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2023年11月19日 (日)

阿佐ヶ谷スパイダース「ジャイアンツ」新宿シアタートップス

<2023年11月18日(土)昼>

息子の暮らしていた街を歩く男は長年会っていなかった息子と道端で会って自宅に招かれる。息子の妻に迎えられ、孫は友達の家に出かけていた。次の日はお返しに手土産でも持って行って、と思ったら邪魔くさい男女が付いてくる。目玉探偵とその秘書と名乗る二人を振切れずに息子の家を訪ねたが別人が住んでいた。隣の家で訪ねたらずっと昔に引っ越したという。ならば昨日会った息子夫婦はなんだったのかと混乱する男に、宙に浮かぶ目玉を指した目玉探偵が、これは「けいとう」なのだという。

久しぶりの阿佐ヶ谷スパイダースは父が息子を追いかける物語。けいとうは傾倒で合っているかな。違いそうな気がするけど。それはそれとして地味だけど悪くないけど地味です。ばーん、わー、きゃーとかそういう話ではない。これっぽっちもない。だけど悪くないのが困る。

今っぽいところで言えば終盤の息子の台詞。シチュエーションは違えどコスパタイパが流行る先を見せてくれた。ただし男がそこで止まっているところが20世紀の芝居です。普遍的といえば普遍的、古いといえば古い。

役者ですけど、男を演じた中山祐一朗が、こんな地味な役を熱演できたんだという好演でした。他にも村岡希美とか中村まこととか富岡晃一郎とか伊達暁とか長塚圭史本人とか、目につくのは一昔前の小劇場でのしていた人たちです。役を作り上げようふくらませようとしていますよね。他の人は脚本から役を掘り起こそう的確に演じようとしていますが、いまいち物足りません。そもそも脚本にそこまで書かれていませんから当然です。そこは劇団付合いの中で新作をがんがん作ってきて脚本に足りないところは稽古場で埋めてきた経験の多寡なのかなと思ったり思わなかったり。

スタッフもこの規模の劇場なのに上品かつ必要十分。奈落まで使っての舞台の場面転換はお見事でした。毎日バックステージツアーをやっていたのに気が付かなかった。入場時に早い者勝ちで申込む必要があります。興味のある人は早めに劇場に行きましょう。

そのほかにも開演前に村岡希美が会場内でパンフレットを売っていたり、終演後のあいさつだったり物販だったりと、芝居の出来の割に運営に手作り感が満載でした。劇団として初心忘るるべからず、なんでしょうか。

メタな話だと、セールスマンの死みたいな芝居を演出してきたから長塚圭史もこういう芝居を書きたくなったのかなと勝手に妄想します。「ジャイアンツ」というタイトルとチラシ写真から察するに父の長塚京三との関係を参考に、そうはいっても父にはなかなか届かない、あたりの話なのかな。ただ、いまの日本なら息子とのやり取りすら途中で、そもそも男は結婚できずにそんな息子もいなかったところまで遡るくらいまでやってほしかった。「ジャイアンツ2030」とかどうでしょうか。

2023年11月 2日 (木)

新国立劇場主催「終わりよければすべてよし」新国立劇場中劇場

<2023年10月21日(土)夜>

未亡人である伯爵夫人の一人息子バートラムと、医者の父がなくなり伯爵夫人が引取って侍女としているヘレナ。ヘレナはバートラムに恋しているが、バートラムにはまったくその気がない。バートラムはフランス王に召しだされて王の元に向かうが、王は病が重く医者も匙を投げたところだった。バートラムを追いかけたいヘレナは亡き父の薬で王を治すといい伯爵夫人も後押しをする。無事に王は病が治り、ヘレナはその褒美としてバートラムとの結婚を認めてもらうが、そもそもバートラムはまったくヘレナを愛していなかった。王と母の命令を断れないため、バートラムは策を弄して戦地へ赴くと称して初夜のないまま逃げてしまう。

2本立てのその2(もう1本はこちら)。こちらのほうがもう1本と比べて素直な演出で楽しめるところも多かったですが、そうしたらダークコメディじゃなくてホラーじゃないのかという出来になりました。私の感想ですが。

もともとそういう脚本ですが、もう1本と合せて女性を主人公として応援する、今回だとヘレナを徹底的に応援する演出です。その分だけバートラムと、バートラムの部下のペーローレスが嘘つきな男として描かれます。バートラムは女性に対する嘘つき、ペーローレスは男性に対する嘘つきですがバートラムが策を弄するのにも協力します。

バートラムから見れば、怖いですよね。家で働いていた母の侍女にまったく何も興味がなかったし王の元に向かう前に何か言われたわけでもないのに、母を味方につけて、王の信頼を勝ち取って、王命で無理やり結婚を迫ってくるんですから。しかも戦場の帰りに口説いた女性がいつの間にか入替っているとか。素直にコメディとして上演すればバートラムは遊び人の年貢の納め時になるはずですが、ストレートプレイで上演したらヘレナが有能過ぎるストーカー女性に見えてしまって話が変わります。

バートラムを演じた浦井健治がもっと遊び人で応じるならよかったですが、おそらくわざと、感情をあまり表に出さない演技で応じるものだから、見た目が格好いいだけでろくに話もできなかった男性に執着するヘレナがますます怖く見える。このあたり、演出を好意的に解釈するならもう1本のアンジェラの岡本健一や公爵の木下浩之がやっていたことを女性が男性にやるとこう見えるんですよ、と訴えているのかもしれませんが、怖いものは怖い。芸能界だと思い込みの強いファンに結婚を迫られるようなこともあるのかなとか考えたり考えなかったり。

そういう場面とのバランスを、ペーローレスの亀田佳明の場面で取っていました。こちらは大げさにふざけて、戦場で自分の手柄にほらを吹くだけでなく味方の情報を敵に売るような役ですが、大げさにやってみせました。白状させる場面は全員ノリノリでしたよね。ああいう場面できっちり笑わせるからこそ真面目な場面も真面目に観ようと思うわけで、よかったです。

こちらはやや前方の席で観られたので芝居が小さいと感じることはありませんでした。初登場の場面では誰が演じているのかわからなかった王様の岡本健一もいい味だしていましたし、真面目な役でも安定の那須佐代子でした。やっぱり浦井健治の使い方がもったいないとは思いますが、こちらのほうがまだ納得いきます。

スタッフのコメントはもう1本と同じです。他のスタッフはよくてもやっぱり音響が中途半端でした。

最後に終わりよければすべてよし云々と王様が客席に台詞を言いますが、全然よくないですよねという芝居です。今回は2本とも意地悪な演出のシェイクスピアでした。

新国立劇場主催「尺には尺を」新国立劇場中劇場

<2023年10月21日(土)昼>

厳格な法律を定めているも運用が柔軟に行なわれているため法律が形骸化してきている中世ウィーン。これをどうするべきか悩んでいるウィーン公爵は、公用で旅に出ると称して融通がまったく利かない謹厳実直なアンジェロに後事を託し、自身は修道士に化けてウィーンに留まりアンジェロが法律を運用した成果を確かめようとする。アンジェロは法律を厳格に適用して逮捕者を増やすが、その中に婚約者と婚前交渉した男女がいた。制定されて以来一度も使われなかった婚前交渉を罰する姦淫罪を、アンジェロは周囲が止めるのも聞かずに適用して死刑にしようとする。それを止めようと逮捕された男の妹イザベラがアンジェロに兄の助命を願い出るが、妹の美しさに心捉われたアンジェロは自分に身を任せれば許すという。修道女の誓いを立てる寸前だったイザベラは、厳格なアンジェロがそのような取引を持掛けたなど誰も信じないぞと脅されて苦悩する。

2本立てのその1(もう1本はこちら)。日程の早いところで観たのでこれが本気だったかはわかりませんが、演出意図は良とするも出来はいまいちでした。

2本ともダークコメディと呼ばれているそうですが、上演の意図は本来コメディ仕立てのものを真面目に演じたら果たしてコメディになるのか、登場人物はそんなに幸せなのか、を追求してみた演出でした。もっと言えば主要な男性登場人物の身勝手がイザベラ一人に集中してひどいじゃないかという演出です。

修道女になるところをアンジェラに迫られ、牢獄で兄に相談したらそれで自分が助かるなら身を任せてくれ頼むと泣きつかれ、最後に修道士に言われた通りに告発したらぎりぎりまで追詰められてから助けられるも公爵に勝手に嫁にされて修道女になれない。イザベラの立場から見たら悲劇です。

ただ、芝居に統一感がありませんでした。アンジェラの岡本健一が現代的リアリズムで、兄の浦井健治が小劇場的コメディで、公爵の木下浩之は新劇的リアリズム(まったくのリアルではない)です。イザベラのソニンもその相手をする手前、芝居がいったりきたりです。で、肝心のシェイクスピアの脚本ががっちりとした古典的コメディ(無茶な展開は承知のうえだしあるていどわざとらしい演技を期待する役もある)なので、喧嘩が激しい。

そして今回の演出だと、公爵が無能者に見えてしまいます。実態に即さないと思うなら自分で法律を改めろ、百歩譲って運用の成果を確かめたいなら酷い運用に出くわしたならさっさと名乗り出て止めろ、なに最後に良いことしたつもりでいるんだ、って感じです。公爵を認められないと、法律を運用した成果を隠れて確かめるという芝居の構成自体に疑義が出て入り込めません。素直にシェイクスピアを上演するなら公爵は木下浩之の新劇的リアリズムが正解だったかなと思いますけど、演出はそれを拒否するところから始まっていますから、木下浩之が上手だった分だけ芝居が疑わしくなるという悩ましい関係です。

それと、元の脚本だと法律の運用を茶化すところがあったはずです。厳格に運用したら娼婦たちが取締まられて、婚約者同士の婚前交渉まで取締まられて、そんなの人間の必要悪に逆らいすぎじゃないかというところです。遊び人のイーシオや女衒がその辺りをまくしたてるのが楽しみのひとつで、ここは演出として上手に処理したいところだったと思いますけど、別話で終わってしまいました。一応、最後にイーシオが捕まってオチにはなっていますけど、二人とも出番の多さの割りにイザベラの本筋に上手に絡んでいるとは思えませんでした。イーシオの宮津侑生は怪我人の代役を半月で仕上げて格好いい動きは見とれましたが、この役にはもう少しうさん臭さがほしかった。後半でどうなったか、観たかったです。

それと芝居が小さい。1階後方の席だったんですけど、新国立劇場の小劇場ならちょうどいいよねという規模の芝居でした。一番サイズ感がしっくりこなかったのが岡本健一ですが、ほかにもちらほら。あれは日が悪かったのか、これまでこの劇場で何度もシェイクスピアを上演してきた人たちとは思えない出来でした。

スタッフで言うと、広い劇場を上手に処理して中央に集めた美術と照明、それにいつも通り楽しみな衣装はいいのですが、音響が中途半端。チェンバロかな? 当時の小品の音楽を小さめの音で流していたのですが、もっとがっつりと演出を後押しするような選曲で芝居の方向性を出してほしかったです。

あとは浦井健治の出番が少なすぎて無駄遣いでした。正しく役不足です。もう一本で激しくやるからこちらは控えた、というわけでもありません。格と出番で言えば公爵を演じてほしかったです。本当に根拠のない推測ですが、そうすると「公爵に勝手に嫁にされるのがいいのか」という演出に「この公爵の嫁ならいいんじゃないの」というコメントが出てきてしまうのを避けたのかもしれません。だとしてももったいない。そうさせないための役作りの負担が大きくなっても浦井健治ならいけたと思いますし、いけなくても観たかった。岡本健一はどちらも割と主要な役ですし、中嶋朋子のマリアナは出番が少ないけどもう1本と役どころを揃える上にそちらは主役みたいなものですからわかるのですが。

演出意図はわかりますけど、ちょっとあちこち目配りが届いていなかった。とりあえず上演するところまで持ってきたけど、ここから揃えていきたいところで初日が来た。そんな印象でした。後半もっと変わったのかは気になります。

2023年9月18日 (月)

劇団☆新感線「天號星」THEATER MILANO-Za

<2023年9月16日(土)昼>

口入屋の主人半兵衛、実は裏家業の元締、と思いきや実は妻の元締の身替りに見た目の怖さだけで婿入りした元は流れの大工の気弱な男だった。だが裏家業の同業者、白浜屋真砂郎から手を組むように持ちかけられたのを断ったため、たまたま江戸に流れてきていた一匹狼の殺し屋、宵闇銀次を差向けられる。もともと暮らしていた長屋に立寄った帰り道、雨の中で銀次に襲われた半兵衛だが、そこに雷が落ちて二人は気を失う。そこにいた半兵衛の昔なじみの占い師弁天に介抱されて目覚めたが、半兵衛と銀次の二人が入替っていた。

久しぶりの劇団☆新感線はチャンバラでした。以上。そのくらいまあ、いのうえ歌舞伎と聞いて想像できるいつも通りの劇団☆新感線でした。やや渋めなもののネタもそれなりにあって、安心して見ていられます。タイトルになっている天號星の入替りの話だけ解決はなくて「そういうものだ」で進みますが、受入れましょう。そうすれば親切な脚本とチャンバラが最後まで運んでくれます。

裏事情のようなものを察するに、客が求めるもののそこまで動きたくない古田新太にほどほどのチャンバラをさせて、代わりに早乙女兄弟に存分にチャンバラをさせるための設定なのではないかと思います。一応後半は古田新太もチャンバラしますけど、主人公は入替ったりする早乙女太一です。

そしてそれでいいんじゃないかと思いました。やっぱりチャンバラは身体の切れがある人がやったほうが格好いいです。あれだけ芝居を通してチャンバラできるなら、もう劇団員として毎回呼んでもいいんじゃないでしょうか。そう思わせる立回りの格好よさがありました。早乙女友貴演じる渡世人の人切の朝吉とのチャンバラになる前半ラスト、格好いいですよね。あれは拍手が起きます。

若干もったいなかったのが山本千尋で、素手のアクションの方が上手だったので剣を持たせずにかんざしとか短剣とか、もう少し得物を考えたかった。ひょっとしたら公演後半にはもっと慣れているかもしれませんが。個人的にはうさんくさい役の池田成志が久しぶりに観られたのが楽しかったです。

割と場面転換が多い芝居でしたが、場面転換の早さとチャンバラの事情を汲んで、舞台美術でオブジェも床もあまりないのですね。そういうところでも工夫をするのだなと、次の日のミュージカルともども感心していました。

2023年6月16日 (金)

新国立劇場主催「白鳥の湖」新国立劇場オペラパレス

<2023年6月11日(日)昼>

父王が亡くなり、戴冠と結婚が求められている王子。友人の催してくれたパーティーでも気が晴れない。翌日には各国からきた姫のなかから婚約者を選ばないといけない。王子の友人は元気づけるために湖での狩りに誘う。そこには邪悪な魔術師と、その魔術師によって白鳥に姿を変えられた姫がいた。夜の間だけは人間の姿に戻れるという。愛を誓ってその場は別れた二人だが、翌日の婚約者選びの場に白鳥の姫とそっくりな邪悪な魔術師の娘が姿を現す。

バレエ初見です。少なくとも観た記憶はありません。最後は心中で終わるって私は初めて知りました。そのくらいの超がつく初心者です。あの有名な曲が流れたら「おお」って内心感動しました。ソロとか代表的な場面で踊るたびに拍手するのも知りませんでした。そのくらいの初心者の感想です。

そういう初心者に対して、当日パンフで説明してくれるとか、間に割と小芝居を挟んでくれるとか、なんというか全体に親切でした。鍛えられた人が踊るのはなんかいいもんですね。ダンサーでいうと、この日は王子の友人の速水渉悟が第一幕で身体のきれがよくて、素人目には一番きれいに踊っているように見えました。群舞というのかな、それだと第三幕頭の外国の使者たちの踊りの一番初めの踊りと、第四幕の白鳥の群舞が好きでした。

あとは演奏全般、いい感じでした。頑張ってセンターの席を取ったので、音響は問題ありません。単純に、知っている曲が多かったのもありますが。

日曜日の昼間だったせいか、客席に子供が多かったですが、あれはバレエを習っている子供ですね。終わった後にロビーでくるくる回っている子供がいました。あとは外国人も結構いました。言葉に頼らないだけ、客層の国籍を問いませんが、やっているほうは世界のダンサーと闘わないといけないので、大変でしょう。

それと劇場ですが、でかい劇場ですねオペラパレスは。一階前方をのぞけば、どの席からも等しく遠い。芝居や踊り抜きで演奏だけ聞くならどのくらいまで妥協できるのかな。どの劇場でもチケット区分の境目では不満が出るものですけど、ここが同じチケット区分かというくらい広いです。

私がバレエにはまることはないと思いますが、今後は有名な演目だけ一度は押さえていければなと考えました。

2023年5月18日 (木)

ホリプロ企画制作「ファインディング・ネバーランド」新国立劇場中劇場

<2023年5月17日(水)夜>

19世紀のロンドン。脚本家のジェームズは劇場主から新作を求められているが、注文はなるべく観客を驚かせないようにという。それで書いた脚本を、たまたま公園で会った未亡人のシルヴィアに見せたら以前観た脚本との共通点を指摘されてしまい、破棄する。落込んだ気分はシルヴィアの四人の息子たちと遊びながら回復させるが、子供たちと遊ぶ様子に妻からは大人になってほしいと責められるし、新作はまだ書けない。

それであれやこれやあって「ピーターパン」の初演ができます、というのは公式でも説明されている通り。歌ってよし踊ってよし芝居してよし、ミュージカル初心者の自分にも楽しめる王道の仕上がりでした。

ジェームズの山崎育三郎は初見で、なんとなく色ものの人かなと思っていましたけど、すいません、堂々たる主役でした。歌もうまいですけど、芝居から歌に入ってまた芝居に戻るのが自然ですね。対するシルヴィアの濱田めぐみは、初めから歌に合せて芝居パートの演技を少し派手目にするスタイル。これはこれで華やかでよかったです。

ミュージカル畑は全然詳しくありませんけど、歌も踊りも芝居も、脇も含めて観ていて戸惑う場面がまったくありませんでした。ひょっとして気合の入ったキャスティングだったのでしょうか。廣川三憲まで出ていたのはびっくりしました。ナイロン100℃からここにたどり着くのかと。

ただ登場人物では、子役の4人がすばらしかった。BELIEVEチームということで越永健太郎、生出真太郎、長谷川悠大、谷慶人の4人でしたけど、上から13歳、11歳、8歳、6歳であの歌と芝居ですよ。最近の子役はここまでできるのかという驚きと、ここまでできないといけないのかという驚きと、両方です。

スタッフも総じて高水準でしたが、ひとつだけ。演奏する楽器が多いときに声が埋もれがちでしたけど、ミュージカルの音響だとあんなものなのか、劇場の特性などで致し方ないものなのか、まだ調整の余地があるのか、どれなんでしょう。1階後方センターブロックだったので、座席の位置で音響の不利益を被ったことはなかったはずですが。

カーテンコールは2回目から全員スタンディングオベーションでしたけど、ミュージカル慣れしていない自分でもすごいなと思ったから、ミュージカル好きにはたまらなかったでしょう。エンターテインメントでした。

あとは余計な感想として、これは凝り固まった大人が童心を取りもどす話でもありますけど、たまたま同じ日の昼間に人の魂を扱った芝居を観ました。それで、疲れた人を受けとめるのがあちら、疲れた人に明日も頑張れと背中を押すのがこちら、みたいなことも思いました。なんか世の中みんな疲れているんですよね、やっぱり。

2023年4月24日 (月)

新国立劇場主催「エンジェルス・イン・アメリカ(第一部、第二部)」新国立劇場小劇場

<2023年4月22日(土)昼、夜>

1980年代のアメリカ。ゲイ同士で同居しているプライアーとルイスだが、プライアーのエイズ感染がきっかけでルイスが家を出る。ゲイであることを隠して結婚しているジョーは師とも父とも仰ぐ辣腕弁護士ロイ・コーンから引っ越しを伴う栄転を持ちかけられるが、妻ハーパーの情緒不安定のために話を受けるか悩む。あくどい弁護も多数手掛けたロイ・コーンは追及をかわすためにジョーの栄転を後押しするが、エイズであると診断される。大勢が混乱する中、ルイスとジョーが出会い、プライアーは天使から自身が預言者と告げられる。

これでもかと要素が詰め込まれてあらすじを書くのに難儀する大作です。ざっくり順不同で、隠すことが今よりも当たり前とされていたゲイの社会的な認められなさ、当時は死に至る病と恐れられていたエイズであること、政治的に強い立場にいる人間のせまいコミュニティ内のつながりを利用した横暴、薬物を常用するような人間の増加、白人と黒人(とユダヤ人)の対立、個人にとっての宗教と信仰の位置づけ、危機に瀕する社会主義と対立がひどい民主主義、それら全部をひっくるめて融和せずに対立と分断が激しい保守派とリベラル派の争い、みたいな感じでしょうか。お腹いっぱいです。

多分この中で、いまどきのLGBTな話、新型コロナウィルスで広まった感染症による死の恐怖、貧富の拡大による社会の分断、あたりが今の日本でも想像されるものがあると考えて上演を決めたのでしょう。それはわかるのですが、当てはまるものもあれば当てはまらないものもあり、それはしょうがないです。が、仕上がりの良かったところと悪かったところがあり、結果は悪かった部分が目立って、終演後は消化不良という感想でした。

先に良かったところを挙げると、ベテラン役者陣はさすがでした。ロイ・コーンを演じた山西惇、ジョーの母親をメインにしつつそのほかのチョイ役の大半を担った那須佐代子、ゲイで黒人の看護師のベリーズを演じた浅野雅博の3人は文句なし。ハーパーの鈴木杏と天使役の水夏希も別々の方向で難しい役だったところを好演でした。

個人的には「チック」以来の七変化を見せてくれた那須佐代子がイチ押しで、真面目にできる役は真面目に、真面目にやると無理がでる役は説得力優先で、とにかく担当したすべての役を専任役以上の水準で見せてくれました。那須佐代子の出る場面に外れなしです。第二部冒頭の社会主義の演説、好きでした。

山西惇は辣腕弁護士として、堂々の差別発言と、法律的にも倫理的にも問題な横暴を通しつつ、ジョーをコミュニティの仲間として引張りこもうとする場面の説得など、縦にも横にも斜めにも問題大ありな役です。なのに、この人はこういう生き方を自覚的に貫いてきたんだなと、盗人にも三分の理のようなものを感じさせてくれました。

そして日本人には設定が多すぎてお腹いっぱいなベリーズを演じた浅野雅博は、全体にトーンを押さえて、それがむしろ説得力や注目につながっていました。第二部の、直球の差別発言を連発するロイ・コーンを相手に落ちついて的確に反論しつつ、看護婦としての職業倫理を全うする場面はすばらしいです。

鈴木杏は情緒不安定になるといろいろな場面に飛ぶ役ですが、さすがのキャリアで捌いていました。天使にしては片桐はいりがやるような役ではないかという無茶な面(笑)もある役を引受けた水夏希は、元宝塚トップの貫録でこなしつつ、そのほかのチョイ役が美しいのもさすがでした。

スタッフワークだと、このてんこ盛りお腹いっぱいな脚本を、てんこ盛りお腹いっぱいのレベルまで伝えてくれた翻訳を挙げます。硬軟入り混じったうえに長い脚本ですが、終わってから思い返すまで翻訳についてまったく気にしていませんでした。仕上がりのよい翻訳だと思います。

だから見どころのたくさんある芝居でした。ですが、それ以上に残念が目立ちました。

まずは役者。ベテラン陣に対して、プライアーの岩永達也、ルイスの長村航希、ジョーの坂本慶介が熱演なのはわかりますがいまいちでした。

坂本慶介はジョーの優しさを出そうとしすぎて役の輪郭がぼやけて脚本に負けていました。長村航希は結構問題発言の多い役のルイスですが、問題発言が不愉快に聞こえるのは駄目です。山西惇が問題発言連発でもむしろ引込まれるのと正反対でした。そして個人的に一番駄目だったのが岩永達也。恐怖でパニックになる場面のプライアーが絶望でなく泣き言に聞こえたのも駄目ですが、それよりも台詞全般にテンポが悪いのが駄目でした。独白でも掛け合いでも出だしが遅いのと、芝居のテンポに乗らない単調な台詞の速度でした。耳が芝居に参加していません。群像劇ですけど主役といえる出番の役者がこれではつらい。

この三人の感想、普通の芝居なら頑張ったけど力及ばずで済ませるのですが、今回は高いチケット代に加えてフルオーディションした芝居であることを表に出した企画です。1600人から選んでその仕上がりですかと文句を言わざるを得ません。もちろん、1600人の中にはベテラン陣が演じた役だって含まれるのですが、那須佐代子と浅野雅博なんてオーディションしないでも新国立劇場の主催なら真っ先に候補に挙がる役者でしょう。選んだ最終決定権が誰にあったかまでは把握していませんが、もう少し耳も使って選んでほしいです。

今回の出来を見た限り、私は新国立劇場にフルオーディション企画を行なう余裕はあってもを生かす能力はないと判断します。一観客の意見としては、フルではなく部分オーディションにして、時間と選択眼を限られた役に集中するべきだと考えました。少なくともオーディション慣れするまでは。

そしてスタッフワーク。新国立劇場でここまでスタッフワークでぐだぐだになるとは。

まず音響が、選曲がなんかちぐはぐでした。当時の音楽に寄せるでもなく、盛上げに全振りするわけでもなく、なんとなく手元にあった曲を流しているような雰囲気です。第一部のラストだけはわかりました。あの場面はあのくらい派手な曲で強引に締めないといけない。でもあとはいまいちでした。

あと舞台効果というか、天使や天界の扱い。安全もあるからワイヤー多めで降ろすのは理解できる。でも降りた天使のワイヤーの付け外しに堂々と舞台スタッフが出てきたり、舞台セットのベッドを堂々と避けたりするのは興ざめです。あと天界に上る梯子をスタッフが見える形で横に流したのも。上下を使いたいのはわかるのですが、あの辺は舞台奥なのだから隠す手段を検討してほしかった。ト書きがどうなっていたかはわからないけど、無理に天井から降ろさなくてもよかった。

キレイ」なんかはどうやっていたかなあ。カスミお嬢様がブランコに座って降りてきて、バンジーでワイヤー1本でぶら下がって、降ろして、自分で外したか執事の格好をしたスタッフが外したか。覚えていないけど、覚えていないくらいに素早く捌いていた。そういえば今回の座組みに四代目カスミお嬢様がいますね。ハーパー。

そういういろいろ、個人的には駄目だと思った部分が多いので、ひっくるめて演出家の上村聡史が脚本に負けたという判定です。演出ではもうひとつ。ロイ・コーンとジョーが父だ息子だと慕いあう場面があって肯定的に描かれているのですが、あれは「ホモソーシャルな社会」とか「オールド・ボーイズ・ネットワーク」という問題提起もあったんじゃないかなと思っています。なにしろ問題のない場面がほとんどない芝居ですから。

あと脚本について文句を言うのもなんですが、いろいろ時代が進んだ結果、LGBTや人種問題がポリコレとかキャンセルカルチャーに結びついて、アメリカではディズニーすら原作改変するような事態になっています。そのあたり、表現の自由とか原作尊重との兼合いはどうなんだとまで言いたくなるような昨今、それら問題に対して同情的な扱いの多い脚本は、時代とはいえ楽観的でしたねという冷めた感想も持ってしまいます。戦って権利を勝ち取るのがアメリカでは日常であることと、このころからすでに病んでいたんだというのは伝わりましたが。

で、片桐はいりとか「キレイ」とかを思い出しながら、この脚本は松尾スズキが演出したらよかったんじゃないかなとぼんやり思いました。なんか、観終わった直後はたくさんの重たいテーマの割に小劇場っぽかったと思ったんですよね。特に、日本では身近にないテーマも多かったので、もう少し小劇場っぽい手法で戯画化して納得や説得につなげるようなこともありだったんじゃないかなと。小劇場っぽい手法ってどんなだと言われても困りますけど、野田秀樹の言葉を借りれば「省略と誇張」です。

2022年10月17日 (月)

新国立劇場主催「レオポルトシュタット」新国立劇場中劇場

<2022年10月16日(日)昼>

オーストリアに住むユダヤ人の家族。迫害から逃れて暮らすウィーンで長男がキリスト教に改宗してまで努力して成功者になったメルツ家と、父母は田舎に暮らすが子供たちがウィーンに出てきてメルツ家の長女と縁戚関係になったヤコホヴィッツ家。交流の多い両家が、メルツ家でクリスマスを祝う1899年から、1900年、1924年、1938年、1955年を通じて、一族の歴史を辿る。

一言でいえば近代のユダヤ人の苦悩の歴史を描く話。だから重たいに決まっているのだけど、観ているこちらと、上演しているあちら側と、両方とも脚本に歯が立たなかった感がある。

観ている側の話をすると、2家族4世代にわたる家系の把握に失敗した。公式サイトに役者付きで家系図が載っていて(会場にも掲載あり)、ネタバレにもならないから、最初に目を通しておいたほうがいい。覚えなくても、2家族あって苗字を知っておくだけでかなり変わるから。

小劇場だと同じ役者が子役から老人役まで務めることが多いから理解の助けになるけど、今回は本当に子役が参加していたのでそれは叶わなかった。ただ本物の子役を使うことで場面単位では出来が上がるし、特に最初の1899年とラストの場面は子役を参加させた甲斐があるだけに痛し痒し。

あとレオポルトシュタットがウィーンの区のひとつで、ドナウ川の本流と旧流に囲まれた場所で、ユダヤ人が多く住む地域というのも前知識として知っていると役立つ。帰ってからWikipediaで調べて知るよりは先に知っておいたほうがいい。台詞から察するにそこから出世して裕福な地域に移り住んだのが今回の舞台なのかな。移民の多い地域みたいだから、わかる人にはウィーンのレオポルトシュタット出身というだけでたぶん苦労とか差別を想像させる材料になるんだと思う。

そしてもうひとつ。自分はユダヤ人の歴史に詳しくない。ユダヤ教とキリスト教との違いとか、パレスチナとイスラエルの話とか、ホロコーストに限らずもっと昔からヨーロッパで迫害された歴史とか、あとおそらく現代でもその手の差別が残っているであろうこととか。それをはっきり伝える芝居だけど、いきなり観て理解しろというのも難しい。知識でも経験でもユダヤ人のことを知らなさすぎる。

最初の1899年の場面で家長であるエミリアが写真に名前を書く場面、あれは日本でも似た感覚があるからそこをとっかかりにしよう、と思ったらエミリアが早めに退場して、そこから自分の理解が迷走した。ラストで脚本のトム・ストッパードが投影されたレオが「昔のことは知らない」ってはっきり言った台詞で、改めてとっかかりを見つけたけど、遅い。

日本人の自分がこれを理解するためには、1955年からさかのぼって1899年になってさらにもう2場、中心にいたヘルマンが改宗する場と、それより前のエミリアが迫害された子供時代くらいをくっつけて、やっと理解がかするくらいだと思う。ユダヤ人の歴史を理解するのに2時間20分では短すぎた。

で、おそらく上演している側もユダヤ人の歴史をそこまで理解できていない。台詞の拡がりに壁があって厚みや奥行きが出せていない。かといって、自分の人生経験と役者の想像力で戦うところまでもほとんどたどり着いていない。エミリアの那須佐代子と、ローザの瀬戸カトリーヌが最後に見せたくらい。手強い脚本で見かける、脚本負けした仕上がりの典型。異論は認める。

相変わらずスタッフワークは盤石で、特に張出し舞台に柱を載せて盆を回して奥行きのあるアクティングエリアと場面転換をつくりつつ減っていく家具で羽振りを知らせる美術と、時代によって変わる衣装とが、力作。

2022年5月 7日 (土)

新国立劇場主催「ロビー・ヒーロー」新国立劇場小劇場

<2022年5月6日(金)夜>

ニューヨークのアパートでロビー駐在の夜勤警備員として働くジェフ。毎晩勤務を見回りに来る上司は真面目だが尊敬できる。毎晩のように勤務中にアパートを訪ねてくる警察官は住民の一人に入れあげている。そのパートナーとなった見習い中の女性警察官はそうと知らず頼れるパートナーに好意を寄せている。ある日上司の様子がおかしいのでジェフが尋ねると、弟が警察に逮捕されたといい、何かできることはないかと心配する。パートナーを待つ女性警察官には好意を知らずうっかり警察官が住民を訪ねる目的をばらしてしまい、警察官に睨まれる。

ネタバレを回避しつつ一言で言ってしまえば、論語の有名な一説。むしろ孔子がなぜああ言ったのかを現代のシチュエーションで描いた会話劇。もっと小さいところでは、言いたいけど言えないことが人にとってどれだけ辛いかを描いた話ともいえる。これが4人の会話量かというくらい台詞だらけで休憩込3時間弱の芝居だけど、後ろに行くほど引込まれる力作。

脚本上、上司役が黒人であることが最初はよくわからなかったこと(アメリカの上演なら黒人が演じるから問題にならない)を翻訳で調整できなかったかという願いと、これだけやったのにあのラストは緩くないかという点にツッコミはあるけど、それくらいどうってことないと言えるくらいの脚本だった。親世代の話が遠まわしに土台になっているのが上手い。

駄目な役も愛嬌があって憎めないので、どの役の立場に感情移入するかが観る人によって変わりそう。これは観た人の感想が知りたい。自分はおっさん組の立場に同情してしまった。

場面転換以外で効果音はあっても音楽がないにも関わらずダレさせなかった役者が大豊作。愛嬌のある表情と台詞回しにくにゃくにゃした動きでジェフを演じた中村蒼が、台詞を言っていないときの仕草も含めて目が引かれる。その愛嬌を際立たせるのが上司の板橋駿谷と警察官の瑞木健太郎の(役としてはぶれるけど)ぶれない役作り。見習い警察官の岡本玲は若干硬かったけど終盤の説得場面は素晴らしかった。

桑原裕子演出は久しぶりだったけど、ここまで仕上げて来るとは正直予想していなかったのでうれしい誤算。それを支えたのは万全にして安定のスタッフワークだけど、今回はアメリカ現代劇にも関わらず日本語として違和感をほとんど感じさせなかった翻訳を挙げておく。

2021年6月27日 (日)

新国立劇場主催「キネマの天地」新国立劇場小劇場

<2021年6月26日(土)夜>

昭和初期。大作映画の打合せと称して監督から劇場に呼ばれた4人の映画スター女優。キャリアの長短はあれど売れっ子の4人はそれぞれ自分が一番であることを主張しあう。ところが劇場に着いた監督は、1年前に監督の妻が同じ劇場で亡くなたった演目の稽古を伝える。不審に思った女優たちを引きとめたのは、監督の妻を殺した犯人を探すという言葉だった。

面白かった。誰が観ても面白いし、芝居を観たことがないひとに最初の1本としても勧められます。でもそれ以上に、解像度の高い演出が隅ずみまで行き届いていることが伝わってくる1本でした。新型コロナウィルス下なのと、あと1日の千秋楽に感想が間に合わないのとで控えますけど、そうでなければ緊急口コミプッシュを出していました。こじらせた観客の感想もありますけど、それは後半で。

井上ひさしは構成に凝った脚本家だったけど、加えて時期によって作風が変わる脚本家でもあります。初期はぶっとんだ作風、中期は設定のうまさで笑わせる作風、後期は政治色強めに訴える作風で、これは中期の1本。上演するだけである程度伝えられるものがある初期や後期と違って、面白さをきっちり伝えられないといけない。そこを、実力十分、しかも小川絵梨子と仕事をしたことがあって実力保証付きの役者を集められたことで、脚本に求められるハードルをクリアして芝居に臨めたのは、まず勝因のひとつです。

今回の設定は女優の嫌らしい面をコメディで描くことが一番に求められますが、稽古という劇中劇でそれぞれの立場を劇中劇でも表現していくことも必要とされます。さらに劇中劇にかこつけた演技論や役者論や芸術論が展開されますし、相手の演技のへたくそさを詰る場面もあります。本当にへたくそな役者を当てると笑うに笑えなく脚本上の設定ですが、今回起用された高橋惠子、那須佐代子、鈴木杏、趣里の4人が文句なしにいい出来です。

それは監督、助監督、助っ人役者の3人の役にも及んでいて、女優を相手に、一同を集めた理由を隠しながら話を進める立場です。やはりへたくそはキャスティングできない。千葉哲也、章平、佐藤誓の3人は適役で、特に助っ人役者は複数役を器用にこなすことができる設定で役中役(?)まで求められますが、佐藤誓が大活躍でした。

そして演出。脚本構成の読解ならまかせておけの小川絵梨子ですけど、この脚本は中学生の時に演劇部で上演して自分も出たことがあるというアドバンテージがあります。コメディだからわかりやすいと言われればそうかもしれませんが、だとしても場面のひとつひとつ、役それぞれの立場、役と役との関係性、本当にどれひとつとっても迷いのない演出がされています。

スタッフワークも芝居に集中できる仕上がりです。ただ、特に今回は、最初に劇場に入って、具体的で場面転換不要に作りこまれた美術を観てびっくりしました。最近観ていた芝居が、抽象的だったりひとつの場面を複数に使ったりする美術が多かったので。ストレートプレイらしいストレートプレイは1年以上観ていなかったかもしれません。女優陣の衣装も時代がかっていて見目がよかったです。

観ていてひとつだけひっかかたのは、照明機材を全員素手で触っていたところ。私の学生時代はまだ素手で触るのが危ないのが普通だったので、今はLEDだから熱くないのか、小道具として火傷しないように見た目だけの照明機材だったのか、いらぬ想像をしてしまいました。いちおう助手役は手袋を持っていたけどはめていませんでした、というのはまあ、荒探しですね。

面白い脚本を面白く立上げるのは難しいところ、大成功でした。劇中でも言及されていたアンサンブルを体現した仕上がりです。「井上ひさしを小川絵梨子が演出できるか気になる」なんて上から目線で書いてすいませんでした。

ここまでは、ですます調で一般的な感想。この後はこじらせた感想。ちょっとネタバレを含みます。

劇中に「優れた芸術は人間賛歌」という台詞があって、それはそうかもしれないけど、それを作り出す側の人間に、実に性格の曲がった役を取りそろえたところが井上ひさしの意地悪なところ。

新型コロナウィルスの騒動でいろいろ考えたことに、専門家は専門外の分野については素人だし、専門性は人間性を保証しないというのがある。芸術分野について具体的に言い換えると、人気や実力がすべてであり、人気や実力があれば人間性は目をつぶる。人間性がよくても人気も実力もない人の立場は低い。人間賛歌となるような優れた芸術があったとして、それを創り出した人間の人間性はまったく別の話。

その点、今回の脚本は実に良くできていた。監督の、亡くなった妻に対する想いがどれだけあったとしても、自分が監督する映画のために活用して疑問を抱かない態度。スター女優や監督の、無名の役者に対する無理解や、意地悪を超えた深刻な嫌がらせや態度の数々。大事と思った人への惜しまない説得と、大事と思わない人への残酷な仕打ちが共存している。「クローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇という」言葉そのまま。

ラスト場面なんて、最後までコメディで通したけど、あれは内容だけ見たらひどい場面で、ちょっと演出を変えるだけで悲劇の幕切れになる。むしろ書いたときには井上ひさしはそれを狙っていたんじゃないかとさえ疑っている。

あれだけ解像度の高い演出をやってのけた小川絵梨子がそこに気が付いていなかったとは思えない。今回は新国立劇場の「人を思うちから」というテーマに沿って選ばれた脚本で、もちろん上演準備のために新型コロナウィルスより前から決まっていたはず。だけど演出方針は稽古前まで、何なら稽古中でも、変えられる。明るい芝居を提供するためにコメディに徹したのか、どうなのか。ひょっとしたら、「人を思わないと人はどこまでも残酷になれる」みたいな裏テーマをこっそり課して、この脚本を選んだのではないか。

なんでそんなことまで疑うかというと、解像度の高い演出をされた芝居だったのは間違いないけど、だからというか、何となく、観終わって違和感が残ったのですよね。「タージマハルの衛兵」も解像度が高い演出の芝居だったけど、あのときはこういう違和感はなかった。それと井上ひさしの芝居にしては、女優同士の嫌味なやり取りがふんだんにあるにもかかわらず、すっきりとしたコメディに見えてしまった。井上ひさしは、こう、人間の悪い面を「人間のたくましさ」「庶民のしたたかさ」みたいな扱いで丸めてしまうところがあるけど、悪いものは悪い。本当にいい面だけの登場人物が目立ってくるのは後期です。

芸達者な役者と解像度の高い演出で完璧なコメディを立上げた結果、脚本に含まれているけど掬いとれていない何かも一緒に立上った、と仮定して考えた妄想です。穿ちすぎかもしれませんが、こじらせた観客は、そんなことも妄想してしまいました。

そういう妄想まで含めて、観られてよかった1本です。

<2021年6月28日(月)追記>

新型コロナウィルスの対策を書くのを忘れていた。小劇場は入口を地下(初台駅の改札を出てから最初に見えるところ)に限定して、中劇場やオペラの客と混ざって建物内が混雑するのを防いでいた(正面入口を入って右側の階段は封鎖)。開場は開演45分前から。外から中に入った時点で検温とアルコール消毒。ここで一旦入場前ロビースペースになってクロークだった個所に来場者カード記載スペースがあるので記載。チケットは通常の階段横カウンターとは別に、いつもだともぎり横にある関係者向けの引取カウンターを階段正面に配置してもぎり周辺で人が滞留しないよう調整。入場は、もぎり手前で来場者カードを回収してからチケットを見せて自分でもぎり。チラシ束はロビーに置いてありほしい人が自分で手に取る。物販はパンフレットのみ。スタッフは会話禁止のボードで案内、マスクはしていたけどフェイスガードはしていなかったか(失念)。場内アナウンスは、接触確認アプリを使うなら音が鳴らないように、使っていないなら電源オフにするようにアナウンス。

入場後ロビースペースに、いつもならポスターや解説文章の拡大コピーが貼ってあったり舞台美術模型が置いてあったりするけど、今回はその手のものは全部外して人が集まらないようにしていた。飲食は最低限にするよう案内。椅子は、個別の椅子は一方向きになるように間を空けて配置、ベンチは1人置きの間隔になるように座面貼紙で調整。トイレは小便器は1個飛ばしになるよう貼紙。荷物を預けるスペースがない代わりに、座席下に荷物を置くための使い捨てカバー? のようなものをロビーで提供。休憩時間は正面ガラス口を開けて外に出られるけど一方通行で、再入場時は検温とアルコールの入口側からに回す。この公演のチラシと配役表はいつも通りパンフレット物販の横で提供されていたのが個人的には非常に喜ばしい。

これまで考え出された対策を、広いスペースと多めに配置できるスタッフを十二分に生かして実践していた。慣れてきたのもあるけど、新型コロナウィルスの(少なくともこれまでの)対策と観客の快適さの、変な表現だけど妥協点の頂点という印象。ただし「広いスペースと多めに配置できるスタッフ」があってこそだよな、とも思う。

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