならば今回はどうか。会えない螂壬生と愁里愛がバラバラに動くので、主人公たちに向けるべき目が借景で収まってほしい戦争に向いてしまった。それは最後に抱き合うラストを引立てても、後半長く扱った戦争と捕虜の話を払拭するには至りませんでした。そこに匿名や戦争の扱い方の違和感が重なって、納得いかなかったのが今回の結論です。

繰返しますが、ロミオとジュリエットを源平の対立で置換えたことや、名を捨てたことの末路までつながる一連の流れは実によくできています。ただし、よくできていても自分の好みに合うかどうかは別の話というだけのことです。

最後に一般感想です。今回は女性陣が活躍して、広瀬すず、羽野晶紀、伊勢佳代が目を引く出来でした。松たか子も男性陣も文句はありませんが、ちょっと身体に鞭打って演技していたような印象を受けました。これだけ公演して、さらにこれから海外を含むツアーなので、一息入れて頑張ってほしいです。個別場面ではシベリアでロミオを売ろうとする小松和重の後ろ暗い感じが一等賞です。

初演では上手最前列で観たのを今回は1階センター後方で観られましたが、全体が見えたほうが美しいですね野田地図は。もともと私は全体を眺めるのが好きですけど、それを差し引いても。今回はフォーメーションに依存する演出ではありませんでしたが、白い舞台にひびのこずえの衣装が映えて、美しかったです。

なお今回はうっかり東京千秋楽が取れてしまったのですが、2回目のカーテンコールからスタンディングオベーション。5回目あたりで野田秀樹が一人で戻って収めようとしたのですが収まらず、7回目だったかな、そのくらいで野田秀樹がもう一度一人で出てきて、ようやくお開きになりました。贔屓の役者を間近で応援できるのはライブの醍醐味ですが、私は苦手ですね。もっと素直にスタンディングオベーションすればいいのに我ながら損な性分です。

2022年6月26日 (日)

新劇交流プロジェクト「美しきものの伝説」俳優座劇場

<2022年6月25日(土)夜>

国として活発だった大正時代。西洋に刺激された政治活動、女性解放運動、小劇場運動で、それぞれ活躍していた当事者たちの活動と交流の日々を描く。

有名なので観たいと願っては見逃し続けて、ようやく初見。追加公演で◇の配役(モナリザ=安藤みどり、サロメ=畑田麻衣子、尾行=星野真広)の日程。ものすごくよくできた脚本を、この上なく丁寧に仕上げて、これが初見でよかったと言える1本です。そしてそれだけに、芝居ではなく当時の実在の登場人物たちの意見に物申したくなる1本でした。

先に芝居の感想です。最近では昭和大正の再現なんて困難なところ、その雰囲気が受継がれている新劇の劇団が公演することで、非常に統一された仕上がりでした。劇場にもポスターがあった通り初演は文学座だし、登場人物のうちの小劇場運動関係者はさかのぼれば今回上演した各劇団のルーツです。いい悪いを超えてこれが本家による公演だというある種の正解感がありました。

それを実現した役者陣は新劇系の役者が並んで、普段新劇の劇団をあまり観ない自分には新鮮でした。その印象は「探せば名手はいるものだけど、こんなに名手が大勢いるとは知らなかった」。堺俊彦役の能登剛が出版社内で相手を軽くいなしつつ何となく腹で別のことを考えていそうな調子とか、久保栄役の古谷陸が劇団活動を批判する台詞の圧を島村抱月役の鍛治直人が少ない相槌で受けるくだりとか、今どきの芝居ではなかなか観られない場面です。

やっぱりですね、小劇場活動の元がスタニスラフスキーだメイエルホリドだと言っても、長年のうちに独自の演技メソッドが育ったのが日本の新劇劇団だと思います。たとえて言うなら楷書の演技。真面目な台詞はもちろん軽い台詞にも、いい意味で重さがあります。今回の脚本にもあった通り新しい演劇を志向するところから始まって、やがて日本人による日本を描いた脚本を上演しつつ、シェイクスピアその他の海外名作の翻訳も並演した歴史。これを言い換えると、今どきの目線では不自然な台詞でも成立させられるよう意味を込めて発声できるようにと格闘した歴史の成果です。さらに脱線すると、現代の小劇場出身の役者は、これもいい意味でもっと軽く自然に台詞を言う技術が磨かれた人が多いです。そういう脚本が増えたのが主な理由とみます。

話は戻って、観ていて安心できたもうひとつの理由がビジュアル面です。特に衣装や大道具小道具などに抜かりがないのは、開演してまもなくわかりました。着物がもはや時代劇の衣装になっている昨今、きっちり仕上げてくれたのは新劇の歴史あってのことです。

これらをまとめた演出は鵜山仁。見る人が見れば演出の癖があったのかもしれませんけど、もともと脚本を丁寧に演出する人です。観た感想では変にいじらずにきっちり立ち上げました。それでいて、必ずしも登場人物を全面肯定した雰囲気に流れず、落着きも感じられました。1968年の初演から半世紀、ここで書かれた大正時代からだと1世紀。脚本に希望として描かれた内容がその後どうなったかの回答はある程度出ています。座組の中でこの脚本の内容に目を輝かせる人ばかりではないのでしょう。演出が目指したところは不明ですが、結果として過剰な時代賛歌にならず、登場人物とその持論を立ち上げるところにつながっていました。

新劇合同プロジェクトとして取上げられるのにふさわしい脚本であり、またそれに見合った仕上がりに満足しました。

とここまでが芝居の感想。ここから先が芝居に出ていた登場人物の持論について。

芝居の出来がよく、登場人物とその持論が立ち上がったからこそ、その持論の欠点も見えてきました。

たとえば政治活動。社会主義者の多い登場人物ですけど、人によって多少の違いはありながら共通しているのは反政府ということ、そして打倒した後のことについて無責任であることです。大杉栄が「政治はトーキングよりアクション」「無政府主義者は政府を打倒したら野に下れ」という台詞がありますけど、無責任の極みですよね。打倒したからには運営して責任を引受けろよ、倒すところだけ楽しんで食い逃げするなよ、と。台詞をもじるなら政治はトーキングでもアクションでもなくオペレーションです。十二国記を読んだことがある人なら「責難は成事にあらず」で通じるでしょう。

女性解放運動も色恋沙汰の話はちょっと皮肉の入った台詞があちこちにありますがそれは置いておいて、松井須磨子の自殺の話題。その理由のひとつに観客の目になぶられて(大意)というくだり。そもそも江戸時代から役者の不行跡は瓦版のネタなわけで、そういう興味の目で見られる職業に乗込んできたら、初の女優だから芸術だからといってもしょうがないわけです。芸だけを評価してもらってしかも食える道なんて、並大抵の人が到達できるものではありません。昨今でこそ、SNSの発達であまりに直接的な悪口雑言が増えすぎて控えましょうと言われていますが、大勢の賞賛だけを集めて興味や非難は止めてくれなんてそんな美味い話はありません。ふたつよいことさてないものよ、ですね。

で、小劇場運動。新しい演劇を広めたいという意気込みと表裏一体で、どうしても観客を啓蒙するという意識がついて回るのですね。大きなお世話です。観客のひとりひとりに生活があり、時間を割いて木戸銭を払って芝居を観に来る。そこにエンタメを求めて何が悪かろうというものです。これを両立させるために島村抱月は、少人数を相手のサロンでは芸術的な芝居を上演しつつ、大劇場では一般受けする興行で稼ぎ、それを芸術と興行の二元論と言っています。ひとつの方法です。感想に書いた場面では、島村抱月の活動を矛盾していると久保栄が批判していますが、半分あっていて半分間違っています。そもそも趣味に啓蒙すること自体が大きなお世話だからです。

政治と言わず演劇と言わず、あらゆる分野で新しいことを始めたいなら「俺の言うことは楽しい、君たちにはこんないいことがある、だから俺に任せろ」で誘うべきところです。それを、雑に左翼と書きますが、左翼思想が強ければ強いほど、「俺の言うことが正しい、お前らは無知で間違っているから俺を認めて従え、でも後のことは知らん」の3拍子になります。了見が間違っています。こういっちゃ何ですけど、この間違った3拍子の了見は今の左翼に全部残っていますね。

亀戸に引っ越した伊藤野枝の台詞に「下町に引っ越したらみなさん荒っぽいですけど気の置けない人たちですのよ」なんてのがありますけど、こんな人たちの唱える民衆とは何なのか。よく聴くと実に微妙な台詞がそこかしこに散りばめられています。散りばめられているというとちょっと違いますね。そのつもりで読んだら芝居の意味が反転するように、登場人物の典型的な主張を取上げて煮詰めた台詞で脚本を書いたというほうが正しい。演出次第でどちらにでも上演できる点で、おそろしく完成度の高い脚本です。

そんな中で一番直接的な表現が、ロマン・ローランの引用である「民衆が幸福なら、広場の中心に杭を立てて花を飾れば人が集まり祭りが始まる。このような幸福な民衆に芸術は不要である(大意)」です。感想に書いた久保栄が島村抱月の劇団活動を批判する時に出てきます。脚本では「だけどそのような幸福に民衆は永遠に到達できないので、芸術は常に必要である(大意)」とも続きます。私にはこの場面が「誰も民衆の幸福を実現できなかった」と聴こえました。

初演の1968年は第二次世界大戦後です。戦前の理想論も敗戦後には空論にみえたでしょう。だけど新劇の歴史は紡がれたし、敗戦してなお自分たちの生活もここにある。だからここに取上げたような活動が、そういう理想論を本気で信じて活動していた人達が美しく見える。なんならこのうちの何人かは処刑されたからこそ、より美しく見えた。初演の時点で美しく見える時代だった。それは関係者には語り継がれる伝説であり、内実は空論の伝説だった。「美しきものの伝説」はそういう両面を含めてつけられた題である。脚本家の意図は知りませんが、私はそのように受取りました。

ここまで感想の射程圏が広がったのは、一にも二にも芝居の出来がよかったからです。ものすごく考えさせられました。登場人物の当時の主張を批判することと、芝居の出来が良くて褒めることは両立します。美しく力強い仕上がりだったことは、あらためて記載しておきます。

<2022年6月27日(月)追記>

全面改訂。

日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」下北沢本多劇場(2回目)

<2022年6月25日(土)昼>

おかわり

もう一度観ておきたいなと願っていたら都合のいい日程で良席が確保でき、公演初日直後と東京千秋楽直前の1か月で何か変わるかも興味があって、珍しい二度見です。

ネタの場面に多少アレンジというかアドリブがあったみたいだけど、驚くことにほとんど変わっていなかった。この変わっていなかったというのは、初日直後で観た時点でほぼ完成したクオリティで提供されて、それが1か月後もダレていなかったことを指します。構成のしっかりした脚本だからやりやすいだろうし、プロならそれができて当たり前と言えなくもないけど、やっぱりすごいです。

麻生久美子が学生から現在まで声色を変えて幅広く演じているのにも今さら感心しましたけど、阿部サダヲがあのテンションをきちんと出し続けていたのはもっと感心しました。

他の役者も含めて、脂の乗りきった仕事ですね。いい時期にいい再々演が巡り合った公演でした。

2022年6月13日 (月)

鵺的「バロック」ザ・スズナリ

<2022年6月11日(土)昼>

娘が放火して屋敷が火事になり行方不明になった名家。ひとりだけ生き残った妹は屋敷を再建し家庭を持つも、怪しい雰囲気の消えない屋敷を敬遠した家族は結局別の家に暮らして屋敷は空き家となる。やがて病気になり余命いくばくもない妹は、屋敷の解体を了承し、子供たちと一晩を屋敷で過ごす計画を立てる。集まった夫も子供たちも不満や不安を抱えて一家団欒とは程遠く、悪天候で外出もままならない中で、屋敷の不思議な現象に巻きこまれる。

新型コロナウィルスの初期に上演された芝居の再演で、その前に上演された「悪魔を汚せ」に近いテイスト。その数十年後の続編に見えるけど、姉妹関係や屋敷の場所が違うみたいだから別設定で、これ単発で観ても楽しめる。

前回は「金田一耕助も警部も出てこない金田一耕助モノ」という酷い話だったけど、今回はホラー要素のある酷い話ベースにしつつ、救いのある描写に落着いた。そうは言っても酷い話なので勢いが重要なところ、テンションの高さで最初から最後まで押切ることに今回も成功して、楽しめた。ただ、脚本でラストがちょっと長くて間延びしたところも前回と同じで、あれはもったいなかった。

スズナリだから場面転換で美術を動かすなんてことはできなくて、屋敷のロビーだけで展開される。だけど場面数のやたら多い脚本。これを実現するのが、決して広いとは言えないスズナリに目いっぱい建込んで奥行きも出した2階建ての舞台と、それを生かしていろいろな場面を切りかえるための照明と音響。ホラーなんてうっかりするとギャグになるところ、今回成功した理由の半分くらいは劇場の限界まで挑戦したスタッフワークで、前回以上に感心しきり。

<2022年6月14日(火)追記>

全面改訂。

2022年6月 6日 (月)

松竹製作「六月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

<2022年6月4日(土)昼>

妻と母の不仲に悩まされるも戦の才と忠誠心あふれる家臣に恵まれた信康が織田信長の勘気を受けて謹慎を命じられる「信康」。山王祭の江戸で芸者や鳶たちが踊りや芸を披露する「勢獅子」。

時間の都合で第三部が観られず、ならばと第二部に挑戦。

「信康」は染五郎が歴代最年少の17歳で信康を演じるのが目玉だったけど、「役者は声」派の自分には残念な出来。どれだけ見た目に凛々しく大声が通っても正直な声が出ていないのは駄目。役作りをどれだけ頑張っても声で結果が出せないのは駄目。贔屓のアイドルの初舞台なら温かい目で見守っても高麗屋でこれは駄目。信康、信長双方の家臣役や徳姫など正直な声の出せる役者が揃っているので、この公演の最中に吸収してほしい。家康の白鸚の活舌が衰えすぎなのも厳しかった。去年の弁慶では体力はまだしも活舌が悪いとは思わなかったけど。晩年の家康ならしっくり来たけど、40歳になるかならないかくらいの時代なので、貫禄は十分でも活舌で年齢が狂うのは困る。

「勢獅子」はにぎやかな踊り多数。獅子舞が出ているから正月の演目かと思って調べたら山王祭が舞台でちょうどこの時期の話題。我ながら祭りの季節感に鈍い。

2022年5月31日 (火)

日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」下北沢本多劇場

<2022年5月28日(土)夜>

毎年の竹神様の祭が唯一の楽しみである田舎の、さびれた食堂兼ホテルの「ドライブイン カリフォルニア」。経営者の妹が離婚して中学生の息子と戻ってきた。その息子が事故で死んでしまうが、成仏する前に幽霊となって、母が店で働いていたころからの店と家族の歴史を辿る。

粗筋だけだと何とも味気ありませんが、2004年の再演版を楽しんだ観客として今回も楽しめました。松尾スズキの代表作のひとつに数えられるべき素晴らしい芝居です。出だしが若干固かったけど、途中から乗ってくる大人計画の面々と、大人計画以上に大人計画っぽい熱演のゲスト達とが一体となって繰広げる、悲劇と喜劇の混在や、小劇場感とプロ感の両立。特定の役者やスタッフパートを取りあげるのが忍びない、全方面に底が高い仕上がり。

2004年当時は純粋に笑える場面で笑って、感動する場面で感動していました。今回少し違う感想として、この脚本は誰かを悼む心情で書かれたのではないかと思えるような、追悼の情を照れ隠しの笑いで覆った弔辞のように見える場面が度々ありました。いやまあ、幽霊が振返る設定だし、日本総合悲劇協会名義だから、そう見えて不思議ではないのですけど。役者の熱演ゆえでしょうか。

休憩なしで2時間15分。いい芝居には短時間で密度濃く描くものと、長時間経ったことに気が付かないものとがありますけど、これは後者です。新型コロナウィルスの中止とか起きずに千秋楽まで走りきれることを願います。

2022年5月23日 (月)

イキウメ「関数ドミノ」東京芸術劇場シアターイースト

<2022年5月22日(日)昼>

自動車事故の再調査で保険調査員に集められた関係者たち。自動車が歩行者をはねたはずなのに、歩行者は無傷で自動車が大破、助手席の同乗者が瀕死の重傷となる。関係者の証言を再確認しても原因は不明のまま。話が行き詰って大半の関係者が帰ったところで、目撃者の一人が仮説として提案したのが「ドミノ理論」。世の中には願いが何でもかなう人間が存在し、その願いが通常は月や年単位でかなうところ、今回は思った瞬間に願いが叶う「ドミノ1枚」現象だったのではないかという。提案した目撃者はこの仮説を確かめるためにある手段で検証を開始する。

2014年の再々演2017年の別企画公演に続いて3度目。今回はちょっと仕上がりが粗かった。もともと多少のことは気にならないよくできた脚本だから、過去の脚本で古くなったところやつじつまが不明だったところを手直ししたものの、ほぼそのままです。一番の違いが新しくオープニングとラストを追加したことで、これがいろいろ悪手。普通の人は観て楽しめますが、私には残念でした。以下、ネタバレにならないように配慮した拗らせたメタな感想ばっかりです。観てない人にはまったく参考になりません。

新しく追加されたオープニングとラストは、芝居の解釈の余地を残さない直球のメッセージ。もともとこの芝居は寓話らしさが魅力のひとつで、ラストの異なる2014年版でも2017年版でも余韻が残りました。今回この台詞を受持った安井順平はメッセージを担う十分な出来でしたし、芝居全体の造りもより誤解なくソリッドになっていましたけど、余韻は全部飛びました。ああ、これが「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」ことへの対応の実例なんだと合点がいきました。

演劇は観ている側の想像力も試される余地の大きい表現形式でもあり、だけど生身の人間が目の前で演じることで多少の不明点も何となく通じるところが他の表現形式にはない武器のひとつです。演者と観客との間に第三の舞台が立ちあがるというアレですね。なのにここまで言う。今回は観客の想像力を信じるのを止めたんだと思いました。観客の反応を探る実験なのか時代への対応なのかはわかりません。

メッセージを追加した賛否について1日考えましたが、アリかナシかで言われればアリですけど、好きか嫌いかで言えば嫌いです。ただ、以前の脚本をそのまま上演したら、おそらく好きだけど古いという感想になったはずです。わがままな観客ですね。上演自体を古臭く感じさせないためのアップデートとしては必要だったのかなと思います。難を言えば、メッセージを出す側のポジションが曖昧でした。オープニングの親や教師や上司にっていう台詞、上演側の人たちもすでにそちら側の立場に入っていておかしくない年齢であり、自分たちをどういうポジションに置いてこの台詞を書いたのかは気になりました。

そして、直球メッセージの副作用として、お前らどうなんだというのが出てしまった。初演のころには特に気にせずに書いたであろう設定に、年月が追いついてきた。結果、この追加したメッセージに胸を張ってイエスと言える出演者がどれだけいるかという話です。新型コロナウィルスで公演中止も経験した後ならなおのことです。

それかあらぬか、本来なら劇団員も脚本の設定に近い年齢になって演じやすくなっているはずですが、今回はなんかチグハグ感の残る舞台でした。幕が開いて1週間経っていないといえばそうですが、それにしても仕上がりが悪い。さすがに演出家がもっと磨いておいてほしかったです。ここで話は飛んで、メタな感想もいいところですけど、これが精一杯なら劇団が解散するかもと想像しました。

役者では安井順平と温水洋一、たまに太田緑ロランスがいい感じでした。役でいうと小野ゆり子は、アップデートされたつじつま合わせの中で終盤の説得力の要なので、もう少しがんばってほしかった。後半の浜田信也と盛隆二のかけあいが今回好きな場面で胸を打つものがあって、決して上手くないものの成立させるために上手さだけではなく思いも要求されるところ、あんなやり取りが場面として成立するところが演劇だよなと観終わってから思いました。

2022年5月 7日 (土)

新国立劇場主催「ロビー・ヒーロー」新国立劇場小劇場

<2022年5月6日(金)夜>

ニューヨークのアパートでロビー駐在の夜勤警備員として働くジェフ。毎晩勤務を見回りに来る上司は真面目だが尊敬できる。毎晩のように勤務中にアパートを訪ねてくる警察官は住民の一人に入れあげている。そのパートナーとなった見習い中の女性警察官はそうと知らず頼れるパートナーに好意を寄せている。ある日上司の様子がおかしいのでジェフが尋ねると、弟が警察に逮捕されたといい、何かできることはないかと心配する。パートナーを待つ女性警察官には好意を知らずうっかり警察官が住民を訪ねる目的をばらしてしまい、警察官に睨まれる。

ネタバレを回避しつつ一言で言ってしまえば、論語の有名な一説。むしろ孔子がなぜああ言ったのかを現代のシチュエーションで描いた会話劇。もっと小さいところでは、言いたいけど言えないことが人にとってどれだけ辛いかを描いた話ともいえる。これが4人の会話量かというくらい台詞だらけで休憩込3時間弱の芝居だけど、後ろに行くほど引込まれる力作。

脚本上、上司役が黒人であることが最初はよくわからなかったこと(アメリカの上演なら黒人が演じるから問題にならない)を翻訳で調整できなかったかという願いと、これだけやったのにあのラストは緩くないかという点にツッコミはあるけど、それくらいどうってことないと言えるくらいの脚本だった。親世代の話が遠まわしに土台になっているのが上手い。

駄目な役も愛嬌があって憎めないので、どの役の立場に感情移入するかが観る人によって変わりそう。これは観た人の感想が知りたい。自分はおっさん組の立場に同情してしまった。

場面転換以外で効果音はあっても音楽がないにも関わらずダレさせなかった役者が大豊作。愛嬌のある表情と台詞回しにくにゃくにゃした動きでジェフを演じた中村蒼が、台詞を言っていないときの仕草も含めて目が引かれる。その愛嬌を際立たせるのが上司の板橋駿谷と警察官の瑞木健太郎の(役としてはぶれるけど)ぶれない役作り。見習い警察官の岡本玲は若干硬かったけど終盤の説得場面は素晴らしかった。

桑原裕子演出は久しぶりだったけど、ここまで仕上げて来るとは正直予想していなかったのでうれしい誤算。それを支えたのは万全にして安定のスタッフワークだけど、今回はアメリカ現代劇にも関わらず日本語として違和感をほとんど感じさせなかった翻訳を挙げておく。

2022年3月14日 (月)

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」三鷹SCOOL

<2022年3月12日(土)夜>

東日本大震災が起きた日の新宿駅近く。就職活動をしていた女子学生は面接が中止になった挙句に電車が止まって家まで歩いてかえる羽目になる。喫茶店で離婚届の書類を書いていた女性は埼玉に帰れずに公園で休んでいたところを、寝過ごして地震に気がつかず中野からやってきた学生に声を掛けられてカラオケボックスで休む。スマートフォンの調子が悪い会社員は仕事で六本木に来ている最中に地震に遭う。新宿の本屋で働く女性は入社2年目にして仕事に疑問を抱く。その日の話と、だいぶ経ってからの日の話。

上演自体は今回で6回目(2016年初演で、2018年から毎年この時期)のはず。自分は2018年版2019年版を観ていた。過去2回と比べて、就職活動をしていた女子学生の話と、本屋で働く女性の話、スマートフォンの調子が悪い会社員の話はほとんど変わっていない。けど、今回は離婚届の女性と学生との話が妙に比重が多い印象。そのおかげで芝居全体にようやく納得がいった。

過去に観た回になかった演出として、YouTubeとサッカーだけが興味の学生を表現するのにサッカーをさせて、興味のないとき、あるいはどう振舞っていいかわからないときにユースという(内面の自分)役を登場させて相手そっちのけで(脳内)サッカーを始めてしまうという場面が何度も追加されていた。これが補助線として、観ているこちらが痛くなるほど有効に効いていた。ずうっと、相手よりコンテンツのほうに興味があったんだってのがよくわかった。

最後、ユースと髪型を整えるのと、女性に振られた帰り道にYouTubeでいつも観ていた大食いの芸能人と会って思わず声を掛けるところ。振られたとはいえ、コンテンツ内の登場人物から実在の他人へと興味が広がったこと。あの瞬間に「是でよかったのかも」が成立していた。

それと離婚届の女性。森ビルの屋上でこのあとどうするって訊いたときの雰囲気が素晴らしかった。震災の晩からフラットだったわけではなく、天秤の揺れるタイミングもあったんだというのがよくわかった。そこを経たから、謝る夫を許した(あるいはこれでも上等なほうだと認識した)展開に納得いった。こちらの夫も妻への気配りが今一つだったのを認めて謝って、復縁した2人に「是でいいのだ」が成立していた。

本屋で働く女性は退職して教員試験を受けることを選んだ選択を「是でよかったのかな」と悩む。けれど、選んだ選択肢を正解にするために努力しようとしているところに「是でいいのだ」が成立していた。

そして自己評価の低さに悩んでいた就職活動の女子学生は、一念発起した徒歩での帰宅にくじけそうになるところ、被災地の親と連絡がついて元気を取り戻す。このあと何とか帰宅したであろうと想像できる最後で終わって「是でいいのだ」が成立していた。

震災から翌年の年末まで、あるいは震災の年末、あるいは震災の晩、タイムスパンはそれぞれ違うけど、震災をきっかけに何かが動いて、それぞれがそれぞれなりの「是でいいのだ」と言えるところに落着く展開。いちゃもんをつけるなら、震災をダシにしたと言えなくもない。でも、よほどのことがないと人間そうそう変わることはできないところに震災というよほどの出来事があった、震災ですら変われない人が大勢いる中で変われたような登場人物を称えたい、というのが私個人の印象。そこはもう「是でいいのだ」と言うのがふさわしい。

過去に本作別作含めて出演経験のある役者が多かったおかげで、芝居全体の安定度は高かった。1人挙げるなら離婚届の女性役は鈴木睦海であっているかな、本作唯一、複数人(といっても2人だけど)と絡む役だからもともと目立つのだけど、そこをきっちり演じていた。あと客入れと音響と一部照明をしながらユース役をやったのは福島慎太かな。出ずっぱりなのも含めてずいぶん無茶な役どころをこなしたことに敬意を表したい。

理解があっているか間違っているかはどうでもよくて、自分としてもこの芝居にようやく納得がいったので、この芝居は「是でいいのだ」としたい。

加藤健一事務所「サンシャイン・ボーイズ」下北沢本多劇場

<2022年3月12日(土)昼>

長年コンビを組んで一世を風靡したが、解散してしまったコメディコンビのウィリーとアル。ウィリーはニューヨークの安ホテル住まいをしながら現役を続けているつもりだが、たまに来るオーディションもモノにできず甥の世話で暮らしている。そこにきたのがコメディの歴史を振返るテレビ番組の企画。破格のギャラを提示されるもアルとのコンビ再開が嫌で断るウィリー。そこを甥になだめられて企画を承諾したのだが、稽古の顔合わせから衝突を繰返す。

前提としてベテラン役者を充てることが要求される芝居で、加藤健一のウィリーと佐藤B作のアルはその条件を満たした2人。そのうえでコメディだから素直に楽しめばいいところ、いろいろ考えさせられた。

まずテンポ。海外コメディの、初演が1972年だから50年前(そこからさらに54年前がコンビ結成時期)という設定。古い時代とはいえ、ゆったりと話を運んで休憩を挟んで2時間半は長い。日本ならコント55号や横山やすし西川きよしが活躍していた時代。その時代の芝居なら、日常部分の芝居ももう少し早くしてもいけるはず。その場合、そこからさらに古い時代に演じられたという設定の劇中コメディとのテンポ合わせが問題になるけど、それも含めてテンポは演出がなんとかしてほしかった。

次に劇中劇。診察室を舞台に医者と税理士とのやり取りがメインだけど、その導入に看護婦が出てきてお色気ネタをやる。劇中の設定では戦前のネタだから悪いことはないし、そもそも本ネタ導入前の準備運動みたいなものだから大したネタではないのだけど、これが今のご時世では舞台ですらスレスレに見える。自分がテアトル・エコー版を観たのはたしか2002年で、その時は別に何とも思わなかったし、なんなら志村けんがテレビでお色気ネタをやっていた。だからって省略しろというわけではない。ここ数年、せいぜいここ10年の間に、ものすごい勢いで世の中の「清潔化」が進んでいるのだと気がつかされた。

そして主演の2人。加藤健一の演技がバタ臭いのは前と同じだけど、そこじゃない。何か役が生きていない。対照的なのが佐藤B作で、あのゆったりとしたテンポの中でもきっちり笑いを取ってくるし、芝居全体を通して加藤健一よりずっと自然に見えた。笑いはさておき、役作りで何が違うのか考えたけどわからない。無理やり言葉にすると、加藤健一は自分を脚本に寄せていて、佐藤B作は脚本を自分に寄せていた。あるいは、加藤健一は脚本から自分の役の内面を抽出して内に向かって役作りしていたけど、佐藤B作は脚本から相手役との関係性を抽出して外に向かって役作りをしていた。これであっているかはわからないけど、今回の芝居は佐藤B作に軍配を上げる。

最後に客席。最後列とその脇を除いてほぼ埋まっていたけど、ざっと眺めた限り、これが昼の下北沢かという高い年齢層だった。自分ですら若いほうから数えて一割に入っている自信があった。晩年のコメディアンが主演の演目だから、年齢が高いほうが面白味は増すかもしれないけど、若い人だって笑えるネタだし、伏線を張ってのネタもある王道のコメディのはずなのにこれ。若者人口は減っているし若者も忙しくて金もないしで難しく、既存の観客は年を取るものであり、自分もそちらの枠に片足突っ込んでいるんだなと認識させられた。

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