2018年5月27日 (日)

赤坂ACTシアタープロデュース「志の輔らくご」赤坂ACTシアター

<2018年5月26日(土)昼>

なぜ歌舞伎の忠臣蔵は登場人物の名前が史実と異なるのかという疑問から始まって大序から11幕までのあらすじを浮世絵とともに説明する「仮名手本忠臣蔵のすべて」、下積から名代まで引立てられた役者に与えられた最初の役はいい役がたくさんある忠臣蔵の中で斧定九郎の一役のみという嫌がらせを引受けて一世一代の大勝負に「中村仲蔵」。

話だけでは難しいところ、各幕ごとの浮世絵を探してきてビジュアルを駆使して説明する懇切丁寧な前半。抜群に有名な代わりに長いので通しで演じられることの少ない演目を解説されて、始めて理解した。後半の落語のために全体を説明するのは「牡丹燈籠」と同じ趣向だけど、1時間ほどにまとまっているのでまずます観られる。
ただし後半の「中村仲蔵」は今回3回目だけど(1回目2回目)、よく言えば一番親切悪く言えば一番もたついた。昔は役作りに苦心して最初に披露する仲蔵の緊張と、引立てた団十郎の知ってはいるが見守るしかない立場からの感心と、名人の心情に絞ってテンポよくまとめていた。今回は仲蔵の生まれを足して、仲蔵の師匠の出番を足して、蕎麦屋の浪人とのやり取りを伸ばして、たぶん忠臣蔵のおかるを説明した一環だと思うけど女房とのやり取りも伸ばして、長い。「定九郎はあんなじゃないと思っていた」の説明もご隠居と団十郎とに繰返し説明させたのは工夫か間違いか判別しかねる。もともと5幕は弁当幕で云々と説明を足しているのに、さらに説明が増えて冗長に過ぎる。前半説明していればこそ、あるいは前半に説明を回して、後半は省略と洗練の極みで攻めることを望む。

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2018年5月13日 (日)

さいたまゴールド・シアター「ワレワレのモロモロ」さいたま芸術劇場NINAGAWA STUDIO

<2018年5月12日(土)昼>

速報。上手いとか下手とかお約束とか風邪をひいて声がでないとかどうでもよくなる役者の存在感と、上手いとか下手とかお約束とか風邪をひいて声がでないとかどうでもよくなると思わせるくらいよくできた構成とががっちりかみ合った成功作。どうでもいい話から始めてどうでもよくない理由につなげる展開は見事の一言。場所が遠いけど時間があったらぜひお勧めしたい。

役者に持寄ってもらったエピソードを構成する岩井秀人の「ワレワレのモロモロ」シリーズ。壊れかけた冷蔵庫の代わりを探すが、ほしい冷蔵庫について妻と夫との微妙な意見の食い違い「わが家の三代目」、中学で出会い高校で亡くなったかつての友人の記憶がよみがえる「友よ」、ゴールドシアターに入団して初めて台詞をもらえたのがうれしくて「無言」、夫が亡くなってから家にやってきた猫を飼う「パミーとのはなし」、軍人一家の末っ子が予科練に入隊する「荒鷲」、長姉と長兄は出かけて母と次姉と家に残っていた日の話「その日、3才4か月」。

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2018年5月 4日 (金)

新国立劇場主催「1984」新国立劇場小劇場

<2018年4月30日(日)昼>

世界が3つの国に分かれた世界。主人公の属する国では「ビッグブラザー」による管理が行き届いており、国民の行動と思想を監視してから数十年が経過している。公務員の主人公は「ビッグブラザー」から合わないと判断された人間を過去の記録や写真から抹消していなかったことにするのが仕事である。それが行き過ぎていったい今がいつなのかもわからなくなった主人公は、監視カメラから隠れて禁止された日記をつけ始める。ある日、食堂で職場の女性から偶然を装って手紙を渡される。国に忠実を誓っているように見えた女性が実はそうではないと知り、2人は愛し合うようになる。それが犯罪とされていることを知りながら、監視カメラのない民間人の部屋を借りて2人は逢瀬を重ねていたが・・・。

原作の小説は読んでいて、あの長いディストピア物語のどこを芝居にまとめるのかと思ったら後半重視。若干の希望は足しているけど、観て楽しくなる芝居ではなく、現実が小説を追越したかどうかという今の社会を見つめたい人向けであり、洗練された舞台が好きな人向け。

いろいろなインタビューで「あの長い小説をよくここまでまとめた」ってコメントが多かったけど、小説を読んだ身としてはまとめきれていないという感想。2時間に収めるにはしょうがないけど、今がどんな監視社会なのかを説明する前半がものすごい駆足。職場の女性から手紙をもらうまでや、上層部のオブライエンから声を掛けられるまでや、古道具屋の主人との会話など、対人関係に警戒する様子や警戒せざるを得ない背景を小説では丁寧に語っているところ、そこはだいぶ端折っているので展開が唐突。その代り後半のきつい場面がきっちり入っている。

このきつい芝居がきつい内容に集中して観られるのは洗練された演出とスタッフワークの賜物。映像とライブカメラを組合せた展開や、スムーズに切替わる舞台美術、芝居によって差が出がちな衣装をきっちり押さえている。照明が珍しい印象だったのは客席側からの明かりをほとんどつかわないせいで、あれが舞台側の箱をきっちり形どってシャープな印象を与えるだけでなく、きつい場面で客席を巻込むための布石にもなっている。音響だけ、悲鳴の効果音が嫌だったのだけど、効果を考えると狙い通りか。このくらい丁寧にやらないと成立しないラインを軽々とクリアしているのはさすが新国立劇場の主催公演。

主人公の井上芳雄は熱演。上層部のオブライエン役を大杉漣の代役となった神農直隆が好演していて、M.O.P.で観たことあったかと調べなおす始末。個人的にはともさかりえに一番期待していたのだけど、演出の希望か洗練が行き過ぎていて、もうひと踏張り野性味がほしかった。

いちおうラストで希望が見えるような枠組みに収めていた脚本だけど、人間は非力なものだと観客に思い知らせるところは小説と同じなので、体調を整えてから観に行きましょう。

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2018年4月29日 (日)

パラドックス定数「731」シアター風姿花伝

<2018年4月28日(土)夜>

戦後2年を経過した東京。銀行の行員と一般客に毒を飲ませて金を奪った帝銀事件が発生した。使われた毒の内容から731部隊の関係者が怪しいと、部隊に所属していた研究者たちの中には警察から聞き込みされた者もいる。同じ時期に、過去を隠して戦後を生きていた元731部隊の所属軍人たちへ中身のない封書が届く。差出人の名前はないが送信元は東京の研究拠点であった牛込のビルになっていた。焼け残ったビルに元731部隊の幹部達が集まって、帝銀事件の話、昔の部隊の話を相談する。果たして事件は731部隊の関係者が引起したものなのか。

実際の事件に想像を足して一本の芝居に仕立てる野木萌葱が得意とする分野。この分野で観たことがあるのは「東京裁判」と「怪人21面相」だけど、今回も狭い会場に充満する怪しい雰囲気で迫力十分。戦後の混乱期を背景に、過去に行なった行状との折合いをつけながら、あるいはつけられないで生きる男7人が、生きて行きたいという必死さと、学問への情熱と、保身を目指す身勝手さと、それぞれが一体となって出てくるヒリヒリした会話劇。

帝銀事件の当時の捜査では分からず仕舞いだった毒物を使った事件が元ではあるけど、元731部隊所属の面々がメイン。きれいごとを言っていた人間が黒い面を見せて、ひどいことを平気で口にしていた人間が結果としてよい行動を取ったり、登場人物誰もが悪いことに携わっていて、保身を計るのだけれども、にも関わらず人間は善悪で割切れないという面を描いて圧巻だった。「何でお前ら、自分を人間の外に置けるんだよ」という台詞があったけど、条件が揃えば置けるでしょう。生きのびたいんだという欲求、研究者として知りたいという欲求、これらの前に善悪が判断基準とならなかった登場人物たちだけど、これは人間誰しもそうなる可能性がある。ミルグラム実験とかグアンタナモ刑務所とかそれこそナチスとか日本人に限らないけど、日本人は特に条件が揃ったときに歯止めになる文化が少なくて個人にゆだねられている。同じ条件がそろって同じ立場になったら自分もやりかねないと自覚しながら観るのがまた迫力を倍増させる。

登場人物の名前と731舞台での役職関係を理解するまで時間がかかったけど、分かりやすすぎる芝居よりはこのくらい不親切なほうがむしろ理解する楽しみが味わえる。不親切かもしれないけどフェアでもあった。ついでにいうと野田地図の「エッグ」も731部隊を扱っていたけどこっちのほうが断然いい。

欠点は、登場人物が格好良すぎたこと。野田萌葱が演出するからには男は全員格好よくなるに決まっているけどこれは半分本気。扱っているテーマを考えると、もっと格好悪くてみっともなくしたほうがよかったのではないかと思う。あくまでも芝居だからどう演出したっていいのに、何に遠慮しているのか自分でもよくわかっていないけど。

<2018年5月3日(木)追記>

感想を清書。

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ホリプロ企画制作「酒と涙とジキルとハイド東京芸術劇場プレイハウス

<2018年4月28日(土)昼>

助手とともに研究に勤しむジキル博士。名門一族である学問の師の娘と婚約もすませている。かねてから研究している、人格の分離を実現する薬の発表を翌日に控えて、スピーチまで完成させている。が、肝心の研究は失敗して薬はできていない。何としてもこの発表をものにして名声と研究資金を集めたい博士は、脇役の役者をつれてきて、人格分離後の替玉を演じさせようとする。ようやく役者を納得させて練習していると、婚約者が忘れ物を取りに来る。ちょうどよい機会と婚約者に黙って替玉を試してみることにする。

初演は見逃したけど、同じキャスティングでの再演。冒頭の「好きな人の前ほど上手く心を開けない」という台詞が、別人格になれないというメインの話に絡んで進行する脚本。扱っているテーマは取りようによっていくらでも深刻になるけど、そこは三谷幸喜、ちょっとしんみりするくらいであとは全部笑いに振る。初演時にの評判が少なかったのでこのくらいの笑いかと想像した通りの線だった。

最初にもっともらしい悩みから、だんだん強引な笑いに進めていくのは王道だけど、三谷幸喜にしては珍しく役者のフリに笑いを頼る場面が多い。ジキル博士役の片岡愛之助がいい人を演じないといけないので毒気を出せず、ハイド役の藤井隆がよく言えば健康的な悪く言えば毒が足りない笑いになって、キャスティング逆じゃないのかという印象。助手役の迫田孝也が腹黒な位置づけだったけど、進行としてあまり本人が絡まないのがもったいない。

一人気を吐いていたのが婚約者役の優香で、通常場面もそうでない場面も、脚本の要求から1ミリもずれない役を披露していた。ただあれは、役者が役を創って演技しているという感じではない。普段の仕事で要求されているのか自分に課しているのか、あらゆる欲求や不満を抑え込んでその場で求められる振舞を正確に続けているうちに、その結果として姿勢や顔の表情や声の調子まで寸分の狂いもなくコントロールできるようになった人が、その方法の延長で役者をやっているような演技だった。それは鉄の根性で身に着けたであろうすばらしい技術であり、求められる振舞を察して理解できる頭の良さも必要で、それが足りない勤め人である自分には非常にうらやましい能力。ではあるけど、表現としては一番大事なところが抜けていて、脚本の要求から自分の要求で1ミリでもずらすそのずらしかたに魅力は宿るのではないかと思う。1ミリずらすと言って悪ければ、1ミリでも高く盛ること。

ついでに書くと、それで実際に役をこなしていたから、三谷幸喜も別の芝居でああいう役(ネタバレなので書かないけど)に起用したのだな、というかこの芝居の優香の演技を観てあの芝居を思いついたんだろうな、と今になって合点がいった。勝手な想像だけど、たぶん間違っていない。

生演奏はいい感じで、2人でやっていたというのはカーテンコールで気が付いたのだけど、演奏場所から演技場所が見えないためか音の入りが演技と微妙にずれる場面多数。あれは美術企画の段階か、もっと音に沿ったきっかけを作るか、どちらにしても演出で調整してほしかった。

<2018年5月3日(木)追記>

感想追加。

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2018年4月24日 (火)

小田尚稔の演劇「凡人の言い訳」新宿眼科画廊スペースO(若干ネタばれあり)

<2018年4月21日(土)夜>

大学から東京に出てきた女性。アルバイトをしながら仕事を探すため、オーバードクターとして大学に籍を置き、大学の寮に暮らしている。アルバイト先への通勤電車で痴漢を見つけても何も言えず、同じ寮に住む留学生の友人にはその気がないのに言い寄られる。そんなある日、全然帰っていない実家の母から、祖父が亡くなったと連絡があり、急ぎ実家に帰る。

女性主人公の一人芝居で約100分、ダブルキャストで観たのは宇都有里紗の回。東久留米の国際学生寮ということで検索したら東京学芸大学が背景か。平凡な日々に埋もれそうになる凡人が新たに前向きになるまでの話。誤解を恐れずに言えば前回前々回と同じ展開。それなら気に入ってもよさそうなものだけど今回はだいぶ様子が違う。

脚本に違和感があって、何だろうと考えていたのだけど、話の抜きだし方が合わなかった。主人公の日常からイベントがあってまた戻って最後まで約3ヶ月。それを100分でやるのだから省略は必要なのだけど、そこから最後、急転直下で前向きになってしまう主人公。大きい出来事よりは、小さい、細かい出来事を積上げてラストに向かっていた前回や前々回より、よく言えば省略がきいているけど、ちょっとこれは急すぎる。時間の感覚も納得いかなくて、広島行き最終ののぞみで着いたら葬式が終わるところ(通夜?)って日付が変わっているだろうにそんな遅くまでやっているのかとか、冬の話のはずなのにちょっと暖が足りなそうな衣装とか。

あと一人芝居にしては導線や位置関係の想定が雑。横に長く取った舞台なのであのくらい動かないと空間が埋まらないのかもしれないけど、そこでそんなに動けるかとか、それはさっき向こうにあったのではないかとか。最初からそこで説得力を出すつもりはなかったのか、ダブルキャストで稽古時間が足りなかったのか。でも細部重要。移動中の場面とか、祖父が亡くなったことを伝えて友人に抱きしめられる場面とか、いろいろよい場面もあったのだけど、それも違和感に押し流された。

公式サイトによれば2本目のオリジナル脚本ですでに四演目のようだけど、それにしては脚本演出ともブラッシュアップの余地が大きいのではないか。

<2018年4月24日(火)追記>

エントリーを書いてからさらに考えたのだけど、「話の抜きだし方が合わなかった」のではなくて「この脚本で本来描かれるべき何かを意識的にか無意識的にか隠していた」からではないかと考えを改めた。なまじ一人で100分持たせられる役者が上手に演じたことで、脚本の違和感が立上がってしまったしまったのではないか。

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2018年4月 9日 (月)

シス・カンパニー企画製作「ヘッダ・ガブラー」Bunkamuraシアターコクーン

<2018年4月7日(土)夜>

有名な将軍の娘として生まれ、社交界の華としてもてはやされたヘッダ・ガブラー。父が亡くなって結婚した相手は次期教授の有力候補だが、新婚旅行中も新妻よりも学業調査に熱心で、しかも母代わりに育ててくれた叔母にマザコンの気がある。新居の手配をしてくれた判事からは事あるごとに言い寄られる。今後の生活を考えて倦んでいる新居に、学校の後輩が夫を訪ねてくる。家庭教師として務めていた、夫の友人でありライバルである男性が町に出たまま戻らないため呼び戻すのに協力してほしいという。夫はその頼みを聞き入れるが、その男性はかつてのヘッダの恋人でもあった。

初日観劇。ものすごい悪女の話と聞いていたし、確かにやったことはひどいけど、ヘッダの悩みに寄り添った、ヘッダの置かれた立場に同情的な演出だった。展開を端折り気味なところもあるけど、130年前の脚本なのに設定だけ置換えれば現代でも通じるような話で、さすが「人形の家」を書いたイプセンの脚本。やることなすこと食い違っていく後半の展開などさすが。

夫役の小日向文世と後輩女性役の水野美紀が初日から快調な仕上がり。ヘッダ役の寺島しのぶがやや固かったけど、これからよくなっていく気配十分。時代物なので衣装が丁寧なのも嬉しいポイント。細かいところで、庭のスペースを造るために横に回転しているのに廊下はまっすぐという美術の力技もよい感じ。まだ観ていないならここで一度は観ておきたい芝居。

不思議だったのは、休憩含めて2時間30分と劇場にも貼られていたのに、カーテンコール含めて終わってみたら2時間5分しか経っていなかったこと。何か理由があって直前で丸ごと飛ばした場面でもあったのかと疑われるけど、観た印象では展開は端折り気味でも特につながりに不自然さは感じられず。どうなんだろう。

<2018年4月10日(火)追記>

感想書いてから思いついたのは、イプセンは後輩女性のほうに新世代に「脱皮」した女性らしい行動力を描いて、ヘッダに旧世代の女性の絶望を体現する役割を振ったんだろうなということ。で、男性側は新世代が悲劇に見舞われて旧世代がなぜか居場所にはまって生延びるという皮肉な構造。いい芝居だった。

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2018年3月31日 (土)

劇団青年座「砂塵のニケ」青年座劇場

<2018年3月29日(木)夜>

大会社の創業家に生まれた女性。母は昔から仕事で忙しくほとんど家におらず、父については一晩の行き摺りの男で名前も知らないと教えられて育つ。そんな母への反発から美術修復家の道を進むが、不倫相手の子供を中絶した挙句に自殺未遂を計る。そんな中、一家と長年付合い美術修復家の道を世話した画廊の社長から、一枚の絵の修復を持ちかけられる。かつて画廊が目を掛けていたが早くに亡くなった画家が、最後まで持ち歩いていたパリの風景画だという。画廊の手配で画家がかつて住んでいたパリの部屋に暮らし、画家の手がかりを探しながら修復を手がける。

青年座劇場はこれで建替えるとのことなので一度くらいはと観劇。化粧品会社を買収する上場企業の創業家の母娘で美術に理解がある、とかポーラ化粧品とポーラ美術館を想像する設定。これでもかと分かりやすく展開してくれる芝居としては珍しい脚本で、面白いことは面白かったのだけど、説得力に欠けたのが残念な1本。

先によかった点を挙げておくと、現在と過去のパリの場面。画家の綱島郷太郎、管理人の山野史人、プロフェッサーの松川真也、先輩修復家の野々村のんなど、観ていて芝居世界が広がる演技で、こんなに芸達者な役者をまだ認識していなかったことが悔やまれる役者陣。そこに自由さを感じさせる雰囲気と、登場人物や重なる場面による展開で、特にアパートの舞台が重要なのだけど、回り舞台を駆使して遺跡の柱を混ぜつつもアパートの部屋に仕立ててこれを成立させた舞台美術の功績大。これが展開できるのだから自前の劇場としては贅沢。

残念なのは現在の場面の、特に母娘。増子倭文江は昔のパリの場面での出来がよかった分だけ現在の場面が追いついていない。創業家の娘にして上場企業で海外の化粧品会社まで買収するような大企業の社長らしさを感じられる場面がなかった。ずいぶん時間に融通が利きそうな印象だったけど、創業者の娘だとしてもそれはない。脚本だけど、いまどき買収の記者会見に社員でもない娘を同席させるとかありえない。あと主役の娘を演じた那須凜。劇団の育成方針か演出家の賭けか、抜擢らしいけど仕上がりは追いつかず。大企業の創業家に生まれて父の不在に悩む面、不倫相手の子供を中絶して自殺未遂を起こす面、美術の道に進みたいと言う程度には美術への興味もあこがれも審美眼も持っている点、そもそも脚本の時点で全部そろえるのはかなり無茶な設定だけど、その無茶に説得力を持たせるのが主役の仕事。周りに芸達者が揃っていた分だけつらいものがある。

あと脚本の分かりやすさも、芝居ならもう少し不親切にしてもよかったのでは。サインの話が出てきたら次の場面で鍵となるサインが見つかるとか、詩の朗読場面の次に詩の本が出てくるとか、写真が見つかるホテルは島にひとつしかないホテルとか、情報の提示はもう少し離してほしいところ。テレビドラマだとそういう提示が求められるのかもしれないけど、芝居でそれをやられると侮られた気分になる。他にもう少し主役を主役らしくさせてあげればというか、例えばサインをみたらこれは誰それとか言わせるような工夫もほしかった。

母娘の対立と、母と娘とそれぞれのロマンチックな話と、本筋の面白さはわかるので、脚本を見直して再演してほしい1本。

<2018年4月2日(月)追記>

多少単語を変更。あと松川真也演じるプロフェッサーがニケの歴史を説明する場面について下書きからのコピーミスで落ちていた。客席をルーブル観光のツアー客に見立てて解説させるのは、タイトルにもなっているニケについての知識を観客に伝えるためのよいアイディアだったし、この登場人物がルーブルのバックヤードに出入りしていてプロフェッサーというあだ名で呼ばれるだけのことはあるという説得力につながっていた。なによりニケ好きとしてはもう一度聞きたくなるくらいよい出来の場面だったことはぜひ記録しておきたい。

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2018年3月14日 (水)

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」三鷹SCOOL(若干ネタばれあり)

<2018年3月10日(土)夜>

東日本大震災が起きた日の新宿駅近く。就職活動をしていた女子学生は面接が中止になった挙句に電車が止まって家まで歩いてかえる羽目になる。喫茶店で離婚届の書類を書いていた女性は埼玉に帰れずに公園で休んでいたところを、寝過ごして地震に気がつかず中野からやってきた学生に声を掛けられてカラオケボックスで休む。スマートフォンの調子が悪い会社員は仕事で六本木に来ている最中に地震に遭う。新宿の本屋で働く女性は入社2年目にして仕事に疑問を抱く。その日の話と、だいぶ経ってからの日の話。

東日本大震災に遭って大小の決断を下した登場人物たちを、カントの「道徳形而上学原論」とフランクルの「それでも人生にイエスと言う」とにひもづけて描く話とチラシに紹介されている再演もの。ここから引用した文章が芝居中に何度か読上げられる。前回と同じく、超スローな出だしに、一人語りが多いスタイル。多いどころか登場人物の2人は登場しない人物としか話さない。すごく地味な話だけど、やっぱり自分には面白かった。新宿近辺やさえない大学生やカラオケなど設定は前回と重なるところが多いけど(再演だから前回が重なっていたのだけど)、それも観ているうちに気にならなくなった。ただこんな学生演劇っぽい芝居のどこが気に入ったのか理解できていない。なので以下の文章もまとまりに欠ける。

似た芝居をしいて挙げれば自分の見聞の範囲ではチェルフィッチュが思いつくけど、「三月の5日間」の超ローカルな話を世界平和まで持っていく曲芸的なスケールの拡げ方に対して、こちらは東日本大震災を背景に持ってきながらそれは背景に留まって、個人が自分自身とひたすら対話して、もっとローカルに内側に向いて、少しだけ自分と上手く付き合えるようになる、格好良くいうと思索が深まるという話。今までの個人を応援する「物語」が、たとえば「ヒッキー・ソトニデテミターノ」ならマイナス100をゼロにしたり、「獣の柱」ではゼロを100にしたり、劇的に描いて振れ幅が大きくなっているところ、マイナス3がゼロに向かって動き始めるまでの細かいところを丁寧に描いた話。いい表現が思いつかないけど、平田オリザの芝居が「静かな芝居」なら、これは「小さな芝居」。

登場人物は自己評価が低かったり夫婦生活が破綻していたり今の自分に疑問を抱いていたりで、少なくとも最初から元気な人物は一人も出てこない。間が悪いことになる人物はいても悪い人物は出てこない。震災は発生するけどその後はイベントらしいイベントもほとんどない。たいていのことは独白で語らせてしまう台詞。登場人物間の関係も5人くらいなら全員がお互いに何か関係のありそうなところ、北斗七星みたいな一本線の関係。それも場所や時間や小道具を調整しての、同じ芝居に登場させる意味があるのかというくらい薄くて細い線のつながり。結局本屋の女性は地震に遭ったのかすら覚えていない。これだけ書いてみたらこんなもの演劇でやる意味あるのかと思えるのだけど、やっぱり演劇になっている。独白だらけの台詞だけど、「ラインの向こう」のように説明調で嫌になるという感じではない。何が違うのか上手く説明できないけど、物語を進行させるのではなく場面として書かれていて、しかも登場人物本人の思考が定まっていないあたりに鍵があるのか。登場人物が頭の中で考えて話が止まらない調子が、小説を読んでいるような気分になる。振返ると、結構言葉は選び抜かれていたように思える。

もっともらしいことを書くなら。

ツールやルートが整備されてすぐに世界につながれるようになった現代(日本の芝居も結構世界に進出してきていますね)では、活躍する人たちの実力や実績はより身近に感じられ、しかも一般の人たち、要領の悪い人たち、最初に行動し損ねた人たちとの差は指数的に開いていく。これら出遅れた人たちは、あるいは自己評価が不当に低くなって自分を貶めるような心情に至ったり、あるいは出遅れたことに焦って行動するもそれが自分の希望に添わない立場に置かれたりする。モノを買ったり趣味に詳しかったり学歴があったり正社員で忙しく仕事をしたりすることが、よくも悪くも素直に自信や誇りにつながる時代は終わって、でもそれに代わって一般人が自信や誇りを得られるような手段は今の日本では見つかっていない。そういう時代にこそ、カントの実践理性やフランクルのような人生を前向きに捉える姿勢の価値を再認識してもいいけど、それを知らない一般の人間がそこに気がつくためには、大震災くらいの衝撃や混乱があってようやく、個人が個人として生きていけるような第一歩を踏出せるようになる、その瞬間を描いた話。

という感じになるのかな。全然違う気がする。フランクルの「それでも人生にイエスと言う」が出てくるのはまさかの引用で、自分の大好きな一冊。あの感じが演じられているから好きなのかも。こんな芝居であんなラストだから、やっぱりあの地震と同じ時期に三鷹で再演したかった気持ちはよくわかるし、それを観られたのはラッキーだった。何となく想像はしたけど、狭い会場を生かして最後の暗転がはまったのはきれい。

役者は前回出ていたメンバーと新しいメンバーで弱い微妙な感じを演じられるメンバーをよく集めている。前回に続いて駄目な大学生役の伊藤拓は面白い身体の動きが観られたのでもっといろいろな芝居ができる役者なのかも。ミニマム感あふれて前回とあまり変わらない舞台美術は予算がないのだろうなという推測。この前観たのが「演劇部のキャリー」だからか、逆にこのくらいミニマムにしたほうが客に想像を強制していいかもと思わないでもない。照明は会場付属の機材に1点の工夫(ミラーボールではない)。そんな中でも音響にまともな環境を投入しているところは好感。

あともったいなかったことをいくつか。

演出。イベントがないわけではなくて、その数少ないひとつに帰宅途中で見かけたペットを亡くした女性とそれをはげます酔払いという場面がある。あれは酔払いにカントを重ねるのも、実家への不安を煽るのも、もっと掘れた。初演のダイジェストがYouTubeに上がっていて、確実に今回のほうが方向が定まっていい仕上がりだったけど、まだいける。

客席。狭い会場で客席数を稼ぐためか、コの字型の客先でさらに舞台上手奥に音響オペを配置するという大胆なレイアウト。音響オペをやったメンバーは目立たないように気配を消していたけど、この狭さだと他の客が視界に入る。あと観ていた感じでは下手の席が割りを食って、役者の後姿が多くなっていた。あれなら下手の椅子を上手に動かしてL字でやれば観やすくて演じやすかったのに、なぜ難しい囲みレイアウトにあえて挑戦したのか。梁があって照明器具が分散されていたのでやむなくか。

あと前回もあった客いじり。この地味な雰囲気の芝居には似合わないし、超少人数の客を相手にやっても盛上げるのは難しいので止めたほうがいい。

最後に上演時間。上演予定時間2時間半に対して終わったら2時間45分というのは夜の回だと三鷹からの帰宅には結構つらい時間帯。あの弱さを作るのにスローなテンポが一役買っているのは確かだけど、その分上演時間に効いている。都心部からやや遠いので平日に15時19時上演ってスケジュールはわかるけど、週末なら13時18時または14時18時のほうがありがたかった。

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2018年3月 1日 (木)

カオルノグチ現代演技「演劇部のキャリー」OFF・OFFシアター(2回目)

<2018年2月28日(水)夜>

おかわり

この時間に観られる芝居があまりなくて、昼間に観た芝居が重たかったから重い芝居を続けて観たくなくて、長い移動も嫌で、芝居以外の選択肢を取るには遅い時間帯で、帰ろう。と考えた瞬間に思いついた選択肢。同じ芝居を2回観ることはほとんどないのだけど、1回目がものすごく楽しかったのと、あのライブ感あふれる演技がどこまで作りこまれていたのか気になっていたのもあって下北沢へ。開演前のオクイシュージの口上、「今宵このとき数多の劇場で幕が開く しかし野口 幾千幾万の芝居の中で 俺はこの芝居を一番にしてみせる」だったか(適当)、あれでぐっと引込むようになっているのに今さら気がついた。格好いい。

違っていたのは気がついた範囲では
・前座でカーテン開けすぎとか喉が冷えるとかこれで学校公演1ヶ月くらいやりましょうよとかそういう細かいやり取り
・エチュードで脱いだミッキーへの突っ込み
・エチュードで先輩がミッキーにやらせる適当なストーリー(適当なところで止めた野口かおるにオクイシュージがまだ続きがあったんだけどねと返すと、え、そうだったんだと素に戻りそうになる細かいやり取りは面白かった)
・エチュードと稽古(だったか?)で客席にまで行こうとすること2回
・観覧車の場面で誤解したミッキーを抑える先輩の場面(口がキスのミッキーを手でがっちり押さえる形から頬を付けながら話す形に)
・結果を聞いたミッキーの泣く長さが少し長かったかも
くらい。前座とエチュードの場面を除いたらほとんどない。掛合いが掛合いを呼んでライブ感を出していく面はあるだろうけど、それでもあそこまで作りこめるものかと感心しきり。

モダンな演技なら同じ感情を再現して違う動作で演じるものだと言う人もいるかもしれない。でも椅子2つしかないあの狭い舞台では場面を想定して肝の動きを決めないと観る側が混乱するし、何より作りこまれた脚本があのテンポを求めている。繰返すけど、作りこんだ中にはライブ感まで含まれている。再演で、脚本家が演出したというアドバンテージはあっても、適切な声とテンポをあそこまで突詰めて再現していたのはさすがプロ。ちなみに脚本家が演出した一番のアドバンテージは選曲ではなかったかと推測。

野口かおるの声は劇場の構造か距離の問題か、1回目の近距離観劇ではすごい高音が響いていたけど、離れて聞くと聞きやすかった。オクイシュージの声は、持ち直したけど前座と口上は喉が冷えたどころか滑舌が悪くて一瞬脳梗塞かもと疑ってしまうほど(ごめんなさい)。さすがに1回目のほうが声は出ていた。あのテンションを突っ込み側で一週間続けるのはさぞ喉も体力も消耗するだろう。

勉強になったし、何より2回目でも楽しい芝居だった。千秋楽だからカーテンコール3回までは予想していたけど、まさかスタンディングオベーションする人が出るとは思わなかった。でもその気持ちはわかる。

「Love Letters」みたいに他のコンビでも上演しても面白そうな脚本。年齢が高校生のダブルスコア以上が条件とか。昼間に観た岡本健一と中嶋朋子とかでも務まりそうだし、染五郎あらため幸四郎と松たか子の兄妹出演とかチケット代2万円でも観る。ただこのいい意味での小劇場感、部員が2人しかいなくて廃部になりそうな弱小部活からの一発逆転感はやっぱり今回のコンビのはまり役であり当たり役だった。

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