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2023年3月14日 (火)

Bunkamura企画製作「アンナ・カレーニナ」Bunkamuraシアターコクーン

<2023年3月12日(日)昼>

19世紀のロシア。公爵の次女であるキティは田舎で領地経営を行なうリョーヴィンと惹かれあっていたが、親の決めた青年将校ヴロンスキーと婚約するためプロポーズを拒否する。公爵の長女であるドリーはすでにオブロンスキーと結婚して子をもうけていたが、オブロンスキーの浮気に激怒する。兄のオブロンスキーから仲裁を頼まれた妹のアンナも子を持つ既婚者だが仲裁のためにモスクワに上京する。ここでアンナと出会ったヴロンスキーが恋に落ち、ペテルブルクまで追いかける。婚約者に逃げられたキティは憔悴し、浮気相手が地元までやってきたアンナの夫カレーニンは何とか事を収めようとする。だがアンナの妊娠が発覚する。

小説を読んだことがない私が超おおざっぱにまとめると、愛と結婚とは何か、という芝居でした。タイトルロールのアンナを巡る三角関係と、ドリーが浮気した夫をどうするかと、キティが果たして復活できるかと、大まかにこの3つの関係で描きます。

ただ宮沢りえ演じるアンナ・カレーニナの役どころがヤバかった。浮気したところまではまあいいとして、モスクワの社交界での扱いに耐えられずに、しまいにはヴロンスキーのことまで疑うようになっていく有様はメンヘルの一言です。宮沢りえの説得力でかろうじて成立するくらいです。

そして一度はドリーに許されたもののまた遊ぶオブロンスキーに対しては、就職口が決まって借金を返す当てはついたものの、ドリーは出て行くことを選びます。

さらにこの演出は、その陰で子供が犠牲になることを描きます。アンナはカレーニンとの間にもうけた息子を引取ろうとしますし息子も母恋しさに父に反抗しますが、ならアンナが引取ればいいのか、カレーニンの何が悪かった、という問題でもあります。

小説は未見ですが、チラシにある「真実の愛を求める人間たち」は、まあ嘘ではないでしょうか。どちらかというと、浮気相手に走ったアンナ、浮気したオブロンスキー、双方に対して突き放した感じのある演出でした。

このドロドロとの対比でひときわ輝いてくるのがキティとリョーヴィンのカップルです。チョークと黒板を使った二度目のプロポーズの場面や、初産を控えて誤解と思い込みで喧嘩するところから仲直りする場面など、言葉を選ばずに言えばバカップルです。なのですが、いいじゃないか小さな誤解くらいと思わせる勢いがあります。ここで振りきった浅香航大と土居志央梨は記録しておきたい。

神父を目指していたリョーヴィンの兄を看取る場面、妻の出産の無事を願って「誰もいない部屋でひとり言葉をつぶやくならこれは祈りではないか(大意)」と気がつく場面、こちらのカップルに色恋を超えて相手を想う愛が描かれます。

個人の意思の尊重が行き過ぎて夫婦も子供も訳が分からなくなった現代社会です。それもいいけど、夫婦と子供という基本のコミュニティについてもう少し考えなおしてみないか、個人の自由と家族を維持する努力とに折合いを付けてみないか、自分で行動できる大人と庇護を必要とする子供との違いに目を向けてみないか。そういう演出だと私は受取りました。最初1時間くらいはとっちらかった座組だなと思っていたのですが、終わってみたら子役含めていい座組に見えた、そういう芝居でした。

私が最近ラノベを読みすぎて「真実の愛」と見ると後ろに「(笑)」が浮かんで見えるようになってしまったで、その点は差引いてください。

2023年2月16日 (木)

パルコ企画製作「笑の大学」PARCO劇場

<2023年2月11日(土)夜>

昭和戦前。浅草の喜劇劇団「笑の大学」の座付作家は、来月上演する芝居の脚本の検閲結果を確認するために警視庁を訪れる。今月から担当になった検閲官はこのご時世に喜劇の上演はけしからんという堅物。脚本の書直しか上演中止かを迫る検閲官に、座付作家は翌日までの書直しを選ぶ。

名前は知っていたけど観たことがなかった三谷幸喜の再々演二人芝居。無理な書直し指示と、それをかいくぐろうと更新される脚本。粗筋で展開はだいたい想像がつきますね。そして文句なしに面白かったです。

キャスティングは2人ともはまり役でした。座付作家の瀬戸康史は笑わせたがる性分と、何とかしてやろうという根性の両面を表現。検閲官の内野聖陽は度が過ぎていらいらするくらい堅物でありつつ、家族その他の話で奥行きを表現。観たのが日程初期のため2人とも若干固いところが残っていましたが、それがむしろ設定に合って良い方向に作用していました。

シリアスな設定と喜劇脚本という相反する組合せ、起承転結とおもいきや起承転転結の展開、昨今の流行よりやや押さえられた情報密度と展開速度でありつつ1時間50分に収まる無駄のなさ。どこを取っても一級品の脚本に恵まれたキャスティングで、誰が観ても面白い仕上がりはさすが三谷幸喜です。若干難癖をつけるなら音楽はもっと少ないほうがいい、少なくても行けたと思いますが、その辺は好みの範疇です。

昔の上演を観た人は比べてあれこれ言うかもしれませんが、映画も含めて観たことのなかった自分には文句ありません。開演から4ステージ目ですが3割くらいスタンディングオベーションでした。ひねくれものの私でも観終わって思わずスタンディングオベーションで腰を浮かせそうになった出来です。いまさら緊急口コミプッシュを出したりしませんが、大満足でした。

ここまではすぐに思いついた感想で、ここからは蛇足の妄想です。

この芝居は検閲官という役と時代背景を置いていますが、個人的にはスポンサーやいわゆるお偉いさんのことを揶揄した芝居じゃないかと読みとりました。

三谷幸喜は自分の芝居や劇団を、劇場を出た後はなにも心に残らないような芝居が理想、同時代に何も影響を及ぼさなかった劇団などと評しています。この辺りは喜劇好みの三谷幸喜が狙っていた作風でもあるでしょう。

今でこそお笑いが一世を風靡していますが、笑いや喜劇を一段下に見る風潮は、20世紀にはまだ残っていました。個人的には、笑いを目指してつまらなかった時のつまらなさ、くだらなさ、醜さの下限がストレートプレイよりひどくなるという笑いの特性に基づくもので、今でもまったく根拠のないものでもないと考えています。それはさておき。

この芝居の初演はラジオドラマで1994年。劇団は10年目、脚本家としてもキャリアを積んでいましたが、まだ大手を振って威張れる前の時代です。後に「ラヂオの時間」のもとになった脚本を書直された1993年のドラマ「振り返れば奴がいる」の翌年で、古畑任三郎の初回は1994年です。

何を言われようが受入れて書直す、なんならそれでもっと面白くして見せる、という本作の話は、そのころの三谷幸喜の脚本家のキャリアから来た話だと思います。それをそのまま描くわけにはいかないので検閲官という設定まで出てくるある種壮大な喜劇論になってしまいました。が、結果として「劇場を出た後はなにも心に残らないような芝居が理想」を作風とする三谷幸喜としては異色に分類されます。他に観てわかる限りでは、離婚を扱った「グッドナイト スリイプタイト」くらいです。

25年ぶりの上演について三谷幸喜は、似合う役者が見つかるまで上演したくなかったと言っています。それ自体は本当でしょうが、自意識が前に出ている脚本を上演したくなかったという気持ちもあったのではないでしょうか。それを解禁していいと思えるようになった心境の変化がどのようなものかはわかりません。ただ、今後の新作はもっと伸び伸びとした芝居が増えるような気がします

2023年1月 9日 (月)

パルコ企画製作「志の輔らくご in PARCO」PARCO劇場

<2023年1月7日(土)昼>

子供が習っているそろばん教室の先生の息子が結婚したと先生にお祝いを言いに来たのはいいが余計な一言が多い「まさか」。新作を盗作されて身投げするところを助けた狂言師のために長屋の連中が面白い話を教えようとする「狂言長屋」。堅物で通るが実は芸者遊び好きな大店の番頭が内緒で芸者を連れて向島の花見に繰りだしたらうっかり店の旦那と鉢合わせ「百年目」。

吉例企画。この劇場でやるからにはと噺以外の趣向も用意しているのでそこは観に行ってからのお楽しみ。おなじみのオープニング一言からマクラも工夫しての前半戦は素直に楽しむ。3本目だけ、もうちょっと縮めたほうが自分には好みだけど、人情噺なのでたっぷりのほうが好きな人が多そうで悩ましい。

面倒なことは考えずに素直に笑える、年の初めの1本に適した演目が選べて満足です。

2022年12月18日 (日)

シス・カンパニー企画製作「ショウ・マスト・ゴー・オン」世田谷パブリックシアター

<2022年12月17日(土)昼>

「マクベス」を上演する劇場の舞台袖。客入りは好調なものの酒癖の悪い主演は連日の飲みすぎで体調不良、演奏担当の一人も体調不良、叱ったスタッフは劇場に来ない、と頭の痛い舞台監督。プロデューサーの社長の判断で開演することにしたものの、関係者しかいるはずのない舞台袖に次々と人がやってくる。ようやく開演したもののトラブルがトラブルを呼ぶ。果たして無事終演できるかどうか。

三谷幸喜お得意の、固定された場所とトラブルが起きやすいシチュエーションを設定したウェルメイドコメディ。東京サンシャインボーイズ時代の脚本で初演1991年、再演1994年のものを、現代設定に合うように大幅に書換えたらしいです。設定がおいしいのでいくらでも書換えられるでしょう。すごくよくできた脚本です。

よくできた証拠に、前半に出てきた話題と大道具と小道具が、後半で全部使われる。後半を書いてから前半を書いたんじゃないかというくらいの繋がりです。名前だけで劇場に来ない登場人物と何故か劇場に来る登場人物が、普通に考えたらはちゃめちゃな設定ですが、それがどうした、面白ければ正義、という勢いがあります。やや客席の勢いが弱い回でしたけど、それでも笑いました。

で、笑っておいてなんですけど、微妙に乗りきれないところのある芝居でもありました。

ひとつは劇場設定。役者が2人、舞台袖スタッフが舞台監督を入れて3人だけで回しているわりに、劇場は半分ネタでシアターポクーン(シアターコクーンのもじりですよね)って台詞があるとか、いつかは大きな劇場で働けるようにならないとって台詞があるとか、観ていて劇中の劇場の規模感が一定しなくてもやもやしました。今回の会場の世田谷パブリックシアターって椅子で612席、立見を入れたら700人が入る中規模な劇場なんですけど、それ以上に構えが立派で天井も高いので大劇場っぽいんですよ。それを今回3階席から観ていたので、無意識に大劇場を想定していました。今回のチケット代がS席だと11000円だったのも無意識を後押ししていました。

初演が下北沢本多劇場、再演が(東京だと)紀伊国屋ホールで、当時ならチケット代は数千円だったでしょうから、そのころだとぴったりハマったのだと思います。ここらへんは脚本と興行のすれ違いです。

もうひとつは上演中の芝居(マクベス)の理解度が登場人物と一致していないところがある。理解度が高い側だと脚本家役の今井朋彦とか演奏時に舞台を覗く仕草を入れる(本当に演奏役の)荻野清子とか、理解度が乏しい側だと当日に代打で演奏を引受けたから演奏タイミングを忘れていて慌てて戻る峯村リエとか、このあたりの人たちは正しい。釈然としなかったのは詳しくてしかるべきはずの舞台袖スタッフの3人は、演技はよくても脚本(ショウ・マスト・ゴー・オン)の役のマクベス知識に届いていなかった。ここは突っ込みたい。

はちゃめちゃな設定でもよくできた脚本ですけど、見えないところに求められるリアリティが多い脚本でもあります。上演を中止した損害を計算して払戻し手続を把握したうえでの上演途中中止の提案とか、難しい(すでにチケットをもぎったあとだから現場で払戻しが最善だけど夜の回だったはずで払戻金を手元に用意できるのか、みたいな)。これだけ芸達者を揃えても上演するには手強い、面白い脚本を面白く立ちあげるのは難しいというのを久しぶりに観た芝居でした。

あとは配役表がないのと舞台が遠かったのとで、観なれない役者は誰が誰だかわからなかったのが客としてつらい。載っているサイトがあったら誰か教えてください。

<2022年12月23日(金)追記>

怪我と新型コロナウィルスとで役者が休演すると三谷幸喜が代打を続けてきましたが、ついに主役の舞台監督まで代打で登場することになりました。このまま完走した場合の代役メモを残しておきます。

福岡公演
全公演で小林隆(万城目充役)が三谷幸喜
11/07 昼
11/08  夜
11/09 昼夜
11/10 休
11/11 昼
11/12 昼夜
11/13 昼

京都公演
全公演で小林隆(万城目充役)が三谷幸喜
11/17 昼夜
11/18 昼
11/19 昼夜
11/20 昼

東京公演
小林隆復帰
シルビア・グラブ(あずさ役)が三谷幸喜
11/25 昼
シルビア・グラブ復帰
11/26 昼夜
11/27 昼
11/28 休
11/29  夜
11/30 昼夜
12/01 昼
12/02 昼
浅野和之(鱧瀬医師役)が三谷幸喜
12/03 昼夜 中止
12/04 昼  中止
12/05 休
12/06  夜
12/07 昼夜 昼のみ中止
12/08 昼
12/09 昼
12/10 昼夜
12/11 昼
12/12 休
浅野和之復帰
12/13 夜
12/14 昼夜
12/15 昼
12/16 昼
12/17 昼夜
12/18 昼
12/19 休
12/20  夜
鈴木京香(進藤役)が三谷幸喜
12/21 昼夜 中止
12/22 昼  中止
12/23 昼  中止
12/24 昼夜 昼のみ中止
12/25 昼
12/26 昼夜 昼は追加公演
12/27 昼

52ステージ(追加公演を入れたら53ステージ)中、フルメンバーで上演されたのは11/26-12/02と12/13-12/20の17ステージ、三谷幸喜が代打を務めたのが27ステージ、中止になったのが9ステージという、代打ステージのほうが多い結果となりました。自分が観たのは数少ないフルメンバー公演だったので、その点はついていました。

普段は役者の三谷幸喜にあまり好印象がないのですが、今回ばかりは「ショウ・マスト・ゴー・オン」を体現した三谷幸喜に拍手を送ります。

そしてこれを書いていて気がついたのですが、これだけのメンバーを揃えた鉄板公演であるにも関わらず、昼公演のほうが夜公演より回数が多いです。平日夜公演って今はそこまで駄目なのでしょうか。

2021年12月13日 (月)

Bunkamura企画製作「泥人魚」Bunkamuraシアターコクーン

<2021年12月11日(土)夜>

都会の片隅、店主は昼間はぼけ老人だが夜はうどん屋の娘をくどくダンディーな詩人の二面性を持つ男が店主のブリキ屋に、主人公は居候している。そこに故郷の関係者が次々と訪ねてくる。そこに、漁師の養女だった娘がやってくることで話は展開する。

粗筋を書くのはあきらめました。ネタバレってほどでもないので書くと、諫早湾の干拓事業による地元関係者の苦悩を元に、これぞ唐十郎、これに比べたら野田秀樹なんてわかりやすすぎて困る、というくらいの詩的脚本で書いた一本。正直、物語を追うものではない。

前半、主人公の磯村勇斗と店主の風間杜夫がメインになるのだけど、非常に不調だった。喉がイガらっぽかった磯村勇斗が出だしでつまづいて、そのまま休憩時間まで取り戻せなかった感じ。後半に宮沢りえの出番が増えたところから巻き返した。この訳の分からない芝居を巻き返したのはすごい。六平直政がいい出来だったのに加えて身体まで張って熱演。愛希れいかも宝塚出身でこのアングラに立ち向かえていたのは感心。

オープニングの美しさを含めて、音響照明が素晴らしかった。だけど特に後半、音と明かりで盛上げたと思ったら元に戻す、の繰返しで興醒めすること著しい。あれは演出が悪い。そこからネタに走るならまだしも、もう少し考えてほしい。

諫早湾の話が一段落した現在、雰囲気に浸れるかどうかで評価がわかれる芝居。個人的にはいまいち入り込めなかった。シアターコクーンは思っていたよりも広い劇場で、あの空間を雰囲気で満たすのは相応の技量が求められるのだな、これまでこの劇場で観てきた芝居は選ばれし精鋭たちによって上演されていたのだな、と再認識。

2021年11月23日 (火)

世田谷パブリックシアター企画制作「愛するとき 死するとき」シアタートラム

<2021年11月20日(土)昼>

東ドイツの学生の青春と終わりを描く第一部。東ドイツで反体制派だった父は逃げ伯父は捕まった母と子供たち兄弟、12年後、それゆえに大学に入学させてもらえないと屈折した青春を送る家族の前に釈放された伯父が戻ってくる第二部。妻子を持ち仕事で単身赴任する男が、赴任先で出会った女と恋愛関係になる第三部。

観て得るものはあったけど、もう一回見直してもまだわからないだろうなという超がつくほどの不親切芝居。時間を置いて書こうとしたら大まかな話の流れすら思い出すことがおぼつかない。

青春モノとか日常モノのとか、うっかりすると「劇的な」イベントがなく淡々と過ぎてしまう、ただでさえ舞台と相性の悪いジャンルで、本当に淡々とした脚本。そこに、ベルリンの壁が崩壊して30年以上経つ東ドイツが舞台という悪条件で、脚本にない情報を補足してほしいところ一切なし。かつ、覚えづらい名前の大勢の登場人物が第一部から第三部まで全員入替る上演なのに、第一部と第二部は登場人物を浦井健治や高岡早紀も含めた全員が複数役で演じるという混乱に輪をかける上演スタイル。

つらい世の中では子供から大人までまんべんなくしんどいよね、そんな世の中でも生きていくなかで恋愛は苦いことも多いけど必要だよねという脚本家の想いと、いまのつらい世の中は東ドイツ時代の閉塞感と似ているからそこを舞台にすることできっとむしろ現代らしく描けるはずだという脚本家の思いつきが合体したのがこの脚本のはず。それを、「チック」みたいな芝居他にもありませんかと2匹目のドジョウを狙った制作に、日本もつらいからぴったりです、学生とかつての学生の青春モノです、大勢の役が登場するけど「チック」みたいにひとり複数役でやります、とドイツ語の読めない制作を演出家が丸め込んで上演した。妄想レベルで考えると、そのくらい関係者のすっとぼけがないと上演された理由がわからない。

地味でわかりづらい脚本なのに、演出が何をやりたいのか見えなかったのがひとつ。それと交互に複数回出てくる役を、全員が複数役でやるというのがとにかく悪手で、複数役の演じ分けがほとんどわからないのがもうひとつ。「チック」は主役固定、かつロードムービー風なので一度出てきた役は後からほとんど出てこないという有利な面があったけど、これはそうではない。もう、観ていてわからないことによるストレスが大きすぎる。

で、わからなかったことへの文句を散々書いた後で得たところの話。ひとつは第二部の伯父。(たぶん)政治犯収容所のようなところで12年過ごして丸くなった伯父は、普通なら自殺していてもおかしくない。そこをしぶとく生きて、兄嫁(兄弟の母)に結婚を申しこんで一緒に暮らす。この伯父が、好きな女の子を兄に取られて落込む甥を酒場で「目立つな、英雄を気取るな、列に並んでみんなと一緒に行動しろ(公式サイトより)」と励ます場面。言葉をそのまま読んだら格好悪い台詞だけど、ここを浦井健治は、チャンスが巡ってくるまで何よりもまず生き延びろ、というニュアンスでやった。伯父役はぼそぼそと話す役作りだったけど、そこからさらに声を落としたこの場面が、実際に生き延びて甥の母と結婚した伯父の役や、他の場面で自殺する学生がいたことと合せて考えると、全編を通して鍵になる場面だったのかなと思い返す。

得たところのもうひとつは、役者としての浦井健治。観客の妄想では、出演者の中で唯一、おそらく演出家よりも、脚本を理解して演じようとして、また演じる技量があった。芝居を保たせていたのは間違いなくこの人の貢献。普段あれだけ華やかな芝居もできる役者なのにこの地味芝居に挑戦してしかも一定の成果を上げていたことは最大の発見。新国立劇場のシェイクスピアシリーズに出ていたのは伊達ではなかった。ちなみに高岡早紀は、もうわからんからいつも通りやりますとやって、しかもそれがいい線までいっていた印象。ただ第三部、独白というか地の文の語りというか、それが苦手でかなり損していた。ついでに書くと至近距離で観てあの美人ぶりは凄い。他のメンバーは、個々の場面を観れば悪くないけど、通して観たときには複数役の演じ分けの前に撃沈。おそらく脚本段階で混乱している。

察するに、小山ゆうなは綿密な演出プランで稽古に臨むよりは、役者にやってもらった内容を拾っていくスタイルなのではないか。欧米はそういう演出スタイルが主と読んだことがある。けど、それは稽古も含めて準備に年単位の時間が確保できる前提で、1か月前後の集中稽古で仕上げる日本なら脚本の整理や登場人物の関係構築も、ある程度は演出が主導する必要があるのではないか。

察したり妄想したり忙しい感想だけど、何がいいたいかというと、自腹で高い金額を払って、演出が悪いと一観客として判断したので、文句は演出家が引受けてくれということ。

2021年11月15日 (月)

Bunkamura・大人計画企画製作「パ・ラパパンパン」Bunkamuraシアターコクーン

<2021年11月14日(日)昼>

デビュー作が佳作、以降は鳴かず飛ばずの女性ファンタジー作家。それまでの路線から心機一転、新作はミステリーを書くと宣言したものの、粗筋すら思いつかずに締切が迫る。呆れる担当編集者だったが、編集長から今回の企画をあきらめるように指示されたことで、むしろ協力姿勢を示す。ふと話題に挙がったクリスマスキャロルから、守銭奴のスクルージが殺されればミステリーになると思いつくも、有名なミステリーも読んだことがない作家なので、展開も時代考証もでたらめなまま、勢いで書き進めるうちに、現実と作中とが曖昧になっていく。

翻訳でなく完全新作で松尾スズキが演出専念。ファンタジックミステリーコメディと銘打って、年末を狙った古典を題材に。ミステリーの要素もそれなりに考えられているが、肝心な何か所かをファンタジーに頼って解決しているので、ファンタジックコメディのほうがしっくりくる。ものすごい雑にまとめると、松尾スズキが演出した「サンタクロースが歌ってくれた」だった、とか書いて何人わかってくれるか。

スローな場面が、特に前半に多くて何かと思ったら、あれはテレビドラマのテンポか。脚本の藤本有紀は舞台脚本経験もあるが今時点ではテレビの脚本歴のほうが長い模様。テレビの連続ドラマと違ってつきっきりで観る芝居の場合、説明は劇中のどこかでされればいい、むしろ説明情報を散らしたほうが自然になるのでまとめて説明する必要はないところ、ちょっとうっとうしい会話が多かった。大勢の豪華メンバーにはそれなりに見どころを用意するという副作用もあって、それも重たくなった一因。

そんな中でも攻めてこその小劇場出身者。いまも全力でカマす皆川猿時に敬意を表しつつ、どんな演技でも常にテンション全開だった小松和重と、あれだけボケてもスクルージ役の雰囲気を壊さない小日向文世の技を挙げたい。歌も演技も上手い松たか子には満足だけど、松たか子に歌わせれば元は取ってもらえるだろうという姿勢も感じなくはない。スレた観客としては、松たか子が観たいのではなく、立上げ至難の舞台で成立困難な役を成立させたときにこそ役者は輝くのであり、それを成立させる実力を持つ松たか子が実力を発揮したところを観たいのだと言いたい。

それなりに笑いながら観たのに何でこんなに辛い感想になるのか、チケット代が高かったからか、と書いてから考えた。たぶん「現実と作中とが曖昧になっていく」パターンを芝居でよく見かけるから、自分の中でハードルが高くなっている。先に挙げた「サンタクロースが歌ってくれた」は映画の登場人物が現実に出てくるパターン。後藤ひろひとなんかはそれがとても上手で、「人間風車」が有名だけど、今回の連想では作中というか伝説を語る体の「ダブリンの鐘つきカビ人間」を思い出す。どれもだいたい2時間強で収まっていた。

今回は演出と演技で頑張って成立させた印象だけど、歌を入れて、休憩20分を挟んで、カーテンコールまでで3時間10分。ここから絞って、歌抜きなら2時間でいけるくらいまで密度を濃くした脚本で観たかった。絞る価値ある脚本だったと感じたからなおさら。

昨今は長い芝居の上演に寛容で、そのおかげで上演できる芝居の幅は広がったかもしれないけど、必要性を感じられずに無駄に長いのはよくない。無駄かどうかを何で判断するかと言ったら密度。笑いでも、情報でも、役同士の関係でも、雰囲気でも、なんでもいいけど、舞台上を流れる空気の密度。

あとメモ。今回の休憩時間、シアターコクーンが1階の入口前を一部閉鎖して(傘置き場のあたりから、レストラン手前まで)、休憩中の人がロビーに溢れないように、かつそこまでなら再入場不要になるよう工夫してくれていた。吹抜けだから外気にも当たれるし、あれはとてもよかったので記録しておく。思いついた人と実施決断してくれた人に拍手。できれば中二階も外に広げてほしかったけど、あそこはオーチャードホール入口への通路をふさぐから駄目だったか。

2021年6月27日 (日)

世田谷パブリックシアター企画制作「狂言劇場 『武悪』『法螺侍』」世田谷パブリックシアター

<2021年6月26日(土)昼>

Aプログラム。病で出仕できぬ日が続いたため主人の勘気から武悪を討つように申し渡された太郎冠者、幼いころより苦労を共にした相手だけに討つに討てず、討ったことにして見逃したが、逃げる途中の武悪が主人と会ってしまい幽霊としてごまかそうとすると「武悪」。素行の悪さから浪人に落ちぶれ金もないが女遊びに目がない洞田助右衛門、商人の妻2人への恋文を太郎冠者と次郎冠者に届けさせるが主人の横暴に耐えかねた2人が届け先の妻たちにばらしてしまう「法螺侍」。

「武悪」。腕が立つ武悪をだまし討ちしようとするも討つに討てない前半から、幽霊扱いされている武悪が主人に適当なことを言い出す後半まで、「武悪」はいかにも狂言らしい狂言。台詞をちゃんと聞き取れたか微妙だけど、幼いころより2人で頑張ってきた趣旨の台詞があったはずで、そこは太郎冠者の野村太一郎と武悪の野村万作が歳が離れすぎて見た目が苦しかったのだけ難だけど、軽く楽しめる。

野村太一郎の太郎冠者が顔も体も堂々とした押出しの一方、石田幸雄も主人らしい主人で貫禄十分だけど、出ていた3人の中で一番動きが決まっていたのが武悪の野村万作という芸能の謎。長年の動きが身体に染みこんでいるいるのもあるだろうし、歌舞伎の踊りを観たときにも思った、昔からの型や振付は昔の人の体形でちょうどよくなるように作られているのも理由のひとつだろうけど、それにしたって90歳であそこまでできるとか人類すごくないか。

「法螺侍」。シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」を狂言に仕立てた一本。「まちがいの喜劇」を元にした「まちがいの狂言」よりもこちらのほうが1年早いらしい。鳴物でも遊べるところが新作狂言のいいところ。もとは野村万作が洞田助右衛門のところ、今回から野村萬斎にバトンタッチ。元がシェイクスピアなので筋に心配はなく楽しめる一本。

素行が悪いのではなく人生を楽しみ尽くしたいため結果周りにはそう見えてしまう主人公なのかなと台詞からは感じた。けど、いかにも素行が悪くて家来からもとっちめられそうな役作りに見えてしまうのは野村萬斎らしい。見えるというか粘りっ気の強い声がそう聞こえさせてしまう。この「人生を楽しみ尽くしたい」という考えからくるいい加減さは、今の世の中に減っている、非常に求められている心持なので、ここはもう少しおおらかさを優先するように工夫してほしかった。全体に、やや不慣れな印象があったけど、キャスティング変更の影響か。

この日はアフタートークありだったけど、万作と石田幸雄以外全員出ていたのかな。司会の萬斎のほかに6名出ていて、全員に話を振るので精一杯。演じているときとは違って野村裕基は声が萬斎そっくり。野村太一郎は「万作に師事して」という趣旨の発言があったので気になって調べたら、万作の兄である野村萬の孫だけど「本来なら襲名する立場にあった六世万之丞を従弟の虎之介(九世万蔵の長男)が襲名することになり、萬狂言を離れ父の従弟・野村萬斎に師事を替える」とWikipediaにあった。古典の世界は大変だ。

2021年3月28日 (日)

シス・カンパニー企画製作「ほんとうのハウンド警部」Bunkamuraシアターコクーン

<2021年3月27日(土)夜>

あまり期待ができないミステリーを観に来た2人の評論家。片方はすでに売れっ子で影響力も大きく、片方は別の売れっ子評論家のアシスタントで前評判がいまいちの芝居ばかり観に行かされている。開幕した芝居は案の定いまいちで、2人は舞台そっちのけで自分たちの愚痴を言い合う。

ネタバレしてはいけない芝居だから詳しくは書かないけど、トム・ストッパードはよほど評論家が嫌いだったのかと思わされる一本。調べたら自分も半年は評論家をやっていたらしい。そこでよほど嫌なものを見たか。今回の上演も、75分で終わるからというだけでなく、制作者か演出家か、どちらかまたは両方が評論家に嫌な思いをさせられたことがあったから選んだのかなとか想像してしまう。トム・ストッパード脚本だからイギリスの話だけど、評論家の影響力がどうにも高そうだと思って調べたら1968年初演だった。イギリスは評論家の影響が大きいとは蜷川幸雄も書いていたけど、今だとどうなんだろう。客のSNSのほうが影響力が高そうだけど。

芝居の話に戻ると、生田斗真演ずる評論家のアシスタントが、意味不明な演劇評論をぶつ台詞があって、あの気分がわかる。わかるし、アシスタント止まりなのもわかる。あの場面が笑いにつながらないのがもったいなかった。役者は、劇中劇でわざとらしい演技を面白く披露する芸達者たちのなかでも、「劇中劇としてのわざとらしさ」と「劇中でこの芝居を一生懸命演じてしかも結構上手な役者」の要素を絶妙のバランスで演じた峯村リエに一票。水準以上の演技だったけど場面ごとにこのバランスが偏って見えた山崎一は、小川絵梨子にもう少し使いこなしてほしかった。間と緩急をがっちりはめるコメディ向きの演出スタイルではないのだろうけど。

今回1階席で観られたけど、劇場の音響が確実によくなっている。前回メンテナンスで手を入れたのかも。音楽よかったし、千鳥格子の座席販売だったけど最後の拍手の音の埋まり具合もよかった。

配信のあった日だからか、カーテンコールで生田斗真が、観に来てくれた人に感謝、観に来たことがない人も安心して観に来られる日になりますように、という趣旨の挨拶で格好よかった。ただまあ、新型コロナウィルスのこの時期には収まりの悪さを感じる芝居だった。何でもないときに観たかったコメディ。

そのほか新型コロナウィルス対策メモ。入場前に靴裏消毒、手指消毒、カメラ検温。で、ようやくチケットもぎり、これはロビースタッフが行なった。ロビー販売は飲食なし、物販はパンフレットなど最小限。椅子は1階にはあったけど飲食は最低限の水分補給を除いて禁止の指示、この最低限という記述の細やかさが大事。開演前に注意事項の書かれたボードを持ったスタッフが歩き回ってボードを見せている。こちらはスタッフはフェイスシールドなし。開演前にはアナウンスでの注意があったはず。退場時はスタッフが客席列を示したボードを掲げて後ろがはけるまで待つように整列退場を依頼。75分の芝居を選んだのも対策の一環。全体にアクティングエリアが後方に寄るように(客席最前列と距離を保つように)導線を工夫していた気配もあった。

世田谷パブリックシアター企画制作「子午線の祀り」世田谷パブリックシアター

<2021年3月27日(土)昼>

源平合戦の末期、一の谷の合戦で義経に奇襲をかけられた平家軍が大敗し、阿波民部重能を頼って落延びるところから、源平双方が総力を挙げた舟戦である壇の浦の戦いで、平家が敗れて一族が入水または生捕りにされるまで。

前回観ていたけど、思うところがあってもう一度観ておきたかったので挑戦。今回は新型コロナウィルス対策のため、役者の数をぐっと減らして一部登場人物は削り、群読も控えめにしていた。なんとなく場面も減っていた気がする。詳細不明だけど上演時間が前回3時間50分、今回3時間20分、出なくなった役の分だけ短くなったか。

群読控えめなのでその点は前回のほうが脚本の魅力を伝えていた一方で、一人の役者の台詞は聞きやすく理解しやすく、一長一短。最後の合戦はさすがに群読を使って、そこは前回よりも少なめの人数かつ公演も終盤のため、聞きやすいと言えるくらい揃っていた。

役者の感想は前回に近い。何と言っても義経の成河が一押し。描かれていない場面まで想像して役作りしている雰囲気をひしひしと感じる。村田雄浩の阿波民部重能の無念から「民部、心はぐれてしまい申した」とか、金子あいの前回建礼門院から今回二位の尼の入水で「波の下にも都のさぶろうぞ」とか、ぐっとくる。野村萬斎は前回よりかなりよかったけど、やっぱり演出つけてもらうほうがこの人は生き生きとするなというのも同じ感想。

でも今回は、評議で紛糾してから法皇の院宣でさらにこじれるところや、義経と梶原景時が意見が合わずに衝突するところや、寝返っていないか疑う知盛と負けたときの対応まで考える重能との噛合わないところや、水主梶取を倒そうとする義経と止める船所五郎正利。この手の場面、無理なものを無理と認められない人間がいるばかりに揉める場面のなんと多いことかと泣きそうになった。疲れているな自分。

そもそも和平で一旦引いて立て直すのが最善だったのに揉めて和戦どちらか目的が揃えられないでいるうちに法皇に先を取られて追いこまれて戦わざるを得なくなった平家と、鎌倉から疎まれている現地の大将にも問題なきにしもあらざるものの戦って相手を滅ぼすのが目的であり揉めているのは戦いの進め方である源氏。戦略のミスを戦術に頼らざるを得ない時点で平家は負けていた。なのに、万が一と退却の道筋を用意していた民部を、とらわれた民部の息子が敵方に寝返ったからとは言え、疑って採用できなかった知盛(実際には塞がれて逃げられなかったのだけど)。戦略のミスは戦術で覆せないのに戦術頼みで負けるのは本邦千年来のお家芸なのか、古今東西の典型的な負けパターンなのか。平家物語に学ぶ戦略と戦術、とかコンサルタントが本を書くレベル。だから語り継がれて大勢の日本人が耳を傾けてきたに違いない。

思うところはもっと小さいところだったのに、観ていてそんな主語が大きい感想まで持ってしまった。やっぱり疲れている。前回より登場人物が減った分だけ骨格に目が向いたか。古典の元ネタに現代的な視点と詩的な語りが入って、とにかく脚本がよくできている。演者を揃えるのが大変な芝居だけど、今後も定期的な上演を望む。

その他特筆として舞台美術。前回は動く階段だけだったけど、今回は加えて海面を思わせる反射する円形の床に三日月形の回転する台を組合せて舞台中央に配置した、月の運航を思わせる美術の圧倒的正解感。高さと動きも作れて戦の場面も映える、次回以降の上演で定番化しそうな松井るみの力作。

疑問だったのは語りの録音。前回は低音過多で聞き取りにくかったけど、今回は低音を削りすぎて聞きやすい代わりに昔のラジオっぽく聞こえる。聞き取りにくいよりはいいけど、いいと思ってあのレベル調整したのかは気になる。

オープニングは前回と同じく数分前から日没と月を待つ体だったけど、若村麻由美以外は全員マスクで参加。カーテンコールも最後は全員マスクを付けて、新型コロナウィルス気を付けつつ客も気を付けろよとの無言のメッセージ。違和感なく成立していた。拍手。

そのほか新型コロナウィルス対策メモ。入場は消毒から自分でもぎり、チラシはロビーに置いて本人ピックアップで触った分は持ち帰れの指示。物販はパンフレットのみ、飲食なし。ロビーの椅子がほとんど取っ払われて入口階に単発の椅子が数席のみなのは会話防止か飲食防止か、休憩時間中にロビー休憩難民になる。客席だけでなくロビーも飲食禁止指示もこっそり飲物を飲むくらいは黙認。客席最前列はフェイスシールドをしていたが配布されたものか、多少舞台に距離を取っていたけど声が勝負のこの芝居なら用意するのは正解。スタッフはフェイスシールド着用。開演前を忘れたけど休憩時間終了間際は声掛けの代わりにボードで注意していたが、アナウンスを流さないのは実効性がないという経験則なのか、理由が知りたい。客席は当初すのこ状に列飛ばしで販売していたのを後から追加販売で、後方端と上階端以外は残っていたものの9割くらいの入りか。退場時は後方から列単位で整列退場実施、上階はある程度待ってから実施。客は見た範囲では全員マスク着用で会話も控えめ。

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