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2026年1月13日 (火)

Bunkamura主催企画製作「クワイエットルームにようこそ」THEATER MILANO-ZA

<2026年1月12日(月)夜>

離婚してフリーライターを仕事にしている佐倉明日香は、同棲している放送作家の恋人と喧嘩した挙句に大量の睡眠剤を酒で飲んだため精神病棟に入院することになる。外部との連絡は固定電話のみなのに携帯電話を取上げられて連絡先も碌にわからない。退院まで最短で2か月と伝えられて何とか耐えることを決心するが、他の入院患者も入院するだけの理由がある人たちばかり。

初日にして脚本も演出も歌もダンスも演技も段取りも準備万端整えてきた感あり。入院患者の人となりと入院理由の説明を描きながら、主人公が自分自身と向かい合っていく展開。登場人物が多いので前半がやや人物紹介の説明調になるのは致し方なしとは言え松尾スズキ芝居の弱点、後半が本番。小劇場らしい笑いを挟みつつ、暗い場面もあるものの、小説はこんなに前向きだったっけと思い出したくなるくらい前向きに仕上げてきた。宮川彬良の曲が明るいものが多いだけでなく、主人公のアバズレ度が低くなったあたりに理由がありそう。そこで乱暴なところがありがらも品のいい主人公になったのは咲妃みゆの手柄。恋人役の松下優也がネタ多めの歌をいくつもこなすところに注目。この2人の職業設定にやや時代を感じないではないものの、這い上がれ人生と歌う展開は1周回って今の時代にむしろ合っている。

小劇場面子にはキャパが大きすぎたかリピーターチケットが出ていたので余裕のある人は今からでも如何と言いたいところもミュージカルのチケット代なところが難。

2025年11月23日 (日)

新国立劇場海外招聘公演「鼻血」新国立劇場小劇場

<2025年11月22日(土)夜>

両親は日本人だが父親の仕事の都合で日本とアメリカを行ったり来たりして、今はアメリカで暮らすアヤ。自分のアイデンティティが定まらないのは日米を行き来していたものの家族とはろくに話をしなかった父親のせいだと考えている。その父親はだいぶ前に亡くなったが、家族は葬式もせず墓も作らなかった。そんな父のことを今あらためて思い返す。

1人複数役ならぬ複数1役というか、脚本演出のアヤ・オガワが父親を演じて、他の役者がアヤと他の役を演じる。日本語と英語がちゃんぽんで出てきますけど、そこは字幕があって、英語の台詞では日本語の、日本語の台詞では英語の字幕を出してくれるのでわからないところはありません。

さすがアメリカで作った芝居なだけあって演技はしっかりしたものですが、それよりは構成の繋げ方や展開のスピーディーさがどことなく日本の小劇場を思い起こさせます。終盤以外は地明かりだけで進んでそれでいて緊張感を途切れさせないところは青年団さながらですが、どんどん場面転換していくところは野田秀樹以来の小劇場です。観客参加場面も織り交ぜつつ、色々考えた結果としてのエンディングにたどり着いたあのエンディングも小劇場感があります。

よくできた芝居だったのですが、家族との確執という点では日本の現代小劇場指折りの傑作であるハイバイの「て」があります。あちらはまだ生きている父との話、こちらはすでに亡くなった父との話でアイデンティティも絡めて、とやや違うところがありますから上下優劣を付けられるものではありません。ただ、デジャブというか、初見ならではの驚きには欠けたのが惜しいです。

築地小劇場以来の翻訳劇、それ以来の新派というか劇団芝居、唐十郎や野田秀樹から現代口語演劇まで連なる小劇場の新作群、そして歌舞伎や宝塚といった日本固有の芝居。日本の芝居の百花繚乱の前にはインパクトは弱かった。日本の「アヤ・オガワ」が「おがわあや」としてアイデンティティに悩まずに日本で演劇を続けていたらどういう「鼻血」が生まれただろうかと帰り道には考えました。

2025年11月12日 (水)

二兎社「狩場の悲劇」紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

<2025年11月8日(土)昼>

とある雑誌の編集長の元に男が訪ねてくる。雑誌に載せてもらえないかと前に置いていった小説の掲載可否を聞きたいという。まだ読んでいないと断る編集長に男は無理やり話を読んで聴かせる。元判事だったという男が自分が関わった事件だと断って話すのは、勤めていた領地の伯爵とそこに暮らす使用人たちを巡る話だった。

チェーホフに小劇場感を絡めて、永井愛ならではの手付きで丁寧に仕上げられていたものの芝居全体が平坦な印象。編集長を演じる亀田佳明と執事の佐藤誓の2人は内面のテンションが高くさすが。それと対比すると元判事の男を演じる溝端淳平は他はよくともテンションが欠けていたのが残念で、どんどん変わる庭師の娘は原田樹里だったけど門脇麦の降板代役で時間が足りなかったか。この2人の物足りない感がそのまま芝居の盛上がりの物足りない感になってしまった。

あとは原作が文学寄りなものの一応ミステリーのため、事件までの経緯を端折るのも躊躇われるけど、やはり事件が起きるまでが長い。休憩挟んで2時間50分をあと20分縮められないか。間延びした印象。

あとは芝居に関係ないけどセンターの通路前後に空席をたくさん作っていたのが悪印象。前売チケットであれより後ろの席で観ていた自分が損した気分。

2025年11月 3日 (月)

EPOCH MAN「我ら宇宙の塵」新宿シアタートップス

<2025年11月1日(土)夜>

星座と宇宙に詳しい父親が亡くなって5年、ほとんど口をきかなくなった息子は朝早くに家を出て行方不明となる。気が付いた母親は息子を探して家を出る。幸い行く先々で息子の手掛かりは得られ、息子と話した人たちも一緒に探すと申し出てくれる。

一人劇団として名前を見かけていたので観劇。評判通りの仕上がりでした。

息子を探す話がやがて、という展開は落着いて考えれば強引極まりないものですが、そこは日本の小劇場の伝統ある作風に則って笑いとテンションで納得させて引張ってくれます。そこに子供は人形を使って演じられていて、あの足を役者の足に付けて頭と腕を棒で動かすタイプの人形を何と呼ぶのか知りませんが、不思議と馴染んでいました。

そしてその作風に則りすぎるとやや貧乏臭い舞台になることもままあるのですが、今回は舞台の側面から背面までをLEDパネルで覆って、全面の映像を上手く使うことでむしろ洒落ていました。映像の観やすさの違いを気にして狭いシアタートップスで席種を4つも設けていましたが、2つくらいでよかったんじゃないかなと思います。ちなみに音響も綺麗で雰囲気を新しくするのに一役買っていて、音源と設備によってはこのくらいはできるのだなと再認識しました。

肝心の芝居ですが、全員よかった。とは言え池谷のぶえがやはり一頭抜けていて、真面目な役なのにふざけた場面で役と芝居の雰囲気を壊さずにふざけるのに付合える腕前は素晴らしいの一言。渡邊りょうは調べたらこれまで何度か観ていたはずなのにあまり記憶にないですけど、こういう弱いところの多い役もできる人なのですね。そこにテンション勝負なら負けていない異儀田夏葉はKAKUTAの人、見た目で勝負しつつ意外と動けるぎたろーはコンドルズの人だからそれは動ける、そして自分は子供の役で参加した脚本演出の小沢道成は、あちこちから狙った通りの役者を集められるのも実力のうち。

1時間半くらいだったかな、時間が短くとも密度で短いとは感じさせない。初演で読売演劇大賞を取ったのも納得でした。

文学座「華岡青洲の妻」紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

<2025年11月1日(土)昼>

江戸時代。紀州で医者をしている家族。息子の雲平、後の青洲は京都に勉強にやっている。その間に母親は娘たちと家を守り、息子のために近くの村の庄屋から嫁ももらっていた。まだ息子と顔を合せていない嫁は母親に可愛がられながら雲平を待つ。それから3年経って雲平が戻って来るが、母親は雲平にかかりっきりで嫁のことはすっかり放置する。亡くなった父の跡を継いで医者を務める傍ら、外科の患者を助けるために京都以来の麻酔薬の研究に打込む雲平を巡って、母親と嫁の諍いが増えていく。

有吉佐和子の原作を、本人が脚本を書いたのかな。昔から上演されている舞台らしく名前に聞き覚えがあったので気になって観劇。よく整った舞台だったけれど、少しずつ届いていないところがあって食い足りない仕上がり。

芝居の大半を占めるのは嫁姑の諍い。原作発表が1966年だから、その当時は今よりも大家族が多くて今よりも受けた題材でしょう。そこを丁寧に、どちらかに贔屓が傾かないように、かつどろどろしすぎないように演出していました。おそらく最後の場と合せて、どれだけいがみ合っても病気や寿命の前には小さなことであり皆平等であるという意図を狙ったのではないかなと観客としては想像しました。

それを実現するためには、まず脚本が足りません。原作未見ですが、一般に小説は舞台よりも長いものですから、原作の小説にはもう少し医者としての使命感や葛藤も書き込まれていたかもしれません。ただし脚本は嫁姑の話に多くを割いたため、そちらの場面が足りない。ないものは演出できませんから、やや手薄になるのは仕方がない。

それと役者です。一定の水準の演技も保っていたので安心して観ていられましたが、といってぐっと掴んでくるものも手薄です。演出の求める遠距離感を保ちつつ脚本にある近距離感を手の内に入れた感があったのは母親役の小野洋子くらいでしたが、それでもやややりすぎ感があったのは脚本の湿気のためでしょうか。そして今回の演出では雲平の役が重要になるのですが、演じた釆澤靖起には場面というか芝居を通して支える重さが見えなかったので一層奮起してほしいです。

あとはスタッフ。美術や照明はいい感じでしたが、場転で流れる音響がどうにも締ましません。芝居と馴染まない選曲でした。それっぽいバイオリンの曲ではありましたが、たぶんテンポが芝居と合っていない。

と、着物髷物をしっかりこなして見せたのはさすがだったのですが、消化不良で劇場を後にしました。そもそも小説の発表から半世紀以上経って、現代日本と照らし合わせて脚本の寿命が来ていると思われるので、もし原作にこれ以上の内容が書き込まれているならリライトに挑戦した方がいいのではないかと愚考します。

2025年10月13日 (月)

新国立劇場主催「焼肉ドラゴン」新国立劇場小劇場

<2025年10月11日(土)夜>

高度成長期の末期、関西の地方都市の一角にある在日朝鮮街。そのまた一角にある常連客で賑わう焼肉屋は、店主の名前からいつしか「焼肉ドラゴン」と呼ばれるようになる。店主夫婦と3人の娘と1人の息子、そして常連客が織りなす賑やかで激しい日常と、社会の歪、押寄せる時代の波。

在日朝鮮人の家族を描いた力作は、粗筋だけ追えば悲劇の範疇で、差別と抑圧を真っ向から描いてもいる。それでも暗く陥らないところが素晴らしく、日常の騒動を小劇場的な笑いも多数混ぜることで、ホームドラマとしても高い仕上がり。

その暗く陥らないところをもう少し考えると、どれだけ激しく喧嘩をしても後を引かない。これがどうしてなのかと思い返すと、全方面に感情の振幅が大きく作られていて、この登場人物たちは喜怒哀楽すべてこの大きさで体現しているように作られているから。今の日本で全方面に慎重な感情表現が求められることと比べると、そこは少し羨ましいと感じないでもない。

それと、政治的な問題も大上段に振りかざさず、かならず登場人物の目線の問題として描いたこと。この芝居をメタな視点で牽強付会に見てみれば、在日朝鮮人から見た日本の悪い面の一方的な告発と取れなくもない。これが平田オリザならいわゆる日本人をもう何人か登場させて、さりげない態度や言葉で日本人の差別感情を表現したかもしれない。でもここではほぼすべての登場人物が在日朝鮮人で、その本人たちが受けて、感じたことを表現する手段を取っている。しかも在日朝鮮人の中にも、韓国で育ってから日本に来た人、小さいころに韓国で生まれたが小さいうちに日本に来たから韓国語がわからない人、日本で生まれ育った人、と在日韓国人の中でグラデーションを見せている。そして差別を真っ向から描いている。だから政治思想の対立に陥らない。

その上で一家の長が、生きて行かなくてはいけないと過去を忘れないながらも前を向くことも忘れない。それがあるからこそあの家族の今後を考えざるを得ないラスト、とラストのラストのリヤカーの場面の輝きがいっそう増す。

4演目だけあって作品の理解も演出も隅々まで行届いていた。日韓合同の役者陣も全員100点以上。名前を全員は挙げないけれど、出鼻から怒鳴り散らして振り切っていた村川絵梨、一家の長のイ・ヨンソク、その妻のコ・スヒの3人を挙げておく。千葉哲也が出ていて目立たないというのもなかなかない事で、各自ソロパートもありつつレベルの高いオーケストラのような仕上がり。ゼロ幕や休憩時間も飽きさせない音楽演奏。そして島次郎のものを継続利用だという美術が奥行きを感じさせて見事。

各種演劇賞受賞も、今回で4演目になるのも、観ればわかる納得の完成度だった。

2025年9月28日 (日)

ネルケ×悪童会議プロジェクト「絢爛とか爛漫とか(絢爛チーム)」新宿シアタートップス

<2025年9月27日(土)夜>

大正時代。小説家と批評家の若者4人。処女作の評判がよかったものの第2作が書けなくて悩む男をよそに、他の3人は執筆も恋愛も楽しんでいる。月日が経つごとに事情が移り変わる春夏秋冬1年の様子を描く。

2チームあるうちの絢爛チームで、絢爛チームはこの日が千秋楽。甘いところは多々あれど熱気で押切る仕上がり。客席の女性比率の高さにアウェイ感を覚えずにはいられませんでしたが、その分だけ前に観たときよりも客席環境はよかったです。おかげで話がはっきりわかりました。きっちり2時間に収まった芝居を楽しみました。

これ、小説家として描いていますが、演劇に置きかえても成立する話ですよね。ひょっとして演劇を続ける人と辞める人の話、当時の脚本家の身近な話を書いたのではないでしょうか。Wikipediaで調べたところによればすでに劇団員全員が会社で働いていたのが1986年、この演目の初演が1993年ですから、様々な事情で演劇から離れる人もいたことでしょう。そして他の分野、音楽でも何でも、似たような事情はあるでしょう。今回の公式サイトでは青春群像劇の金字塔なんて謳い文句ですが、その通りで、青春の終わりの熱気が詰込まれた脚本です。だから繰返し上演される演目になったのでしょう。

役者寸評は、耽美小説家の加藤常吉役の川﨑優作が通して観ていられる出来、結末のない小説を書いてしまう諸岡一馬役の岐洲匠もなかなか、批評家の泉謙一郎役の嶋崎裕道は違うタイプの芝居でもう一度確かめたい、次が書けない小説家の古賀大介役の滝澤諒はもう一段の頑張りを望むも最後の長台詞はいい感じで最後に足が滑ってすっころんだのはご愛嬌。2公演観るのは無理でしたが、爛漫チームも観てみたかったですね。

2025年5月25日 (日)

悪童会議「見よ、飛行機の高く飛べるを」こくみん共済coopホール/スペース・ゼロ

<2025年5月24日(土)昼>

明治44年の名古屋の女子師範学校。新しい時代にふさわしい女性像を探しながら学年中でも浮いてしまう2年生の杉坂は、学業運動なんでも随一の4年生の光島と、ある夜の目撃を通して意気投合する。教師から借受けた自然主義の小説や与謝野晶子発刊の雑誌に感銘を受け、他の生徒とも協力して宿舎内で回覧する雑誌の編集を目指す中、そのうちの一人が「問題」を起こしたところを目撃されてしまう。

やはり名作でした。「女子もまた、飛ばなくっちゃならんのです」の台詞が代表かと思いますが、それを補強する台詞も、否定する台詞も、あちこちに散りばめられていて、実によくできている脚本です。

終盤の裏で行なわれている運動会で、芝居の山場の裏の競技には綱引きを持ってきていることに今回気が付きました。脚本がさすがです。そして、光島の普段着を赤にしておいて、新庄が白組で白い衣装なところは、舞台作りが上手ですよね。スタッフワークに手抜きなしで、劇団名に相反して、この場面に限らず脚本を丁寧に立ち上げていました。

それは役者選びにも表れていて、年上組は腕のあるところで固めていました。菅沼くら役が千葉雅子、安達貞子役が砂田桃子、板谷わと役がザンヨウコ、青田作治役が新原武、板谷順吉役が柳下大、中村英助役が唐橋充、校長役が俵木藤汰です。全員いい感じですが、板谷順吉を演じて固い台詞もしっかりこなして見せた柳下大が発見でした。女生徒組もなかなかでしたが、ここは出だしは普通だったものの途中から思いっきり杉坂を演じてみせた今村美歩を挙げておきます。他もなかなかでした。

さすがに会場が広すぎて土曜の昼公演と言えども満席にはなりませんでしたが、それでも客を散らせずにきっちり前方に寄せて収めて客席密度を保った制作陣と、テンションを保って演じてみせた役者陣には拍手を送りたいと思います。

<2025年6月1日(日)追記>

少しだけ文章を調整。

2025年4月20日 (日)

ラッパ屋公演「はなしづか」紀伊國屋ホール

<2025年4月19日(土)夜>

昭和10年代もようやく後半にさしかかるころ、まだまだ長屋住まいの落語家が3人、金がないなりに稽古に身を入れながら暮らしている。そんなある日、落語家協会の幹部の発表を知った浅草の寄席の席亭が長屋に駆込んでくる。政府に睨まれる前に時勢に協力するとして、郭話や心中ものなどの落語を禁演にするという。憤る3人と席亭だが、軍需で儲かって寄席を支えている旦那が結構なことだと口にするのには言い返せない。3人それぞれに落語家の道を模索するが、戦争の時勢はだんだんと日本に不利になっていく。

落語家2人に落語もわかる役者1人を中心に据えての公演。今時2時間を切って終わるのは好感度が高いし、物語は王道の展開でよくできているし、役者は上手。ただしそれに対して役者の数が多すぎた感がある。当時の雰囲気を伝えるためにもある程度は仕方ないけれど、単発の線で終わってもったいない役どころがちらほらあり。主役3人は柳谷喬太郎はあの役でいいとして春風亭昇太とラサール石井はなんだかいつも通りすぎいかにもすぎな役だったので入替えてみてもよかったかも。

2025年2月24日 (月)

新国立劇場オペラ研修所「フィガロの結婚」新国立劇場中劇場

<2025年2月23日(日)昼>

とある伯爵家で使用人のフィガロとスザンナが結婚式を挙げる当日。スザンナに懸想する伯爵は愛人になるように迫り、フィガロとの結婚を信じて金を貸してきた女中頭のマルチェッリーナにその恋人の医師バルトロはフィガロの結婚を邪魔しようと画策する。フィガロもスザンナも何とか両者の企みを跳ね返そうとするのだが、それを知らない伯爵夫人は伯爵の愛が離れていくのを心配し、スザンナに頼んで伯爵を逢瀬に誘って自分が身代わりになって伯爵を懲らしめる計画を立てる。それだけでもややこしいのに、近ごろ恋に目覚めた伯爵の小姓ケルビーノは伯爵夫人は素敵だとスザンナに訴える。小姓と言えども男性なのに伯爵夫人と二人っきりのところを見られては嫉妬深い伯爵の怒りが予想されるのでスザンナも伯爵夫人も追返そうとする。フィガロの結婚の日なのに、とにかくややこしい1日。

おー聞いたことある、というオープニング曲から始まりはしたものの、とにかくややこしい話。ややこしさの全貌がようやく見えてきた後半は登場人物全員、間が悪い空気読めと引っぱたきたくなるけれど、それは置いておいて、やっぱり耳馴染みのいい曲が多くて、モーツァルトの名作と言われている理由はわかりました。「セビリアの理髪師」の続編だということも初めて知りました。

全編イタリア語の字幕というあたりに一抹の不安を感じましたが、ろくに粗筋も知らないで臨んだ身としては、むしろ粗筋を字幕で追って耳では原語を楽しめたので初フィガロには今回の仕組みの方がよかったと観終わった今は思います。だけど字幕を観ないで原語で聴いているっぽい笑いも少数ながら起きていて、芝居とは客層が違うなと思わされました。

ダブルキャストなので本日初日にして最後だったため、出だしこそ歌手が(オーケストラも)やや緊張していた気配がありましたが、前半の後半あたりから温まって来て、終わるころには絶好調でした。だから頭から通しで出ていた歌手は調子を測るのが難しいですけど、それでも歌がいいなあと感じたのは伯爵夫人の吉田珠代が一番、ケルビーノの大城みなみは歌だけでなく茶目っ気を出した演技も含めて二番、伯爵の中尾奎五は一人演技の場面で声量が落ちたのが惜しいですけど大勢と合せるときはそんなことなくて威厳があるときの伯爵らしさもよく出ていて三番、でしょうか。とはいえ、そこから先は明確に劣る人は誰もいません。しいて言えばオペラ歌手の圧倒的な声量というのも聴いてみたかったですが、声量が中劇場サイズにチューニングされていたのはしょうがないとして、声が前に飛ばず奥に向かう歌手が何人かいたようではありました。素人的には前にパーンと張って出てくる方が好ましいです。

カーテンコール含めて3時間45分の長丁場でしたが、有名演目を観られて聴けて、全体に満足の行く出来で、楽しめました。他の有名オペラもこれで観たいと思わされました。オペラハウスもいいんですが、やはり大きすぎる。

後は芝居と関係ありませんが、当日パンフを読んで知ったのは、オペラストゥディオ(オペラ研修所)の場合は全員音大を出てからさらに入っているのですね。そこは日本語の世界である芝居と、西洋言語で世界をマーケットに見据えないといけないオペラ(クラシック)の世界とでキャリアパスが全く違うのだなと勉強になりました。

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