2019年6月
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2019年6月19日 (水)

松竹製作「月光露針路日本」歌舞伎座

<2019年6月16日(日)夜>

江戸時代、米を運ぶ商船が難破する。船頭を務める雇い主の息子、光太夫の判断で沈没は免れ、積んでいる米で食事は取れるものの、力尽きて亡くなるものもある。8ヶ月の漂流の末に流れ着いたのはロシア領の小島。次々と乗組員が亡くなるなか、光太夫は生き残る乗組員を励まして何とか帰国を目指すが、逆にロシアの奥地へ奥地へと進むことになってしまう。

「決闘! 高田馬場」が2006年なので13年ぶりの三谷歌舞伎。スーツ姿の松也の解説で湧かせつつ前知識を教え込む工夫で始まるも、1幕が難破から、2幕最初の小島生活で、なんとも重苦しい出だし。その後、小島を出てロシア本土に着いたあたりから少しずつはずみがつき、2幕最後の犬で大盛上がり、3幕はその勢いで終幕までまとまった、という印象。

難破の場面は船上なので動きが少ないし、開幕したばかりで登場人物紹介の面もあるけど、多すぎる役者にそこそこの台詞を割振った上に歌舞伎のテンポで話すので、正直遅い。これを書いている時点ですでに序盤の内容をほとんど忘れていて、検索しながら書いている。乗組員が減るほどにテンポが良くなっていって、3幕は主要な登場人物が限られるので話もわかりやすいけど、今回唯一の歌舞伎以外役者の八嶋智人が大げさかつスピーディーな台詞回しを披露。これが本来の三谷芝居のスピードだよなと認識。二部制の月は休憩を2回挟んで3幕4時間は持たせないといけない歌舞伎座のルールとはいえ、特に前半は間延びしたうらみがある。後半は面白かったけど、「決闘! 高田馬場」の勢いを思い出すに、全体であと30分は短くしてほしかった。

一番盛上がったのは犬だったけど、あの毛並みと動きは拍手喝采したくなるのももっともな出来で、単純に楽しめる。染五郎が初見でどんなものかと思ったけど、さすがにまだまだで、ただし気になる声質がどことなく将来を期待させる印象を持った。

2019年6月17日 (月)

ラッパ屋「2.8次元」紀伊国屋ホール

<2019年6月15日(土)夜>

老舗の新劇劇団。学校巡回公演の失注と会員数減で経営危機に見舞われて次回の公演も危ぶまれている。そこに、かつて劇団で働きやがて独立した制作者が、2.5次元ミュージカルの企画を持ってくる。主役陣以外をベテラン俳優で固めてほしい原作者の意向だが、まとまったベテラン俳優がいないためだという。相談の結果、演出家と主役陣を客演で招いた劇団公演とすることが決まったが、いざ稽古が始まると、ノリと身体の切れが違う客演陣との軋轢が絶えない。

ラッパ屋初見。役者にスタッフに制作に演出家振付家まで役を作って、生演奏に支えられた、誰が観ても笑えるであろう小劇場の王道のような喜劇を堪能。ラッパ屋の劇団員は平均年齢高めだけど安心して観ていられる。そこに混ざる客演役兼本物の客演で目を引くゲストの豊原江理佳は歌も身体の切れも良くて、正統派(?)の役者は今時は若くてもあのくらいできないと駄目なのかという驚き。そこに一生懸命が行き過ぎてたまに失礼になる役を当てた脚本家はさすが。ただ、正統派のゲスト役者が混ざることで、むしろ正統派ではない役者の味のよさも引立って相乗効果。

格好よく書けば悲劇と喜劇は同じとなるけど、ひとつひとつの笑えるディテールが、落着いて考えるといかにもありそうな話で生々しい。当日パンフに、よく知っていることだからこそ書きづらかったとあったのもうなずける。やや定型的な登場人物や展開も、むしろ生々しい現実はこのくらい定型化しないと笑いに持っていけないのだという理解。惜しまれるのは人数多めで役の濃淡ができてしまっていたことだけど、2時間切るためにはしょうがない。最近は平気で2時間3時間越える芝居を観る機会が多いので、この展開の早さでこれだけ笑わせてもらって1時間55分ということにありがたみを感じる。この面白さなら1ヶ月公演やってもいけたと思う。ドメスティック感満載のこんな芝居こそブロードウェイに行ってほしい。

ついこの前にベテランの劇団が実際に倒産したので、経営危機も他人事ではないだろうけど、ラッパ屋自体は今年で35周年とのこと。これだけ長く続くことが奇跡だと再認識。今回実に素直に楽しめたので、とりあえず40周年を目指してほしい。

serial number「機械と音楽」吉祥寺シアター

<2019年6月15日(土)昼>

ロシア革命期に少年時代を過ごし、革命後に絵の勉強を志望して国立学校に入学を認められ、やがて建築に針路を定めたたイヴァン・レオニドフ。共産主義に基づいた構成主義建築で脚光を浴びるも建築にはなかなかつながらない。やがてレーニンが亡くなりスターリンの時代に入り、構成主義建築自体が国家の主張に沿わなくなっていく中で構成主義建築のデザインを描きつづけていくが・・・。

風琴工房時代から数えておそらく再々演の演目。実務に芸術の要素を多分に含む建築と政治との関係、伝統的な日常の生活と遊離する構成主義の建築、理想と現実、などなど。実在の人物と時代を使って描かれる様々な要素は、骨太という形容がふさわしい脚本。

ただ演出が行き届いていない。役者のレベルにばらつきはあったものの、自分で書いた脚本を再々演で演出してここまで揺れるものなのか。それとも新しい演出を試みて失敗したか。女性陣の対主人公の関係はもう少し機能させてほしい。賛成していた革命で仲の良かった幼馴染を亡くしたことへの想いが未処理なのはあんまりだし、「へらず口同盟」が埋もれて見えたのはもったいないし、妻との関係が妻からの一方通行気味だったのは物足りない。脚本がよかっただけに他の演出家でも観てみたい。

良かったところでは、役者では主人公の友人の田中穂先と先輩教授の浅野雅博、イヴァンのデザインを模したらしく線で配置した球と2階のギャラリーまでつないだ美術、理解を促すのに確実に一役買った映像や字幕。

あと芝居とは関係ないけど、ユニット名は単語頭が大文字なのか小文字なのか、単語の間は空けるのかつなげるのか、どれが正しいのか不明。公式サイトやTwitterを調べても表記がばらついてどれが正解かわからないので、一番表記の多そうな小文字で空ける表記をこのエントリーでは採用した。

2019年6月 9日 (日)

劇団青年座「横濱短篇ホテル」亀戸文化センターカメリアホール

<2019年6月7日(金)夜>

横浜の老舗のホテルの部屋と喫茶店で、40年以上に渡って展開する2人の女性の物語を7本の短編で描く。

気がつくのが遅れたけど2日しか上演していないので慌てて観劇。短編一本ずつでも完結して面白いし、つなげればなお楽しい、絵に描いたような笑って泣いてでさすがマキノノゾミという娯楽作。ただし笑いにまぎれて「いつもあんたの反対を選べばたいてい上手くいったもん」という毒のある台詞も出てくる。

大勢の登場人物が出てくるので色んな役者が観られる点でも劇団向けの一本。主人公の大人を演じた椿真由美と津田真澄は初見かな、はっきり対照的な役を作ってよい感じ。那須凜は「砂塵のニケ」よりも出番は少ないけど今回のほうが絶対よい。

演出はゆったり、というほどでもないけど、ホテルの雰囲気優先という印象。同じ笑いでも、KERAとか平田オリザとか、ここで笑わせるというところを絶対外さないために最初から最後までテンポも間もコントロールする演出をしているのだなと気がつかされた。

松竹製作「六月大歌舞伎 昼の部」歌舞伎座

<2019年6月7日(金)昼>

ダイナミックで賑やかな踊り「寿式三番叟」、名作の場面を女性に置換えて踊りで見せる「女車引」、鶴ヶ岡八幡宮に参詣中の大庭三郎俣野五郎兄弟と梶原平三景時の前にのっぴきならない事情で刀を買取ってほしいと現れた翁と孫娘、刀の目利きをした景時は太鼓判を押すも試し切りをしないと買わないという兄弟、だが重ね切りを試したいも罪人はひとりしかおらず「梶原平三誉石切」、遊女・梅川に惚れあった亀屋忠兵衛は身請けの手付金を払うも後が続かない、そこへ同業の丹波屋八右衛門が梅川を身請けすると割込んできて「恋飛脚大和往来 封印切」。

朝一番からノリのいい鳴物の合せて激しく踊る「寿式三番叟」は、観ているこちらも身体が揺れて踊りたくなる一本で、終わって三番叟は誰だと確認したら幸四郎と松也。幸四郎ってあんなに踊れるのか。それを落着かせる「女車引」。「梶原平三誉石切」は吉右衛門の景時もいいけど、それは翁の歌六と孫娘の米吉の迫力のためでこの2人の出来が素晴らしい。「恋飛脚大和往来」は「近松心中物語」の原作の一本で、仁左衛門のチャラい忠兵衛なんぞにほれるものかというところ、愛之助の八右衛門が低い声で嫌味を言っていいバランス。

4本観てこれだけ当たりだらけの歌舞伎はひょっとしたら初めての経験。歌舞伎勉強にもいい感じなので、安い席でもいいからたまには歌舞伎も如何。

2019年6月 3日 (月)

ジエン社「ボードゲームと種の起源・拡張版」こまばアゴラ劇場

<2019年6月1日(土)夜>

女が頑張りすぎて体調を崩したため東京から地方に引越してきたカップル。男は働かないでボードゲームに熱中していた経験を生かしてボードゲームカフェを開こうとする。この町に住む、東京時代から知合いだったボードゲーム愛好家たちが集まってくれるが、東京の倉庫から送ったはずのボードゲームが届かない。東京で何かあったようだ。ボードゲームがなく開店できない店に、ネットで調べたという女がやってくる。

初見。ボードゲームカフェと東京の話に関わる生活物語と、登場人物同士の実際に話したのか空想の世界なのかわからないダイアローグと、カードを使った独自ゲーム(「人狼系」って言っていた)を活用した信頼と不信に関する世界とが、時系列をごちゃ混ぜにして展開する。なかなか難しい。出だしから平田オリザと野田秀樹が混ざったような同時多発会話(ある組の会話が他の組の台詞に対応する)を、それもひとつの役が複数の組をまたいでこなす場面から始まって面食らう。

先に書いておくと、役者は粒が揃っている。役を把握しつつ、面倒な展開を消化して、きっかけだらけと思われる芝居をそんなそぶりもなしにこなしている。さすがこまばアゴラ劇場に出る劇団には一定の水準がある。あとこの劇場を横に使って、上手下手中央に加えて上までアクティングエリアにして、複雑な展開を場所の違いでサポートしていた(青年団が「東京ノート」で使って以来2回目の形)。お金がないのにたかがお金と言ってしまう思いやりのつもりが無神経でそれでいて一片の真実がなくはない台詞とか、沈黙だけで1分以上持たせたりとか、場面場面に見どころも多い。

ただ、3つの世界とも、相手への信頼と配慮の欠如や、一方通行で伝わらないことへの諦念など、メタな視点での共通点がほとんどで、演じられている内容自体がなかなかシンクロしてくれない。最後に強引につなげる手腕は嫌いではないけどそこまでが長い。85分だったけど情報量が多いので体感時間はもっと長い。あと、東京の出来事は最後までぼかされているけど、これだけ役者間で共通理解がなさそうだった。あるいは、脚本演出に共通理解を見せるつもりがなかったか。それと横長の劇場の使い方が災いして、複数個所での出来事が一望できず視線がさまよう場面もあった。トータルでは、個々の場面や同時多発会話のつなぎ方に気合が入りすぎて、全部を通してみたら流れをつかむのに一苦労する仕上がり、という感想。もう少しばっさりと整理してほしかった。

なお、開場直後から青年団よろしくゼロ場として劇中のボードゲームをやっているので、早めに入場してそれを眺めてルールを把握しておくと本編を見るのが少し楽になるのでお勧め。当日パンフにもルールの記載があるけど、見たほうが早い。

2019年5月27日 (月)

まつもと市民芸術館企画制作「K.テンペスト2019」東京芸術劇場シアターイースト

<2019年5月25日(土)夜>

弟の裏切りにあって一人娘ともども追放され、孤島に流れ着いた元ミラノ大公。一人娘を育てつつ魔法を身につけた彼は、ミラノ大公となった弟がナポリ王一行の船に乗っていることを知り、魔法で船を難破させて島に上陸させる。そうとも知らず、一緒にいた王子が行方不明で意気消沈しているナポリ王を殺害して王位を取るよう、ナポリ王の弟を唆すミラノ大公。一方、わざとひとり分かれて島を探索させられていたナポリ王の王子は、元ミラノ大公の一人娘と出会い、恋に落ちる。

囲み客席の舞台には会議室のような机と椅子、かぶりつきの席まで用意。現代風の服装の役者がいて、おもむろに始まる芝居は、生演奏や声を多用して原始的な雰囲気を足しつつ、一応ミラノとかナポリとか設定はあっても無国籍風で、時代も超越したような不思議な仕上がり。すごい狭いエリアで展開するのだけど、それに反して芝居のスケールが、話が進行するほど大きくなっていって引きこまれる。

遊びたいように遊んで作ったような印象があるけど、それでも紛れもなくシェイクスピア。なんて表現すればいいんだろう。脚本が好きすぎて自分のやりたいようにやって、それでも成立させたというか。あれだけやりたいようにやっているのに、品位が保たれているのがすごい。そう、品位ある仕上がりだった。個人的には若い2人を祝福する光の場面が好きだった。簡単といえば簡単な演出なのに美しい。あとやっぱり声を足した音楽でより多幸感が出ていた。

役者はまあみんな上手。しいて言えば串田和美の声が、この会場でもだいぶ小さかった。病気したはずだけど、まだ活躍してほしい。でも他の役者がみんな役に対して構えている中でのぶらっと無造作に歩いている感じ、あれは自分で演出をやっているからできるのか、意思と経験のなせる技なのかは知りたい。アフタートークではそのときは演出家っぽいことを考えていると言ってはいたけれど。

そのアフタートークはほぼ日に縁があったということで糸井重里と河野通和。古典とはいえ何となく世界中が知っているシェイクスピアはむしろ古典ではないという串田和美のコメントと、魔法や小さいものたちの存在を今は日本のほうが信じているのではないかとピーター・ブルックから言われたという客席にいた松岡和子のコメントを記録しておく。糸井重里より松岡和子のほうがアフタートークに適任だったんじゃないのかという感想も残しておく。

総じて、何かいいものを観たという感触が残る芝居だった。観てよかった。

2019年5月21日 (火)

オフィスコットーネプロデュース「山の声」GEKI地下リバティ

<2019年5月19日(日)昼>

単独登山で有名な加藤文太郎が、たまたま同じく登山家の吉田登美久と共に槍ヶ岳に登って消息を絶った、昭和11年の遭難事故を通して、なぜ人は山に登るのかを描く。

これは先に「埒もなく汚れなく」を観ていたのである意味ネタばれ状態だったけど、自身も登山家だった脚本家がわざわざ厳しい冬山に登る登山家に仮託して、なぜ生きるのか、なぜ演劇を続けるのか、を描いた1本。

山の景色に魅せられた話や、山は金持ちだけのものでもない、誰のものではないという信念のような台詞ももちろんある。けど、単独登山の途中で他のグループに着いていってラッセル泥棒と罵られた(結果そのために命が助かった)エピソードや、たまたま合流した学生登山家のサポートを得て自分ひとりでは登れない氷壁のクライミングに成功した体験を引いて自分は技術のない脚力だけの男だったという台詞など、自分の小ささを見つめなおすような台詞多数。それに加えて、単独登山の名人だった2人が一緒に登山して遭難することを嘆く場面は、「埒もなく汚れなく」の後で観ると痛々しい。別に登山や演劇でなくても、何か長く続けていることがある人なら胸を突かれること間違いなし。

全編ほぼ会話だけで力強さを出す近頃なかなか観られない脚本は、むしろイギリスあたりの芝居に近く、外国語に翻訳しても通じそう。そこに関西弁であることの柔らかさが加わって絶妙なバランス。反面、役者は熱演していたけどあれでは不十分。頂上にも胸突き八丁にもたどり着いていない。いつものことながら面白い脚本を面白く立上げるのは難しい。

そこからいろいろ端折って思考は飛ぶけど、「埒もなく汚れなく」は適切に薄情な距離感を保って描いた1本で、瀬戸山美咲はさすがプロの脚本演出家だったなと改めて見直した。

イキウメ「獣の柱」シアタートラム(ネタばれあり)

<2019年5月18日(土)夜>

2001年、高知県のある田舎町。裏山に落ちた隕石を探しに行った天文マニアの若者が餓死して発見される。天文仲間としてやはり近所に住む男性は先に拾った隕石を隠し持っていたが、自宅で妹や仲間と調べているうちに隕石を見て時間を忘れ、同時にこの上ない幸福感を覚える。この隕石の効果らしいと気がついた3人が取扱いを相談しているところに、渋谷の交差点で大勢の歩行者を多数の車が轢く「事故」が起こる。

初演を大幅改定しての上演。役者の好演とは別に「名作を大幅改定というけど、振返ればあそこが時代の境目だったと今は思うので、改定しても成立できるのか危ぶんでいる」と事前予想に書いた通りの仕上がり。オープニングの謎の演説が脚本家からのギブアップ宣言なのだけど、初演を観ていないとそれはわからない。

後日追記する。初演を口コミプッシュした観客として、長くなってもこれは何とかして言葉に残したい。

<2019年5月23日(木)追記>

先にいつもの話を書くと、妹役の村川絵梨が初演よりアグレッシブな役を造形して新味、市川しんぺーと松岡依都美が現代では協力し未来では反目する2役でこの特に松岡依都美が自然に役を切替えて上手、劇団員は芝居を把握して安定度よし、カタルシツ演芸会から想像してやや不安だった薬丸翔と東野絢香も柄に合った役のためかかなり安定して観られた。スタッフワークは音響に注目。

で、長くなっても言葉に残したかったのが以下。おそらく過去最長。完全ネタばれなのでこれから観る人は読まないほうがいいです。初演の記憶がうろ覚えでこんな文章を書くのも良くないのだけど、自分のブログなのだから恥はかき捨ての独断で書く。事実誤認や記憶捏造していたらそれは当然こちらの間違いなのでご容赦。

*****

「獣の柱」初演の東京公演は2013年5月から6月、シアタートラムで上演された。東日本大震災と原発事故の衝撃は落着いてきていたものの、リーマンショック以来の世界的な不況と、そこから来る円への資産退避による円高が長く続き、企業は雇用を控えていた。第二次安倍内閣が成立したのは前年末で、経済が回復するのはもう少し先のこととなる。そのちょうど6年後、同じシアタートラムで大幅改定と銘打って再演された。

私たちはあなたたちに伝えることがあってやって来た、そのために言葉を学んだ、ところが何を伝えたいのかを忘れてしまった、私たちが伝えたかったのは言葉では伝えられないことだった・・・。不思議な格好をした「男」が観客にこのような演説を行なう、初演になかった場面から再演の「獣の柱」は始まる。初演では2008年と2096年の、再演ではそれを2001年と2051年に変えて、現代と未来の2つの年代を描くのは変わらない。ただし、特に未来の年代の扱いは大きく異なる。

高知の田舎町に落ちた隕石を拾いに行った天文マニアの若者が不審な餓死で発見される。餓死というより過労に近いという。天文仲間の兄と妹、天文仲間の部長の3人が「見ると時間を忘れて固まる代わりにこの上ない幸福感を覚える」隕石が原因だと気がつく。先に拾っていた隕石の扱いを相談するために、妹の伝手を頼って東京の知人に相談に行くが、そこで兄が行方不明になる。やがてこの隕石の超大型版である「柱」が世界各地に降り注ぐ。残された2人は人口密度の高い地域に柱が落ちていることに気がついて、人口の少ない地元でサバイバルするためのコミュニティを作る準備を進める。現代の場面の主要な展開は初演も再演もほぼ同じである。

大きく異なるのは未来の場面。初演では、あちこちに柱が立って地域間の人の往来が難しくなった時代、あるコミュニティでは観ると幸福を覚える「御柱様」として御神体扱いで祭られている。これを取扱う「宮司」は、御柱様を拝みに来た女性信者に柱を見せて固まっている間に身体を触るが、女性信者の息子に見咎められ、同時に、この息子が柱を見ても固まらないことが知られてしまう。初演ではこの場面から始まり、柱の能力と権威に依存して運営されていたコミュニティに波紋が起きていく未来の様子が現代の場面と並行して進んでいく。やがて他のコミュニティから少女がやってきて、その少女も柱を見て固まらない一人であることがわかる。後で書くが、再演では現代の場面の後にオチのように短く描かれるだけで、大幅に短縮されている。

この初演で脚本家は、旧来の価値観の暗喩として隕石と柱を持ち出した。寄らば大樹の陰、大きな組織に属すれば一生安泰、ただしその組織での理不尽は一切我慢しなければいけないが、それが幸せなのだ、という価値観。理不尽を上回るリターンが期待できた高度経済成長期に生まれた価値観が歪んだのは1991年のバブルの崩壊後だった。実際には1997年の山一證券破綻で端を発したバブルの蓄えを食潰して耐えられなくなった不況、その後一度は持ち直したものの2007年のサブプライムローン問題から2008年のリーマンショック倒産に至る世界的な不況、そして東日本大震災と原発事故により、長い期間就職難と極端な買手市場が形成されていったことによる。

もともと大組織で働けていたのは一部の人間とはいえ一定数はいたところが、それなりの大学を卒業した若者ですら就職にあぶれるようになった。またそこに目をつけて、若者をこき使う、駄目になったらいくらでも代わりがいるという前提のビジネスモデルを作る企業が目立つようになった。そのため、安泰でもないのに理不尽を耐え忍ばないといけない、にもかかわらず見返りの給料もわずかだけ、という労働者が増えた。それが目だった社会問題になったのは2008年のワタミの過労自殺問題からだと記憶している。26歳で入社して2ヶ月の社員が、140時間の残業に絶えられず自殺した。社長の渡辺美樹がまったく反省していないサイコパスなコメントを出すことで、ブラック企業という言葉が流行したのもこれが端緒だった。なお、渡辺美樹は初演後の8月の参院選で、この過労自殺の裁判が続いているなか、自民党の参議院議員として当選し、再演が終わった後に実施される次の夏の参院選には再出馬しないことを表明した。

見ると固まる隕石や柱を用意し、幸福感と引替に過労と餓死で死んだ若者を登場させ、その柱が人口密度の多い場所(大きな組織の多い場所)に落ちるものとした脚本は、このような状況にも関わらず、組織に属すれば安泰だとまだ信じている人たちへの批判としてこの上ない設定だった。柱を見ても固まらない少年少女は、すでに崩壊した大組織信仰を信じない若者を模したものであり、柱を見て固まっている女性信者を触る宮司は買手優位をいい事にハラスメントの横行するコミュニティの例である。

その後、現代の場面では、他のコミュニティが柱で壊滅して押寄せてきた難民の受入が限界に達したとき、部長は「俺が出て行く、もっと受入れられるように新しいコミュニティを作る」と宣言する。協力者だった仲間の妹についてきてくれるよう告白し、仲間の妹はそれを受入れ、2人は出て行く。そして初演の未来の場面では、柱の影響を受けない2人を利用してコミュニティの勢力拡張を図ろうとする村長たちに対して、コミュニティの郷土家(実は現代の2人の子孫)である男は少年少女の利用に反対する。村長たちの強引な進め方に怒った郷土家が「2人ともコミュニティから出て行け、こんなところで利用されるな」と叫ぶクライマックスとなる。どちらも出て行く2人の、困難かもしれないが希望ある未来を予想させる結末であり、また未来の場面に現代の2人の子孫が登場することで、現代の2人はその後も上手くいったことを間接的に描いている。と同時に、大企業信仰が幻想だと気がついている若者なら、先行きのない組織でこき使われて、最悪自殺するまで追込まれるくらいなら、どこか違う場所に新天地を求めろという脚本家のメッセージでもあった。

当時の社会状況をSF的な状況に転換して描き、「出て行く」「出て行け」で2組の、そして観客の背中を後押しする対の場面でつなげた感動は、私の拙い筆力では伝えられないほどに大きく、口コミプッシュも書くに至った。初演の感動は本当に得がたい体験で、後に「複数あるだろう芸術の定義のひとつを『それを体験した人に、人生に立向かうための勇気を与える表現』としてみたい」と書くくらいの衝撃だった。蛇足を書くと、この年は私のこれまでで一番仕事が忙しい年で、だからこそ、初演のメッセージがより深く刺さった面もある。

ところがその後、日本の社会状況が変わり始める。

2013年の日銀の総裁交代とセットになったなりふり構わない財政出動、また東京オリンピックの決定による建設、不動産業界の特需で、景気がようやく回復傾向となる。だが今度は様々な場所で人口の不足が目に付くようになってきた。これには3つある。一つ目は、昔と比べて年齢あたりの人口が減っている中、長い不況で採用を控えられたため本来働き盛りのはずの年齢層で就業経験者が少なかったために回復した景気に追いつけない労働人口の不足。二つ目は、それ以前から言われていた人口減の推移予想が、本来なら結婚と子育ての最中のはずの若者達が定職に就けなかったため結婚できず出産数減に拍車がかかることでようやく世間に認知されてきた、いわゆる本当の人口減。そして三つ目の、東日本大震災後に地域のハードウェアが復旧したにも関わらず、仕事その他の理由で避難していた住民が戻らない過疎化の問題は、やむを得ず他のコミュニティに移住した人たちが、元のコミュニティよりも良い環境を期せずして体験できた結果とも捉えられる。歪んでいた価値観は幻想だと、広範囲な層がようやく言えるようになった。

その流れを決定的にしたのは、2016年の年末に起きた2つの事件となる。ひとつは佐川急便の荷物蹴り飛ばし動画事件。インターネットの普及による通販市場の拡大で、佐川急便とクロネコヤマトが値下げ合戦をして、通販各社は送料無料が当たり前だった。ところがこの動画をきっかけに、現場が追いつかず人手不足であること、また普段大勢が当たり前に利用していて、水道と同じくらい当たり前の存在と認識されていた宅配便業界が、このままだとなくなる、それは自分たちが不利益をこうむる、と利用者が認識を改めることにつながった。その後、宅配便業界の値上げ交渉が成功したことからも、この一件をきっかけに、労働人口が不足しているという事実が周知されたことがわかる。

そしてもうひとつは、東大卒業生で電通に入社した新入社員の女性が過労からうつになり、入社9ヶ月にして自殺した事件。東大に入学して卒業した時点で誰がどう考えても地頭の良さは疑うべくもなく、当座の生活費に困るような家庭環境でもなく、しかも言っては何だが美人で、卒業から間もないので転職したければ働き口に困ることはないはず。そのような人間でも、まったくサポートのない環境で、上司のパワハラにさらされ、1日20時間勤務という環境で放置されると、転職や退職という選択肢を思い描くこともできずに自殺してしまう。ワタミの新入社員が2ヶ月で自殺したのとほとんど同じ構図は、メンタルの問題は能力とは無関係だという事実を広く知らしめた。

(誤解を招かないように補足すると、この文章はワタミの自殺した新入社員の能力を貶めるものではない。ただ、メンタルの問題について縁のない人たち、興味のない人たち、誤解していた人たちにも、人間誰でもおかしな環境ではおかしくなるとようやく認識された、ということを説明したいための文章である)

これらを受けて、まず労働者の確保のため求人倍率は上がり、就職難は劇的に改善した。またブラック企業を無くすべく、少なくとも労働時間と待遇についての改善を目指すため、働き方改革(本当は働かせる側改革であるべき)が施行された。ハラスメントについては、発展したSNSを使った告発も広まっており、商売面や労働者確保面でのイメージダウンによる不利益を警戒する企業ほど、自主的に警戒するようになった。ここまでなら、人口減という逆境に直面して、痛ましい事故も教訓にして、ようやく社会状況が好転し始めた、で済む話である。ところがこれをねじれさせる動きが国内外から出てきた。

国内では外国人労働者受入制度の成立である。きついのに給料が安い職業は昔からあって、需要があれば供給があって、留学生の体裁をとって滞在資格を与える学校や、実習の名目で最低賃金すら下回る手当てしか支払われないこともある外国人技能実習制度がそれにあたる。それにしても裏技扱いだったところに、あまりの人手の足りなさに、公式に労働目的の外国人を受入れようという動きになった。自民党は伝統的に個人向けより経済界向けの政策を取る政党なので驚くものではないが、それでも国内の労働者個人にとっては下方圧力として働く政策である。もっとも、外国人労働者はすでに都心ではあふれており、たとえば都内のコンビニエンスストアで日本人の店員を見ることのほうがまれである。だが、そもそも安いバイト代で多能をこなせるバイトがいないと賄えないコンビニエンスストア自体が「若者をこき使う、駄目になったらいくらでも代わりがいるという前提」のビジネスモデルであることには留意したい(一番はオーナーを食い物にする契約が問題だが、それを話すと長くなるので控える)。

国外からは外資系企業、特にIT系の大手企業からは、安すぎる給料の日本企業に勤める技術者が魅力的に見えるようになった。自国の基準で給料を支払うことが日本の技術者達に魅力的に見えることがわかり、目立たないように攻勢をかけることになる。その中で表に出てきたのは、Googleが東大生に年収15万ドルのオファーを出したという話、それと(ちょうどこの文章を書いているときに制裁が始まったが)ファーウェイの研究職に初任給40万円を提示という話である。これは時勢にあった技術を身につけた一部の有能な労働者にとっては魅力的な話であるが、別の見方をすれば、格差がより開く時代になってきた。初演のころでは通用した、若者全体をひとくくりにして応援対象にする設定も、難しくなってきた。

再演では未来の場面は大幅に削られる。柱を見ても固まらない少年はコミュニティの外の廃墟に隠れ、柱の見えない闇夜に母親が食糧を持ってやってくる。元のコミュニティを去って廃墟を訪れた、やはり柱を見ても固まらない少女は、最初からふてぶてしい態度で大人を信じていない。村長が少年を利用しようとするのは同じでも、再演では村長は名前だけで登場せず、村長の意を受けて母親を尾行してきた使用人が、少年を連れ戻そうとする。それを押しとどめるのは初演の郷土家のようなコミュニティの他人ではなく母親であり、肉親以外の身近な人間ですら信頼できない環境におかれている。そこを救うのは、隕石とともに行方不明だった「兄」である。

この兄は初演と再演で大幅に変わった役になる。行方不明だった兄が現代の場面で再度見つかるのは同じだが、初演では、言葉が話せない、けど幸福そうな様子でどこからともなく表れ、隕石をもって脅かそうとする相手から隕石を取上げて食べてしまう。するとその口から七色の虹が飛出し、幸福が広まる。古い価値観を一蹴する演出でもある。ところが再演では、現代の妹の前に言葉を話せずに苦しんで現れ、妹が何とか言葉を教えようとする。そこから未来の場面に飛んで、言葉を話せるようになり、柱を見ても固まらず、不思議な力を持った存在として少年と少女を迎えに来る。そこで知らされるのは、少年が部長と妹の孫であることと、痴呆になった妹に悩んだ部長が柱の前に2人で出かけて自殺したということである。現代の場面であれだけ前向きだった2人が、痴呆になり、結局柱の力にすがって亡くなるという出来事は、2051年という設定と合せて、日本の老々介護を想像させるのに十分である。

助けに来たのでコミュニティの人たちを集めてくださいといわれた母親の声に翌日集まったのが数百人。この場でも少年は母親に、全員一緒に暮らせないかと訴えるが、母はそれを押しとどめ、そばで見ている少女は冷笑を崩さない。そして集まった人たちを前に兄、つまり不思議な格好をした男が、何かを話そうとして芝居は終わる。それは演劇の技術で、実際には冒頭の場面につながる。観客からすれば不完全燃焼を覚える最後ではあるが、伝えたいことがあったのに言葉を覚えたら伝えられなくなったというのは、初演で見せた希望がそのまま成立たない6年後の現在であり、その時代に無条件の希望的なメッセージが出せない脚本家の代弁でもある。

では「獣の柱」がすでに時代遅れになり、将来は通用しない脚本かというと、そんなことはない。なりふり構わない財政出動には限界があること、また、その間に世界に通用する企業がほとんど育たなかったことから、次の不況は前にも増してひどくなることが予想される。そうなったとき、それまでの反動で、柱の価値観を強要される人たちが多く出てくるはずである。その人たちは、再演で描いた決して明るくない未来の中に、初演に近いメッセージを探すことになる。そこで観客の背中を押すことを脚本家がためらわなければ、初演とも再演とも違う、再々演版の「獣の柱」が上演できるはずで、そこに一観客として私は期待する。

ここまでの文章で取上げたものはすべて経済にかかわる出来事であり、経済に振回されてきた価値観のことである。「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と二宮尊徳は言ったが、これだけ経済の影響が行き渡った世の中では、経済に対抗できる価値観が求められている。ここで道徳という単語は集団に求められる振舞という語感があって古く、これからの時代には倫理や哲学や美学という、より個人での価値観を磨くことで、犯罪にも寝言にもならない意思を身につけることが必要とされる。そのような言葉にしづらい価値観を伝えてくれるのも、演劇の持つ力のひとつである。おそらく6年後にはまた大幅に社会状況が変わっているはずなので、そのくらいの期間での再々演を望みたい。

2019年5月13日 (月)

オフィスコットーネプロデュース「埒もなく汚れなく」シアター711

<2019年5月11日(土)夜>

大竹野正典は関西で劇団を主宰していた実在の人物で、2009年に海で亡くなった。結婚して働きながら脚本演出を行ない、山登りが趣味だった人が演劇を始めてから、最終公演「山の声」を書上げて亡くなる直前までを、関係者への取材を元に描く。

2016年の初演は気になっていたけど見逃した。演劇をやっていく能力がありながら演劇をやっていくのに向いていない人となり、それが高じたであろう山登りへの傾倒、本人に最も近くて最も遠かった妻との関係、それらが集約されて「山の声」の執筆へとつながる流れ。素晴らしかった。

出演者もいい役者を揃えている。西尾友樹と占部房子の夫婦役が素晴らしい。実在が疑われるくらいけなげな妻に造形されていたど、そこがまた、けなげにさせるだけの魅力が本人にあったのだろうことを推察させるのと、夫婦喧嘩でのギャップを際立たせていい感じ。脇は好みだけど、学生時代の先輩を演じておいしい役回りの福本伸一に目が行く。ひとりネタ出演となった柿丸美智恵の贅沢な無駄遣い(笑)は、素直に楽しむべし。

観て損はさせないのでぜひ。

アフタートークはネタ出演のモデルのプロデューサー綿貫凜、脚本演出の瀬戸山美咲、あと主演夫婦の西尾友樹と占部房子の4人。プロデューサーと脚本演出家にしゃべりたいことがありすぎて出演者のトークが削られぎみ。亡くなったのが事故とも自殺とも取れる(そこにはあまり踏込まない)ので、創っていて何か想像するところがあったのか最後に質疑応答の時間で聞いてみたかったけど、ちょっと無粋な質問かと遠慮してしまった。

後日追記するかも。

<2019年5月21日(火)追記>

山の声」も観た。結果、瀬戸山美咲のプロ意識が伝わった。面白い芝居にはある種の薄情さ、残酷さが伴うことがわかった。そして「山の声」を書いたときの大竹野正典は、諦念とか絶望かな。この2本を観た勝手な感想としては。

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