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2023年9月18日 (月)

梅田芸術劇場企画制作「アナスタシア」東急シアターオーブ

<2023年9月17日(日)夜>

帝政ロシアに革命が起きてロマノフ王朝は滅亡したが、パリで過ごしていて難を逃れた皇太后以外に、死体が見つからなかったため皇女アナスタシアはまだ生きているのではと噂されていた。アナスタシアを見つけたものには報奨金を出すという話に、サンクトペテルブルクでくすぶっていた詐欺師ディミトリと元伯爵のヴラドはアナスタシアの身替りを探す。そこにやってきたのが偽の国境通過証を求めるアーニャ。記憶喪失だがパリに行きたいとロシア中を歩いてサンクトペテルブルクまでやって来たという。これはものになりそうだと二人はアーニャにアナスタシアの情報を覚えさせてパリを目指す。

この日はこんなキャスティングでした。ミュージカルはダブルキャストどころかトリプルキャストまでやるので忙しいですね。私はこだわらずに時間の都合だけで観に行きましたけど、目当ての役者がいる人は大変です。

・アーニャ:木下晴香
・ディミトリ:内海啓貴
・グレブ:堂珍嘉邦
・ヴラド:大澄賢也
・リリー:マルシア
・リトルアナスタシア:鈴木蒼奈

筋は前半がロシアからの脱出、後半がパリでのあれこれときれいに通っているのでわかりやすいです。木下晴香は台詞はやや軽いですけど、歌は声に重さが乗っていていいですね。個人的にはややチャラいヴラド伯爵を演じた大澄賢也と、なんといっても皇太后をシングルキャストで演じた麻美れいがいいです。

日本語歌詞のイントネーションが曲の旋律に乗りづらいところ、麻美れいだけは少し台詞っぽさを混ぜていたのがよかったです。あれは海外もののミュージカルをやるときの解法のひとつだと思いますけど、他の人はあまりそういうのはありませんでしたね。

他にも劇中劇で白鳥の湖の超ダイジェストをやってくれるんですけど、全員上手でしたね。この前観ておいたのであれは王子様こっちは邪悪な魔術師と中身がわかってよかったです。

この日はアフタートークがありましたが、ちょっとリピーターチケットの宣伝が多すぎた。主役二人はフリートークが苦手そうだったので、事前に聞きたいこと質問しておいた方がよかったのではないかと思います。だいたい客が聞きたいのは、自分が芝居のどこで悩んだか(または大事にしたか)、相手役をどう思うか、同じ役を務める他の役者をどう思うか、くらいに集約されるでしょうし。その点、大澄賢也の「今回はあまり役を作らずに地でいけた」「いくつになってもときめきは大事ですよ」(どちらも大意)はアフタートークとして面白かったです。

あとは映像パネルを多用した美術が本当に見事だったんですけど、あれは映像を映した上にさらにプロジェクションマッピングを重ねて奥行きを出しているそうです。あとパネルとケーブルには絶対に触るなと厳命が出されているとか。あれは、映像も美術も海外のものをそのまま持ってきたのかな。クレジットがよくわかりませんでした。場面転換を素早くするために、オブジェらしいオブジェは上手と下手に固めて、電車みたいな大物はたまにひとつだけどんと出して、非常によく考えられていました。

話だけを考えると、前回の公演から今回の公演の間にロシアのウクライナ進行があって、あとはパリのエッフェル塔での写真撮影騒動があったりして、芝居鑑賞に邪魔くさい現実社会のノイズが増えているんですけど、それはそれ、これはこれで気にせずに観るのがよいかと思います。

2023年5月29日 (月)

インプレッション製作「ART」世田谷パブリックシアター

<2023年5月28日(日)昼>

ここしばらく現代アートに熱中してきた皮膚科のセルジュは、大金をはたいて巨匠の白い絵を買ってきた。エンジニアの親友のマルクを我が家に呼んでお披露目したところ、マルクがこの絵と、絵を買ったセルジュをけなしたことで2人は険悪になる。この2人の親友のイヴァンは双方から話を聞くが、自分の結婚準備が忙しいのも相まって話がうまくできない。3人が集まって楽しむ予定の晩、お互いが歩み寄ろうとしていたが・・・。

ヤスミナ・レザの翻訳物。観たことのある芝居だと「LIFE LIFE LIFE」があります。イッセー尾形、小日向文世、大泉洋という人気者3人が揃ってつまらないはずがなく、実際面白かったのですが、少しひねって来ました。それも含めて面白かったです。

相手の持っている絵をコケにするところから始まって、3人の男の会話のすれ違いから段々と剣呑な雰囲気が高まっていく展開。3人それぞれが性格に欠点があって、だけど相手を非難するときは的確に非難するという、非常に面倒くさい3人です。これを素直に丁々発止で上演すればコメディーですし、実際、笑える場面も多数ありました。

けど、少なくともイッセー尾形はその脚本の流れから外してきました。もう少しこう、喧嘩をするおっさんのみっともなさと、そんなおっさんだけど一寸の虫にも五分の魂があるんだぞというあたりを狙ってきました。おそらく、十五年来の親友でいい年なのにフランス人とはいえこんな露骨に喧嘩をするものかという辺り、脚本の人物造形に一言あったのだと思います。サブテキストを含めて、ごっそり自分のやりたい方向に引寄せた印象です。

小日向文世もおそらくイッセー尾形に乗っていたはずですが、これはちょっと上手すぎてどのくらいずらしたのかさっぱりわかりませんでした。嫌味になりすぎないように注意していたのはわかりましたが、脚本通りものすごく自然に演じたようにも見えるし、脚本よりは丸めたと言えなくもありません。3人の中では一段若い、とはいっても40歳の友人の設定の大泉洋は、ここまで独身だった男の稚気を、脚本が許す範囲と、実際にいそうだな、という範囲の間で最大限デフォルメすることを狙っていたようです。

で、三者三様で微妙に方向性の違う役作りがどうだったかというと、そもそも喧嘩する設定と相まって、面白かったです。何に感心したって、途中からはおっさん3人の喧嘩が続くのに、うるさくない。途中でダレたり、特定の誰かに肩入れして敵味方を作りたくなりそうなものですけど、誰の方向にも倒れそうで倒れないコマが最後まで回りきってラストにつながりました。あれは並の役者には務まらない。脚本には、芸術には不思議な力があるというメタなメッセージもあったように思いますが、それも含めて成功していました。

この3人の出演で演出家が小川絵梨子だと2020年の案内で知ったときに、さすが人気者の演出をまかされるとは売れっ子演出家だ、くらいの感想でした。でもこの、多少笑いを犠牲にしてもずれを生かして最後まで持っていくのは、他にできる人がいないとまではいいませんが、小川絵梨子ならではの演出でした。同じ小川絵梨子演出の「おやすみ、お母さん」で那須凜が狙って及ばなかったことをイッセー尾形は成立させていました。逆かな。新型コロナウイルスで途中で公演中止になったとはいえ、すでにこういう実例を成立させていたから、「おやすみ、お母さん」でも挑戦してみたのかもしれません。

あと、新国立劇場主催の芝居に実験的、育成的な要素が多いだけ、こういう人気者の芝居を芸術監督自らが再演の機会に新国立劇場に引張ってきてもいいと思うのですが如何。天井が高くても両端の間口をがっちり作っているから案外コンパクトにできるんですよね、世田谷パブリックシアターは。観る分には世田谷パブリックシアターで贅沢させてもらいましたが。それとも前回の上演計画を全うするためにはしょうがなかったか。

2023年5月18日 (木)

イキウメ「人魂を届けに」シアタートラム

<2023年5月17日(水)昼>

人里離れた森の奥の家で暮らす「お母さん」と住人たちの元に、刑務官の男がやってくる。執行に関わった死刑囚が死刑のときに身体から人魂が落ちた、気になって取っておいたが周りの人間に声が聞こえてうるさいから捨てて来いと言われた、書類上は前例がないので恩赦と書かれている、それなら死刑囚が「お母さん」と呼んでいたこちらに届けるべきと考えたから、という。人魂は受取られたが、家にいた一人は刑務官が森に来る前に会った男だった。時間が合わないはずなのになぜここにいるのか。刑務官は家で暮らす人たちと会話を始める。

よくわからないところから始まって観ていくうちに明らかになっていくのは、タイトル通り人の魂を扱った話。いかにもイキウメらしい芝居で、かつ非常に丁寧な仕上がりでした。丁寧というだけでは雑な感想なのですが、ちょっとうまい言葉が見つからない。

魂という切口で現実の問題を取上げるためにはオカルトに陥りすぎないことが必要です。昔のイキウメならもっとオカルトに振ってきたんじゃないかと思いますが、刑務官というメインの役を置くことでなるべく観客が戻ってこられるようにする工夫がされていました。たまに左派というかリベラルな話題が混じりますが、その辺は昔ながらのイキウメです。観ていて醒める前に終わりますから気にしないで観続けましょう。

ネタバレしないように書くのも難しいですが、平野の話と、応募の話はつらいものがありました。あとラスト、あれは昔のイキウメならそうしなかったよね、という感想です。今の時代っぽいラストでした。

演じる側もよかった。いつもだと安井順平が目立ちますけど、今回はゲストを含めて全員の水準が揃っていました。特別上手いとは言いませんけど、何ていうか、繊細ともまた違うし、一体感というのも違う。役者同士の絡みが少ない脚本で、自分の持ち場で掛軸の描かれた和紙を2枚に剥離する作業を求められて、それを役者ひとりひとりが全員うまくはがせたというか。意味不明ですいません。あと、篠井英介の使い方はちょっとずるいと思わなくはないですが、思いついたらやりたくなるのはわかります。

イキウメは、誰が観てもよくわかる話と、曖昧な設定で積極的に観にいかないと置いていかれる話と2パターンありますが、今回はそこまでひどくないものの後者寄りです。最後にきれいにつながりますが、前者の代表である「散歩する侵略者」とか「関数ドミノ」みたいな明快な話を期待した人には厳しいかもしれません。カーテンコールは2回でしたから。でも仕上がりは高水準でしたし、こちらのほうがイキウメの本分というか、根っこに近い芝居じゃないかと個人的には考えます。

2023年4月24日 (月)

株式会社パルコ企画製作「ラビット・ホール」PARCO劇場

<2023年4月23日(日)昼>

一人息子を車の事故で亡くして8か月、セラピーに通うのを止めた妻と通い続ける夫。家には子供の面影があちこちに残る。妻の妹は姉に気を使うも恋人の子供を妊娠し、妻の母は慰めようとして逆に積極的に息子の死を話題に持出す。妻と夫の関係がぎくしゃくしたある日、事故の車を運転していた青年から一度会いたいと手紙が届く。

機微に触れる話題が最初から最後まで続く脚本。どこかで気を抜くと全部が駄目になる脚本を、役者、スタッフ、演出家が同じ目標を目指して仕上げた1本。迷ったけど観てよかったと断言できます。

宮澤エマ演じる妻の、まだ立ち直れているようないないような心境を、周りがかき回してやっぱり立ち直れていないところが続くところ。成河演じる夫の、立ち直っているように見えて引きずりつつ夫の義務と妻への諦めの合間で悩むところ。シルビア・グラブ演じる母の、強引と母は強しの両立。土井ケイト演じる妹の、この芝居唯一の癒し系おとぼけポジションを維持しながら正面から言葉をぶつけるたくましさ(笑)。観た回では山﨑光が演じた青年の、悪気はないし反省もしているけど空気も読めない絶妙のライン。全員、脚本の求める理屈に魂を込めることに成功した役作りでした。

直線を多用した舞台、転換時の線のはっきりした照明、シンプルな音楽、柄の少ない衣装は、ソリッドという言葉を体現した一体感を持たせて、芝居の緊張感を保つのに一役買っていました。そういう面も含めて、演出の藤田俊太郎がよくぞ最後まで繊細さを実現して引っ張りきりました。

この脚本は意地悪なところがあって、妻の心境の変化は丁寧に追うけど夫の心境は観客の推測に任せているし、思い出のビデオを消してしまったのが妻の間違いなのかわざとなのかはわからないしで、演出と役者にゆだねられているところが多い。でも、ありそうやりそうわかるかも、の連続ですね。後半のわりと後半まで引っ張っての、ふっと抜けるところは絶妙です。けど、夫の職業がリスク管理会社のマネージャーだったか、あの傷に塩を塗るような設定は、聞いて内心泣かずにはいられなかった。

ひとつだけ難を挙げるなら、翻訳。たまたま前日と同じ小田島創志の翻訳だったけど、こっちのほうがなんというか、たまに印象がぶれるときがあった。特に序盤。自然な言葉を目指すために稽古場で役者が変更を提案して、翻訳者が片っ端から通したってどこかのインタビューで読んだけど、詰め切れていなかったと思う。多少ならまだしも、翻訳者が責任を持って統括して、役者がそこに魂を込めていくほうがいいのではないか。

2023年3月14日 (火)

Bunkamura企画製作「アンナ・カレーニナ」Bunkamuraシアターコクーン

<2023年3月12日(日)昼>

19世紀のロシア。公爵の次女であるキティは田舎で領地経営を行なうリョーヴィンと惹かれあっていたが、親の決めた青年将校ヴロンスキーと婚約するためプロポーズを拒否する。公爵の長女であるドリーはすでにオブロンスキーと結婚して子をもうけていたが、オブロンスキーの浮気に激怒する。兄のオブロンスキーから仲裁を頼まれた妹のアンナも子を持つ既婚者だが仲裁のためにモスクワに上京する。ここでアンナと出会ったヴロンスキーが恋に落ち、ペテルブルクまで追いかける。婚約者に逃げられたキティは憔悴し、浮気相手が地元までやってきたアンナの夫カレーニンは何とか事を収めようとする。だがアンナの妊娠が発覚する。

小説を読んだことがない私が超おおざっぱにまとめると、愛と結婚とは何か、という芝居でした。タイトルロールのアンナを巡る三角関係と、ドリーが浮気した夫をどうするかと、キティが果たして復活できるかと、大まかにこの3つの関係で描きます。

ただ宮沢りえ演じるアンナ・カレーニナの役どころがヤバかった。浮気したところまではまあいいとして、モスクワの社交界での扱いに耐えられずに、しまいにはヴロンスキーのことまで疑うようになっていく有様はメンヘルの一言です。宮沢りえの説得力でかろうじて成立するくらいです。

そして一度はドリーに許されたもののまた遊ぶオブロンスキーに対しては、就職口が決まって借金を返す当てはついたものの、ドリーは出て行くことを選びます。

さらにこの演出は、その陰で子供が犠牲になることを描きます。アンナはカレーニンとの間にもうけた息子を引取ろうとしますし息子も母恋しさに父に反抗しますが、ならアンナが引取ればいいのか、カレーニンの何が悪かった、という問題でもあります。

小説は未見ですが、チラシにある「真実の愛を求める人間たち」は、まあ嘘ではないでしょうか。どちらかというと、浮気相手に走ったアンナ、浮気したオブロンスキー、双方に対して突き放した感じのある演出でした。

このドロドロとの対比でひときわ輝いてくるのがキティとリョーヴィンのカップルです。チョークと黒板を使った二度目のプロポーズの場面や、初産を控えて誤解と思い込みで喧嘩するところから仲直りする場面など、言葉を選ばずに言えばバカップルです。なのですが、いいじゃないか小さな誤解くらいと思わせる勢いがあります。ここで振りきった浅香航大と土居志央梨は記録しておきたい。

神父を目指していたリョーヴィンの兄を看取る場面、妻の出産の無事を願って「誰もいない部屋でひとり言葉をつぶやくならこれは祈りではないか(大意)」と気がつく場面、こちらのカップルに色恋を超えて相手を想う愛が描かれます。

個人の意思の尊重が行き過ぎて夫婦も子供も訳が分からなくなった現代社会です。それもいいけど、夫婦と子供という基本のコミュニティについてもう少し考えなおしてみないか、個人の自由と家族を維持する努力とに折合いを付けてみないか、自分で行動できる大人と庇護を必要とする子供との違いに目を向けてみないか。そういう演出だと私は受取りました。最初1時間くらいはとっちらかった座組だなと思っていたのですが、終わってみたら子役含めていい座組に見えた、そういう芝居でした。

私が最近ラノベを読みすぎて「真実の愛」と見ると後ろに「(笑)」が浮かんで見えるようになってしまったで、その点は差引いてください。

2023年2月16日 (木)

パルコ企画製作「笑の大学」PARCO劇場

<2023年2月11日(土)夜>

昭和戦前。浅草の喜劇劇団「笑の大学」の座付作家は、来月上演する芝居の脚本の検閲結果を確認するために警視庁を訪れる。今月から担当になった検閲官はこのご時世に喜劇の上演はけしからんという堅物。脚本の書直しか上演中止かを迫る検閲官に、座付作家は翌日までの書直しを選ぶ。

名前は知っていたけど観たことがなかった三谷幸喜の再々演二人芝居。無理な書直し指示と、それをかいくぐろうと更新される脚本。粗筋で展開はだいたい想像がつきますね。そして文句なしに面白かったです。

キャスティングは2人ともはまり役でした。座付作家の瀬戸康史は笑わせたがる性分と、何とかしてやろうという根性の両面を表現。検閲官の内野聖陽は度が過ぎていらいらするくらい堅物でありつつ、家族その他の話で奥行きを表現。観たのが日程初期のため2人とも若干固いところが残っていましたが、それがむしろ設定に合って良い方向に作用していました。

シリアスな設定と喜劇脚本という相反する組合せ、起承転結とおもいきや起承転転結の展開、昨今の流行よりやや押さえられた情報密度と展開速度でありつつ1時間50分に収まる無駄のなさ。どこを取っても一級品の脚本に恵まれたキャスティングで、誰が観ても面白い仕上がりはさすが三谷幸喜です。若干難癖をつけるなら音楽はもっと少ないほうがいい、少なくても行けたと思いますが、その辺は好みの範疇です。

昔の上演を観た人は比べてあれこれ言うかもしれませんが、映画も含めて観たことのなかった自分には文句ありません。開演から4ステージ目ですが3割くらいスタンディングオベーションでした。ひねくれものの私でも観終わって思わずスタンディングオベーションで腰を浮かせそうになった出来です。いまさら緊急口コミプッシュを出したりしませんが、大満足でした。

ここまではすぐに思いついた感想で、ここからは蛇足の妄想です。

この芝居は検閲官という役と時代背景を置いていますが、個人的にはスポンサーやいわゆるお偉いさんのことを揶揄した芝居じゃないかと読みとりました。

三谷幸喜は自分の芝居や劇団を、劇場を出た後はなにも心に残らないような芝居が理想、同時代に何も影響を及ぼさなかった劇団などと評しています。この辺りは喜劇好みの三谷幸喜が狙っていた作風でもあるでしょう。

今でこそお笑いが一世を風靡していますが、笑いや喜劇を一段下に見る風潮は、20世紀にはまだ残っていました。個人的には、笑いを目指してつまらなかった時のつまらなさ、くだらなさ、醜さの下限がストレートプレイよりひどくなるという笑いの特性に基づくもので、今でもまったく根拠のないものでもないと考えています。それはさておき。

この芝居の初演はラジオドラマで1994年。劇団は10年目、脚本家としてもキャリアを積んでいましたが、まだ大手を振って威張れる前の時代です。後に「ラヂオの時間」のもとになった脚本を書直された1993年のドラマ「振り返れば奴がいる」の翌年で、古畑任三郎の初回は1994年です。

何を言われようが受入れて書直す、なんならそれでもっと面白くして見せる、という本作の話は、そのころの三谷幸喜の脚本家のキャリアから来た話だと思います。それをそのまま描くわけにはいかないので検閲官という設定まで出てくるある種壮大な喜劇論になってしまいました。が、結果として「劇場を出た後はなにも心に残らないような芝居が理想」を作風とする三谷幸喜としては異色に分類されます。他に観てわかる限りでは、離婚を扱った「グッドナイト スリイプタイト」くらいです。

25年ぶりの上演について三谷幸喜は、似合う役者が見つかるまで上演したくなかったと言っています。それ自体は本当でしょうが、自意識が前に出ている脚本を上演したくなかったという気持ちもあったのではないでしょうか。それを解禁していいと思えるようになった心境の変化がどのようなものかはわかりません。ただ、今後の新作はもっと伸び伸びとした芝居が増えるような気がします

2023年1月 9日 (月)

パルコ企画製作「志の輔らくご in PARCO」PARCO劇場

<2023年1月7日(土)昼>

子供が習っているそろばん教室の先生の息子が結婚したと先生にお祝いを言いに来たのはいいが余計な一言が多い「まさか」。新作を盗作されて身投げするところを助けた狂言師のために長屋の連中が面白い話を教えようとする「狂言長屋」。堅物で通るが実は芸者遊び好きな大店の番頭が内緒で芸者を連れて向島の花見に繰りだしたらうっかり店の旦那と鉢合わせ「百年目」。

吉例企画。この劇場でやるからにはと噺以外の趣向も用意しているのでそこは観に行ってからのお楽しみ。おなじみのオープニング一言からマクラも工夫しての前半戦は素直に楽しむ。3本目だけ、もうちょっと縮めたほうが自分には好みだけど、人情噺なのでたっぷりのほうが好きな人が多そうで悩ましい。

面倒なことは考えずに素直に笑える、年の初めの1本に適した演目が選べて満足です。

2022年12月18日 (日)

シス・カンパニー企画製作「ショウ・マスト・ゴー・オン」世田谷パブリックシアター

<2022年12月17日(土)昼>

「マクベス」を上演する劇場の舞台袖。客入りは好調なものの酒癖の悪い主演は連日の飲みすぎで体調不良、演奏担当の一人も体調不良、叱ったスタッフは劇場に来ない、と頭の痛い舞台監督。プロデューサーの社長の判断で開演することにしたものの、関係者しかいるはずのない舞台袖に次々と人がやってくる。ようやく開演したもののトラブルがトラブルを呼ぶ。果たして無事終演できるかどうか。

三谷幸喜お得意の、固定された場所とトラブルが起きやすいシチュエーションを設定したウェルメイドコメディ。東京サンシャインボーイズ時代の脚本で初演1991年、再演1994年のものを、現代設定に合うように大幅に書換えたらしいです。設定がおいしいのでいくらでも書換えられるでしょう。すごくよくできた脚本です。

よくできた証拠に、前半に出てきた話題と大道具と小道具が、後半で全部使われる。後半を書いてから前半を書いたんじゃないかというくらいの繋がりです。名前だけで劇場に来ない登場人物と何故か劇場に来る登場人物が、普通に考えたらはちゃめちゃな設定ですが、それがどうした、面白ければ正義、という勢いがあります。やや客席の勢いが弱い回でしたけど、それでも笑いました。

で、笑っておいてなんですけど、微妙に乗りきれないところのある芝居でもありました。

ひとつは劇場設定。役者が2人、舞台袖スタッフが舞台監督を入れて3人だけで回しているわりに、劇場は半分ネタでシアターポクーン(シアターコクーンのもじりですよね)って台詞があるとか、いつかは大きな劇場で働けるようにならないとって台詞があるとか、観ていて劇中の劇場の規模感が一定しなくてもやもやしました。今回の会場の世田谷パブリックシアターって椅子で612席、立見を入れたら700人が入る中規模な劇場なんですけど、それ以上に構えが立派で天井も高いので大劇場っぽいんですよ。それを今回3階席から観ていたので、無意識に大劇場を想定していました。今回のチケット代がS席だと11000円だったのも無意識を後押ししていました。

初演が下北沢本多劇場、再演が(東京だと)紀伊国屋ホールで、当時ならチケット代は数千円だったでしょうから、そのころだとぴったりハマったのだと思います。ここらへんは脚本と興行のすれ違いです。

もうひとつは上演中の芝居(マクベス)の理解度が登場人物と一致していないところがある。理解度が高い側だと脚本家役の今井朋彦とか演奏時に舞台を覗く仕草を入れる(本当に演奏役の)荻野清子とか、理解度が乏しい側だと当日に代打で演奏を引受けたから演奏タイミングを忘れていて慌てて戻る峯村リエとか、このあたりの人たちは正しい。釈然としなかったのは詳しくてしかるべきはずの舞台袖スタッフの3人は、演技はよくても脚本(ショウ・マスト・ゴー・オン)の役のマクベス知識に届いていなかった。ここは突っ込みたい。

はちゃめちゃな設定でもよくできた脚本ですけど、見えないところに求められるリアリティが多い脚本でもあります。上演を中止した損害を計算して払戻し手続を把握したうえでの上演途中中止の提案とか、難しい(すでにチケットをもぎったあとだから現場で払戻しが最善だけど夜の回だったはずで払戻金を手元に用意できるのか、みたいな)。これだけ芸達者を揃えても上演するには手強い、面白い脚本を面白く立ちあげるのは難しいというのを久しぶりに観た芝居でした。

あとは配役表がないのと舞台が遠かったのとで、観なれない役者は誰が誰だかわからなかったのが客としてつらい。載っているサイトがあったら誰か教えてください。

<2022年12月23日(金)追記>

怪我と新型コロナウィルスとで役者が休演すると三谷幸喜が代打を続けてきましたが、ついに主役の舞台監督まで代打で登場することになりました。このまま完走した場合の代役メモを残しておきます。

福岡公演
全公演で小林隆(万城目充役)が三谷幸喜
11/07 昼
11/08  夜
11/09 昼夜
11/10 休
11/11 昼
11/12 昼夜
11/13 昼

京都公演
全公演で小林隆(万城目充役)が三谷幸喜
11/17 昼夜
11/18 昼
11/19 昼夜
11/20 昼

東京公演
小林隆復帰
シルビア・グラブ(あずさ役)が三谷幸喜
11/25 昼
シルビア・グラブ復帰
11/26 昼夜
11/27 昼
11/28 休
11/29  夜
11/30 昼夜
12/01 昼
12/02 昼
浅野和之(鱧瀬医師役)が三谷幸喜
12/03 昼夜 中止
12/04 昼  中止
12/05 休
12/06  夜
12/07 昼夜 昼のみ中止
12/08 昼
12/09 昼
12/10 昼夜
12/11 昼
12/12 休
浅野和之復帰
12/13 夜
12/14 昼夜
12/15 昼
12/16 昼
12/17 昼夜
12/18 昼
12/19 休
12/20  夜
鈴木京香(進藤役)が三谷幸喜
12/21 昼夜 中止
12/22 昼  中止
12/23 昼  中止
12/24 昼夜 昼のみ中止
12/25 昼
12/26 昼夜 昼は追加公演
12/27 昼

52ステージ(追加公演を入れたら53ステージ)中、フルメンバーで上演されたのは11/26-12/02と12/13-12/20の17ステージ、三谷幸喜が代打を務めたのが27ステージ、中止になったのが9ステージという、代打ステージのほうが多い結果となりました。自分が観たのは数少ないフルメンバー公演だったので、その点はついていました。

普段は役者の三谷幸喜にあまり好印象がないのですが、今回ばかりは「ショウ・マスト・ゴー・オン」を体現した三谷幸喜に拍手を送ります。

そしてこれを書いていて気がついたのですが、これだけのメンバーを揃えた鉄板公演であるにも関わらず、昼公演のほうが夜公演より回数が多いです。平日夜公演って今はそこまで駄目なのでしょうか。

2021年12月13日 (月)

Bunkamura企画製作「泥人魚」Bunkamuraシアターコクーン

<2021年12月11日(土)夜>

都会の片隅、店主は昼間はぼけ老人だが夜はうどん屋の娘をくどくダンディーな詩人の二面性を持つ男が店主のブリキ屋に、主人公は居候している。そこに故郷の関係者が次々と訪ねてくる。そこに、漁師の養女だった娘がやってくることで話は展開する。

粗筋を書くのはあきらめました。ネタバレってほどでもないので書くと、諫早湾の干拓事業による地元関係者の苦悩を元に、これぞ唐十郎、これに比べたら野田秀樹なんてわかりやすすぎて困る、というくらいの詩的脚本で書いた一本。正直、物語を追うものではない。

前半、主人公の磯村勇斗と店主の風間杜夫がメインになるのだけど、非常に不調だった。喉がイガらっぽかった磯村勇斗が出だしでつまづいて、そのまま休憩時間まで取り戻せなかった感じ。後半に宮沢りえの出番が増えたところから巻き返した。この訳の分からない芝居を巻き返したのはすごい。六平直政がいい出来だったのに加えて身体まで張って熱演。愛希れいかも宝塚出身でこのアングラに立ち向かえていたのは感心。

オープニングの美しさを含めて、音響照明が素晴らしかった。だけど特に後半、音と明かりで盛上げたと思ったら元に戻す、の繰返しで興醒めすること著しい。あれは演出が悪い。そこからネタに走るならまだしも、もう少し考えてほしい。

諫早湾の話が一段落した現在、雰囲気に浸れるかどうかで評価がわかれる芝居。個人的にはいまいち入り込めなかった。シアターコクーンは思っていたよりも広い劇場で、あの空間を雰囲気で満たすのは相応の技量が求められるのだな、これまでこの劇場で観てきた芝居は選ばれし精鋭たちによって上演されていたのだな、と再認識。

2021年11月23日 (火)

世田谷パブリックシアター企画制作「愛するとき 死するとき」シアタートラム

<2021年11月20日(土)昼>

東ドイツの学生の青春と終わりを描く第一部。東ドイツで反体制派だった父は逃げ伯父は捕まった母と子供たち兄弟、12年後、それゆえに大学に入学させてもらえないと屈折した青春を送る家族の前に釈放された伯父が戻ってくる第二部。妻子を持ち仕事で単身赴任する男が、赴任先で出会った女と恋愛関係になる第三部。

観て得るものはあったけど、もう一回見直してもまだわからないだろうなという超がつくほどの不親切芝居。時間を置いて書こうとしたら大まかな話の流れすら思い出すことがおぼつかない。

青春モノとか日常モノのとか、うっかりすると「劇的な」イベントがなく淡々と過ぎてしまう、ただでさえ舞台と相性の悪いジャンルで、本当に淡々とした脚本。そこに、ベルリンの壁が崩壊して30年以上経つ東ドイツが舞台という悪条件で、脚本にない情報を補足してほしいところ一切なし。かつ、覚えづらい名前の大勢の登場人物が第一部から第三部まで全員入替る上演なのに、第一部と第二部は登場人物を浦井健治や高岡早紀も含めた全員が複数役で演じるという混乱に輪をかける上演スタイル。

つらい世の中では子供から大人までまんべんなくしんどいよね、そんな世の中でも生きていくなかで恋愛は苦いことも多いけど必要だよねという脚本家の想いと、いまのつらい世の中は東ドイツ時代の閉塞感と似ているからそこを舞台にすることできっとむしろ現代らしく描けるはずだという脚本家の思いつきが合体したのがこの脚本のはず。それを、「チック」みたいな芝居他にもありませんかと2匹目のドジョウを狙った制作に、日本もつらいからぴったりです、学生とかつての学生の青春モノです、大勢の役が登場するけど「チック」みたいにひとり複数役でやります、とドイツ語の読めない制作を演出家が丸め込んで上演した。妄想レベルで考えると、そのくらい関係者のすっとぼけがないと上演された理由がわからない。

地味でわかりづらい脚本なのに、演出が何をやりたいのか見えなかったのがひとつ。それと交互に複数回出てくる役を、全員が複数役でやるというのがとにかく悪手で、複数役の演じ分けがほとんどわからないのがもうひとつ。「チック」は主役固定、かつロードムービー風なので一度出てきた役は後からほとんど出てこないという有利な面があったけど、これはそうではない。もう、観ていてわからないことによるストレスが大きすぎる。

で、わからなかったことへの文句を散々書いた後で得たところの話。ひとつは第二部の伯父。(たぶん)政治犯収容所のようなところで12年過ごして丸くなった伯父は、普通なら自殺していてもおかしくない。そこをしぶとく生きて、兄嫁(兄弟の母)に結婚を申しこんで一緒に暮らす。この伯父が、好きな女の子を兄に取られて落込む甥を酒場で「目立つな、英雄を気取るな、列に並んでみんなと一緒に行動しろ(公式サイトより)」と励ます場面。言葉をそのまま読んだら格好悪い台詞だけど、ここを浦井健治は、チャンスが巡ってくるまで何よりもまず生き延びろ、というニュアンスでやった。伯父役はぼそぼそと話す役作りだったけど、そこからさらに声を落としたこの場面が、実際に生き延びて甥の母と結婚した伯父の役や、他の場面で自殺する学生がいたことと合せて考えると、全編を通して鍵になる場面だったのかなと思い返す。

得たところのもうひとつは、役者としての浦井健治。観客の妄想では、出演者の中で唯一、おそらく演出家よりも、脚本を理解して演じようとして、また演じる技量があった。芝居を保たせていたのは間違いなくこの人の貢献。普段あれだけ華やかな芝居もできる役者なのにこの地味芝居に挑戦してしかも一定の成果を上げていたことは最大の発見。新国立劇場のシェイクスピアシリーズに出ていたのは伊達ではなかった。ちなみに高岡早紀は、もうわからんからいつも通りやりますとやって、しかもそれがいい線までいっていた印象。ただ第三部、独白というか地の文の語りというか、それが苦手でかなり損していた。ついでに書くと至近距離で観てあの美人ぶりは凄い。他のメンバーは、個々の場面を観れば悪くないけど、通して観たときには複数役の演じ分けの前に撃沈。おそらく脚本段階で混乱している。

察するに、小山ゆうなは綿密な演出プランで稽古に臨むよりは、役者にやってもらった内容を拾っていくスタイルなのではないか。欧米はそういう演出スタイルが主と読んだことがある。けど、それは稽古も含めて準備に年単位の時間が確保できる前提で、1か月前後の集中稽古で仕上げる日本なら脚本の整理や登場人物の関係構築も、ある程度は演出が主導する必要があるのではないか。

察したり妄想したり忙しい感想だけど、何がいいたいかというと、自腹で高い金額を払って、演出が悪いと一観客として判断したので、文句は演出家が引受けてくれということ。

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