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2019年4月16日 (火)

シス・カンパニー企画製作「LIFE LIFE LIFE」Bunkamuraシアターコクーン

<2019年4月13日(土)夜>

 

天体学者の夫と金融機関に勤める妻。子供を寝かしつけるのに苦戦している。そこにやってきたのは夫のボスとその妻。翌日がディナーのはずだったが1日間違えていた。しかたなくありもので間に合わせて応対するが。

 

この応対を3パターン見せるので「LIFE LIFE LIFE」。気の持ちようで人生が色々代わる人と、どの人生でも変わらない人生になる人との対比が脚本のメインかと思われる。でもそこをそんなに強調せず、喜劇を追求したKERA演出。これでもかと受ける客席もすごかったけど、昨今のKERAのぎっしり詰まった芝居からすると1時間半でかなりあっさりした仕上がり。全員いいのは言うまでもないけど、ともさかりえの、ほんのちょっと誇張した演技がものすごく魅力的ということに今さら気がついた。

 

四面客席の舞台を回転させながらなるべく全方面に見せようとするのは「バージニア・ウルフなんて怖くない」のときと同じ。その再演のために同じメンバーを集めたのが流れてこの芝居になって、確かに面白くて文句のない仕上がりだったけど、この豪華メンバーならやっぱり再演が観たかった。

 

あわせて気になったのは、一度は再演を発表したのに、数日で流れて、すぐにこの演目が代案として発表されたこと。別の企画のために上演権を獲得済みだったのかもしれないけど、あんなにすぐに、この4人にぴったりの演目が出てきたのはすごいこと。毎日1本は脚本を読むという辣腕制作者の見事な腕前だった。

 

<2019年4月16日(火)追記>

ネタばれに対して雑すぎた記述を修正。

2019年3月15日 (金)

青年団「思い出せない夢のいくつか」こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2019年3月6日(水)夜>

歌手とマネージャーと付人が、営業先に移動するために夜中の電車に乗っている。煙草を吸いに行った別の車両では、妙な乗客に話しかけられて辟易とする。車中のこととてたいしたことができるわけでもなく、取りとめもなく交わされる会話の数々。

あれと言えばこれと返せるくらい話が合う付合いの長い歌手とマネージャー。別の人間と結婚数ヶ月で破綻した歌手はマネージャーにひそかに好意を寄せているが、独身のマネージャーは歌手がいないときに「夫婦が似るって本当ですか」と聞く若い付人に懸想する。それを察していながら知らん振りして若い付人を遠くへやれないか考える歌手。三角関係の事情がわかるにつれて、何気ない会話が手に汗握る牽制に見えてくるのが見所。別の車両の乗客に銀河鉄道の夜の登場人物を引いて先行きの不安を醸しだしながら、見方のわからない星座盤でこれからの混乱を暗示する手際。

静かな演劇に見えて内面は全然穏やかではない脚本は、これが新作ならさすがベテランと書くところ、初演は1994年2月で25年前。その次が「東京ノート」という初期絶好調時代の1本。なおタイトルは俵万智の短歌から無意識に引用した(気がついて後日許可をもらった)と当日パンフの弁。

ポーカーフェイスのマネージャーを演じた大竹直、付人で歌もいい藤松祥子も好演だったけど、歌手を演じて久しぶりに出番の多かった兵藤久美がいわく言いがたいけど実に良い感じ。

今回の「平田オリザ展」は観たことのない芝居ばかり3本観たけど、どれも夫婦とは何ぞや、という芝居ばかりだったのは偶然か狙ったのか単に少人数芝居を選んだらそうなったのか。あとこの大量の芝居を交代で上演するために美術は共通化して簡単に入替えられるようにしているなと思っていたけど、今回の1本はいきなりごつい美術になっていて、壁や線路をどんなパーツで構成していたのかが気になる。あの狭い劇場でそんなに簡単に入替えられるのか。

青年団「隣にいても一人」こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2019年3月6日(水)夕>

ある朝、目が覚めたら、なぜかわからないけど夫婦だという認識を2人とも持って同じアパートにいた男女。双方の兄と姉が夫婦なので以前から知りあいではあったが、昨日の晩はそれぞれ自宅にいたのに、なぜこうなったのかわからない。とりあえず兄と姉に相談してみるが、どちらにも言い分が伝わらなかったり誤解されたりする。

Aチーム。夫婦だという認識をもっている2人は日常の些細なところから食い違うのに、離婚したばかりの兄姉夫婦のほうが話が合うという対比。発端となる設定こそ突拍子もないけど、それ以外は青年団らしいウェルメイド(で言葉あっているかな)な会話劇。客席から和やかな笑いの絶えない芝居。夫婦はどうやって夫婦になるのか、を描いた小さな傑作。

一度手に取ったパンを皿に戻す戻さないという流儀ひとつでまだ互いに慣れていない状況や同じ環境で育った兄弟であることを表したり、実は兄姉夫婦が離婚していたことが少しずつわかったり、最後の場面で歯磨きとパジャマで今後を想像させつつやり方は違っても噛み合っているところを見せたり、それらを不自然に思わせないように別の展開に混ぜて紹介しておいたりする構成も見事。厳選された情報を適切な順番とタイミングで出す展開は、芝居はこうやって作るんだというお手本のようだった。

2019年2月23日 (土)

青年団「走りながら眠れ」こまばアゴラ劇場(ネタばれあり)

<2019年2月22日(金)昼>

アナキストとして名を上げていた大杉栄と、婦人解放運動や奔放な恋愛で有名だった伊藤野枝。四男を出産する直前から関東大震災直前までの数ヶ月に、その活動からはあまり想像できない、自宅で交わされる繊細な会話の数々。

夫婦のじゃれあう場面のそこはかとないエロに初期っぽさを感じると思ったら、初演が1992年という超初期の作品。日常の夫婦の会話がただただ続く2人芝居だけど、死にまつわる話や憲兵の尾行の様子などは、間もなく憲兵に殺される史実を知っている現代の観客向けのダミーというか背景を補強する話。それらの間に、少年時代に犬や猫を殺して、長じてアナキストにまでなった男が、子供の将来を気にするいい父親に「堕落」していく様子を、翻訳中のファーブル昆虫記のオサムシの話(メスがオスを共食いする)で代弁させて、当時すでに完成された脚本の腕前を見せてくれる。

青年団歴の長い能島瑞穂と古屋隆太による会話は、実在の人物を題材に取っていることもあってか、台詞以上の密度や年月を感じさせる。あとこの2人は声が聞いていて気持ちいい。今が観ごろの完成形で、たぶん台詞を2回トチっていたけどそれも台詞かもと思わせる安定感。いかにも青年団という芝居で、日程を曲げて観ておいてよかったと満足感で一杯の1本。

<2019年3月3日(日)追記>

感想を書いた後で思いついたけど、これ、結婚して子供が出来たら演劇を止めていく演劇人への当てつけで書いたんじゃないのか。

2019年2月12日 (火)

渡辺源四郎商店シェアハウス「過ぎたるは、なお」こまばアゴラ劇場(ネタばれあり)

<2019年2月11日(月)朝>

青森県の、とある施設。かつて2人の息子を育てた母が入居している。入居している人たちは、仲よく過ごす人もあり、部屋で引きこもる人たちもあり。そこに新しい入居者がやってくる。

実にあらすじの書きにくい話だけど、重い話を別の話で包んで、1時間半ないと思えない密度。さすが長年やっているだけのことはある仕上がり。

実は早くになくなった母の代わりに導入されたロボットで、プルトニウムを燃料に半永久的に動くはずだったのに、エネルギーに欠陥が見つかり処分されるところを施設に入り、という背景はそのまま原発事故の敷衍。それを、少しずつひっかかる情報を提示しながら引張り込む。そこに、他のロボットが待つ恋人の話とか、育てた息子達が思惑をもって面会にやってきてからのいきさつを混ぜて、人間とロボットの「人間らしさ」の話に一気に振る幅の広さ。さらに、災害の話とか、ロボットの扱われ方の話とか、ガリガリ君の歴史(笑)とか、情報をちら見せして世界の奥行きを広げる手腕。青森は処理場があるだけにより実感のある話題だろうけど、重い話への重い抗議も間接的に示して芝居らしさも失わないバランス感覚は、さすが長年やっているだけのことはある。

終演後の話だと、畑澤聖悟と工藤千夏が交互に書いて、相手が書いた部分も勝手に書き直して、という手法で書かれたとのこと。どこがどちらの書いたものなのか気になる。役者はひとりくらい青年団出身の人が混ざっていると思ったけど、全員地元の人らしい。大千秋楽だったとはいえ至近距離に耐える演技。凝っているようでいてシンプルな舞台を飽きさせずに使って、まったく文句なし。もっと早くから観ておけばよかった。

遠征の都合で連休のときにしか上演できないとはいえ、東京では追加含めて4日間6ステージしか上演しないのだから、贅沢な話。ただし次回はGWを使ってスズナリで6日間8ステージ。

<2019年2月13日(水)>

感想を清書。

2018年12月15日 (土)

Bunkamura企画製作「民衆の敵」@Bunkamuraシアターコクーン

<2018年12月14日(金)夜>

ノルウェーの田舎町。見つかった温泉を整備して保養にふさわしい地域として宣伝し、町が活気にあふれている。が、温泉整備の発案者であるドクターは、保養客が病気になったのを不信に思い調べたところ、採取ルートが悪かったため汚染されていることがわかる。この事実を公表しようとするが、市長で温泉施設長も兼ねる兄は影響の大きさから発表を見合わせるように弟を説得する。それでもドクターの発表の意思は変わらなかったが、兄は具体的な町の損害を算出してドクターに賛同する人たちの説得を開始する。

イプセンでまだ見たことのなかった一本。タイトルが半分ネタばれだけど、実に設定の上手な、これは揉めるに決まっているだろうという状況で意見を変える人たちの姿を描いた秀作。自分には多数派がついていると最初にドクターに言わせて、後で多数派を非難するというあの脚本の意地悪さ。

加えて演出で上手だったのが、堤真一演じるドクターを単なる正義の味方にせずに、日常生活にやや想像力の欠ける人間として描いたこと。町の住人が、持っている土地や株券がパーになったり、失業したり、そこまで可能性を考えてなお決断するなら立派だし、そこまで考えたら行動に移れないとも思うけど、あの態度では他人事ながら手のひらを返されても不思議ではない。盗人にも三分の理というけど、観ていて市長や記者や不動産協会会長の立場に感情移入の対象が移ることが一再ならずあって、その点では芝居として実によいバランスだった。観た人に、誰の意見に賛成するか訊いてみたい。

編集長の谷原章介と、不動産協会会長の大鷹明良がいい感じ。兄で市長の段田安則と、ドクターの一家に味方する木場勝己は実にはまっているのだけど、個人的にはいつも似た役どころで観ているので、逆の役で観たかった。あと、音響が実に上手。普段は舞台から飛んでくるような音だけど、今回は劇場に音が湧いて充満するような音響だった。あれは劇場改修の成果なのか、今回の音響デザインがよかったのか、知りたい。

2018年10月30日 (火)

青年団「ソウル市民1919」@こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2018年10月27日(土)夜>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。初代の大旦那は病気で寝込んでおり、孫娘は離婚して戻ってきているが、息子達が手がける商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客をおいて裕福に暮らしており、興行のための相撲取りまで呼んでいる。が、朝鮮人の使用人たちの姿が見えない。表通りでは朝鮮人たちが大勢集まっているという。

1919年の3月1日に行なわれた三・一運動を背景にした芝居、と言っても当日パンフに書かれていた通り、三・一運動というものは私も知らなかった。日本からの独立を目指し(て失敗に終わっ)た運動が始まった日を借景に、内地(日本)に嫁いで憧れていた日本が嫌になった長女とか、大喰らいを責められたり八百長の興行師に従ったりするのが嫌になって憧れの南国を目指して退去する力士とか、日本から京城に来て居ついているオルガン教師とか、日本から独立する人たちを描く。それが同時に、独立できない、独立という発想すらない日本人を描くことにもつながる。冒頭から、ほぼ朝鮮育ちなのに漢字混じりの朝鮮語のビラが読めないという場面が象徴的。内地に行って初めてあんなに大勢の貧乏な日本人を見た、何もかもがじめじめしている、朝鮮のほうがいい、という長女の台詞は、「中橋公館」で描かれた日本への距離感に似ている。

昼に観た「ソウル市民」が嫌な面を上手に切取って描いたのに比べると、こちらのほうがより日本人への批判精神が多い印象で、その点に2000年初演、「ソウル市民」から11年の差が感じられる。替歌の東京節で締める終わり方、とりあえず歌で締めるのは近作の「もう風も吹かない」や「日本文学盛衰史」でもあったけど、このころからすでにやっていたのだと発見。

役者はもういつも通り、好きな人でも好きな役でも選んでくれという出来。そこから無理矢理名前を挙げると、「ソウル市民」と2本通して中心どころで活躍したのが山内健司と荻野友里、2本通してジョーカーのような立場をきっちり演じて世界観を拡げたのが太田宏と木崎友紀子、2本通して似たような役でも幅の広さを出して見せたのが井上みなみ。

終わってから渋谷に出たらハロウィンの仮装だらけで、100年前から現代にワープした違和感があった。

青年団「ソウル市民」@こまばアゴラ劇場

<2018年10月27日(土)昼>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客もおいて裕福に暮らしている。いつになく来客が多い一方、出かけるものも多い。来てほしい客が来なかったり、来てほしくない客が来たり、いつの間にかいなくなったり、なぜか出かけていったり。

日韓併合が1年後に予定されている1909年を舞台に、というのは分かっているけど、今どき朝鮮人という単語が出てくるだけでどきどきする。朝鮮人を対等に扱っているつもりですでにそれが差別意識の発露とか、朝鮮人の使用人がいる前で朝鮮の悪口を言ってフォローするとか、フォローがフォローになっていないとか、あの手この手で本人たちが自覚していない差別感を極めて自然に描く。朝鮮人に文学は難しいといいつつ日本語を間違える長女に、実は熱心に日本語を勉強している朝鮮人の使用人が日本語の間違いを指摘する場面だけでも、凡百の脚本化が到達し得ない領域。

最近の芝居よりは、少なくともこの後に観た「ソウル市民1919」よりはシャープに思えて、でもそれもほんの少しだけこなれ方が足りないくらいのもの。登場人物のそこここに色恋の気配が漂うあたりは、「S高原から」や「カガクするこころ」のような初期らしさを感じさせる。近代口語演劇はこのとき描く対象を見つけたと平田オリザは当日パンフで書いていて、1989年の初演からどれだけ脚本に手が入っているのかは知らないけど、30年経った今観てもまったく古くない。追加公演も出ているので観たことのない人はこの機会にぜひ。

2018年8月28日 (火)

キョードー東京企画招聘「コーラスライン」@東急シアターオーブ

<2018年8月23日(木)昼>

ブロードウェイのオーディション。主要な役ではなくコーラスダンサーのオーディションだが、それでも競争は厳しい。最終候補に残った16人の候補者から採用されるのは半分だけ。何としても仕事がほしい候補者たちに対して、履歴書に書いていない自分のことを話してほしいと演出家は依頼する。ライバルを前に候補者たちが話すのは、自分の子供時代から今の環境まで。

名前だけ知っていて観たことがなかった有名ミュージカル。候補者のスピーチとそれを聞く他の候補者の内心の声とを歌にしつつ、演出家も含めてのあれこれを上手に2時間にまとめる手際のよさ。所々に華やかさはあっても、事前に想像していたミュージカルらしくないというか、全体に候補者の話が暗いというか湿っぽい話に寄っていて、希望を述べる場合もその前提にあまりよくない境遇がついくるような話。いろいろあってもオーディションは厳しい、ましてやコーラスダンサーのオーディションに応募してくる人たちの生活もお察し、というドライな競争世界が極端に日常化したアメリカショービジネス界ならではこそ、ラストのあっさりさも含めて、この湿っぽさが潤いとして成立すると思われる(別に日本が厳しくないというわけではなくて、日本だとさらに湿っぽいほうに偏ると思う)。

構成では、もう少しダンスが多いかと思っていたけど、歌がメイン。歌と演技は上手くて、だいたい台詞の量と役者の力量が比例して、そこにも厳しさを感じる。ただダンスはそこまで感心できなかった。コーラスダンサーだからそんなに上手い設定ではないけど、わざと下手にしたのではなくダンスはそこそこで見切った印象で、そこが不満。あとオケか音響かわからないけど、音楽が薄く、立体感に欠けた。

一度は観られてよかったけど、来日公演とはいえこれでS席13000円は高いという感想。いろいろなパートが、もう少しずつ何とかしてほしかった。

2018年7月30日 (月)

DULL-COLORED POP「1961年:夜に昇る太陽」こまばアゴラ劇場(ネタばれあり)

<2018年7月23日(月)夜>

1961年の福島県双葉町。農家の長男は東大生だが家業を継がずに物理学を生かした仕事に就きたいと実家に頼むために帰郷する。次男は理解するも祖父とは喧嘩になる。その長男が帰りの汽車で一緒になった「先生」は町長の家に用事があるという。そのころ町では山高帽をかぶった怪しい男が目撃されるが、農家の三男たちは少年探偵団気分で正体を突き止めようとする。

福島三部作と銘打った連作の一本目。家族の対立を描く場面や、三文芝居的なラブコメや、人形を使った少年達など思いっきり素っ頓狂な場面を前振りに、双葉町に原発が誘致されるまでを描く。三部作で時間に余裕があることもあって、そのころの東京にいる人間からみた未来と科学技術がどのくらいまぶしかったかと、住んでいる本人達が認めるくらい双葉町がいかに貧しかったかとを、あの手この手で描く。

その後にくる、誘致のための土地の買収交渉の場面の思惑の交差。科学を信じつつ営利企業としても行動する者、この機会を逃さずに発展につなげたい町長たち、長男から実家を継がないと言われて言い分は分かっていても絶望していたところに転がり込んだ機会に悩む祖父の、三者三様の立場。調査と取材をした結果とのことだけど、これが本当なら、誘致をした側も受けた側もこうやって行動するよな、自分がその時その中の一人だったら同じ決断をするよな、という気にさせられる展開。前回公演の「演劇」でもあったように、この山場の場面の関係者もとても演劇的な立場に置かれて、ある人は自分から、ある人はやむを得ず、演劇的に振舞うように追込まれていく。

この場面が、何と言うか、いかにもありそうなやり取りで世の中は演劇的な場面にあふれているのだなという感想と、演劇で演劇的な場面を上演しているのにこれは事実に基づいて構成されたのだという事情と、その後に事故が起こるということを知っていることとが混ざって、観ていて胸焼けするような場面だった。

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