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2024年4月18日 (木)

梅田芸術劇場企画制作主催「VIOLET」東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタバレあり)

<2024年4月17日(水)昼>

1960年代、まだおおっぴらに人種差別されていたころのアメリカ。その田舎で暮らしていたヴァイオレットは白人だが、子供のころの事故が元で顔にひどい傷が残っており、町では避けられるか憐れまれるかされるばかり。それでも昔テレビで見た、あらゆる傷を治す奇跡を起こす伝道師に会うことを励みに自宅の農園で働く。とうとう旅に十分な金が貯まったヴァイオレットは、長距離バスに乗って旅に出る。

ミュージカルですが、ロードムービーと呼ばれるような分野のものでしょうか。オチは途中で見えるとして、それよりはヴァイオレットの変化を追う芝居です。コロナでほとんど潰れたのを再演しようとしただけのことはある出来で、なかなか魅せて、聞かせてくれました。

ヴァイオレット役に顔の傷を付けたりはせず、黒人役だからといって役者が黒塗りにしたりはせず、そのあたりは脚本が本来持っていた、外見からくる差別の話が分かりにくくなっています。海外の芝居を上演するときの難点の一つです。ただその分だけヴァイオレットの成長というか、コンプレックスの克服の過程を追うところに重心が寄りました。それがむしろ、差別はいろいろあったにせよ黒人差別が身近でない日本には合っていたと思います。思春期から醜い傷を付けられて嗤われることがどのくらい女性にとって呪いとなるか、そこから次に進むためにどのくらいのエネルギーが必要となるか。だから終盤のあの対立は奇跡が起こったのだと納得させてくれる出来でした。

今回はダブルキャストのヴァイオレットが屋比久知奈の回でしたけど、頑ななところから入って終盤の対立で爆発させるところまで、芝居の組立てもよし、歌ってもよし、主役として満足できました。そして周りの役者も演技と歌と両方出来る人が揃っていて、怪しさを出してくれた伝道師役の原田優一、歌唱力に圧倒された谷口ゆうなとsara、それに台詞の第一声を任されてこちらも演技よし歌よしのヤングヴァイオレットの生田志守葉を挙げておきます。トリプルキャストの一人ですけど、調べたらあれで9歳ですよ。いまどきの子役って本当にレベルが高い。

ただ、歌はソロだといいのですが、複数人が歌うところはどうしても歌詞が混ざって聞き取りづらくなるところがあるのは惜しかったです。発声の問題なのか音響の問題なのかわかりませんが。演奏は力強くて満足なのですが。

あとは舞台美術で、場面転換に慣れているなあという椅子で場面を変えていく演出。それに加えて吊りものや映像や照明の使い方もいいのですけど、それより輪っかです。初めは床に置かれていた大きな輪が上がって、だけどそのあとさして使われないと思ったら照明が仕込まれていて、ああそうなんだ、だけどそれだけのためにもったいないな、と考えながら観ていたのですが、最後に舞台中央にヴァイオレットが立ったところに輪が降りてきて、ああ、これって天使の輪っかだ、ずっと見守られていて奇跡が起きたんだ、オープニングでびちょびちょだったヴァイオレットがきれいになったんだ、と思えました。演出案か美術案かわかりませんけれど、いい案です。

全体に、見た目も演出もシャープですよね。そのころのアメリカの田舎が舞台の芝居を日本で上演するともっと土臭い感じになりそうで、それはそれで正しいと思いますが、藤田俊太郎は美術や照明や衣装が土臭くなるのを避ける印象があります。その点は泥臭さが身上だった師匠の蜷川幸雄とは反対ですが、かといってただすっきりしているだけではありません。

これで藤田俊太郎演出はたぶん「天保十二年のシェイクスピア」「ラビット・ホール」に続いて三本目ですけど、他の演出家で言えば小川絵梨子と似ている感じがあります。なんだろうなこれと考えたのですが、カンパニーをまとめるのが得意なんですかね。役者もスタッフも全員が芝居の同じところを目指して頑張っているところが似ていました。

2024年4月10日 (水)

青年団「S高原から」こまばアゴラ劇場

<2024年4月6日(土)昼>

他人には伝染しないが緩やかに死に向かう病。その病気にかかった患者向けに高原に作られた療養所。そこに入院する患者と、お見舞いに来る人と、働く人たちのある日の様子を描く。

これで三回は見ているはずの、青年団を代表する一本。スマホが出てくるけれど電波が届かない扱いになっていたり、微妙に設定は現代にアップデートされていました。ただ、細かい設定の違いは除いても、会話をそこまで大袈裟にいじるわけにはいきません。そこを追うと登場人物には20世紀生まれ20世紀育ちいまも20世紀の雰囲気を多く感じました。

ただ、スマホが出た後のいつ頃の想定なのかは芝居からは窺い知れません。ジブリの風立ちぬのことはこちらが先だから出さないのはごめんなさいと当日パンフで謝っていたから、それより後(2013年以降)、やっぱり現代を想定してアップデートしてきたのだと思います。

ただし本当に現代だと、ネットで暇をつぶす患者や(金持ち向けの療養所なのにネットが入っていないってことはないはずですけど)、それゆえに通販で何でも買っちゃうような人(金持ちなので)がいてもおかしくありません。脚本がいつの時代まで現代を保って更新できるのか、平田オリザが挑戦していたのかもしれませんが、その分だけ脚本の完成度を崩してしまってやや中途半端な感はありました。

そんな中では、島田曜蔵演じる看護人の、我慢を堪えるうちに怒りだす様子に一番今を感じました。元からあんなに怒っていた役かは覚えていないですけど。あれをもっと若い役者が演じると、きっと淡々とこなすような演出になるのかもと考えながら観ていました。あまり時代の影響を感じなかったのは、初めに出てくる患者と婚約者とその付添いの友達のところと、お見舞いに来ていた三人組のところです。怪獣の靴の兄妹や絵描き関係は今回かなり引っ込んで見えました。

演出の違いか役者の違いかはわかりませんけれど、設定は古いままのほうがもう少し逼塞感が強まって、死でも性でも雰囲気が強く漂って、そのほうがこの芝居は好みかなと思ったり思わなかったりします。いっそ百年経てば初演の脚本が古典として固定されると思いますけど、それを生モノとしてアップデートしようとすると現代劇は難しいですね。スマホの発明はそれだけ世の中を変えたのだと実感しました。

2024年3月31日 (日)

パラドックス定数「諜報員」東京芸術劇場シアターイースト

<3月10日(日)昼>

昭和初期の日本。ある日突然身柄を拘束された男たち。顔を塞いで連れてこられたので場所はわからないが、連行してきた男たちのことを考えると特高ではなく警察らしい。容疑を言われずに連れてこられた男たちも互いに様子を探り合うが、どうやら主義者として活動に関わっていたようだ。そして男たちを連行した男たちもどうもそこまで詳しく活動のことを把握していないらしい。ゾルゲとその協力者が逮捕されたことが引金となって慌てて動いたのだが……。

パラドックス定数の新作はおなじみの近代事件を扱ったもので、今回はゾルゲ事件の裏で協力していた男たちを巡る話。ただ、今回はいまいちでした。

過去の近代事件ものでは、登場人物の会話を通じて事件の真相を描く、そして登場人物の想いなり思惑なりも明らかになっていく、という作風でした。これがどの程度史実の事実なのかは関係ありません。ただ、その中で登場人物が自分の立場で全力を尽くして、その全力を会話に込めて、その会話を通して少しずつ真相が明らかになっていき、いかにもこういう事件だったのではないかと観客に思いこませていました。そのヒリヒリした会話劇が真骨頂です。

今回はそこを変えてきました。描かれるのはゾルゲ事件そのものではなく、その時代背景です。連れてこられた男たちはゾルゲの協力者の協力者、くらいのところで手伝ったことがあり、それと知ってなぜ協力したのかが演じられます。またその中に隠れて混ざって内偵していた警察の人間がいますが、そちらは主義者を捕まえる使命を胸に働いたものの一抹の共感を覚えます。

まず、あくまでも事件に近い関係者の立場から描いていた過去作と比べて、今回はゾルゲとその協力者を手伝うときに会話していた場面が回想場面として描かれます。それ自体は演劇の手法ですし、二役を演じた役者も上手にこなしていました。ただ、ある意味脚本が楽をしていました。ほぼ独立した場面として作ったため、そこに至る会話を組立てるでもなく、その場面の会話が後で生きてくるでもない。多少つながるところはあっても、それは芝居の展開にさほど影響を及ぼさない。少なくとも及ぼしたとは思えなかった。極めつけはラストで、どうしてそんなにべらべらしゃべっちゃうかな、と残念でした。

それと、時代背景を描くのにマイナーな立場の人間の想いを使うというのはつらかった。雑に言えば、令和のいまの時代は苦しい、もっと自由であるべきだ、と言いたいのかなと推察しました。それを戦前の共産主義者で直接描くとさすがに賛同しかねるけど、協力者の協力者くらいの人間ならいまでも共感できるところがあるのではないかというのは脚本家のひらめきです。ただ、それで描くには場面が牢獄というのはしんどすぎた。普通の場面がたくさんあって、そこで登場人物がいろいろな生活の場面をさらしていればこそ、その登場人物に、ひいては登場人物の想いに心が乗っていきます。いままでのパラドックス定数は大きな事件を中心にでんと据え、そこに事件の関係者を登場人物とすることで普通の場面を描く必要を飛ばしていました。が、登場人物の選定でそれを脇に避けざるをえなかったために、芝居に必要な場面がすっぽり抜けた形になりました。

これが初見の劇団なら印象は変わったかもしれませんが、パラドックス定数にはもっと上を望みたいです。長くやっているからひょっとしたら違う作風を模索しているのかもしれませんが、登場人物に想いを直接語らせるだけではつまらない。たどり着いた事件の真相を以て登場人物を翻弄することで想いの重さを語らしめていた過去作と違う作風を目指すなら、そこまでたどり着いてほしい。野木萌葱みたいな脚本を書ける人がいないだけに観客として期待しています。

2024年3月 7日 (木)

MONO「御菓子司 亀屋権太楼」ザ・スズナリ

<2024年3月6日(水)夜>

江戸時代から続く老舗、のはずが、実は創業者の社長による作り話らしいと話題になって非難を浴びている和菓子屋。売上が大幅に下がっているところで、和菓子屋でなく会社員として働く長男と、後継ぎとして和菓子屋で働いている次男とで話題への対応に意見が分かれ、長男の娘は学生時代の先輩を呼んで和菓子カフェによる打開を図る。そんな中、社長が入院してしまう。今回は危ないという。

ここから半年とか一年半といったまとまった時間が何度か過ぎて、和菓子屋と一家、それにそこで働く人たちの10年くらいの行く末が語られます。非常によく出来た芝居で、久しぶりにいい小劇場を観た気分になりました。お勧めできる出来でしたので間に合う人は挑戦してはいかがでしょうか。

出てくる話の後ろには、悪評を見て突撃してくる炎上といった今様な問題、昔ならそれほど大きな問題にならなかったかもしれないけれど今だと叩かれる創業話の嘘、昔から問題になっている部落出身の話などが横たわっています。そこに乗って家族の仲、経営家族と従業員、上司と部下、先輩と後輩といった上下の絡む人間関係が出てきます。最後のひとつ手前、喫茶店で家族が話す場面があるのですが、そこまでの積重ねで説得力の増した名場面でした。

これだけ書くと湿っぽい話に聞こえるのですが、そこに自然な笑いと力技の笑いを絡めることで湿っぽくならないように運ぶのが上手いです。結果、登場人物のほとんどに長所と短所が出てきて、劇中のあちこちに想いを馳せて楽しめました。この日は観客席も笑うべきところは笑って湿っぽくなりすぎない日だったので、その点でもついていました。

どの役も微妙に不自然なところ意図的にを残さないといけないのが難しい中でみな好演していましたけど、そんな中で思いっきり胡散臭い役の作演出はちょっとずるかったですね。スタッフでは、いかにも和菓子屋っぽい箱型の模様の壁から机や椅子を出したり片づけたりしながら場面転換するのが素晴らしかったです。具象と抽象の間を取った小劇場ならではの名美術でした。

MONOはこれまで一度も観ていなくて、それはもう随分と昔に同じザ・スズナリの上演で当日券狙いで観に行ったところ、列整備がまったく行なわれずにチケットを取れず、腹を立ててそれ以来避けていました。が、今回観に行って満足できて、勝手に和解できた気分です。

劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター(エルサレム・バージョン)」自由劇場

<2024年3月6日(水)昼>

奇跡を起こして人を助け、庶民からは神の子と崇められていたジーザス・クライスト。だがその人気を恐れた為政者と既存宗教の司祭によって捕えられ、庶民からも石を投げられて処刑されるまでの日を描く。

崇めるためにやってくる庶民にうんざりするキリストと、キリストを想うあまり裏切るユダが話の中心。いいも悪いもあるけれど、自分にはいまいちでした。

悪いところで言うと、曲も編曲も古い。どうも昔のロックに聴こえると思って調べたら初演は1971年です。ああ、庶民から人気のキリストを当時のロックスターの人気になぞらえた芝居だからスーパースターなんだ、と家に帰ってから腑に落ちました。そしてロックスターに例える発想がやはり古い。古典と言うにはもう少し時間がほしいところです。

いいところで言うと、荒野の美術と襤褸の衣装を使ったエルサレム・バージョンの演出。浅利慶太の演出を踏襲しているそうですが、ロックスターになぞらえるところを無視すればありです。ダンスらしいダンスはなくて、代わりにアンサンブルで見せるのはどうよと思わないでもありませんが、それも含めての演出です。庶民がキリストを崇めるために囲む出だしなんかは非常にいい掴みでした。古びていません。

そうは言ってもミュージカルなんだから踊ってくれよとも思いました。自分は台詞なしのオペラ形式というのが苦手なんだと思います。それならそれでキャッツくらい踊ってもらえるとよかったんですけど、そうするとエルサレム・バージョンの演出になりません。かれこれ含めて自分には相性の悪い一本でした。

2024年2月27日 (火)

KERA CROSS「骨と軽蔑」シアタークリエ

<2024年2月25日(夜)>

どこか西洋風の国。東西に分かれて戦争が続いており、男手はすでに足りなくて女子供まで徴兵されている。その西側で兵器工場を経営する一家。兵器工場の社長である主人は病気で寝たきりとなって女性秘書が何くれとなく世話を焼いている。その妻は完全に夫のことを諦めている。二人の娘は姉が売れない小説家だが徴兵されそうになった夫が行方不明になる。独身の妹は家の手伝いをしながら夫から姉に届く手紙を母と女中と相談して処分している。

どことなく暗い雰囲気の一家と関係者を描く女優ばかり7人の芝居。女中役の犬山イヌコがたまに客席に語り掛けたりして自分がこれまで観たKERA芝居とはやや違う。ただ、気が付いたら終わっていた。それはのめり込んで時間を忘れたのではなく、もうふた波乱くらい来るかなと考えていたところで巻きに入ると宣言されて、さらにそこからが微妙に時間が掛かる。女性秘書が起点になってもう少し一家を引っ掻き回すかなと思っていたけれどそちらの話が少な目。

何となくだけれど、もう少し用意していた話があったのを上演時間の都合で削ったような気がする。休憩を挟んで3時間に収めていたのは観る側としては助かるけれど、「フローズン・ビーチ」なんかは休憩なしの2時間だったからあれと比べるとどうも話の密度が薄く、食い足りなく感じた。

役者で言うと、頭から芝居のリズムをわからせてくれる犬山イヌコがやっぱり得難いところで、峯村リエが後半もう少し出番がほしくて、宮沢りえが出番の割りにもったいなくて、鈴木杏が後半に向かってどんどんよくなって、堀内敬子が地味ながらもおいしいところもある役をきっちりこなして、水川あさみは役どころの割りに出番が少ない。

小池栄子が難しい。かなりいい役を持ち場以上にいい役に仕上げていた。でもあの役はもう少しとんちんかんで不穏な役にもできたんじゃないか、明るく前向きな役に仕上げたばかりに食い足りなさの原因のひとつになっていないか、と疑っている。演出かもしれないけど。

文句なしにすごかったのは舞台で、庭と屋敷の中をプロジェクションマッピングと照明で切替えるけど、どう見ても無茶な美術のはずなのにまったく違和感がない。違和感がなさすぎて芝居中でネタにしていたくらい違和感がない。それはもうさすがとしか言いようがない。これを見たらミュージカルのスクリーンやプロジェクションマッピングですら野暮ったく見える。場面転換の極致みたいなことをやっているのでこれは見てのお楽しみで。

神奈川芸術劇場プロデュース「スプーンフェイス・スタインバーグ(安藤玉恵版)」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2024年2月24日(昼)>

自閉症として生まれ、小児癌で7歳にして死に直面している少女であるスプーンフェイスが語る自分の一生と死に臨んでの心構え。

出ずっぱりしゃべりっぱなしの一人芝居でこの日は安藤玉恵。脚本は片桐はいり版と同じで、あまり子供らしくも病人らしくもなくはっきり客席に語り掛ける演出。内面の大人びたところを外に出した役作りというか。人形に話す相手を割当てて進めるところが片桐はいり版にはない工夫。

多少幕の上げ下げを調整するとかマイクを使うとかはあるけどスタッフワークはほぼ同じ。全体にスタッフワークのはまり具合は安藤玉恵版のほうがよくて、こちらを基準に仕立てて片桐はいりもそれに合せたっぽく見えた。

それで仕上がりはというと、これは脚本負け。少女も自閉症もわざわざ見せん、自分流で丸ごと料理してやる、という意気込みはあったのかもしれないけど、重たい話を引受けきれていない。早めの台詞回しと場面ごとの間もあまり取らないのとで話がどんどん流れてしまった。安藤玉恵をもってしてもこれか、と脚本の手強さを再認識。あと15分余分に使ってもう少しゆっくりやってくれと演出で最短上演時間を縛ってもよかったのではないか。

神奈川芸術劇場プロデュース「スプーンフェイス・スタインバーグ(片桐はいり版)」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2024年2月22日(夜)>

自閉症として生まれ、小児癌で7歳にして死に直面している少女であるスプーンフェイスが語る自分の一生と死に臨んでの心構え。

出ずっぱりしゃべりっぱなしの一人芝居でこの日は片桐はいり。少女を演じながらいろいろなものや人形を相手にちょこまかと動いているうちになんとなくそれっぽく見えてくる。立てたくなるような台詞がたくさんあるにも関わらずかなり抑えめに進めて、最後に思い切りはじける演出。観客が自閉症の子供を観るような動きや話し方を少し出した役作りというか。

脚本では収容所でも遊んでいた子供の話が出てきて、どうしてもドイツで死の話というとナチスと収容所が出てきやすい。それはしょうがないけど、でもいまはイスラエルとパレスチナの話があって、やられてやり返すにはまあなかなか徹底しているな、みたいな話がある。だからそこがフックにならずにむしろ引いてしまった。上演時期の問題とはいえ不利に働いたのはつらいところ。

仕上がりは、あと少しで傑作に手が届きそうだったけれども手前で届かなかくて惜しい、くらいの出来。父親が酔ってスプーンフェイス相手に嘆く場面と最後にはじける場面がよかった。選曲が何となく合っていないように聞こえたけどこれは後で観た安藤玉恵版と共通で使っていたから。面倒でも選曲は変えたほうがよかったと思う。

この日は片桐はいりに演出の小山ゆうなと芸術監督の長塚圭史の三人でアフタートークがあったのでうろ覚えだけれどメモ。言葉遣いは私の脳内で勝手に変わっているので注意。

長塚:自分も公演中なので観るのが実は今日が初めてです。昔、パルコ劇場で麻生久美子さん朗読を演出したことがあります(2010年4月)。それは2日しか上演しなかったけれど頭の片隅に引っかかっていて、今回芸術監督として上演演目に選びました。

小山:自分の周りではパルコの朗読を観た人が何人かいて評判がよかった。

長塚:イギリスのキャサリン・ハンターが一人芝居で上演したのは知っているけど観たことがないからどうやったのかわからない。そうしたら片桐はいりさんと安藤玉恵さんを提案された。前に片桐はいりさんと一緒に仕事したときには「もう人間とか演じないで物とかやりたいんだよね、物」と話していたので(笑)そんな人がどうやるのかとても興味があった。

片桐:そんなこと言いましたっけ。

長塚:片桐はいりさんは小野寺修二さんの舞台に出たりしてフィジカル寄りの印象を持っていた。

片桐:近ごろは(ひざ? 脚? をさすりながら)身体の調子が悪くてフィジカルな舞台に出られないんです。もともと台詞を言うのは苦手だったけれどもそれでも舞台に出たいと思ったら台詞をやるしかない、と。だから一人芝居に挑戦したけれどいつも悩んでいます。特にこんなご時世(戦争のことか)だから火花の話(終盤)の台詞なんてどうやって言おうとか。

小山:片桐はいりさんは理想が高くて妥協しないから毎公演で終わった後に舞台裏に戻ってきたら「上手くいかなかった」って言っているんです。

片桐:そういう舞台裏はお話しないでください。だったら金返せって言われても返せませんから(笑)。

長塚:オープニング、顔を出すところからすでによかった。

片桐:稽古は安藤玉恵さんと一緒でした。それで初めは幕に影を映しながらゆらゆらとやるオープニングを提案したけどこれは演出で却下されました(笑)。安藤玉恵さんは「それなら私は天井から降りてきたい!」って話していましたけどそれはありません(笑)。でも私とは別のオープニングです。

長塚:稽古はどうでしたか。

片桐:安藤玉恵さんと共通にするポイントだけ決まっていて間は好きにしていいという演出でした。で、元がラジオドラマだからト書きの一切ない脚本なんですね。つまり自由にやらせてもらおうと。カメラを使うのは小山ゆうなさんの提案です。

小山:でも発想がすごい。スプーンフェイスがカセットテープを相手に吹込む場面は片桐はいりさんの提案なんです。しかもそれを隠したところが父親の荷物の間なんですよね。

長塚:朗読はほとんど稽古期間が取れなくて、それでも頼んで5日間稽古したけれど、翻訳も同じ常田恵子さんなのに「あれ、こんな場面あったかな」と観ていて焦りました(笑)。ああいうことはどうやって思いつくんですか。

片桐:わざわざ考えることはなくて、周りのもので何とかするというか。カセットテープのことだと稽古場をぐるっと見渡して、よしこれ、ってそこまで深く考えずに試しました。

長塚:人形に話しかけたり。

片桐:自分版の演出はいつも台詞を誰に話すか問題があるので。あまり話すとこれから向こうも観てくれる人にネタばれになるから言いませんけど安藤玉恵さんはもっと客席に語り掛けるスタイルです。自分はストレートにそのままやりたくないからわざわざ面倒な演出を試してしまって。

それで出来れば両方観てください、みたいな話をして終わったのかな。こんな感じの話でしたけれど、昔はもっと覚えられたのに(嘆)。

2024年1月27日 (土)

ホリプロ/フジテレビ主催「オデッサ」東京芸術劇場プレイハウス

<2024年1月26日(金)夜>

1999年のアメリカはテキサス州の町オデッサで、町の老人が殺される事件が起きた。重要参考人としてバックパッカーの日本人を事情聴取したいが英語がさっぱりわからないという。他の事件の捜査で人手の足りない警察は、遺失物係の警部一人に事情聴取を任せきりにした上に、署の部屋も足りないからと貸さず、警部は近所の酒場を借りて通訳を手配して事情聴取の準備を行なうはめになる。通訳としてやってきた町に数少ない英語のわかる日本人だが、バックパッカーの男性ともどもお互い鹿児島県出身ということで盛上がってしまう。事情聴取が始まったら自分がやったといきなり自白するが、同じ地元で親近感を感じた通訳は英語では無実を主張していると話を曲げて、その間に男性に翻意を促す。

三谷幸喜の新作。いやいやそうはならんだろ、というところから話を転がしていくのはノリで言えば覚えている話だと「ショウ・マスト・ゴー・オン」に近い。ただ、よくできているのだけどもっと面白くできたよねという仕上がり。

やや真面目な要素も入ってくるけど根っこがとにかく無茶な話なので、それをもっともらしく見せるためには役者の力技が必要。しかも3人芝居ということで無茶をやり続けないといけないのだけど、だいたいの無茶の始まりになる柿澤勇人も、英語も日本語もスムーズに切替えての役作りが熱演はさすがの宮澤エマも、真面目に不真面目するには真面目すぎた。声芸一発で持っていった迫田孝也よりもさらに引出が求められて、しかも字幕と合せるための制約が多いだろうとはいえ、まだまだこんなもんで仕上がったつもりになってもらっては困る。これは誰だろうなと観終わって考えたけど、柿澤勇人に求められていたのは大泉洋かなと思った。無茶言うなと言われても困るけど。

ただひとつだけ言えば、脚本もひとつ矛盾があった。早く見ておけばってのは駄目。笑いの駄目押しのつもりで入れたと思うけど、あれは削らないと他の話と齟齬が出る。三谷幸喜らしくない見落しだった。

日本語と英語のちゃんぽんとなる舞台を、その脚本も英語で2人だけで話す場面では日本語に戻るところを舞台を動かして観客に教える工夫が親切設計。だけど一番の親切は字幕。舞台背面を目いっぱい使ってあのくらい自由に動かす字幕だとほとんど演技の一部。お笑いバラエティーの字幕をさらに先に進めていた。最後の役者紹介、あれはミステリードラマの役者紹介とフォントを合せていたのかな。なんかこちらも気づいていない仕込みが字幕にたくさんありそうです。

ネタバレにならないように感想を書くのは難しい芝居ですけど、これはツアーも含めた公演終盤に観たかった芝居です。

2023年12月24日 (日)

松竹主催「十二月大歌舞伎 第一部」歌舞伎座

<2023年12月17日(日)昼>

生まれた子供を妻の母に見せようとやってきた夫婦だったが、母はすでに病気で亡くなっていた。旅の途中、近所の娘の世話で寺に一夜の宿を求めることになったが、寺を預かる老婆は亡くなった妻の母とそっくりだった。甦ったのだというのだが「旅噂岡崎猫」。千本桜の咲く神代の時代に、異国からの青龍の精の襲撃を受ける。千本桜の守護である白狐や美玖姫は辛くも難を逃れるが、千本桜は花を散らした。それから千年後に再開した白狐と美玖姫は「今昔饗宴千本桜」。

旅噂岡崎猫は坂東巳之助が始めからわかりやすい格好で出てきてやっぱり悪い化け猫という話。その坂東巳之助もよかったのだけど、夫婦に寺の宿を世話する近所の娘のおくらを演じた坂東やゑ亮が本当によかった。怪しげな術に操られて飛んで跳ねての大忙しだった後半も見どころたっぷりでよかったけど、それより前の普通の役のところであまり女形女形せずに快活に演じていて、だけどこういう女性は今でも周りに見かけるし昔もいただろうというモダンな女形、生きた娘役だった。ずるかったり親切だったり怖がったりと忙しい変化も納得できた。大立ち回りに影を使ったり障子が血でべっとりしたりと外連味たっぷり。初歌舞伎でも満足できること間違いなしでしょう。

で、本命の今昔饗宴千本桜。初めに挨拶で獅童が出てきて説明からお約束からペンライトの使い方から屋号の声掛け練習までしてくれる親切仕様。初音ミクまで出して準備万端といったところで開始。おとなしく観るつもりだったけど休憩時間にロビーを歩いていたら安いペンライトも売っていて、人生で一度くらいスチャッ! とやってみてもいいかなと思い直して買っておいたのがよかった。この日はうっかり良席で観られたのだけど、屋号は呼ばなくてもペンライトくらい持っていないと格好がつかない。隣の真面目そうなお姉様が気が付いたらペンライトを持って待機していたし、立派な着物をお召の奥様が終盤の場面でまっ先に立上がってペンライトを振っていたし、人は見た目だけではわからないものです。

それで派手な映像あり宙乗りあり桜吹雪砲もあり小川夏幹陽喜ありと会場が一体になって盛上がって終わったあとの感想ですけど、残念ながら出来がよくなくて気に入りませんでした。

ひとつは初音ミクの間の悪さ。録っておいた声をオペで流したのか、裏方がいてボイスチェンジャーでリアルタイムで台詞を言っていたのかはわかりませんけど、もたつきます。音が出るまでに時間差があるならそれも含めてここはこの間だろうと突き詰めてほしい。

ひとつはスクリーン頼みの映像。そりゃあ二次元の映像をどこかに映さないといけないのですけど、ちかごろのプロジェクションマッピングの進歩は目覚ましいのにスクリーンだけしか使わないのは古い。たまたま今年はミュージカルを多く観ていて「アナスタシア」とか「アナと雪の女王」とか観ていますけど、後ろのスクリーン+サイドの美術+たまにセンターの美術で話に合せた映像の使い方はあちらさんのほうが上手です。なんなら野田秀樹ですら「兎、波を走る」で高橋一生を飛ばしていた。

初音ミクが二次元文化から出てきたものだからパソコンやスマホを考えてスクリーンに引っ張られるのかもしれませんけど、スクリーン以外も使えればもっと自由度を広げて初音ミクを左右だけでなく前後にも動かせます。スクリーンを使うなというのではなく、スクリーン以外も活用したものを観たいなという希望です。

そして最後は脚本の薄さ。説明やら会場を巻込んだ一体感やらのために1時間25分の短さからさらに20分は削られていると思いますけど、スーパー歌舞伎は言うに及ばず、昔話にもなっていなかった。桃太郎が桃から生まれたら次にはもう鬼が島で鬼退治くらい、起承転結ではなく起結くらいの薄さだった。その分だけ派手な映像や立回りが多かったのですけど、それが芝居かと言われると自分の考える芝居ではない。

凱旋は結構、ここで息子のお目見えが出来たのも結構。ただし超歌舞伎としてはもっと作りこまないと派手だねの一言で終わってしまう。自分が感じた3つの不満を解決するためには、初音ミクありきでない脚本を作ってから初音ミクを組込むようにアレンジして、舞台美術と照明と映像を創りこんで、会場も歌舞伎座以外の劇場で昼夜2公演1か月以上の体制を組んだ方がいい。歌舞伎座で他に混ざっての一本だと技術の仕込みに限界がある。

初音ミク目当てでやってきた客を飽きさせないためにもう一本として旅噂岡崎猫が選ばれたと思いますけど、あれは肉体を駆使してのアクロバットだからアナログな美術でもしっくりきます。客の感想としては旅噂岡崎猫のほうがよくできていました。

ところで第三部と合せて四本の演目を観たのですけど、全部の演目で人ならぬ身のものが出てきました。どの演目も最後はなんとなくごまかされて終わってしまったところも含めて、今月は化け物尽くしだぜと中の人が狙ったような気がします。

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