2011年11月30日 (水)

第三舞台「深呼吸する惑星」紀伊国屋ホール(ネタばれあり)

<2011年11月29日(火)夜>

地球から遠く離れた惑星にある、地球と友好関係にある国だが、軍事的に地球に依存しているために独立活動を行なっている者がいる。ここに地球から配置された兵士の自殺率の高いことを気にして科学者が調査にやってくる。どうやら幻覚をみることで精神的な影響を受けるらしい。

ちょうど予定がついたので観てきました初にして最後の第三舞台。感想はいまいちで、少なくとも今回、第一舞台と第二舞台との間に、第三舞台は現れなかった、これだけ役者を揃えていまいちって点に大いに不満ありという結果。以下ネタばれでこのいまいちの中身を考える。これから観に行く人は後で読むべし。

ダンスが多いとか、年齢をだしにするとか、そういうネタはあまり気にしない。解散公演だし。長野里美の着ぐるみが定番らしいというのははじめて知った(ちなみにこれが一番盛上った)。

役者からいうと、見所満載の女性陣にたいして、それでいいのか男性陣という感想。長野里美の存在感がすごいよくて、筒井真理子と山下裕子もキャラを立てて応戦する。男性陣で一番上手いと思ったのは高橋一生で、きちんと会話していた。だけど小須田康人と大高洋夫はおとなしくて見所がわからない。そして筧利夫がやばい、声の大きさとテンションだけで勝負するって、それも手段のひとつだろうけど、自分には駄目だった。筧利夫の出番が多かっただけに、これがかなりの悪印象になったのがひとつ。

で、脚本演出の話。なんでこんな感想になったかを考えたけど、脚本が悪いんだと思う。ひとつは本来脚本に書かれていないといけない、設定(というのか状況というのか場面というのか環境というのか)が設定になっていない。推測するに、初めに登場人物がこうなるという案が先にあって、その案を実現するために、人物造詣とか人物の歴史とかではなく、必要な「機能」を設定に持たせることで解決しようとしている、あるいはそれ以上設定を練っていない、だから設定が設定として生き生きしていない。たとえば科学者の身の回りの世話を命じられる、その科学者から調査の依頼手続きを受けたりする、だけど普段の立場は園芸員で、花の架空購入で横領しているって、なんか変でしょう。あるいはかつて3年前まで保護した男と一緒に暮らしていたのに、その後整形して結婚詐欺で宇宙指名手配されるくらいの大物詐欺師になったって、ないとはいえないけどかなり極端でしょう。総理大臣が毎日墓参りにくる墓の宿舎の裏手で栽培禁止の花が栽培されているとか、もっと早く気がついてほしいでしょう。前作では矛盾が気になったけど、矛盾しているかどうかではなく、ご都合主義かどうかでもなく、状況や人物描写について本来脚本にあってほしいものが欠けている。表現が正しいかどうかわからないけど。

脚本でもうひとつ、地球とこの星との関係が、なんか日米の関係を冷やかしているような意図を感じる。軍事の設定しかり、文化依存の設定しかり。だとしたら、冷戦はもう終わったんだよ、新しい地政学が始まっているんだよ、中国は日本だけでなく世界の脅威だよ、といいたい。文化依存にしても、むしろ今は世界が日本に興味津々な時期で、日本は積極的に世界にアピールするべきで、その文化の一端を担う芝居としてあなたはどうなんですか、この芝居で世界に日本や日本文化をアピールできるんですか、といいたい。元々政治的な芝居が嫌いなのもあるけど、なんだろう、惑星という設定に総理大臣まで登場させているのに、このスケールの小ささは。

たぶんその印象は、鴻上尚史の脚本は、登場人物より真理より鴻上尚史自身のメッセージを伝えるところに重きを置かれていて、鴻上尚史の演出は、そのメッセージをいかに効果的に伝えるかを強調しようとしている、というところからくるのではないだろうか。だから人物を立体的に描くとか人物間の関係のいろいろとか状況を深く掘り下げるとか、そういう方面を期待している自分と全然合わなくて、逆にメッセージに敏感に反応した人たちは、熱烈な支持をする。だとすると納得がいく。今回で言うと、「絶望する人は行動する、あきらめる人は行動しない、みんなあきらめる(大意)」とか、そういうの。あと芝居のメインの話が、48歳と21歳との「ありがとう」で、書いたものが将来も残るかどうかってあたりで、自分たちの話、もっといえば鴻上尚史の書き手としての心配事みたいな印象を受ける。そのつもりがあったかどうかは別として。そうすると、第三舞台初の自分にはどうでもいいことになる。

メッセージに反応しないのはお前がおっさんだからだよ、と言われれば、それは否定できないけど、でも8400円の芝居で誰をターゲットにしたんだ。学生か。今まで10年間上演していないって、今の学生は観たことないってことで、それに8400円払う学生がそんなにいるのか。どう考えても全盛期のファンで、今はおっさんおばさんになった人たちがターゲットだろう。

なので今回は、全盛期をリアルタイムで観たファンが、盛大なお見送りをするためのイベントだと認識するのが正しい。熱烈だったファンは、これを観て、時間は過ぎて戻らないことを認識して、心置きなく縁が切れるような儀式にすればいい。あれだけ役者を輩出しただけでもすばらしいことだし、そのくらい輩出するだけの個性があふれる劇団が長続きしたほうが奇跡なのだから、惜しむには当たらない。

<2011年12月3日(土)追記>

ひょっとして、この芝居って劇団である第三舞台の関係者間で起きたプライベートないろいろを元ネタにしているのかな。だとすると、スケールの小ささにもなっとくだし、男性陣の控えめだったり棒読みだったりする演技は今更こんなネタ蒸し返すなよという脚本演出家への抗議と読取れなくもない(たくましい女性陣はそんなものものともしない、とか)。

いや、いくらなんでも筧利夫のあれはないよな、ってのがずっと引っかかっていたんだけど、一人客演に招かれた高橋一生が、他より若いのも含めて、早くに亡くなった看板俳優の代役なのか、と考えたら、そこから全部ネタなんじゃないかと妄想してしまった。生きていれば喧嘩別れするのが世の常なんですけどね、早く死んだ人はいい思い出ばかりが残るのも世の常で。

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2011年11月14日 (月)

新国立劇場演劇研修所「ゼブラ」新国立劇場小劇場(若干ネタばれあり)

<2011年11月12日(土)夜>

両親が離婚し、母親の元で育てられた四人姉妹。長女と四女はすでに結婚して家を出ており、次女も間もなく結婚するため引越しの準備を進めている。が、母親が病気で入院して痴呆も進行してきたため、見舞いのために姉妹とその夫たちが集まっている中、病院から訃報が入る。

朗読でなく芝居で観たのは初めての演劇研修所公演(5期生)。すごい楽しみにしていた脚本で、鈴木裕美を演出に迎えての初舞台は、悪くはないんだけど、すごいこじんまりとまとまった印象。

観終わった今から考えても脚本のポテンシャルは高いと信じているんですが、それでこんな印象になった理由が今でもわからない。リズムが微妙にずれていたとは思うけど、2時間を切った上演時間で全体にそこまでずれていたとも思えない。葬式屋や次女の婚約者や四女の幼馴染は全体にやりすぎだけど、それは初演のときもそうだったからそれだけではない。鈴木裕美が初顔合せの役者に遠慮したか、そんな遠慮をする人間がここまで生き残っているわけがない。初演出の脚本家のノリをつかみ損ねたか、だとしたらこのレベルにも到達していないはず。

スタッフワークが原因か、むしろ秀逸。美術は初演とほとんど同じ構成なんですけど、天井の高い会場を生かして黒いすだれのかかった階段が用意されていて、回想場面で白い衣装を着た母親が階段を上って退場する場面が、照明と合わさって「ゼブラ」になる場面は白眉で(シマウマは死者が乗って天国に行くための聖なる動物、という台詞がこれより前にある)、母親が亡くなったことを表すのにあれ以上きれいな場面はない。あと最後の台詞「ばーか」の後の音楽は、何か聞き覚えがあるのに思い出せないんですけど、あの音楽なんですよね、あの音楽が合うようなラストにたどり着かないといけないと思わせる1曲。ほんと、スタッフは全力でお膳立てしていた。

だとすると役者の問題か。テンションが低い、エネルギーが足りない、迫力に欠ける、何と言ってもいいけど、おとなしすぎたんでしょうねきっと。おとなしいなりにレベルは揃っていて、だからこそ悪くはないという感想になったのでしょうけど、アンサンブルは長所をへこませるのではなくて、長所同士を合せてほしい。多少でこぼこでも、そこに長所があれば、それを拾ってアンサンブルに合せるのは演出家に任せてしまってもいいのだし。この人たちがどの程度芝居をやっていたのかは知りませんが、未経験であれだけできたら大したもの、だけど金を払いたいかと言われるとまだ。いい意味で気になる役者はひとりだけいましたけど、黙っておきます。

次回は12月に、演劇研修所副所長の西川信廣演出で岸田國士だそうです。この前文学座、16日から俳優座とただでさえ忙しい演出家ですから、時間が取れずにあの手ごわい脚本を相手にしたら惨敗するんじゃないかと心配ですが、研修生は小劇場よりむしろ新劇路線のほうが得意な可能性もあるので、判断は早まらないでおきます。

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2011年11月12日 (土)

文学座「岸田國士傑作短編集」紀伊国屋サザンシアター

<2011年11月11日(金)夜>

休暇を取ってわざわざ海岸の旅館に避暑にやってきた、海で泳ぐのが初めての妻と、泳ぎを教えたくてたまらない夫、しかし雨続きの天気で夫は妻に語りだす「明日は天気」。新婚旅行で夫に不満を覚えた妻がひとりで向かったのは姉夫婦の自宅だが、不満をぶちまけるうちに誰が誰に文句を言っているのかわからなくなる「驟雨」。休暇中の別荘につれてこられた女中が泥棒を働いて暇乞いを願い出ると、言い出せない理由を問詰めて夫か息子が手を出したからではないかと疑う妻が考えた計画とは「秘密の代償」。

1回くらいは観ておく気になった文学座と岸田國士。都合をつけて観にいったものの、脚本負けの厳しい結果。

内容だけ言えば、ストレートな愛の台詞がむしろ新鮮な1本目、男女の仲を論じて今でも当てはまりそうな2本目、秘密が秘密を呼んでのどんでん返しがきれいに決まる3本目と、傑作短編集のタイトルは伊達ではない。けど、台詞を言える役者がほとんどいなかった。

最近読んでいる本(そのうち感想を書く)で、岸田國士が現代演劇ならではの文体の確立に気を配っていたと読んだのだけど、そしてそれは当時の口語体に基づいたものだったと思うのだけど、21世紀の日本人にはすでに古典の領域になっていた。だから、まともに台詞が言えたのは限られた役者だけだった。具体的には塩田朋子、菅生隆之、本山可久子。若松泰弘でもぎりぎり。他の役者の、上手い下手とは別の、今話している言葉に馴染みがありませんという雰囲気全開の台詞は、学生あがりの劇団ならともかく、文学座であれはいかん。

繰返して書くけど、脚本の内容はむしろよかった。だけどあれだけ明晰な指示をしていた演出家でさえこの結果はなぜかと考えるに、全体の流れとは別に、役者個々人の台詞術っていうのはやっぱり存在するのだと改めて確認した。今回の3本が入った脚本が売っているので、これは実物にあたって、どれだけ話すのが難しいか、自分で試してみたい。

重厚な舞台にシンプルだけど上等そうな家具を配して、特に背景に描いた絵が格好いい美術と、それを引立てる照明に、時代にあった衣装など、同規模の劇場で上演される芝居と比べてもビジュアルはとてもよかった。それだけにもったいない。

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2011年10月21日 (金)

新国立劇場主催「イロアセル」新国立劇場小劇場(ネタばれあり)

<2011年10月20日(木)夜>

ある国の、本土から遠く離れた島。そこの住民は話す声や書く文章に色が付いて見えるという他にない特色を持つ。またその色を捕捉して表示する科学技術が発達しており、住民はその小型装置を持ち歩くことで、お互いがどこにいても誰が何を話したかを確認できる。ある日、島の丘の上に檻が建設される。本土からの囚人を収監するためだという。物珍しさで見物に来た住人たちは、その丘の上だけは囚人にも、自分にも、話し声に色が付かないことを発見する。やがて囚人を相手に打明け話をする住人が増えていく。

なんとなく勘が働いて観に行ったものの、見所もそれなりにありつつ、ポテンシャルの高さと、パートごとのミスマッチがもったいない仕上がり。以下、何がもったいなかったかについての解説を試みるエントリー。

脚本だけを追えば、そもそもの設定に無理があることを含めて、素直に小劇場のノリ、適度な笑いを含めたメリハリとテンポのよさを前面に出して仕上げればよかった内容。ただしそれだと80点には届いても100点越えは無理。そこを演出家は、笑いを意図的に殺して、暗転を多用した舞台転換でテンポを悪くしてまで、登場人物を全力で引っ張りだすストレートプレイの演出に挑戦した。実際、場面の厚みを感じることも何度かあったので、ある程度までは成功していた。

ただここで問題になるのが脚本で、「声に色が付く」ことに起源を持つ登場人物の葛藤を中心にした物語重視で仕上げる方向だけでなく、囚人自体の背景を描かないことで囚人とそれぞれの登場人物との間の会話を中心に寓話っぽく仕上げることも狙えるような内容になっていた。で、舞台装置や衣装から推測するに、演出は寓話路線の仕上げを狙った。

ところが寓話路線には罠があって、脚本に邪魔な場面がいくつかできてしまうのがひとつ。そして寓話を寓話せしめる要の囚人役に、「たくさんの台詞を話させつつ島の住人が思わず打明け話をしたくなると観客に納得させる」ような技量が求められるのがもうひとつ。前者はごまかすにしても、後者は役者依存となる(ちなみに物語路線だと、囚人以外の登場人物も含めて人物背景が少ない分、役者と演出家で作らないといけない部分が多くなる)。

で、囚人役を演じた藤井隆がコケた。言っている事はそれなりにいいことでも、まじめに聞いたら鬱陶しさが先にたつような正論台詞を大量に話すので、そこをできるだけフラットに処理して人間くささを消しつつ、巫女っぽいところが必要だった役に、普通の人間の役を作ってしまった。それでいて人物背景を全然描かないので、非常に薄っぺらい造詣になった。いくら島の住人が打明け話をしやすい環境だとしても、あの囚人にぺらぺら話すのは口が軽いと観ていて思ってしまったし、実際に芝居中でも口が軽い展開で描かれている。そしてこの要がこけたために、もともと無理のある設定が消化されないで進み、全体にご都合主義な芝居に感じられてしまった。もったいない。

他の役では、「声に色が付いていることに対する生きていく態度」を適切に押さえるのが役どころとして肝心。そこを押さえて、あとはやりたいようにやって上手いこと位置を見つけたのがベンガル、木下浩之、小嶋尚樹、花王おさむ。そこを押さえて、演出上求められる要素と折合いを上手くつけたのが松角洋平。そこを押さえられたけど、演技の基礎技術があと一歩だったのが高尾祥子。そこを押さえられなかったけど、なんとかごまかしたのが剣幸。そこを押さえて、演出との折合いもつけたけど他の役との折合いをつけるのに間に合わなかったのが島田歌穂。加藤貴子がすごい判断が難しくて、最後の登場場面を際立たせるための一点賭けの役作りのようにも思えたけど、脚本に囚われて負けたような印象も受けた(魅力も感じられたので丸っきり間違いということはないですが)。

以上、ミスマッチの解説を試みたエントリー。全部、単なる印象なので、まったくの的外れと言われればそれまでです。ただ、別キャストで観たかったというのはあります。

あと本編とはまったく関係ないことで、ホームページに脚本演出以外のスタッフ名を載せない(リンク先のチラシのPDFには載っている)のはよくない。結構な大物もいるのに載せないで問題にならないのはちょっとすごいぞ新国立劇場。

<10月21日追記>

あー違う、巫女っぽさよりはどんどんエスカレートする悪魔っぽさを強調したほうがあの蛇足と思えたラストが生きるんだ。そうすると難易度がもっと上がる役だ。

あと加藤貴子の判断が難しかったのは、仮にも人前で発表するスポーツ(またはショー)の元世界チャンピオンが、いろいろあるとはいえ、あんなに表面的に内気なところに違和感を感じたんだ。やっと気がついた。あの最後の登場場面を強調することを考えても、高尾祥子との差を出すことを考慮しつつも、もう少し積極的な要素が出てきたほうがよかったんじゃないか。

そういえば名前が色なことにも今気がついた。色と設定の結びつきはあったけど、色と性格の結びつきって脚本で何か考えていたのかな。そこはわからない。

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2011年8月 9日 (火)

キャラメルボックス・アナザーフェース「ナツヤスミ語辞典」新国立劇場小劇場

<2011年8月8日(月)夜>

かつて教師を務めていた男のもとに、今は中学2年生になった昔の教え子から、夏休みの課題「昔の担任に手紙を出す」のための手紙が届く。仲のいい3人組の生徒がそれぞれ送った手紙に書かれていたのは、補習で登校した夏休み中の学校での出来事、そしてそこで出会った人物を巡る話だった。

キャラメルボックス見納め」とか「柿喰う客なんか、今観たらただの馬鹿騒ぎとして片付ける」とか、今まで散々なことを書いておいて、よりによって両劇団のコラボレーション芝居を観ました(何で観たかはたぶん次くらいのエントリーで)。脚本はキャラメルボックスから、演出は柿喰う客から、役者は両方+さらに客演を呼んでの当公演。想像よりもよくミックスされていて、しかし想像以内の面白さにとどまりました。

今更気がついたのですが、両劇団ともあまりリアリズムを追求しないのと、すごい早口で台詞を話すのとで、かなり相性がいいです。その場合どちらの色が強く出るかと思いながら観ていたのですが、オープニングこそ柿喰う客っぽかったですし、ところどころにそれらしい演出は入っていましたけど、全体にはキャラメルボックス調が強かったようです。それは脚本の構成がそれだけしっかりしていたからだと思いますが、それでいて、(通常具体的なセットが多いキャラメルボックスの芝居を)あの斜面だけの舞台に立上げたのは演出家の手腕の賜物だと思います。普段のキャラメルボックスよりこちらのほうが好みです。

役者はまあ役者なのですが、その中でボスを演じたコロと、カブトを演じた熊川ふみは落着いたトーンで通し、よくこの脚本と演出におさまるトーンを見つけて通したなと感心しました。観ていた自分は、この2人に脚本の可能性を教えられました。

ただ、脚本の力が強いと脚本の粗も目立つのがつらいところで、キャラメルボックスでよく見かける、肝心な場面をご都合主義で転がすところが残念です。具体的には、撮った写真に被写体が写らなかった理由を即座に理解するところは、あれは非常に慎重に伏線を張って理解につなげる準備をしておかないといけないのに、さらっと進めてしまうあたりは、物語に没入したいこちらの感覚をぶった切ってしまいます。リアリズムと無縁とはいえ、物語重視の脚本としてあれは賛成しかねます。

あと役者でいうと、手紙を受取る、語り部に位置づけられる多田直人が弱かった。強く出て次につなげないといけないのにトーンダウンさせてしまう場面が何箇所がありました。たまたま観た回だけなのかもしれませんが、重要な位置を占める役なだけに影響が大きいのと、他の役者にそれを感じなかっただけに目立ってしまって、非常にもったいなかったです。

好きなら観ておいて損はなし、苦手なら見送って問題なし、迷ったら見送ってよし、という当たり前の結論で申し訳ないですが、当日券はありましたし、バルコニー席でも見えない箇所はない美術なので、挑戦する方はどうぞ。

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2011年1月30日 (日)

新国立劇場主催「わが町」新国立劇場中劇場

<2011年1月29日(土)昼>

アメリカはニューハンプシャー州の片隅にある人口二千人余りの町、グローヴァーズコーナーズ。20世紀初頭に、この町で道を挟んで向かい合う2つの家族を通して描かれる、ありふれて平凡で、とても美しい人生についての物語。

1本しか観られる時間がないってことで他の芝居とどっちをとるか大いに悩んで、3ヶ月前に観たばかりだったのですが、全力のキャストで一度観てみたかったのでこれを選びました。期待通りの出来で満足でした。

とりあえず小堺一機。役者で誰かひとり挙げろと言われたら小堺一機。キャスティング勝ちとしかいいようがない。あて書きなんじゃないかってくらいはまっていた。ちょっと固い場面もあったけど、最後の「おやすみなさい」の台詞には泣きそうになった。

他もよかったですね。全体に、女性陣が目立っていたのは演出家が女性だったからでしょうか。筆頭は鷲尾真知子。男性陣は優しめの設定でしたけど、その中では山本亨の存在感が目を引いた。

中劇場の舞台を広くとって客席との距離を近くするのは最近の流行りですけど、やっぱり観やすくていいです。そしてあまり色を使わずに、それでいてその広さを存分に生かす照明が美しかった。音響は、ピアノ生演奏に役者の生効果音を足して、上手に物語を進めていた。

で、いろいろ褒めましたし、脚本が面白いのが大前提なんですけど、やっぱり演出家の実力なんだろうな。面白い脚本にさらに面白さを足せる演出家はいろいろ思い浮かびますが、面白い脚本の素材を十二分に引張りだして仕上げる演出家という点では、やはり宮田慶子は一級の演出家だなと思わせられました。

千秋楽に間に合ってよかった。

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2010年11月14日 (日)

こまつ座「水の手紙/少年口伝隊一九四五」紀伊国屋サザンシアター

<2010年11月13日(土)夜>

水に困る世界各国の実情を手紙として紹介する「水の手紙」 / ゲストによる井上ひさしへの手紙の朗読「井上ひさしさんへ」 / 広島に原爆が落とされた後、宿と食事と引換えに、印刷できない新聞を口頭で伝え歩く仕事をまかされた少年3人「少年口伝隊一九四五」

ひと言でいうと「はずれ、さすが、当たり」の3本。

「水の手紙」は、内容が政治的なのも、全体に「生命体の中で人間が一番偉い」という思想が見え隠れするのも嫌。温暖化のテーマも今となっては、とも思う。で、脚本はさておき、朗読が下手(たくさん動いていたから朗読というよりは演技といったほうが正確)。同時にしゃべったり、歌ったりは上手だけど、「群読のために」と銘打っているならもう少し聞かせてほしかった。チャドの母ちゃんとコロラドのおっちゃん、あとぎりぎりヴェネツィアの学生の計3人くらいしか及第点はやれん(チャドの母ちゃん役をやった人の名前がわからんので誰か名前を教えてください)。

そのくらいがっかりしたので「少年口伝隊一九四五」は期待しなかったんだけど、逆に相当の迫力でやってくれたのでびっくりした。脚本もすごいけど、読む側も負けていない。しっかり芝居が立上がった。朗読物は今後あまり一般上演されないと思うので、多少でも興味のある人は一度聞いておいたほうがいいです。たしか12人だったと思うけど、役者は全員「水の手紙」に出ていたのか? だとしたら、なんで「水の手紙」があんなにへなちょこだったのかがわからない。配役表を配らないこまつ座だったのが惜しまれる。

加えるとどちらもソロの生演奏(ヴィオラとギター)で、よい演奏でした。弦楽器に弱いんだ自分は。

で、「少年口伝隊一九四五」で役者を見直したんだが、それでも白石加代子の朗読にはかなわない。どこがどういいのかを言語化するだけの知識はないし、大ベテランと比べるのは酷とはいえ、聴いていてはっきりわかってしまうんだなこれが。多少つっかえたってご愛嬌です。こういう趣向なら木場勝己と大竹しのぶの回も聴きたかったがスケジュールが無理。

うろ覚えですけどメモ代わりに。

・最初の縁は「天保十二年のシェイクスピア」だけど、そのときは他の出演者がスターばかりなので静かにしていてあまり話していない。
・身毒丸もグリークスもやったからまだまだラブシーン大丈夫です、と「ムサシ」初演の記者会見で言って会場爆笑(笑)、それを聞いていた井上ひさしの反応は「ほう」(笑)。
・初演の稽古では毎日数ページずつ脚本が届く。そんな状況を楽しめるカンパニーだったのがよかった。台詞が少しずつ届く稽古もたまにはいいもんだと吉田鋼太郎「ちゃん」は言っていた(笑)。それで油断していたらラストシーンで自分に大量の台詞が割振られた。台詞覚えが悪いのに(笑)。
・「ムサシ」再演は初日から脚本があったのでたっぷり稽古できた(笑)。
・(再演は海外公演も行なって)ロンドンで通じるか、初日は心配していたが、杞憂だった。
・さらにニューヨーク公演。9・11があったあの都市で、怨みの連鎖はやめるべきという主題が誤解されないか心配したが、絶賛された。その興奮した観客の様子を井上ひさしに見てもらえないのが残念だった。取材に来ていた記者も同じ事を悔しがってくれた。
・井上ひさしが駆抜けた最後に、少しだけしがみつかせてもらった自分です。

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2010年9月20日 (月)

ナイロン100℃ Side Session「亀の気配」サンモールスタジオ

<2010年9月19日(日)夜>

工場勤務の父親が機械に巻きこまれて大怪我をしたため、東京から実家に戻ってきた次女。心機一転を目指して一緒についてきたそのボーイフレンド。次女は近所の付合いで、ボーイフレンドは父親の働いていた工場のバイトで、あれこれ出てくる秘密の数々。

ほぼ若手公演で休憩なしの2時間20分。役者はみんな上手いしこれからまだまだ上達する気配を感じさせてくれる。全体で見ると男性陣より女性陣のほうが一枚上手に感じられるのは、KERAの眼力なんでしょうか。抑えた中にテンションを感じる女性陣に対して、テンションを表に出しても中で抑えちゃった男性陣という印象です。特に悪役2人。ちなみに、後でサイトを確認するまで菊池明香を植木夏十と間違えていましたすいません。

で、脚本演出ですが、もともと2本立てで用意した脚本を1本にまとめていて、十分な完成度。ただ、今回の話の起点となる父親の話がほとんど出てこなくて、お前らなんで地元に来たんだと突っ込みたくなるところは何とかしてほしかった。元の脚本にはあったのかな。あと、完成度が高いのはいいですけど、高くて発展の余地があまりなさそうなのが気になった。せっかくなので脚本演出にも将来を嘱望したくなるなにかを感じさせてほしかった。芝居がKERAっぽいのは、KERAが手伝ったから当然なんですが、当日パンフのメッセージまでKERAに似ているのは気になる。やっぱり藍より出でて藍より青くなってほしいので、もっとがんばれとあえて低めの評価にしておく。

昔を振返る場面とか、いろいろ面白い場面もあって全体に満足できたんですが、疲れてこれ以上書けないので失礼。あと1ステージだけど、当日券を狙う人は枚数が少ないので早めに並んでください。

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2010年8月 7日 (土)

劇団M.O.P.「さらば八月のうた」紀伊国屋ホール

<2010年8月5日(木)夜>

深夜ラジオの長寿番組。リスナーから届いたメールには、介護中の老人が歌っていた歌について教えてほしいとのリクエストと歌詞の一部が載っているが、番組のパーソナリティを勤める女性以外には誰も聴いたことがない。その歌は、今は横浜の港につながれている船に深い由来を持っていた。

ラジオ番組の放送期間を劇団の存続期間に合わせて、しかも歌の内容が意味深な企画。役者オールスターの熱演とあわせて、新作にして劇団の解散公演にふさわしい仕上がりになっています。危うく泣くところでした。

船の名前は寒川丸とか言っているように聞こえましたけど、氷川丸の設定を借りて、ある種の歴史ドラマのようになっています。あちこちの年代を行き来するなか、人物関係を上手に絡めて、蒔いた設定はきれいに刈り取って、最後に終わると「おお」と驚いてしまいます。マキノノゾミはこんなに芸達者な脚本演出ができるのかと今更知りました。

この大作(2時間45分)に息を吹き込んだのは、間違いなく中心人物を2役演じたキムラ緑子で、彼女が喋って怒って歌って泣くのを観ているだけで幸せになってきます。いいところを抑える美声の小市慢太郎もよかった。それ以外も全員よかった。

ハーフプライスチケットが手に入るならもう一度観たい出来で、あえて口コミプッシュは出しませんけど、解散公演であることも含めて、ぜひひとりでも多くの人に、ストレートプレイのよさを味わっていただければと。このクオリティでこの値段でこの規模の劇場で上演する団体はどんどん減っていくのが悲しい。

開演前に、日替わりゲストとのラジオ対談もしているので、早めに到着して席につくといいかもしれません。ちなみにこの日のゲストは片岡正二郎でした。

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2010年7月20日 (火)

こまつ座「黙阿弥オペラ」紀伊国屋サザンシアター

<2010年7月19日(月)昼>

江戸末期。深夜に身投げを助け合った2人が蕎麦屋でお互いの境遇を語り合う。その一人が後の黙阿弥こと河竹新七。この日を境にどうにも暮らしに困った男たちが蕎麦屋に集まってしまう。その日にちょうど起きたある問題を解決しようと、蕎麦屋の女主人の発案で株仲間になってしまった男たちが繰広げる、開国前後のあれやこれや。

井上ひさしが亡くなっていなければ男3人の新作芝居だったようですが、まあ新作はこれからずっと遅筆堂なのでこの再演。キャストも豪華で期待していたら、期待以上の出来でした。3時間半を感じさせない熱演に、惜しみない拍手。

江戸から明治にかけての生活の変わりっぷりと、それを生き抜く庶民のたくましさを、江戸の風習を守る黙阿弥、ひょんなことから外国に通じることになったおせん、その間で右往左往する男たちの配置が見事。そして膨大な台詞、台詞、台詞。みんな台詞回しが上手なもんで、聴いていて楽しいです。

この芝居、普通にやったら多分つまらなくて、成立させるためにはかなりのエネルギーが必要と思われますが、吉田鋼太郎と藤原竜也をはじめとして、ものすごい勢いが舞台から伝わってきます。藤原竜也がいつの間にか上手くなっていたり、エロがなくても内田慈が魅力的だったり(髷は似合っていませんでしたけど)、北村有起哉や熊谷真実が格好よかったり、役者に発見がいくつもありました。ここまで役者の力を引出した栗山民也も褒めておきます。特に前半の最後はやられそうになった。

政府に文句をつける場面も出てくるんですけど、それは全体には少なくて、やっぱり井上ひさしは21世紀より20世紀の脚本のほうが面白いんじゃなかろうか。こんな座組で観られることは多分もうないと思うので、チケットが高いのは難点ですが、ぜひ観ておいてください。どの席でもまず見切れませんのでそれはご安心を。

勧めたからには当日券情報。1時間前に集まって締切、そこで並んだ順に番号札を引いて、その順番で再整列して販売。今回は27人並んで、直接販売5枚、キャンセル販売がたしか4枚。こまつ座はいつも当日券販売が少なくて、以前の別の公演ではこれより少なかったこともあり。しかもキャンセルが少ないです。当日券狙いの人は公演期間の早いうちに行って、失敗したらもう1回挑戦するくらいの予定でみたほうがいいと思います。

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