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2019年9月19日 (木)

シス・カンパニー企画製作「死と乙女」シアタートラム

<2019年9月15日(日)昼>

独裁政権崩壊後。弁護士のジェラルドは反体制派だった実績を買われて旧政権の犯罪を調べる調査委員会の一員に任命される。その帰宅途中、タイヤがパンクして偶然通りかかった医師のロベルトに送り届けてもらう。ところがその声を聞いたジェラルドの妻ポーリーナはおびえだす。ロベルトが帰り夫婦の相談も終わった深夜、ジェラルドが調査委員会に任命されることを訊いたロベルトが戻ってきてお祝いを述べる。ジェラルドは遅いから泊まっていくように勧めるが、2人が寝静まった後にポーリーナはある行動を開始する。

ドイツ芝居だと思っていたらチリ芝居だった。チリという単語は出てこなかったけど、脚本家が独裁政権時代のチリで過ごした経験を元に書いたとのこと。雑に要約すると、かつて酷い経験をして復讐を誓っている人間が、その復讐を行なうことが次の酷い経験を生み出す状況におかれて、復讐を行なうことは是か非かという3人芝居。大人の芝居だけど若干バランスが悪い。

役者は宮沢りえが全力をぶつける仕上がりで、全力が素晴らしすぎて他の2人が負けている。あれでは2人がかりでも止められないので、そこを宮沢りえを矯めずに調整する道を探してほしかった。あとこれだけの芝居なのに演劇的爽快感にやや欠けていて、観客を結論に誘導するための演出が入っているような作為的な印象を受けた。たぶん段田安則の役作りに起因すると思う。演劇で作為的もへったくれもないのだけど、3人がぎりぎりで戦えば後は何とかなる脚本だったので、中途半端なリアリティよりもエネルギーや欲求のぶつけ合いを優先してほしかった。

散々ケチをつけているけど、観終わったらしばらく頭がぼうっとするくらいのラインは軽く超えている芝居。これで1時間半。海外の芝居は短時間で密度の濃い芝居が結構ある。今回の芝居は独裁政権崩壊という事実の前提があるけど、それにしても1時間半でここまで濃い芝居を日本で見つけるのは難しい。日本が舞台だと一見平穏な雰囲気の構築が重要だから時間がかかるというのはあるけど、それにしてももう少しこういう芝居があってもよさそうなのに。

2019年9月17日 (火)

ホリプロ/フジテレビジョン主催「愛と哀しみのシャーロック・ホームズ」世田谷パブリックシアター

<2019年9月14日(土)夜>

シャーロック・ホームズがワトソンとベーカー街に居を構えてから1ヶ月。スコットランドヤードのレストレード警部はホームズの才能を借りようとするが、本人からクイズを出されて追返される始末。そこに突然やってきて気絶した女性。目を覚ましてから事情を聞くと男に追われていたという。女性の話に観察結果と矛盾する点もあるのを気にしながら出かけたホームズだったが、その事件の裏には・・・。

原作の不明点を突いて架空の設定を仕立てる点、熱心なファンほどニヤニヤするように原作からいろいろ設定を借りつつホームズを知らない人でも楽しめる点、でも原作と矛盾が生じないようにつじつまを合せる点、謎解きは用意するけどそこに入りこまないで喜劇をメインに据える点、いずれも二次創作としてかくあってほしいポイントを抑える三谷幸喜の腕前はさすがファンというだけのことはある。原作を全部読んだことがある身としては満足。

そしていい役者をそろえるのも腕前のうちの三谷幸喜で、全員楽しめる。横田栄司のマイクロフト・ホームズがよかったのは事前の想像通りだったけど、八木亜希子のミセス・ワトスンがかなりよかったのは想像外だった。ハドスン夫人のはいだしょうこを差置いて歌ったりもするけど、それも(略)。むしろ柿澤勇人のシャーロック・ホームズが一番似ていないと思いながら観ていたけど、カーテンコールを観たらシャーロック・ホームズだった。いじけたり退屈したりする場面の多い役だったけど、あれはもっとシャンとした立姿の場面を多めに用意するべきだった。話としてそうなるのはやむを得ないけど、そこだけはもったいない。

チケットはいい値段だけど、いい値段分なだけきっちり楽しませてくれる。こういう芝居がもう少し増えたりロングランしてくれたりすると、客の選択肢が広がっていいのだけど、難しいか。

2019年8月25日 (日)

ワタナベエンターテインメント企画製作「絢爛とか爛漫とか」DDD青山クロスシアター

<2019年8月24日(土)夜>

大正時代。小説家と批評家の若者4人。処女作の評判がよかったものの第2作が書けなくて悩む男をよそに、他の3人は執筆も恋愛も楽しんでいる。月日が経つごとに事情が移り変わる春夏秋冬1年の様子を描く。

1993年の初演にして方々で上演を見かける有名作をようやく観劇。文学に対する態度と生活に対する態度と、それを許される環境と許されない環境、その他諸々。一言でいうと、若い。若いころでないと書けないであろう直截的な台詞の押収は会話劇というより論争劇で、だけどそれぞれの言い分がよくわかる。元ネタがありそうな作家4人の登場人物は、脚本家の頭の中で戦う分身を書き出して結論を出したような会話。ただ、その言い分が脚本家の頭の中で戦っていたんだろうなと思えてしまった一幕が微妙。後半はかなりノッてきたけど前半を取返すにはいたらず。ここからスタートしてもっと目指してほしい。

ただ観た回はそのノッてきた後半にハンデがあって、大きないびきを書いて寝ているおっさんがいた。2幕くらいからすでにうっすらいびきをかいていたけど、3幕後半から4幕ラストまでが盛大ないびきになって、特に作家、脚本家の境地を一人語りで聞かる4幕が台無しだった。届く範囲なら蹴っ飛ばしたのに、という状態。

感想は、もう一度まともな状態で見直したいのと、過去の公演をさっさと観ておくべきだったというもの。ただこの脚本は大正時代が舞台で、かつ文学論争にして創作論争なので、美術と衣装に多少手間はかかるけど、古びないのがいいところ。そのうちまた上演されるはずなのでその時もう一度観たい。あと今回男性版(モボ版)だけど女性版(モガ版)もあるようなので、そっちも観たい。とにかくもう一度まともな状態で見直したい。

2019年7月23日 (火)

世田谷パブリックシアター企画制作「チック」シアタートラム(若干ネタばれあり)

<2019年7月20日(土)昼>

父は仕事が上手くいかず浮気、母がアルコール中毒で両親の諍いが絶えないマイクは、学校でも目立たず目だった友達もいない。14歳のとき、同じ学年にチックという男子が転入してきた。特に絡むこともなかったが、夏休み前の最終日にクラスメートの女子の誕生日パーティーに誘われず一緒に帰ることに。その日は母がアルコール中毒のリハビリ施設に出かけ、父が浮気相手と旅行し、2週間は一人ですごすことに。そこへチックが「借りた」車でやってきて出かけようと誘う。なぜか車に乗ってしまったマイクだが、そこからどんどん遠くへ出かけることになるひと夏の物語。

2年前の初演の評判がよくて早くも再演された一本。ドイツの元は児童文学らしいけど、日本語の児童文学という言葉よりはもう少し上の年齢層、小学校高学年から高校生くらいがストライクとみたけど、それより上下の年齢でも十分楽しめる。旅先の出会いと友情、と片付けるにはもったいない物語。面白いだけでなく厳しい要素も入っているのが特徴で、マイクの両親に厳しい設定を当てたり、旅だけで終わらずその後始末まで描くところが今っぽい。

成功の理由はたぶん3つあって、ひとつは役者に恵まれたこと。チック役に柄本時生を当てて、ここに見た目から入れたのは大きい(笑)。終盤、裁判の説明から裁判官の説教に感じ入る場面、あれはよかった。土井ケイトのイザ役もスピンアウトするのがわかる魅力的な役づくり(リーディングまでは手が回らなかったのが残念)。ただ初演組を差置いて一番はまっていたのは今回唯一の初参加となる那須佐代子。今回マイクとチックは専任で、5人のうち他の3人が複数役を演じた中で、アル中の母親の場面は暴れる中にもいろいろな暴れ方を入れて、他の役では遊べるだけ遊んで、最後に何でも放り込む場面がいい。これまで何度か観ているけど、この人はやっぱり只者ではない。

二つ目はおそらく美術。天井のパネルがいろいろ活躍して最後もいいのはわかるけど、下は中央に四角い回転舞台、あとはシアタートラムの素舞台壁沿いにいろんなものを置いていただけ。そもそも多少の傾斜と階段があるだけの舞台を回転させるのは人力。それを回転させて何が変わるのかわからないけどいい感じになるのが不思議。美術がいいのか照明がいいのか迷うことが多いけど、今回は美術の要素が強かったと思う。劇場自体が持つ雰囲気を最大限使い切った引算の美術というべきか。最近よく名前を見かける乘峯雅寛の好調な仕事。

最後に翻訳。後で思い返して翻訳っぽくなかったことに気がついた。演出家本人の翻訳とのこと。元の話がしっかりしていたとはいえ、あれは役者と翻訳とどちらの功績が大きいのかわからない。たぶん翻訳のほうが強いはず。

あと直接関係ないけど、ロビーのポスターがスタンド・バイ・ミーとかハックルベリー・フィンの冒険とか夏の思い出とか、狙っていることに休憩時間に気がついてニヤリとしてしまった。たしか世田谷パブリックシアターはずっとポスターハリスカンパニーがポスター展示をやっていたはず。タイトルだけ知っていて中身のわからないポスターもあったので、誰か有志が解説してくれると嬉しい。

休憩を挟んで2時間45分という長さを感じさせなかった中で残念だったのは、もう少し若いときに観たかったなというのがひとつ。あと年齢層の高い客層でストライク世代が全然いなかったのがもうひとつ。中学生高校生だと部活で夏の大会の直前または真っ最中かもしれないけど、見切れのない舞台で当日券はまだいけたし、U24でチケットほぼ半額になるのでぜひ。もちろん大人でもぜひ。

2019年7月17日 (水)

青年団国際演劇交流プロジェクト「その森の奥」@こまばアゴラ劇場

<2019年7月14日(日)夜>

マダガスカルにある研究所。日本主催で猿の進化について調べていたが、資金難につき日韓仏の多国籍プロジェクトとなる。さらに研究を進めるためにスポンサーを求めているが、候補の企業は猿を使ったアミューズメントパークを検討している。その企業の担当者による訪問と、研究員の新メンバーの着任とがたまたま重なったある1日の話。

場面ごとに日本語と韓国語とフランス語を切替えて上演するのかと思ったら、同時通訳機を登場させてチャンポンで上演するという力技。同時多発会話では日本語は声で、韓国語とフランス語は字幕で、字幕画面も1画面中の左上と右上に別々のグループの会話を寄せて区別するというこれも力技。これの何がすごいかというと、チャンポンなのにいつもの青年団とまったく変わらないノリの芝居が観られる。さすが役者にもロボットにも同じ演出をつけるという平田オリザ、多国籍ごときではびくともしなかった。

昔の「森の奥」という脚本を再利用して仕立て直した脚本(だから「その森の奥」とのこと)は、日本を一番格好悪い立場に割当てるところはまあしょうがないけど、韓国もフランスも含めて満遍なく意識でも歴史でも駄目なところを取上げて、その点では平等ないつもの平田オリザ節。この座組に旧フランス植民地のマダガスカルを選ぶところがセンス。スポンサー候補の企業は日系かと思わせて本社が中国というのも今っぽい。歴史に対する意識の場面もスリリングだったけど、猿と人との境目を考えさせる芝居の途中で、まったく関係なさそうに、でも「境目を考えさせる」つながりで、シンデレラの靴がなぜ日付が変わっても元に戻らないかの話を混ぜるあたりの小技もきいている(そしてちゃんと後への伏線にもなっている)。

一番好きだったのは、研究に使う猿を選べないかという話題のとき、全員が会話に集中する最中、決定権を持つひとりである日本人研究者が上手側でうーんそうは言ってもなーという顔をして手を頭の後ろで組んでいた場面。あの迷っていて決めようがない顔と態度がこの芝居の日本人で一番日本人らしいなと思った。

毎度たっぷりの情報量で、90分とは思えないおなか一杯の1本。これならフランス組の「カガクするココロ」でサビの場面がどうだったかも観たかったと悔やまれる出来。ひとつだけ誤算だったのは、同じ日に進化論を観ることになるとは思わなかったこと。どうしてこんな演劇で取上げそうにない設定なのにかぶるかな。

2019年6月10日 (月)

KERA・MAP「キネマと恋人」世田谷パブリックシアター

<2019年6月8日(土)夜>

昭和初期。勤め先の工場が倒産して失業し酒とギャンブルと浮気におぼれて暴力を振るう夫を持つ女は勤め先に内職を掛け持ちして家計を支える。そんな女の唯一の趣味は映画鑑賞。東京から遠く離れた離島の町に1件しかない映画館では東京から6ヶ月遅れの映画が上映されるが、それも毎日観に来る。ある日、上演中の時代劇を観ていると、映像の中から登場人物に話しかけられる。やがて映像から飛び出してきて映画館が混乱すると、その隙に登場人物は女を連れて脱走する。折りしも、その時代劇の続編を撮影するために、役者陣がその島にロケに来ている。

初演の感想のずれを探るべく初日観劇。覚えている限りでは脚本はほとんど変わっていない。映像も同じ。日時を特定するような台詞はあったっけというのと、教会の場面で少し足されていたかもしれないのと、ウクレレは屋外でなく屋内で弾いていたかな、くらい。あと戻ってこない登場人物を待つ場面の一部が映像から演技に変わっていたけど、見切れを気にしたか。

主役のハル子を演じる緒川たまきが不幸からの多幸感全開できらきらのキレッキレ。妹役のともさかりえが行動力の高い役で絶好調。飛出す登場人物とそれを演じていた役者で二役の妻夫木聡は登場人物側でもうちょっと派手なほうがいいと思うけど、劇中映画では脇役だし、この芝居はハル子が主役なのでそこを食ってもいけなくて、バランスが難しい。どの役者もいいけど、声で役者を選んだ模様。スタッフだといつもながらプロジェクションマッピングも凄いけど、振付も頑張っていた。それを、複数役とダンサーと場転スタッフを兼ねたメンバーの負荷が相当高そうなのに余裕でこなしていたのに気がついたのは今回の発見。

初演より今回のほうが絶対楽しかったのは間違いない。主役の多幸感がある水準を超えられるかがたぶんこの芝居の鍵で、初演をいまいちと感じたのはそこに不足を感じたのだと思う。不足の原因は、主要メンバーがインフルエンザ明けだったからかな。評論家は初日に近い日程で観るはずなので、だとすれば感想のずれも説明がつく。ラストが今回納得できたのは、初演のときはやっぱりこちらが疲れていたからだ。不景気の話が出てくるところだけ、最近の不穏な世情に近くてつらい。

ただ、いくら楽しくても3時間25分が長い。ないほうがいい場面はないけど、だからこそ長く感じる密度の高さ。前半が終わった時点で1本観終わった感があった。初日のためか関係者大勢で、ロビーでも客席でもどうもどうもの会話の合間に「オレステイアよりは短いですからね」って言葉が聞こえたけど、あれは公式4時間20分なので比較対象が間違っている(ちなみに昼にオレステイアに挑戦しようと思ったけど調べたらこちらの初日変則開演時間に間に合わないので諦めた)。たぶん再々演はないから都合がついたらもう1回観てみようかなという気持ちが少しは芽生えたけど、それをためらわせる密度がある。

映像幕を下手寄りに配置する関係か2階下手は最初から売り止めだった模様だけど、1階前方下手端席にも見切れが見つかって別座席への振替が行なわれているので、前売で買った人は世田谷パブリックシアターの公式サイトで確認を。

2019年6月 3日 (月)

ジエン社「ボードゲームと種の起源・拡張版」こまばアゴラ劇場

<2019年6月1日(土)夜>

女が頑張りすぎて体調を崩したため東京から地方に引越してきたカップル。男は働かないでボードゲームに熱中していた経験を生かしてボードゲームカフェを開こうとする。この町に住む、東京時代から知合いだったボードゲーム愛好家たちが集まってくれるが、東京の倉庫から送ったはずのボードゲームが届かない。東京で何かあったようだ。ボードゲームがなく開店できない店に、ネットで調べたという女がやってくる。

初見。ボードゲームカフェと東京の話に関わる生活物語と、登場人物同士の実際に話したのか空想の世界なのかわからないダイアローグと、カードを使った独自ゲーム(「人狼系」って言っていた)を活用した信頼と不信に関する世界とが、時系列をごちゃ混ぜにして展開する。なかなか難しい。出だしから平田オリザと野田秀樹が混ざったような同時多発会話(ある組の会話が他の組の台詞に対応する)を、それもひとつの役が複数の組をまたいでこなす場面から始まって面食らう。

先に書いておくと、役者は粒が揃っている。役を把握しつつ、面倒な展開を消化して、きっかけだらけと思われる芝居をそんなそぶりもなしにこなしている。さすがこまばアゴラ劇場に出る劇団には一定の水準がある。あとこの劇場を横に使って、上手下手中央に加えて上までアクティングエリアにして、複雑な展開を場所の違いでサポートしていた(青年団が「東京ノート」で使って以来2回目の形)。お金がないのにたかがお金と言ってしまう思いやりのつもりが無神経でそれでいて一片の真実がなくはない台詞とか、沈黙だけで1分以上持たせたりとか、場面場面に見どころも多い。

ただ、3つの世界とも、相手への信頼と配慮の欠如や、一方通行で伝わらないことへの諦念など、メタな視点での共通点がほとんどで、演じられている内容自体がなかなかシンクロしてくれない。最後に強引につなげる手腕は嫌いではないけどそこまでが長い。85分だったけど情報量が多いので体感時間はもっと長い。あと、東京の出来事は最後までぼかされているけど、これだけ役者間で共通理解がなさそうだった。あるいは、脚本演出に共通理解を見せるつもりがなかったか。それと横長の劇場の使い方が災いして、複数個所での出来事が一望できず視線がさまよう場面もあった。トータルでは、個々の場面や同時多発会話のつなぎ方に気合が入りすぎて、全部を通してみたら流れをつかむのに一苦労する仕上がり、という感想。もう少しばっさりと整理してほしかった。

なお、開場直後から青年団よろしくゼロ場として劇中のボードゲームをやっているので、早めに入場してそれを眺めてルールを把握しておくと本編を見るのが少し楽になるのでお勧め。当日パンフにもルールの記載があるけど、見たほうが早い。

2019年5月21日 (火)

イキウメ「獣の柱」シアタートラム(ネタばれあり)

<2019年5月18日(土)夜>

2001年、高知県のある田舎町。裏山に落ちた隕石を探しに行った天文マニアの若者が餓死して発見される。天文仲間としてやはり近所に住む男性は先に拾った隕石を隠し持っていたが、自宅で妹や仲間と調べているうちに隕石を見て時間を忘れ、同時にこの上ない幸福感を覚える。この隕石の効果らしいと気がついた3人が取扱いを相談しているところに、渋谷の交差点で大勢の歩行者を多数の車が轢く「事故」が起こる。

初演を大幅改定しての上演。役者の好演とは別に「名作を大幅改定というけど、振返ればあそこが時代の境目だったと今は思うので、改定しても成立できるのか危ぶんでいる」と事前予想に書いた通りの仕上がり。オープニングの謎の演説が脚本家からのギブアップ宣言なのだけど、初演を観ていないとそれはわからない。

後日追記する。初演を口コミプッシュした観客として、長くなってもこれは何とかして言葉に残したい。

<2019年5月23日(木)追記>

先にいつもの話を書くと、妹役の村川絵梨が初演よりアグレッシブな役を造形して新味、市川しんぺーと松岡依都美が現代では協力し未来では反目する2役でこの特に松岡依都美が自然に役を切替えて上手、劇団員は芝居を把握して安定度よし、カタルシツ演芸会から想像してやや不安だった薬丸翔と東野絢香も柄に合った役のためかかなり安定して観られた。スタッフワークは音響に注目。

で、長くなっても言葉に残したかったのが以下。おそらく過去最長。完全ネタばれなのでこれから観る人は読まないほうがいいです。初演の記憶がうろ覚えでこんな文章を書くのも良くないのだけど、自分のブログなのだから恥はかき捨ての独断で書く。事実誤認や記憶捏造していたらそれは当然こちらの間違いなのでご容赦。

*****

「獣の柱」初演の東京公演は2013年5月から6月、シアタートラムで上演された。東日本大震災と原発事故の衝撃は落着いてきていたものの、リーマンショック以来の世界的な不況と、そこから来る円への資産退避による円高が長く続き、企業は雇用を控えていた。第二次安倍内閣が成立したのは前年末で、経済が回復するのはもう少し先のこととなる。そのちょうど6年後、同じシアタートラムで大幅改定と銘打って再演された。

私たちはあなたたちに伝えることがあってやって来た、そのために言葉を学んだ、ところが何を伝えたいのかを忘れてしまった、私たちが伝えたかったのは言葉では伝えられないことだった・・・。不思議な格好をした「男」が観客にこのような演説を行なう、初演になかった場面から再演の「獣の柱」は始まる。初演では2008年と2096年の、再演ではそれを2001年と2051年に変えて、現代と未来の2つの年代を描くのは変わらない。ただし、特に未来の年代の扱いは大きく異なる。

高知の田舎町に落ちた隕石を拾いに行った天文マニアの若者が不審な餓死で発見される。餓死というより過労に近いという。天文仲間の兄と妹、天文仲間の部長の3人が「見ると時間を忘れて固まる代わりにこの上ない幸福感を覚える」隕石が原因だと気がつく。先に拾っていた隕石の扱いを相談するために、妹の伝手を頼って東京の知人に相談に行くが、そこで兄が行方不明になる。やがてこの隕石の超大型版である「柱」が世界各地に降り注ぐ。残された2人は人口密度の高い地域に柱が落ちていることに気がついて、人口の少ない地元でサバイバルするためのコミュニティを作る準備を進める。現代の場面の主要な展開は初演も再演もほぼ同じである。

大きく異なるのは未来の場面。初演では、あちこちに柱が立って地域間の人の往来が難しくなった時代、あるコミュニティでは観ると幸福を覚える「御柱様」として御神体扱いで祭られている。これを取扱う「宮司」は、御柱様を拝みに来た女性信者に柱を見せて固まっている間に身体を触るが、女性信者の息子に見咎められ、同時に、この息子が柱を見ても固まらないことが知られてしまう。初演ではこの場面から始まり、柱の能力と権威に依存して運営されていたコミュニティに波紋が起きていく未来の様子が現代の場面と並行して進んでいく。やがて他のコミュニティから少女がやってきて、その少女も柱を見て固まらない一人であることがわかる。後で書くが、再演では現代の場面の後にオチのように短く描かれるだけで、大幅に短縮されている。

この初演で脚本家は、旧来の価値観の暗喩として隕石と柱を持ち出した。寄らば大樹の陰、大きな組織に属すれば一生安泰、ただしその組織での理不尽は一切我慢しなければいけないが、それが幸せなのだ、という価値観。理不尽を上回るリターンが期待できた高度経済成長期に生まれた価値観が歪んだのは1991年のバブルの崩壊後だった。実際には1997年の山一證券破綻で端を発したバブルの蓄えを食潰して耐えられなくなった不況、その後一度は持ち直したものの2007年のサブプライムローン問題から2008年のリーマンショック倒産に至る世界的な不況、そして東日本大震災と原発事故により、長い期間就職難と極端な買手市場が形成されていったことによる。

もともと大組織で働けていたのは一部の人間とはいえ一定数はいたところが、それなりの大学を卒業した若者ですら就職にあぶれるようになった。またそこに目をつけて、若者をこき使う、駄目になったらいくらでも代わりがいるという前提のビジネスモデルを作る企業が目立つようになった。そのため、安泰でもないのに理不尽を耐え忍ばないといけない、にもかかわらず見返りの給料もわずかだけ、という労働者が増えた。それが目だった社会問題になったのは2008年のワタミの過労自殺問題からだと記憶している。26歳で入社して2ヶ月の社員が、140時間の残業に絶えられず自殺した。社長の渡辺美樹がまったく反省していないサイコパスなコメントを出すことで、ブラック企業という言葉が流行したのもこれが端緒だった。なお、渡辺美樹は初演後の8月の参院選で、この過労自殺の裁判が続いているなか、自民党の参議院議員として当選し、再演が終わった後に実施される次の夏の参院選には再出馬しないことを表明した。

見ると固まる隕石や柱を用意し、幸福感と引替に過労と餓死で死んだ若者を登場させ、その柱が人口密度の多い場所(大きな組織の多い場所)に落ちるものとした脚本は、このような状況にも関わらず、組織に属すれば安泰だとまだ信じている人たちへの批判としてこの上ない設定だった。柱を見ても固まらない少年少女は、すでに崩壊した大組織信仰を信じない若者を模したものであり、柱を見て固まっている女性信者を触る宮司は買手優位をいい事にハラスメントの横行するコミュニティの例である。

その後、現代の場面では、他のコミュニティが柱で壊滅して押寄せてきた難民の受入が限界に達したとき、部長は「俺が出て行く、もっと受入れられるように新しいコミュニティを作る」と宣言する。協力者だった仲間の妹についてきてくれるよう告白し、仲間の妹はそれを受入れ、2人は出て行く。そして初演の未来の場面では、柱の影響を受けない2人を利用してコミュニティの勢力拡張を図ろうとする村長たちに対して、コミュニティの郷土家(実は現代の2人の子孫)である男は少年少女の利用に反対する。村長たちの強引な進め方に怒った郷土家が「2人ともコミュニティから出て行け、こんなところで利用されるな」と叫ぶクライマックスとなる。どちらも出て行く2人の、困難かもしれないが希望ある未来を予想させる結末であり、また未来の場面に現代の2人の子孫が登場することで、現代の2人はその後も上手くいったことを間接的に描いている。と同時に、大企業信仰が幻想だと気がついている若者なら、先行きのない組織でこき使われて、最悪自殺するまで追込まれるくらいなら、どこか違う場所に新天地を求めろという脚本家のメッセージでもあった。

当時の社会状況をSF的な状況に転換して描き、「出て行く」「出て行け」で2組の、そして観客の背中を後押しする対の場面でつなげた感動は、私の拙い筆力では伝えられないほどに大きく、口コミプッシュも書くに至った。初演の感動は本当に得がたい体験で、後に「複数あるだろう芸術の定義のひとつを『それを体験した人に、人生に立向かうための勇気を与える表現』としてみたい」と書くくらいの衝撃だった。蛇足を書くと、この年は私のこれまでで一番仕事が忙しい年で、だからこそ、初演のメッセージがより深く刺さった面もある。

ところがその後、日本の社会状況が変わり始める。

2013年の日銀の総裁交代とセットになったなりふり構わない財政出動、また東京オリンピックの決定による建設、不動産業界の特需で、景気がようやく回復傾向となる。だが今度は様々な場所で人口の不足が目に付くようになってきた。これには3つある。一つ目は、昔と比べて年齢あたりの人口が減っている中、長い不況で採用を控えられたため本来働き盛りのはずの年齢層で就業経験者が少なかったために回復した景気に追いつけない労働人口の不足。二つ目は、それ以前から言われていた人口減の推移予想が、本来なら結婚と子育ての最中のはずの若者達が定職に就けなかったため結婚できず出産数減に拍車がかかることでようやく世間に認知されてきた、いわゆる本当の人口減。そして三つ目の、東日本大震災後に地域のハードウェアが復旧したにも関わらず、仕事その他の理由で避難していた住民が戻らない過疎化の問題は、やむを得ず他のコミュニティに移住した人たちが、元のコミュニティよりも良い環境を期せずして体験できた結果とも捉えられる。歪んでいた価値観は幻想だと、広範囲な層がようやく言えるようになった。

その流れを決定的にしたのは、2016年の年末に起きた2つの事件となる。ひとつは佐川急便の荷物蹴り飛ばし動画事件。インターネットの普及による通販市場の拡大で、佐川急便とクロネコヤマトが値下げ合戦をして、通販各社は送料無料が当たり前だった。ところがこの動画をきっかけに、現場が追いつかず人手不足であること、また普段大勢が当たり前に利用していて、水道と同じくらい当たり前の存在と認識されていた宅配便業界が、このままだとなくなる、それは自分たちが不利益をこうむる、と利用者が認識を改めることにつながった。その後、宅配便業界の値上げ交渉が成功したことからも、この一件をきっかけに、労働人口が不足しているという事実が周知されたことがわかる。

そしてもうひとつは、東大卒業生で電通に入社した新入社員の女性が過労からうつになり、入社9ヶ月にして自殺した事件。東大に入学して卒業した時点で誰がどう考えても地頭の良さは疑うべくもなく、当座の生活費に困るような家庭環境でもなく、しかも言っては何だが美人で、卒業から間もないので転職したければ働き口に困ることはないはず。そのような人間でも、まったくサポートのない環境で、上司のパワハラにさらされ、1日20時間勤務という環境で放置されると、転職や退職という選択肢を思い描くこともできずに自殺してしまう。ワタミの新入社員が2ヶ月で自殺したのとほとんど同じ構図は、メンタルの問題は能力とは無関係だという事実を広く知らしめた。

(誤解を招かないように補足すると、この文章はワタミの自殺した新入社員の能力を貶めるものではない。ただ、メンタルの問題について縁のない人たち、興味のない人たち、誤解していた人たちにも、人間誰でもおかしな環境ではおかしくなるとようやく認識された、ということを説明したいための文章である)

これらを受けて、まず労働者の確保のため求人倍率は上がり、就職難は劇的に改善した。またブラック企業を無くすべく、少なくとも労働時間と待遇についての改善を目指すため、働き方改革(本当は働かせる側改革であるべき)が施行された。ハラスメントについては、発展したSNSを使った告発も広まっており、商売面や労働者確保面でのイメージダウンによる不利益を警戒する企業ほど、自主的に警戒するようになった。ここまでなら、人口減という逆境に直面して、痛ましい事故も教訓にして、ようやく社会状況が好転し始めた、で済む話である。ところがこれをねじれさせる動きが国内外から出てきた。

国内では外国人労働者受入制度の成立である。きついのに給料が安い職業は昔からあって、需要があれば供給があって、留学生の体裁をとって滞在資格を与える学校や、実習の名目で最低賃金すら下回る手当てしか支払われないこともある外国人技能実習制度がそれにあたる。それにしても裏技扱いだったところに、あまりの人手の足りなさに、公式に労働目的の外国人を受入れようという動きになった。自民党は伝統的に個人向けより経済界向けの政策を取る政党なので驚くものではないが、それでも国内の労働者個人にとっては下方圧力として働く政策である。もっとも、外国人労働者はすでに都心ではあふれており、たとえば都内のコンビニエンスストアで日本人の店員を見ることのほうがまれである。だが、そもそも安いバイト代で多能をこなせるバイトがいないと賄えないコンビニエンスストア自体が「若者をこき使う、駄目になったらいくらでも代わりがいるという前提」のビジネスモデルであることには留意したい(一番はオーナーを食い物にする契約が問題だが、それを話すと長くなるので控える)。

国外からは外資系企業、特にIT系の大手企業からは、安すぎる給料の日本企業に勤める技術者が魅力的に見えるようになった。自国の基準で給料を支払うことが日本の技術者達に魅力的に見えることがわかり、目立たないように攻勢をかけることになる。その中で表に出てきたのは、Googleが東大生に年収15万ドルのオファーを出したという話、それと(ちょうどこの文章を書いているときに制裁が始まったが)ファーウェイの研究職に初任給40万円を提示という話である。これは時勢にあった技術を身につけた一部の有能な労働者にとっては魅力的な話であるが、別の見方をすれば、格差がより開く時代になってきた。初演のころでは通用した、若者全体をひとくくりにして応援対象にする設定も、難しくなってきた。

再演では未来の場面は大幅に削られる。柱を見ても固まらない少年はコミュニティの外の廃墟に隠れ、柱の見えない闇夜に母親が食糧を持ってやってくる。元のコミュニティを去って廃墟を訪れた、やはり柱を見ても固まらない少女は、最初からふてぶてしい態度で大人を信じていない。村長が少年を利用しようとするのは同じでも、再演では村長は名前だけで登場せず、村長の意を受けて母親を尾行してきた使用人が、少年を連れ戻そうとする。それを押しとどめるのは初演の郷土家のようなコミュニティの他人ではなく母親であり、肉親以外の身近な人間ですら信頼できない環境におかれている。そこを救うのは、隕石とともに行方不明だった「兄」である。

この兄は初演と再演で大幅に変わった役になる。行方不明だった兄が現代の場面で再度見つかるのは同じだが、初演では、言葉が話せない、けど幸福そうな様子でどこからともなく表れ、隕石をもって脅かそうとする相手から隕石を取上げて食べてしまう。するとその口から七色の虹が飛出し、幸福が広まる。古い価値観を一蹴する演出でもある。ところが再演では、現代の妹の前に言葉を話せずに苦しんで現れ、妹が何とか言葉を教えようとする。そこから未来の場面に飛んで、言葉を話せるようになり、柱を見ても固まらず、不思議な力を持った存在として少年と少女を迎えに来る。そこで知らされるのは、少年が部長と妹の孫であることと、痴呆になった妹に悩んだ部長が柱の前に2人で出かけて自殺したということである。現代の場面であれだけ前向きだった2人が、痴呆になり、結局柱の力にすがって亡くなるという出来事は、2051年という設定と合せて、日本の老々介護を想像させるのに十分である。

助けに来たのでコミュニティの人たちを集めてくださいといわれた母親の声に翌日集まったのが数百人。この場でも少年は母親に、全員一緒に暮らせないかと訴えるが、母はそれを押しとどめ、そばで見ている少女は冷笑を崩さない。そして集まった人たちを前に兄、つまり不思議な格好をした男が、何かを話そうとして芝居は終わる。それは演劇の技術で、実際には冒頭の場面につながる。観客からすれば不完全燃焼を覚える最後ではあるが、伝えたいことがあったのに言葉を覚えたら伝えられなくなったというのは、初演で見せた希望がそのまま成立たない6年後の現在であり、その時代に無条件の希望的なメッセージが出せない脚本家の代弁でもある。

では「獣の柱」がすでに時代遅れになり、将来は通用しない脚本かというと、そんなことはない。なりふり構わない財政出動には限界があること、また、その間に世界に通用する企業がほとんど育たなかったことから、次の不況は前にも増してひどくなることが予想される。そうなったとき、それまでの反動で、柱の価値観を強要される人たちが多く出てくるはずである。その人たちは、再演で描いた決して明るくない未来の中に、初演に近いメッセージを探すことになる。そこで観客の背中を押すことを脚本家がためらわなければ、初演とも再演とも違う、再々演版の「獣の柱」が上演できるはずで、そこに一観客として私は期待する。

ここまでの文章で取上げたものはすべて経済にかかわる出来事であり、経済に振回されてきた価値観のことである。「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と二宮尊徳は言ったが、これだけ経済の影響が行き渡った世の中では、経済に対抗できる価値観が求められている。ここで道徳という単語は集団に求められる振舞という語感があって古く、これからの時代には倫理や哲学や美学という、より個人での価値観を磨くことで、犯罪にも寝言にもならない意思を身につけることが必要とされる。そのような言葉にしづらい価値観を伝えてくれるのも、演劇の持つ力のひとつである。おそらく6年後にはまた大幅に社会状況が変わっているはずなので、そのくらいの期間での再々演を望みたい。

2019年4月16日 (火)

シス・カンパニー企画製作「LIFE LIFE LIFE」Bunkamuraシアターコクーン

<2019年4月13日(土)夜>

 

天体学者の夫と金融機関に勤める妻。子供を寝かしつけるのに苦戦している。そこにやってきたのは夫のボスとその妻。翌日がディナーのはずだったが1日間違えていた。しかたなくありもので間に合わせて応対するが。

 

この応対を3パターン見せるので「LIFE LIFE LIFE」。気の持ちようで人生が色々代わる人と、どの人生でも変わらない人生になる人との対比が脚本のメインかと思われる。でもそこをそんなに強調せず、喜劇を追求したKERA演出。これでもかと受ける客席もすごかったけど、昨今のKERAのぎっしり詰まった芝居からすると1時間半でかなりあっさりした仕上がり。全員いいのは言うまでもないけど、ともさかりえの、ほんのちょっと誇張した演技がものすごく魅力的ということに今さら気がついた。

 

四面客席の舞台を回転させながらなるべく全方面に見せようとするのは「バージニア・ウルフなんて怖くない」のときと同じ。その再演のために同じメンバーを集めたのが流れてこの芝居になって、確かに面白くて文句のない仕上がりだったけど、この豪華メンバーならやっぱり再演が観たかった。

 

あわせて気になったのは、一度は再演を発表したのに、数日で流れて、すぐにこの演目が代案として発表されたこと。別の企画のために上演権を獲得済みだったのかもしれないけど、あんなにすぐに、この4人にぴったりの演目が出てきたのはすごいこと。毎日1本は脚本を読むという辣腕制作者の見事な腕前だった。

 

<2019年4月16日(火)追記>

ネタばれに対して雑すぎた記述を修正。

2019年3月15日 (金)

青年団「思い出せない夢のいくつか」こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2019年3月6日(水)夜>

歌手とマネージャーと付人が、営業先に移動するために夜中の電車に乗っている。煙草を吸いに行った別の車両では、妙な乗客に話しかけられて辟易とする。車中のこととてたいしたことができるわけでもなく、取りとめもなく交わされる会話の数々。

あれと言えばこれと返せるくらい話が合う付合いの長い歌手とマネージャー。別の人間と結婚数ヶ月で破綻した歌手はマネージャーにひそかに好意を寄せているが、独身のマネージャーは歌手がいないときに「夫婦が似るって本当ですか」と聞く若い付人に懸想する。それを察していながら知らん振りして若い付人を遠くへやれないか考える歌手。三角関係の事情がわかるにつれて、何気ない会話が手に汗握る牽制に見えてくるのが見所。別の車両の乗客に銀河鉄道の夜の登場人物を引いて先行きの不安を醸しだしながら、見方のわからない星座盤でこれからの混乱を暗示する手際。

静かな演劇に見えて内面は全然穏やかではない脚本は、これが新作ならさすがベテランと書くところ、初演は1994年2月で25年前。その次が「東京ノート」という初期絶好調時代の1本。なおタイトルは俵万智の短歌から無意識に引用した(気がついて後日許可をもらった)と当日パンフの弁。

ポーカーフェイスのマネージャーを演じた大竹直、付人で歌もいい藤松祥子も好演だったけど、歌手を演じて久しぶりに出番の多かった兵藤久美がいわく言いがたいけど実に良い感じ。

今回の「平田オリザ展」は観たことのない芝居ばかり3本観たけど、どれも夫婦とは何ぞや、という芝居ばかりだったのは偶然か狙ったのか単に少人数芝居を選んだらそうなったのか。あとこの大量の芝居を交代で上演するために美術は共通化して簡単に入替えられるようにしているなと思っていたけど、今回の1本はいきなりごつい美術になっていて、壁や線路をどんなパーツで構成していたのかが気になる。あの狭い劇場でそんなに簡単に入替えられるのか。

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