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2022年6月26日 (日)

新劇交流プロジェクト「美しきものの伝説」俳優座劇場

<2022年6月25日(土)夜>

国として活発だった大正時代。西洋に刺激された政治活動、女性解放運動、小劇場運動で、それぞれ活躍していた当事者たちの活動と交流の日々を描く。

有名なので観たいと願っては見逃し続けて、ようやく初見。追加公演で◇の配役(モナリザ=安藤みどり、サロメ=畑田麻衣子、尾行=星野真広)の日程。ものすごくよくできた脚本を、この上なく丁寧に仕上げて、これが初見でよかったと言える1本です。そしてそれだけに、芝居ではなく当時の実在の登場人物たちの意見に物申したくなる1本でした。

先に芝居の感想です。最近では昭和大正の再現なんて困難なところ、その雰囲気が受継がれている新劇の劇団が公演することで、非常に統一された仕上がりでした。劇場にもポスターがあった通り初演は文学座だし、登場人物のうちの小劇場運動関係者はさかのぼれば今回上演した各劇団のルーツです。いい悪いを超えてこれが本家による公演だというある種の正解感がありました。

それを実現した役者陣は新劇系の役者が並んで、普段新劇の劇団をあまり観ない自分には新鮮でした。その印象は「探せば名手はいるものだけど、こんなに名手が大勢いるとは知らなかった」。堺俊彦役の能登剛が出版社内で相手を軽くいなしつつ何となく腹で別のことを考えていそうな調子とか、久保栄役の古谷陸が劇団活動を批判する台詞の圧を島村抱月役の鍛治直人が少ない相槌で受けるくだりとか、今どきの芝居ではなかなか観られない場面です。

やっぱりですね、小劇場活動の元がスタニスラフスキーだメイエルホリドだと言っても、長年のうちに独自の演技メソッドが育ったのが日本の新劇劇団だと思います。たとえて言うなら楷書の演技。真面目な台詞はもちろん軽い台詞にも、いい意味で重さがあります。今回の脚本にもあった通り新しい演劇を志向するところから始まって、やがて日本人による日本を描いた脚本を上演しつつ、シェイクスピアその他の海外名作の翻訳も並演した歴史。これを言い換えると、今どきの目線では不自然な台詞でも成立させられるよう意味を込めて発声できるようにと格闘した歴史の成果です。さらに脱線すると、現代の小劇場出身の役者は、これもいい意味でもっと軽く自然に台詞を言う技術が磨かれた人が多いです。そういう脚本が増えたのが主な理由とみます。

話は戻って、観ていて安心できたもうひとつの理由がビジュアル面です。特に衣装や大道具小道具などに抜かりがないのは、開演してまもなくわかりました。着物がもはや時代劇の衣装になっている昨今、きっちり仕上げてくれたのは新劇の歴史あってのことです。

これらをまとめた演出は鵜山仁。見る人が見れば演出の癖があったのかもしれませんけど、もともと脚本を丁寧に演出する人です。観た感想では変にいじらずにきっちり立ち上げました。それでいて、必ずしも登場人物を全面肯定した雰囲気に流れず、落着きも感じられました。1968年の初演から半世紀、ここで書かれた大正時代からだと1世紀。脚本に希望として描かれた内容がその後どうなったかの回答はある程度出ています。座組の中でこの脚本の内容に目を輝かせる人ばかりではないのでしょう。演出が目指したところは不明ですが、結果として過剰な時代賛歌にならず、登場人物とその持論を立ち上げるところにつながっていました。

新劇合同プロジェクトとして取上げられるのにふさわしい脚本であり、またそれに見合った仕上がりに満足しました。

とここまでが芝居の感想。ここから先が芝居に出ていた登場人物の持論について。

芝居の出来がよく、登場人物とその持論が立ち上がったからこそ、その持論の欠点も見えてきました。

たとえば政治活動。社会主義者の多い登場人物ですけど、人によって多少の違いはありながら共通しているのは反政府ということ、そして打倒した後のことについて無責任であることです。大杉栄が「政治はトーキングよりアクション」「無政府主義者は政府を打倒したら野に下れ」という台詞がありますけど、無責任の極みですよね。打倒したからには運営して責任を引受けろよ、倒すところだけ楽しんで食い逃げするなよ、と。台詞をもじるなら政治はトーキングでもアクションでもなくオペレーションです。十二国記を読んだことがある人なら「責難は成事にあらず」で通じるでしょう。

女性解放運動も色恋沙汰の話はちょっと皮肉の入った台詞があちこちにありますがそれは置いておいて、松井須磨子の自殺の話題。その理由のひとつに観客の目になぶられて(大意)というくだり。そもそも江戸時代から役者の不行跡は瓦版のネタなわけで、そういう興味の目で見られる職業に乗込んできたら、初の女優だから芸術だからといってもしょうがないわけです。芸だけを評価してもらってしかも食える道なんて、並大抵の人が到達できるものではありません。昨今でこそ、SNSの発達であまりに直接的な悪口雑言が増えすぎて控えましょうと言われていますが、大勢の賞賛だけを集めて興味や非難は止めてくれなんてそんな美味い話はありません。ふたつよいことさてないものよ、ですね。

で、小劇場運動。新しい演劇を広めたいという意気込みと表裏一体で、どうしても観客を啓蒙するという意識がついて回るのですね。大きなお世話です。観客のひとりひとりに生活があり、時間を割いて木戸銭を払って芝居を観に来る。そこにエンタメを求めて何が悪かろうというものです。これを両立させるために島村抱月は、少人数を相手のサロンでは芸術的な芝居を上演しつつ、大劇場では一般受けする興行で稼ぎ、それを芸術と興行の二元論と言っています。ひとつの方法です。感想に書いた場面では、島村抱月の活動を矛盾していると久保栄が批判していますが、半分あっていて半分間違っています。そもそも趣味に啓蒙すること自体が大きなお世話だからです。

政治と言わず演劇と言わず、あらゆる分野で新しいことを始めたいなら「俺の言うことは楽しい、君たちにはこんないいことがある、だから俺に任せろ」で誘うべきところです。それを、雑に左翼と書きますが、左翼思想が強ければ強いほど、「俺の言うことが正しい、お前らは無知で間違っているから俺を認めて従え、でも後のことは知らん」の3拍子になります。了見が間違っています。こういっちゃ何ですけど、この間違った3拍子の了見は今の左翼に全部残っていますね。

亀戸に引っ越した伊藤野枝の台詞に「下町に引っ越したらみなさん荒っぽいですけど気の置けない人たちですのよ」なんてのがありますけど、こんな人たちの唱える民衆とは何なのか。よく聴くと実に微妙な台詞がそこかしこに散りばめられています。散りばめられているというとちょっと違いますね。そのつもりで読んだら芝居の意味が反転するように、登場人物の典型的な主張を取上げて煮詰めた台詞で脚本を書いたというほうが正しい。演出次第でどちらにでも上演できる点で、おそろしく完成度の高い脚本です。

そんな中で一番直接的な表現が、ロマン・ローランの引用である「民衆が幸福なら、広場の中心に杭を立てて花を飾れば人が集まり祭りが始まる。このような幸福な民衆に芸術は不要である(大意)」です。感想に書いた久保栄が島村抱月の劇団活動を批判する時に出てきます。脚本では「だけどそのような幸福に民衆は永遠に到達できないので、芸術は常に必要である(大意)」とも続きます。私にはこの場面が「誰も民衆の幸福を実現できなかった」と聴こえました。

初演の1968年は第二次世界大戦後です。戦前の理想論も敗戦後には空論にみえたでしょう。だけど新劇の歴史は紡がれたし、敗戦してなお自分たちの生活もここにある。だからここに取上げたような活動が、そういう理想論を本気で信じて活動していた人達が美しく見える。なんならこのうちの何人かは処刑されたからこそ、より美しく見えた。初演の時点で美しく見える時代だった。それは関係者には語り継がれる伝説であり、内実は空論の伝説だった。「美しきものの伝説」はそういう両面を含めてつけられた題である。脚本家の意図は知りませんが、私はそのように受取りました。

ここまで感想の射程圏が広がったのは、一にも二にも芝居の出来がよかったからです。ものすごく考えさせられました。登場人物の当時の主張を批判することと、芝居の出来が良くて褒めることは両立します。美しく力強い仕上がりだったことは、あらためて記載しておきます。

<2022年6月27日(月)追記>

全面改訂。

2022年6月 6日 (月)

松竹製作「六月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

<2022年6月4日(土)昼>

妻と母の不仲に悩まされるも戦の才と忠誠心あふれる家臣に恵まれた信康が織田信長の勘気を受けて謹慎を命じられる「信康」。山王祭の江戸で芸者や鳶たちが踊りや芸を披露する「勢獅子」。

時間の都合で第三部が観られず、ならばと第二部に挑戦。

「信康」は染五郎が歴代最年少の17歳で信康を演じるのが目玉だったけど、「役者は声」派の自分には残念な出来。どれだけ見た目に凛々しく大声が通っても正直な声が出ていないのは駄目。役作りをどれだけ頑張っても声で結果が出せないのは駄目。贔屓のアイドルの初舞台なら温かい目で見守っても高麗屋でこれは駄目。信康、信長双方の家臣役や徳姫など正直な声の出せる役者が揃っているので、この公演の最中に吸収してほしい。家康の白鸚の活舌が衰えすぎなのも厳しかった。去年の弁慶では体力はまだしも活舌が悪いとは思わなかったけど。晩年の家康ならしっくり来たけど、40歳になるかならないかくらいの時代なので、貫禄は十分でも活舌で年齢が狂うのは困る。

「勢獅子」はにぎやかな踊り多数。獅子舞が出ているから正月の演目かと思って調べたら山王祭が舞台でちょうどこの時期の話題。我ながら祭りの季節感に鈍い。

2022年3月 7日 (月)

松竹製作「三月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

<2022年3月5日(土)昼>

御数寄屋坊主にしてゆすりたかりで悪名高い河内山早春が、たまたま目を付けた質屋で騒動があると訊いてみれば娘が大名に軟禁されていると聞いて解決料と引換えに取返すという「河内山」。心を入替えて商売に励むと誓った魚売りが早朝に海辺で拾った財布に喜び自宅で宴会を開くも、酔って目が覚めたら妻にそんな財布は知らないと言われる「芝浜革財布」。

仁左衛門の河内山。悪人という設定の割りに悪人然とは感じず、すっとしていた。娘を取返してやろうと持ちかける出だしは、金を借りられない代わりの儲け話が見つかったから吹っ掛けるという強気を抑えめにして、代わりに駆引きの要素を多めに混ぜた印象。乗込んで話が付いた後にたかった金子を懐に入れようとしたときの驚きも、客席サービスにはいいが人物が小さくなってしまうマイナスあり。悪人をより悪人がやっつけるという素直な建付けにはしなかったか。人物の大きさでは殿様の鴈治郎、練れた雰囲気は家老の歌六が、それぞれいい感じ。

菊五郎の芝浜。ちょっと型を感じてしまったけど、それでも政五郎を演じる菊五郎と、妻おたつを演じる時蔵の掛合いがよかった。落語も聞いたことがないのに粗筋を知っている有名な演目だからと構えずに観ていた分だけ、引き込まれた。みんな妙に上手な宴会の場面、女房自慢をすることでそのあとの話を不自然にさせないのは脚本の工夫か。

2本ともよくできた話とはいえ、というか、よくできた話だからこそ、そこに寄り掛かった感が強い。芝浜で寺嶋眞秀演じる丁稚が芝居の名場面を披露するところが2本通して本日一番の拍手になってしまうのは、子役贔屓とはいえいかがなものか。2本とももっと面白くできたはず。

<2022年3月9日(水)追記>

片岡仁左衛門 休演のお詫びと代役のお知らせ」が出ていました。

 平素より格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

 歌舞伎座「三月大歌舞伎」第二部『河内山』の河内山宗俊に出演をしております片岡仁左衛門ですが、体調不良のため、本日3月9日(水)から当面の間休演し、下記の通り、代役にて上演させていただくこととなりました。

 なお、復帰につきましては決定次第、お知らせいたします。

 何卒ご諒承を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

松竹株式会社

■歌舞伎座「三月大歌舞伎」
【第二部】
『河内山』
河内山宗俊  中村 歌六
高木小左衛門  坂東 亀蔵
大橋伊織  片岡 孝志

2022/03/09

無事に復帰できますように。

<2022年3月19日(土)追記>

復帰してた。歌舞伎美人より。

歌舞伎座「三月大歌舞伎」第二部『河内山』片岡仁左衛門 出演についてのお知らせ

 平素より格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

 歌舞伎座「三月大歌舞伎」第二部『河内山』の河内山宗俊に出演をしております片岡仁左衛門は、体調不良のため、3月9日(水)より舞台を休演しておりましたが、体調が回復し、明日3月16日(水)公演より舞台に復帰させていただくことになりました。

 つきましては明日より、当初の配役通り上演いたしますので、よろしくお願い申し上げます。

 皆様には、多大なるご迷惑、ご心配をお掛けしましたこと、お詫び申し上げます。

松竹株式会社
2022/03/15

無事でよかった。

2021年6月13日 (日)

松竹製作「六月大歌舞伎 第二部 桜姫東文章 下の巻」歌舞伎座(ネタバレあり)

<2021年6月12日(土)昼>

追放されて行き場がない清玄と赤子は、同じく追放された残月と長浦の2人が暮らす地蔵堂の庵に身を寄せる。金のない2人に病みついた清玄の面倒を見るのは苦しいため、お参りに来た女に子供を預け、清玄を殺してしまう。仏の墓堀に呼んだ権助と穴を掘っていると、女衒が女を売り飛ばす相談のために女を連れてくるが、この女が桜姫だった。女衒が女郎屋と話をつけるために席を外したすきに、残月は言い寄り、権助は機会をうかがう。

親切にも冒頭で上の巻のあらすじを語ってくれた後に始まる(明瞭な口跡でよかったけど誰だか名前がわからない・・・)。上の巻は終盤数日が中止になったから、救済の意味もあるか。上の巻は仁左衛門メインに見えたけど、下の巻は玉三郎オンステージ。出だしの色っぽい雰囲気と、女郎を経た後半の蓮っ葉な雰囲気、前半は子供と会いたいと言っていたのに後半は子供がほしけりゃ産んでやるという落差がすごい。仁左衛門権助の格好いい場面も玉三郎桜姫の引立てになる。

ただ話はいろいろかっ飛ばしている。終盤、父が亡くなり家も潰れたきっかけである都鳥の巻物を盗んだのが権助であることを知った桜姫が、仇として権助を殺すのはわかるけど、権助が父親とはいえ自分の産んだ赤子まで殺すのはもはやホラー。そこから最後、殺害の下手人として追われた桜姫が、取返した巻物で一転、御家再興がかなって大団円の急転直下。

権助と桜姫との間に産まれた赤子が、人手に渡しても結局戻ってきたり、いろいろ言われている割にさして大切にされていなかったり。扱いが雑かというとそうでもなく、あえて書くなら呪いの象徴のように見える。清玄の幽霊も、雷で生き返った清玄がうっかり穴に落ちたのは暴れた本人かもしれないけどそのまま放置したのは桜姫。なのに出てきた幽霊に桜姫が怖がるのでもなく話しかけるという地続き感。冷静に考えれば芝居のご都合主義だけど、観ているとそうとばかりも言えず、いろいろ強引な展開が不気味さで束ねられているようなところがある。これが鶴屋南北の怪奇趣味か。

物語の理解はやっぱり、タイトルロール通り桜姫を追うのがいい。不運な亡くなり方をした白菊丸の生まれ変わりである桜姫が、(清玄と二役である)権助にひどい目に合わされた上に取りこまれたところ、まずは清玄に(結果として)復讐しつつ、清玄(の幽霊)に埋合せをしてもらって権助にも復讐し、最後は御家復興で幸せになるまでの一部始終を、輪廻転生や因果応報の形で描いた、と考えるのがすっきりくる。清玄と権助の二役が有名な芝居で見せ場が多いし、仁左衛門が色気があって格好よくて興行的には売物にするのが欠かせないとしても、芝居を背負うのは桜姫。その点、下の巻が玉三郎オンステージになったのは必然だったし、玉三郎もそれに応えていた。

なんか近代に毒されたような感想だけど、雰囲気勝負と割りきるにはいろいろややこしい芝居だった。にもかかわらず、描きたい雰囲気を重視するから筋立てなんて多少強引でもいいんだよ、木戸銭払った客を楽しませて興行が成功すればやったもん勝ちだよ、と訴えかける何かがあった。現代劇ではなかなかお目にかかれない、生き残った古典劇の力強さは、シェイクスピアを思わせる。それは逆に、芝居を立上げるためには役者に大きさ、強さが求められるということでもあって、玉三郎仁左衛門が活躍したからこそ成立した芝居だったのかな、他にここまでできる人たちが今だれかいるかな、というのもおまけの感想。

2021年4月11日 (日)

松竹製作「四月大歌舞伎 第三部 桜姫東文章 上の巻」歌舞伎座

<2021年4月10日(土)夜>

僧侶である清玄と稚児の白菊丸が江ノ島で心中を図るが、先に飛込んだ白菊丸の後を追えずに清玄が生き残ってしまう。17年後、高僧となった清玄は、不幸が続く名家の17歳の娘である桜姫の出家の相談に呼ばれる。生まれつき左手が開かない桜姫に清玄一行が読経すると左手が開くが、そこで出てきたのは心中のときに白菊丸と交わした香箱で、清玄は白菊丸の生まれ変わりが桜姫だと信じる。そこに、桜姫との縁組を求める悪五郎が言い寄るが、とんでもないことと女中に断られたため、何とかするために悪党の権助を桜姫への使いに立てる。

下の巻は6月公演にお預けで、今回は上の巻として前半。この後、権助が実は桜姫を以前強姦していたが、そのときのことを桜姫は忘れられず権助を思い続けて出家を待つ身なのに不義を働き、その相手が清玄だと誤解される、と続く。上の巻の展開だけ見たら桜姫はさっさと首をはねてもいいくらいの身勝手な役で、そこを納得させるのが役者の腕の見せ所だけど、玉三郎が頑張った。

というか、上の巻だけを観た範囲では筋を追ってもしょうがない。それより、権助と桜姫の不義の場面、玉三郎と仁左衛門の色気が全開で、70歳以上でここまでできる歌舞伎役者やばい。仁左衛門は清玄と権助の二役だけど、悪い権助のほうがいろいろ似合っていた。

実はいろいろあって冒頭の数分を見逃したので心中で飛込むまでのやり取りを聞き逃したのだけど、まあしょうがない。なんか荒唐無稽な雰囲気があるので、続編の下の巻に期待。新型コロナウィルス対策メモは第一部に書いたので省略。

松竹製作「四月大歌舞伎 第一部」歌舞伎座

<2021年4月10日(土)朝>

帝に献上する刀を打つよう命じられた刀匠だがそれだけの技量を持つ相槌を打つ相方がおらず稲荷明神に祈りをささげると童子が現れて「小鍛冶」。鎌倉の頼朝から逃れるべく奥州を目指す義経一行が安宅の関所で見とがめられて切抜けるために弁慶の一世一代「勧進帳」。

小鍛冶。素直に踊りを楽しめばよし。中車の刀匠と猿之助の童子実は稲荷明神もいいけど、間に出てきた弟子の中で、ネタ台詞を言っていた若木色というか緑の着物を着ていたのは猿弥であっているか。短い時間だったけど、踊りが上手かったというか、所作がはまっていた。なぜかと考えるに、決して悪口ではないのだけど、体型バランスが旧世代の日本人に近いからだと思われる。日本の踊りの振付は、当時の日本人の体型バランスできれいに見えるように作られたとどこかで読んだことがあるけど、納得。

鳴物が、ダルダルのダウンチューニングから始まって、増し締めしながら弾くという珍しいスタイル。動きもあったからあれは狙ったもので、緩い弦の音で不安な心持を表そうとしたのかと推測。

勧進帳。今回は白鸚の弁慶に幸四郎の富樫のA日程。白鸚が最初の出番で花道から出てまだ台詞を言わないで立っただけの瞬間から呼吸が荒い。声もおとなしめで勧進帳の読みあげが終わった瞬間に拍手が出せない。最後、呼吸を整えるための息の荒さが劇場に響いて、飛び六方がよれよれだった。幸四郎が明朗な台詞だった分だけ余計に目立つ。今回の出来を純粋に評すれば荒事の代表格の弁慶役として擁護の余地はない。

休憩タイミングを含めていろいろ段取りが整っていたから多分体調ではなく体力の問題。自分の席からは見えなかったけど、音から推測するに途中で汗拭きや水分補給だけでなく酸素補給もしていたかもしれない。弁慶はそもそも気力体力が求められる役で、さらに衣装はものすごい重たくて着て立つだけでも大変らしいから、それで舞台に出られるだけ同年代の一般人よりは元気だと思うけど、半月前に吉右衛門が倒れたばかりなので、途中で倒れないか観ていてはらはらし通しだった。弁慶はこれ限りの演じ収めになるはずなので白鸚贔屓の人は観に行っておくことを勧める。

そのほか新型コロナウィルス対策メモ。場内混雑をつくらないようにイヤホンガイドを入場するより前に劇場外で借りて返すシステム。自力もぎり、検温、消毒で入場。飲食は最低限の水分補給を除いて場内禁止で食事処も営業していない。パンフレット以外の物販は全部なしで、1階の土産物屋はチケットなしで外に開放して外から入るようにしている。ロビーの椅子は間隔を空けられるところは2席空けて距離確保。男子トイレも小便器はひとつ飛ばし。スタッフはマスクにフェイスガード。席は最前列と、花道脇は列によって3-4席空けて、他は千鳥格子を基本に一部は2人並びの席も用意、桟敷席も1人。まあまあ入っていたけど空席もあり。さすがに1人だけだけど、話すときにマスクを外す人を遠くに発見、年寄りは小声で話そうとするとマスクを外してしまう模様。退場時は後方から整列退場。

場内はスタッフは注意事項を書いた案内板を掲示、説明は主にアナウンス。COCOAを推奨するというアナウンスがあったけど、その後で携帯電話の電源をお切りくださいとのアナウンスもあり。それは駄目じゃないか

2020年2月11日 (火)

松竹製作「菅原伝授手習鑑」歌舞伎座

<2020年2月10日(月)昼>

その優れた手跡から、弟子への筆法伝授をと帝に望まれた菅丞相。だが今の弟子は頼むに足らず、腰元と駆落ちしたため勘当していた源蔵を呼寄せ腕前を確かめると、勘当は取りやめぬが秘伝を伝授する。折りしも、家来の手引きで逢引していた菅丞相の養女と斎世親王が、菅丞相の政敵である時平の家来に見咎められてしまい、2人は逃亡方々駆落ちしてしまう。それを皇位の簒奪だと時平に逆用されて、菅丞相は蟄居となってしまう。菅丞相の若君だけでも助けなくてはと源蔵が救い出すが、菅丞相は流罪が決定する。

初段と二段目のダイジェスト、なのかな。この後に国立劇場の文楽で今やっている三段目が挟まって、四段目の寺子屋につながるはず。寺子屋で若君をかくまっていた理由まではわかったけど、その恩義の深さが現代の自分には伝わらず、薄味。仁左衛門の菅丞相はどんなものかと観に行ったけど、ほとんど動かない、超地味な役どころ。品格と言われればそれまでだけど、つらい。その分他の役者に目が行って、玉三郎の覚寿が何と言っても一番。梅玉の源蔵もよかった。

東宝主催「天保十二年のシェイクスピア」日生劇場

<2020年2月9日(日)夜>

漁師上がりの親分が治めていた宿場。引退を考えた親分は3人の娘のうち、業突張りな上の娘たちではなく、養女だが心優しい末娘に縄張全部を譲りたいと考えていたが、お互いの思い違いから末娘は家を出ることになる。やむなく長女と次女に分けて譲ることになったが、相手を蹴落とそうとする2人のために宿場は2つの勢力にわかれてしまう。もともとこの宿場の生まれだが流れ者になって戻ってきた男が、この現状を見て、うまくのし上がってやろうと算段を働かし始める。

蜷川版を観て以来2回目。最後まで堪能して満足。やっぱりこの脚本は面白い。スタッフワークで洋風な音楽と振付をつけたのに対して、木場勝己がそこにいてしゃべるだけで良い意味の土着感が出て、古今東西風味が拮抗する。オープニングの曲のノリの良さは蜷川版と甲乙付けがたい。

オープニングの曲が終わって、出だしがやや低調だったけど持ち直し。浦井健治のきじるしの王次が出てきた瞬間の華やかさがすごかった。ああこの人はミュージカルが本家だ、ストレートプレイに出るのはもったいないんじゃないのかと場違いな感想。高橋一生の佐渡の三世次だけ、メイクや衣装も込みで独特に作りこんだ不気味さを前面に出していたけど、なのにこの芝居には合う不思議。終盤は独壇場だった。

「祝祭音楽劇」と題したとおりの出来で、開演して2日目3ステージなので調整の余地のある役者も若干見受けられたけど、客としてはそんなところを気にするより楽しんだほうが得。そういう1本。木場勝己が隊長役を務めているのがバランスの要だと思うので、観られるものなら今回もう1回観たい。

2019年11月15日 (金)

松竹製作「連獅子」「市松小僧の女」歌舞伎座

<2019年11月13日(水)夜>

長い毛を振る有名なアレ「連獅子」。母の死をきっかけに剣術修行にのめりこみ男の風体でごろつきもあしらう裕福な商家の娘が、後妻の娘との跡継ぎ問題に嫌気がさして乳母を頼って家出した先で見かけた乱暴者「市松小僧の女」。

「連獅子」は有名だけど初見。霊山を舞台に、獅子は子を千尋の谷に突き落とす、というのを模した踊りらしい。その突き落とした後に、霊山の頂上を目指す修行僧の軽いコメディが挟まって、獅子の精になった親子が舞って長い毛を振る、と調べると一応舞台設定があった。幸四郎と染五郎を目当てにきた客の、萬太郎と亀鶴演じる修行僧が出てきたときの誰だお前感がすごかった。自分もそうだった。毛振りを観るのが目当てだからしょうがない。でもそこからちゃんと笑いを取って馴染んでいた。最後は遠めにも綺麗な毛を激しく振ったのが観られて満足。染五郎が赤で幸四郎が白。踊りは染五郎も上手だったと思うけど、並んで踊ると幸四郎の動作に余裕と安定があるのがわかって、勉強になる。

「市松小僧の女」は池波正太郎脚本ということで見物。それにしては展開がぶつ切りで滑らかでなく、起承転結というより起転転転という印象。物語よりは役者へのあて書きがメインだったか。その目で観れば役に似合う役者が演じていた。ただ、道場の兄弟子である同心は、このぶつ切りな脚本の中でも前振りも少なく短い時間で振舞いが変わる役で、演じていた芝翫も苦しんだか、若干浮いていた。

2019年9月 9日 (月)

松竹製作「秀山祭九月大歌舞伎 夜の部」歌舞伎座

<2019年9月7日(土)夜>

寺子屋の夫婦が菅原道真の若君を我が子としてかくまっていたものの発覚して差出せと言われて窮しその日に入門に来た子を身代わりにと考える「寺子屋」、源義経を奉じて奥州に行こうとする弁慶たちが安宅の関で見咎められて勧進の一行だと言張る「勧進帳」、赤穂浪人大高源吾の不忠が気に入らぬと出入禁止にした殿様松浦鎮信を宥める俳人其角が会ったばかりの大高源吾の俳句を伝えると「松浦の太鼓」。

夜の部をフルで観て初物経験。「すまじきものは宮仕え」と台詞が出てきたけど寺子屋が出典らしい。で、寺子屋を初めて観終わって自分でも驚いたけど、この展開の芝居は現代ではないだろうという感想。二十歳のころなら多分納得していたので、おもったより自分の考え方が近代化してきている。調べたら菅原道真を中心に五段目まであるうちの四段目のそのまた一部が寺子屋で、寺子屋夫婦の源蔵も首検分する松王丸もその前に登場しているらしい。けど現代芝居ならこの展開を納得させるために源蔵と松王丸が道真から恩を受けたことを中心に組立てなおして3時間以上は必要な大作になる。古典なので直すものでもないけど、こんな感想を持つ日が来ようとは。

役者は、吉右衛門の松王丸、千代の菊之助、戸浪の児太郎あたりはいいのだけど、源蔵の幸四郎がちょっと軽い。

勧進帳は奇数日で仁左衛門弁慶に幸四郎富樫。仁左衛門は格好よかったけど、勧進帳の読上げとか義経を叩くところとか、ここ一番が若干薄い。後半でうっすら息切れしていたのは酒を飲んだ後の演技かとも思ったけど、最後の飛び六方が厳しそうだったので多分体力の問題。弁慶は体力的にきつい役と噂に聞くけど実際そうなんだろう。

そしてここでも幸四郎。富樫が弁慶一行を見逃したあたりの心情、納得して見逃したのか、わかって見逃したのか、仁左衛門に目がいっていたのもあるけどそこらへんがいまいちわからず。もともと幸四郎というか高麗屋は弁慶側なので、できることなら偶数日を観たい。

最後の松浦の太鼓は殿様が笑わせる狂言物。歌六の殿様もいいけど大高源吾の妹で殿様に仕える女中の米吉がいい感じ。出だしはともかく、だんだん殿様の可笑しさが伝わってくる後半は、力が抜けて観られるけど、終演9時過ぎのせいかここまで観ずに帰る人も散見。前2本と比べて地味といえば地味だけどもったいない。

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