2012年1月 9日 (月)

PARCO PRESENTS「志の輔らくご in PARCO 2012」PARCO劇場

<2012年1月8日(日)昼>

35年間無遅刻の教師が人生で初めて授業に遅刻した理由とは「タイムトラブル」。雛人形作りを見学したいとフランス大使の妻と娘が突然田舎町にやってくる「メルシーひな祭り」。兄弟子に連れられて初めて行った吉原で出くわした花魁道中、太夫に一目ぼれした職人の恋煩い「紺屋高尾」。

年の初めらしい華やかな演目がそろって、出来もよし、文句なく屈託なく楽しめる3本。PARCOでやるときは演目が当日決まる場合と同じ場合とがあるのかな。今年は映像や舞台装置から、たぶん同じ演目で通すと思われる。

去年がひどかったから意識して明るい話を用意したらしい。4月ごろから糸井重里や矢野顕子と組んでいろいろやるらしい。こういうときに、体ひとつ楽器ひとつの芸を身につけた人たちの強さを感じる。

で、話は文句なく楽しんだのだけど、3本目の紺屋高尾、この話を「ないないありえない」とか否定せず、出来に文句なく楽しんだ自分の心が気になった。いい話だと純粋に感動したのか、よくできた作り話と割切って楽しんだのか、これこそニホンジンの考えるニホンの至高の恋愛という感性を味わって満足したのか。あれですよ、歌舞伎のイチョウは春でも黄色くないとイチョウじゃないと感じる日本人の、理想の型に近いことを尊ぶ感性。どういう楽しみ方をしたのか自分でもわからない。3つとも混じっていたんだと思う。

落語を聴いてこう考えるのが幸せなのかどうなのか。もっと素直に余韻を楽しめばいいのにと自分でも思う。でもこれからの世の中は、こういう考え方を訓練しておかないと困るだろうから素直に余韻を楽しむのはあきらめる。

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2011年12月11日 (日)

PARCO主催「90ミニッツ」PARCO劇場(ネタばれあり)

<2011年12月10日(土)夜>

ある事件が発生し、猶予が90分しかない状態で、異なる立場のため対立し結論が出せない男2人のやりとり。

「笑の大学」は観たことがないけど、そのときの2人による90分の芝居。役者の熱演は認めるけど、自分の個人的な意見が脚本の中心と対立して自分には駄目だった不幸な1本。人によることですが、以下オチまでネタばれで書きますので、まだ観ていない人は観てからどうぞ。

この話は実話を元にしているけど誹謗中傷嘲笑の意図はない、みたいな字幕がオープニングで出るのは、エホバの証人の輸血拒否事件を基にした芝居のため。田舎から出かけてきて、一緒だった息子が交通事故で怪我をした、今手術をすれば助かるが手術には輸血が必要、法律で子供の手術には親による手術同意書へのサインが必要、だけど地域の長年の習慣で輸血は認めていない、医者の西村雅彦と父親の近藤正臣の対立が続くが命が助かるまでの猶予は90分、というのが粗筋。話の元ネタがそれだということ自体は別に字幕をいれなくてもいいと自分は思うのだけど、興行上のエクスキューズとしては必要なんだろう。それより、それ以外の大小いろいろなところで引っかかって、自分には駄目だった。

細かいところから言うと、息子が危ないのになかなかサインをしない父親の初期の態度の緊張感のなさと、医者が父親の同意を取付けようとする最初の横柄な態度。前者は知識不足を表現しようとしたのかもしれないけど、後者はある程度事情を把握しているはずなのにあんな態度でファーストコンタクトするなんて駄目すぎる。まあ実際にいるかもしれない点では否定しきれないけど。

もっと細かいところでは、ベジタリアンの話で「輸血は駄目でも牛乳は大丈夫」というのを笑いのネタに使っていたところ(少なくとも客席の一部が笑うような演技だった)。卵はだめで牛乳は大丈夫というベジタリアンが知合いにいるので、別にそれは驚くところじゃないだろと心の中で突っ込んだ。そういう知合いがひとりいるだけで世界は違って見えるんだと気がついた。

そういうのは細かいところだから置いておいて、問題は大きいところ。手術同意書にサインを求める医者が、最初は「医者は裁判が怖い」と言っていて、それは職業的によい立場と思ったら、最後には「裁判沙汰になったら教授昇進がパーになる」という個人的な小さい立場になったこと。これが駄目だった。

なぜ駄目かというと、医療については、真面目に手術したのに逮捕、起訴されるという事件が実際に福島県で起こっている。これは結局無罪になったのだけど、当時はネットで医者や医療を心配する人たちが、こんなことじゃ医者なんかやってられないと結構話題になっていた。他に奈良県の話もある。こっちはもともと産婦人科が手薄だった奈良県南部で分娩可能な病院がなくなるという事態にもなった。医学は万能ではないので(それは芝居中でも当初の父親の誤解(現代医学なら輸血なしで手術ませんか)にもあった)、どれだけ一生懸命やっても救えない命はあるのに、手がけて失敗したら訴訟というならやってられないと思うのが普通。

それに、実際に裁判が始まったら、こんな対応こんな対応が必要になりうる。芝居中では西村雅彦が責任を取るかどうかに焦点が当たっているけど、実際に裁判になったら、電話の向こうで待機や手術をした医者も看護婦も裁判所に呼ばれる。救急搬送した隊員も呼ばれる可能性がある。それでたとえ無罪になったとしても、命を助けて訴えられたらそれだけで医者や看護婦は逃げる。

だから、医者や病院は裁判沙汰を避けるのが当たり前で、インフォームド・コンセントも輸血拒否事件が一般化の契機のひとつになったくらい。しかも芝居中では、父親は助けるために輸血してほしい、だけど後で訴訟を起こすとモンスター・ペアレントな発言を堂々としている。だから部長不在の副部長の立場だったら「現代の医学でも無理なものは無理、そんなことをされたら職員の時間取られるし場合によっては辞めてしまう、そうすれば今後助けられるはずだった多くの命も助けられなくなる、息子さんの心のケアも大事だが他の大勢の患者のために職員の無事と心のケアのほうが自分にはもっと大事である」と、少なくとも表面上は最悪見殺しになるのを覚悟するような立場を取ってほしかった。そうすれば、職業倫理と文化倫理との対立の構図に持っていけた。あるいは現代社会の矛盾を表現できた。

なのに単なる個人のエゴと個人のエゴとの対立に矮小化してしまった。さらに悪いことに、医者側が妥協してサインなしの手術にゴーサインを出すオチにして、なんとなく美しい精神論でめでたしめでたしにしてしまった。自分ひとりだけでなく他のスタッフにも裁判確実、最悪逮捕という影響が及ぶのが確実なのにこんな決断をする人間を美談に仕上げてはいけない。徹頭徹尾コメディでやってくれるなら「作り話だね」でいいけど、演技も演出も美術も照明も、シリアスなオチに向かっていたのでそうもいえない。現実がはるか先に進んでいるのに精神論の美談仕立てにした点で、この芝居は害悪と呼んでもいいと私は思う。そしてこれらの悪い点は全部脚本に由来しているので、これは三谷幸喜の失敗だと思う。もっとも、こういう議論を呼ぶための壮大な釣り針だという可能性もあるけど。

余談。私の勤務先(病院ではない)では毎年倫理教育というものが実施されて、その中の定番問題に「上司から不正とわかる指示をされた場合に従いますか(従いません、という回答を期待)」というものがある。この芝居は人命を巡って一時を争う芝居だからしょうがない面もあるけど、電話で「俺が責任を取るから手術しろ」と指示されたら、それはイコール法律違反が明白なわけで、指示された側は拒否してもいいと思う。自分の仕事なら「とりあえずメールでください」といって証拠をもらってからしかるべき人に相談する(幸いにしてそんな事態はまだない)。それに自分みたいな下っ端でも守らないといけない法律がいくつかあって、そのための仕事が増えたりするけど、法律はそれなりの理由があって成立したものだと思っているので、明白な理由がない(わからない)限りは、面倒でもとりあえずは従うほうがいいと考えている。

芝居の医者の立場を例に取れば、あとでもめないために一筆もらうことをルール化したわけで、それを拒否してしかも訴えるといわれるのであれば見殺しになっても訴訟はしない、というのを法律で明文化したほうがいいと思った。それがヒポクラテスの誓いとどの程度一致するかの問題はある。でも、助ける側のリスクが大きすぎたら誰もやらなくなるから、それは必要だと思う。

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2011年12月 8日 (木)

世田谷パブリックシアター企画制作「狂言劇場 その七 Bプロ」世田谷パブリックシアター

<2011年12月8日(木)昼>

土産の柑子を太郎冠者に預けていた主人が持って来いと命じたら「柑子」。源平合戦八島の浦の戦いで、海上の平家方から扇を掲げられて挑発された源氏方で選ばれたのは若干20歳の若者「奈須与市語」。哲学の問いに悩む沙悟浄が教えを請うて旅に出る中島敦原作「悟浄出世」。

他愛もない話になごみながら、なんでも語って話が進むのはシェイクスピアに似ているとぼんやり考えた1本目。ひとり語りや弓引きの迫力はすごいけど途中で呼吸が荒くなって大丈夫か万作と心配した2本目。挑戦精神は買うけど退屈で萬斎は演出やらないで別に演出家を立てたほうがいいと確信した3本目。1本目+2本目で30分強で、休憩はさんで3本目が2時間弱とバランス悪い。トータルの満足度は低いです。

会場ではAプロのボレロがすごかったという声があちらこちらで聞かれたけど、観ていないものはしょうがない。

短めですけど。

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2011年11月18日 (金)

キューブプレゼンツ「有毒少年」CBGKシブゲキ!!

<2011年11月17日(木)夜>

旅をする読書家と1人(?)の幽霊しか残っていない世界で、2人が語り合う15年前の話。そのころ残っていた人間たちが集っていた最大の都市ヘブンズパレス。ある日突然、すべての住人が名前を忘れ、奇形となり、子供が生まれなくなった都市で、当時その現象を免れた大公の娘と、生まれて以来地下で育って毒性のない環境に耐えられない有毒少年の、2人をめぐる物語。

吉祥寺に行こうか迷って、懐かしい名前と新しい劇場見たさに選んだ芝居ですが、駄目って言ってもいいでしょうこの出来では。これだけ役者が揃ってどうしてこうなった。

脚本は後藤ひろひとの「ダブリンの鐘つきカビ人間」を彷彿とさせるもので、インスパイア兼オマージュ兼リスペクトくらいの設定。起承転々結くらいの展開で、そんなに悪くない。主人公を演じた2人が何か嫌な予感がして、案の定下手だったけど、主人公の割に出番が少ないから他の場面が悪い理由にならない。2人だけで会話を進める読書家(三倉茉奈)と幽霊(六角慎司)の場面が全編を通して比較的安定していて、ノーマークだった三倉茉奈がちょっと気になる演技をしていたのは収穫。主役級の役者が惑星ピスタチオ調の演技で、やや大げさでも個人単位で見れば別に悪くないんだけど、それが勢いや流れにつながらない。それとは別にストレートな演技をする役者もいて、統一感にも欠ける。やっぱり演出なのかな。芝居の最中ほとんど寝っぱなしの客が1人いて、いびきが迷惑なことこの上なかったんですが、それを差引いてもあの出来では集中できない。

照明は惑星ピスタチオと同じ人でしたね。細い線と太い線の組合せだったり、床から手前向きに並べたり、懐かしかったです。

噂の制作部門ですが、上演時間情報がわからない、当日券販売の予定が載っていない、並ぼうとしても劇場前に並ぶ場所の紙1枚も案内がないのでどこに並んでいいかわからないなど、あまりフレンドリーとは言えない。ちなみに、当日券は1時間前から販売開始、並ぶ場所に迷ったらできるだけ劇場入口近くに陣取ること、休憩挟んで2時間40分、6300円です。

劇場は、200人強のキャパで非常にコンパクトにまとまって、客席の傾斜も含めて観やすい。その分、椅子の前後のスペースが詰まっているので、真ん中よりの席の人は開演してからだと入りづらいので注意。椅子はふかふかで背もたれ高め、ただし座面は低め。あと音響がよかったのは劇場設備のおかげなのか、高音低音とも好みな響き。立地のよさはやはり特筆もので、繁盛してくれることを願っております。

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2011年9月12日 (月)

劇団☆新感線「髑髏城の七人」青山劇場

<2011年9月11日(日)昼>

豊臣秀吉が天下統一を目指して関東攻めを準備している戦国時代。が、関東では、天魔王率いる「関東髑髏党」が北条一族を滅ぼして関東一円を手中にし、戦に備えて新たに城を築く一方、領内で狼藉の限りをつくしていた。それに対抗して村人を救った若者集団「関八州荒武者隊」と、通りがかって手助けをした正体不明の浪人捨之助。救った村人を送り届けたのは無界屋蘭兵衛が作り上げた、流れ者の色町として名高い「無界の里」。送り届けたまではよかったが、どうやら捨之助と蘭兵衛は知り合いらしい。やがて関東髑髏党の手は無界の里まで伸びてくる。

登場人物の多い芝居は粗筋を書くだけでも一苦労ですね。新感線の代表作と名高い一本に、これでもかと豪華役者を持ってきたキャスティングで、文句を言ったら罰があたるエンターテイメントに仕上がっていました。今の日本でこれを超えるチャンバラ時代劇笑いあり涙あり娯楽大作は、新感線自身でしか創れないでしょう。オールスタンディングオベーションとか久しぶりに見ました。

主役の三人(小栗旬、森山未來、早乙女太一)とかもっと飽きると思っていたんですけど、押しもよし、殺陣の切れもよしで、大劇場で主役を張るとはこういうことかと最後まで感心しっぱなしでした。特に小栗旬がよかった。小池栄子と勝地涼もかなりいい。でもゲストで一番目を引いたのは千葉哲也。出番が少ないのがもったいないけど、逆にあれしかない出番で何に惹かれたのかわからない。いや声に惹かれたのはわかるんですけど、あの声を出せるのがすごい。で、「文句を言ったら罰が当たる」と書きましたが、役者で唯一文句があるのが仲里依紗。このチケット代でその出来は見逃すわけにはいかない。でも芝居の勢いにも助けられたのか、歴代の二大大根テレビ女優と比べたらまだましな部類だったので、精進してください。とりあえずまっすぐ立てるようになってください。

そしてがっちり脇を固める新感線メンバーがまたいい。みんないいんですけど、あれだけ嫌な感じの髑髏党の役で嫌に感じさせない右近健一と、一際大きい拍手をもらっていた高田聖子を挙げておきます。高田聖子も出番が少なくてもったいなくて、それでいてそれだけでも客席を魅了できる役者ですよね。いま思いついて昔のキャスティングを調べたら、やっぱり豪華でのけぞりました。高田聖子は沙霧も極楽太夫もやっていたのか。

最近エンターテイメント芝居に辛口なのですけど、このくらいやってくれるとさすがに感心しきりです。でもこれを観たら他のいのうえ歌舞伎はしばらく観なくていいです。ロッキーホラーショーは観たいですけど。

で、芝居に文句はない代わりに、当日券運が足りなかったというか、五右衛門ロックとほとんど同じ悪い席をつかんでしまいました。今回は見切れこそなかったんですが、スピーカーが真正面で音量がきついし、反対側に役者が固まるので前列の割りに役者が遠いし、散々でした。五右衛門ロックのときはA席扱いだったのに、今回はS席っていうのは異議がある。あれは再考してください。

当日券の情報についていうと、前日電話予約が取れれば中には入れる、ただし立見の可能性もあり。電話予約なしだと販売順の抽選をして立見のみ、それも足りなくてキャンセル待ちになっていました。でも立見料金が8500円でしかも2階席最後方でさらに3時間越の芝居ですから、ぶっつけ本番で並ぶ前に電話予約に挑戦する事をお勧めします。

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2011年6月19日 (日)

世田谷パブリックシアター企画制作「モリー・スウィーニー」シアタートラム

<2011年6月18日(土)夜>

ある田舎町に住む盲目の女性モリー。夫は妻の視力を回復させようと様々な調査を重ねる。そんな時、かつて世界的に活躍していたが、事情があってキャリアをドロップアウトした眼科医が同じ町の病院に勤めていることを知る。手術をすれば妻の視力が回復すると信じる夫は、手術を引受けてくれるよう医者に直談判におよぶ。

劇団のDULL-COLORED POPが評判になったとたんに活動休止になって気になっていた谷賢一が、豪華なキャストを手にして、翻訳まで手がけた3人芝居。厚みを持った芝居が見事に立上がっていました。

もったいぶった粗筋ですが、物語の展開だけなら観る前からわかるような脚本です(冗談抜きで、ちらしから予想した通りの展開だった)。それをモノローグを多用しながら、その展開の途中の登場人物の心情をものすごく丁寧に描くことで、「見ることと見えないこと」という題材を具体化した。

そういう脚本は下手をすると脚本負けしてしまうのだけど、今回の3人はみんな役を自分のものにして、さらに魅力を増幅させていた。南果歩がヒロインの喜怒哀楽を、相島一之が過去をひきずる医者の葛藤を、小林顕作が自己完結しがちな夫の心情を、細やかだったり大胆だったりのバリエーションを持たせながら、それぞれ表現していた。モノローグを使いこなしていた。南果歩は以前の芝居でいい女優だと知っていたけど、相島一之のよさは今回初めてわかった。そして小林顕作ってあれだけハチャメチャやって誰だろうと思ったら、コンドルズその他いろいろやっていたんですね。

それで感心したのは、それだけハチャメチャをやっても芝居が崩れないだけの大きい枠を設定した演出。アドリブをやっていい場面といけない場面は区別していたと思いますけど、それでもすごい。日本語もまったく不自然なところはなかったのですが、翻訳にかなり意図を込めたらしく、どこまでがオリジナルか翻訳かはわからないのですが、仕上がった芝居のよさはわかります。

あと、今回はスタッフに恵まれた芝居だったのではないかと思います。観ていてスタッフワークを意識しなかった。けど思い返すと脚本と演出の両方の意図がいろいろ感じられます。でもそういういいスタッフワークだったことを承知で、この芝居はDVDだけでなく声と音だけの録音演劇としても残してほしい。目をつぶって台詞だけ聴いていたとしても、十分面白いはずですから。

ただ、これだけ強烈な作品が仕上がって、観たことに満足しているのに、口コミプッシュする気にはなれないんですよね。なぜと考えてみるに、こちらの構えを崩してくれるあとひと押しの何かがほしかった。それが役者の演技なのか演出なのかわからないのですが、おそらく両方に絡むなにかだと思う。

これで谷賢一の名を覚えたのですが、次回は8月にDULL-COLORED POPの活動を再開して、Caesiumberry Jam(セシウムベリージャム)というどうやら原発真っ向勝負の再演らしいです。そういう脚本をすでに書いていたということは頼もしいことで、今回の仕上がりと相まってその才能に注目です。ところが、その前に同じ劇場で自分の結婚式をチケット売って公開公演するそうです。才能あふれる人の想像力は理解できませんので、芝居だけ気にしておきます。

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2011年6月 6日 (月)

ナイロン100℃「黒い十人の女」青山円形劇場

<2011年6月4日(土)昼>

昭和の高度経済成長期。テレビ局のプロデューサーである風は、猛烈な数の仕事をこなす一方、妻帯者でありながら次々と女性に手を出す男だった。職場が重なっていがみ合うのにつかれた女性たちは、風の妻を巻きこんである計画を立てる。

映画原作の舞台化ですが、映画は未見。いかにもKERAっぽい演出だけど、多少ひねっているとはいえKERAでは観ないストレートな脚本。女優の競演を楽しむ舞台。あまり男女のあれこれの経験値が高くない男の感想という言い訳を先に書いた上で感想。

もともと女優陣に主眼を置いた芝居と思うけど、峯村りえの貫禄と、松永玲子の迫力と、村岡希美の情が見せ場。特に松永玲子はすごい。ナイロン100℃より武者修行を選んだころからめきめき実力をつけているけど、今回の迫力は圧倒される。十人の他の女優も決して悪くはないけど、この迫力の前に全部喰われた。そのせいで芝居がアンバランスになってつまらなくなったというくらいすごい。小ネタとしては、緒川たまきが声の演技を披露する場面で、もう展開がわかっていてあとは笑うところなのに、妙に上手で客席が笑い損ねてむしろ感心していたのが面白かった。いい芸を持っていますね。

一方、みのすけ演じる風は観て面白いけど、とっかかりがまったく見つからなかった。そういう人物として描かれているし、そこがみのすけの演技に合ってはいたのだけど。今回は、女性が観たら喜びそうな舞台。男の場合、身に覚えのある人が観たら面白いかも。

で、自分の結論は、原作の映画を観たくなった、むしろ原作の映画でよかった気がする。これを生で観ることによる迫力というのはあるんだけど、迫力じゃないんだ、最近の自分が芝居に求めるのは。それとも面白さを読取るだけのあれこれの経験値が足りないのか。足りないんだろうな。

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2011年5月30日 (月)

イキウメ「散歩する侵略者」シアタートラム(ネタばれ少々あり)

<2011年5月28日(土)夜>

ある町で3日間失踪していた男が保護された。知識に問題はないが、性格が大きく変わっていた。脳の病気ではないらしいが生活に困るため、別居中だった妻が面倒を見ることになる。男は少しずつ回復していくが、同じ頃、同じ町で、認識能力の一部が欠けた患者が次々と発生する。

調べてみたらイキウメではすでにこの芝居だけ再々演になっていて、それだけ脚本がよくできているからだと思うのですが、はたして素晴らしい物語でした。欠点も目立ちましたが、それを補うだけの魅力ある舞台というのが正確か。

1にも2にも素晴らしいのは脚本。ネタばれを承知で言えばLove&Peaceのひと言で済んでしまう内容で、うっかりすると「若えな」で終わってしまう話で、設定は荒唐無稽で展開は強引なんですけど、そんな事を気にさせない、それだけで終わらない何かが作用している。それが何かについて1日考えたんですけど、いまだにわからない。大きな背景と身近な現象という点では「東京ノート」を思い出しますけど、それと比べて、徹底的に身近なミクロの場面を描いて、それがラストに世界のマクロにつながるところがいいのかな。

そういう物語の面白さに、演出と演技が追いついていないように思う。役者でいいと思えたのは岩本幸子と大窪人衛で、主人公2人が弱い。劇中の日数の経過とか場面設定なんかも、適当に済ませたんじゃないかという点が散見。小劇場の欠点として衣装替えを嫌がるってのがあるけど、今回の演出ならそれは不自然。個人的にはテーマ音楽の音の悪さ(録音の悪さ?)も気になる。もっと言えば、脚本も部分的に整理する余地はありそう。

ところが、そういう明白な欠点が多数あるにも関わらず、いいんですよ。普通これだけ欠点があると、脚本が良くても評価は辛くなるんですけど、カーテンコールでまず「観られてよかった」という満足感が先にきました。そこが不思議なところ。

以上の感想を短くまとめると、こちらの方の感想に近くなります。「なにか奇跡が起きてる気がする舞台」というのが私の抱いた印象を説明するのにありがたい言葉です。ただ、明々白々に奇跡が起きるには粗すぎました。でも観たことのない人は観ておいたほうがいい。そういう不思議な芝居。ウェルメイドの上手な別の演出家でも観たいな。宮田慶子とか。

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2011年4月24日 (日)

パルコ企画製作「欲望という名の電車」PARCO劇場

<2011年4月24日(日)昼>

神経がまいった姉が、結婚してニューオリンズに住む妹を頼ってやってくる。気位の高い姉は、妹の夫とことあるごとに衝突する。自宅に遊びに来た夫の友人と親しい知合いになるが、妹の夫とは打解けない日々が続く。

有名どころで一度は観たかった演目を、松尾スズキ演出というので駆けつけました。満足しましたけど、まるで松尾スズキが脚本も書いたかのような、こんな救いのない話だとは知らなかった。ところどころで遊びはありますけど、たぶん脚本には忠実。そしてヒロインの嫌な部分、弱い部分に集中した演出など、「キャバレー」に似ているものを感じた。

池内博之もよかったのですが、圧倒的に秋山奈津子がよかった。秋山奈津子でなかったら途中でペットボトルを投込んでいたんじゃないかというくらい駄目な女(投込まないけどさ)。よくあんな演技を貫徹させられるなと変な視点で感心した。それに比べると鈴木砂羽は、悪くないけどよくもない。あの姉に対して、妹がふわふわしすぎ。でもそれもどうでもいいくらい秋山奈津子につきる。

あと映像が松尾スズキらしくない、ナイロン100℃っぽいと思ったら、ナイロン100℃の映像と同じ人が手がけていました。気持ち悪いのがマッチしている。

ただ、つらい話なので、できれば地震の前に観たかった芝居ではある。3時間10分と体力も要求される。

ちょっと疲れているのでこのくらいで。

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2011年4月 4日 (月)

パルコプロデュース「国民の映画」PARCO劇場

<2011年4月2日(土)夜>

1942年のドイツ。映画への肩入れ著しい宣伝相ゲッペルスは、ひとつの企画を胸に、有名な映画関係者を招いたパーティーを催す。次々と現れる招待客だったが、招かれざる客が含まれる。微妙な緊張感の中で進むパーティーの行方は。

3月はいろいろ難しかったので千秋楽直前に行ってきました。ほとんど実在の人物で構成した舞台だったのでリアリティの担保はしやすかったかもしれないけど、それを差引いても今の現実に負けない芝居。地震があっても公演続行しただけのことはある。商売を抜きにしても、これを公演中止にするには惜しすぎる仕上がり。

主要人物を演じる小日向文世、段田安則、白井晃の3人の対比がすごい。特に白井晃にあんなはじけた演技を付けた演出は目の付け所が違う。他の役者が抑えるところは抑えて演技していたこともあるけど、風間杜夫すら霞む。

脚本なんて、ほぼすべての台詞が、登場人物の内面を想像させるか、またはそのための伏線になっている。それを芸術論や映画論を軸に、実に面白く、無理のない物語で展開させている。それが最後に、三谷幸喜らしからぬエンディングに集約される手際は圧倒的。そして美しいピアノに、最初どうなっているかわからなかった美術。

惜しむらくは、どうしても女性陣が脇に回るというか、本筋を引きたてる脇のストーリーの盛上げ役に回ってしまうこと。話や舞台設定を考えるとしょうがないのだけど、色気に欠けるのは三谷幸喜の数少ない弱点が今回も出たと言える。でもこの仕上がりなら許す。昔、松尾スズキが「有頂天ホテル」を観て、もう三谷幸喜は有頂天になっていい、と評したのを思い出した。

でもなあ、芸術論で走るのは「コンフィダント」でもあったことで、むしろいいことなんだけど、喜劇作家を任じる人がどうしてあのエンディングに着地したのがわからない。年をとって感動大作で名声をほしくなったとか、たまに黒い話を書いて吐きださないともたないとか、今後海外展開して稼げる脚本を狙ったとか、いろいろ理由は考えたけど、ひょっとして「演劇は時代を先取りする」の言い伝え通り、日本の不穏な時代の到来を予感してしまったんだろうか。そうでないことを願いたい。

見損ねた人は横浜公演を見逃すな、って書こうとしたけど、原発が段々それどころじゃなくなってきているので、無理するな、と書換えておく。

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