2018年12月15日 (土)

Bunkamura企画製作「民衆の敵」@Bunkamuraシアターコクーン

<2018年12月14日(金)夜>

ノルウェーの田舎町。見つかった温泉を整備して保養にふさわしい地域として宣伝し、町が活気にあふれている。が、温泉整備の発案者であるドクターは、保養客が病気になったのを不信に思い調べたところ、採取ルートが悪かったため汚染されていることがわかる。この事実を公表しようとするが、市長で温泉施設長も兼ねる兄は影響の大きさから発表を見合わせるように弟を説得する。それでもドクターの発表の意思は変わらなかったが、兄は具体的な町の損害を算出してドクターに賛同する人たちの説得を開始する。

イプセンでまだ見たことのなかった一本。タイトルが半分ネタばれだけど、実に設定の上手な、これは揉めるに決まっているだろうという状況で意見を変える人たちの姿を描いた秀作。自分には多数派がついていると最初にドクターに言わせて、後で多数派を非難するというあの脚本の意地悪さ。

加えて演出で上手だったのが、堤真一演じるドクターを単なる正義の味方にせずに、日常生活にやや想像力の欠ける人間として描いたこと。町の住人が、持っている土地や株券がパーになったり、失業したり、そこまで可能性を考えてなお決断するなら立派だし、そこまで考えたら行動に移れないとも思うけど、あの態度では他人事ながら手のひらを返されても不思議ではない。盗人にも三分の理というけど、観ていて市長や記者や不動産協会会長の立場に感情移入の対象が移ることが一再ならずあって、その点では芝居として実によいバランスだった。観た人に、誰の意見に賛成するか訊いてみたい。

編集長の谷原章介と、不動産協会会長の大鷹明良がいい感じ。兄で市長の段田安則と、ドクターの一家に味方する木場勝己は実にはまっているのだけど、個人的にはいつも似た役どころで観ているので、逆の役で観たかった。あと、音響が実に上手。普段は舞台から飛んでくるような音だけど、今回は劇場に音が湧いて充満するような音響だった。あれは劇場改修の成果なのか、今回の音響デザインがよかったのか、知りたい。

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2018年10月30日 (火)

青年団「ソウル市民1919」@こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2018年10月27日(土)夜>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。初代の大旦那は病気で寝込んでおり、孫娘は離婚して戻ってきているが、息子達が手がける商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客をおいて裕福に暮らしており、興行のための相撲取りまで呼んでいる。が、朝鮮人の使用人たちの姿が見えない。表通りでは朝鮮人たちが大勢集まっているという。

1919年の3月1日に行なわれた三・一運動を背景にした芝居、と言っても当日パンフに書かれていた通り、三・一運動というものは私も知らなかった。日本からの独立を目指し(て失敗に終わっ)た運動が始まった日を借景に、内地(日本)に嫁いで憧れていた日本が嫌になった長女とか、大喰らいを責められたり八百長の興行師に従ったりするのが嫌になって憧れの南国を目指して退去する力士とか、日本から京城に来て居ついているオルガン教師とか、日本から独立する人たちを描く。それが同時に、独立できない、独立という発想すらない日本人を描くことにもつながる。冒頭から、ほぼ朝鮮育ちなのに漢字混じりの朝鮮語のビラが読めないという場面が象徴的。内地に行って初めてあんなに大勢の貧乏な日本人を見た、何もかもがじめじめしている、朝鮮のほうがいい、という長女の台詞は、「中橋公館」で描かれた日本への距離感に似ている。

昼に観た「ソウル市民」が嫌な面を上手に切取って描いたのに比べると、こちらのほうがより日本人への批判精神が多い印象で、その点に2000年初演、「ソウル市民」から11年の差が感じられる。替歌の東京節で締める終わり方、とりあえず歌で締めるのは近作の「もう風も吹かない」や「日本文学盛衰史」でもあったけど、このころからすでにやっていたのだと発見。

役者はもういつも通り、好きな人でも好きな役でも選んでくれという出来。そこから無理矢理名前を挙げると、「ソウル市民」と2本通して中心どころで活躍したのが山内健司と荻野友里、2本通してジョーカーのような立場をきっちり演じて世界観を拡げたのが太田宏と木崎友紀子、2本通して似たような役でも幅の広さを出して見せたのが井上みなみ。

終わってから渋谷に出たらハロウィンの仮装だらけで、100年前から現代にワープした違和感があった。

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青年団「ソウル市民」@こまばアゴラ劇場

<2018年10月27日(土)昼>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客もおいて裕福に暮らしている。いつになく来客が多い一方、出かけるものも多い。来てほしい客が来なかったり、来てほしくない客が来たり、いつの間にかいなくなったり、なぜか出かけていったり。

日韓併合が1年後に予定されている1909年を舞台に、というのは分かっているけど、今どき朝鮮人という単語が出てくるだけでどきどきする。朝鮮人を対等に扱っているつもりですでにそれが差別意識の発露とか、朝鮮人の使用人がいる前で朝鮮の悪口を言ってフォローするとか、フォローがフォローになっていないとか、あの手この手で本人たちが自覚していない差別感を極めて自然に描く。朝鮮人に文学は難しいといいつつ日本語を間違える長女に、実は熱心に日本語を勉強している朝鮮人の使用人が日本語の間違いを指摘する場面だけでも、凡百の脚本化が到達し得ない領域。

最近の芝居よりは、少なくともこの後に観た「ソウル市民1919」よりはシャープに思えて、でもそれもほんの少しだけこなれ方が足りないくらいのもの。登場人物のそこここに色恋の気配が漂うあたりは、「S高原から」や「カガクするこころ」のような初期らしさを感じさせる。近代口語演劇はこのとき描く対象を見つけたと平田オリザは当日パンフで書いていて、1989年の初演からどれだけ脚本に手が入っているのかは知らないけど、30年経った今観てもまったく古くない。追加公演も出ているので観たことのない人はこの機会にぜひ。

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2018年8月28日 (火)

キョードー東京企画招聘「コーラスライン」@東急シアターオーブ

<2018年8月23日(木)昼>

ブロードウェイのオーディション。主要な役ではなくコーラスダンサーのオーディションだが、それでも競争は厳しい。最終候補に残った16人の候補者から採用されるのは半分だけ。何としても仕事がほしい候補者たちに対して、履歴書に書いていない自分のことを話してほしいと演出家は依頼する。ライバルを前に候補者たちが話すのは、自分の子供時代から今の環境まで。

名前だけ知っていて観たことがなかった有名ミュージカル。候補者のスピーチとそれを聞く他の候補者の内心の声とを歌にしつつ、演出家も含めてのあれこれを上手に2時間にまとめる手際のよさ。所々に華やかさはあっても、事前に想像していたミュージカルらしくないというか、全体に候補者の話が暗いというか湿っぽい話に寄っていて、希望を述べる場合もその前提にあまりよくない境遇がついくるような話。いろいろあってもオーディションは厳しい、ましてやコーラスダンサーのオーディションに応募してくる人たちの生活もお察し、というドライな競争世界が極端に日常化したアメリカショービジネス界ならではこそ、ラストのあっさりさも含めて、この湿っぽさが潤いとして成立すると思われる(別に日本が厳しくないというわけではなくて、日本だとさらに湿っぽいほうに偏ると思う)。

構成では、もう少しダンスが多いかと思っていたけど、歌がメイン。歌と演技は上手くて、だいたい台詞の量と役者の力量が比例して、そこにも厳しさを感じる。ただダンスはそこまで感心できなかった。コーラスダンサーだからそんなに上手い設定ではないけど、わざと下手にしたのではなくダンスはそこそこで見切った印象で、そこが不満。あとオケか音響かわからないけど、音楽が薄く、立体感に欠けた。

一度は観られてよかったけど、来日公演とはいえこれでS席13000円は高いという感想。いろいろなパートが、もう少しずつ何とかしてほしかった。

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2018年7月30日 (月)

DULL-COLORED POP「1961年:夜に昇る太陽」こまばアゴラ劇場(ネタばれあり)

<2018年7月23日(月)夜>

1961年の福島県双葉町。農家の長男は東大生だが家業を継がずに物理学を生かした仕事に就きたいと実家に頼むために帰郷する。次男は理解するも祖父とは喧嘩になる。その長男が帰りの汽車で一緒になった「先生」は町長の家に用事があるという。そのころ町では山高帽をかぶった怪しい男が目撃されるが、農家の三男たちは少年探偵団気分で正体を突き止めようとする。

福島三部作と銘打った連作の一本目。家族の対立を描く場面や、三文芝居的なラブコメや、人形を使った少年達など思いっきり素っ頓狂な場面を前振りに、双葉町に原発が誘致されるまでを描く。三部作で時間に余裕があることもあって、そのころの東京にいる人間からみた未来と科学技術がどのくらいまぶしかったかと、住んでいる本人達が認めるくらい双葉町がいかに貧しかったかとを、あの手この手で描く。

その後にくる、誘致のための土地の買収交渉の場面の思惑の交差。科学を信じつつ営利企業としても行動する者、この機会を逃さずに発展につなげたい町長たち、長男から実家を継がないと言われて言い分は分かっていても絶望していたところに転がり込んだ機会に悩む祖父の、三者三様の立場。調査と取材をした結果とのことだけど、これが本当なら、誘致をした側も受けた側もこうやって行動するよな、自分がその時その中の一人だったら同じ決断をするよな、という気にさせられる展開。前回公演の「演劇」でもあったように、この山場の場面の関係者もとても演劇的な立場に置かれて、ある人は自分から、ある人はやむを得ず、演劇的に振舞うように追込まれていく。

この場面が、何と言うか、いかにもありそうなやり取りで世の中は演劇的な場面にあふれているのだなという感想と、演劇で演劇的な場面を上演しているのにこれは事実に基づいて構成されたのだという事情と、その後に事故が起こるということを知っていることとが混ざって、観ていて胸焼けするような場面だった。

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2018年6月24日 (日)

世田谷パブリックシアター企画制作「狂言『楢山節考』」世田谷パブリックシアター

<2018年6月23日(土)昼>

主人に無断で出かけてしまった太郎冠者が家に戻っているという噂を聞いて主人と次郎冠者が訪ねるも居留守を使う太郎冠者を引っ張り出すべくあの手この手「呼声」、食料が乏しいため70歳になると姥捨の風習がある山間の村でまだ1年あるのに行くという老母とそれを止めきれない息子が姥捨の山に行く「楢山節考」

能の回、狂言の回を組合せたプログラムのうち狂言のAプロの回を観劇。軽い前半と地味で力強い後半の組合せ。前半は居留守を使う太郎冠者を引っ張り出そうとする呼びかけがエスカレートして、節や拍子や踊りまでつける話。簡単といえば簡単な話だけど、なんとなく一緒に手拍子を叩きたくなるあたり、簡単に見えて結構な実力なんだろうと想像。後半は狂言なのに笑い要素皆無の、芝居要素の強い一本。タイトルだけは聞いていた話だけど、さっさと山に行けと言う村人、まだ山に行きたがらない親を追い出す他家の息子、山に行きたがる親を止められない息子と、厳しい村の生活に合わせて思い起こされる幼少期?の思い出。それをまとめた手際と仕上げた腕前は満足だった。けど、貧乏は嫌だとつくづく思わされる1本でもあった。

もう1本のBプロは能で「鷹姫」を上演して、「生きる」ことと「死ぬ」ことを並べたプログラムにしたと当日パンフで野村萬斎の説明。Bプロは観られないけど企画の勝利という気がする。

<2018年6月28日(木)追記>

感想を清書。

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2018年4月 9日 (月)

シス・カンパニー企画製作「ヘッダ・ガブラー」Bunkamuraシアターコクーン

<2018年4月7日(土)夜>

有名な将軍の娘として生まれ、社交界の華としてもてはやされたヘッダ・ガブラー。父が亡くなって結婚した相手は次期教授の有力候補だが、新婚旅行中も新妻よりも学業調査に熱心で、しかも母代わりに育ててくれた叔母にマザコンの気がある。新居の手配をしてくれた判事からは事あるごとに言い寄られる。今後の生活を考えて倦んでいる新居に、学校の後輩が夫を訪ねてくる。家庭教師として務めていた、夫の友人でありライバルである男性が町に出たまま戻らないため呼び戻すのに協力してほしいという。夫はその頼みを聞き入れるが、その男性はかつてのヘッダの恋人でもあった。

初日観劇。ものすごい悪女の話と聞いていたし、確かにやったことはひどいけど、ヘッダの悩みに寄り添った、ヘッダの置かれた立場に同情的な演出だった。展開を端折り気味なところもあるけど、130年前の脚本なのに設定だけ置換えれば現代でも通じるような話で、さすが「人形の家」を書いたイプセンの脚本。やることなすこと食い違っていく後半の展開などさすが。

夫役の小日向文世と後輩女性役の水野美紀が初日から快調な仕上がり。ヘッダ役の寺島しのぶがやや固かったけど、これからよくなっていく気配十分。時代物なので衣装が丁寧なのも嬉しいポイント。細かいところで、庭のスペースを造るために横に回転しているのに廊下はまっすぐという美術の力技もよい感じ。まだ観ていないならここで一度は観ておきたい芝居。

不思議だったのは、休憩含めて2時間30分と劇場にも貼られていたのに、カーテンコール含めて終わってみたら2時間5分しか経っていなかったこと。何か理由があって直前で丸ごと飛ばした場面でもあったのかと疑われるけど、観た印象では展開は端折り気味でも特につながりに不自然さは感じられず。どうなんだろう。

<2018年4月10日(火)追記>

感想書いてから思いついたのは、イプセンは後輩女性のほうに新世代に「脱皮」した女性らしい行動力を描いて、ヘッダに旧世代の女性の絶望を体現する役割を振ったんだろうなということ。で、男性側は新世代が悲劇に見舞われて旧世代がなぜか居場所にはまって生延びるという皮肉な構造。いい芝居だった。

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2018年3月 1日 (木)

世田谷パブリックシアター企画制作「岸」シアタートラム(若干ネタばれあり)

<2018年2月28日(水)昼>

生まれてすぐ母を亡くし、父は旅行に出かけたまま帰ってこないため、母の親族に育てられた青年は前衛映画の俳優もやっている。ある晩、父の遺体が見つかったため引取りに来てほしいと連絡が入る。父の遺体を母と同じ墓地に埋葬しようとしたところ、母の親族から大反対される。父の遺品のスーツケースから自分宛に書かれて出されなかった大量の手紙を見つけた青年は、他の人には聞こえない父の声が聞こえるようになる。母と同じ墓地への埋葬を諦めた青年は、亡命してきた父と母の祖国に埋葬しようと遺体と一緒に旅に出る。

」と同じ作者による、レバノンと思しき祖国での旅。不思議な脚本で、死んだ父親や、小さい頃に読んだ物語の主人公が、青年とだけ話せる形で登場するのはまあ演劇っぽい。それが祖国への旅以降、内戦で苦しんだ若者たちが、遺体の埋葬場所を探すのに賛成してだんだん集まって、その途中で親との悲劇を吐露して共有していく過程が、具体的なのに寓話っぽくて、カウンセリングのような展開を辿る。どうやら仲間内で案を出して作者がまとめるスタイルを取っているらしいけど、さすが「炎」と同じ作者による脚本で、その重い現実感とたどり着く果ての感じがさすがで見所多数。合流する若者の一人がアンチゴーヌと呼ばれる場面、国に対抗して個人の筋を全うしたと言いたいのだなというのはこの前観たばかりなのでわかった。

ただちょっと今回は「炎」ほど感心はしなかった。まず演出でいうと、1幕目の冒頭から3分の1くらい、えっ、と思うくらい誰一人として仕上がっていなかった。一人二役以上やっているのだけど、祖国の場面になってから見違えるようになって、ああこっちに注力するために捨てたなというのが透けて見えた。たぶん時間が足りない中での最善の判断を下したのだろうけど、結果だけ観る側としてはいただけない。あと脚本が、長いのはいいけど、ラストの場面はそれまで言えなかった残り全部を詰込んで明らかに長すぎて、さすがにダレた。勝手に切るわけにもいかないだろうけど、ここで終わってしまえという場面が3回くらいあったのは、観ていてつらいものがある。「約束の血4部作」の第1作らしいので、これが洗練されて「炎」につながるんだなという印象。あとスタッフワークはおおむねよかったのだけど、最後に結ぶあの小道具(ネタばれにつき内緒)が突然増えるあたり、こなれていない。全体に時間が足りない状態で洗練させる余裕がなかったんだろうと推測する。

脚本はどうしようもないけど、演出は千秋楽までに育つことを期待。

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2018年2月25日 (日)

ホリプロ企画制作「ムサシ」Bunkamuraシアターコクーン

<2018年2月24日(土)昼>

巌流島の決闘で勝利したものの、止めを刺さずに去った宮本武蔵。6年後、鎌倉で武蔵が建立を手伝った寺開きの最中に、怪我が癒えた佐々木小次郎が乗込んできて果合いを申し入れる。その日が修行の初日でもあったため、修行が終わる3日後に再度決闘することが決まったが、武蔵が策略を行なわないか見張るとの名目で小次郎も修行に参加して寺に泊まることになる。その3日間に起こる、さまざまな事件、そして決闘の行方。

2014年に観て以来2度目。前回とまったく同じキャスティングで実現。もともと上手な人たちばかりのキャスティングだけど、全員全然緩んでいなかった。他の舞台だと暑苦しさを感じなくもない藤原竜也の熱演もこの舞台だとしっくりする。今回は観てわかるくらい振付全般で動きがきれいと思ったら、殺陣(國井正廣、栗原直樹)だけでなく振付(広崎うらん・花柳寿楽)、能指導(本田芳樹)、狂言指導(野村萬斎)と動きをつけるだけで4パートもあった。狂言指導が野村萬斎とか、贅沢な布陣。さすが蜷川幸雄の舞台。

脚本全体への感想は初演と同じ感想。強者の立場の振舞を示唆して、弱者は納得いかないだろうと思う。けど芝居としてはこの上なく上手にできている。3時間の長さも苦にならない。全体にネタも快調な脚本だけど、すでにネタばれしている観客が多かったようで、剣術指南の場面は「ああこれこれ」みたいな中途半端な雰囲気になっていたのが残念。吉田鋼太郎が他の場面でネタを入れて飽きさせないように客席を転がしていた。スタッフワークも含めて仕上がりは文句なし。前回より磨きがかかってさらに上を行っていた。

もしもう一度上演するなら蜷川幸雄七回忌で4年後だと思うけど、やや高齢のキャストから同じキャスティングで観られるかどうか考え込むところなので、場所が苦にならない人は3月上旬さいたま芸術劇場の当日券を狙ったほうがいい。蜷川幸雄の演出からほとんどいじっていないし(音響を若干分かりやすくしたくらいか?)、キャスト全員がノっているので、蜷川幸雄を観たことない人には特にお勧めしておく。

なお音響オペの椅子には蜷川幸雄の写真が待機。この劇場で本番中に演出家がよく座っている位置ですね。

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2017年12月30日 (土)

マームと誰かさん「ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜」VACANT

<2017年12月23日(土)昼>

これまでに発表された作品、私物、本人および存命の父親へのインタビュー、一緒に仕事をしたことがあるブックデザイナーの名久井直子からのコメントを元に、歌人・穂村弘が重ねてきた引越しの日々とその両親とについて構成された話。

マームとジプシーが他ジャンルの作家とのコラボレーションに取組む企画をマームと誰かさんと呼んでいるとのこと。自転車キンクリートと自転車キンクリートSTOREみたいなものか。「小指の思い出」がさっぱりわからなかったのでいつかもう一度と考えていたところこれならもう少し分かりやすいだろうと観てみた。

美しかったけどわかったとは言いづらい。一般的な芝居と比べて何が違うかを考えたけど、前提知識を芝居中で説明していないししようともしていない。「詩はリズム、芝居はテンポ」という台詞があったけど、公開情報その他で前提知識を仕入れてから観るか、ひたすら流れに乗るか、どちらかの態度で臨まないといけない。すごく大雑把な感想だと詩人が役者と映像と音楽を使ってDJをやっているような。野田秀樹を最初に観たときのほうがまだ何か分かった気になっていた。役者の声を含めて音に気を使っているのはわかる。

ほぼ全編、青柳いづみのひとり芝居。穂村弘(のエッセーや短歌を台詞として語る)本人と思しき役や、(映像の)穂村弘へのインタビュアーや、(映像の)穂村弘の父親へのインタビュアーを演じる。その中に名久井直子を演じる場面があるのだけど、観ていたこちらが一瞬戸惑うくらいがらっと演技を変えて、あそこから観る姿勢が変わった。出ずっぱり喋りっぱなしで、でもあまり役者本人感の薄い青柳いづみが巫女っぽいと思ったら、本人も「私は媒介物」と言っている記事を見つけた(前編後編)。もっと他の芝居にも出ればいいのに。

あの芝居の前提として青柳いづみの声と演技がないと多分成立しない。しかも藤田貴大の演出がないと成立しない。それは演劇をライブ体験として捉えるなら強みだけど、シェイクスピア的な後世への残り具合はあまりなさそう。それはつまるところ脚本構成が弱いんじゃないかと思うのだけど、今時は上演を映像で残しておけば上等で他人の上演なんて真っ平ごめんなのか。それとも見慣れたらまた印象がかわるのか。

チケットもチラシもないので少しだけ出ていたもうひとりの男性役者やスタッフの情報は不明。公式サイトにもみつからない。あと当日パンフはおろかチケットもないので、こうやって書いてでもおかないと記録が残らない。チケット作るだけでも手間だとおもうけど何とかならないものか。

会場は原宿らしいおしゃれなスペースで、窓があって遮光していないので、昼と夜とで雰囲気が大幅に違うと思うけど、個人的には昼に観られてよかった。夜に観たら怖すぎる。

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