2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

2019年6月 3日 (月)

ジエン社「ボードゲームと種の起源・拡張版」こまばアゴラ劇場

<2019年6月1日(土)夜>

女が頑張りすぎて体調を崩したため東京から地方に引越してきたカップル。男は働かないでボードゲームに熱中していた経験を生かしてボードゲームカフェを開こうとする。この町に住む、東京時代から知合いだったボードゲーム愛好家たちが集まってくれるが、東京の倉庫から送ったはずのボードゲームが届かない。東京で何かあったようだ。ボードゲームがなく開店できない店に、ネットで調べたという女がやってくる。

初見。ボードゲームカフェと東京の話に関わる生活物語と、登場人物同士の実際に話したのか空想の世界なのかわからないダイアローグと、カードを使った独自ゲーム(「人狼系」って言っていた)を活用した信頼と不信に関する世界とが、時系列をごちゃ混ぜにして展開する。なかなか難しい。出だしから平田オリザと野田秀樹が混ざったような同時多発会話(ある組の会話が他の組の台詞に対応する)を、それもひとつの役が複数の組をまたいでこなす場面から始まって面食らう。

先に書いておくと、役者は粒が揃っている。役を把握しつつ、面倒な展開を消化して、きっかけだらけと思われる芝居をそんなそぶりもなしにこなしている。さすがこまばアゴラ劇場に出る劇団には一定の水準がある。あとこの劇場を横に使って、上手下手中央に加えて上までアクティングエリアにして、複雑な展開を場所の違いでサポートしていた(青年団が「東京ノート」で使って以来2回目の形)。お金がないのにたかがお金と言ってしまう思いやりのつもりが無神経でそれでいて一片の真実がなくはない台詞とか、沈黙だけで1分以上持たせたりとか、場面場面に見どころも多い。

ただ、3つの世界とも、相手への信頼と配慮の欠如や、一方通行で伝わらないことへの諦念など、メタな視点での共通点がほとんどで、演じられている内容自体がなかなかシンクロしてくれない。最後に強引につなげる手腕は嫌いではないけどそこまでが長い。85分だったけど情報量が多いので体感時間はもっと長い。あと、東京の出来事は最後までぼかされているけど、これだけ役者間で共通理解がなさそうだった。あるいは、脚本演出に共通理解を見せるつもりがなかったか。それと横長の劇場の使い方が災いして、複数個所での出来事が一望できず視線がさまよう場面もあった。トータルでは、個々の場面や同時多発会話のつなぎ方に気合が入りすぎて、全部を通してみたら流れをつかむのに一苦労する仕上がり、という感想。もう少しばっさりと整理してほしかった。

なお、開場直後から青年団よろしくゼロ場として劇中のボードゲームをやっているので、早めに入場してそれを眺めてルールを把握しておくと本編を見るのが少し楽になるのでお勧め。当日パンフにもルールの記載があるけど、見たほうが早い。

2019年5月21日 (火)

イキウメ「獣の柱」シアタートラム(ネタばれあり)

<2019年5月18日(土)夜>

2001年、高知県のある田舎町。裏山に落ちた隕石を探しに行った天文マニアの若者が餓死して発見される。天文仲間としてやはり近所に住む男性は先に拾った隕石を隠し持っていたが、自宅で妹や仲間と調べているうちに隕石を見て時間を忘れ、同時にこの上ない幸福感を覚える。この隕石の効果らしいと気がついた3人が取扱いを相談しているところに、渋谷の交差点で大勢の歩行者を多数の車が轢く「事故」が起こる。

初演を大幅改定しての上演。役者の好演とは別に「名作を大幅改定というけど、振返ればあそこが時代の境目だったと今は思うので、改定しても成立できるのか危ぶんでいる」と事前予想に書いた通りの仕上がり。オープニングの謎の演説が脚本家からのギブアップ宣言なのだけど、初演を観ていないとそれはわからない。

後日追記する。初演を口コミプッシュした観客として、長くなってもこれは何とかして言葉に残したい。

<2019年5月23日(木)追記>

先にいつもの話を書くと、妹役の村川絵梨が初演よりアグレッシブな役を造形して新味、市川しんぺーと松岡依都美が現代では協力し未来では反目する2役でこの特に松岡依都美が自然に役を切替えて上手、劇団員は芝居を把握して安定度よし、カタルシツ演芸会から想像してやや不安だった薬丸翔と東野絢香も柄に合った役のためかかなり安定して観られた。スタッフワークは音響に注目。

で、長くなっても言葉に残したかったのが以下。おそらく過去最長。完全ネタばれなのでこれから観る人は読まないほうがいいです。初演の記憶がうろ覚えでこんな文章を書くのも良くないのだけど、自分のブログなのだから恥はかき捨ての独断で書く。事実誤認や記憶捏造していたらそれは当然こちらの間違いなのでご容赦。

*****

「獣の柱」初演の東京公演は2013年5月から6月、シアタートラムで上演された。東日本大震災と原発事故の衝撃は落着いてきていたものの、リーマンショック以来の世界的な不況と、そこから来る円への資産退避による円高が長く続き、企業は雇用を控えていた。第二次安倍内閣が成立したのは前年末で、経済が回復するのはもう少し先のこととなる。そのちょうど6年後、同じシアタートラムで大幅改定と銘打って再演された。

私たちはあなたたちに伝えることがあってやって来た、そのために言葉を学んだ、ところが何を伝えたいのかを忘れてしまった、私たちが伝えたかったのは言葉では伝えられないことだった・・・。不思議な格好をした「男」が観客にこのような演説を行なう、初演になかった場面から再演の「獣の柱」は始まる。初演では2008年と2096年の、再演ではそれを2001年と2051年に変えて、現代と未来の2つの年代を描くのは変わらない。ただし、特に未来の年代の扱いは大きく異なる。

高知の田舎町に落ちた隕石を拾いに行った天文マニアの若者が不審な餓死で発見される。餓死というより過労に近いという。天文仲間の兄と妹、天文仲間の部長の3人が「見ると時間を忘れて固まる代わりにこの上ない幸福感を覚える」隕石が原因だと気がつく。先に拾っていた隕石の扱いを相談するために、妹の伝手を頼って東京の知人に相談に行くが、そこで兄が行方不明になる。やがてこの隕石の超大型版である「柱」が世界各地に降り注ぐ。残された2人は人口密度の高い地域に柱が落ちていることに気がついて、人口の少ない地元でサバイバルするためのコミュニティを作る準備を進める。現代の場面の主要な展開は初演も再演もほぼ同じである。

大きく異なるのは未来の場面。初演では、あちこちに柱が立って地域間の人の往来が難しくなった時代、あるコミュニティでは観ると幸福を覚える「御柱様」として御神体扱いで祭られている。これを取扱う「宮司」は、御柱様を拝みに来た女性信者に柱を見せて固まっている間に身体を触るが、女性信者の息子に見咎められ、同時に、この息子が柱を見ても固まらないことが知られてしまう。初演ではこの場面から始まり、柱の能力と権威に依存して運営されていたコミュニティに波紋が起きていく未来の様子が現代の場面と並行して進んでいく。やがて他のコミュニティから少女がやってきて、その少女も柱を見て固まらない一人であることがわかる。後で書くが、再演では現代の場面の後にオチのように短く描かれるだけで、大幅に短縮されている。

この初演で脚本家は、旧来の価値観の暗喩として隕石と柱を持ち出した。寄らば大樹の陰、大きな組織に属すれば一生安泰、ただしその組織での理不尽は一切我慢しなければいけないが、それが幸せなのだ、という価値観。理不尽を上回るリターンが期待できた高度経済成長期に生まれた価値観が歪んだのは1991年のバブルの崩壊後だった。実際には1997年の山一證券破綻で端を発したバブルの蓄えを食潰して耐えられなくなった不況、その後一度は持ち直したものの2007年のサブプライムローン問題から2008年のリーマンショック倒産に至る世界的な不況、そして東日本大震災と原発事故により、長い期間就職難と極端な買手市場が形成されていったことによる。

もともと大組織で働けていたのは一部の人間とはいえ一定数はいたところが、それなりの大学を卒業した若者ですら就職にあぶれるようになった。またそこに目をつけて、若者をこき使う、駄目になったらいくらでも代わりがいるという前提のビジネスモデルを作る企業が目立つようになった。そのため、安泰でもないのに理不尽を耐え忍ばないといけない、にもかかわらず見返りの給料もわずかだけ、という労働者が増えた。それが目だった社会問題になったのは2008年のワタミの過労自殺問題からだと記憶している。26歳で入社して2ヶ月の社員が、140時間の残業に絶えられず自殺した。社長の渡辺美樹がまったく反省していないサイコパスなコメントを出すことで、ブラック企業という言葉が流行したのもこれが端緒だった。なお、渡辺美樹は初演後の8月の参院選で、この過労自殺の裁判が続いているなか、自民党の参議院議員として当選し、再演が終わった後に実施される次の夏の参院選には再出馬しないことを表明した。

見ると固まる隕石や柱を用意し、幸福感と引替に過労と餓死で死んだ若者を登場させ、その柱が人口密度の多い場所(大きな組織の多い場所)に落ちるものとした脚本は、このような状況にも関わらず、組織に属すれば安泰だとまだ信じている人たちへの批判としてこの上ない設定だった。柱を見ても固まらない少年少女は、すでに崩壊した大組織信仰を信じない若者を模したものであり、柱を見て固まっている女性信者を触る宮司は買手優位をいい事にハラスメントの横行するコミュニティの例である。

その後、現代の場面では、他のコミュニティが柱で壊滅して押寄せてきた難民の受入が限界に達したとき、部長は「俺が出て行く、もっと受入れられるように新しいコミュニティを作る」と宣言する。協力者だった仲間の妹についてきてくれるよう告白し、仲間の妹はそれを受入れ、2人は出て行く。そして初演の未来の場面では、柱の影響を受けない2人を利用してコミュニティの勢力拡張を図ろうとする村長たちに対して、コミュニティの郷土家(実は現代の2人の子孫)である男は少年少女の利用に反対する。村長たちの強引な進め方に怒った郷土家が「2人ともコミュニティから出て行け、こんなところで利用されるな」と叫ぶクライマックスとなる。どちらも出て行く2人の、困難かもしれないが希望ある未来を予想させる結末であり、また未来の場面に現代の2人の子孫が登場することで、現代の2人はその後も上手くいったことを間接的に描いている。と同時に、大企業信仰が幻想だと気がついている若者なら、先行きのない組織でこき使われて、最悪自殺するまで追込まれるくらいなら、どこか違う場所に新天地を求めろという脚本家のメッセージでもあった。

当時の社会状況をSF的な状況に転換して描き、「出て行く」「出て行け」で2組の、そして観客の背中を後押しする対の場面でつなげた感動は、私の拙い筆力では伝えられないほどに大きく、口コミプッシュも書くに至った。初演の感動は本当に得がたい体験で、後に「複数あるだろう芸術の定義のひとつを『それを体験した人に、人生に立向かうための勇気を与える表現』としてみたい」と書くくらいの衝撃だった。蛇足を書くと、この年は私のこれまでで一番仕事が忙しい年で、だからこそ、初演のメッセージがより深く刺さった面もある。

ところがその後、日本の社会状況が変わり始める。

2013年の日銀の総裁交代とセットになったなりふり構わない財政出動、また東京オリンピックの決定による建設、不動産業界の特需で、景気がようやく回復傾向となる。だが今度は様々な場所で人口の不足が目に付くようになってきた。これには3つある。一つ目は、昔と比べて年齢あたりの人口が減っている中、長い不況で採用を控えられたため本来働き盛りのはずの年齢層で就業経験者が少なかったために回復した景気に追いつけない労働人口の不足。二つ目は、それ以前から言われていた人口減の推移予想が、本来なら結婚と子育ての最中のはずの若者達が定職に就けなかったため結婚できず出産数減に拍車がかかることでようやく世間に認知されてきた、いわゆる本当の人口減。そして三つ目の、東日本大震災後に地域のハードウェアが復旧したにも関わらず、仕事その他の理由で避難していた住民が戻らない過疎化の問題は、やむを得ず他のコミュニティに移住した人たちが、元のコミュニティよりも良い環境を期せずして体験できた結果とも捉えられる。歪んでいた価値観は幻想だと、広範囲な層がようやく言えるようになった。

その流れを決定的にしたのは、2016年の年末に起きた2つの事件となる。ひとつは佐川急便の荷物蹴り飛ばし動画事件。インターネットの普及による通販市場の拡大で、佐川急便とクロネコヤマトが値下げ合戦をして、通販各社は送料無料が当たり前だった。ところがこの動画をきっかけに、現場が追いつかず人手不足であること、また普段大勢が当たり前に利用していて、水道と同じくらい当たり前の存在と認識されていた宅配便業界が、このままだとなくなる、それは自分たちが不利益をこうむる、と利用者が認識を改めることにつながった。その後、宅配便業界の値上げ交渉が成功したことからも、この一件をきっかけに、労働人口が不足しているという事実が周知されたことがわかる。

そしてもうひとつは、東大卒業生で電通に入社した新入社員の女性が過労からうつになり、入社9ヶ月にして自殺した事件。東大に入学して卒業した時点で誰がどう考えても地頭の良さは疑うべくもなく、当座の生活費に困るような家庭環境でもなく、しかも言っては何だが美人で、卒業から間もないので転職したければ働き口に困ることはないはず。そのような人間でも、まったくサポートのない環境で、上司のパワハラにさらされ、1日20時間勤務という環境で放置されると、転職や退職という選択肢を思い描くこともできずに自殺してしまう。ワタミの新入社員が2ヶ月で自殺したのとほとんど同じ構図は、メンタルの問題は能力とは無関係だという事実を広く知らしめた。

(誤解を招かないように補足すると、この文章はワタミの自殺した新入社員の能力を貶めるものではない。ただ、メンタルの問題について縁のない人たち、興味のない人たち、誤解していた人たちにも、人間誰でもおかしな環境ではおかしくなるとようやく認識された、ということを説明したいための文章である)

これらを受けて、まず労働者の確保のため求人倍率は上がり、就職難は劇的に改善した。またブラック企業を無くすべく、少なくとも労働時間と待遇についての改善を目指すため、働き方改革(本当は働かせる側改革であるべき)が施行された。ハラスメントについては、発展したSNSを使った告発も広まっており、商売面や労働者確保面でのイメージダウンによる不利益を警戒する企業ほど、自主的に警戒するようになった。ここまでなら、人口減という逆境に直面して、痛ましい事故も教訓にして、ようやく社会状況が好転し始めた、で済む話である。ところがこれをねじれさせる動きが国内外から出てきた。

国内では外国人労働者受入制度の成立である。きついのに給料が安い職業は昔からあって、需要があれば供給があって、留学生の体裁をとって滞在資格を与える学校や、実習の名目で最低賃金すら下回る手当てしか支払われないこともある外国人技能実習制度がそれにあたる。それにしても裏技扱いだったところに、あまりの人手の足りなさに、公式に労働目的の外国人を受入れようという動きになった。自民党は伝統的に個人向けより経済界向けの政策を取る政党なので驚くものではないが、それでも国内の労働者個人にとっては下方圧力として働く政策である。もっとも、外国人労働者はすでに都心ではあふれており、たとえば都内のコンビニエンスストアで日本人の店員を見ることのほうがまれである。だが、そもそも安いバイト代で多能をこなせるバイトがいないと賄えないコンビニエンスストア自体が「若者をこき使う、駄目になったらいくらでも代わりがいるという前提」のビジネスモデルであることには留意したい(一番はオーナーを食い物にする契約が問題だが、それを話すと長くなるので控える)。

国外からは外資系企業、特にIT系の大手企業からは、安すぎる給料の日本企業に勤める技術者が魅力的に見えるようになった。自国の基準で給料を支払うことが日本の技術者達に魅力的に見えることがわかり、目立たないように攻勢をかけることになる。その中で表に出てきたのは、Googleが東大生に年収15万ドルのオファーを出したという話、それと(ちょうどこの文章を書いているときに制裁が始まったが)ファーウェイの研究職に初任給40万円を提示という話である。これは時勢にあった技術を身につけた一部の有能な労働者にとっては魅力的な話であるが、別の見方をすれば、格差がより開く時代になってきた。初演のころでは通用した、若者全体をひとくくりにして応援対象にする設定も、難しくなってきた。

再演では未来の場面は大幅に削られる。柱を見ても固まらない少年はコミュニティの外の廃墟に隠れ、柱の見えない闇夜に母親が食糧を持ってやってくる。元のコミュニティを去って廃墟を訪れた、やはり柱を見ても固まらない少女は、最初からふてぶてしい態度で大人を信じていない。村長が少年を利用しようとするのは同じでも、再演では村長は名前だけで登場せず、村長の意を受けて母親を尾行してきた使用人が、少年を連れ戻そうとする。それを押しとどめるのは初演の郷土家のようなコミュニティの他人ではなく母親であり、肉親以外の身近な人間ですら信頼できない環境におかれている。そこを救うのは、隕石とともに行方不明だった「兄」である。

この兄は初演と再演で大幅に変わった役になる。行方不明だった兄が現代の場面で再度見つかるのは同じだが、初演では、言葉が話せない、けど幸福そうな様子でどこからともなく表れ、隕石をもって脅かそうとする相手から隕石を取上げて食べてしまう。するとその口から七色の虹が飛出し、幸福が広まる。古い価値観を一蹴する演出でもある。ところが再演では、現代の妹の前に言葉を話せずに苦しんで現れ、妹が何とか言葉を教えようとする。そこから未来の場面に飛んで、言葉を話せるようになり、柱を見ても固まらず、不思議な力を持った存在として少年と少女を迎えに来る。そこで知らされるのは、少年が部長と妹の孫であることと、痴呆になった妹に悩んだ部長が柱の前に2人で出かけて自殺したということである。現代の場面であれだけ前向きだった2人が、痴呆になり、結局柱の力にすがって亡くなるという出来事は、2051年という設定と合せて、日本の老々介護を想像させるのに十分である。

助けに来たのでコミュニティの人たちを集めてくださいといわれた母親の声に翌日集まったのが数百人。この場でも少年は母親に、全員一緒に暮らせないかと訴えるが、母はそれを押しとどめ、そばで見ている少女は冷笑を崩さない。そして集まった人たちを前に兄、つまり不思議な格好をした男が、何かを話そうとして芝居は終わる。それは演劇の技術で、実際には冒頭の場面につながる。観客からすれば不完全燃焼を覚える最後ではあるが、伝えたいことがあったのに言葉を覚えたら伝えられなくなったというのは、初演で見せた希望がそのまま成立たない6年後の現在であり、その時代に無条件の希望的なメッセージが出せない脚本家の代弁でもある。

では「獣の柱」がすでに時代遅れになり、将来は通用しない脚本かというと、そんなことはない。なりふり構わない財政出動には限界があること、また、その間に世界に通用する企業がほとんど育たなかったことから、次の不況は前にも増してひどくなることが予想される。そうなったとき、それまでの反動で、柱の価値観を強要される人たちが多く出てくるはずである。その人たちは、再演で描いた決して明るくない未来の中に、初演に近いメッセージを探すことになる。そこで観客の背中を押すことを脚本家がためらわなければ、初演とも再演とも違う、再々演版の「獣の柱」が上演できるはずで、そこに一観客として私は期待する。

ここまでの文章で取上げたものはすべて経済にかかわる出来事であり、経済に振回されてきた価値観のことである。「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と二宮尊徳は言ったが、これだけ経済の影響が行き渡った世の中では、経済に対抗できる価値観が求められている。ここで道徳という単語は集団に求められる振舞という語感があって古く、これからの時代には倫理や哲学や美学という、より個人での価値観を磨くことで、犯罪にも寝言にもならない意思を身につけることが必要とされる。そのような言葉にしづらい価値観を伝えてくれるのも、演劇の持つ力のひとつである。おそらく6年後にはまた大幅に社会状況が変わっているはずなので、そのくらいの期間での再々演を望みたい。

2019年4月16日 (火)

シス・カンパニー企画製作「LIFE LIFE LIFE」Bunkamuraシアターコクーン

<2019年4月13日(土)夜>

 

天体学者の夫と金融機関に勤める妻。子供を寝かしつけるのに苦戦している。そこにやってきたのは夫のボスとその妻。翌日がディナーのはずだったが1日間違えていた。しかたなくありもので間に合わせて応対するが。

 

この応対を3パターン見せるので「LIFE LIFE LIFE」。気の持ちようで人生が色々代わる人と、どの人生でも変わらない人生になる人との対比が脚本のメインかと思われる。でもそこをそんなに強調せず、喜劇を追求したKERA演出。これでもかと受ける客席もすごかったけど、昨今のKERAのぎっしり詰まった芝居からすると1時間半でかなりあっさりした仕上がり。全員いいのは言うまでもないけど、ともさかりえの、ほんのちょっと誇張した演技がものすごく魅力的ということに今さら気がついた。

 

四面客席の舞台を回転させながらなるべく全方面に見せようとするのは「バージニア・ウルフなんて怖くない」のときと同じ。その再演のために同じメンバーを集めたのが流れてこの芝居になって、確かに面白くて文句のない仕上がりだったけど、この豪華メンバーならやっぱり再演が観たかった。

 

あわせて気になったのは、一度は再演を発表したのに、数日で流れて、すぐにこの演目が代案として発表されたこと。別の企画のために上演権を獲得済みだったのかもしれないけど、あんなにすぐに、この4人にぴったりの演目が出てきたのはすごいこと。毎日1本は脚本を読むという辣腕制作者の見事な腕前だった。

 

<2019年4月16日(火)追記>

ネタばれに対して雑すぎた記述を修正。

2019年3月15日 (金)

青年団「思い出せない夢のいくつか」こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2019年3月6日(水)夜>

歌手とマネージャーと付人が、営業先に移動するために夜中の電車に乗っている。煙草を吸いに行った別の車両では、妙な乗客に話しかけられて辟易とする。車中のこととてたいしたことができるわけでもなく、取りとめもなく交わされる会話の数々。

あれと言えばこれと返せるくらい話が合う付合いの長い歌手とマネージャー。別の人間と結婚数ヶ月で破綻した歌手はマネージャーにひそかに好意を寄せているが、独身のマネージャーは歌手がいないときに「夫婦が似るって本当ですか」と聞く若い付人に懸想する。それを察していながら知らん振りして若い付人を遠くへやれないか考える歌手。三角関係の事情がわかるにつれて、何気ない会話が手に汗握る牽制に見えてくるのが見所。別の車両の乗客に銀河鉄道の夜の登場人物を引いて先行きの不安を醸しだしながら、見方のわからない星座盤でこれからの混乱を暗示する手際。

静かな演劇に見えて内面は全然穏やかではない脚本は、これが新作ならさすがベテランと書くところ、初演は1994年2月で25年前。その次が「東京ノート」という初期絶好調時代の1本。なおタイトルは俵万智の短歌から無意識に引用した(気がついて後日許可をもらった)と当日パンフの弁。

ポーカーフェイスのマネージャーを演じた大竹直、付人で歌もいい藤松祥子も好演だったけど、歌手を演じて久しぶりに出番の多かった兵藤久美がいわく言いがたいけど実に良い感じ。

今回の「平田オリザ展」は観たことのない芝居ばかり3本観たけど、どれも夫婦とは何ぞや、という芝居ばかりだったのは偶然か狙ったのか単に少人数芝居を選んだらそうなったのか。あとこの大量の芝居を交代で上演するために美術は共通化して簡単に入替えられるようにしているなと思っていたけど、今回の1本はいきなりごつい美術になっていて、壁や線路をどんなパーツで構成していたのかが気になる。あの狭い劇場でそんなに簡単に入替えられるのか。

青年団「隣にいても一人」こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2019年3月6日(水)夕>

ある朝、目が覚めたら、なぜかわからないけど夫婦だという認識を2人とも持って同じアパートにいた男女。双方の兄と姉が夫婦なので以前から知りあいではあったが、昨日の晩はそれぞれ自宅にいたのに、なぜこうなったのかわからない。とりあえず兄と姉に相談してみるが、どちらにも言い分が伝わらなかったり誤解されたりする。

Aチーム。夫婦だという認識をもっている2人は日常の些細なところから食い違うのに、離婚したばかりの兄姉夫婦のほうが話が合うという対比。発端となる設定こそ突拍子もないけど、それ以外は青年団らしいウェルメイド(で言葉あっているかな)な会話劇。客席から和やかな笑いの絶えない芝居。夫婦はどうやって夫婦になるのか、を描いた小さな傑作。

一度手に取ったパンを皿に戻す戻さないという流儀ひとつでまだ互いに慣れていない状況や同じ環境で育った兄弟であることを表したり、実は兄姉夫婦が離婚していたことが少しずつわかったり、最後の場面で歯磨きとパジャマで今後を想像させつつやり方は違っても噛み合っているところを見せたり、それらを不自然に思わせないように別の展開に混ぜて紹介しておいたりする構成も見事。厳選された情報を適切な順番とタイミングで出す展開は、芝居はこうやって作るんだというお手本のようだった。

2019年2月23日 (土)

青年団「走りながら眠れ」こまばアゴラ劇場(ネタばれあり)

<2019年2月22日(金)昼>

アナキストとして名を上げていた大杉栄と、婦人解放運動や奔放な恋愛で有名だった伊藤野枝。四男を出産する直前から関東大震災直前までの数ヶ月に、その活動からはあまり想像できない、自宅で交わされる繊細な会話の数々。

夫婦のじゃれあう場面のそこはかとないエロに初期っぽさを感じると思ったら、初演が1992年という超初期の作品。日常の夫婦の会話がただただ続く2人芝居だけど、死にまつわる話や憲兵の尾行の様子などは、間もなく憲兵に殺される史実を知っている現代の観客向けのダミーというか背景を補強する話。それらの間に、少年時代に犬や猫を殺して、長じてアナキストにまでなった男が、子供の将来を気にするいい父親に「堕落」していく様子を、翻訳中のファーブル昆虫記のオサムシの話(メスがオスを共食いする)で代弁させて、当時すでに完成された脚本の腕前を見せてくれる。

青年団歴の長い能島瑞穂と古屋隆太による会話は、実在の人物を題材に取っていることもあってか、台詞以上の密度や年月を感じさせる。あとこの2人は声が聞いていて気持ちいい。今が観ごろの完成形で、たぶん台詞を2回トチっていたけどそれも台詞かもと思わせる安定感。いかにも青年団という芝居で、日程を曲げて観ておいてよかったと満足感で一杯の1本。

<2019年3月3日(日)追記>

感想を書いた後で思いついたけど、これ、結婚して子供が出来たら演劇を止めていく演劇人への当てつけで書いたんじゃないのか。

2019年2月12日 (火)

渡辺源四郎商店シェアハウス「過ぎたるは、なお」こまばアゴラ劇場(ネタばれあり)

<2019年2月11日(月)朝>

青森県の、とある施設。かつて2人の息子を育てた母が入居している。入居している人たちは、仲よく過ごす人もあり、部屋で引きこもる人たちもあり。そこに新しい入居者がやってくる。

実にあらすじの書きにくい話だけど、重い話を別の話で包んで、1時間半ないと思えない密度。さすが長年やっているだけのことはある仕上がり。

実は早くになくなった母の代わりに導入されたロボットで、プルトニウムを燃料に半永久的に動くはずだったのに、エネルギーに欠陥が見つかり処分されるところを施設に入り、という背景はそのまま原発事故の敷衍。それを、少しずつひっかかる情報を提示しながら引張り込む。そこに、他のロボットが待つ恋人の話とか、育てた息子達が思惑をもって面会にやってきてからのいきさつを混ぜて、人間とロボットの「人間らしさ」の話に一気に振る幅の広さ。さらに、災害の話とか、ロボットの扱われ方の話とか、ガリガリ君の歴史(笑)とか、情報をちら見せして世界の奥行きを広げる手腕。青森は処理場があるだけにより実感のある話題だろうけど、重い話への重い抗議も間接的に示して芝居らしさも失わないバランス感覚は、さすが長年やっているだけのことはある。

終演後の話だと、畑澤聖悟と工藤千夏が交互に書いて、相手が書いた部分も勝手に書き直して、という手法で書かれたとのこと。どこがどちらの書いたものなのか気になる。役者はひとりくらい青年団出身の人が混ざっていると思ったけど、全員地元の人らしい。大千秋楽だったとはいえ至近距離に耐える演技。凝っているようでいてシンプルな舞台を飽きさせずに使って、まったく文句なし。もっと早くから観ておけばよかった。

遠征の都合で連休のときにしか上演できないとはいえ、東京では追加含めて4日間6ステージしか上演しないのだから、贅沢な話。ただし次回はGWを使ってスズナリで6日間8ステージ。

<2019年2月13日(水)>

感想を清書。

2018年12月15日 (土)

Bunkamura企画製作「民衆の敵」@Bunkamuraシアターコクーン

<2018年12月14日(金)夜>

ノルウェーの田舎町。見つかった温泉を整備して保養にふさわしい地域として宣伝し、町が活気にあふれている。が、温泉整備の発案者であるドクターは、保養客が病気になったのを不信に思い調べたところ、採取ルートが悪かったため汚染されていることがわかる。この事実を公表しようとするが、市長で温泉施設長も兼ねる兄は影響の大きさから発表を見合わせるように弟を説得する。それでもドクターの発表の意思は変わらなかったが、兄は具体的な町の損害を算出してドクターに賛同する人たちの説得を開始する。

イプセンでまだ見たことのなかった一本。タイトルが半分ネタばれだけど、実に設定の上手な、これは揉めるに決まっているだろうという状況で意見を変える人たちの姿を描いた秀作。自分には多数派がついていると最初にドクターに言わせて、後で多数派を非難するというあの脚本の意地悪さ。

加えて演出で上手だったのが、堤真一演じるドクターを単なる正義の味方にせずに、日常生活にやや想像力の欠ける人間として描いたこと。町の住人が、持っている土地や株券がパーになったり、失業したり、そこまで可能性を考えてなお決断するなら立派だし、そこまで考えたら行動に移れないとも思うけど、あの態度では他人事ながら手のひらを返されても不思議ではない。盗人にも三分の理というけど、観ていて市長や記者や不動産協会会長の立場に感情移入の対象が移ることが一再ならずあって、その点では芝居として実によいバランスだった。観た人に、誰の意見に賛成するか訊いてみたい。

編集長の谷原章介と、不動産協会会長の大鷹明良がいい感じ。兄で市長の段田安則と、ドクターの一家に味方する木場勝己は実にはまっているのだけど、個人的にはいつも似た役どころで観ているので、逆の役で観たかった。あと、音響が実に上手。普段は舞台から飛んでくるような音だけど、今回は劇場に音が湧いて充満するような音響だった。あれは劇場改修の成果なのか、今回の音響デザインがよかったのか、知りたい。

2018年10月30日 (火)

青年団「ソウル市民1919」@こまばアゴラ劇場(若干ネタばれあり)

<2018年10月27日(土)夜>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。初代の大旦那は病気で寝込んでおり、孫娘は離婚して戻ってきているが、息子達が手がける商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客をおいて裕福に暮らしており、興行のための相撲取りまで呼んでいる。が、朝鮮人の使用人たちの姿が見えない。表通りでは朝鮮人たちが大勢集まっているという。

1919年の3月1日に行なわれた三・一運動を背景にした芝居、と言っても当日パンフに書かれていた通り、三・一運動というものは私も知らなかった。日本からの独立を目指し(て失敗に終わっ)た運動が始まった日を借景に、内地(日本)に嫁いで憧れていた日本が嫌になった長女とか、大喰らいを責められたり八百長の興行師に従ったりするのが嫌になって憧れの南国を目指して退去する力士とか、日本から京城に来て居ついているオルガン教師とか、日本から独立する人たちを描く。それが同時に、独立できない、独立という発想すらない日本人を描くことにもつながる。冒頭から、ほぼ朝鮮育ちなのに漢字混じりの朝鮮語のビラが読めないという場面が象徴的。内地に行って初めてあんなに大勢の貧乏な日本人を見た、何もかもがじめじめしている、朝鮮のほうがいい、という長女の台詞は、「中橋公館」で描かれた日本への距離感に似ている。

昼に観た「ソウル市民」が嫌な面を上手に切取って描いたのに比べると、こちらのほうがより日本人への批判精神が多い印象で、その点に2000年初演、「ソウル市民」から11年の差が感じられる。替歌の東京節で締める終わり方、とりあえず歌で締めるのは近作の「もう風も吹かない」や「日本文学盛衰史」でもあったけど、このころからすでにやっていたのだと発見。

役者はもういつも通り、好きな人でも好きな役でも選んでくれという出来。そこから無理矢理名前を挙げると、「ソウル市民」と2本通して中心どころで活躍したのが山内健司と荻野友里、2本通してジョーカーのような立場をきっちり演じて世界観を拡げたのが太田宏と木崎友紀子、2本通して似たような役でも幅の広さを出して見せたのが井上みなみ。

終わってから渋谷に出たらハロウィンの仮装だらけで、100年前から現代にワープした違和感があった。

青年団「ソウル市民」@こまばアゴラ劇場

<2018年10月27日(土)昼>

京城で商売を営んで稼いでいる一家。商売は順調で、日本人と朝鮮人の使用人に加えて文人食客もおいて裕福に暮らしている。いつになく来客が多い一方、出かけるものも多い。来てほしい客が来なかったり、来てほしくない客が来たり、いつの間にかいなくなったり、なぜか出かけていったり。

日韓併合が1年後に予定されている1909年を舞台に、というのは分かっているけど、今どき朝鮮人という単語が出てくるだけでどきどきする。朝鮮人を対等に扱っているつもりですでにそれが差別意識の発露とか、朝鮮人の使用人がいる前で朝鮮の悪口を言ってフォローするとか、フォローがフォローになっていないとか、あの手この手で本人たちが自覚していない差別感を極めて自然に描く。朝鮮人に文学は難しいといいつつ日本語を間違える長女に、実は熱心に日本語を勉強している朝鮮人の使用人が日本語の間違いを指摘する場面だけでも、凡百の脚本化が到達し得ない領域。

最近の芝居よりは、少なくともこの後に観た「ソウル市民1919」よりはシャープに思えて、でもそれもほんの少しだけこなれ方が足りないくらいのもの。登場人物のそこここに色恋の気配が漂うあたりは、「S高原から」や「カガクするこころ」のような初期らしさを感じさせる。近代口語演劇はこのとき描く対象を見つけたと平田オリザは当日パンフで書いていて、1989年の初演からどれだけ脚本に手が入っているのかは知らないけど、30年経った今観てもまったく古くない。追加公演も出ているので観たことのない人はこの機会にぜひ。

より以前の記事一覧