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2026年1月13日 (火)

東宝製作「ピアフ」シアタークリエ

<2026年1月12日(月)昼>

貧しい生まれ育ちからチャンスを掴んでのし上がったものの、愛する男がいないと駄目な歌手、エディット・ピアフ。その波乱の人生を歌に乗せて伝える舞台。

「愛の賛歌」は有名なれどここまで破滅型の人とは知らなかった。いかにも大竹しのぶに向いた芝居で、役は手の内にすっかり入っているものの、声の迫力がやや足りないのが残念で、初演かせめて再演のころに観たかった。友人を演じた梅沢昌代は今更だけどさすがでわかる、マレーネ・ディートリヒと秘書を演じたのが彩輝なおもよい感じでわかる、だけど眼鏡革ジャンの興行主を演じていた男性役者もよかったけど誰だかわからない。

松竹主催「壽初春大歌舞伎 夜の部」歌舞伎座

<2026年1月11日(日)夜>

自分に逆らう侍や関係者を始末しようとする蒲冠者範頼、そこに暫くとの掛声で巴御前が駆けつける「女暫」。白拍子と出会った樵の正体が実は「鬼次拍子舞」。油屋河内屋の次男与兵衛は放蕩がすぎて勘当されたものの明日までに借金を返さないといけない、窮して幼馴染ですでに結婚している豊嶋屋の女房お吉を訪ねるが「女殺油地獄」。

男版も含めて初見だった「女暫」はネタだくさんの顔見世芝居で、七之助の堂々たるふざけっぷりに拍手。踊りの良し悪しはわからないものの良さそうな踊りと揃った音楽の「鬼次拍子舞」では、節はあるもののわかりやすく語ってくれた謡が一部あって耳を引いたので(中央の人)、いつもあのくらいでやってほしいところ。「女殺油地獄」はAプロ。心の弱さがある時は甘えにある時は辛抱の利かなさになって遂に思い詰める与兵衛はおそらく現代風の役作りメソッドと相性がよさそうなれど幸四郎の役作りにぶれがあって芯が見えず惜しい。女暫でも女鯰若菜で活躍した新悟がここではお吉を好演して要注目、徳兵衛の歌六とおさわの梅花とおかちの宗之助もよい感じ、白鸚休演が残念。

2025年12月14日 (日)

松竹主催「十二月大歌舞伎 第三部」歌舞伎座

<2025年12月6日(土)夜>

大店の番頭に囲われているお富が、雨宿りしている顔なじみの番頭を連れて家に戻ると、強請目当てでやって来たのは蝙蝠安と与三郎。かつての色男もお富を逃がした見せしめに身体中が傷だらけで強請の手伝いをする毎日。そこでお富に顔を明かした与三郎が詰寄るところに「与話情浮名横櫛 源氏店」。大きな国を総べる大王が病がちになって、二人の王子であるヤマヒコとウミヒコに命じたのは永遠の命を得られるという火の鳥を捕まえてくること。長い旅路の果てにようやく捕まえたかと思ったのだが「火の鳥」。

「与話情浮名横櫛」は前に通しを観ていたので「源氏店」だけでも筋に迷うことはありませんでしたが、それがなかったらここだけ切出すのは不親切と考えたところでした。玉三郎のお富に染五郎の与三郎で、話題の組合せと芸の継承を急いだのでしょうか。玉三郎はさすがでしたが、染五郎は悪さと色っぽさとを兼ね備えた役はまだまだ苦手そう。強請仲間の蝙蝠の安五郎を演じた松本幸蔵の下手から強気まで幅広いところが目を惹きました。

「火の鳥」は壮大なロードムービーとでも言うべき仕上がり。物語の筋立てで言えばやや性善説というか、人類と地球の対比というか、正直に言えば20世紀の楽観が残ってやや古い世界観ではないかとは感じました。あと脚本の言葉選びももう少し大和言葉に寄せてほしかった。ただし、歌舞伎座の素舞台をさらけ出したり、あの広い舞台いっぱいの幕に映像を映して後ろの舞台と合せて長い旅を示してみたり、そこに長く厳しい旅に相応しい音楽を流したりと、昨今は忘れ去られたようなスケールの大きさはさすが玉三郎でした。火の鳥を演じたのも玉三郎ですが、ああこれは玉三郎でないと成立たないだろうなと思い知らされました。

で、兄王子ヤマヒコを演じたのが染五郎なのですが、これがものすごく格好いい。高麗屋と言えばニンは三の線と勝手に思っているのですが、父である大王のために弟を連れて長旅を目指す責任感と真っ直ぐな心を衒いなく出して行動する主人公感が、そして殺陣の立ち回りが、ものすごくいい。客席を歩くサービス(兼場面転換の時間稼ぎ)もあって割と近くでも観られましたが、顔も整っていました。「源氏店」の与三郎よりは現代っぽさのある2枚目が得意なんでしょうか。これは「阿修羅城の瞳」も「阿弖流為」も待ったなし。松竹はここで全突っ張りするべきです。

そして病がちな割に妙に目を惹いた大王が誰かと思ったら中車でした。いろいろあって謹慎から少しずつ慣らしているところで、報じられた話は褒められたものではありませんが他の役者のもっとひどい所業に比べるとまだまし。そして上手なものは上手。

これが歌舞伎かと言われると迷うところですし、先にも書いた通り不満も目につくのですが、観終わってみれば結構良かったという感想です。それは夏の初演を経て再演でこなれていたのもあるでしょうし、何と言っても玉三郎に加えて染五郎と中車を得られたのが大きい。このタイミングで一度は観られてよかったと満足しています。

2025年11月16日 (日)

劇団☆新感線「爆烈忠臣蔵」新橋演舞場

<2025年11月15日(土)昼>

天保時代。元役者の父に山の中で育てられた娘は、江戸で役者になる、忠臣蔵で大星由良之助を演じる、そして大看板役者になることを夢見て江戸に出てくる。だが女性が舞台に立てない御法度が出てから久しく、また天保の改革を前に歌舞音曲に目を付けられたくない小屋主たちも認めない。そんな中で女性も出ている闇芝居があるとこっそり教えられて連れて行かれたのは、無宿人が集まる島だった・・・。

芝居やミュージカルの有名な演目、サブカルというほどサブでもない有名な漫画やアニメ、そして新感線について、知らなくても楽しめる、知っていればなお楽しめる、これでもかと詰込まれた脚本は劇団員が集まった中途半端な45周年に相応しい内容。最後はスペシャルゲストに任せ過ぎではないかと思わないでもないものの、そこまでのハチャメチャを考えれば許される。

内容を云々するのも野暮なので役者寸評。主人公まで劇団員で欲張らずに小池栄子を連れてきたのが好判断で、カーテンコールで駆けてきたときの笑顔に文句なしの拍手。元劇団員の橋本さとしは出番多数のおいしい場面多数で商業演劇での活躍多数に恥じない出来で、右近健一とのデュエットで美声を無駄遣いする場面はこの日一番のお気に入り。もはや劇団員の早乙女太一は相変わらず切れのいい殺陣を馬鹿衣装と一緒に披露してさすが。高田聖子と粟根まことが本格演技と馬鹿演技の切替を見せるも、どれだけ真面目にやっても小劇場新感線を失わなかった(褒め言葉)のは羽野晶紀。その分だけ他との絡み控えめで終わってしまった橋本じゅんが惜しい。タッパ高くて顔よしの向井理は顔が小さすぎて髷が似合っていないものの二役こなして活躍。そして古田新太はそれなりの役なものの出番控えめにしたのは正しい判断で、身体が動かなくなったのでは致し方なし。他は侍姿と芝居が妙に様になっていた世直隊長の川原正嗣と采女家臣の武田浩二を挙げておく。

あとは本筋とは関係ないけど、歌舞伎の見得を切る場面であれだけの役者がそろっても歌舞伎役者のように見得を切るのは難しいのだなとは発見だった。身体を大きく柔らかく使えないといけないのか。

<2025年12月21日(日)追記>

橋本さとしを橋本じゅんと間違えていたので修正。さすがにそこを間違えてはいけない。

2025年11月12日 (水)

松竹主催「吉例顔見世大歌舞伎(夜の部)」歌舞伎座

<2025年11月8日(土)夜>

春駒売りに姿を変えた曽我十郎と曽我五郎の兄弟が父の仇である祐経と対面する舞踊「當年祝春駒」。伊勢で歌舞伎を演じる一座が義経千本桜を演じてまあまあ評判を取っているが、上演のために役者をなだめたり大道具のトラブルに応じたりで舞台裏は大わらわ、狂言作者が振回されている。そこに座元が慌ててやって来る。上演中の義経千本桜は座元が原案を出していたが、実は上方の人形浄瑠璃で上演されていたものを勝手に盗んで上演していたのだが、原作の作者が芝居見物にやって来るという。その場で上演中止などと言われたら大損害なので何とか全力で上演して認めてもらおうと考えるのだが、そう考えない人もいれば、こんなときに失敗する人もいて一層大わらわに「歌舞伎絶対続魂(ショウ・マスト・ゴー・オン)」。

「當年祝春駒」は曽我兄弟ものってこんなに華やかな話だっけと考えながら美しい踊りを堪能。

「歌舞伎絶対続魂」は近年のオリジナル版は観た上で見物。義経千本桜も先月観たばかり。それなりに面白い場面も見所もあるもののオリジナルほどきっちり収まる脚本ではなく、個別個別の場面が独立感が強い。この辺は何度も上演して磨いてほしい。

こちらの不勉強を挙げれば、役者役はともかく、裏方の仕事が何をやっているのかよくわからなかった。大道具と附打と囃子方はわかっても狂言作者と座元と頭取の違いを前知識なしで理解できず。そこに拘らずとりあえず上演しようと頑張る人たちだと見做してしまえばいいと頭では分かるもののそれでは納得がいかない。三谷幸喜の芝居にしてはいささか不親切。

あとは客席。若い雰囲気がしたのは結構。だけど若干のネタバレ込みで書くと、終盤に「義経千本桜 川連法眼館」の場の一部を演じるけど、あの場の観客のノリが良すぎて公演1週間目にしてすでにリピーター多数かと疑われるレベル。ああいうのはこう、巻込まれるような感じで少しずつ盛上がるのが客席は望ましい。

役者寸評。現代風新作初演だと型に逃げられないので役者の役作りの地力が問われるところ、二日酔い役者の獅童がいい感じ。狂言作者の幸四郎は振回されたときの反応がややワンパターンになりがちなのが惜しい。座元の愛之助は何に慌てているのかわからないのでもっと工夫がほしい。あと目に付いたのは少しだけ出してほしい遊女役は、新悟でいいのかな、男女役のややこしいところを整理して上手。白鸚はちょい役すぎてもっと観たい。染五郎は現代風の劇展開はこれから。そしてこの大舞台にまったく負けない大道具の阿南健治と、なぜあそこまで可笑しくなるかの浅野和之は、さすが三谷作品を多数経験しているだけのことはあるし、期待した通りの間でやってくれるのがありがたい。

あまり花道を使わないのと、休憩挟まずの2時間5分で通してくれるのは親切だし、終わるのが8時前なのも遠方の人としてありがたい。ただ夜の部の開演が5時というのは結構慌ただしい。この日は昼に新宿で4時前まで別の芝居を観ていたので移動と食事仕込みで、せっかく銀座に行ったのにぶらぶら歩く余裕もない。歌舞伎だからそこはまあしょうがないとしても、やっぱり土日祝日は1時6時の開演がいい。

<2025年12月28日(日)追記>

リンクがおかしかったので修正。

2025年10月19日 (日)

松竹主催「義経千本桜 第三部(Bプロ)」歌舞伎座

<2025年10月12日(日)夜>

吉野にいるらしい義経の元へ静御前が向かう途中、義経より預かった初音の鼓を叩くと佐藤忠信実は源九郎狐が現れる。桜の中を進む二人を捉えようと追手がやって来るが「吉野山」。義経を匿っている川連法眼の郎党の元に、義経を差出すよう手紙が届くも川連法眼は匿う意向を見せる。そこに静御前がたどり着くが、一緒に来たはずの佐藤忠信がいつの間にかいなくなっているばかりか、間もなくやって来た佐藤忠信は静御前を助けたことなどないという。怪しむ義経が静御前に調べるように命じ、静御前が初音の鼓を叩くと、旅路を共にした佐藤忠信が現れる。実は自分は狐、その初音の鼓は両親の皮を張って作られたものだと正体を白状し「川連法眼館」。

通しで観ました。第一部はこちら、第二部はこちら

踊りメインの「吉野山」は、お前この時代に一人旅でまた襲われてまた佐藤忠信実は源九郎狐に助けられているのかと静御前に突っ込みたくもなりますが、そこはまあ見逃します。ただ、ここで吉野の桜の場面だから、やっと千本桜かなと先入観がまた頭をもたげました。そこが罪作りな場面です。

「川連法眼館」ですが、オリジナルだとこの前に「蔵王堂の段」という場面があって、ここで鎌倉方から手紙が届いて匿っている義経をかばうか討つかと相談します。そこを省略して、川連法眼が妻の飛鳥に語る形で済ませるところ、ここも台詞が聞き取れずに難儀しました。

そしてこの第三部は義経でもなく、平家の誰かでもなく、源九郎狐が主役です。それはもちろん、ここまで静御前を助けてきたにしてもいかにも怪しいのだから正体を明かさないで終わるわけにはいかないのですが、舞台背景にも桜があるし、ようやく義経の最期かと思いきや源九郎狐の話ですから、うっちゃりもいいところです。オリジナルの五段目だと平教経が出てくるので平家滅亡物語として三部構成の辻褄が合うのですが、そこは切られているので描かれない。

そういう脚本構成の文句を除けば、身体能力を生かして存分に踊る忠信実は源九郎狐の尾上右近と、静御前の米吉の若姫ぶりはよい出来でした。ただ第一部から代わって義経を演じた梅玉は、さすがに義経には貫禄ありすぎではないかと思われます。

松竹主催「義経千本桜 第二部(Bプロ)」歌舞伎座

<2025年10月12日(日)昼>

平維盛が高野山でまだ生きているとの噂を聞き、妻の若葉の内侍と子の六代君が、家来の小金吾を連れて旅路の途中、休んだ茶屋で木の実の採り方を教えてもらった親切な男に荷物から金を取っただろうと因縁を付けられる。実はこの辺りでも評判の悪者、いがみの権太だった。この勢いで実家の金も取上げて見せようと思案する「木の実」。旅を続ける若葉の内侍一行だが、頼朝の追手が掛かり小金吾が奮闘するも「小金吾討死」。権太の妹お里が、店で働く弥助と結婚することになっている。そこへ父親の留守を狙ってやって来た権太が母親に金をせびるも、そこへ戻った鮓屋の主人は権太とお里の父で、慌てて隠れる。じつは父親は討死した小金吾の首を持って帰ってきた。こっそり桶に隠してから人払いして弥助に今日の出来事を話す。実は弥助は平維盛で、その父平重盛に恩あって維盛を匿っていた。だが鎌倉方に噂が伝わり維盛を寄越せと言われた、ついては明日早々に逃げてほしいと伝える。だが追手の梶原景時はその日のうちにやって来た「すし屋」。

通しで観ました。第一部はこちら、第三部はこちら

第二部がまた困ったもので、義経が一切出てこない。仁左衛門が演じるのだからいがみの権太が主役の場なのだろうと想像は付きましたが、それで出てくるのが平知盛ではなく平維盛が生きていると聞いて旅をする若葉の内侍と六代君と主馬小金吾。これ、オリジナルの初段には「北嵯峨庵室の段」という場面があって、隠れ住んでいた若葉の内侍と六代君が小金吾から維盛が生きている噂を聞いて旅立つ、かつ追手も掛かっていることが描かれているのですね。そこが省かれているから戸惑うことになる。

ただし、その事情だけ把握していれば非常に独立性の高い場面なのが第二部でもあります。そこを見せるために主人公のいがみの権太は、旅人から金を奪いながらも妻子に優しく、実家の金をだまし取ろうと母親を騙すも父親の企みに気が付いて自分の妻子を身替りに引渡す、悪いのも優しいのも両面見せることが必要になる。やりがいは合っても現代演劇的な理屈の辻褄合わせでは処理しきれない役ですが、そこは仁左衛門がしっかり務めてくれました。顔芸含めて、引出が多くていいなあと思いながら観ていました。

ただ初見ではやはりわからないところがあって、権太の父親である鮓屋弥左衛門が平維盛を恩ある人の息子として匿っているという下りや、褒美の陣羽織を維盛が確かめる下りなどは台詞をしっかり聞き取れずに雰囲気だけで察しました。首を使ったすり替えの内容が先月観たばかりの寺子屋と重なるところがあるのが惜しいです。間が空いていたらもう少し素直に見られたでしょう。

物語全般を追うだけなら三部のうちこの二部が一番わかりやすかったのですが、その分だけ平維盛がのんびりしているのが目に付きました。お前が追われているんだぞ、お前を助けるために周りが慌てているんだぞ、何をのほほんとしているんだ、と突っ込みたくなりました。同じ何もしていないのでも、ただ座っているのと、緊張感あふれているのとでは違うもので、そこは演じた萬壽に文句を言いたい。Bプロは第一部と第二部が初日でしたけど、だとしても文句は文句です。

<2025年11月12日(水)更新>

誤字訂正。

松竹主催「義経千本桜 第一部(Bプロ)」歌舞伎座

<2025年10月12日(日)朝>

京都にいる間に兄頼朝の追手に襲われ、伏見稲荷まで逃れて来た義経と従者。静御前も追付いて一緒に逃れたいと願うも義経は許さず、会えない間はこれを自分と思えと初音の鼓を授けるが・・・「鳥居前」。船で逃げようとする義経一行を追ってやってきた頼朝の手先だが、荒れる海に船が出せないのを廻船問屋に無理やり出させようとするが、店の主人が先客優先と追返す。先客は義経一行だが、実はこの主人は亡くなったはずの平知盛だった。実は落ち延びていて、義経に復讐するためにわざと船に乗せたところを狙おうとするが、戦の大勢は義経一行に傾く「渡海屋・大物浦」。

通しで観ました。第二部はこちら、第三部はこちら

あらかじめ断っておくことが2つあります。まずは疲れていたところに前日昼夜2本の芝居を詰込んだため、芝居を観る集中力に欠けた1日だったこと。古典芝居を通して観るのに良い体調だったとは言えません。

それともう1つ、「義経千本桜」は名前こそ何度も目にしていましたが初見です。そしてあまり芝居の事前情報を入れないで観ることが好みのため、まったく内容を知らずに臨んで、むしろタイトルから「義経が活躍して、それを疎んだ頼朝に追詰められて、桜の花の下で最期を迎えるのだろう」くらいの筋だと先入観を持って臨んでしまいました。結果、義経がほとんど出てこなかったため、ただでさえ体調不良で減っていた集中力の半分くらいを先入観との戦いで費やしてしまいました。だから物語が頭に入らず、いつもブログの頭に書いている粗筋も、ネットで調べながら書く始末です。

これは調べたらわかりました。オリジナルが人形浄瑠璃で、五段目まであるうち、今回の通し上演では二段目、三段目と、四段目のダイジェストで構成されていました。で、省略された初段には義経が逃げることになった経緯が、四段目、五段目では、頼朝の家臣が義経を追詰める場面が多数ありました(なおオリジナルでは最期は義経は助かることになっています)。だから歌舞伎版の場合、タイトルに義経と残っているものの、実は平家の落人の末期に焦点を当てた再構成版となっています。

これだけでも驚きましたが、Wikipediaで調べたら千本桜についても書かれていました。

ただし断っておかなければならないのは、本作は題名に「千本桜」と付いているにも拘わらず、実は桜の咲いている場面は全段の中にはひとつもない。現行の文楽・歌舞伎においては桜の花が「道行初音旅」、「河連法眼館」に見られるが、浄瑠璃の本文にもとづけば、本来はいずれも桜の咲いている時分ではないのである。「千本桜」という言葉は初段大序「院の御所」の終わりに、

「…鼓を取って退出す。御手の中に朝方が悪事を調べのしめくゝりげにも名高き大将と。末世に仰ぐ篤実の強く優なるその姿。一度にひらく千本桜栄へ。久しき(三重)君が代や」

とあるだけで、「桜」という言葉が出てくるのもここだけである。しかし「院の御所」でも桜が咲いていたわけではない(後述)。また「壇ノ浦」のことも出てこない。平家が壇ノ浦の合戦において滅んだのは周知のことであるが、この『義経千本桜』においては平家が滅んだのは屋島の合戦であるとし、このときに安徳天皇や二位の尼も入水したのだと義経は「院の御所」で物語る。すなわち原作の浄瑠璃では「千本桜」と称していながら桜の花は出ず、壇ノ浦の戦いについては敢えて史実を枉げ、無かったことにしている。『新日本古典文学大系』の注では壇ノ浦のことについて触れないのは、「歴史には裏があるとの設定から、あえて壇浦合戦の語を避け」たとしている。

これをあらかじめ知っていればもう少し助けになっただろうと考えたのですが、後の祭です。後でチラシを見返したら、義経以外の3人が主人公扱いになっていたのだから気が付いてもよさそうなものなのに。だから今回は、何も知らない素人の頓珍漢な感想をできるだけ素直に書くことを目指します。

という前書きの上で。

「鳥居前」は伏見稲荷と書かれた鳥居の前の出来事ですが、義経がのんびりしていたから、これから出陣の場面と勘違いしてしまいまいした。だから遅れてきた弁慶が叩かれたのだろうと考えましたが、それにしては出陣で静御前が一緒に連れて行ってほしいと願うのはおかしいし、とさっぱりわかりませんでした。オリジナルの初段を省いた構成なら、ここは義経が狂言回しになって状況をきっちり説明してほしいところ、節回しの多い台詞が体調不良もあって聞き取れませんでした。佐藤忠信実は源九郎狐の尾上右近は母の見舞で遅くなり、という事情は伝わったのですが、うーん、と首を捻っている間に終わってしまいました。

「渡海屋・大物浦」でようやく義経一行が身分を隠して逃げていて、それを鎌倉方が追う、という展開だとわかりました。追手役は相模五郎で松緑で合っているかな、わかりやすくやってくれて助かりました。渡海屋銀平実は新中納言平知盛が落ち延びていて、義経一行を逃がすふりをして海の戦で復讐を目論む、というのが芝居ならではの大転回。ただしここで焦点が義経でなく平知盛と匿う安徳帝一行に当たるのが、やっぱりいささか混乱したところです。

それはそれとして、平知盛の役は演じる役者に一段大きくなることを求めるような役で、それに応えた巳之助が気合十分見応え十分で見せてくれました。お柳実は典侍の局の孝太郎もわりと素直に演じてくれたので、この2人のおかげで何とか話を追えました。そして安徳帝に従う一行の悲劇は並み居る大人に混じって子役の安徳帝が健気に通してくれましたが、これはクレジットがないけどAプロに続いて巳之助長男の守田緒兜でいいのでしょうか。だとしたら初お目見得であれだけしっかり台詞を言えるのがびっくりです。

で、仕掛けられた戦に勝って戻ってきた義経が、やっぱりぼおっとしている。戦に勝って高揚しているでなし、平知盛が生き残っていて驚いているでもなし、自害した典侍の局に哀れを覚えるでもなし。平知盛を見せる場だとしても、義経が大きく演じればこそなお一層平知盛が輝くだろうに。これは鳥居前と合せて第一部で義経を演じた歌昇に文句を言いたい。Bプロは第一部と第二部が初日でしたけど、だとしても文句は文句です。

2025年9月 9日 (火)

松竹主催「菅原伝授手習鑑 夜の部(Aプロ)」歌舞伎座

<2025年9月6日(日)夜>

管丞相が大宰府に追放されたため、三兄弟のうち梅王丸と桜丸は浪人の身。一方、松王丸は藤原時平に仕えている。参詣する藤原時平の牛車に出会って、梅王丸と桜丸主の仕返しをと車を壊しにかかるが、それを止めようとする松王丸と争いになる。そこを車から出てきた藤原時平に睨まれて、梅王丸と桜丸は動けなくなる(車引)。その三兄弟の父の七十の祝いのため、父の家には三人の妻が先にやって来て父の祝いを行なうが、息子三人はなかなかやってこない。父が宮参りに出掛けた間に松王丸と梅王丸がやっと来たかと思いきや喧嘩を始めて、戻ってきた父を相手に二人は祝いの品の代わりに書付を渡す(賀の祝)。その日よりしばらく後。管丞相の息子の管秀才は手習鑑を伝授された武部源蔵の開く寺子屋に匿われていたが、藤原時平の追手が迫る。顔検分にはかつて管丞相に仕えていた松王丸がやって来るという。今日一日をやり過ごせば逃げられると思い詰めた武部源蔵は、その日寺入りした子供を身替りにして松王丸の検分を何とか難を逃れる。隣村まで用事で出掛けていた子供の母親が戻って来たところで実は(寺子屋)。

通しで観ました。昼の部はこちら

フル上演の文楽で観た三段目から五段目までのうち、三段目はフルで、四段目は寺子屋のみ、五段目は丸ごと省いた構成でした。文楽の四段目では、管丞相の追放ではまだ足りずに管丞相本人とその家族の命を藤原時平が狙う場面が作られています。本人、管丞相の妻、息子の管秀才を狙う場面に分かれており、それぞれ梅王丸、桜丸の妻(と松王丸)、松王丸が助けるために活躍します。この管秀才と松王丸の場面が、寺子屋です。文楽だと管丞相本人は助けられて天神に変わってしまうので、歌舞伎になるときに省かれたのはわからないでもありませんが、「梅は飛び桜は枯るる世の中になにとて松のつれなかるらん」の歌の恨めしさは省かれることになりました。それと、管丞相の妻を助ける場面は桜丸の妻が犠牲になる場面だから残してもよかったはずなのですが、時間の都合か、寺子屋の場面が上出来すぎたか、寺子屋の場面で実は妻(管秀才の母)が助かっていたことにして盛上げたかったか。五段目はお家再興を願う残された人々が藤原時平と戦いますが、天神となった管丞相が助ける展開なので、この構成では省かれるのも止むなしです。だから後半は松王丸、梅王丸、桜丸の三兄弟の話に、武部源蔵と妻の戸浪が絡む構成です。

せっかく観た話なので自分のブログを振返って思い出していましたが、ここから感想。

車引はこの構成だと、後半のための3兄弟の顔見世です。そこに今回は高麗屋3世代が揃って出る顔見世を重ねてきました。白鸚が元気なところが観られてよかったです。

賀の祝は松王丸の妻千代の新悟が良い感じ。ただ白太夫の又五郎はもう少し年輪というか、昔は管丞相に仕えていたからこそ息子を説教する、自分がお世話に向かうと言い切るところの重さが出てほしかった。

寺子屋はこれも前に幸四郎の武部源蔵を観ていて、今回はもう少し重さが出ていましたが、やっぱり声の軽さが災いしてこの手の役には向かないというか、まだまだ貫禄を出してほしいところ。松王丸の松緑が大きさ一番でよいけれど、千代の萬壽ももなかなか、戸浪の孝太郎も好ましかったけれど寺子屋に入ったばかりの子供を犠牲にすることに早くから納得しすぎの気配を感じるのが惜しい。最後は犠牲にした子供に焼香する「いろは送り」までやって見せて、たしかに沈痛な場面なものの、長引いたと感じてしまったので短くする工夫はないものでしょうか。

通しての感想ですが、昼の部も夜の部も緩い仕上がりでした。おぼろげに覚えている文楽の記憶を思い出しながら観ていたので、脳内補足が効いて筋は理解しましたが、昼夜通して文楽からの移し方、脚本の縮め方がいまいちかなとは思いました。様々な制約があった上でこのようなまとめ方に落着いたのでしょうが、オリジナルを知っていることを期待した縮め方とも、役者頼みとも思えます。

そして今回の上演する側は、省かれたものの全体を通して大切な藤原時平の権力争いのことを脇に置いていたように思えます。大きな権力争いの構図が個人を押しつぶす、あるいは個人の悲劇に繋がる、それを端的に表したのが寺子屋の「すまじきものは宮仕え」の台詞ですが、そう思わされるものはありませんでした。有名だしフル上演だから筋は放っておいても伝わるだろうと考えたかは知りませんし、この日だけ飛びぬけて出来が悪かった可能性も残りますが、この日は昼も夜も駄目な出来だったと言わせてもらいます。脚本の縮め方に問題はあれど「面白い脚本を面白く立上げるのは至難の業」という古田新太の言葉を思い出すはめになりました。

あと、夜の部は夜の部で文句があります。同じ役なのに役者をいじりすぎです。AプロとBプロで違う役者が演じるのは当然です。同じ役者が1人2役を務めるのも演じ分ける力量があれば文句はありません。昼の部と夜の部で変えてくるのは、望ましくありませんがまあチケットも違うし事情もあるだろうから認めます。でも同じ夜の部の同じプロダクション中で同じ役者が通して務める役がないのはいかがなものでしょう。松王丸は幸四郎、歌昇、松緑。梅王丸は染五郎、橋之助。桜丸は左近、時蔵。千代は新悟、萬壽です。

部外者が事情を推測するのなら、先に書いた通り3世代揃わせてなるべく客を呼びたいとか、なるべく大勢の役者に多くの役をやらせて芸の継承を急ぎたいとか、通し狂言に大勢に出てもらってなるべくあぶれる役者を減らしたいとか、「なるべく」の理由がいくつか思いつきます。それは歌舞伎を今後も続けていく上で必要なことなのでしょうが、だからと言って納得できるほど熱心な歌舞伎ファンではありませんから、観づらかったと言わせてもらいます。

松竹主催「菅原伝授手習鑑 昼の部(Aプロ)」歌舞伎座

<2025年9月6日(日)昼>

親王が神事で外に出ている最中に、管丞相の姪で養女の苅屋姫との逢引を手伝った桜丸夫婦。そこに様子を嗅ぎつけてやって来た相手を桜丸が追払ったはよいが、その間に見つかっては一大事と親王と苅屋姫は駆落ちを決めて逃げてしまう(加茂堤)。一方、屋敷に籠っていた管丞相は、手習鑑の製作に没頭していたため家人が遠慮しての事件を伝えていなかった。管丞相は、手習鑑をかつて屋敷から追放した家来にして弟子だった武部源蔵に伝授するが、勘当は解かぬと追返す。そこに、親王の駆落ちを管丞相の企みと決め付ける藤原時平の手下によって屋敷で蟄居を命じられる。武部源蔵は屋敷の中の梅王丸から管丞相の息子を引取って逃げる(筆法伝授)。実母の覚寿の屋敷に、覚寿と姉の立田前の情けで匿われていた苅屋姫。大宰府に護送される途中、姉の覚寿の屋敷に滞在することを許された管丞相だが、自分が原因で追放されることになった管丞相とは顔を合わせられない。この滞在中、立田前の婿とその父は、自分の出世のために藤原時平の味方について、菅原道真の殺害を目論むが(道明寺)。

通しで観ました。夜の部はこちら

おそらく歌舞伎はこれでフル上演ですが、文楽のフル上演で観た初段から二段目までのうち、藤原時平との対立は見せる代わりに背景に追いやり、覚寿の屋敷に滞在することになる経緯を省いたものになります。滞在の経緯はともかく、藤原時平との対立はしっかり描かれた方が後半の松王丸梅王丸桜丸の話にも利いてくるのでよいと思うのですが、文楽だと最後は天神となって祟った管丞相が藤原時平を倒す展開なので、そこを省いて人間ドラマに仕立て上げようと昔の歌舞伎の人が考えたのでしょう。なので前半は管丞相の追放の原因、管丞相の追放、管丞相の追放の途中での一矢報いる話、と管丞相でまとめられた構成です。武部源蔵への筆法伝授と管秀才を預ける所は後半への振りです。細かいところですけど、武部源蔵と妻の戸浪に子供がいないことをここで触れていたのに気が付きました。これも後半への振りですね。

せっかく観た話なので自分のブログを振返って思い出していましたが、ここから感想。

加茂堤は逢引を手伝った桜丸の歌昇がやや軽く助平な有様で、一方逢引から駆落ちしてしまう親王の米吉が立派な宮様。この場面だけを考えても、後半の桜丸の思い詰めようを考えても、立派と助平は逆の方がよかったのでは。

筆法伝授は仁左衛門の管丞相と幸四郎の武部源蔵が組んだものを以前にも観ましたけど、前よりは良くても、やっぱり幸四郎が軽く見えてしまい、ぼちぼちです。三の線の方が似合うと思うのですよね、幸四郎は。

道明寺も、さらさらと進んで終わってしまいました。宿禰太郎と立田の前は夫婦なのに、宿禰太郎の叔父に当たる管丞相を討って出世の手蔓にしようという悪い側の酷さが流されて伝わらない。宿禰太郎の父土師兵衛の歌六が、貫禄と笑いのバランスを取っていましたが、話の酷さを伝えるところはやはり足りず。そしてこの場面の話の悲しさを伝えるのは管丞相ではなくその姉の覚寿ですが、覚寿の魁春にもっと頑張ってほしかった。仁左衛門がほとんど動かないのは覚悟の上で観ていましたが、座っているだけでも呼吸が荒くなっていたように見えたのは、役のテンションがそうさせるのか体力がきついのかいまいち見極められず。

あとこの回は客席でスマホが鳴っていて、たぶん2人いたと思うのですが、少なくとも1人はひっきりなしにメンションの音が鳴っているのに電源を切らずにいたので、3幕通して集中力が削がれてしまったのが残念でした。あれは本人が耳が遠くてあの高さの音に気付かなかったんでしょうか。そう言えば会場アナウンスも、機種によって電源の切り方が異なりますが必ず電源から切ってください云々とアナウンスしていたので、まさか電源の切り方入れ方がわからなくて確信犯で電源を切らない人だったということもないと思うのですが。歌舞伎座も電波抑制装置を導入してほしいです。

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