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2023年9月 6日 (水)

国立劇場主催「菅原伝授手習鑑 三段目/四段目/五段目」国立劇場小劇場

<2023年9月3日(日)朝、昼>

菅原道真が大宰府に追放されて、仕えていた梅王丸と桜丸は浪人の身。参詣する藤原時平に主の仕返しをと待ち構えて、藤原時平に仕えていた松王丸と争いになる。兄弟三人で争っていたが、騒ぎで車から出てきた藤原時平に睨まれて梅王丸と桜丸は動けなくなる。見逃された梅王丸と桜丸は、松王丸となお争おうとするが、まもなくの父の七十の祝いまでは喧嘩を控える。その七十の祝いのための父の家では、三人の妻が先にやってくるが、息子三人はなかなかやってこない。やっと来たかと思いきや(三段目)。大宰府の菅原道真が夢に促されて参詣に来たところ、菅原道真の様子を見に来た梅王丸が、藤原時平に命じられた刺客を捕まえるところに出くわす。藤原時平が天皇の座を狙っていると聞かされた菅原道真は怒って天神と化す。そのころ、菅原道真の妻を狙った刺客によって梅王丸と桜丸の妻は桜丸の妻八重の犠牲を出すものの何とか助け出される。また菅原道真の息子は手習鑑を伝授した武部源蔵に匿われていたが、藤原時平の追手が迫るところ、その日寺入りした子供を身替りにして松王丸の検分を何とか難を逃れたものの実は(四段目)。雷の鳴り響く御所に斎世親王、苅屋姫、菅秀才がやって来て、菅原道真の後を継げるように天皇に願い出る。それを止めようとする藤原時平とその仲間だが(五段目)。

初段/二段目」もたっぷりでしたけど、こちらも負けず劣らずたっぷりとした演目でした。実際にはチケット二枚で、四段目の頭、筑紫配所の段で道真が天神になるところで切られた二部構成です。いい切りかたでした。道真が怒り荒ぶって天神になるところは、火花に毛振りまであって一番派手に盛上がる演出ですが、人形遣いと太夫と三味線の息があって荒ぶる様子が実によかったです。

四段目はいわゆる寺子屋の場面で、やっぱり今の目で観るとひどい話だと思うわけですが、ここまで通して観ることで、武部源蔵には武部源蔵としての道真への恩義があり、松王丸は松王丸で道真への忠義を見せたい想いがあるという、物語の構図はしっくりきました。「梅は飛び桜は枯るる世の中になにとて松のつれなかるらん」と道真が詠んだことが伝わって、世間で「松はつれないつれない」と言われて苛まれるというのも、よくできた脚本です。五段目で復讐が果たされてめでたしとなります。

前半のダイジェストとか、寺子屋だけとか、それもいいかもしれませんが、やっぱり通しで観ることで、理解が深まります。道真と時平とその手下の線、道真と母と苅屋姫の線、道真と武部源蔵の線、道真と三人兄弟とその家族の線、これらの線をそれぞれ取出しても話は成立ちますけど、線が絡み合って一本の流れを作るところに長く演じられる古典演目としての力があるので、それを通して観るのは意義があるなと観客ながらに思うわけです。

ちなみに後半の頭に寿式三番叟の上演が挟まりましたけど、これもよかったですね。めでたい感じが出ていましたし、人形に踊らせてそこまで上手に見えるものだとは思いませんでした。あと、これは字幕がよく働きました。歌舞伎座で踊りを観ても唄がどうなっているのか聞いてわからなかったのですが、それを字幕で見ると、ちゃんと踊りの説明になっている唄でした。

2023年5月29日 (月)

国立劇場主催「菅原伝授手習鑑 初段/二段目」国立劇場小劇場

<2023年5月19日(金)朝、昼>

 右大臣の菅原道真が左大臣の藤原時平から失脚を狙われる時勢の最中、菅原道真の姪にして養女の苅屋姫が宮様と密会中に見つかりそうになって逃げ落ちて行方不明になる。名筆の筆法を弟子に伝授するように帝から命じられた菅原道真は、屋敷に籠って手習鑑の製作に没頭していたためこの事件を把握していなかった。菅原道真は、手習鑑をかつて屋敷から追放した家来にして弟子だった武部源蔵に伝授するが、藤原時平によって失脚を謀られてしまう(初段)。失脚して大宰府に護送される途中、船の風待ちの間に姉の覚寿の屋敷に滞在することを許された菅原道真と、逃げ落ちている最中にそれを知った苅屋姫。実母の覚寿と姉の立田前の情けで苅屋姫も屋敷に滞在することは許されたが、自分が原因で追放される菅原道真とは顔を合わせられない。この滞在中、立田前の婿とその父は、自分の出世のために藤原時平の味方について、菅原道真の殺害を目論む(二段目)。

 「三谷文楽 其礼成心中」以来の文楽。頭からフルで上演してくれるため、菅原道真と藤原時平の対立がはっきりしてわかりやすいです。「なにそれの段」と場面ごとに名前がついていますが、この段ごとに太夫と三味線が入替っていく上演形式を観られたのはよかったです。

 で、この前にミュージカルを観たばかりだったこともありますけど、やっぱり文楽は日本流ミュージカルなのかなと思いました。そして、人間が演じる物語だと時間の運びに肉体の制限があるところを、太夫の語りと三味線の音楽、それに人形を使うことで、登場人物の内心の体感時間で運ぶことができるのは文楽ならではと思いました。二段目の最後に目いっぱい引張るあたりは特にそれを感じました。

 人形の動き方も実に滑らかで、人形遣いが顔を出して動かしていもまったく気になりませんでした。役者ならひとりでできるものを3人がかりで人形を動かして、でもそれで芝居に集中できるまで動かすんだから、すごいですよね。ただあれをやるには、人形が着物でないといけません。もろ肌を脱いで人形が身体を拭く場面もあったのですが、あれをずっとやるのはつらい。洋装の現代劇には向いていません。

 あとやはり、8割うなられると厳しいかったです。字幕も出ていたのでわからないことはないのですが、どうしてもそちらに目がいってしまいます。おかげで元の脚本の、特に地の部分に、口で伝えるにはややこしい言葉が多用されているのがわかりました。歌舞伎だって能狂言だって節回しがあるから、古典はそういうものだと言われればその通りですが、ただでさえ耳で聞き取るのは難しい言葉をうなられるともっとわかりません。

 かといって無声映画の弁士みたいにくっきりはっきりできるかというと、それをやると文楽の最大の特徴である、登場人物の内心の体感時間で運ぶところがおそらく死にます。なんというか、言葉を言葉として諦めて音として扱うことで成立つものがあったので、筋立ては頭に入れたうえで臨むのが一番楽しめると思います。

 ただ、どれだけよくできた脚本でも初見で楽しめない上演形式が現代で受けないのは、これはもうしょうがないですね。文楽が古典になってしまったのは理由があってのことだと思います。客席には外国人もいましたが、いっそ物語はイヤホンで追って、太夫の語りは音として聞いたほうが楽しめたかもしれません。

2023年4月18日 (火)

松竹主催「四月大歌舞伎 夜の部」歌舞伎座

<2023年4月14日(金)夜>

弟に遠慮して実家に近づかない大店の若旦那与三郎は、見物に来た木更津の浜辺で地元の顔役の妾となっているお富と互いに一目ぼれをして密会するも、顔役に知られることとなり与三郎は全身を切られて海に投げ込まれてお富は身投げをする、それから3年後「与話情浮名横櫛」。獅子は子を千尋の谷に突き落とすというアレ「連獅子」。

仁左衛門玉三郎の与話情浮名横櫛。話自体はどうってことはない。とにかく与三郎演じる仁左衛門が色っぽい。優男の前半は、お富と出会って互いに意識する場面から、遠ざかるお富を見送ってふらふらする場面までが最高です。その後でお富と密会するもお富のほうが積極的で覚悟を決めるまではやや腰が引けているあたりも実に優男。それが後半、破落戸風情で変わるところも見事。

颯爽と現れる冒頭に、一階席をぐるりと一周するサービス演出まで含めて、仁左衛門ったら仁左衛門の芝居。これは仁左衛門が休演したら代役を建てずに夜の部丸ごと休演するのもわかる。なまなかな役者では金返せになる。

ただ二月も思ったけど仁左衛門は声が少し落ちている。もう少し張った声が出せると後半の破落戸は良かった。お富役の玉三郎が海を背景にした仁左衛門に「ほんに、いい景色」という場面とか、密会している2人を襲う顔役役の片岡亀蔵がすごむ場面とか、助かったお富をかくまっていた和泉屋多左衛門役の河原崎権十郎がきっちり応対する場面とか、声でも魅せてくれる役者が多かったからなおさら気になった。あと後半のお富についていた女中も気になったんだけど、誰だったんだろう。

なおこの芝居で和泉屋多左衛門役を務める予定だった市川左團次は出られずに亡くなった。合掌。

連獅子。今回は尾上松緑と左近の親子による連獅子。お囃子がきっちりリズムを刻んでいたのもあるけど、左近の踊りがそのリズムに乗ってきっちり決まっていた。しっかり止まるキレのある動きと合せて、歌舞伎の舞踊としていいか悪いかはわからないけど、観ていて気持ちがいい若獅子。最後の毛振りこそ円にすこし足りなかったけど、客席の拍手は本物。時間の都合か観ずに帰ってしまった客もちらほらいたけど、もったいない。左近はちょっと気にしておきたい。

2023年2月23日 (木)

松竹主催「霊験亀山鉾」歌舞伎座

<2023年2月23日(木)夜>

相手を闇討ちにし、敵として追われる身である浪人の藤田水右衛門。その石井家の弟に敵討ちとして見つかるも策を弄して返討ちにする。藤田家ゆかりの者たちに手引きで逃げる水右衛門だが、石井家の関係者がなお敵討ちで追い続ける。

前回の国立劇場から歌舞伎座に移って仁左衛門の一世一代。なんか記憶にある筋書きと微妙に違う気がする。時間を短くするために多少辻褄を合せたのかもしれない。それで仁左衛門の出番もやや減っているような。

仁左衛門は相変わらず悪い役で恰好よかった。ただ前回は今回より良席で観られたという差を考えても、ややパワーが落ちてぎりぎり感がある。ここで一世一代の判断は正しい。その分というか二役の隠亡の八郎兵衛が、特に揚屋の場面がよい感じ。芝翫の源之丞は水右衛門との差を出そうとしたせいかちょっとおちゃらけすぎ感がある。

場面転換で幕を引いた前を使って、狼退治とか瓦版とかをいれることで客を待たせる時間が少ないのは良い工夫。こういうのはもっとやっていいと思うのですよね。

2022年6月26日 (日)

新劇交流プロジェクト「美しきものの伝説」俳優座劇場

<2022年6月25日(土)夜>

国として活発だった大正時代。西洋に刺激された政治活動、女性解放運動、小劇場運動で、それぞれ活躍していた当事者たちの活動と交流の日々を描く。

有名なので観たいと願っては見逃し続けて、ようやく初見。追加公演で◇の配役(モナリザ=安藤みどり、サロメ=畑田麻衣子、尾行=星野真広)の日程。ものすごくよくできた脚本を、この上なく丁寧に仕上げて、これが初見でよかったと言える1本です。そしてそれだけに、芝居ではなく当時の実在の登場人物たちの意見に物申したくなる1本でした。

先に芝居の感想です。最近では昭和大正の再現なんて困難なところ、その雰囲気が受継がれている新劇の劇団が公演することで、非常に統一された仕上がりでした。劇場にもポスターがあった通り初演は文学座だし、登場人物のうちの小劇場運動関係者はさかのぼれば今回上演した各劇団のルーツです。いい悪いを超えてこれが本家による公演だというある種の正解感がありました。

それを実現した役者陣は新劇系の役者が並んで、普段新劇の劇団をあまり観ない自分には新鮮でした。その印象は「探せば名手はいるものだけど、こんなに名手が大勢いるとは知らなかった」。堺俊彦役の能登剛が出版社内で相手を軽くいなしつつ何となく腹で別のことを考えていそうな調子とか、久保栄役の古谷陸が劇団活動を批判する台詞の圧を島村抱月役の鍛治直人が少ない相槌で受けるくだりとか、今どきの芝居ではなかなか観られない場面です。

やっぱりですね、小劇場活動の元がスタニスラフスキーだメイエルホリドだと言っても、長年のうちに独自の演技メソッドが育ったのが日本の新劇劇団だと思います。たとえて言うなら楷書の演技。真面目な台詞はもちろん軽い台詞にも、いい意味で重さがあります。今回の脚本にもあった通り新しい演劇を志向するところから始まって、やがて日本人による日本を描いた脚本を上演しつつ、シェイクスピアその他の海外名作の翻訳も並演した歴史。これを言い換えると、今どきの目線では不自然な台詞でも成立させられるよう意味を込めて発声できるようにと格闘した歴史の成果です。さらに脱線すると、現代の小劇場出身の役者は、これもいい意味でもっと軽く自然に台詞を言う技術が磨かれた人が多いです。そういう脚本が増えたのが主な理由とみます。

話は戻って、観ていて安心できたもうひとつの理由がビジュアル面です。特に衣装や大道具小道具などに抜かりがないのは、開演してまもなくわかりました。着物がもはや時代劇の衣装になっている昨今、きっちり仕上げてくれたのは新劇の歴史あってのことです。

これらをまとめた演出は鵜山仁。見る人が見れば演出の癖があったのかもしれませんけど、もともと脚本を丁寧に演出する人です。観た感想では変にいじらずにきっちり立ち上げました。それでいて、必ずしも登場人物を全面肯定した雰囲気に流れず、落着きも感じられました。1968年の初演から半世紀、ここで書かれた大正時代からだと1世紀。脚本に希望として描かれた内容がその後どうなったかの回答はある程度出ています。座組の中でこの脚本の内容に目を輝かせる人ばかりではないのでしょう。演出が目指したところは不明ですが、結果として過剰な時代賛歌にならず、登場人物とその持論を立ち上げるところにつながっていました。

新劇合同プロジェクトとして取上げられるのにふさわしい脚本であり、またそれに見合った仕上がりに満足しました。

とここまでが芝居の感想。ここから先が芝居に出ていた登場人物の持論について。

芝居の出来がよく、登場人物とその持論が立ち上がったからこそ、その持論の欠点も見えてきました。

たとえば政治活動。社会主義者の多い登場人物ですけど、人によって多少の違いはありながら共通しているのは反政府ということ、そして打倒した後のことについて無責任であることです。大杉栄が「政治はトーキングよりアクション」「無政府主義者は政府を打倒したら野に下れ」という台詞がありますけど、無責任の極みですよね。打倒したからには運営して責任を引受けろよ、倒すところだけ楽しんで食い逃げするなよ、と。台詞をもじるなら政治はトーキングでもアクションでもなくオペレーションです。十二国記を読んだことがある人なら「責難は成事にあらず」で通じるでしょう。

女性解放運動も色恋沙汰の話はちょっと皮肉の入った台詞があちこちにありますがそれは置いておいて、松井須磨子の自殺の話題。その理由のひとつに観客の目になぶられて(大意)というくだり。そもそも江戸時代から役者の不行跡は瓦版のネタなわけで、そういう興味の目で見られる職業に乗込んできたら、初の女優だから芸術だからといってもしょうがないわけです。芸だけを評価してもらってしかも食える道なんて、並大抵の人が到達できるものではありません。昨今でこそ、SNSの発達であまりに直接的な悪口雑言が増えすぎて控えましょうと言われていますが、大勢の賞賛だけを集めて興味や非難は止めてくれなんてそんな美味い話はありません。ふたつよいことさてないものよ、ですね。

で、小劇場運動。新しい演劇を広めたいという意気込みと表裏一体で、どうしても観客を啓蒙するという意識がついて回るのですね。大きなお世話です。観客のひとりひとりに生活があり、時間を割いて木戸銭を払って芝居を観に来る。そこにエンタメを求めて何が悪かろうというものです。これを両立させるために島村抱月は、少人数を相手のサロンでは芸術的な芝居を上演しつつ、大劇場では一般受けする興行で稼ぎ、それを芸術と興行の二元論と言っています。ひとつの方法です。感想に書いた場面では、島村抱月の活動を矛盾していると久保栄が批判していますが、半分あっていて半分間違っています。そもそも趣味に啓蒙すること自体が大きなお世話だからです。

政治と言わず演劇と言わず、あらゆる分野で新しいことを始めたいなら「俺の言うことは楽しい、君たちにはこんないいことがある、だから俺に任せろ」で誘うべきところです。それを、雑に左翼と書きますが、左翼思想が強ければ強いほど、「俺の言うことが正しい、お前らは無知で間違っているから俺を認めて従え、でも後のことは知らん」の3拍子になります。了見が間違っています。こういっちゃ何ですけど、この間違った3拍子の了見は今の左翼に全部残っていますね。

亀戸に引っ越した伊藤野枝の台詞に「下町に引っ越したらみなさん荒っぽいですけど気の置けない人たちですのよ」なんてのがありますけど、こんな人たちの唱える民衆とは何なのか。よく聴くと実に微妙な台詞がそこかしこに散りばめられています。散りばめられているというとちょっと違いますね。そのつもりで読んだら芝居の意味が反転するように、登場人物の典型的な主張を取上げて煮詰めた台詞で脚本を書いたというほうが正しい。演出次第でどちらにでも上演できる点で、おそろしく完成度の高い脚本です。

そんな中で一番直接的な表現が、ロマン・ローランの引用である「民衆が幸福なら、広場の中心に杭を立てて花を飾れば人が集まり祭りが始まる。このような幸福な民衆に芸術は不要である(大意)」です。感想に書いた久保栄が島村抱月の劇団活動を批判する時に出てきます。脚本では「だけどそのような幸福に民衆は永遠に到達できないので、芸術は常に必要である(大意)」とも続きます。私にはこの場面が「誰も民衆の幸福を実現できなかった」と聴こえました。

初演の1968年は第二次世界大戦後です。戦前の理想論も敗戦後には空論にみえたでしょう。だけど新劇の歴史は紡がれたし、敗戦してなお自分たちの生活もここにある。だからここに取上げたような活動が、そういう理想論を本気で信じて活動していた人達が美しく見える。なんならこのうちの何人かは処刑されたからこそ、より美しく見えた。初演の時点で美しく見える時代だった。それは関係者には語り継がれる伝説であり、内実は空論の伝説だった。「美しきものの伝説」はそういう両面を含めてつけられた題である。脚本家の意図は知りませんが、私はそのように受取りました。

ここまで感想の射程圏が広がったのは、一にも二にも芝居の出来がよかったからです。ものすごく考えさせられました。登場人物の当時の主張を批判することと、芝居の出来が良くて褒めることは両立します。美しく力強い仕上がりだったことは、あらためて記載しておきます。

<2022年6月27日(月)追記>

全面改訂。

2022年6月 6日 (月)

松竹製作「六月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

<2022年6月4日(土)昼>

妻と母の不仲に悩まされるも戦の才と忠誠心あふれる家臣に恵まれた信康が織田信長の勘気を受けて謹慎を命じられる「信康」。山王祭の江戸で芸者や鳶たちが踊りや芸を披露する「勢獅子」。

時間の都合で第三部が観られず、ならばと第二部に挑戦。

「信康」は染五郎が歴代最年少の17歳で信康を演じるのが目玉だったけど、「役者は声」派の自分には残念な出来。どれだけ見た目に凛々しく大声が通っても正直な声が出ていないのは駄目。役作りをどれだけ頑張っても声で結果が出せないのは駄目。贔屓のアイドルの初舞台なら温かい目で見守っても高麗屋でこれは駄目。信康、信長双方の家臣役や徳姫など正直な声の出せる役者が揃っているので、この公演の最中に吸収してほしい。家康の白鸚の活舌が衰えすぎなのも厳しかった。去年の弁慶では体力はまだしも活舌が悪いとは思わなかったけど。晩年の家康ならしっくり来たけど、40歳になるかならないかくらいの時代なので、貫禄は十分でも活舌で年齢が狂うのは困る。

「勢獅子」はにぎやかな踊り多数。獅子舞が出ているから正月の演目かと思って調べたら山王祭が舞台でちょうどこの時期の話題。我ながら祭りの季節感に鈍い。

2022年3月 7日 (月)

松竹製作「三月大歌舞伎 第二部」歌舞伎座

<2022年3月5日(土)昼>

御数寄屋坊主にしてゆすりたかりで悪名高い河内山早春が、たまたま目を付けた質屋で騒動があると訊いてみれば娘が大名に軟禁されていると聞いて解決料と引換えに取返すという「河内山」。心を入替えて商売に励むと誓った魚売りが早朝に海辺で拾った財布に喜び自宅で宴会を開くも、酔って目が覚めたら妻にそんな財布は知らないと言われる「芝浜革財布」。

仁左衛門の河内山。悪人という設定の割りに悪人然とは感じず、すっとしていた。娘を取返してやろうと持ちかける出だしは、金を借りられない代わりの儲け話が見つかったから吹っ掛けるという強気を抑えめにして、代わりに駆引きの要素を多めに混ぜた印象。乗込んで話が付いた後にたかった金子を懐に入れようとしたときの驚きも、客席サービスにはいいが人物が小さくなってしまうマイナスあり。悪人をより悪人がやっつけるという素直な建付けにはしなかったか。人物の大きさでは殿様の鴈治郎、練れた雰囲気は家老の歌六が、それぞれいい感じ。

菊五郎の芝浜。ちょっと型を感じてしまったけど、それでも政五郎を演じる菊五郎と、妻おたつを演じる時蔵の掛合いがよかった。落語も聞いたことがないのに粗筋を知っている有名な演目だからと構えずに観ていた分だけ、引き込まれた。みんな妙に上手な宴会の場面、女房自慢をすることでそのあとの話を不自然にさせないのは脚本の工夫か。

2本ともよくできた話とはいえ、というか、よくできた話だからこそ、そこに寄り掛かった感が強い。芝浜で寺嶋眞秀演じる丁稚が芝居の名場面を披露するところが2本通して本日一番の拍手になってしまうのは、子役贔屓とはいえいかがなものか。2本とももっと面白くできたはず。

<2022年3月9日(水)追記>

片岡仁左衛門 休演のお詫びと代役のお知らせ」が出ていました。

 平素より格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

 歌舞伎座「三月大歌舞伎」第二部『河内山』の河内山宗俊に出演をしております片岡仁左衛門ですが、体調不良のため、本日3月9日(水)から当面の間休演し、下記の通り、代役にて上演させていただくこととなりました。

 なお、復帰につきましては決定次第、お知らせいたします。

 何卒ご諒承を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

松竹株式会社

■歌舞伎座「三月大歌舞伎」
【第二部】
『河内山』
河内山宗俊  中村 歌六
高木小左衛門  坂東 亀蔵
大橋伊織  片岡 孝志

2022/03/09

無事に復帰できますように。

<2022年3月19日(土)追記>

復帰してた。歌舞伎美人より。

歌舞伎座「三月大歌舞伎」第二部『河内山』片岡仁左衛門 出演についてのお知らせ

 平素より格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

 歌舞伎座「三月大歌舞伎」第二部『河内山』の河内山宗俊に出演をしております片岡仁左衛門は、体調不良のため、3月9日(水)より舞台を休演しておりましたが、体調が回復し、明日3月16日(水)公演より舞台に復帰させていただくことになりました。

 つきましては明日より、当初の配役通り上演いたしますので、よろしくお願い申し上げます。

 皆様には、多大なるご迷惑、ご心配をお掛けしましたこと、お詫び申し上げます。

松竹株式会社
2022/03/15

無事でよかった。

2021年6月13日 (日)

松竹製作「六月大歌舞伎 第二部 桜姫東文章 下の巻」歌舞伎座(ネタバレあり)

<2021年6月12日(土)昼>

追放されて行き場がない清玄と赤子は、同じく追放された残月と長浦の2人が暮らす地蔵堂の庵に身を寄せる。金のない2人に病みついた清玄の面倒を見るのは苦しいため、お参りに来た女に子供を預け、清玄を殺してしまう。仏の墓堀に呼んだ権助と穴を掘っていると、女衒が女を売り飛ばす相談のために女を連れてくるが、この女が桜姫だった。女衒が女郎屋と話をつけるために席を外したすきに、残月は言い寄り、権助は機会をうかがう。

親切にも冒頭で上の巻のあらすじを語ってくれた後に始まる(明瞭な口跡でよかったけど誰だか名前がわからない・・・)。上の巻は終盤数日が中止になったから、救済の意味もあるか。上の巻は仁左衛門メインに見えたけど、下の巻は玉三郎オンステージ。出だしの色っぽい雰囲気と、女郎を経た後半の蓮っ葉な雰囲気、前半は子供と会いたいと言っていたのに後半は子供がほしけりゃ産んでやるという落差がすごい。仁左衛門権助の格好いい場面も玉三郎桜姫の引立てになる。

ただ話はいろいろかっ飛ばしている。終盤、父が亡くなり家も潰れたきっかけである都鳥の巻物を盗んだのが権助であることを知った桜姫が、仇として権助を殺すのはわかるけど、権助が父親とはいえ自分の産んだ赤子まで殺すのはもはやホラー。そこから最後、殺害の下手人として追われた桜姫が、取返した巻物で一転、御家再興がかなって大団円の急転直下。

権助と桜姫との間に産まれた赤子が、人手に渡しても結局戻ってきたり、いろいろ言われている割にさして大切にされていなかったり。扱いが雑かというとそうでもなく、あえて書くなら呪いの象徴のように見える。清玄の幽霊も、雷で生き返った清玄がうっかり穴に落ちたのは暴れた本人かもしれないけどそのまま放置したのは桜姫。なのに出てきた幽霊に桜姫が怖がるのでもなく話しかけるという地続き感。冷静に考えれば芝居のご都合主義だけど、観ているとそうとばかりも言えず、いろいろ強引な展開が不気味さで束ねられているようなところがある。これが鶴屋南北の怪奇趣味か。

物語の理解はやっぱり、タイトルロール通り桜姫を追うのがいい。不運な亡くなり方をした白菊丸の生まれ変わりである桜姫が、(清玄と二役である)権助にひどい目に合わされた上に取りこまれたところ、まずは清玄に(結果として)復讐しつつ、清玄(の幽霊)に埋合せをしてもらって権助にも復讐し、最後は御家復興で幸せになるまでの一部始終を、輪廻転生や因果応報の形で描いた、と考えるのがすっきりくる。清玄と権助の二役が有名な芝居で見せ場が多いし、仁左衛門が色気があって格好よくて興行的には売物にするのが欠かせないとしても、芝居を背負うのは桜姫。その点、下の巻が玉三郎オンステージになったのは必然だったし、玉三郎もそれに応えていた。

なんか近代に毒されたような感想だけど、雰囲気勝負と割りきるにはいろいろややこしい芝居だった。にもかかわらず、描きたい雰囲気を重視するから筋立てなんて多少強引でもいいんだよ、木戸銭払った客を楽しませて興行が成功すればやったもん勝ちだよ、と訴えかける何かがあった。現代劇ではなかなかお目にかかれない、生き残った古典劇の力強さは、シェイクスピアを思わせる。それは逆に、芝居を立上げるためには役者に大きさ、強さが求められるということでもあって、玉三郎仁左衛門が活躍したからこそ成立した芝居だったのかな、他にここまでできる人たちが今だれかいるかな、というのもおまけの感想。

2021年4月11日 (日)

松竹製作「四月大歌舞伎 第三部 桜姫東文章 上の巻」歌舞伎座

<2021年4月10日(土)夜>

僧侶である清玄と稚児の白菊丸が江ノ島で心中を図るが、先に飛込んだ白菊丸の後を追えずに清玄が生き残ってしまう。17年後、高僧となった清玄は、不幸が続く名家の17歳の娘である桜姫の出家の相談に呼ばれる。生まれつき左手が開かない桜姫に清玄一行が読経すると左手が開くが、そこで出てきたのは心中のときに白菊丸と交わした香箱で、清玄は白菊丸の生まれ変わりが桜姫だと信じる。そこに、桜姫との縁組を求める悪五郎が言い寄るが、とんでもないことと女中に断られたため、何とかするために悪党の権助を桜姫への使いに立てる。

下の巻は6月公演にお預けで、今回は上の巻として前半。この後、権助が実は桜姫を以前強姦していたが、そのときのことを桜姫は忘れられず権助を思い続けて出家を待つ身なのに不義を働き、その相手が清玄だと誤解される、と続く。上の巻の展開だけ見たら桜姫はさっさと首をはねてもいいくらいの身勝手な役で、そこを納得させるのが役者の腕の見せ所だけど、玉三郎が頑張った。

というか、上の巻だけを観た範囲では筋を追ってもしょうがない。それより、権助と桜姫の不義の場面、玉三郎と仁左衛門の色気が全開で、70歳以上でここまでできる歌舞伎役者やばい。仁左衛門は清玄と権助の二役だけど、悪い権助のほうがいろいろ似合っていた。

実はいろいろあって冒頭の数分を見逃したので心中で飛込むまでのやり取りを聞き逃したのだけど、まあしょうがない。なんか荒唐無稽な雰囲気があるので、続編の下の巻に期待。新型コロナウィルス対策メモは第一部に書いたので省略。

松竹製作「四月大歌舞伎 第一部」歌舞伎座

<2021年4月10日(土)朝>

帝に献上する刀を打つよう命じられた刀匠だがそれだけの技量を持つ相槌を打つ相方がおらず稲荷明神に祈りをささげると童子が現れて「小鍛冶」。鎌倉の頼朝から逃れるべく奥州を目指す義経一行が安宅の関所で見とがめられて切抜けるために弁慶の一世一代「勧進帳」。

小鍛冶。素直に踊りを楽しめばよし。中車の刀匠と猿之助の童子実は稲荷明神もいいけど、間に出てきた弟子の中で、ネタ台詞を言っていた若木色というか緑の着物を着ていたのは猿弥であっているか。短い時間だったけど、踊りが上手かったというか、所作がはまっていた。なぜかと考えるに、決して悪口ではないのだけど、体型バランスが旧世代の日本人に近いからだと思われる。日本の踊りの振付は、当時の日本人の体型バランスできれいに見えるように作られたとどこかで読んだことがあるけど、納得。

鳴物が、ダルダルのダウンチューニングから始まって、増し締めしながら弾くという珍しいスタイル。動きもあったからあれは狙ったもので、緩い弦の音で不安な心持を表そうとしたのかと推測。

勧進帳。今回は白鸚の弁慶に幸四郎の富樫のA日程。白鸚が最初の出番で花道から出てまだ台詞を言わないで立っただけの瞬間から呼吸が荒い。声もおとなしめで勧進帳の読みあげが終わった瞬間に拍手が出せない。最後、呼吸を整えるための息の荒さが劇場に響いて、飛び六方がよれよれだった。幸四郎が明朗な台詞だった分だけ余計に目立つ。今回の出来を純粋に評すれば荒事の代表格の弁慶役として擁護の余地はない。

休憩タイミングを含めていろいろ段取りが整っていたから多分体調ではなく体力の問題。自分の席からは見えなかったけど、音から推測するに途中で汗拭きや水分補給だけでなく酸素補給もしていたかもしれない。弁慶はそもそも気力体力が求められる役で、さらに衣装はものすごい重たくて着て立つだけでも大変らしいから、それで舞台に出られるだけ同年代の一般人よりは元気だと思うけど、半月前に吉右衛門が倒れたばかりなので、途中で倒れないか観ていてはらはらし通しだった。弁慶はこれ限りの演じ収めになるはずなので白鸚贔屓の人は観に行っておくことを勧める。

そのほか新型コロナウィルス対策メモ。場内混雑をつくらないようにイヤホンガイドを入場するより前に劇場外で借りて返すシステム。自力もぎり、検温、消毒で入場。飲食は最低限の水分補給を除いて場内禁止で食事処も営業していない。パンフレット以外の物販は全部なしで、1階の土産物屋はチケットなしで外に開放して外から入るようにしている。ロビーの椅子は間隔を空けられるところは2席空けて距離確保。男子トイレも小便器はひとつ飛ばし。スタッフはマスクにフェイスガード。席は最前列と、花道脇は列によって3-4席空けて、他は千鳥格子を基本に一部は2人並びの席も用意、桟敷席も1人。まあまあ入っていたけど空席もあり。さすがに1人だけだけど、話すときにマスクを外す人を遠くに発見、年寄りは小声で話そうとするとマスクを外してしまう模様。退場時は後方から整列退場。

場内はスタッフは注意事項を書いた案内板を掲示、説明は主にアナウンス。COCOAを推奨するというアナウンスがあったけど、その後で携帯電話の電源をお切りくださいとのアナウンスもあり。それは駄目じゃないか

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