2025年3月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

2025年3月16日 (日)

ワタナベエンターテインメント企画制作「マスタークラス」世田谷パブリックシアター

<2025年3月15日(土)夜>

世界的なオペラ歌手のマリア・カラス。彼女が劇場で生徒を相手に公開指導を行なうマスタークラスが開催される。やってきた生徒を相手に指導を行なううちに、昔の思い出がよみがえる。

黒柳徹子がセゾン劇場の再演で演じたのを観て以来だから何年ぶりでしょうか。細かいところは忘れて臨みましたが、実はよくできた話だったのだなと観終わって感心していました。

前に観たときはマリア・カラスのとがったプライドと、生徒や他の有名な歌手に対して意地が悪い様子のところに笑っていた覚えがあります。今回それはそれとして、マリア・カラスが音楽に対しては真摯に臨んでいた面をそれ以上に強調する演出でした。で、そこを取出したら、考え方としてはやや古いものの、古いなりに筋の通った、そして極めるからにはひとつのことに打込むことが当たり前、当たり前にならざるを得なかった余裕のない時代で最高峰まで上り詰めた歌手の芝居に仕上がっていました。

それを演じた望海風斗も、出だしはやや硬かったものの後半は調子が上がっていました。宝塚トップも務めた喉の披露はほどほどに、だけど経験と貫録は引っさげて、いいマリア・カラスでした。他もなかなかいいのですが、演奏とスタッフ役の2人はともかく、歌手の3人が単体で観るといいのですがどうも馴染んでいない。歌唱力優先で選んだためか地の場面の調子まで大げさに過ぎる。これは公演後半になるほど馴染んでしっくりくるケースと見受けましたが、こちらはもう一度観るわけにはいかないので、演出でもう少し調子は均しておいてほしかったです。

あまり比べるものではありませんが、とはいえやはり黒柳徹子の芝居を思い出すと、前半最後の回想場面で「私は勝った!」と叫んだときのあの一声、あれで私は黒柳徹子を女優と認識したので、あそこにひとつピークがほしかったとは思いました。それは他の歌手に対して意地が悪い様子との裏返しなので演出に合わなかったかもしれませんが。まだ芝居に対してどんなものかと探っていたころに受けた強烈な印象というのはなかなか抜けないものだと、帰り道に自分も回想していました。

梅田芸術劇場/研音企画制作主催「昭和元禄落語心中」東急シアターオーブ

<2025年3月15日(土)昼>

昭和の時代、名人と呼ばれるも弟子を取らないことで有名な噺家が、刑務所帰りで弟子入りを頼み込んだ男を弟子に取る。住込みなので自宅に居候となるが、家族はおらず、付人以外にはかつての兄弟弟子の娘が暮らしている。兄弟弟子が妻と一緒に亡くなったので引取って養っているのだが、その娘は噺家が両親を殺したと言い張る。ただ事ではないので新弟子が訊ねたところ、付人は娘の両親と噺家を巡る因縁を話し出す。

漫画原作も一切情報を入れないで観に行ったら、落語の話ではなく落語家の話でした。なので落語に寄せた展開は多少出てくるものの、本筋は身寄りのない子供が噺家に弟子入りして辿った因果です。

落語の場面は初めと終わりだけやるので座りっぱなしの場面が続くわけではありませんが、それだけに落語家らしく見せるのは難しい。そこを山崎育三郎は破天荒な落語家という設定を生かして、きっぷのよさと華を前に押し出して歌に演技に魅せてくれました。そちらが動なだけもう一方の落語家は静にならざるを得ず、古川雄大は歌はいいものの場面作りで動きを大げさにつけるわけにもいかず苦労していました。事情はみよ吉を演じた明日海りおも同じで、芸者時代は着物もあって動きが狭く、洋装になってからの方が場面は短くとも自由でした。それよりも落語家の物語という体を保っていたのは二人の師匠を演じた中村梅雀によるところが大きく、この人あってこその今回の物語と思わされました。

原作が選ばれることだけのことはあってよくできていましたし、役者も歌と演技を熱演していました。ただ、落語をミュージカルにするならともかく、落語家の話をミュージカルにするのはなかなか難しかった。ミュージカルにするには食い合わせが悪いというか、ストレートプレイの方が向いている原作だったように思われます。それをミュージカルにするなら歌の歌詞も挟みどころもまだまだ工夫のしどころがあったかなと思います。歌詞については後ろのスクリーンに映していましたが、私の観た席からだと半分以上見切れましたので、その辺もストレスでした。

その歌詞が見切れた理由の1つは高さのあるセットを組んだからですが、あの高さも物語にはここ一番以外にはいらなかった。大きい劇場を満員にした集客力はさすがでしたが、PARCO劇場とは言わないまでも、せめてシアタークリエくらいに抑えていたらまた評価も変わったかな、というのがミュージカルひよっこな観客としての感想です。

2025年3月 9日 (日)

松竹制作「仮名手本忠臣蔵 夜の部(Bプロ)」歌舞伎座

<2025年3月8日(土)夜>

おかるの実家に身を寄せた早野勘平は猟師で身を立てているが、ある雨の夕暮れに山道でかつての塩冶家の同輩と出会う。仇討とそのための金策の打明けられたので住まいを教えるが、さりとてそのような金はない。二人が別れた後でおかるの父の与市兵衛が通りかかる。勘平のためにと勘平に内緒でおかるが祇園に身売りしたので、その半金五十両を持って家路を急いでいた。それをかつての家老の息子で身を持崩して山賊を行なっている斧定九郎が斬捨てて大金を懐にする。ところがそこに通った猪を狙って勘平が撃った鉄砲が斧定九郎を倒す。すでに夜のこと、勘平は誤って人を撃ったことには気付いたが相手のことはわからず、薬がないかと探った懐の財布に気付き、申し訳ないと思いつつも仇討に加わりたいため持帰ってしまう(五段目)。あくる日、まだ与市兵衛が戻らないと心配するうちに、祇園の女将たちがおかるを身請けにやって来る。そこに勘平が戻ってきて事情を聞かされ、おかるは連れて行かれる。その後で猟師仲間が見つかった与市兵衛の亡骸を運び込んだので、怪しい財布を持っていた勘平をおかるの母のおかやが問詰める。そこにかつての塩冶家の同輩2人がやって来る。勘平は家に戻る前に五十両の中身を預けていたが、駆落ちした勘平からの金は受取れないと返す。話を聞いたおかるは勘平を責め、勘平も2人の前で腹を切って金を手に入れたいきさつを話す。だが鉄砲で撃ったと話す勘平なのに与市兵衛の亡骸は刀傷のため、誤解がわかる。すでに瀕死の勘平におかるは詫び、同輩2人は勘平の腹を切った血で連判状に勘平の名を連ねる(六段目)。しばらく後の祇園。大星由良之助は茶屋に泊まり込んでうつつを決込む様子で、手の者が説教に来てもあしらって返す。そこにおかるの兄の寺岡平右衛門がやって来て仇討に加えてほしいと頼み込むがそれも断る。かつての家老で今は高師直の手先となっている斧九太夫は由良之助の様子を探りに来て、主君の命日に生臭ものを食べさせるが由良之助は平気で口にする。なお様子を調べるために床下に隠れた斧九太夫に気づかず、届けられた密書を読んでしまった由良之助だが、それを手鏡越しに2階から見ていたおかると、床下に潜む斧九太夫に気が付く。密書を見られたおかるを放っておけないため身請けを申し出た由良之助を待つ間に平右衛門がやって来て、兄妹は再開する。由良之助がおかるの口封じを考えていることに気が付いた平右衛門は、おかるに家族の様子を知らせ、仇討に加えてもらうための手柄におかるの首をくれと頼む。それならとおかるが思い切ったところで由良之助が2人を止める。代わりにおかるといっしょに床下の斧九太夫を刺し、平右衛門が仇討に加わることを認める(七段目)。ついに仇討の晩、激しい戦いの末に師直を見つけた一行は本懐を遂げる。師直の首を捧げるために菩提寺に向かう一行に、江戸見回中の旗本の服部逸郎は、旗本屋敷を通ると捕まりかねないので裏道を通って向かうのがよいと遠回しに指図する。案内に従って道を変えるように指図する由良之助に向かって、服部逸郎は別れの挨拶を交わす(十一段目)。

仁左衛門勘九郎のBプロ。昼の部はこちら。今後のためにとあれこれ調べて粗筋をまとめてみましたが、後半は重たい場面が多いのでまとめも大変です。省略されているのは八段目が加古川本蔵の娘が由良之助の息子への嫁入りに向かう場面。九段目がその親子と由良之助親子とが、いざこざの末に和解する場面。十段目は討入り前にかつての塩冶家の出入商人で仇討の協力者の廻船問屋の真意をもう一度確かめる場面です。二段目の省略と合せて、大星由良之助の息子と加古川本蔵の娘の婚約が、塩冶判官と桃井若狭之助との間に関わるところが丸ごとかとされています。ここまで入れたらプラス2時間でも収まらないだろうからやるなら思い切りカット、その代わりにおかる勘平平右衛門の側はきっちり、という上演でしょう。

仁左衛門の由良之助以外に、勘平の勘九郎は昼の部に続いて夜も腹を切りましたがやっぱり上手、おかるの七之助は笑わせようという場面をきっちり入れてきて、あと平右衛門の松也はきりっとして真っ直ぐな感じが出ていましたね。他だと斧九太夫の片岡亀蔵は憎い役のはずなのにわからなくもない線まで持ってきているのが目を惹きました。五段目の斧定九郎は中村仲蔵方式で来るかなとちょっぴり期待しましたが、きれいで男前な斧定九郎でした。役者の出来に文句はありませんが、最後の最後、仁左衛門が「吉良邸に討入り」と台詞を言ったように聞こえましたが、あれはそういうものなのか、間違えたのか、どちらでしょう。

芝居全体では、もう少し場面転換がスムーズだとよかったのになと取れる場面がいくつかあったのが惜しいです。あとはたっぷりやりすぎて長くなったのもやはりもったいない。これだけカットしても1日がかり、昔はこれを1日で上演したのでしょうか。だとしたらもっと早い時間から開幕したとしても、芝居をもっとテンポよく運ばないと1日では収まらなさそうです。これはコクーン歌舞伎でカットなしで1日通し上演をやってくれないかなと期待したいです。

ちなみに芝居が終わって外に出たらこの季節なのに雪で、うおお討入りだあああとテンションが上がりながら駅まで歩きました。服装はまあ暖かくできたでしょうし、動いているうちには身体も温まるでしょうが、討入りの時に手足の暖はどういう格好をしていたんでしょうね。寒さには今より慣れて強かったでしょうが、手がかじかんで刀が握れないようでは困ります。それなりに防ぐ知恵はあったと思いますが、そういう普段の格好すらわからなくなった昔の話なのだな、江戸は遠くなりにけり、との感を覚えました。

松竹制作「仮名手本忠臣蔵 昼の部(Aプロ)」歌舞伎座

<2025年3月7日(金)昼>

天下を平定した将軍足利直義は、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に新田義貞の兜を奉納する。その検分のため足利家の重臣である高師直は、塩冶判官の妻の顔世御前を呼ぶ。検分は無事に終わったものの、顔世御前に横恋慕している師直は恋文を渡して口説こうとする。それと察した桃井若狭之助が顔世御前を逃がすものの、邪魔された師直は若狭之助を侮辱する。腹を立てた若狭之助が切りかかりそうなところを塩冶判官が止める(大序)。若狭之助の家来の加古川本蔵が主人に将軍饗応の名誉を賜った礼、その実は揉めた主人との仲を再び取持つためにと主人に内緒で進物を持ってくる。これに目がくらんだ師直は受入れて加古川本蔵も見学していくようにと館に入れる。若狭之助は館で師直と会って腹を立てたものの、進物を受取った師直は先手を打って頭を下げたので若狭之助も機嫌を治める。だが若造に頭を下げた師直は塩冶判官に遅いのなんのと八当たりする。そこに顔世御前から師直に、先日口説かれたことについてお断りとの文が届く。この顛末の鬱憤を目の前の塩冶判官にぶつけた師直だが、あまりの悪口雑言に塩冶判官は腹を据えかねて刃傷に及ぶが、加古川本蔵に止められて不首尾に終わる(三段目)。謹慎していた塩冶判官の元に上使がやって来て切腹、領地没収、館明渡を命じる。覚悟していた塩冶判官は取乱さないが、せめて家老の大星由良之助が国許から戻るのを待ちたい。だが戻らないのでもはやこれまでと腹を切ったところで由良之助が戻る。無念を伝えて喉まで切って果てた主君を菩提寺に見送ることで切腹を見届ける上使の石堂右馬之丞は戻るが、館明渡の見届ける薬師寺次郎左衛門は師直と仲がよいため早く館を明渡せと迫る。これを一度奥に休ませて家臣一同で今後の相談をするが、由良之助ともう一人の家老の斧九太夫とは知行に合せて塩冶家の財産を家臣に分けるのがよいと話して分かれる。それでいいのかと詰寄る家臣に由良之助は仇討のためにいまは時期を待とうと諭して館を明渡す。館の中で嗤う薬師寺次郎左衛門一行の声が聞こえる中を館から去る由良之助だったが、館から離れて門が間もなく見えなくなる場所まで来たところで泣崩れる(四段目)。顔世御前の腰元おかると、塩冶家家臣の一人であった早野勘平。二人で逢瀬を交わしていたため閉門された館に戻れず、主君の一大事に駆けつけられなかった二人。それを恥じて京都のおかるの実家を目指して西に駆落ちする。そこにおかるに懸想していた師直の家来である鷺坂伴内が奴を連れて二人に追いついて、おかるを寄越せと言い張る。勘平は相手を散々にやっつけたところで、おかるがそのくらいでと止めて、その隙に鷺坂伴内が逃げる(道行旅路の花聟)。

仁左衛門勘九郎のAプロ。夜の部はこちら。今後のためにとあれこれ調べて粗筋をまとめてみましたが、これだけやってもまだ省略されていて、二段目丸ごとは桃井若狭之助と加古川本蔵の主従のやり取り、三段目の一部はおかる勘平の逢瀬と鷺坂伴内からおかるへの懸想の前振り、四段目の一部は塩冶判官の身を案じる顔世御前と肚の小さい斧九太夫を描いているそうです。だから今回の上演では、塩冶判官と大星由良之助にフォーカスして、それと後で重要になってくるおかる勘平を紹介するといった趣です。それは夜の部を通じても変わらない。

省略版でもよくできている話ですが、見どころはやはり四段目。ここは塩冶判官も大星由良之助もあまり台詞がなく、少ない台詞にどれだけ心を籠められるかと、台詞のない場面をどれだけ見せられるかの勝負。切腹姿の美しい勘九郎と、切腹の後で固く握りしめた手を開く仁左衛門、それと館を立去る仁左衛門、いいものを観られました。

この四段目、上演が始まったら客を入れない「通さん場」と言われているそうです。場内アナウンスがあったので気が付きましたが、案内板も立っていたし、公式サイトにも載っています。このご時世でもまだ本当に通さん場をやるところが、伝統芸能ですね。切腹の場に途中から入れないというのは理屈のようで理屈じゃない。そういう理屈じゃないところがないと続かない。それも含めての忠臣蔵なんでしょう。

館を立去るところで回転舞台を使って、大星由良之助が花道のセリのあたりで止まったまま、門を遠ざけることで離れていく様子を描くのが歌舞伎にしては珍しく、自分の観た席からだと非常に効果的に観えました。そういう美術の使い方ができるなら普段からもっとあれこれやってほしいです。

2025年2月24日 (月)

新国立劇場オペラ研修所「フィガロの結婚」新国立劇場中劇場

<2025年2月23日(日)昼>

とある伯爵家で使用人のフィガロとスザンナが結婚式を挙げる当日。スザンナに懸想する伯爵は愛人になるように迫り、フィガロとの結婚を信じて金を貸してきた女中頭のマルチェッリーナにその恋人の医師バルトロはフィガロの結婚を邪魔しようと画策する。フィガロもスザンナも何とか両者の企みを跳ね返そうとするのだが、それを知らない伯爵夫人は伯爵の愛が離れていくのを心配し、スザンナに頼んで伯爵を逢瀬に誘って自分が身代わりになって伯爵を懲らしめる計画を立てる。それだけでもややこしいのに、近ごろ恋に目覚めた伯爵の小姓ケルビーノは伯爵夫人は素敵だとスザンナに訴える。小姓と言えども男性なのに伯爵夫人と二人っきりのところを見られては嫉妬深い伯爵の怒りが予想されるのでスザンナも伯爵夫人も追返そうとする。フィガロの結婚の日なのに、とにかくややこしい1日。

おー聞いたことある、というオープニング曲から始まりはしたものの、とにかくややこしい話。ややこしさの全貌がようやく見えてきた後半は登場人物全員、間が悪い空気読めと引っぱたきたくなるけれど、それは置いておいて、やっぱり耳馴染みのいい曲が多くて、モーツァルトの名作と言われている理由はわかりました。「セビリアの理髪師」の続編だということも初めて知りました。

全編イタリア語の字幕というあたりに一抹の不安を感じましたが、ろくに粗筋も知らないで臨んだ身としては、むしろ粗筋を字幕で追って耳では原語を楽しめたので初フィガロには今回の仕組みの方がよかったと観終わった今は思います。だけど字幕を観ないで原語で聴いているっぽい笑いも少数ながら起きていて、芝居とは客層が違うなと思わされました。

ダブルキャストなので本日初日にして最後だったため、出だしこそ歌手が(オーケストラも)やや緊張していた気配がありましたが、前半の後半あたりから温まって来て、終わるころには絶好調でした。だから頭から通しで出ていた歌手は調子を測るのが難しいですけど、それでも歌がいいなあと感じたのは伯爵夫人の吉田珠代が一番、ケルビーノの大城みなみは歌だけでなく茶目っ気を出した演技も含めて二番、伯爵の中尾奎五は一人演技の場面で声量が落ちたのが惜しいですけど大勢と合せるときはそんなことなくて威厳があるときの伯爵らしさもよく出ていて三番、でしょうか。とはいえ、そこから先は明確に劣る人は誰もいません。しいて言えばオペラ歌手の圧倒的な声量というのも聴いてみたかったですが、声量が中劇場サイズにチューニングされていたのはしょうがないとして、声が前に飛ばず奥に向かう歌手が何人かいたようではありました。素人的には前にパーンと張って出てくる方が好ましいです。

カーテンコール含めて3時間45分の長丁場でしたが、有名演目を観られて聴けて、全体に満足の行く出来で、楽しめました。他の有名オペラもこれで観たいと思わされました。オペラハウスもいいんですが、やはり大きすぎる。

後は芝居と関係ありませんが、当日パンフを読んで知ったのは、オペラストゥディオ(オペラ研修所)の場合は全員音大を出てからさらに入っているのですね。そこは日本語の世界である芝居と、西洋言語で世界をマーケットに見据えないといけないオペラ(クラシック)の世界とでキャリアパスが全く違うのだなと勉強になりました。

2025年2月23日 (日)

松竹制作「猿若祭二月大歌舞伎 夜の部」歌舞伎座

<2025年2月21日(金)夜>

夜の部2本。大奥の女房江島と通じて島流しにあった歌舞伎役者生島は、島でも江島を忘れられず物狂いとなってしまったが、そこに通りかかった海女の1人が江島にそっくりで「江島生島」。博打にはまって素寒貧になり夫婦喧嘩が絶えない左官職人、一人娘が夜にも帰らないと騒いでいたところで吉原の店から使いがやって来て店に行けば、父の借金を返すために身を売りたいと娘が自分から言い出したとのこと、見かねた女将が娘は大事に預かるから1年限りで返して見せろと金を出し、さすがに心を入替えてさて家に帰ろうとしたところで「文七元結」。

チケットがあるかと思ったら普通席は完売で、当日券は「阿古屋」が売切れていたけどまだ買えた他の2本の当日券を掴んで観劇。「江島生島」は踊りと音楽で雰囲気を楽しむのが吉。そういう楽しみ方もあるのだなと発見。

「文七元結」は落語で聴いたばかりなので芝居ではどうかと見物。これは勘九郎と七之助ががっつりだけど、特に勘九郎が完全に劇場を手の内に収めて客席を転がしてみせた。演目だからか公演後半だからか、やや客席が慣れていた様子だったけれど、それを差引いても上々の上の出来。身投げの男を引き留める場面、誰も通りやしねえと言う台詞のところでちょうど客席の赤ん坊が声を上げてしまったのもすかさず「赤ん坊の声しか聞こえやしねえ」とネタにしたところは落着いたもの。最後の長屋での夫婦喧嘩からの大騒動はもう、七之助と二人してやりたい放題やっているのに矩を踰えないところに感心しきり。観られてよかった。名前の順番は一段下がるみたいだけど、兄弟二人がこの世代の一番二番です。

東京サンシャインボーイズ「蒙古が襲来」PARCO劇場

<2025年2月21日(金)昼>

来客の準備に忙しい対馬の村長の家。どうやら鎌倉から武士がやって来たらしい。海の向こうから異国の襲来があるかどうかを確かめたいからだという。だが手伝ってほしい子供は遊びに出かけ、久しぶりに戻ってきた村長の息子は妹夫婦に準備を任せてぐうたらしている。鎌倉からの客人の相手をするために他の村や神社からも人が来ているが、どうにものんびりとした晴天の1日。

東京サンシャインボーイズ再公演ということで、観ました。普段の三谷幸喜の芝居から考えていたのとはだいぶ異なるスロースタートな芝居なのは、劇団員が多くてその分だけ登場人物が増えて、紹介に時間がかかるからでしょう。三谷幸喜のことだから、むしろそれを解決するためにのんびりとした漁村という舞台設定を選んだに違いありません。そこから少しずつ笑いが始まっていきます。オチはどうなるかと考えながら観ていたら、これはないよなと考えていたオチになりました。そうやって期待を裏切っていってこその三谷幸喜、でしょうか。

名前を見れば「おお」と思うような実力派が並んでいるのですが、全員役に徹して、狙って笑いを取りに来るようなことはしません。が、それが過ぎて、観たことのある役者でも「この役があの人かな?」となってしまいました。三谷幸喜の嫌うところではあるでしょうが、もう少しあざとく笑わせに来てもよかったかなと思います。

開演前と後のアナウンスもささやかに笑いを取りに来るので、早めに劇場に着いてアナウンスが聞こえてきたら耳を傾けてみましょう。

2025年1月13日 (月)

ポウジュ「リタの教育」シアター風姿花伝

<2025年1月12日(日)夜>

酒手ほしさに初めての社会人講座を引受けた教授。そこにやってきた美容師の女性は、何とか今の生活から抜出したいと願う。無遠慮な様子に断ろうとしたものの女性の熱意に負けて始めた講座も初めは滅茶苦茶だったが、きっかけを掴んだ女性は少しずつ勉強に目覚めていく。

旗揚公演にして2人の役者で2演目同時上演という無茶な企画の、2演目目の初日。昔観たことがあった翻訳物なのでこちらを観劇。出だしは浮ついていたもののマクベスのあたりから少しずつ乗って来て、終わってみれば役者は素直に演じていたなという感じ。

ただ、役者の出来とは別に仕上がりにどうもしっくりこない点があって、なんだろうと考えていた。

ひとつは演出で、なんだか時制が上手く出ていなかった。序盤から中盤に飛ぶところが急だったり、ラストのラストを考えると序盤でもう少し教授側に歩み寄らせるというか引張り回されるところを出してもよかったのでは。変わるリタに教授も揺さぶられて変わるかどうかが見所のひとつなので。スタッフに関するところで言えば、イギリスだから夏でも寒いのはわかるけど、教授のフランクが終始コートを持っていないのは季節感に目が届いていなかった。

もうひとつは翻訳で、教授が元詩人という設定なので、元は駄洒落というか韻を踏むような台詞が多かったように記憶している。だから翻訳で苦労していて不自然な台詞も残っていたのが以前観た時の感想。今回は不自然さを感じなかったかわりに駄洒落感はごっそり間引かれていた(「る韻(?)」だけはわからなかった、検索してもわからない)。とは言え、それで自然になったかというとまだ不自然が残っていて、具体的には序盤のリタの労働者階級らしいがさつさも抜け落ちていた。

この話はアフタートークでも出ていて、日本の訛りは地方の方言を意味することが多いけどイギリスは労働者階級とアッパークラスとで上下の言葉が違う、窮して今回は標準語(共通語)の中で「わたし」を「あたし」にするなど差をつけたと話していた。ただ悪気はなくともがさつで乱暴な言葉遣いというのもあるはずで、それは日本だと武家言葉と町人言葉とか、山の手言葉と下町言葉に該当すると思うので、小説なら銭形平次とか芝居なら歌舞伎とかからエッセンスを抽出して工夫してほしい。

上下の言葉遣いの差は現代口語演劇の発展で取残された分野ではないかとひそかに考えているので、翻訳に力を入れるユニットらしいから期待したい。

パルコ企画制作「志の輔らくご in PARCO 2025」PARCO劇場

<2025年1月12日(日)昼>

いろんな人がやって来る窓口は応対する職員も大変で「みどりの窓口」。実家の寺を継ぐつもりで故郷に戻ったものの父が元気なら自分は必要ないとわかって市役所勤めを始めた男の無鉄砲な行動力「ローマへの米」。博打に狂った左官の親方、積もった借金をきれいにしてほしいと娘が吉原に身を売ろうとするも、女将の計らいで一年の猶予をもらって大金を手にしたが「文七元結」。

新年吉例。「みどりの窓口」は聴いたことがあったけれどもやっぱり面白い。「ローマへの米」は細部はともかく実話だけれど、家に帰って検索してわかったのは故郷に戻る前の前職で、それは行動力もある人だろうなと。そしてたまに見かける話の元がこれだったかとようやく知った「文七元結」。どれもよくできている。幕間の映像だけは、笑わせようとして一部ネタを入れていたんじゃないかと思うけど、客席全員信じていたみたいなので笑うか迷った。でもパルコが2位なわけないだろうと思う。

聴き終わって、1本目はともかく2本目と3本目はいい話に寄せてきたなと感じたけれど、それは終わりに志の輔が話していた。去年1年のあれこれをどうまとめようか毎年うんうん唸ってようやく形にするのがこの1か月公演、昨今のひどい世の中を考えると何とかなってほしい。それは自分にはよくわかって、昔の世の中だってひどいことはたくさんあったけど、それだからこそそれ以上に世の中捨てたもんじゃない話もたくさんあったんだという話。昨今は下は余裕がなくて、余裕があるはずの上は狡すっからい考えが目に付いて、神も仏もあるものかと言いたくなる世の中だからこその演目選定かと。

2024年12月29日 (日)

新国立劇場主催「くるみ割り人形」新国立劇場オペラハウス

<2024年12月28日(土)夜>

クリスマスイブの晩に行なわれたパーティーで、少女クララは来客のドロッセルマイヤーから贈り物としてくるみ割り人形を貰う。兄が壊してしまうが、ドロッセルマイヤーに無事に直してもらう。夜遅くなってクララが寝ると、夢の中で大人になったクララが、ねずみの王が率いるねずみの兵士に襲われる中、人形の兵士がやってきて戦いが始まる。

1度くらい観ておきたいじゃないかと考えていたのでここで観劇。この曲はくるみ割り人形だったのかという気付きと、平和な話でいいなあという感想とは別に、子供のバレエチームが、メインの2人だけでなくみんな上手で驚いた。子役の分野も競争が激しいですね。大人キャストではねずみの王で踊った木下嘉人が目に付いた。大袈裟な動きの多い役どころだからかなと初めは考えたけど、観終わるとそういうわけでもなさそうで、まあ、素人の感想です。あとは演奏もよかったですねとこれも素人の感想です。

これで「白鳥の湖」「眠れる森の美女」にこの「くるみ割り人形」とチャイコフスキーの3大バレエは観られたので、今後バレエは機会があればということで。

より以前の記事一覧