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2020年8月25日 (火)

日本文化はフィルタリングシステムという話

11年前の掲載ですけど佐々木俊尚「個人の狂気を見い出すフィルタリングシステム」という記事を見つけました。業界人には知られた話なのでしょうか。読んでとても関心したので、大半ですけど引用します。

 世界を代表する三つの国の映画産業――アメリカ映画とフランス映画、そして日本映画の違いって何だろうか? そういう問題提起がある。

 観点はさまざまにあるから単純化しすぎるのは危険かもしれないが、こういうひとつの切り口がある。「アメリカ映画は物語を描き、フランス映画は人間関係を描き、日本映画は風景を描く」。ハリウッド映画は完璧なプロットの世界で、物語という構造を徹底的に鍛え抜いて作り上げ、導入部からラストシーンまで破綻なく一本道を走り抜けられるように構成されている。

 フランス映画の中心的なテーマは、関係性だ。夫婦、父と子、男と愛人、友人。そこに生まれる愛惜と憎悪をともに描くことによって、人間社会の重層性を浮かび上がらせる。

 日本映画は、風景を描く。自然の風景という意味ではない。目の前に起きているさまざまな社会問題や人間関係の葛藤、他人の苦しみ、さらには自分の痛み。われわれにとってはそれらはすべて「風景」だ。どんなに深く関わろうとしても、しかしどうしてもコミットしきれない所与のものとして、われわれのまわりの事象はそこにある。だから日本映画には、向こう側に突き抜けられないことによる透明な悲しみが漂っていて、それがある種の幽玄的な新鮮な感覚として欧米人に受け入れられている。
(中略)
 しかし日本は違う。日本にも縄文時代に村落をゼロから作った時もあっただろうし、戦国時代や明治維新のような内乱の時代もあった。だがたいていの人々にとって、権力装置は自分でゼロから力を合わせて作り上げるものでなければ、血で血を争う暗闘の果てにつかんだ血塗れた旗でもない。私たちにとって権力というのは、「世間」「空気」のような言葉に代表されるなんだかわからない軟体動物のようなベタベタとした空間で、しかしこの空間はわれわれを絡めとって離してくれない。いったい何が敵なのかということさえ可視化されていない。

 これは言ってみれば、最強の権力構造でもある。この暴力的な権力構造は所与のものとして私たちの前に立ちはだかっていて、私たちは社会に直接向き合うことさえ許されてこなかった。

 人々は決して、その権力構造を作る側には立てない。権力構造はつねにそこに存在しているのであって、民衆はその構造に組み込まれる「お客さん」にすぎない。そういう社会に生きるということは、だからそこにひとつのあきらめ感を抱えながら生きていくということだ。もちろんそういう構造から突き抜けて生きていける一部の人はいるし、そのような人は尊敬されるかもしれないけれど、しかし多くの人にとってはそうではない。
(中略)
 こういう日本という国で生まれる文化は、軟弱だ。軟弱で、冷笑的で、一歩つねに傍観者的に引いている。でも軟弱であるがゆえの洗練はすばらしく、その洗練のゆえに日本文化は世界の中で尊敬され、賞賛されてきた。手先の器用さは、構造というビッグビジネスに立ち向かえないがゆえのチマチマした自己憐憫でしかなかったのかもしれないが、しかしそれが「俺たちが社会を作るぜ」ビッグ構造文化には持ち得ない、極端な洗練を生み出したのだ。だからわれわれは、すぐれて洗練された器用な文化を生み出しながらも、でもつねに冷笑的で傍観者的な立ち位置を保ち続けている。

 もっとぶっちゃけた極論を言えば、こういうことだ――どうせ構造をつくるような雄々しいことはできないんだから、暇つぶしにいろんなことをやってみようよ。

 そうやって日本の世間には権力側には行けないバカと暇人があふれ、枕草子を書いたり源氏物語を書いたり、歌舞伎や浄瑠璃や私小説を生み出してきたのだ。

 もちろんそうやってバカと暇人の膨大な集合体のなから、歴史に名の残るような芸術を生み出せた人はごくわずかである。たいていのバカと暇人は、先駆者の作ったコンテンツをただ消費するだけだったり、すばらしいコンテンツを揶揄して皮肉るだけだったり、バカだ荒らしだと批判されながら、衆愚の道をつねにまっしぐらに進んでいった。日本人が衆愚化しているのなんて別にいまに始まったことではない。江戸の昔から、歌舞伎オタクに身を持ち崩して財産を失い、乞食になって死んじゃうようなバカはいくらでもいたのである。

 しかし日本文化はそういうノイズに塗れた中から、秀逸なひとにぎりのクリエイターを生み出してきた。そういうフィリタリングシステムを作り上げてきたのである。全員が力をそろえてひとつの構造を作り上げるのではなく、バカや暇人が好き勝手なことをやってただコンテンツ消費をしているだけの中から、フィルタリングしてわずかひとにぎりの天才クリエイターを生み出すというただそれだけのことを、日本文化は綿々とやってきたのだ。

 日本の文化は、つねに社会のメインストリームとは外れたところから生み出されてきた。圧倒的な男の漢文社会の中から生まれた枕草子や源氏物語がそうだったし、武家社会の中で生まれた町人文化である歌舞伎や浄瑠璃がそうだったし、明治維新の富国強兵の中から生まれた近代に批判的な目を向けた夏目漱石もそうだった。どうでもいい個人的な話を延々と描き続けた私小説なんて、その最たるものである。

 だから日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しないのである。つまりは古代から現代まで一貫して、日本の文化を担う中心軸はサブカルチャーだったのだ。ここに来て急にニコニコ動画やアニメのようなサブカルチャーが「日本の誇るコンテンツで海外に輸出しなければ」と言われて変に気恥ずかしい思いになってしまうのは、そういう歴史的背景がある。しょせんサブカルなんだから、気持ち悪いからそっちから歩み寄って来ないでよ……というわけだ。
(中略)
 前に日本テレビで「電波少年」を作ったプロデューサーの土屋敏男さんとあるシンポジウムで同席していたとき、彼がこう言っていたのを思い出す。「ぼくの仕事は、いかにすごい『個人の狂気』を見つけ出すかということなんです」。バカや暇人と、すぐれたクリエイターの間にある境界は、ある種の「狂気」ということなのだろう。そういう狂気こそがバカと暇人文化における「玉」なのである。

 だから日本の優秀な雑誌編集者やテレビプロデューサーは、大衆文化のプラットフォームを作る側にたっているのにもかかわらず、みんなマーケティングがあまり好きではない。マーケティングではなく、個人の狂気たる自分の生理的直感によって勝負することが最上だと考えているのだ。
(後略)

「だから日本では、社会のメインストリームと最も優秀なカルチャーはつねに一体化しないのである」というのが、とてもしっくりきました。私は「不要不急で無駄だからこそ芝居は文化たりうる」と書きましたがそれは日本の話で、海外だとメインストリームになりうるということ、そしてアメリカとヨーロッパとではまた違うこと(アジアやアフリカや南米の各国でも違うのでしょう)を、はっきりした言葉で読めて少し頭が整理できました。

クラシックやバレエの世界だとがっちり作られた育成システムがありますが、あれはやっぱり欧米風システムですよね。富国強兵以来、日本でもそういうシステムを軍と学校を中心に育ててきましたが、やっぱり日本は一子相伝、盗んで覚えるが基本だと思います。確立された育成システムのない、売れたものが支持されて残っていく日本の演劇界というのは、ある意味もっとも日本らしい業界とも言えます。

原作者が逮捕されて舞台が舞台の舞台化が流れた話

そういえばメモしていませんでした。朝日新聞デジタル「原作者逮捕の『アクタージュ』 ジャンプで連載打ち切り」より。

 マンガ誌「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載中の「アクタージュ act-age」(原作・マツキタツヤ、漫画・宇佐崎しろ)が、11日発売号で連載を終了する。10日、同誌の公式サイトで編集部が発表した。警視庁は8日、女子中学生の胸を触ったとして、原作者の松木達哉容疑者を強制わいせつ容疑で逮捕し、発表していた。

 編集部の発表によると、事実確認や作画担当の宇佐崎氏と協議を経て、連載終了を決めたという。「事件の内容と、『週刊少年ジャンプ』の社会的責任の大きさを深刻に受け止め、このような決断に至りました」としている。

 アクタージュは、俳優を目指す女子高生が才能を開花させる物語。2018年に連載が始まり、コミックが12巻まで発売されている。ホリプロなどが2022年に舞台化を予定していたが、逮捕の報道を受け、主演のオーディションサイトでは、「事実関係を確認中で、オーディション・舞台の今後に関して、改めて報告する」と説明している。

マンガの存在すら知りませんでしたが、役者が主人公のマンガは久しぶりらしく、評判もなかなかよかったようです。そこでこのマンガを原作にホリプロが2022年に舞台化、それに合わせてヒロインオーディションもやっていました。が、企画自体が中止になりました。その公式サイトより。

舞台「アクタージュ act-age ~銀河鉄道の夜~」ならびに
ヒロイン「夜凪景」役 オーディション中止のお知らせ

今月8日に『アクタージュ act-age』の原作担当であるマツキタツヤ氏が逮捕された事を重く受けとめ、関係各所とも協議した結果、2022年に開催を予定しておりました
舞台「アクタージュ act-age ~銀河鉄道の夜~」の上演、ならびに現在進行中のヒロイン
「夜凪景」役 オーディション、双方の中止を決定致しました。

弊社としても舞台ならびに本オーディションがこのような形で終えてしまう事は残念でなりません。
応募者の皆様、そして2022年の舞台を楽しみにされていた皆様には心苦しいばかり
ではございますが、ご理解を賜ります様、何卒宜しくお願い申し上げます。

㈱ホリプロ / ㈱ホリプロインターナショナル

グランプリが主演だけでなく「(株)ホリプロインターナショナルとの専属契約」とあるので、昔からこういう流れで発掘から専属契約までもっていくのが得意ですよね日本の芸能界は。「後援 ワーナー ブラザース ジャパン合同会社」とあるので映画化も視野に入っていたと推測されます。

この中でちょっと意外に思ったのが、脚本演出に松井周をもってきたところ。実力は認めるとして商業演劇まで手を広げるのかと意外でした。何しろ青年団演出部ですから。

それで上記公式サイトをもう少し詳しく読んだら、プロデューサーのコメントに「以前に週刊少年ジャンプ掲載の人気漫画『DEATH NOTE』をミュージカル化させていただきました」「その結果、ミュージカル版デスノートには原作を知らない演劇ファンの皆様にも、普段劇場に足を運ぶことがない原作ファンの皆様にもご支持いただき、5年間で3度の上演を重ね、海外でも上演される作品に成長しています」とあり、そういえば栗山民也が演出だったなと思い出しました。あれもホリプロだったかと気が付くと同時に、オーディションも話題作りだけでなく本気だったことがわかりました。

つまり、舞台に向いていそうで話題になりそうだから、くらいのノリでマンガ原作を決めたのではない。海外上演まで育つポテンシャルがマンガ原作にはあるとデスノートでホリプロは実感して、その第2陣として白羽の矢が立ったのがアクタージュだった。ただし役者が演技を考えるマンガであり、よほどきちんとした体制をとらないと駄目な舞台になることも、舞台事業も長いホリプロはわかっていた。そこで、脚本の実力があり、演出もできて、たまに自分も役者として出演するので役者の仕事もわかる人、で大真面目に探した結果、松井周に決まったと推測されます。

よく考えたら平田オリザも小説を映画舞台に提供して演技指導とかしていましたし(こちらも劇中劇は「銀河鉄道の夜」でした)、最近だと青年団では岩井秀人が活動範囲を広げています。それに比べたら商業演劇に進出するくらいはなんてことはない、と言えます。

この件については、まっさきに検索したのが、ホリプロは「ガラスの仮面」も蜷川幸雄演出で舞台化していたよなと確認することで、するともっと昔に松竹が舞台化していて北島マヤを大竹しのぶが演じていて何それ観たい、とか、それよりガラスの仮面はまだ読んでいなくて完結したら読もうと思っているのにいつ完結するの、とかミーハーな先入観から始まったのですが、裏切られました。

公式サイトには逮捕された原作者と松井周との対談も載っています。

松井 そう言っていただけるとほっとします。舞台版のみでの「こんなキャラクターがいたら面白そう」というのを妄想して、
書いてみたい気持ちも確かにありますね。だけど一方で、やっぱり夜凪や阿良也たちをしっかり存在させるのを第一には考えています。
それは原作ファンへのサービス的な意味合いよりも、舞台の上で何かが起き、その何かに劇場の中を支配させるためです。
それには俳優同士がきちんと『アクタージュ』の世界を想像し、はっきりそこに存在していないと難しい。
『アクタージュ』のキャラクターは、みんながそれぞれいろんなアプローチで演劇に関わり、努力や苦労して何とかスキルを身に着けようとしています。それは生き方に繋がっていて、一人一人の生き方がそのまま舞台に表れてくると思うんです。
とても魅力的な人たちだし面白い世界なので、それをできる限り舞台上に存在させたいと思います。

マツキ 「みなさん夜凪景を待っててください」みたいな事ではないんですよね。
理想を頭の中に作って、答え合わせをしに来てほしいわけではない。ああ『アクタージュ』ってこういう見方があったんだとか、松井さんはこういう見方をしたんだとか、もしかしたら僕はこう思っていたのかもしれないとか。
そういう非常に個人的なものを僕は期待しています。
(中略)
マツキ 夜凪役のオーディションだからといって、夜凪を目指してもらう必要はないのかなって。

松井 はい。こういう人が欲しいと想定している人物像は特にありません。その人独特な「この人じゃなければできない感じ」に、いかに僕らが魅せられるか――つい目で追ってしまうとか、声を聞きたくなるとか、こんな動きをしてもらいたいとか、誰かと合わせた時に
こんな反応するんだとか。そういう具体的な人となりがわかった時に、そこから「この人にこんなふうに夜凪を演じてほしいな」という
アイデアが出てきたりするんです。夜凪自身が自分の器を壊していく、今までの自分を越えていくタイプの人じゃないですか。
そういう伸びしろを大事にしたいですね。

マツキ 原作通りに演じてほしいとは、僕も全く思いません。オーディションを受ける方に関しても、松井さんに関してもそうですが、
今回たまたま『アクタージュ』という素材を使って何を表現してくださるのか。僕が見たいのはそこなので。

松井 でも「原作通りに夜凪を演じよう」みたいな人は、そもそもこのオーディションにあまり来ない気がしますよ。

マツキ そうですかね。

松井 だって『アクタージュ』自体に、「そういう事じゃないよ」というメッセージが明確に入っていますから。自分のままでどうその役をうまく捉えるかという話が原作で丁寧に描かれているから、夜凪をやりたい誰々をやりたいではなく、もし自分にその役と似ている部分があるなら引き出してほしい…って応募してくれる人が多いと思います。『アクタージュ』という作品自体が、オーディションの応募者を
ある程度選定している、基準を作っているように感じます。

こういう会話が成立つ点で、仕上がりも結構期待できたのではないかと推測されます。

だけど強制わいせつは駄目です。日本では性犯罪よりまだ人殺しのほうが同情が集まるんじゃないかという感覚なところ、女子高校生が主人公なのに被害者が女子中学生とか目も当てられません。既刊のマンガが出荷停止になったことには賛否両論あるかと思いますが、連載打切りも、まだオーディション段階の舞台企画が流れるのも、致し方なしです。

2020年8月 2日 (日)

自由自在な声の役者が逝く

立石涼子のことです。朝日新聞より。

 立石涼子さん(たていし・りょうこ=俳優、本名立石凉子〈たていし・りょうこ〉)が2日、肺がんで死去、68歳。葬儀は近親者で営む。

 長崎県出身。76年から14年まで演劇集団円に所属。確かな演技力で幅広い役柄をこなし、蜷川幸雄演出作など多くの舞台に出演した。04年に「エレファント・バニッシュ」などで紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞。ドラマ出演や声の吹き替えも多数。

「エレファント・バニッシュ」に出ていたのは記憶があるけど、自分が認識したのは「春琴」の語り。読み直したら絶賛していた。そこから飛んで「ガラスの動物園」も覚えていて、これは登場人物の少ない芝居とはいえ、やっぱり絶賛していた。

今さら知ったのは、演劇集団円の出身であること。新劇と呼ばれる劇団出身のベテランは芸達者が多い。日本の芸能界の、ある種の芸の系譜を、具現化していた役者だった。

合掌

2020年7月24日 (金)

あえて余白を残すという話

カルピスウォーターのパッケージが評判のようです。それを解説するまとめができていました。

公式SNSも運用してる身として個人的な予想となりますが、カルピスさんは、「あえてボトルの透かし画像はどこにも出さず企画の"余白"を残し、UGCが出るのをガマンして待っていた」と思います。

「ちゃんと待てる」って意外と難しいのにそれが出来る。

最初から全部ネタバラシするんじゃなく市場からのタネで完成する仕組み最高だな。
こーゆー仕掛けをしていきたいものです。

この事例を見ると"余白"づくりの重要性をとても感じますよね。
普通に打ち出してもある程度の反響は見込める素晴らしい企画だなと思いましたけど、ユーザーが参加して一緒に盛り上げる事でより大きな波が生まれている印象。

公式が最初に取りあげるのは、野暮というか、なんか違う。

他の例も載っていますが、企画を芝居に、ユーザーを観客に、余白を想像の余地に置換えると、演劇の世界にも通用する話になります。よくできた芝居は、観客の想像力を当てにして、必要な情報は全部出すけどあえて不親切にバラバラにして、情報をつなげるところは観客にまかせる傾向が多いと思います。

その応用として、描きたいことを別の世界の別の物語に置換えることもあります。見立てとか風刺とか言われるものはそうですね。あるいは複数の別の物語を並行に進めてそれらが実は関係のあるものだったとつながる手法もあります。そこで大事なのは、とにかく、直接言っては駄目なんですよね。観客側が自分で「ああああそうだったんだ」と気が付くことで満足度が大きくなる。

テレビはほとんど見ませんけど、たまに見ると、情報過多ですよね。わからなくもないんですよ。話がどんどん進む中で細かい情報を拾って、関連する情報が出てきたときにリアルタイムで思い出すのはある種の能力で、「余白」のあるコンテンツに一定量以上のめり込んだ人でないと身につかない。私も小説や芝居ならある程度はできますけど全部拾えるわけではないし、音楽ではそのような楽しみ方ができる自信はありません。ある規模を超えるとそういう能力がない人の割合が無視できないくらい増えて、そこを補うための過ぎた親切が全体をスポイルする。その極端な例がバラエティ番組で、もう字幕をずっと表示して「ここで笑え」の指示を出してばかりです。別の表現をするなら、野暮です。

何も岩松了みたいに必要な情報すら隠せというわけではありません。でも情報の種類と順番を工夫することで、本筋は必要最小限の情報で構成できたら、それは洗練の一種です。洗練にもいろいろな形がありますが、観客の想像力を信じることはコンテンツの質を上げることにつながる、王道の手法のひとつだと考えます。

2020年7月19日 (日)

アニメの話と演技の話をつなげる片桐はいりのインタビュー

アニメの話と演技の話をつなげる片桐はいりのインタビュー

【片桐はいり x 森下圭子 x おおすみ正秋】昭和のアニメ 対談 スタート!」という全5回の対談を見つけました。ところどころに入る片桐はいりの演技の話が面白いので、関係個所を引用して紹介です。

第3回。

おおすみ
歌舞伎はね、歌右衛門さんから直接聞いたんだけど、ガラガラ声で怒鳴っても、色気に見えるのが歌舞伎。そういう芸が蓄積されているからこそ、色気に見える。一つの例として教えてくれた歌舞伎の色気の中に、「肘が胴から離れたがらない」という言葉がある。

片桐
え?なんだろう??・・・・あ、わかった。これですね!

おおすみ
手を伸ばすとこうやって肘が離れてしまう。それを離さずちゃんと身体につけてやるとお酌しているときの色気が出るんだって。歌舞伎の演技は、手。胴、腰、全部動きが決まっている。アニメのタイムシートに書き込むがごとく、手だけ、足だけ、今は口だけという風に動いている。他は動かさず、余計なことはやらない。

片桐
そうですね。

おおすみ
普通の芝居はとっさにしゃがんだ時、よろけて足を踏みなおすなんて当たり前じゃない。でも歌舞伎でそんなことしたら首になっちゃう。しゃがむという形を作る場合は、しゃがんだ時それが型になってなくちゃならない。スタンスをとりなおすなんてありえない。

片桐
だからそれは、どの場面をストップモーションで切り取っても静止画として成立するように、切り取っても型になっているところが、歌舞伎や文楽、浄瑠璃の世界で、まさにリミテッドアニメに応用できるんですね。

おおすみ
その通り!日本舞踊は基本的にそうなんですよ。型から型へと繋いで行く。でもダンスはそうじゃない。

片桐
そうなんですよね。ダンスは違う。

おおすみ
バレエのアラベスクなんかは、プロセスが大事。でも日本の芸能はプロセスがあっちゃいけない。  AからBへすぐ行かなくちゃ。演技を日本人はそう捉えてる。日常生活もそういうものとしてやっているから、だから歌舞伎は日本人の動きの原点。すぐにリミテッドアニメーションと結びついちゃう。

片桐
劇的なストップモーションのシーンの集合体だと考えたら、歌舞伎もそうだし、私なんて大衆演劇にかっこいいってしびれちゃうし、どこの動きを見ても決まってる!ってなるんですよ。宝塚もそうかもしれないし、日本人の好きなものってつながっているのかもしれませんね。

おおすみ
日本人と話してる感じしますよ(笑)

片桐
フィンランド代表の日本人である森下さんはどうですか?日本人ですけど(笑)

森下
私、むかし暗黒舞踏というか、舞踏を勉強していたことがあるんです。
ヘルシンキの大学で教えたこともあったりして。

片桐
そうだった(笑)

森下
だから動きに関しては観察して見てる方だと思うんですけど、フィンランド人は自分の「行く先」しか見てない。フィンランドのダンサーは「途中」がないがしろになっていて、次の点のことしか考えてない。だからポーズとポーズはきちんと決まるんだけど、その中間点で写真をとったらカタチになってないんですよね。

第4回より。

おおすみ
片桐さんの前で言うのもなんだけど、日本の俳優はこの10年うまくなったと思う。昔の東映時代の役者と比べたら嘘みたいに違うよ(笑)

片桐
若い人がってことですよね?本当にそうです。

おおすみ
で、何が違ったかというと

片桐
わ、それ聞きたい!

おおすみ
アメリカのメッソド演技(注:モスクワの芸術座リーダー、スタニスラフスキーが提唱している演技理論)のお手本とされる”スタニスラフスキー”っているでしょ。彼が提唱している演技法その①は「自分の感情に忠実に」なんです。今はそれを自然に、役を踏まえた上でリアルにやる役者が出てきている。日本は役者が自然な感情表現をしているにも関わらず、プロデューサーや演出がとにかく役者に泣く芝居をしろと言う。

森下
わはは(笑)

片桐
そうなんです。本当その理由を聞いてみたい。

おおすみ
スタニスラフスキーは、感情を意図的に演じる時はただ一つ、自分の感情を見せつけて人を動かそうとするときだけ、と言っている。

片桐
それは“本当には思ってない”という時ですね。

おおすみ
そう。 自分の感情で動いてるんじゃなくて、「俺は今怒ってるぞ」と相手にみせる。子供に対する親なんてしょっちゅうそうするもんだけど。それもスタニスラフスキーが書いてる。このメソッド演技が定着しているのは、ロシアの次にアメリカなんですよ。だからアメリカの演技はそんなにメソメソしてない。演出意図があればそりゃ、やってみせますけど、ジェームス・ディーンにもマーロン・ブランドにも湿気の芝居はないんです。

片桐
日本における湿気はなんでしょうね?特に最近です。それこそ小津先生の映画でも、女優さんに目薬さしてる写真がいっぱいあるんですよ。ということは、本当に泣け、なんて言ってないんです。それは4Kの映像になって改めてみてみると、そんなにタラーッと涙は流れてなくて、目元でウルッってなってるだけ。

おおすみ
目薬で泣いたことあります?

片桐
ありますあります(笑)

おおすみ
それでね、目薬でもじわっと目頭に涙がたまると、そう言う感情になってくるんです。

片桐
わかります。本当にそう。体が先で感情が後。ごくリアルな実感としてあります。体がある状態になると、自然とそれにふさわしい感情がわいてくるんです。 形ということで言うと、わたしは子供の頃からアニメや人形劇を見て育ってきているから、ある種の表現をする時に、アニメや人形みたいな動きが普通に自分の動きとして入ってきている気がするんです。

おおすみ
あなたそれで、嘘芝居にならないのがすごい(笑)

片桐
まあ実際はアイディアとして、アニメの動きや表現を思い出して使ってみたりするという程度かもしれないですけど。体に染み付いたりしていて。

森下
イメージとしては私もありますよ。自分の気持ちの中だけで髪の毛がブワーってなってるとか。

片桐
そう、そういうアニメの表現をみんな真似していたんですよ。その中で育ってきていると言うのがあるなと。

おおすみ
片桐さんは、監督がそういう方向に持っていったらなんでもできちゃいそうだね。

片桐
こないだのお芝居で、ある台詞だけ全く動かずにやってみたんです。体は動かさず口だけを動かす。あとのシーンはほとんど動いているから、ここぞと思うところだけ絶対動かないというのを、自分だけの楽しみとしてやってみたんですけど、自分にもお客さんにも緊張感が生まれておもしろかった。今思えば、まさにリミテッドアニメですね(笑)

おおすみ
動かないでいると、観る側は次の動きを期待しながら見るからね(笑)子供は亀でもなんでも、急に動かずに止まってしまうとずっと飽きずに延々と見てるでしょ。演技も同じで止まったら気になる。それを見ている人も、その間じっと止まっている。まさに静止画なんだよね。

型の目的や目標のある一面について「どの場面をストップモーションで切り取っても静止画として成立するように、切り取っても型になっている」ってこんなはっきりした説明は初めて読みました。それに「それこそ小津先生の映画でも、女優さんに目薬さしてる写真がいっぱいあるんですよ。ということは、本当に泣け、なんて言ってないんです」も演技のとても大切な部分を説明する名探偵感があります。片桐はいりの言語化能力の高さはすばらしい。

片桐はいりのそういう、メタな視点を感じたのでしょう。第2回でこんなことを言われています。

片桐
私はみんなが頭をひねって、知恵と工夫で出来上がってきたものに、なぜか胸が踊り、よりワクワクするんです。おおすみ監督のアニメに魅せられて、子供心にそういうものが焼きついちゃったから、こういう人間になったのかもしれないですね(笑)。

おおすみ
へえ。

片桐
生まれて初めて観た映画はディズニーの「101匹わんちゃん」なんですけど、やっぱり日常的に観ていたのは夕方の再放送枠のアニメですから。今そういうものが好きで追いかけているのは、この原体験があったからなんじゃないか(笑)、なんて今日の授業を聞いていて思いました。

おおすみ
片桐さんは、映画の監督したことあったっけ?

片桐
いやいやないです。

おおすみ
俳優としての発言というより、非常に監督っぽいよね。

片桐
っぽくないです(笑)監督志向ゼロです(笑)

おおすみ
口説いて一度アニメの監督やらせてみたいよね。

片桐
いやいや無理無理(笑)でもやっぱり、ピクサーやハリウッド映画も面白いんだけど、お金あってなんでもありっていうのが透けて見えると、途端に興味がなくなる(笑)

芝居をこれまで観てきてわかったことのひとつに、役者への評価があります。「いつも安心して観ていられる」のもう何段か上に「どんな芝居でも気になる何かを毎回必ず見せてくれる」という段階があって、片桐はいりはその数少ない一人です。この監督的な視点(芝居なら演出家の視点)と、自分の演技プランと、表現技術と、3つのバランスを調整できて、さらにひそやかな楽しみを見つけ出してこっそり混ぜられる、のが秘訣なんでしょう。

2020年5月24日 (日)

新型コロナウィルスの補償問題で本当にドイツがよかったのか疑問になる記事から転じて文化芸術復興基金の話まで

海外の支援状況を調べた時に、ドイツがいいかもしれないけど日本も言うほど悪くないと書きました。その後、ドイツの補償の話を見つけたので追記しています。Soforthilfe I、II、III、IV、Vがあって、このうち芸術分野はIIとIVが関係します。

ところがそのドイツで、フリーランスのアーティストやクリエイターを中心にベーシックインカムを求める運動が起きているという記事がありました。記者も疑問を述べながら紹介しています。

そんななか、フリーランスのアーティストやクリエイターを中心に高まっているのが、ベーシックインカムを求める声だ。

ベルリン在住のファッションデザイナー、トニア・メルツによる「コロナ危機に、無条件のベーシックインカムを」という呼びかけには46万人以上の署名が集まり、財務相に向けた「コロナ・シャットダウン中の、フリーランスとアーティスト支援」と題されたオンライン署名運動には30万人近くが署名している。

後者の署名運動の発起人であるライプツィヒ在住のカウンターテナー、ダヴィッド・エルラーは、ドイツ連邦政府文化相が提案する総額600億ユーロ以上にのぼる「文化分野のための救済策」に不満を唱え、ユニヴァーサル・ベーシックインカム(UBI)が最良の支援だと呼びかけた。

しかし、ドイツと言えば、アーティストを重視する姿勢が日本でも話題になった国ではなかったか。

ドイツ政府は国の「即時支援」として、個人フリーランスやフルタイム従業員が5人以下の零細企業に向けて最大9,000ユーロ(約104万円)、従業員5名から10名以下の小企業の場合は15,000ユーロ(約173万円)の支援を打ち出した。しかも、申請からほんの数日で、指定の口座に振り込みがあるという。金額や即時性など、よく考えられた支援のように思えるが、何が問題なのだろうか。

「国の即時支援の問題は、生活費に使えない点にあります。用途が限られており、スタジオや店舗などの賃料やリースの料金などにしか使うことを許されないのです。例えば、わたしはレッスンを自宅でしていて、機材なども特に使いません。わたしのような人間にとって、この即時支援はまったくの無意味です」と、エルラーは憤る。

「即時支援がだめなら半年間の生活保護が生活費をカヴァーすると言いますが、わたしたちは失業しているわけでも、仕事を探しているわけでもない。国による『職業の禁止』を強いられているんですよ!」

今回のベーシックインカムへの議論がアーティストから出てきたというのは、ある意味必然でもあった。ドイツの芸術家社会保障(KSK)の2017年の発表では、画家の作品での平均年収は12,000ユーロ(約140万円)、オペラ歌手が11,200ユーロ(約130万円) 、実験芸術家は9,100ユーロ(約105万)だという。芸術家たちは、平常時からぎりぎりの生活をしているのだ。

エルラーやメルツなど、今回のコロナ禍にあってUBIを求める人たちが望んでいるのは、日々の生活の助けとなり、3月からキャンセルが続く仕事の損失補填に当てられるお金だ。彼らの要望は、月額800~1,200ユーロ (約9万円から14万円)。半年間の期間限定である。

しかし、その最適な回答とは、UBIなのだろうか

そこから説明が続きますが、支援金が生活費に使えないとはどういうことか。Soforthilfe IIという呼び方が前に調べた時にわかっていたので、改めて調べてみます。といってもドイツ語がわからないのでGoogle翻訳頼みです。

緊急援助は、運営資料や財務費用の負債に使用できます。

緊急援助額は、(申請から)次の3か月間の申請者の明白な流動性不足から計算されます。

今後3か月の現在の収益(推定)

./。今後3か月間の継続的な物的および財政的費用

=流動性のボトルネック

費用/支払いは3か月間設定できます。

商業施設の賃貸料およびリース料(最低20%の家賃の減額は5か月間適用できます)
商業活動のための保険料
すでに延期が許可されていない限り、商業的に使用される商品および機器の利息、リース率、および返済
自動車が経済活動に必要な場合の自動車費用(保険/リース費用/負債)
人件費ではなく、取締役の給与、個人の引き出し、個人の生活費の収入や手数料の失敗の補償、健康保険の拠出などを認識することができます。

さらなる公的援助、ならびに可能な補償支払い、短時間の労働手当、税の繰り延べ、ならびに事業の中断または事業の中断などの保護からの当然の保険給付。A。主に使用され、流動性のボトルネックを計算するときに考慮されます。

生活費に使えない説明は私が太字にした個所の説明ですね。なるほどその通りでした。それに収入が少ないこともわかりました。ただそれに対して「即時支援がだめなら半年間の生活保護が生活費をカヴァーすると言いますが、わたしたちは失業しているわけでも、仕事を探しているわけでもない。国による『職業の禁止』を強いられているんですよ!」と返すのは、ちょっとまあ、極端すぎやしないかと思います。

日本に限らず、サラリーマンがもらって嬉しいボーナスですが、正式名称は「賞与」と「一時金」の2つがあります。「賞与」は会社側の呼び方、「一時金」は労働者側の呼び方です。同じものに対して異なる呼び方をするのは、こちらのリンク先がわかりやすいと思いますが、ボーナスの位置づけが違うからですね。でもそこを棚に上げることで、何はともあれ労働者はボーナスがもらえるわけです。悪く言えばなあなあですが、落としどころを探った昔の大人の知恵の産物とも言えます。名より実を取ったとも言い換えられます。名より実という言葉はドイツにはないのでしょうか。それとも名称が何より大事で、生活保護のかわりに「アーティスト保護」のような名称だったら問題にならず収まっていたのでしょうか。だとしたらそれこそ朝三暮四です。この記事だけで、日本のサラリーマンがヨーロッパのアーティストの権利意識を想像するのは困難です。

今週になって「自民が新型コロナ対策で文化・芸能支援に500億円要望 ソフトパワーを守る」という記事が出ていました。

 新型コロナウイルス対策として、自民党文部科学部会が取りまとめた「経済対策に関する重点事項」が19日、分かった。活動が困難となっている芸術家やアスリートの支援、生活苦の学生を支える新たな給付金制度の創設などを政府に求める。近くまとめる党の経済対策に盛り込む方針。

 重点事項では音楽、演劇、伝統芸能などに携わる人々やアスリートらの活動を支えるため、「活動の維持・継続と活動の再開・活性化を強力に推し進めるため、基金や地方創生臨時交付金の活用」を提起。自民党幹部は少なくとも500億円以上の財源が必要との認識を示した上で、「欧州ではペスト流行後にルネサンスが花開いた。与党としては、コロナ収束後を見据えて日本のソフトパワーを守る責任もある」と語った。
(後略)

あれだけ炎上した割にはずいぶんまとまった金額が拠出されそうな可能性が出てきました。おりしも、演劇、ライブハウス / クラブ、小規模映画館(ミニシアター)が連携した「文化芸術復興基金構想(仮称)」が提案されたところです。シアターナタリーより映画ナタリーのほうが良さそうなので引用はそちらから。

これは「SAVE the CINEMAプロジェクト」「演劇緊急支援プロジェクト」「SaveOurSpace」が連携して実施したもの。記者会見前に3団体は、3者統一要望書や署名を文化庁、文部科学省、経済産業省、厚生労働省に提出している。要望書には文化芸術団体が実施する公演や上映、ライブにともなう売上減少・経費増大に対して補填することなどを目的とした「文化芸術復興基金」創設を求める内容が記載された。また持続化給付金の継続や運用の柔軟化、さらに固定費に掛かる支出に対する給付型の支援も要請している。加えて、雇用調整助成金が早期に支給されるよう運用の是正と、各種制度においてフリーランスも対象とするよう制度の是正や柔軟化を求めた。
(中略)
劇作家で演出家の詩森ろばは、今回設立を要請した「文化芸術復興基金」とは別に「文化芸術復興創造基金」が作られたことに触れ、後者の問題点を指摘。民間から寄付を募って行うものであることと、基金という名前にもかかわらず配り終われば助成金がなくなってしまうシステムであることを挙げて要請時に話をしたと言い、「とまどいながらも『変えていかないといけないのでは』というような意思を感じられた」とコメントした。30人以上の国会議員もその場を訪れていたことを前置き、「文化は必要だと熱い演説をしていただいた」「超党派でやっていただけていると実感しました」とも述懐する。

これがどう転がっていくのかまだわかりません。私の今の意見では、文化芸術を担うのは何と言ってもスタッフまで含めた個人、また業種によってはそれを鑑賞に供するための拠点、だから支援もそこを対象に、となります。どういう形で支援が考えられているかわかりませんが、少なくとも興行を補償する形だけはとらないでほしいです。

そしてもし、この支援が実現して受取れた人が出てきて、その人が過去に海外出羽守の発言を行なっていたら、その海外の支援制度を調べて報告してほしいです。その結果、過去の発言と海外の支援実態とが間違っていたら訂正してほしいし、日本の支援制度のほうがよかったらそのことを表明してほしい。金銭的に苦しくて支援を必要としている人が声を挙げるのは通常の権利ですが、海外出羽守論法で間違った情報をもとに要求していたのだとしたら訂正は行われるべきです。早とちりで勘違いしていた人はいても、支援を要求するために確信犯で間違った情報を流していた人はいなかったと信じたい。

2020年5月23日 (土)

新型コロナウィルスに関する東京都のロードマップで劇場の位置づけが明確になる

東京都から「(第382報)新型コロナウイルス感染症を乗り越えるためのロードマップ~「新しい日常」が定着した社会の構築に向けて~の策定について」が発表されていました。新しい日常なんて大きなお世話とは言えません。劇場の再開基準についても載っているからです。

新型コロナウイルス感染症を乗り越えるためのロードマップ」のPDFにいろいろ書かれています。劇場の位置づけはSTEP2のグループです。「2週間単位をベースに状況を評価し、段階的に自粛を緩和」と書かれていますから、国の緊急事態宣言(STEP0)では休業要請、スライド5の指標を達成して解除後(STEP1)、記載の基準を2週間達成したら(STEP2)、「劇場等→入場制限や座席間隔の留意を前提に施設の再開」で営業できることになります。一度緊急事態宣言に入ったら稽古もできないので、解除の方向ではまあまあ実用的な位置づけと思えます。

反対方向、スライド5の指標にひっかかったときには東京アラートが発動されますが、これがどうやって動くのかがわかりづらいです。想像ですが、東京都で2020年2月21日に大規模な屋内イベントの中止が発表されときのようなイメージでしょうか。この時は3週間中止だったものが、基準を下回って2週間(最低2週間プラス1日)になる。ただし小規模な劇場については各劇場、各団体の判断に任せられるような。

では開催の注意事項は何か。もうひとつのPDFである「事業者向け『東京都感染拡大防止ガイドライン』」が載っていますが、各業界の事業者がまとめたガイドラインへのリンクが基本です。QRコードまで載せて、少しでも元ガイドラインを読んでほしいという努力を感じられます。劇場の部は、先日このサイトでも紹介した全国公立文化施設協会のガイドラインへのリンクになっています。お上は万能でもなければ業界別の事情を知り尽くしているわけでもないので、そうなるのはしょうがないですよね。

むしろこれを見て、ああ業界団体はこういう風に役立つのだなと、人生で初めてといっていいくらい業界団体に前向きな感覚を覚えました。自分たちはまともな業者の団体であり、その業者の代表たちが自分たちのためにまとめたガイドラインなので信用して採用してください、と言えることがこういう状況では強い。そしてこのガイドラインが劇場に寄って上演団体の対策が不明であるという意見は前に書いて変わっていません。もし上演団体の業界があって、その団体が稽古および上演の実用的かつ有用なガイドラインをまとめていたら、セットで採用されていたはずです。ちなみにスライド7に「(例)・博物館、美術館、図書館→入場制限等を設けることを前提に施設の再開」や「(例)・劇場等→入場制限や座席間隔の留意を前提に施設の再開」と、ほかの業種を差置いて文化系施設が代表例として載っているのは、東京都が自前で多数抱えている面もありますが、文化行政の誰かがこっそり頑張ってくれたのではないかと推測します。他のメディアにこのスライドだけ引用されるときに目に触れて、多少なりとも前向きな意見が増えることを期待します。

とりあえず劇場の営業再開可能な時期は示されました。わたしはもっと大げさな対策が必要ではないかと悲観的でしたが、そうはなりませんでした。もちろん、「入場制限や座席間隔の留意を前提に」という条件を目いっぱい満たすと「ソーシャルディスタンスの客席シミュレーション写真」のようになり、興行的には営業の意味があるのかという状態になります。でもそこを、笑いの少ない演目ならもっと詰めて大丈夫とか、換気能力があるからもう少し大丈夫とか、対策をとっていた3月の公演の実績ではクラスター感染は発生しなかったとか、いろいろ説得するくらいは、上演団体が頑張ってもいいと思います。

2020年5月20日 (水)

新型コロナウィルス後に芝居を上演するようになってもすぐには観に行けない

首都圏の緊急事態宣言解除が見送られる、というニュースを見ました。惜しい。

ですが、緊急事態宣言が解除されたことは、新型コロナウィルスが沈静化したこととは違います。収まっていたはずの韓国でナイトクラブからクラスター感染が発生した事例もあれば、ドイツでロックダウンを緩和したらまた感染の実行再生産数が増えた事例もあります。ここまで劇場でクラスター感染が発生していないのは確かですが、それは劇場で上演される演劇を観劇しても大丈夫であることの証明にはなりません。上演に先立って、稽古も小屋入り後もこれだけ対策したから観に来てくれ、と言えるくらいの対策が確立するのももう少しかかるでしょう。

関係者ではなく観客専門の人たち、中でもガチ勢と呼ばれる人たちは真っ先に劇場に向かうのでしょうか。自分はガチ勢にはほど遠いので、無理です。そんなにすぐには観に行けません。公共交通機関を使って劇場に行く、2時間か場合によってはそれ以上閉鎖空間で過ごす、公共交通機関を使って帰る。どこかで感染する危険性がまだあります。それで感染して、死なないにしても発症して自分が苦しむのも嫌だし、無症状で知らない間に人に感染させるのも嫌です。

夏になったら収まるとか、いろいろ言われていますが、新型なのでどうすれば大丈夫なのかまだよくわからない、が実際のところです。次の秋冬に再流行するとも言われています。南半球でまもなく冬のブラジルでは、ノーガード作戦の結果、いつのまにか1日1000人死亡クラブ入りしていました。放っておいたらやっぱりこうなります。

最近チラシがないのでスケジュールが頭に入っていませんが、観る側としてどこが復帰のタイミングかは考えてしまいます。今のところ思付くのは、7-8月予定の野田秀樹の「赤鬼」、8月の宮沢りえ主演の「アンナ・カレーニナ」あたりですが、上演がどうなるか、予断を許しません。特に後者は外国人演出家だから来日が危ぶまれます。「赤鬼」は削いだフィジカルな演出の似合う大好きな1本ですが、それだけに稽古場がスポーツジム化する可能性があります。このタイミングなら「贋作・罪と罰」のほうが世相にあってよかったんじゃないかと半分本気で思います。

もっと先になると、10月の「リチャード二世」は多数観てきたシリーズの締め。もっともっと先になると来年1月の「東京原子核クラブ」はこれも大好きな1本をマキノノゾミの本家演出です。ただし1月にまでなったら冬ど真ん中。感染の状況はどうなっているでしょう。

そうやっているうちに芝居を観る習慣が失われそうです。こんな形で趣味が失われるとしたら悲しいですが、ここのところ観すぎが続いていたのでそれでもいいかなと思うようになってきました。ひとつ確実なのは、芝居を観ないとチケット代も交通費も減って、財布には優しいです。

2020年5月17日 (日)

劇場、音楽堂等における新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドラインが出る

何かガイドがないかと探していたら、公益社団法人全国公立文化施設協会が「劇場、音楽堂等における新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドライン」を5月14日付で掲載していました。何だこの団体はと思ったら「国及び地方公共団体等により設置された全国の劇場・音楽堂等の文化施設が連絡提携のもとに、地域の文化振興と地域社会の活性化を図り、もってわが国の文化芸術の発展と心豊かな社会の実現に寄与する」とあるので、国公立の、文化会館とか文化センターとか名の付くような施設が参加する協会のようです。正会員が国立/新国立/東京芸術劇場から、近所の市立施設まで、おそらくほぼ網羅されているようです。1305施設だそうで、これだけ拠点があるってすごいですね。ほかに、該当する施設ではないけど参加しておきたい団体が準会員、施設と関係が深い舞台系の団体などが賛助会員、のようです。

具体的な対策は後半に出てきて、今回それは長くなるので引用しませんが、前半の、いろいろな考え方のところをいくつか引用します。

 今回お示しするガイドラインは、国の方針を踏まえ、劇場、音楽堂等の活動再開に向けて、新型コロナウイルス感染拡大予防対策として実施すべき基本的事項を整理したものです。
 全国の劇場、音楽堂等には設置主体や運営形態、施設の性格や規模の違いなど多様な施設があり、施設によっては本ガイドラインの詳細版が必要になることも想定されます。また、地域や施設の状況によって直ちに対応・導入することは難しい事項も含まれているかと思います。すべての項目の実施が活動再開の必須条件ではありませんが、基本となる感染予防策を実施した上で、より感染予防効果を高めるための推奨事項として、今後の取組の参考にしていただきたいと思います。
(中略)
 なお、劇場、音楽堂等におけるイベント等の開催について、対処方針においては、「特定警戒都道府県及び特定警戒都道府県以外の特定都道府県は、(中略)特に、全国的かつ大規模な催物等の開催については、リスクへの対応が整わない場合は中止又は延期するよう、主催者に慎重な対応を求める。」こととされ、また、「特定警戒都道府県以外の特定都道府県は、感染防止策を講じた上での比較的少人数のイベント等については、適切に対応する。ただし、リスクの態様に十分留意すること。」とされていることに十分留意する必要があります。
(中略)
 設置者及び施設管理者、公演主催者は、施設の特性や公演の規模や態様を十分に踏まえ、施設内及びその周辺地域において、当該施設の管理・運営に従事する者(以下「従事者」という。)、公演を鑑賞等するために施設に来場する者(以下「来場者」という。)、出演者及び公演の開催に携わるスタッフ(公演主催者を除く。以下「公演関係者」という。)への新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、必要となる負担を考慮に入れながらも最大限の対策を講じていただく必要があります。
(中略)
 施設管理者は、新型コロナウイルスの主な感染経路である接触感染(①)及び飛沫感染(②)のそれぞれについて、従事者、来場者及び公演関係者の動線や接触等を考慮したリスク評価を行うことが求められます。
 大規模な人数の移動や県境をまたいだ移動が惹起される公演については、集客施設としてのリスク評価(③)及び地域における感染状況のリスク評価(④)も必要となります。
 また、それらの公演や催物等については、各都道府県において示される対応とリスク評価(③④)に基づいて実施の可否について設置者とその影響と補償等も含めて協議し判断する必要があります。
 利用を回避すべきとの判断に至った場合は、できるだけ速やかに公演主催者に対して施設利用が困難になる旨を伝達する必要があります。

で、この後に具体策の話がたくさん出てくるのですが、一読した印象は「今後の取組の参考」という位置づけです。何を言っているかというと、劇場の協会が劇場向けに出しているアナウンスのため、劇場(「従事者」)が担当するであろう業務についてはかなり事細かに示しています。一方で、上演団体(「公演関係者」)が取るべき対策はほとんど触れられていません。それはしょうがないですね。国立/新国立/東京芸術劇場のように、自分たちで企画だけでなく製作まで行なう例のほうが少ないでしょうから。

それでも、劇場側がとる対策としては、全部できるかは別として、個々の対策は施設側で実現可能性のある案を盛込めるだけ盛込んだと思います。ここからどうやって実用に落としていくかの問題はあっても、だいたいの情報は入っているので。もうすこし具体的な数字がほしかったのは座席くらいですけど、これも国が出したら座席の工夫にかかわらずその瞬間に絶対縛りができるので、しょうがない。

ちなみに最初は、首相官邸の「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針(令和2年5月14日変更)」を読みました。ガイドラインがまとめられた根拠の話が載っています。

2)催物(イベント等)の開催制限
 特定警戒 都道府県及び特定警戒都道府県以外の特定都道府県は、クラスターが発生するおそれがある催物(イベント等)や「三つの密」のある集まりについては、法第24条第9項及び法第45条第2項等に基づき、開催の自粛の要請等を行うものとする。特に、全国的かつ大規模な催物等の開催については、リスクへの対応が整わない場合は中止又は延期するよう、主催者に慎重な対応を求める。なお、特定警戒都道府県以外の特定都道府県は、感染防止策を講じた上での比較的少人数のイベント等 については、適切に対応する。ただし、リスクの態様に十分留意する。
(中略)
3)施設の使用制限等(前述した 催物(イベント等)の開催制限、後述する学校等を除く)
① 特定警戒都道府県は、法第24条第9項及び法第45条第2項等に基づき、感染の拡大につながるおそれのある施設の使用制限の要請等を行うものとする。これらの場合における要請等にあたっては、第1段階として法第24条第9項による協力の要請を行うこととし、それに正当な理由がないにもかかわらず応じない場合に、第2段階として法第45条第2項に基づく要請、次いで同条第3項に基づく指示を行い、これらの要請及び指示の公表を行うものとする。
 特定警戒都道府県は、法第24条第9項に基づく施設の使用制限等の要請を行い、また、法第45条第2項から第4項までに基づく施設の使用制限等の要請、指示を行うにあたっては、国に協議の上、外出の自粛等の協力の要請の効果を見極め、専門家の意見も聴きつつ行うものとする。政府は、新型コロナウイルス感染症の特性及び感染の状況を踏まえ、施設の使用制限等の要請、指示の対象となる施設等の所要の規定の整備を行うものとする。
 なお、施設の使用制限の要請等を検討するにあたっては、これまでの対策に係る施設の種別ごとの効果やリスクの態様、対策が長く続くことによる社会経済や住民の生活・健康等への影響について留意し、地域の感染状況等に応じて、各都道府県知事が適切に判断するものとする。例えば、博物館、美術館、図書館などについては、住民の健康的な生活を維持するため、感染リスクも踏まえた上で、人が密集しないことなど感染防止策を講じることを前提に開放することなどが考えられる。また、屋外公園を閉鎖している場合にも、同様に対応していくことが考えられる。また、特定警戒都道府県は、特定の施設等に人が集中するおそれがあるときは、当該施設に対して入場者の制限等の適切な対応を求めることとする。
② 特定警戒都道府県以外の特定都道府県は、法第24条第9項等に基づく施設の使用制限の要請等については、感染拡大の防止及び社会経済活動の維持の観点から、地域の実情に応じて判断を行うものとする。その際、 クラスター発生の状況が一定程度、明らかになった中で、これまでに クラスターが発生しているような施設や、「三つの密」のある施設については、地域の感染状況等を踏まえ、施設の使用制限 の要請等を行うことを検討する。一方で、クラスターの発生が見られない施設については、 「入場者の制限や誘導」「手洗いの徹底や手指の消毒設備の設置」「マスクの着用」等の要請を行うことを含め、「三つの密」を徹底的に避けること、室内の換気や人と人との距離を適切にとることなどをはじめとして基本的な感染対策の徹底等を行うことについて施設管理者に対して強く働きかけを行うものとする。また、感染拡大の防止にあたっては、早期の導入に向けて検討を進めている接触確認アプリを活用して、施設利用者に係る感染状況等の把握を行うことも有効であることを周知する。特定警戒都道府県以外の特定都道府県は、法第24条第9項に基づく施設の使用制限等の要請を行い、また、法第45条第2項から第4項までに基づく施設の使用制限等の要請、指示を行うにあたっては、国に協議の上、外出の自粛等の協力の要請の効果を見極め、専門家の意見も聴きつつ行うものとする。なお、特定警戒都道府県以外の特定都道府県は、特定の施設等に人が集中するおそれがあるときは、当該施設に対して入場者の制限等の適切な対応を求める。
③ 事業者及び関係団体は、今後の持続的な対策を見据え、5月4日専門家会議の提言を参考に、業種や施設の種別ごとにガイドラインを作成するなど、自主的な感染防止のための取組を進めることとし、政府は、専門家の知見を踏まえ、関係団体等に必要な情報提供や助言を行うこととする。

都道府県でよろしくやってくれ、ただし何かあったら都道府県のせいだから都道府県の責任で止めろ、関係団体でガイドライン作っておけ、ではほとんど丸投げですけど、しょうがないですね。個々に条件が違う上演を一律で決められないし、決めたら決めたで画一的だと上演団体側が非難するでしょうから。そもそも劇団四季の自前稽古場自前劇場上演と、名もなき劇団による駅前劇場上演とで同じ基準を決められるとは思えません。むしろ実務に近いところに決定権が任されたので、上演に向けて動き出せる主導権が自分たちのほうに来た、くらいに思ってほしいです。上演団体側も「公演実施可能な条件『ガイドライン』で示してほしい」などと言わず、上演に臨んで自分たちは稽古期間はこれだけの対策をとって、公演期間中もこうしているからと、言ってほしいです。せっかく「緊急事態舞台芸術ネットワーク」を作ったのだから。

不要不急で無駄だからこそ芝居は文化たりうる

演劇業界の著名人が発言するたびにいろいろ言われて、私もいろいろ書いていますけど、芝居は文化で必要だからという言い回しにずっと引っかかっています。いろいろ考えていますがうまくまとまりませんのでとりあえず書いてみます。

音楽を聴いたことがない人はいないでしょうが、芝居なんて学校鑑賞以外で観たことがない人は大勢いるでしょう。それを非文化的とは言えませんし考えもしません。

芝居を考えるとき、もし芝居が必要不可欠だったら、つまらないものになっていたとは思います。人生で必要なものは、時に嫌になったりしばらく遠ざけたくなったりするものです。人生から無駄を省いて効率的に生きるべきという意見もあるでしょうが、効率にも限度があります。そこまで効率を追求されたら、まずお前の存在が一番無駄だろうと言い返さないといけません。

必要と必要の間に、不要不急や無駄があってこその人生です。その不要不急や無駄に彩りを添えてくれるからこそ、音楽や芝居は文化たりえます。義務化された不要不急は必要に化けて、文化から生活に変身します。お前は年に2本芝居を観るのが義務だと言われたらいずれ嫌になります。

こうやって考えると、不要不急であることを認められない芝居は、文化たりえるのか、と禅問答のようになってきます。不要不急で無駄だからこそ、非常事態にはいったん引かざるを得ない立場ですけど、人生を彩る文化でもあると、言えるのではないでしょうか。

その、鑑賞側にとっての不要不急や無駄を、提供側は生業として生活しているから必要という立場の違い。ここが出発点ですね。

それともうひとつ。鑑賞側がその業界の不要不急を欲しているとして、それがその人とは限らない、という事実もあります。別の言い方をすれば、その人が必要だと思うことが他の人にとっても同じように必要ではない、ということです。我々は別々の個人であり、私の常識はその人の非常識で、その人の常識は私の非常識とも言い換えられます。

私はサラリーマンをやっていて、補償される見込みのない業界で働いています。お客様から見れば勤め先の提供しているものはある意味不要不急で、でも私からすればそれで給料をもらって生活しているので必要です。お客様がいるから需要はあるのでしょう。でも、お客様からしたら、私の勤め先が駄目なら他を当たればよいわけです。

別に私の仕事が文化的だと主張するわけではありません。ただ、たいていの人が、似たようなものではありませんか。世の中、突詰めたら必要不可欠なものはそこまで多くなくて、大半は不要不急に満ちています。

やはり、自分の仕事、自分たちの団体、自分たちの業界が、必要不可欠であり、救済されるべきと主張する意見は、それがどの業界でもバランスが悪く聞こえます。それを全員が言い出したら、「お前には必要だけど俺には不要、だから却下」の応酬になってきりがないし、助かるはずの人も助からなくなります。

世の中、不要不急で無駄ばかりだから、そこに優位性を主張するのではなく、お互い似たようなものだから大勢が助かる方法を考えましょう、と進められるとよいのではないでしょうか。

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