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2021年2月15日 (月)

マンガの流行と芝居の上演頻度で社会の問題をどこまで追えるか

調べなくともたぶん大勢書いている人がいるだろうと思いつつ、適当なことを書きます。

芝居を観られないので本を読むことが増えて、巻数が多くて場所を取るからと避けていたマンガを久しぶりに読むかと、1月に「鬼滅の刃」を、2月に「約束のネバーランド」をそれぞれ一気読みしました。これぞ大人買いとは買った後で気が付きましたが、気持ちのいいものです。

期せずしてどちらもジャンプ系ですが、その王道をいくような内容で楽しめました。ただ、あまり間を空けずに読んだので気が付いたのですが、鬼と闘うのを別にしても、両者が実に似ています。ジャンプの王道なら展開が似ているのは別におかしくありませんが、敵役の描写がひと方ならないこと、実に今様です。

正義の主人公が悪の敵役をやっつけてめでたしめでたし、が勧善懲悪物語の基本です。昔話と言ってもいい。この場合、物語が始まる時点で敵役はすでに主人公たちに悪いことをやっていて、それに対抗するために主人公が立上がってやっつける、そこに難しい動機付けはありません。敵役の描写があっても、悪さを強調するだけです。主人公が一度負けたり仲間がやられたりしてもなお立ち向かう、くらいなら基本のバリエーションです。

その発展形として、主人公の悩みを描くことが増えました。こんなことをやっていいのか、逃げ出したい、そもそも何のために闘っているんだ、など。雑に書くと正義に対する主人公の懐疑が発展形の中心にあります。闘うことは闘っていても、なかなか主人公は満足できません。

その発展が行きついて、主人公が敵役と闘うこと自体、主人公側の悪役にはめられた大きな悪の一部という話があります。当初は味方と思っていた主人公側の悪役と闘うことまで視野に入れた物語になります。

そこからさらに、悪には悪の事情があることを描く物語が登場しました。私が今様と書いたのはここです。双方事情があるうえでなお闘って主人公が敵役を倒さざるを得ないのが今様の基本形、闘いながらもそこを避けて共生の道を探るのが今様の発展形です。ネタバレになりますが、前者が「鬼滅の刃」、後者が「約束のネバーランド」です。そうは言っても主人公に外さない線を持たせて、最後に悪を引受けて倒される「ラスボス」を用意するところが、王道でありヒットした所以です。

それに合せて、主人公も個人プレーまたはパーティーと言える数人の仲間の戦いから、団体や組織に所属しての闘いになりました。組織と呼ばれるのは悪の組織と昔は相場が決まっていましたが、最近は主人公側も組織があります。ここまで話が複雑になると個人レベルの主人公では追いつけません。これも今様の特徴です。ただし闘う場面ではパーティーと呼べるレベルまで人数を絞って、あるいは同じ規模の複数の闘いに分散させて、なるべく興味を絞らせるのが描写のコツのようです。

物語の変遷の理由は、世の中が複雑になったから、あるいは複雑なことがより広く一般にも見えるようになって、その影響が広範囲に及んできたからでしょう。これも根拠のない直感で書きますが、日本だと1995年の阪神淡路大震災とオウム真理教から始まって、2000年のITバブル崩壊後の就職氷河期時代で決定的になったと思います。世界だと2001年のアメリカの同時多発テロ以降です。その後インターネットが普及しましたが、それまでの先進国の中流階級の仕事を海外に流出させる経済的な影響も引き起こしています。その後、SNSが出てくることで、直近十数年で複雑になった世の中の情報が広く共有されるに至り、ジャンプ連載のマンガですらその複雑さを許容されるに至ったと見ます(読者年齢の高齢化もあるかもしれませんがデータがないのでここでは省きます、そもそも私の年齢が略)。

毎週隔週毎月の連載が主戦場のマンガは、その時々の世情を敏感に受けているはずなので、連載時期と連動させて調べたらいろいろ面白いでしょう。ここまではマンガは表向きの世情の影響を受けるという話です。

何でも芝居にひきつけるこのブログとしては、芝居でも同じようなことが調べられないか気になりました。ただ、芝居はそこまでタイムリーな上演にはなりません。世情を先取りするから炭鉱のカナリアと呼ぶ人たちもいますが、マンガほどはっきりと支持が出てこないので、どの芝居を取りあげるかは難しいです。ならばいっそ、上演頻度で調べられないか。

マンガは世情を敏感に受けると書きましたが、逆に言えば表向きすぎる。それに、発展が始まってからの歴史が数十年です。その点、ギリシャ劇以来、芝居は再演という形で継続的に取りあげられてきました。そういう再演頻度の高い芝居の上演時期を調べることで、世情とは別の、世の中の根底にある問題を調べることができないか。上演回数を調べること自体が難易度が高いのと、その時期の経済状況によって上演に金のかかる芝居は敬遠される傾向がありますが、長期で見れば何か得るところはあるはずです。

あと今様についても芝居にひきつける話題として、昨今の物語は素直な起承転結に収まってくれません。起承転転結とか起承転結再転結とかが多いです。これは確かハリウッドパターンと呼ばれてアメリカ発の映画脚本指南本に載っているという話を読んだ記憶があります。鈴木裕実がそういう脚本ワークショップを開催していたような記憶がありますが、いま検索しても見つかりません。指南本やトレーニングクラスを通じて自覚的な技術として創られているのか、映画鑑賞を通じて無意識に取りこまれて広まったのか、創る側の人たちの意見を探したいです。

最後にマンガの話にもどりますが、「鬼滅の刃」は全22巻、「約束のネバーランド」は全20巻、ジャンプコミックスのページ数で物語マンガを描いてまとめるのにちょうどよい長さです(30巻を超えたら長い)。これを全巻揃えても1万円ちょっとです。値段だけ見たら、これら人気マンガの全巻は高い芝居と大差ありません。ひょっとすると芝居のほうが高いですし、ばら売りで買えるから子供の小遣いでも懐のやりくりがしやすいです。交通費もかかりません。いらなくなったら古本屋なりオークションなりで処分すれば若干金額が戻ります。場所を取る代わりに何度も読めます。

そうでないところ、生身の人間が集まって上演するがゆえに一期一会かつ(上手な芝居では)説得力が大きいところに芝居の値打ちがあるわけですが、価格だけ見ても芝居は分が悪いです。さらに読者数、読者の居住地域まで考えると、人口に膾炙した文化としての影響はマンガのほうが圧倒的に大きい。

2021年1月24日 (日)

再び中村吉右衛門休演

もっと早く復帰するだろうからそれから取りあげようと思っていたらまだ復帰しないのでとりあえず記録を。本家「中村吉右衛門 休演のお詫びとお知らせ」より。

歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」第二部『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助に出演をしております中村吉右衛門が、体調不良のため、本日1月17日(日)からの公演を休演し、下記の通り、代役にて上演いたします。

 明日以降の復帰につきましては、決定次第お知らせいたします。なにとぞ、あしからずご諒承くださいますようお願い申し上げます。

松竹株式会社

■歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」

【第二部】『仮名手本忠臣蔵』
大星由良之助 中村 梅 玉
寺岡平右衛門 中村 又五郎

2021/01/17

これが新型コロナウィルスだったら演目丸ごと休演なので、純粋に体調不良なのは間違いありません。ただ2019年9月にも休演しているんですよね。この時は3日間でした。今回は12日と19日と、もともと休演日が2日がある公演です。

去年の11月に国立劇場で序幕込みの俊寛をやっているから、その疲れが抜けていないだけならいいのですが。復帰が待たれます。

<2021年1月25日(月)追記>

復活しました。よかった。「中村吉右衛門 『壽 初春大歌舞伎』舞台復帰のお知らせ」より。

 歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」に出演の中村吉右衛門は、1月17日(日)より休演しておりましたが、本日1月25日(月)より舞台に復帰します。つきましては、第二部『仮名手本忠臣蔵』は当初の配役通り上演いたします。

松竹株式会社
2021/01/25

2020年12月27日 (日)

新型コロナウィルスで今年一年考えさせられた日本文化の中での芝居の位置づけについて

来年からは直接関係ない人たちにかみつくようなエントリーを書かないように、年の瀬を前に禊を済ませて、穏やかで成熟した大人に生まれ変わるためのまとめです。知らんけど。

禊は2つ考えていて、前編は文化とは何ぞやという話です。後編を書くかどうかは未定です。なんでこんな大それた話を書くかというと、「生命維持に必要不可欠」の言葉に端を発したもやもやをすっきりさせるためです。

『生命維持に必要不可欠』の出所探し」に書きましたが、見つけた範囲でオリジナルの記事だと必要不可欠なのは「アーティスト」でした。だから「ヨーロッパ全体にロックダウン傾向でもちろん劇場も対象に」に書きましたが、ドイツを含めてこれだけ疫病が蔓延したら、劇場閉鎖の方針に遠慮がないってことは確認しておきたいです。優先度が全然違う。

そしてアーティストへの対応は「新型コロナウィルスに対する海外の支援状況」と「新型コロナウィルスの補償問題で本当にドイツがよかったのか疑問になる記事から転じて文化芸術復興基金の話まで」の2本でまとめました。日本は金額も見劣りしない、ドイツがむしろ用途が決まっていて生活費に使えないので厳しい、という実態でした。文化芸術支援という名前が付いているかどうか、見た目の問題ですね。

これはどこかに書いたか、見かけて流してしまったのか、それすら忘れたので改めて書きますが、重要な考え方だったので書きます。補償政策を考えるときには、特定の法人や個人を対象にするのはものすごい難しい、原則日本全体を対象にする必要があるということです。特定の法人や個人を対象にしたらそれは例えば不正会計と同じになります。なぜあの法人(個人)を補償してこっちは補償しないんだ、という説明は非常に複雑な議論が必要になるからです。だからGoToキャンペーンも、観光業界や飲食業界向けですが、活用しようと思えば日本人全員が対象になるような建付けになっています。少なくとも私はそう理解しています。

ならば芸術分野も似たような仕組みを、と思ったら、そこで引っかかるのが芸術分野の団体がそもそもあるのかというとないんじゃね、という話です。「新型コロナウィルス騒動で日本の芸術団体は団結していないし演劇業界はぶっちぎりで団結していないことがわかったという話」に書きました。誰がどれだけ従事しているのかも定かではない、「業界」が存在しない混沌とした分野を支援する補償金は出しようがない。それなら個人を一律に対象にしたほうがいいでしょう。

ここまでが今年起きた「文化芸術」に対する出来事の、私に見えた大きいレベルでのまとめです。

ここでこのエントリーを書こうと思った気づきをひとつ。新型コロナウィルスとは無関係に、今あって普通に運営されている文化政策と補助金も、過去に誰かが理由付けから財源目途から何から、建付けを考えて成立にこぎつけた立役者がいるはずです。そんなに昔の話ではないはずなので、本気で探せば今なら関係者が存命で話を聞けるはずです。少なくとも行政の話なので公文書が残っている。その歴史を掘る元気まではありませんが、本来なら「業界」が感謝してしかるべき。

では補償の形はひとまずおいておいて、建付けとか難しいこともさておいて、芝居は補償金を求めて世間一般に認められる立場なのかどうか。私自身は今のところ認められないという考えです。それを「不要不急で無駄だからこそ芝居は文化たりうる」に書きました。そしてそのあとで見つけた「日本文化はフィルタリングシステムという話」で、その考え方自体が日本風なのだなと気が付かされました。

そこから発展させて、補償されるべき考える人たちは2種類います。ひとつは芸術はいいものだから保護されて当然という素朴派。この派についてはあまり言うことはありません。もうひとつは時の権力層は文化芸術を保護するべき派です。今回はこちらについてさらに考えます。

保護するべき派にもおそらく2種類あります。ひとつは日本発祥の流れです。秀吉が千利休を取りたてて茶の湯を盛んにしたとか、武家や皇族が能を教養にしたとか、アーティストと作品やパフォーマンスをひっくるめて保護した歴史は日本にもあります。ただ、日本発祥の文化を伝統文化や伝統芸能として保護する流れとは別に、舶来上等的に芸術を発展させるために保護しようという文化芸術振興策の流れもあり、新型コロナウィルスの騒動で目立った保護するべき派ではこちらが主流だと思います。単に対象をアーティストに限って保護してほしいならまだわかりやすかったのですが、文化政策面の話が入って、ややこしくなりました。

海外の文化や技術を輸入するのは日本の歴史で、古くは遣唐使遣隋使、もう少し近代ならお雇い外国人といえば通じるでしょう。遣唐使遣隋使は政治制度面での見聞も求められていたでしょうから、制度政策を輸入することに日本は慣れていて抵抗が少ない。

現代の文化芸術振興策には、伝統芸能の保護とは別に、例えば芝居の分野だと補助金を出す考え方もありますが、これはおそらく欧州由来の考え方です。そしておそらく、今の芝居の世界で保護するべき派の人たちは、欧州流の芸術の接し方に大なり小なり影響を受けている派、です。文化庁の派遣でイギリス留学する人が多かったことが影響しているのかもしれません。ここら辺は推測の推測なので、今あって普通に運営されている文化政策と補助金の歴史を本当は掘らないといけませんが、時間がないのでやめておきます。

ただ、ここで言いたいのは、輸入した政策を根付かせるのは難しいということです。ましてや趣味の世界をや。天皇や将軍のような権力者が自分の趣味に入れこむならまだしも、民主主義下の社会で政策として保護するという発想自体が、日本では歴史的に新しい。なんなら民主主義自体がまだ新しい。欧州の「アーツ・カウンシル」だって第二次世界大戦後の話です。文化政策を輸入して運用することはできても、その運用に国民が納得するかどうかは別の話です。

ここまでは文化政策の位置づけの話です。ここからはもっと芝居に寄った話をします。演劇分野に日本文化のフィルタリングシステムが歴史的にどう作用していたか。

そもそも日本の小劇場自体が、古い日本の芝居では駄目だと海外の芝居を輸入して始まった築地小劇場に端を発していますから、温故知新とは縁遠い、既存の文化を否定する土壌の上に成立ってきた分野です。それは今も続いていて、アングラを否定して夢の遊眠社をヒットさせた野田秀樹も、歌舞伎調でも築地小劇場以来の翻訳調でもない現代口語演劇を打ちたてた平田オリザも、この系譜の末裔です。ただしこれは、こういっちゃ何ですけど、エリートの系譜ですね。新しいものを突きつけるので、ハマるひとにはハマる半面、万人受けは難しい。観る人を選びます。

それを「日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しない」「日本の文化を担う中心軸はサブカルチャー」から当然と考えるかどうか。野田秀樹や平田オリザの創る芝居は私にとって面白いですが、2020年現在で考えると、両者の芝居は中心軸のサブカルチャーとは思いません。野田秀樹も平田オリザも創作意欲の衰えない人たちですが、バブル時代の恩恵で生き延びられなかったらもっとローカルな存在にとどまっていた可能性があります。

新しいものを突き付ける系譜とは別に、もっと一般庶民が楽しんで残ってきたフィルタリングシステムの系譜があるはずで、それはおそらく軽演劇やお笑いからつながるはずです。生き残っている有名人だと伊東四朗くらいしか思いつきませんが、演劇分野だと、おそらく三谷幸喜や宮藤官九郎はこちらの系譜です。この系譜は舞台もさることながら海外映画の影響も大きいはずです。益田喜頓がバスター・キートンをもじった芸名をつけたのは一例ですが、今の演劇業界にもその系譜は確実にあります。古い良質な映画(コメディーに限らず、映画産業に勢いがあり資金も才能も集まっていた時代の映画)から大いに影響を受けて、エッセンスを吸収して、それを今の仕事に生かしているように思われます。こちらは、観客に楽しんでもらうのは大前提、楽しんでもらうための手練手管を熟知したうえで、創りたいものとの整合性を取っていくスタイルです。整合性が取れるようなリズムが映画その他で自然と養われている、と言ったほうが近いかもしれません。今は芝居ならこちらのほうが支持が大きいでしょう。でもこれも中心軸のサブカルチャーとは思いません。

そして第三極として、フィルタリングシステムで不支持の烙印を押されて、だけどコアなファンを支えに生き残っている系譜があります。ある日とつぜん化けるかもしれない可能性がありますけど、とりあえず世間一般からは不支持の括りです。

そのうえで、大半の演劇はどちらの系譜でもフィルタリングシステムの支持を受けていない、第三極に位置づけるのが正しい、と言います。一言で言えば、世間一般では今の芝居は文化とも芸術ともカルチャーともサブカルチャーとも認識されていません。観客数が少なすぎて、エリートにも一般庶民にも縁が薄すぎて、認識されるためのエントリーの資格が足りません。あえて呼び方を探すならマイナー芸能です。例外として能や歌舞伎は伝統芸能枠です。それが今回の新型コロナウィルス騒動で、はからずも見えました。もし三谷幸喜や宮藤官九郎がフィルタリングシステムの支持を受けているとしたら、芝居活動ではなく、テレビドラマ、映画、文章などの活動の総和です。

関係者は濃淡はあれど真摯に取組んでいる人たちが大半でしょうが、観客数(複数本を観るマニアやリピーターではなく、年に1-2本観る程度まで含めたユニーク数)が増えたとは寡聞にして知りません。まずは認識されるためのエントリーができるところまで観客を増やすのが最初です。

根本には、芝居に接する機会の多い東京で、生活に要する費用が高く、チケット代の高額な芝居まで回らないという問題があるでしょう。それは「東京で額面年収650万円の4人家族では芝居を観る余裕はない」に書きました。親の代から東京に住んで持ち家があるならいいですが、そうでない場合はいろいろ厳しい。それでも年に1回、8000円のチケットの芝居を4人で観に行くよりは、ディズニーランドに行くでしょう。家族向けで観られるような芝居も、小劇場だとぱっと思いつきません。劇団四季くらいですか、詳しくない人がたどり着いて観られるのは。

少しはフォローすると、おそらくどの国も芝居の位置づけは似たようなものだと思うのですよね。イギリスやアメリカは英語圏なのがアドバンテージで例外です。逆にそのアドバンテージを生かすために、世界から観客を集められるよう当たった芝居を継続上演するロングランシステムがあり、ロングランシステムに耐えられるような上演体制を組まないといけないという制約もあるはずです。でも過ぎたロングランというのは、日本の観客には向きません。フィルタリングシステムは新しいものを要求します。そういうフィルタリングシステムのある国で長年トップを張るディズニーランドは偉大です。

まとめます。
・伝統文化や伝統芸能の保護とは別に、文化芸術振興策という考え方があり、その是非を論ずる根拠を辿ればおそらく欧州由来の考え方に行き着く。ただしその政策は日本に根付いて支持を受けていない。少なくとも一般的に理解されていない。
・日本の文化は面白い個人の才能を発掘するフィルタリングシステムである。やりたいことをやる個人がいて、それを発掘して一攫千金を狙うプロデューサー(それが時の権力者だったりすることもある)がいて、面白ければ楽しむ観客との関係で、その時々で面白いものを楽しんできた。
・ただし、それが面白ければ面白いほど、位置づけがサブカルチャーに寄ってしまう。つまり、不要不急で無駄なものになってしまう。
・面白さが足りず、あるいは伝わらず、あるいは接する観客が少なすぎて、サブカルチャーに寄れなかったものがメインストリームになるかというと、そうはならない。観客からすれば、単なるつまらない人たちと認識される。
・文化芸術を保護する政策ですら明確な支持を受けていない状態で、サブカルチャーを保護することすら議論百出になって反対されるような現状、ましてそこから漏れたマイナー芸能を特別に補償するというのは、一般庶民からしたら理解できない。
・そんな芝居の世界への補償金の話を持ち出しても、世間一般から補償金の支持を受けられるはずがない。今回は説明が下手で炎上したけど、説明が上手でも拒否反応が大半を占めたに違いない。

実際には補助金の執行継続とか、行政もいろいろサポートする方向で振舞ってくれたはずです。ただ、日本の小劇場は世間一般には支持されておらず、それは日本の文化芸術の流れを考えれば不思議でないという話です。異論反論はあるかと思いますが、そういう結論になりました。

ここまで書いて実感したのは、文化だ芸術だと大上段に構えて論ずると、反論の材料が歴史も範囲も広くなりすぎることです。そこまで根拠を追うこともできない。つまり大変で面倒くさい。せめて日本の歴史に基づいた話に絞りこめるようになりたいです。

2020年12月20日 (日)

東京で額面年収650万円の4人家族では芝居を観る余裕はない

東京地方労働組合評議会を略して東京地評と呼ぶそうですが、そこが興味深い試算をしていました。東京で練馬に夫婦と子供2人の4人家族で済む場合、最低でも額面650万円が必要という試算です。同じ試算に八王子に済む場合も載っていますが、ほぼ家賃の差額なので、練馬の金額で書きます。

個別の項目の妥当性は「30代東京の子育て世帯は年収650万円必要という労働組合調査が妙に納得感高い」という説明をしているサイトを見つけました。タイトルの通り、そんなに荒唐無稽な試算でもない、という内容です。ざっと読んだ感じ、私もそんなに無茶な計算はしていないと判断します。

注意しないといけないのは、教養娯楽費のカテゴリーはテレビやパソコンが入っていて、全額そちらに回るものではないことです。それらしい項目だと映画その他で1人1か月2000円、本は家族全体で1か月1000円、テレビゲームがソフト込みで家族全体で1か月に直すと約700円です。本とテレビゲームを1人当たりに直すと425円です。映画と足して切りのいいところ2500円にしましょう。

そしてその他のカテゴリーに小遣いが入っています。子供は世代によって幅がありますが、夫婦の小遣いは1人1か月6000円です。

これらを足すと、1か月で何とかなる金額は8500円です。これで芝居を観られるか。観られませんね。子供の年齢によっては出かけるときにどこかに預ける必要もありますが、そこはとりあえず置くとしても、金銭的につらい。

子供がいなければ大幅に変わりますが、でもそれは、子育てが難しいほど収入が低い可能性もあるわけです。余裕があるとは限りません。ならば稼ぎが多ければよいかというと、中途半端に多ければ出費も増えるでしょうし、もっと多ければそれはそれで娯楽の選択肢が広まって芝居が選ばれる可能性が少なくなります。旅行の回数が増えるとか、何なら海外で芝居を観てしまうとか。

とにかく、1本8000円の芝居なんてこのモデルの人たちには論外です。かといって、それより安いラインで玉石混合に挑むのは慣れていないと見極められない。つまり、芝居はファミリー層にまったく向いていない娯楽ということです。

そこを無理やり芝居に向けるにはどうするか。わかりにくいとか上演時間が告知されないとか、そういう内容に関する話は一切無視して、芝居をほとんど、あるいは全く観たことがなくて金銭的に娯楽費が厳しい人たちにどうするか。

とりあえず思いついたのは、毎月芝居100円の日を作ることです。1000円ではありません。ワンコインで500円でもありません。宣伝費込みで100円です。そもそも交通費や前後で外食することも考えたら負担はもっと増えますので。100円渡り鳥を作らないように、その地域のその日のその時間帯の芝居を一斉に100円にする。文化庁の補助金を細かく割りふらないで全部突っ込む。チケット販売も第一希望から第五希望まで設けて一本化して、転売屋の懸念を減らす。一般客が参戦するのは我慢を呼掛けるけど最悪あきらめる。それを12か月続けて、とにかく年に1本は観た人の数を増やす。その日にあたるか当たらないかでもめると困るので、対象は1か月以上のロングランをしている公演とする。大規模公演が得するじゃないかというなら、一度も芝居を観たことのない素人が最初に観る一本として公演期間1か月未満の芝居はふさわしくないと却下する。東京贔屓と言われたら他の大都市圏でも検討するけど最初は集中投下しないと効果がわからないので中規模都市以下は却下する。

補助金の扱いの難しさとは別に、その地域の芝居全部で足並みを揃えないといけない難しさもあります。どちらかというと足並みを揃えるほうが難しいかもしれません。1本観たからと言って継続的な観客になるとも限りません。

ただ、冒頭の試算がマジョリティとは言いませんが、東京に核家族で住むための家計の厳しさは非常に伝わりました。それなら100円デーくらいやらないと、家計の厳しい人たちには一度も観てもらえないだろうな、他の施策でどれだけがんばっても接点が作れないなら観客を増やせないだろうな、というのが、冒頭の試算を読んだ私の感想です。

文芸性とエンタメ性とわかりやすさに心を砕くことについて

今年は芝居が観られない分、小説を読むことが多かったのですけど、最近文庫で出たばっかりの『か「」く「」し「」ご「」と「』という小説を読みました。本屋で平積みになっていた表紙の絵と、横に見える新潮社の背表紙の違和感で手に取ってめくって、一応読めるだろうという予感で買いました。読んでびっくり、文章も展開も、えらいさらさらした小説でした。

それが気になったので検索したら、出版社の公式サイトに作者の対談が載っていました。興味のある人は全文読んでもらうとして、以下の個所が気になったので引用します。

住野 あと、文芸性とエンタメ性、どちらもあるのがすごいです。僕はデビュー前から勝手に、エンタメ路線の作家さんと、文芸路線の作家さんとは、完全に二分されていると思っていて……作品の中身が違うというよりは、目指しているものが違うのではと思っていたんです。でも、彩瀬さんの作品は、その両方がある。僕の考えるエンタメ性は、端的に言うと、普段本を読まない子達が楽しめるかどうか、ということなんですけど、あの作品にはすごくそれを感じましたし、それでいて本好きというか、普段から文芸に触れている方たちもねじ伏せるパワーがある。すごい作品だと思いました。

彩瀬 自分ではそう思ったことはないので、ちょっと不思議なのですが、まさに今、そうした普段あまり本を手にとらない方に対して最も発信力がある住野さんにそう言ってもらえると、将来に希望が持てそうな気がします。そういう方たちに作品を届けるために、大事にされていることってあるんですか。

住野 僕なりにいくつか思っていることがあるんですが、一つは、多くの人が想像しやすいテーマであることですかね。

彩瀬 ははあ。なるほど!

住野 あとは、あくまで個人的な考えですけど、決め台詞というか、決定的な力を持つ一文があるかどうかが、面白さにつながる気がします。彩瀬さんの御本は、読んでいてぐっとくる一文がちりばめられていますよね。昨夜、新刊(『眠れない夜は体を脱いで』)を読ませていただいたんですが、「あざが薄れるころ」という短編の「わたしを変な子のままでいさせてくれてありがとう」という一文で号泣しそうになって、一旦本を閉じて部屋の中を一人でウロウロしました(笑)。

彩瀬 ありがとうございます。私はこれまで結構、自分が書きたいものに振り回されて書いてきたので、そこまで気を配れている自覚はなくて。だから、ちゃんと届くと言っていただけて嬉しいです。住野さんの作品は、今回の『か「」く「」し「」ご「」と「』もそうですが、わかりやすさにすごく心を砕かれていますよね。書くときに、他の作家さんが見てないものを見ているんじゃないかと思って、その仕組みがすごく気になります。

住野 うーん、仕組み……。いや、なんでしょう。前提として、本は娯楽以外の何物でもないと思っています。別に読みたくなければ読まなくてもいいし、娯楽作品なんだから、競争相手はスマホやゲームや漫画だと思っています。
 だからかどうか、書くときに、テーマが出発点だったことが僕はたぶんないです。こういうキャラがいたら面白いなとか、こういう設定だったら面白いかな、とか……。『君の膵臓をたべたい』は、タイトルからです。すごいドヤ顔な感じで、「みんな、絶対ビビるだろう」と思って(笑)。もし何かあるとしたら、そういう部分かもしれないです。

彩瀬 書くことへの冷静さがありますよね。私は逆に、テーマから作ることが多いです。そうすると、それに合う形で人物を配置していくことになる。ただ、その配置の仕方を誤ると、はじめに設定した結論を是とするためだけに書いたような、すごく怪しげな小説になってしまうんです。だから、テーマを決めたら、作品の中でそのテーマや問題提起を戦わせていくようにしています。『やがて~』だったら、真奈と遠野くんという、全く違う思想のふたりを設定して、あとは作中で意見を交わさせていく。そうすることで、なるべく私がはじめに想定したものではない結論までいってほしいと思っています。それで最終的に良い結果が出ることももちろんあるんですけど、書いている間はなかなか制御ができなくて、独りよがりになっていないか、あまり目配りがきかない。住野さんはおそらく、テーマから出発されていないから、安定して目配りができているんですね。

住野 「わかりやすさ」という点では、デビュー担当さんの影響も大きいと思います。僕のデビュー担当さんは普段、漫画とラノベの担当をしている方で、いわゆる文芸の単行本は僕しか担当していないんです。だからエンタメに対するハードルが高くて、読みやすさとか、いかに人に届けるかという部分は、すごく言われます。原稿をお渡ししたときに、「ここがわかりにくい」とか。

彩瀬 この部分の感情がうまく伝わらない、みたいなご指摘ですか?

住野 どちらかというと全体の指摘ですね。例えば『よるのばけもの』は当初、明かさないで終わる部分がもっと多かったんです。そうしたら「住野さんに今ついてくれている、初めて自分で本を買ったと言ってくれているような読者さんたちに、これではたぶん伝わらない」と言われて、直しました。そういう読者の方にいかに届けるかを、もっと考えたほうがいいんじゃないかって。

彩瀬 『よるのばけもの』の情報の開示の仕方はすごく適切なように感じたんですけど、もっと伏された状態だと、たしかに今までの作品との段差を感じるかもしれないですね。

そもそも想像しやすいテーマ選びから始まって、「初めて自分で本を買ったと言ってくれているような読者」を想定して、競争相手はスマホやゲームや漫画だと思っていると、あのくらいさらさらした内容になるのかと目から鱗でした。読んで確かにライトノベルよりはずっと一般小説に近いし、章別に出した情報(異なる5人の主要人物で章ごとに視点が変わる)をつなげて考える要素も多数あるし、登場人物の心情説明を適宜間引いて興覚めを減らす工夫もされているし、いろいろ気を回しすぎるような人にとっては深刻なテーマを扱っているのですが、それは気にせずとも読めるし最後まで読めばそれはそれでゴールできる。お堅いと思っていた新潮社の文芸の範疇であれが出てくるとなると、今まで文芸と思っていた線を引きなおさないといけません。よく考えたらそもそも「新潮」ですから、本来は先取の風があるはずですね。

で、何でも芝居にひきつけて書くこのブログとしては、芝居ってわかりづらさを売りにしているなと思いました。いや慣れてくるとある程度隠されている情報を自分でつなげることができて、そのときの感動は目の前で直接説明されることよりもっと大きい感動につながることは知っています。それは芝居でも小説でも変わりません。

でもそれは他にもっとわかりやすいものがたくさんある中に混ざってこそ輝くというか、わかりにくいものがメインになって間口が狭く敷居が高くなるのは業界にとって不幸だと思うのですよ。本当なら三谷幸喜5いのうえひでのり3に野田秀樹1平田オリザ1くらいが健全だと思うのですが、今は野田秀樹1平田オリザ5岩松了3に三谷幸喜1いのうえひでのり1くらいなので、そりゃ三谷幸喜が売れるよねと思ってしまうわけです。

もうひとつ、ここで困るのは、単なるバカ騒ぎを求めているのではないということです。そこを伝えられるような表現がないかというのはたまに考えるのですが、なかなか思いつきません。理想は、誰が観ても面白く、わかる人がみるとニヤニヤできるものです。さすがにそういう芝居を量産するのは難しいとはわかっていますが、目指す人が増えてほしい。

以前「小劇場のポスターを見てもまったく訳分からん人の意見」を書きました。けどそれでは不十分で、この小説家くらい気を配らないと小劇場の観劇人口は増えないのかと、おもわず小説から考えてしまいました。

最後に小説の感想ですけど、さらさらだけでは終わらせない工夫が真ん中の3章で、対談にもありました。

彩瀬 でも、私はパラちゃんの章が読んでいて一番グッと来ましたよ。パーソナリティというか、個々人の見ている世界がこれだけ違うということが作品の一つのテーマだと思うんですけど、だからこそ持っていけた視点人物だなと思います。

この章が他の4章と比べて一番面倒くさい。だけど面白い。この面倒くさい面白さが他の章の読みやすさとバランスして全体が成立しているなと思います。私もこの章が一番グッと来ました。

<2020年12月20日(日)追記>

誤字を直すついでに読み返しましたが、相手の「私はこれまで結構、自分が書きたいものに振り回されて書いてきたので、そこまで気を配れている自覚はなくて」という個所も注目ですね。書いたものでできているかどうかはともかく、こういう問いや疑問を発せられる人の将来は今後も大丈夫に決まっている。

2020年12月14日 (月)

劇団☆新感線がNetflixとAmazon Prime Videoに進出

これは明るい話題です。ステージナタリーより。

Netflixで配信されるのは「蛮幽鬼」「髑髏城の七人(2011)」の2作品。またAmazon Prime Videoの配信作には「五右衛門ロック」「蜉蝣峠」「薔薇とサムライ」「髑髏城の七人(2011)」「シレンとラギ」「ZIPANG PUNK~五右衛門ロックIII」「蒼の乱」の7作品がラインナップされた。

作品の配信形態は、Netflixが月額固定のサブスクリプション、Amazon Prime Videoが作品ごとの都度払いで、各タイトル500円となる。なおNetflixでは、来年初頭から北米やヨーロッパ諸国、中国本土以外のアジア諸国でも配信される予定だ。

昨今いろいろな団体が配信を試していますが、有料化でどのくらいの視聴者が付いたのはいまいちだと推測します。そのためにライブにするとかいろいろ工夫はしていましたが、映像化するからには何とかして長く観てもらって継続的な収入につなげたいところです。

もちろん映画館上演など、撮影も音響もとっておきの記録をしておいたからこそではありますが、なんといっても利用者が世界中にいて母数が桁違いに多いサービスでの挑戦。字幕もうまくはまって、化けてほしいです。

2020年12月 5日 (土)

上演予定時間の事前告知が一般的になってほしい

上演中止で払戻しなんて面倒なことはやりたくないので、予定をギリギリまで引張っていたら第三波が来てしまいました。11月の連休を狙っていたのですが見送って、11月は坊主です。観ようとしていた芝居が上演中止になったわけではありませんが、一旦様子見です。

観るなら前売で買ってからと考えていましたが、ひとつ困ったのは上演予定時間が思った以上に事前にわからないことでした。これまで当日券派で、事前に上演予定時間が不明な芝居はありましたが、初日が開けた後なら調べればまあまあ見つかりました。が、事前に案内しているところは思ったよりも少なかったです。新作で上演予定時間が読めないならまだしも、再演である程度見通しが立つであろう芝居ですらわかりません。

新型コロナウィルスの昨今、同日上演しているならできるだけ1日2本掛け持ちして東京滞在時間を短くしたい、あるいは他の予定も同じ日にまとめたいと考えても、これではどうにもなりません。移動時間まで含めて開演までに間に合うか、あるいは終演後の次に予定間に合うかは、遠方からの客でなくとも重要です。長ければ長いで事前にわかれば、他の予定とにらめっこできるのに、当日の予定が狂ってチケットを無駄にしたら目も当てられません。

チケット前売開始時に見込みが公開されるのが理想ですが、芝居によっては稽古開始しているかどうかも怪しいのでそこまでは求めませんし、歌舞伎座ほど正確なタイムスケジュールも不要です。せめて初日2週間前くらいには「2時間前後」「2時間半から3時間」など公式ページやTwitterで一度告知してもらって、小屋入り前にもう一度更新、くらいは知りたいです。演劇関係者は自分が客になって不便を感じたことはないのでしょうか。

演出に凝れるだけ凝りたいとか、稽古を見ながら脚本の続きを書きたいとか、小屋入りしてから気が付いて構成をいじることがよくあるとか、創作に関する制限を極力設けたくなくて意図的に公開していません、というならそれもアリでしょうが、単に案内の必要に気が付いていないほうが多数派だと想像します。新型コロナウィルスとは関係なく、余計な費用や手間はほとんどかからず、観客のためにできることとして、それくらいは一般的な習慣として行なわれるようになってほしいです。

2020年10月 2日 (金)

裏賭博から即日解雇で残り舞台中止までものすごくスムーズでどこまでジャニーズが関与したかわからない

昨今は事務所を辞めて移籍や独立する話題が全盛の芸能界ですが、これは解雇のほうです。ただいろいろ引締めの激しいジャニーズということで、メモしておきます。とりあえずスポニチ3本で時刻も掲載して追います。1本目は「ジャニーズ事務所 『宇宙Six』山本亮太との専属契約を解除 スロット店で賭博行為」より。

[ 2020年10月2日 11:31 ]

 ジャニーズ事務所は2日、2日付「文春オンライン」で闇スロット店に出入りしていることが報じられた、ジャニーズJr.内ユニット「宇宙Six」の山本亮太(30)についてジャニーズネット内で、1日付で専属契約を解除したと発表した。

 ジャニーズ事務所は「日頃より応援してくださっているファンの皆様並びにご支援くださっている関係者の皆様にご心配とご迷惑をおかけしておりますこと、心よりお詫び申し上げます」と報道を謝罪したうえで「この度、山本につきまして、スロット店で賭博行為に及んでいたという重大な契約違反行為が確認されたため、弊社は昨日をもちまして山本との専属契約を解除いたしました」と1日付で山本との専属契約を解除したことを報告した。

2本目は「契約解除の『宇宙Six』山本亮太 主演舞台が上演中 きょう2日夜も公演予定」より。

[ 2020年10月2日 11:57 ]

 山本は現在、4日まで上演中のWWW主催の舞台「川崎ガリバー once again」(こくみん共済coop ホール/スペース・ゼロ)で主演として出演中。同公演は2日も午後7時から公演が予定されており、対応が注目される。

 同公演は4日の千秋楽には、ネット配信も予定されている。

3本目は「契約解除のジャニーズJr『宇宙Six』山本亮太主演舞台 残り全公演中止決定 佐野瑞樹・大樹兄弟謝罪」より。

[ 2020年10月2日 14:01 ]

 今月1日付でジャニーズ事務所との専属契約を解除されたジャニーズJr.内ユニット「宇宙Six」の山本亮太(30)が主演を務める舞台「川崎ガリバー once again」(東京・こくみん共済coop ホール/スペース・ゼロ)の残る全公演が中止となった。2日、舞台の公式ツイッターなどで発表された。「出演者に関する諸般の事情」により、2~4日の残り4公演と千秋楽(4日午後4時)のライブ配信を中止する。

怒涛の勢いです。この公演はWBBという佐野兄弟の会社の主催で、社長の佐野大樹が脚本と出演、その兄の佐野瑞樹が演出と声の出演という、兄弟2人による公演です。公演期間は9月25日-10月4日、金、土、日昼、日夜の4ステージを残すところでした。佐野瑞樹が元ジャニーズで2018年まで所属だったので、主演に山本亮太を呼べたのもその伝手でしょう。

普通に考えたらこの3日を急遽中止にするほうが混乱しますし、コロナで客入りが悪かったとしてもここまでやって止めて払戻しをするほうが赤字幅が広がりそうです。それでも止めたのは、裏賭博がばれた役者で公演を続けることによる世間の非難を回避するための自主的な決断か、見せしめのためにジャニーズから圧力がかかったか、どちらか。どちらもいかにもありそうで判断に困ります。

元の文春の記事にも記載されていますが、裏賭博は暴力団の資金源になるので、手を出していいものではありません。ただまあ、美空ひばりを挙げるまでもなく、芸能界と暴力団の付合いは深いですし、そもそもジャニー喜多川氏自身も芸能界の暗い部分を代表する大ボスの1人でした。その事務所のタレントがお手付き即死というのは、時代です。

昨今はSNSを中心に不祥事に対する非難の声が大きく、相対的にマスコミの影響力が弱まったため、昔なら抑えられていたであろうスキャンダルが表に出やすくなりました。それでも一次報道がマスコミなのは変わらないので、本気で抑えようと思ったら抑えられたはずです。ジャニーズは、新社長になってからのはずですが、素行が悪いといわれる所属タレントをあっさり見放す傾向が見えます。近年、警察が暴力団根絶に力をいれているせいか、芸能界も氏素性に厳しくなったと読んだことがありますが、そういう理由でしょうか。

舞台中止で取上げましたが、いろいろ考えさせられる一件でした。

2020年8月25日 (火)

日本文化はフィルタリングシステムという話

11年前の掲載ですけど佐々木俊尚「個人の狂気を見い出すフィルタリングシステム」という記事を見つけました。業界人には知られた話なのでしょうか。読んでとても関心したので、大半全文ですけど引用します。

日本映画は風景を描く

 世界を代表する三つの国の映画産業――アメリカ映画とフランス映画、そして日本映画の違いって何だろうか? そういう問題提起がある。

 観点はさまざまにあるから単純化しすぎるのは危険かもしれないが、こういうひとつの切り口がある。「アメリカ映画は物語を描き、フランス映画は人間関係を描き、日本映画は風景を描く」。ハリウッド映画は完璧なプロットの世界で、物語という構造を徹底的に鍛え抜いて作り上げ、導入部からラストシーンまで破綻なく一本道を走り抜けられるように構成されている。

 フランス映画の中心的なテーマは、関係性だ。夫婦、父と子、男と愛人、友人。そこに生まれる愛惜と憎悪をともに描くことによって、人間社会の重層性を浮かび上がらせる。

 日本映画は、風景を描く。自然の風景という意味ではない。目の前に起きているさまざまな社会問題や人間関係の葛藤、他人の苦しみ、さらには自分の痛み。われわれにとってはそれらはすべて「風景」だ。どんなに深く関わろうとしても、しかしどうしてもコミットしきれない所与のものとして、われわれのまわりの事象はそこにある。だから日本映画には、向こう側に突き抜けられないことによる透明な悲しみが漂っていて、それがある種の幽玄的な新鮮な感覚として欧米人に受け入れられている。

アメリカは構造化する

 それぞれの国の映画がそれぞれそのような傾向にあるのは、その国の文化の成り立ちを色濃く反映している。その国の大衆文化は、つねにその国の民族を写す鏡である。

 極論を承知でものすごく単純化して言ってしまえば、アメリカという国は西部劇の舞台になるような小さな西部の町だ。何もない平原に彼らは遠くからやってきて、ゼロから自分たちで町を作り上げる。ならず者がやってきた。みんなで力を合わせ、保安官をもり立てて撃退する。

 フランスは古い貴族社会からブルジョワジーの台頭とともに、フランス革命とナポレオンの時代を経て共和制を作り上げ、血で血を争う暗闘を国を挙げて繰り広げてきた。だれが味方か、それともだれが明日の敵なのか。だからこの国は見た目の美しさとエレガンスの奥底に、移民と白人の対立に見るような凄まじい憎悪が立ちこめている。おたがいの関係性をつねに確認し続けなければ、安穏と暮らすことさえできない。

日本人は構造を作るのが下手だ

 しかし日本は違う。日本にも縄文時代に村落をゼロから作った時もあっただろうし、戦国時代や明治維新のような内乱の時代もあった。だがたいていの人々にとって、権力装置は自分でゼロから力を合わせて作り上げるものでなければ、血で血を争う暗闘の果てにつかんだ血塗れた旗でもない。私たちにとって権力というのは、「世間」「空気」のような言葉に代表されるなんだかわからない軟体動物のようなベタベタとした空間で、しかしこの空間はわれわれを絡めとって離してくれない。いったい何が敵なのかということさえ可視化されていない。

 これは言ってみれば、最強の権力構造でもある。この暴力的な権力構造は所与のものとして私たちの前に立ちはだかっていて、私たちは社会に直接向き合うことさえ許されてこなかった。

 人々は決して、その権力構造を作る側には立てない。権力構造はつねにそこに存在しているのであって、民衆はその構造に組み込まれる「お客さん」にすぎない。そういう社会に生きるということは、だからそこにひとつのあきらめ感を抱えながら生きていくということだ。もちろんそういう構造から突き抜けて生きていける一部の人はいるし、そのような人は尊敬されるかもしれないけれど、しかし多くの人にとってはそうではない。

 アメリカ文化は、つねに構造を生み出す。自分たちこそが構造を作る側なのだというプライドに満ちあふれていて、端から見ていて眩しいほどだ。でもわれわれ日本人は、残念ながら構造を作るような文化をこれまで生み出してこなかった。

軟弱で冷笑的で、でもすばらしい文化――それが日本

 こういう日本という国で生まれる文化は、軟弱だ。軟弱で、冷笑的で、一歩つねに傍観者的に引いている。でも軟弱であるがゆえの洗練はすばらしく、その洗練のゆえに日本文化は世界の中で尊敬され、賞賛されてきた。手先の器用さは、構造というビッグビジネスに立ち向かえないがゆえのチマチマした自己憐憫でしかなかったのかもしれないが、しかしそれが「俺たちが社会を作るぜ」ビッグ構造文化には持ち得ない、極端な洗練を生み出したのだ。だからわれわれは、すぐれて洗練された器用な文化を生み出しながらも、でもつねに冷笑的で傍観者的な立ち位置を保ち続けている。

 もっとぶっちゃけた極論を言えば、こういうことだ――どうせ構造をつくるような雄々しいことはできないんだから、暇つぶしにいろんなことをやってみようよ。

 そうやって日本の世間には権力側には行けないバカと暇人があふれ、枕草子を書いたり源氏物語を書いたり、歌舞伎や浄瑠璃や私小説を生み出してきたのだ。

 もちろんそうやってバカと暇人の膨大な集合体のなから、歴史に名の残るような芸術を生み出せた人はごくわずかである。たいていのバカと暇人は、先駆者の作ったコンテンツをただ消費するだけだったり、すばらしいコンテンツを揶揄して皮肉るだけだったり、バカだ荒らしだと批判されながら、衆愚の道をつねにまっしぐらに進んでいった。日本人が衆愚化しているのなんて別にいまに始まったことではない。江戸の昔から、歌舞伎オタクに身を持ち崩して財産を失い、乞食になって死んじゃうようなバカはいくらでもいたのである。

要するにこれはフィルタリングシステムである

 しかし日本文化はそういうノイズに塗れた中から、秀逸なひとにぎりのクリエイターを生み出してきた。そういうフィリタリングシステムを作り上げてきたのである。全員が力をそろえてひとつの構造を作り上げるのではなく、バカや暇人が好き勝手なことをやってただコンテンツ消費をしているだけの中から、フィルタリングしてわずかひとにぎりの天才クリエイターを生み出すというただそれだけのことを、日本文化は綿々とやってきたのだ。

 日本の文化は、つねに社会のメインストリームとは外れたところから生み出されてきた。圧倒的な男の漢文社会の中から生まれた枕草子や源氏物語がそうだったし、武家社会の中で生まれた町人文化である歌舞伎や浄瑠璃がそうだったし、明治維新の富国強兵の中から生まれた近代に批判的な目を向けた夏目漱石もそうだった。どうでもいい個人的な話を延々と描き続けた私小説なんて、その最たるものである。

 だから日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しないのである。つまりは古代から現代まで一貫して、日本の文化を担う中心軸はサブカルチャーだったのだ。ここに来て急にニコニコ動画やアニメのようなサブカルチャーが「日本の誇るコンテンツで海外に輸出しなければ」と言われて変に気恥ずかしい思いになってしまうのは、そういう歴史的背景がある。しょせんサブカルなんだから、気持ち悪いからそっちから歩み寄って来ないでよ……というわけだ。

 それはアメリカのような雄々しい国から見れば、くだらない社会かもしれないけれど、しかし圧倒的にすばらしいクリエイターを生み出す結果となった。アメリカはグーグルやアマゾンやフェースブックのような強いプラットフォーム支配者構造を作り出すことには長けているけれども、アメリカ映画やアメリカ音楽はマーケティングによって生産されたコンテンツが大半を占める。音楽にしろ映画にしろ、なにかインダストリアルな雰囲気がアメリカ文化につねに漂っているのは、そのように構造主導で文化が創られているからだ。

個人の狂気が文化を創る

 前に日本テレビで「電波少年」を作ったプロデューサーの土屋敏男さんとあるシンポジウムで同席していたとき、彼がこう言っていたのを思い出す。「ぼくの仕事は、いかにすごい『個人の狂気』を見つけ出すかということなんです」。バカや暇人と、すぐれたクリエイターの間にある境界は、ある種の「狂気」ということなのだろう。そういう狂気こそがバカと暇人文化における「玉」なのである。

 だから日本の優秀な雑誌編集者やテレビプロデューサーは、大衆文化のプラットフォームを作る側にたっているのにもかかわらず、みんなマーケティングがあまり好きではない。マーケティングではなく、個人の狂気たる自分の生理的直感によって勝負することが最上だと考えているのだ。それはたしかにすばらしい個人の狂気だけれども、しかし一方でアメリカの構造化された文化の奔流にさらされるときわめて脆弱に見えてしまう。

 日本の文化はそうやって続いてきた。だからインターネットの文化もその流れからは背を向けられない。だからその状況を指さして、「みんなでものをつくりあげていない」「集合知を生かしていない」と言われても、せんのない話である。

メディアは社会にどう影響するのだろう?

 じゃあこの先、どうなるのか。私はこのインターネットというテクノロジーが、それでも日本社会の構造を変えるひとつの契機になる可能性があるのではないかと、いまも考えている。メディアはメッセージであるというマクルーハンに沿って言えば、メディアはわれわれの社会というコンテンツそのものにも影響をもたらすはずだからだ。

 しかしその変化が、アメリカと同じタイプの社会へと収斂していくというのは、冷静に考えればあり得ない話だ。たとえばソーシャルメディアはその社会や民族性に固有のものであって、その国の文化の影響からは決して脱しきれない。だからわれわれの社会はインターネットというアーキテクチャーによってなにがしかの影響を受けるけれども、言ってみれば「日本社会+日本社会独自のソーシャルメディア」の結実になるだけの話であって、それが「アメリカ型のソーシャルメディア」にイコールになるわけがないという結論になる。

 そういう中で、一生懸命もだえながらわれわれは日本独自のインターネット空間を形成しつつある。そこにはニコニコ動画やはてなブックマークやモバゲータウンやケータイ小説がある。それは衆愚化しているように見えるけれども、いずれ新たな時代の洗練されたクリエイターを生み出す土壌となり、さらにはわれわれの社会をこれまでとは違うどこかの地平と運んでいくなにがしかのパワーにもなっていく可能性を秘めている。

「だから日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しないのである」というのが、とてもしっくりきました。私は「不要不急で無駄だからこそ芝居は文化たりうる」と書きましたがそれは日本の話で、海外だとメインストリームになりうるということ、そしてアメリカとヨーロッパとではまた違うこと(アジアやアフリカや南米の各国でも違うのでしょう)を、はっきりした言葉で読めて少し頭が整理できました。

クラシックやバレエの世界だとがっちり作られた育成システムがありますが、あれはやっぱり欧米風システムですよね。富国強兵以来、日本でもそういうシステムを軍と学校を中心に育ててきましたが、やっぱり日本は一子相伝、盗んで覚えるが基本だと思います。確立された育成システムのない、売れたものが支持されて残っていく日本の演劇界というのは、ある意味もっとも日本らしい業界とも言えます。

<2020年12月20日(日)更新>

参照した記事は文化のことを考えるために非常に重要な情報を含んでいるのにいつ消えるかわからないのが怖いため、関係者には申し訳ありませんが、もともと長い引用を全文引用に修正します。ご容赦ください。11年前の記事が今でも残っているのは日本では本当に珍しいので。

原作者が逮捕されて舞台が舞台の舞台化が流れた話

そういえばメモしていませんでした。朝日新聞デジタル「原作者逮捕の『アクタージュ』 ジャンプで連載打ち切り」より。

 マンガ誌「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載中の「アクタージュ act-age」(原作・マツキタツヤ、漫画・宇佐崎しろ)が、11日発売号で連載を終了する。10日、同誌の公式サイトで編集部が発表した。警視庁は8日、女子中学生の胸を触ったとして、原作者の松木達哉容疑者を強制わいせつ容疑で逮捕し、発表していた。

 編集部の発表によると、事実確認や作画担当の宇佐崎氏と協議を経て、連載終了を決めたという。「事件の内容と、『週刊少年ジャンプ』の社会的責任の大きさを深刻に受け止め、このような決断に至りました」としている。

 アクタージュは、俳優を目指す女子高生が才能を開花させる物語。2018年に連載が始まり、コミックが12巻まで発売されている。ホリプロなどが2022年に舞台化を予定していたが、逮捕の報道を受け、主演のオーディションサイトでは、「事実関係を確認中で、オーディション・舞台の今後に関して、改めて報告する」と説明している。

マンガの存在すら知りませんでしたが、役者が主人公のマンガは久しぶりらしく、評判もなかなかよかったようです。そこでこのマンガを原作にホリプロが2022年に舞台化、それに合わせてヒロインオーディションもやっていました。が、企画自体が中止になりました。その公式サイトより。

舞台「アクタージュ act-age ~銀河鉄道の夜~」ならびに
ヒロイン「夜凪景」役 オーディション中止のお知らせ

今月8日に『アクタージュ act-age』の原作担当であるマツキタツヤ氏が逮捕された事を重く受けとめ、関係各所とも協議した結果、2022年に開催を予定しておりました
舞台「アクタージュ act-age ~銀河鉄道の夜~」の上演、ならびに現在進行中のヒロイン
「夜凪景」役 オーディション、双方の中止を決定致しました。

弊社としても舞台ならびに本オーディションがこのような形で終えてしまう事は残念でなりません。
応募者の皆様、そして2022年の舞台を楽しみにされていた皆様には心苦しいばかり
ではございますが、ご理解を賜ります様、何卒宜しくお願い申し上げます。

㈱ホリプロ / ㈱ホリプロインターナショナル

グランプリが主演だけでなく「(株)ホリプロインターナショナルとの専属契約」とあるので、昔からこういう流れで発掘から専属契約までもっていくのが得意ですよね日本の芸能界は。「後援 ワーナー ブラザース ジャパン合同会社」とあるので映画化も視野に入っていたと推測されます。

この中でちょっと意外に思ったのが、脚本演出に松井周をもってきたところ。実力は認めるとして商業演劇まで手を広げるのかと意外でした。何しろ青年団演出部ですから。

それで上記公式サイトをもう少し詳しく読んだら、プロデューサーのコメントに「以前に週刊少年ジャンプ掲載の人気漫画『DEATH NOTE』をミュージカル化させていただきました」「その結果、ミュージカル版デスノートには原作を知らない演劇ファンの皆様にも、普段劇場に足を運ぶことがない原作ファンの皆様にもご支持いただき、5年間で3度の上演を重ね、海外でも上演される作品に成長しています」とあり、そういえば栗山民也が演出だったなと思い出しました。あれもホリプロだったかと気が付くと同時に、オーディションも話題作りだけでなく本気だったことがわかりました。

つまり、舞台に向いていそうで話題になりそうだから、くらいのノリでマンガ原作を決めたのではない。海外上演まで育つポテンシャルがマンガ原作にはあるとデスノートでホリプロは実感して、その第2陣として白羽の矢が立ったのがアクタージュだった。ただし役者が演技を考えるマンガであり、よほどきちんとした体制をとらないと駄目な舞台になることも、舞台事業も長いホリプロはわかっていた。そこで、脚本の実力があり、演出もできて、たまに自分も役者として出演するので役者の仕事もわかる人、で大真面目に探した結果、松井周に決まったと推測されます。

よく考えたら平田オリザも小説を映画舞台に提供して演技指導とかしていましたし(こちらも劇中劇は「銀河鉄道の夜」でした)、最近だと青年団では岩井秀人が活動範囲を広げています。それに比べたら商業演劇に進出するくらいはなんてことはない、と言えます。

この件については、まっさきに検索したのが、ホリプロは「ガラスの仮面」も蜷川幸雄演出で舞台化していたよなと確認することで、するともっと昔に松竹が舞台化していて北島マヤを大竹しのぶが演じていて何それ観たい、とか、それよりガラスの仮面はまだ読んでいなくて完結したら読もうと思っているのにいつ完結するの、とかミーハーな先入観から始まったのですが、裏切られました。

公式サイトには逮捕された原作者と松井周との対談も載っています。

松井 そう言っていただけるとほっとします。舞台版のみでの「こんなキャラクターがいたら面白そう」というのを妄想して、
書いてみたい気持ちも確かにありますね。だけど一方で、やっぱり夜凪や阿良也たちをしっかり存在させるのを第一には考えています。
それは原作ファンへのサービス的な意味合いよりも、舞台の上で何かが起き、その何かに劇場の中を支配させるためです。
それには俳優同士がきちんと『アクタージュ』の世界を想像し、はっきりそこに存在していないと難しい。
『アクタージュ』のキャラクターは、みんながそれぞれいろんなアプローチで演劇に関わり、努力や苦労して何とかスキルを身に着けようとしています。それは生き方に繋がっていて、一人一人の生き方がそのまま舞台に表れてくると思うんです。
とても魅力的な人たちだし面白い世界なので、それをできる限り舞台上に存在させたいと思います。

マツキ 「みなさん夜凪景を待っててください」みたいな事ではないんですよね。
理想を頭の中に作って、答え合わせをしに来てほしいわけではない。ああ『アクタージュ』ってこういう見方があったんだとか、松井さんはこういう見方をしたんだとか、もしかしたら僕はこう思っていたのかもしれないとか。
そういう非常に個人的なものを僕は期待しています。
(中略)
マツキ 夜凪役のオーディションだからといって、夜凪を目指してもらう必要はないのかなって。

松井 はい。こういう人が欲しいと想定している人物像は特にありません。その人独特な「この人じゃなければできない感じ」に、いかに僕らが魅せられるか――つい目で追ってしまうとか、声を聞きたくなるとか、こんな動きをしてもらいたいとか、誰かと合わせた時に
こんな反応するんだとか。そういう具体的な人となりがわかった時に、そこから「この人にこんなふうに夜凪を演じてほしいな」という
アイデアが出てきたりするんです。夜凪自身が自分の器を壊していく、今までの自分を越えていくタイプの人じゃないですか。
そういう伸びしろを大事にしたいですね。

マツキ 原作通りに演じてほしいとは、僕も全く思いません。オーディションを受ける方に関しても、松井さんに関してもそうですが、
今回たまたま『アクタージュ』という素材を使って何を表現してくださるのか。僕が見たいのはそこなので。

松井 でも「原作通りに夜凪を演じよう」みたいな人は、そもそもこのオーディションにあまり来ない気がしますよ。

マツキ そうですかね。

松井 だって『アクタージュ』自体に、「そういう事じゃないよ」というメッセージが明確に入っていますから。自分のままでどうその役をうまく捉えるかという話が原作で丁寧に描かれているから、夜凪をやりたい誰々をやりたいではなく、もし自分にその役と似ている部分があるなら引き出してほしい…って応募してくれる人が多いと思います。『アクタージュ』という作品自体が、オーディションの応募者を
ある程度選定している、基準を作っているように感じます。

こういう会話が成立つ点で、仕上がりも結構期待できたのではないかと推測されます。

だけど強制わいせつは駄目です。日本では性犯罪よりまだ人殺しのほうが同情が集まるんじゃないかという感覚なところ、女子高校生が主人公なのに被害者が女子中学生とか目も当てられません。既刊のマンガが出荷停止になったことには賛否両論あるかと思いますが、連載打切りも、まだオーディション段階の舞台企画が流れるのも、致し方なしです。

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