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2021年12月26日 (日)

座・高円寺企画製作「ジョルジュ」座・高円寺1

<2021年12月26日(月)昼>

恋多き女として知られたフランスの女流作家ジョルジュ・サンド。恋人だった弁護士に連れられて聴いたショパンにほれてショパンとつき合い始め、にも関わらず2人を支える弁護士。病がちなショパンの看病と社会運動の盛上がりにやがて分かれるまでを、ジョルジュと弁護士との往復書簡で描く。

同じ斎藤憐脚本で往復書簡にピアノを加えた「ピアノと音楽」シリーズだけど、「アメリカン・ラプソディ」がガーシュイン中心に描いていたのに比べると、こちらはタイトル通りショパンではなくジョルジュの話。ただしショパンとつき合っていた時代のジョルジュを取りあげることで、音楽家のことも描く「ピアノと音楽」シリーズの形式に寄せている。

それはジョルジュが恋多き女というわかりやすい面に加えて、女性の自立とか社会の変革のために奔走した活動家の面があったから。「アメリカン・ラプソディ」でガーシュインが行なっていた活動の役回りを担っていたのが、今回だとジョルジュ。やっぱりそういう志向があったんだろうな脚本家、と勝手に裏読みする。

今回はさすがに芝居成分多め。簡単そうにやっているけど絶対簡単じゃない演技というか朗読をさらっと展開する竹下景子。何年もやっているからこその境地か。一方の植本純米はおどけたおおげさな演技に小ネタを加えることでドロドロさせずにおしゃれさを維持しつつ引いた線は壊さない芸達者。相手の読みにも細かいリアクションを入れておりそれが楽しめるのはこの規模の劇場の特権。関本昌平のピアノは曲によって細やかさと激しさを使い分けて自由自在。いまさら「あの曲もショパンだったんだ」という発見も多かった。

弾いていたのは「アメリカン・ラプソディ」と同じピアノだったけど、今回のショパンの曲は馴染んでいた。たぶん、ピアノ自体がこういう曲向けで、さらに軽く弾いても音の響きが強く出るように作られている。前回不思議な音と思ったのはピアノが理由だった。

何年か前から気になっていた演目を今年になって観ることができたのに満足だし、実際に楽しかったことにも満足。

あとは劇場メモ。劇場に入るところで検温と消毒、場内マスク着用依頼、くらいしか前回はしていなかった。今回行なわれていた工夫で「おっ」と思ったのは、場内入場口に台と固定したスマホを用意して、スマホのカメラで動画撮影しっぱなしにしておき、焦点距離の合った台にチケットを置いてから(客が)もぎりを行なっていたこと。券面に名前が書かれているから、その記録を省力化するためだと思われる。いろいろ応用できそう。

もうひとつ。盲人の客を見かけた。白杖の人を劇場の人が案内していたり、夫婦で片方が盲人で盲導犬と一緒に入場していたりした。音楽朗読劇なので相性がいいのだろうけど、こういうところで融通が利くのはほどほどの規模の公立劇場ならでは。劇場の客席は段差が多いから危ないのだけど、何年もやっている企画だから慣れているのか案内も無事だった。機会があれば芝居はいろんな人が観に来るものだと今さらながらに考えさせられた。

2021年12月19日 (日)

座・高円寺企画製作「アメリカン・ラプソディ」座・高円寺1

<2021年12月19日(日)昼>

ユダヤ系ロシア人の移民の息子として、貧しい生活からピアノと作曲の腕でアメリカを代表する音楽家となったガーシュイン。数多いたガーシュインのパートナーの一人である女性作曲家と、同じユダヤ系ロシア人としてガーシュインの理解者だったバイオリニスト、友人だった2人の手紙のやり取りを通して描かれるガーシュインの生涯。

多少は立って動きもあるけど、脚本は手にもって、朗読で交互に手紙を読んで進める「ラヴ・レターズ」形式。そこにピアニストが入ってたくさんガーシュインの曲を弾き、歌入りの場合は作曲家役が歌う。

時代背景もあり、実際にガーシュインが行なった活動もあって、よく聞いていると差別に対する抗議を込めた場面も多々ある、穏やかならざる脚本。最初は翻訳モノだと勘違いしていたけど、後で見返したら斎藤憐だった(この劇場の館長も務めていました)。ただし今回はそこには踏込みすぎず、最後の曲だけ少し力を入れて弾いていたくらいで全体にはフラットに、ガーシュインの功績と曲を紹介することをメインにした演出。ほどよい規模の空間にピアノと歌で、休憩を挟んで2時間10分のおしゃれなコンサートを楽しんだ気分。

秋本奈緒美の歌も上手かったし、田中美央も抑え気味にすすめて好印象。不思議だったのは佐藤允彦のピアノ演奏。鍵盤の見える席だったけど、軽く弾いているのにザクザクとした荒っぽさと整った印象とが両立してさらに音色がカラフルで音の情報量が多い、目と耳が一致しない演奏だった。あれは腕前なのかピアノ(Shigeru Kawaiって河合ですね)なのか両方なのか。曲は素直に楽しんだけど、音色の謎はわからなかった。

2021年12月13日 (月)

風姿花伝プロデュース「ダウト」シアター風姿花伝

<2021年12月12日(日)夜>

ケネディ暗殺の翌年、という時代のアメリカ。教会は司祭と神父によって、教会に併設されるロースクールは校長を筆頭に修道女たちによって、運営されている。校長を務めるシスター・アロイシスは厳格で恐れられている。人はいいが生徒に甘いとみる教師シスター・ジェームスを叱咤し、子供たちに人気のフリン神父を警戒する校長。やがて、シスター・ジェームスが、担任する少年の様子がおかしかったことを校長に報告してくる。その報告にフリン神父への疑惑を確信に変えた校長は神父を問い詰めるが、神父は疑惑を否定する。

このほかに少年の母親役を含めて、4人だけの登場人物が時に励ましあい、時に激しく口論を交わす。これこれ、こういうのが観たかった、というごりごりのストレートプレイ。いいお値段だけど芝居好きなら観ておけよ損はさせないから、の一本。たまらん。シアタートラムや新国立劇場小劇場くらいならこのまま持っていける芝居をこの規模の劇場でやる濃密さ。

こなれた翻訳で交わされる激論が、よくよく聴いていると言質を取らせないとても上手な言い回し。教会関係者だから基本は神に誓って嘘は言わないはずとか、いやいや教会の大規模な不祥事とその隠蔽は海外で大きなニュースになっていたよねとか、たまたま私は知っているけど知らなくても楽しめる。そういう現実や材料を背景に、何があったのかを追求するのが縦糸。その追求の焦点となる少年にとって、この問題に対して周囲がどのように振舞うのが本人の幸せになるか、この少年の幸せを願ったとしてそれがより広い共同体にとって益になるのか害になるのか、が横糸。

この話をタイトル通り、神父だけでなく校長の過去も明かさず、疑いのまま進めるのがポイント。そうすることで観ている側に、お前ならどうする、と問いかける。「テロ」では投票で二択を観客に迫ったけど、この芝居は問いかける選択肢がもっと広い。

4人しかいない中でも中心人物の校長を演じる那須佐代子が実力全開の切れ味。人が良さそうでも校長と全力で議論する亀田佳明。その間で悩むシスターの伊勢佳代。校長との会話でまったく違う視点から真っ向ぶつかってくる津田真澄。4人のバラバラな方向が、どこか一方に傾かないように調整したというより、拮抗するように引出した演出はさすがの一言。

スタッフワークは、狭い劇場を狭いと感じさせない美術と照明を挙げておく。美術は広さに加えて、見切れを減らして座席を増やしたことも今回の功績に挙げたい。どちらも客として本当にありがたい。あと誰にも通じそうにないマニアな話として、適切な暗転の使い方を久しぶりに観た気がする。たぶん脚本で指定されている通りだと思うけど、今どきの芝居は、暗転なしで場面転換できて当たり前、みたいなところがあるので新鮮だった。

新型コロナウイルスが一時期よりは落着いてきたとはいえ、次はオミクロン株か第六波かと言われている中、この規模の劇場に来るのは迷った。迷ったけど、来てよかったし観てよかった。大満足。

Bunkamura企画製作「泥人魚」Bunkamuraシアターコクーン

<2021年12月11日(土)夜>

都会の片隅、店主は昼間はぼけ老人だが夜はうどん屋の娘をくどくダンディーな詩人の二面性を持つ男が店主のブリキ屋に、主人公は居候している。そこに故郷の関係者が次々と訪ねてくる。そこに、漁師の養女だった娘がやってくることで話は展開する。

粗筋を書くのはあきらめました。ネタバレってほどでもないので書くと、諫早湾の干拓事業による地元関係者の苦悩を元に、これぞ唐十郎、これに比べたら野田秀樹なんてわかりやすすぎて困る、というくらいの詩的脚本で書いた一本。正直、物語を追うものではない。

前半、主人公の磯村勇斗と店主の風間杜夫がメインになるのだけど、非常に不調だった。喉がイガらっぽかった磯村勇斗が出だしでつまづいて、そのまま休憩時間まで取り戻せなかった感じ。後半に宮沢りえの出番が増えたところから巻き返した。この訳の分からない芝居を巻き返したのはすごい。六平直政がいい出来だったのに加えて身体まで張って熱演。愛希れいかも宝塚出身でこのアングラに立ち向かえていたのは感心。

オープニングの美しさを含めて、音響照明が素晴らしかった。だけど特に後半、音と明かりで盛上げたと思ったら元に戻す、の繰返しで興醒めすること著しい。あれは演出が悪い。そこからネタに走るならまだしも、もう少し考えてほしい。

諫早湾の話が一段落した現在、雰囲気に浸れるかどうかで評価がわかれる芝居。個人的にはいまいち入り込めなかった。シアターコクーンは思っていたよりも広い劇場で、あの空間を雰囲気で満たすのは相応の技量が求められるのだな、これまでこの劇場で観てきた芝居は選ばれし精鋭たちによって上演されていたのだな、と再認識。

2021年11月23日 (火)

世田谷パブリックシアター企画制作「愛するとき 死するとき」シアタートラム

<2021年11月20日(土)昼>

東ドイツの学生の青春と終わりを描く第一部。東ドイツで反体制派だった父は逃げ伯父は捕まった母と子供たち兄弟、12年後、それゆえに大学に入学させてもらえないと屈折した青春を送る家族の前に釈放された伯父が戻ってくる第二部。妻子を持ち仕事で単身赴任する男が、赴任先で出会った女と恋愛関係になる第三部。

観て得るものはあったけど、もう一回見直してもまだわからないだろうなという超がつくほどの不親切芝居。時間を置いて書こうとしたら大まかな話の流れすら思い出すことがおぼつかない。

青春モノとか日常モノのとか、うっかりすると「劇的な」イベントがなく淡々と過ぎてしまう、ただでさえ舞台と相性の悪いジャンルで、本当に淡々とした脚本。そこに、ベルリンの壁が崩壊して30年以上経つ東ドイツが舞台という悪条件で、脚本にない情報を補足してほしいところ一切なし。かつ、覚えづらい名前の大勢の登場人物が第一部から第三部まで全員入替る上演なのに、第一部と第二部は登場人物を浦井健治や高岡早紀も含めた全員が複数役で演じるという混乱に輪をかける上演スタイル。

つらい世の中では子供から大人までまんべんなくしんどいよね、そんな世の中でも生きていくなかで恋愛は苦いことも多いけど必要だよねという脚本家の想いと、いまのつらい世の中は東ドイツ時代の閉塞感と似ているからそこを舞台にすることできっとむしろ現代らしく描けるはずだという脚本家の思いつきが合体したのがこの脚本のはず。それを、「チック」みたいな芝居他にもありませんかと2匹目のドジョウを狙った制作に、日本もつらいからぴったりです、学生とかつての学生の青春モノです、大勢の役が登場するけど「チック」みたいにひとり複数役でやります、とドイツ語の読めない制作を演出家が丸め込んで上演した。妄想レベルで考えると、そのくらい関係者のすっとぼけがないと上演された理由がわからない。

地味でわかりづらい脚本なのに、演出が何をやりたいのか見えなかったのがひとつ。それと交互に複数回出てくる役を、全員が複数役でやるというのがとにかく悪手で、複数役の演じ分けがほとんどわからないのがもうひとつ。「チック」は主役固定、かつロードムービー風なので一度出てきた役は後からほとんど出てこないという有利な面があったけど、これはそうではない。もう、観ていてわからないことによるストレスが大きすぎる。

で、わからなかったことへの文句を散々書いた後で得たところの話。ひとつは第二部の伯父。(たぶん)政治犯収容所のようなところで12年過ごして丸くなった伯父は、普通なら自殺していてもおかしくない。そこをしぶとく生きて、兄嫁(兄弟の母)に結婚を申しこんで一緒に暮らす。この伯父が、好きな女の子を兄に取られて落込む甥を酒場で「目立つな、英雄を気取るな、列に並んでみんなと一緒に行動しろ(公式サイトより)」と励ます場面。言葉をそのまま読んだら格好悪い台詞だけど、ここを浦井健治は、チャンスが巡ってくるまで何よりもまず生き延びろ、というニュアンスでやった。伯父役はぼそぼそと話す役作りだったけど、そこからさらに声を落としたこの場面が、実際に生き延びて甥の母と結婚した伯父の役や、他の場面で自殺する学生がいたことと合せて考えると、全編を通して鍵になる場面だったのかなと思い返す。

得たところのもうひとつは、役者としての浦井健治。観客の妄想では、出演者の中で唯一、おそらく演出家よりも、脚本を理解して演じようとして、また演じる技量があった。芝居を保たせていたのは間違いなくこの人の貢献。普段あれだけ華やかな芝居もできる役者なのにこの地味芝居に挑戦してしかも一定の成果を上げていたことは最大の発見。新国立劇場のシェイクスピアシリーズに出ていたのは伊達ではなかった。ちなみに高岡早紀は、もうわからんからいつも通りやりますとやって、しかもそれがいい線までいっていた印象。ただ第三部、独白というか地の文の語りというか、それが苦手でかなり損していた。ついでに書くと至近距離で観てあの美人ぶりは凄い。他のメンバーは、個々の場面を観れば悪くないけど、通して観たときには複数役の演じ分けの前に撃沈。おそらく脚本段階で混乱している。

察するに、小山ゆうなは綿密な演出プランで稽古に臨むよりは、役者にやってもらった内容を拾っていくスタイルなのではないか。欧米はそういう演出スタイルが主と読んだことがある。けど、それは稽古も含めて準備に年単位の時間が確保できる前提で、1か月前後の集中稽古で仕上げる日本なら脚本の整理や登場人物の関係構築も、ある程度は演出が主導する必要があるのではないか。

察したり妄想したり忙しい感想だけど、何がいいたいかというと、自腹で高い金額を払って、演出が悪いと一観客として判断したので、文句は演出家が引受けてくれということ。

2021年11月15日 (月)

Bunkamura・大人計画企画製作「パ・ラパパンパン」Bunkamuraシアターコクーン

<2021年11月14日(日)昼>

デビュー作が佳作、以降は鳴かず飛ばずの女性ファンタジー作家。それまでの路線から心機一転、新作はミステリーを書くと宣言したものの、粗筋すら思いつかずに締切が迫る。呆れる担当編集者だったが、編集長から今回の企画をあきらめるように指示されたことで、むしろ協力姿勢を示す。ふと話題に挙がったクリスマスキャロルから、守銭奴のスクルージが殺されればミステリーになると思いつくも、有名なミステリーも読んだことがない作家なので、展開も時代考証もでたらめなまま、勢いで書き進めるうちに、現実と作中とが曖昧になっていく。

翻訳でなく完全新作で松尾スズキが演出専念。ファンタジックミステリーコメディと銘打って、年末を狙った古典を題材に。ミステリーの要素もそれなりに考えられているが、肝心な何か所かをファンタジーに頼って解決しているので、ファンタジックコメディのほうがしっくりくる。ものすごい雑にまとめると、松尾スズキが演出した「サンタクロースが歌ってくれた」だった、とか書いて何人わかってくれるか。

スローな場面が、特に前半に多くて何かと思ったら、あれはテレビドラマのテンポか。脚本の藤本有紀は舞台脚本経験もあるが今時点ではテレビの脚本歴のほうが長い模様。テレビの連続ドラマと違ってつきっきりで観る芝居の場合、説明は劇中のどこかでされればいい、むしろ説明情報を散らしたほうが自然になるのでまとめて説明する必要はないところ、ちょっとうっとうしい会話が多かった。大勢の豪華メンバーにはそれなりに見どころを用意するという副作用もあって、それも重たくなった一因。

そんな中でも攻めてこその小劇場出身者。いまも全力でカマす皆川猿時に敬意を表しつつ、どんな演技でも常にテンション全開だった小松和重と、あれだけボケてもスクルージ役の雰囲気を壊さない小日向文世の技を挙げたい。歌も演技も上手い松たか子には満足だけど、松たか子に歌わせれば元は取ってもらえるだろうという姿勢も感じなくはない。スレた観客としては、松たか子が観たいのではなく、立上げ至難の舞台で成立困難な役を成立させたときにこそ役者は輝くのであり、それを成立させる実力を持つ松たか子が実力を発揮したところを観たいのだと言いたい。

それなりに笑いながら観たのに何でこんなに辛い感想になるのか、チケット代が高かったからか、と書いてから考えた。たぶん「現実と作中とが曖昧になっていく」パターンを芝居でよく見かけるから、自分の中でハードルが高くなっている。先に挙げた「サンタクロースが歌ってくれた」は映画の登場人物が現実に出てくるパターン。後藤ひろひとなんかはそれがとても上手で、「人間風車」が有名だけど、今回の連想では作中というか伝説を語る体の「ダブリンの鐘つきカビ人間」を思い出す。どれもだいたい2時間強で収まっていた。

今回は演出と演技で頑張って成立させた印象だけど、歌を入れて、休憩20分を挟んで、カーテンコールまでで3時間10分。ここから絞って、歌抜きなら2時間でいけるくらいまで密度を濃くした脚本で観たかった。絞る価値ある脚本だったと感じたからなおさら。

昨今は長い芝居の上演に寛容で、そのおかげで上演できる芝居の幅は広がったかもしれないけど、必要性を感じられずに無駄に長いのはよくない。無駄かどうかを何で判断するかと言ったら密度。笑いでも、情報でも、役同士の関係でも、雰囲気でも、なんでもいいけど、舞台上を流れる空気の密度。

あとメモ。今回の休憩時間、シアターコクーンが1階の入口前を一部閉鎖して(傘置き場のあたりから、レストラン手前まで)、休憩中の人がロビーに溢れないように、かつそこまでなら再入場不要になるよう工夫してくれていた。吹抜けだから外気にも当たれるし、あれはとてもよかったので記録しておく。思いついた人と実施決断してくれた人に拍手。できれば中二階も外に広げてほしかったけど、あそこはオーチャードホール入口への通路をふさぐから駄目だったか。

2021年6月27日 (日)

新国立劇場主催「キネマの天地」新国立劇場小劇場

<2021年6月26日(土)夜>

昭和初期。大作映画の打合せと称して監督から劇場に呼ばれた4人の映画スター女優。キャリアの長短はあれど売れっ子の4人はそれぞれ自分が一番であることを主張しあう。ところが劇場に着いた監督は、1年前に監督の妻が同じ劇場で亡くなたった演目の稽古を伝える。不審に思った女優たちを引きとめたのは、監督の妻を殺した犯人を探すという言葉だった。

面白かった。誰が観ても面白いし、芝居を観たことがないひとに最初の1本としても勧められます。でもそれ以上に、解像度の高い演出が隅ずみまで行き届いていることが伝わってくる1本でした。新型コロナウィルス下なのと、あと1日の千秋楽に感想が間に合わないのとで控えますけど、そうでなければ緊急口コミプッシュを出していました。こじらせた観客の感想もありますけど、それは後半で。

井上ひさしは構成に凝った脚本家だったけど、加えて時期によって作風が変わる脚本家でもあります。初期はぶっとんだ作風、中期は設定のうまさで笑わせる作風、後期は政治色強めに訴える作風で、これは中期の1本。上演するだけである程度伝えられるものがある初期や後期と違って、面白さをきっちり伝えられないといけない。そこを、実力十分、しかも小川絵梨子と仕事をしたことがあって実力保証付きの役者を集められたことで、脚本に求められるハードルをクリアして芝居に臨めたのは、まず勝因のひとつです。

今回の設定は女優の嫌らしい面をコメディで描くことが一番に求められますが、稽古という劇中劇でそれぞれの立場を劇中劇でも表現していくことも必要とされます。さらに劇中劇にかこつけた演技論や役者論や芸術論が展開されますし、相手の演技のへたくそさを詰る場面もあります。本当にへたくそな役者を当てると笑うに笑えなく脚本上の設定ですが、今回起用された高橋惠子、那須佐代子、鈴木杏、趣里の4人が文句なしにいい出来です。

それは監督、助監督、助っ人役者の3人の役にも及んでいて、女優を相手に、一同を集めた理由を隠しながら話を進める立場です。やはりへたくそはキャスティングできない。千葉哲也、章平、佐藤誓の3人は適役で、特に助っ人役者は複数役を器用にこなすことができる設定で役中役(?)まで求められますが、佐藤誓が大活躍でした。

そして演出。脚本構成の読解ならまかせておけの小川絵梨子ですけど、この脚本は中学生の時に演劇部で上演して自分も出たことがあるというアドバンテージがあります。コメディだからわかりやすいと言われればそうかもしれませんが、だとしても場面のひとつひとつ、役それぞれの立場、役と役との関係性、本当にどれひとつとっても迷いのない演出がされています。

スタッフワークも芝居に集中できる仕上がりです。ただ、特に今回は、最初に劇場に入って、具体的で場面転換不要に作りこまれた美術を観てびっくりしました。最近観ていた芝居が、抽象的だったりひとつの場面を複数に使ったりする美術が多かったので。ストレートプレイらしいストレートプレイは1年以上観ていなかったかもしれません。女優陣の衣装も時代がかっていて見目がよかったです。

観ていてひとつだけひっかかたのは、照明機材を全員素手で触っていたところ。私の学生時代はまだ素手で触るのが危ないのが普通だったので、今はLEDだから熱くないのか、小道具として火傷しないように見た目だけの照明機材だったのか、いらぬ想像をしてしまいました。いちおう助手役は手袋を持っていたけどはめていませんでした、というのはまあ、荒探しですね。

面白い脚本を面白く立上げるのは難しいところ、大成功でした。劇中でも言及されていたアンサンブルを体現した仕上がりです。「井上ひさしを小川絵梨子が演出できるか気になる」なんて上から目線で書いてすいませんでした。

ここまでは、ですます調で一般的な感想。この後はこじらせた感想。ちょっとネタバレを含みます。

劇中に「優れた芸術は人間賛歌」という台詞があって、それはそうかもしれないけど、それを作り出す側の人間に、実に性格の曲がった役を取りそろえたところが井上ひさしの意地悪なところ。

新型コロナウィルスの騒動でいろいろ考えたことに、専門家は専門外の分野については素人だし、専門性は人間性を保証しないというのがある。芸術分野について具体的に言い換えると、人気や実力がすべてであり、人気や実力があれば人間性は目をつぶる。人間性がよくても人気も実力もない人の立場は低い。人間賛歌となるような優れた芸術があったとして、それを創り出した人間の人間性はまったく別の話。

その点、今回の脚本は実に良くできていた。監督の、亡くなった妻に対する想いがどれだけあったとしても、自分が監督する映画のために活用して疑問を抱かない態度。スター女優や監督の、無名の役者に対する無理解や、意地悪を超えた深刻な嫌がらせや態度の数々。大事と思った人への惜しまない説得と、大事と思わない人への残酷な仕打ちが共存している。「クローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇という」言葉そのまま。

ラスト場面なんて、最後までコメディで通したけど、あれは内容だけ見たらひどい場面で、ちょっと演出を変えるだけで悲劇の幕切れになる。むしろ書いたときには井上ひさしはそれを狙っていたんじゃないかとさえ疑っている。

あれだけ解像度の高い演出をやってのけた小川絵梨子がそこに気が付いていなかったとは思えない。今回は新国立劇場の「人を思うちから」というテーマに沿って選ばれた脚本で、もちろん上演準備のために新型コロナウィルスより前から決まっていたはず。だけど演出方針は稽古前まで、何なら稽古中でも、変えられる。明るい芝居を提供するためにコメディに徹したのか、どうなのか。ひょっとしたら、「人を思わないと人はどこまでも残酷になれる」みたいな裏テーマをこっそり課して、この脚本を選んだのではないか。

なんでそんなことまで疑うかというと、解像度の高い演出をされた芝居だったのは間違いないけど、だからというか、何となく、観終わって違和感が残ったのですよね。「タージマハルの衛兵」も解像度が高い演出の芝居だったけど、あのときはこういう違和感はなかった。それと井上ひさしの芝居にしては、女優同士の嫌味なやり取りがふんだんにあるにもかかわらず、すっきりとしたコメディに見えてしまった。井上ひさしは、こう、人間の悪い面を「人間のたくましさ」「庶民のしたたかさ」みたいな扱いで丸めてしまうところがあるけど、悪いものは悪い。本当にいい面だけの登場人物が目立ってくるのは後期です。

芸達者な役者と解像度の高い演出で完璧なコメディを立上げた結果、脚本に含まれているけど掬いとれていない何かも一緒に立上った、と仮定して考えた妄想です。穿ちすぎかもしれませんが、こじらせた観客は、そんなことも妄想してしまいました。

そういう妄想まで含めて、観られてよかった1本です。

<2021年6月28日(月)追記>

新型コロナウィルスの対策を書くのを忘れていた。小劇場は入口を地下(初台駅の改札を出てから最初に見えるところ)に限定して、中劇場やオペラの客と混ざって建物内が混雑するのを防いでいた(正面入口を入って右側の階段は封鎖)。開場は開演45分前から。外から中に入った時点で検温とアルコール消毒。ここで一旦入場前ロビースペースになってクロークだった個所に来場者カード記載スペースがあるので記載。チケットは通常の階段横カウンターとは別に、いつもだともぎり横にある関係者向けの引取カウンターを階段正面に配置してもぎり周辺で人が滞留しないよう調整。入場は、もぎり手前で来場者カードを回収してからチケットを見せて自分でもぎり。チラシ束はロビーに置いてありほしい人が自分で手に取る。物販はパンフレットのみ。スタッフは会話禁止のボードで案内、マスクはしていたけどフェイスガードはしていなかったか(失念)。場内アナウンスは、接触確認アプリを使うなら音が鳴らないように、使っていないなら電源オフにするようにアナウンス。

入場後ロビースペースに、いつもならポスターや解説文章の拡大コピーが貼ってあったり舞台美術模型が置いてあったりするけど、今回はその手のものは全部外して人が集まらないようにしていた。飲食は最低限にするよう案内。椅子は、個別の椅子は一方向きになるように間を空けて配置、ベンチは1人置きの間隔になるように座面貼紙で調整。トイレは小便器は1個飛ばしになるよう貼紙。荷物を預けるスペースがない代わりに、座席下に荷物を置くための使い捨てカバー? のようなものをロビーで提供。休憩時間は正面ガラス口を開けて外に出られるけど一方通行で、再入場時は検温とアルコールの入口側からに回す。この公演のチラシと配役表はいつも通りパンフレット物販の横で提供されていたのが個人的には非常に喜ばしい。

これまで考え出された対策を、広いスペースと多めに配置できるスタッフを十二分に生かして実践していた。慣れてきたのもあるけど、新型コロナウィルスの(少なくともこれまでの)対策と観客の快適さの、変な表現だけど妥協点の頂点という印象。ただし「広いスペースと多めに配置できるスタッフ」があってこそだよな、とも思う。

世田谷パブリックシアター企画制作「狂言劇場 『武悪』『法螺侍』」世田谷パブリックシアター

<2021年6月26日(土)昼>

Aプログラム。病で出仕できぬ日が続いたため主人の勘気から武悪を討つように申し渡された太郎冠者、幼いころより苦労を共にした相手だけに討つに討てず、討ったことにして見逃したが、逃げる途中の武悪が主人と会ってしまい幽霊としてごまかそうとすると「武悪」。素行の悪さから浪人に落ちぶれ金もないが女遊びに目がない洞田助右衛門、商人の妻2人への恋文を太郎冠者と次郎冠者に届けさせるが主人の横暴に耐えかねた2人が届け先の妻たちにばらしてしまう「法螺侍」。

「武悪」。腕が立つ武悪をだまし討ちしようとするも討つに討てない前半から、幽霊扱いされている武悪が主人に適当なことを言い出す後半まで、「武悪」はいかにも狂言らしい狂言。台詞をちゃんと聞き取れたか微妙だけど、幼いころより2人で頑張ってきた趣旨の台詞があったはずで、そこは太郎冠者の野村太一郎と武悪の野村万作が歳が離れすぎて見た目が苦しかったのだけ難だけど、軽く楽しめる。

野村太一郎の太郎冠者が顔も体も堂々とした押出しの一方、石田幸雄も主人らしい主人で貫禄十分だけど、出ていた3人の中で一番動きが決まっていたのが武悪の野村万作という芸能の謎。長年の動きが身体に染みこんでいるいるのもあるだろうし、歌舞伎の踊りを観たときにも思った、昔からの型や振付は昔の人の体形でちょうどよくなるように作られているのも理由のひとつだろうけど、それにしたって90歳であそこまでできるとか人類すごくないか。

「法螺侍」。シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」を狂言に仕立てた一本。「まちがいの喜劇」を元にした「まちがいの狂言」よりもこちらのほうが1年早いらしい。鳴物でも遊べるところが新作狂言のいいところ。もとは野村万作が洞田助右衛門のところ、今回から野村萬斎にバトンタッチ。元がシェイクスピアなので筋に心配はなく楽しめる一本。

素行が悪いのではなく人生を楽しみ尽くしたいため結果周りにはそう見えてしまう主人公なのかなと台詞からは感じた。けど、いかにも素行が悪くて家来からもとっちめられそうな役作りに見えてしまうのは野村萬斎らしい。見えるというか粘りっ気の強い声がそう聞こえさせてしまう。この「人生を楽しみ尽くしたい」という考えからくるいい加減さは、今の世の中に減っている、非常に求められている心持なので、ここはもう少しおおらかさを優先するように工夫してほしかった。全体に、やや不慣れな印象があったけど、キャスティング変更の影響か。

この日はアフタートークありだったけど、万作と石田幸雄以外全員出ていたのかな。司会の萬斎のほかに6名出ていて、全員に話を振るので精一杯。演じているときとは違って野村裕基は声が萬斎そっくり。野村太一郎は「万作に師事して」という趣旨の発言があったので気になって調べたら、万作の兄である野村萬の孫だけど「本来なら襲名する立場にあった六世万之丞を従弟の虎之介(九世万蔵の長男)が襲名することになり、萬狂言を離れ父の従弟・野村萬斎に師事を替える」とWikipediaにあった。古典の世界は大変だ。

2021年6月13日 (日)

松竹製作「六月大歌舞伎 第二部 桜姫東文章 下の巻」歌舞伎座(ネタバレあり)

<2021年6月12日(土)昼>

追放されて行き場がない清玄と赤子は、同じく追放された残月と長浦の2人が暮らす地蔵堂の庵に身を寄せる。金のない2人に病みついた清玄の面倒を見るのは苦しいため、お参りに来た女に子供を預け、清玄を殺してしまう。仏の墓堀に呼んだ権助と穴を掘っていると、女衒が女を売り飛ばす相談のために女を連れてくるが、この女が桜姫だった。女衒が女郎屋と話をつけるために席を外したすきに、残月は言い寄り、権助は機会をうかがう。

親切にも冒頭で上の巻のあらすじを語ってくれた後に始まる(明瞭な口跡でよかったけど誰だか名前がわからない・・・)。上の巻は終盤数日が中止になったから、救済の意味もあるか。上の巻は仁左衛門メインに見えたけど、下の巻は玉三郎オンステージ。出だしの色っぽい雰囲気と、女郎を経た後半の蓮っ葉な雰囲気、前半は子供と会いたいと言っていたのに後半は子供がほしけりゃ産んでやるという落差がすごい。仁左衛門権助の格好いい場面も玉三郎桜姫の引立てになる。

ただ話はいろいろかっ飛ばしている。終盤、父が亡くなり家も潰れたきっかけである都鳥の巻物を盗んだのが権助であることを知った桜姫が、仇として権助を殺すのはわかるけど、権助が父親とはいえ自分の産んだ赤子まで殺すのはもはやホラー。そこから最後、殺害の下手人として追われた桜姫が、取返した巻物で一転、御家再興がかなって大団円の急転直下。

権助と桜姫との間に産まれた赤子が、人手に渡しても結局戻ってきたり、いろいろ言われている割にさして大切にされていなかったり。扱いが雑かというとそうでもなく、あえて書くなら呪いの象徴のように見える。清玄の幽霊も、雷で生き返った清玄がうっかり穴に落ちたのは暴れた本人かもしれないけどそのまま放置したのは桜姫。なのに出てきた幽霊に桜姫が怖がるのでもなく話しかけるという地続き感。冷静に考えれば芝居のご都合主義だけど、観ているとそうとばかりも言えず、いろいろ強引な展開が不気味さで束ねられているようなところがある。これが鶴屋南北の怪奇趣味か。

物語の理解はやっぱり、タイトルロール通り桜姫を追うのがいい。不運な亡くなり方をした白菊丸の生まれ変わりである桜姫が、(清玄と二役である)権助にひどい目に合わされた上に取りこまれたところ、まずは清玄に(結果として)復讐しつつ、清玄(の幽霊)に埋合せをしてもらって権助にも復讐し、最後は御家復興で幸せになるまでの一部始終を、輪廻転生や因果応報の形で描いた、と考えるのがすっきりくる。清玄と権助の二役が有名な芝居で見せ場が多いし、仁左衛門が色気があって格好よくて興行的には売物にするのが欠かせないとしても、芝居を背負うのは桜姫。その点、下の巻が玉三郎オンステージになったのは必然だったし、玉三郎もそれに応えていた。

なんか近代に毒されたような感想だけど、雰囲気勝負と割りきるにはいろいろややこしい芝居だった。にもかかわらず、描きたい雰囲気を重視するから筋立てなんて多少強引でもいいんだよ、木戸銭払った客を楽しませて興行が成功すればやったもん勝ちだよ、と訴えかける何かがあった。現代劇ではなかなかお目にかかれない、生き残った古典劇の力強さは、シェイクスピアを思わせる。それは逆に、芝居を立上げるためには役者に大きさ、強さが求められるということでもあって、玉三郎仁左衛門が活躍したからこそ成立した芝居だったのかな、他にここまでできる人たちが今だれかいるかな、というのもおまけの感想。

2021年5月30日 (日)

野田地図「フェイクスピア」東京芸術劇場プレイハウス

<2021年5月30日(日)昼>

恐山でイタコ見習いを続けて50年、明日の試験で見習いから卒業することを目指すイタコ見習のもとに、珍しく指名が入ったと思ったらダブルブッキング。しかも憑依してほしい死者が客に勝手に憑依する始末。よく見たら片方は高校の同級生。恐山に来た理由を尋ねるうちにもう一人の客が逃げてしまう。

国や自治体の要請と、出演者の体調不良と、両方による公演中止の可能性を考えていたのでスケジュール初期で観劇。休憩なしで2時間5分。言葉遊びで展開を飛ばしていく、いかにも野田秀樹な新作だった。何も考えないで芝居単体に集中すると最後にきれいに締まった芝居で、4回目のカーテンコールでスタンディングオベーション。ただ個人的には、開幕1週間でまだ仕上がっていないというか、熱量不足というか。加えてメタな話を想像すると、うーん、という感想。

先にスタッフワークに触れておくと、ど安定。コロスも含めて衣装が好き。ただ、舞台上を横切る幕を使って早替えするのだけど、間に合っていなくて舞台中央で幕がスローダウンする。あれは幕の長さを倍にしてでも同じ速度で横切ってほしい。幕がワイヤーを伝う音と姿は一定速度を保ってほしい。それと効果音が重なって川平慈英の台詞が聞こえないところはタイミングを打合せてほしい。

で、ネタバレしない範囲で分析。分析というのもおこがましいですね。妄想です。こじらせた客の感想なのであまり気にしないでください。

野田秀樹にしては珍しく、はっきりとしたメッセージを台詞で伝えていました。観れば誰でもわかるし、物語単体としては単純だけど最高の台詞です。ではそのメッセージは、劇中では橋爪功演じる役に向けられていたけど、芝居のメッセージとしては誰に向けられていたか。客ではない、世間でもない、同業者に向けたメッセージだと私は受取りました。不要不急と言われて委縮した同業者に対する、野田秀樹からのメッセージです。そのメッセージのために「あの話」を持ってきて、芝居としてつなげてしまうのが野田秀樹の才能です。

ただ、この1年間、散々「業界」批判をしてきた身としては、先に芝居ではなく素の言葉によるメッセージを野田秀樹に期待したかったです。それを飛ばして芝居によるメッセージを選んだんだ、というのがひとつ。

そしてキャスティング。メッセージを受ける役に橋爪功を置いたのですが、おそらく今回の出演者の中で一番ふてぶてしい、メッセージなんかなくてもどうってことはないという人だと想像します。白石加代子も、ふてぶてしいとはいいませんが、世間の風には追い風も向かい風もあらあなと知っている人だと想像します。

翻ってメッセージを伝える側の高橋一生。丁寧すぎて線が細くなってしまいました。とりあえずもっと声を張ってほしい。そしてメッセージを補強する立場に前田敦子を置いたのは、アイドルとして活躍した経験に加えて「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と言ってのけた舞台度胸を買ってのことだと想像します。が、これがいまいち効いていませんでした。不慣れな野田芝居のさらに新作でポジションをまだ見つけられていないのか、私生活のごたごたが続いているのか、理由は不明です。

ただこの2名が頑張ったとして、それだけで良くなる感じがしません。全体に絵が共有されていない印象があって、その場合は仕上がり不足。あるいは、出演者たちがそもそもメッセージを信じられていないから弱く見えるのであれば、その場合は熱量不足。いつもだともう少し野田秀樹の出番が多くて、それで台詞のスピードや声量がノってくるのですけど、今回は最初の登場場面までが結構長くて、出番も限られています。それで全体の展開が遅くなったのも一因かと考えます。

こんなこと書きましたけど、よくできた芝居ですよ。繰返しますが、こじらせた客のこじらせた感想なので、あまり信用しないでください。白石加代子と村岡希美はとてもよかったです。

新型コロナウィルス対策メモ。驚くほど簡素。入場口は4列用意。手首検温だけ済ませたら、チケットを見せて自分でもぎり。アルコール消毒は入った後に置いてあるので自分で任意で行なう形。普段は閉めている、入って右側の屋外テラス部分を飲食場所として開放。来場者登録は入って右側にあるも任意。スタッフはマスクとフェイスガード。アナウンスに加えて会話しないでくださいのメッセージボードを持って注意喚起(ただそれでも客席はざわついていた)。最後はエリアを区切っての整列退場。

あと最後に、今回センターブロックは2階席最後方までS席という話を見かけたのですけど、A席がどこだかわかる人がいたら教えてください。観やすいし見切れもないだろうからS席と言われればそんなもんかとも思いますが、それにしたってねえ、ということで。

<2021年5月31日(月)追記>

2日前の公演で白石加代子の台詞がすっぽ抜けていたらしい(ネタバレありブログより)。そういえばカーテンコールではける時に川平慈英がエスコートしていました。今回もっと公演後半で観たほうがいいのかな。

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