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2024年8月13日 (火)

KOKAMI@network「朝日のような夕日をつれて2024」紀伊国屋ホール

<2024年8月12日(月)夜>

とあるおもちゃ会社。他社の真似で出した商品が当たらずに倒産寸前。何とかヒット作を出すべく色々な遊びを試しているうちにいつの間にかゴドーがやって来るのを待つようになる。ゴドーは来ないと言われたが、そこで考え付いたゲームを販売してみる。そのゲームとは・・・。

第三舞台の旗揚げ作品ですが、初見です。上演されるたびに改稿されているらしく、近年のネタを取込んでの仕上がり。開演しばらくはやっちまったかもと思いましたが、そのまま見ているうちに楽しめてきて、観終わったら割と楽しめました。

唐十郎や野田秀樹の芝居の系統、もっと雑な括りでは80年代小劇場芝居ですよね、あっちこっちの世界を行き来してひたすらネタと訳のわからない台詞を大量に浴びているうちにそれっぽいラストに連れて行かれて、結局全てはその数行か数十行の台詞に集約させるためのどたばただったという作りは。序盤が終わった後はダンス以外に黙っている瞬間がないというくらいの台詞の洪水で、ああこれは考えるより先にまずどっぷり浸かるのが先の芝居だと気が付いてからは乗れました。野田秀樹ですら近年はもっとかっちりした芝居が多いし、そもそも80年代演劇は名残を観たくらいだから、この手の芝居の楽しみ方を完全に忘れていました。久しぶりすぎてこの手の芝居の粗筋をまとめることすら下手になっている。

そういう芝居なので、観終わった感想のひとつが「よくここまで芝居に似合う役者を揃えたな」です。身体を鍛えて動けて、膨大な台詞を噛むことなしに明瞭に話せて、小劇場のノリをこなせて、圧倒的なテンションを2時間維持し続けられる役者ばかりを5人揃えていました。誰がいいとはいいません。観たのは2日目ですが、5人全員ばっちり仕上がっていました。

それと脚本が、古いようで古くなりきらない。改稿したって古い芝居は古くなる。構成に関わるネタに「ゴドーを待ちながら」があるから当然のように思えますけど、そちらはおまけで、むしろ古くなりかけている。大本のメッセージが真っ直ぐだから、上演に耐えるのでしょう。そのメッセージ自体が今時の時代精神からすると傍流のような気もしますが、それでもありかなしかで言えばありです。

ただし、ならば脚本が古びていないかというと、古びているかどうかよりも、出てくるネタやメッセージに、年代の齟齬がある。当日のごあいさつによれば、鴻上尚史が22歳のときに出し惜しみせずにネタをぶち込んだと書いていました。おそらくこの芝居の初演時、ネタもメッセージも鴻上尚史の22歳の感性で統一されていたでしょう。それを上演にあたって改稿する際に、ネタの部分が時代だけでなく年齢を重ねた鴻上尚史の感性に引っ張られて、完全に若い感性で統一というわけにはいかなくなった。そこを統一してみせたのは演出というよりは役者の肉体でした。

元ネタがわかると楽しめる場面と、わからなくても楽しめる場面があって、個人的にはこの日一番湧いていたと思われる2.5次元の場面を推します。ただし、ネタとして取上げるにあたってはあれで攻めたつもりになられては困る。どれだけ面白くてもおふざけの範疇です。あとは、こういう芝居なら今朝のネタをそのままアドリブで出すような鮮度の高い場面があってもよかったかと思いましたが、その手の役者の仕掛け合戦はありませんでした。

スタッフワークだと、おそらく学生時代のテント舞台を模した舞台美術と、音響はよかったです。ただ、照明はもっと大量に機材を投入してほしいなと思う場面もありました。こちらは劇団☆新感線のほうが発達しましたね。それと映像はスクリーンを使ったのが場面によっては損で、後ろの幕を目いっぱい使う形にすればよかったのに、ちんまりした印象を受けました。ちんまりした印象がはまる場面もありましたが、後で脇のトラスも気にせずに線を出すのを見せられるとなおさらです。こちらはKERAがプロジェクションマッピングを毎回上手に使っていますね。照明と映像、このあたりは負けずに追いついてほしいところです。

だから楽しめる場面の合間に、ちょっと微妙に感じる場面が混じって、でも全体では楽しめた2時間5分、という感想です。ただし私の感想はおそらく少数派で、この日の来場者は圧倒的に楽しんでいた。その証拠にカーテンコールの拍手がすごかった。過去の芝居を振返ってもあんなに熱い拍手を聞いたのは数えるほどでした。劇場を出てから客席の年齢層をもっと注意して見ておけばよかったと気が付きましたが、若い人多目だったか、元若い人多目だったか、どちらだったろう。

2024年7月 8日 (月)

新国立劇場主催「デカローグ9・10」新国立劇場小劇場

<2024年7月7日(日)昼>

有能な心臓外科医の夫は友人の医者の診断を受けて不能になったと告げられる。子供のいない夫婦でもあり、まだ若い妻には別れようと切り出すが、妻は夫を励ます。だが妻はもっと若い学生と浮気をしていた(デカローグ9「ある孤独に関する物語」)。父を亡くした兄弟が、父の暮らしていた部屋を訪れる。必要以上に警備装置が設けられていた部屋にあったのは、切手のコレクション。処分しようと父の友人を呼んだら、その道では国一番と知られた高額なコレクションだと告げられる。その前に息子に渡していた切手を取返そうとするが、すでに他人の手に渡ったところだった(デカローグ10「ある希望に関する物語」)。

デカローグ9は疑いと事実とすれ違いが重なりあう、芝居らしい展開。どこからどうみても妻が悪いはずの設定を、夫の不能という男性にとっては致命的な設定ひとつで夫側の力関係をへこませるのが実によくできた1本。クローゼットで泣く場面のあのいたたまれなさ、からの後半のもう一転は手に汗握るところですが、そうなるんだというラストが、デカローグのテーマなのかなと。後述します。

出だしがやや硬かった夫役の伊達暁と妻役の万里紗でしたが、途中からギアが入って観入りました。図々しい浮気相手の宮崎秋人はもっと図々しくてもよかったかも。スタッフワークはおおむね問題ありませんでしたけど、Ⅸの文字映像は舞台美術の枠にきっちり収めてほしかった。美術のセンターがずれていることが連絡されていなかったのか。センターブロックで観たので目立ちました。

デカローグ10も切手を巡って兄弟の関係がどんどん変わっていく芝居らしい展開。締めの1本らしい展開に、兄弟の役作りの明るさもあって割とさっぱり終わりました。こちらは落着くところに落着いたラストで、デカローグ9の反対みたいな話です。

兄役の石母田史朗と弟役の竪山隼太だけでなく、怪しい役の人たちも含めて、全員割と楽しんで演じていたように思えた1本でした。

で、プログラムAプログラムBプログラムCプログラムD、そしてこのプログラムEと、10本全部観た感想です。

一応無理やり考えたこととしては、人は大いに間違えるというのがテーマだったのかなと。それが丸く収まることもあれば、自分にも相手にも致命傷になることもある。何なら本当に命を奪うこともあって、残された人はそれを抱えて生き続けることになる。間違いがどう転ぶかは本当に紙一重で、そこには人知を超えた何かが働いているとしか言い様のないことがある。10本の芝居はそれを描いていたのかなと。

その目で眺めると、ハッピーエンドかバッドエンドかはともかく、10本中8本は一応の結論が出ました。が、デカローグ7と9の2本は、このあとでこの人たちは新しい関係を構築していかないといけないのだな、紙一重はハッピーエンドかバッドエンドかの2択を許さないのだなと重い感想を投げかける話でした。

そこから推測して、人生が本当に紙一重なればこそ、自分はできる限り善く生きるべきで、相手の過ちはできる限り許すべきで、そのような寛容こそが世の中には求められていると訴えていたのだ、と考えました。

ならばよく出来た企画でした、となるかというと、なりません。役者はほぼ全公演で熱演でした。このプログラムEは、単発で観ても面白いかもしれません。ただ、プログラムA、B、Cの印象が悪すぎたのがひとつ。10本観てテーマを浮かび上がらせるような趣向なら1日での一挙上演まで含めて工夫するべきだったという考えが変わっていないのがもうひとつです。演出しきれないならもう一人演出家を呼んできてもよかった。

プログラムAの感想に書いた通り、私のここまでの不満はすべて企画の段階で撒かれた種のように思えます。手のひらを返す準備はしていましたが、私は返すには至りませんでした。もったいない企画だったなというのが観終わっての感想です。

2024年7月 6日 (土)

新国立劇場主催「デカローグ7・8」新国立劇場小劇場

<2024年7月5日(金)夜>

高校生のときに教師の子供を産んだ女性。生まれた子供は自分の母親の娘として届けが出されて自分の妹として暮らしているが、子供を子供として名乗れない生活に我慢の限界が来た女性は娘を誘拐してその父親の元に隠れる(デカローグ7「ある告白に関する物語」)。大学で倫理学を教える女性教授は著作を何冊も出してもいる。その翻訳をしてくれている女性翻訳者がアメリカから訪ねてきて、ゼミの倫理討論を見学する。そこで話を聞いていた女性翻訳者も、倫理の議論としてひとつの題を出す。第二次世界大戦下で、ユダヤ人の少女がホロコーストから身を守るためにカトリックの洗礼が必要となったが、事前に請負ってくれていた立会人の女性が土壇場で拒否したのは倫理の観点からどうかというのだ。実は女性翻訳者がその少女、拒否した女性は女性教授だった(デカローグ8「ある過去に関する物語」)。

デカローグ7は子供を産んだ女性と娘の話かと思わせつつ、女性とその母親との確執に加えて、それぞれの相手との関係を描いた話で、牧師と教師の子はグレるという言葉を思い出しました。役者はなかなかの出来でしたが、主要登場人物全員に観ていて癇に障るところや煮え切らないところがあって、さらわれた妹実は娘の態度も掴みかねて、よくできてはいるものの観終わってから不完全燃焼が残りました。

デカローグ8は女性教授と女性翻訳家が相手と過去に向合う話。女性教授の高田聖子も、女性翻訳家の岡本玲も、抑え気味に進めていたのが好印象です。上演上は、昔のアパートを訪ねてさまよう場面が初め何の場面なのかわかりにくかったのが惜しいところ。企画上は、岡本玲の見た目が物語から推測される年齢よりかなり若く見えてしまうところと、ホロコーストとユダヤ人の話が昨今は昔ほど素直に観られなくなっているのが時期を外してしまったところ、その2点が惜しいです。住職の娘の高田聖子に教会にいかないという台詞を言わせたところに内心受けたのは駄目な小劇場ファンです。天使役の亀田佳明が初めて口をきいたところも含めて、こちらが最終プログラムになった人向けにも終わった感を味わってほしかったのだろうなという演出でした。

今回は過去6作よりも映画的な無駄が少ない2作だったというのが、観終わった直後の感想です。

2024年6月15日 (土)

フライングシアター自由劇場「あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た」新宿村LIVE

<2024年6月7日(金)昼>

王が滅ぼした国の女王との結婚を数日後に控えたある日、家来が王に訴える。息子の婚約者がである女性が、息子の友人と心を寄せ合っているのだという。女性は友人の女性に別れを告げて森に駆落ちするが、これが息子に告口して二人で森に向かう。その夜の森では職人一同が王の結婚式で上演するために稽古に励んでいた。だが森の中では妖精の王と女王が喧嘩中であり、これを何とかするために妖精王はいたずら好きの妖精パックに命じて目を覚まして初めて見た者を好きになる媚薬を女王に塗るように渡す。妖精パックがあちらこちらで媚薬を塗ってしまい・・・。

えーと、すいません、日にちを置いて感想を書こうとしたらチラシがどこかに紛れてしまいました。が、Wikipediaを見たところ家来の「娘」が婚約者の「男性」がいるにも関わらず別の「男性」と恋仲になり、という筋ですね。なんか間違いながら観ていたようです。大勢に影響はありませんが、そのくらいの集中力だったということで、あらかじめ断っておきます。

元は「真夏の世の夢」ですが、人間の王と家来に関わる話、妖精の話、稽古する職人の話、役者がそれぞれで1役ずつ持った上で、さらに役者としての独白を持たせるように構成された芝居です。全員白い衣装で、舞台は白い幕に、木とか城とかの形に切り出した白いパネルを役者が動かします。だからしつらえだけなら学芸会と言っても当たらずとも遠からずです。

そのくらいぎりぎりまで削った舞台美術にも関わらず、やっぱり観るに値する出来に仕上がっています。ひと言でいえば役者が達者。王様から壁(笑)までこなす島地保武と、軽く明るい声がアクセントの谷山知宏のコンビがいい味出しています。この2人に、割とフラットに演じた大空ゆうひの3人が身体に存在感がある。四角関係の婚約騒動組も頑張ります。

なのですが、役者だけではない。やっぱりこれは演出の串田和美の意思が色濃く貫かれているから観られる芝居になっているんですよね。終盤に暗転して「壁を壊せ」という声と工事機器で壁を壊す音を挟んでくる。この壁が、劇中の王と職人と妖精であったり、それを演じ分けないといけない役者であったり、あるいは芝居の世界と役者自身の独白による現実の世界との壁でもあり、しっかり作り込んだ商業演劇とそこまでやらなくたって芝居は芝居というミニマムな演劇との壁でもあり、宝塚からダンサーまで多岐にわたる出自の役者の混成チームのことでもあり、いろいろ捉えられます。とにかく役者になんでも分け隔てなく演じさせることで、そういう壁を取っ払って見せたところに意味があるのかな、と受取りました。もちろん、客に向けても壁を取っ払ってみろよと訴えるところもあるのでしょう。

それは今の時代となってはやや純朴に過ぎるメッセージではないかと思わないでもないのですが、それにも関わらず一定の説得力を持って成立っているんですよね。挙げたようないろいろな壁を取っ払った芝居を実際に創ってみせたというだけでなく、様々な立場から長年芝居を創り続けてきた、松尾スズキに「真面目に不真面目をしている」と言わしめた串田和美の矜持みたいなものが支えになっているのでしょうか。「K.テンペスト2019」もそうでしたけど、いろいろなアレンジを施すことがあっても芝居の核は外さない自信があるのかもしれません。

その串田和美の役者ぶりですが、やや声は小さくかすれているものの以前とさほど変わりません。それより独白の場面とは一転、パックを演じているときのあのじゃれるような、思い出しながらやっているような、ふざけた様子はまさにいたずら好き妖精ですね。

2024年5月27日 (月)

劇団青年座「ケエツブロウよ」紀伊国屋ホール(若干ネタバレあり)

<2024年5月26日(日)昼>

婦人解放運動の先駆け、無政府主義者、奔放な恋愛で全国に名をとどろかせた伊藤野枝。女学校を卒業して初めの夫と結婚したものの、数日で家を飛び出して英語教師の家に身を寄せたが、そのままでは済まないため福岡県は今宿村にある生家に親から呼寄せられた。その実家に里帰りした伊藤野枝と、振回される周りの親族たちを描く四幕。

マキノノゾミ脚本で宮田慶子演出なら鉄板だろうと考えて観に行きましたけど、期待通りの面白さで存分に楽しみました。大半が九州弁ですけど、だいたい雰囲気でわかりますから心配無用です。

伊藤野枝というと芝居では「美しきものの伝説」や「走りながら眠れ」で観ていましたけど、それらとはがらりと変わったのは実家を舞台にしたから。猪突猛進(劇中では「有言実行」)な柄でありながら、家族だって言い分はあるから遠慮なくその我儘を責めてくる。そこに東京が舞台では出来なかったような対等な言い合いが生まれます。

今回は那須凜が騒ぎの真ん中で存在感を示して、いつの間にかタイトルロールを張れる女優になっていたのに驚きましたけど、周りの鉄板ベテラン勢がまだまだとばかりに貫禄で迫ってくるのがたまりません。回りくどい思わせぶりなど一切抜きで大喧嘩する一幕で魅せた祖母役の土屋美穂子のあの説教ぶりは痺れます。舞台の真ん中に陣取って決して怒鳴らず周りを抑える叔父役の横堀悦夫の存在感、ちょっとだけ強さを見せる母親役の松熊つる松、父親役の綱島郷太郎と世話役の小豆畑雅一のすっとぼけぶりとか、いいですよね。

あとは新劇の流れを汲む劇団として、着物が全員板に付いているのがいいです。それを最後に(身内では)大杉栄と二人だけ洋服にしたところは「人形の家」を思い出しました。あれも新しい時代の女性を描いた芝居です。そしてこの芝居では伊藤野枝の我儘を我儘として描きながら、「我儘を通して、周りにいっぱい迷惑をかけて、でも姉はそれでよかったんです(大意)」と言える線を狙ってその通りに仕上がっていました。そこがこれまでの伊藤野枝の描き方と異なって、さすがマキノノゾミ、さすが宮田慶子の仕上がりでした。

だから安心して観ていたら、最後にあの曲はちょっと合っていないかな。直接描かないだけで史実ではそんな幸せな最後じゃなかったぞと言いたいのはわかりますが、この芝居ならもう少しからっと賑やかに締めてもよかったと思います。でもそれくらいですね。後ろの席は空いていたみたいなので、行けば観られると思います。何かこの期間に適当な一本を探している人はぜひ。

2024年5月26日 (日)

新国立劇場主催「デカローグ5・6」新国立劇場小劇場(ネタバレあり)

<2024年5月25日(土)昼>

タクシーの運転手を殺して金を奪った青年。弁護人は研修の間に死刑の廃止を願うようになってから雇われた新人弁護士だった「デカローグ5」。友人の母の家に寄宿して郵便局で働く青年は、毎晩向かいの部屋に暮らす女性を覗くのが趣味だったが、それが高じてやりすぎてしまい「デカローグ6」。

デカローグ5は投げっぱなしの印象。一応、初めと終わりを妄想も駆使してつなげることで、青年がどうしてタクシー運転手を殺そうと思うようになったのかは想像が付きますけれど、だからといって青年に同情が湧きません。

これはタクシー運転手を演じた寺十吾が非常に上手に演じたのに理由のひとつがあります。これ、ネット情報だと違いますが、チラシだと「傲慢で好色な中年の運転手」と書かれています。ただ、客を選ぶのはその通りですが、客の方もせかすというか行儀が悪いというか、乗車拒否したくなる理由があって、そこに殺されてもしょうがないなという理由は見えませんでした。むしろよくいるおっさんです。

それに対して、青年役の福崎那由他がただの挙動不審以上の演技が出せなかった。終盤の面会で客を掴んで一理あると思わせないといけないのに成功していません。

それと新米弁護士の渋谷謙人も、死刑廃止を願う台詞がいかにも弱い。ここは面接官の斉藤直樹や裁判長の名越志保も相手役として助けていたのですが、乗りきれなかった。最後の死刑の瞬間に皆が顔をそむける演出があったから、別に死刑廃止を願う意見に距離を置いた演出を目指したとも思えないのですが。

結局、タクシー運転手が一番まともそうな客を選んだら一番まともじゃない客に当たって殺されてしまう不運に当たった、犯人を捕まえてみたらこれまでの人生に不運はあったにしてもいきずりのタクシー運転手を殺してもしょうがないとはとても言えない動機だった、それを弁護した弁護士は若いなりの理想は持っていたかもしれないけれどいきずりの強盗殺人を弁護できるだけの理屈は持合わせていなかった、という仕上がりです。十戒の「殺してはならない」を犯した人間を死刑で殺すのは是か非か、みたいなところを狙いたかったのかもしれませんが、あるいは人が人を殺すようになるまでには1つの失敗からどんどん取返しのつかないところに転がっていってしまうのだと示したかったのかもしれませんが、役者が追いついておらず投げっぱなしで終わってしまいました。

デカローグ6は団地の向こうの部屋を覗くという、ようやく団地らしい美術の必然が出てきた1本。そこから転がって転がって転がる展開は芝居らしい進みです。

ただ、設定にいかにも古さを感じてしまったのがつらい。現代日本はストーカーに刺すか刺されるかの時代なので、覗いた相手に覗かれた側が興味を持つという展開にはできません。そのあたりが、もちろん芝居だから作り話なのですが、ファンタジーに思えてしまったのがつらいです。そのファンタジー感を、天使役の亀田佳明が真っ白い服装でさらに進めることになっていました(あとでひっくり返りますけど)。

それでも、大勢を相手にすることに疲れて変わった青年に興味を持つ女性に、自分の子供が家に寄りつかなくてその友人が暮らすことで安堵を覚える婦人が、独り暮らしはつらいと話すあたりは今様というか、普遍的です。だからやりようによってはもっと上手くできた。

それがいまいちになったのは、一に脚本。もう少し登場人物の情報整理をすっきりさせてほしかった。覗かれる女性が画家であるとは代理人が出てきて早めにわかるけれど、絵を描く、つまり働いている感じは皆無。青年の仕事ぶりと比べて情報量が落ちすぎです。青年も、友人の母の家に寄宿する青年という関係がわかるのは少し後になってからだし、外国語の勉強に熱心な青年という情報もかなり後に唐突に出てくる。

その不十分な脚本を元に役作りするのが、青年役の田中亨も、覗かれる画家役の仙名彩世も追いついていなかった。不十分なりに何とか持ってきてくれとも思いますが、あの脚本でさてどうするかと聞かれると迷うところです。小劇場出身役者ならもっと何とかしたかもしれませんが、他の4人がチョイ役含めていい出来だったのがまた、もったいないというかなんというか。

この5と6は、脚本の不親切さを演出と役者でどうにもしきれなかった、という感想です。映像だともう少し情報が多かったのかもしれませんが、舞台にするならもう少し工夫してほしいです。

2024年5月 2日 (木)

新国立劇場主催「デカローグ2・4」新国立劇場小劇場

<2024年4月22日(月)昼>

夫が瀕死の病に倒れて入院している妻は、同じ団地に住む主治医を訪ねて夫の余命を知りたいと詰寄るが、主治医は医者として教えられないと断る。何としても知りたいと詰寄る妻は、不倫相手の子供を宿している、自分の歳ではこれが最後の出産の機会だが夫が治るなら堕ろさなくてはいけない、だから教えてほしいと詰寄る(デカローグ2「ある選択に関する物語」)。父は出張の多い働き盛り、娘は演劇学校の学生の父娘二人。出張前に請求書の支払を忘れていた父は娘に支払を頼むが、請求書と同じ引出しには自分の死後に開封するようにと書かれた封筒が入っていた。この封筒を自分の鞄に入れて持ち歩いていた娘は中身を読もうかどうか迷う(デカローグ4「ある父と娘に関する物語」)。

大きな感想は「デカローグ1・3」に書いたので手短に。

デカローグ2。産むか堕ろすか迷う役の前田亜季、伝えてはいけないのだが家族の過去という葛藤を抱えて迷う医者役の益岡徹。どちらもいいのですが、不倫相手役の近藤隼の微妙な軽さが残りました。ここだけ種類の違うリアリティを追おうとしたというか。

デカローグ4。父親役の近藤芳正と娘役の夏子の熱演が見ものの1本です。真面目な近藤芳正もいいものです。途中に出てくる演劇学校の場面で先生役の近藤隼がなんか笑わせてくれるというか、目を引きます。

新国立劇場主催「デカローグ1・3」新国立劇場小劇場

<2024年4月21日(日)昼>

大学の教授は別に仕事を持っている妻が長期赴任中のため息子と二人暮らしをしており、姉の助けを借りながら子育てをしている。世の中の大抵のことは計算できると早くにコンピューターを学んでいた教授は息子にも手ほどきをしており、息子も覚えが早い。そんな教授に信心深い姉は、新しく建つ近所の教会に息子を連れていくのはどうだと勧めるが、教授はあまり乗り気ではない(デカローグ1「ある運命に関する物語」)。クリスマスイブの晩、妻と子供にプレゼントを持って帰った男だが、女性が家を訪ねてくる。相手はかつての不倫相手で、夫が失踪したから一緒に探してほしいと頼む。男は妻を誤魔化して、自分の商売道具であるタクシーに女性を乗せて夜の街を人探しに走り回る(デカローグ3「あるクリスマス・イヴに関する物語」)。

ポーランド作られた、十戒に基づいた10本の連作テレビドラマを舞台化するシリーズ。元のテレビドラマは観たことがありませんが、同じ団地に暮らす人たちという設定になっていて、1本ずつは独立して観られるものの、それぞれの作品の間に薄いつながりがあるようになっているそうです。今回もそれを踏襲しています。

同時上演の「デカローグ2・4」も観たうえでの感想になりますが、役者の熱演は良とするも脚本演出スタッフワークでしくじった仕上がりでした。

まず自分は聖書にも十戒にも馴染みがありません。だからそこにぴんときません。それでも1本1本の芝居はまとまっていて、十戒を知らなくても楽しめます。1本1本それぞれに、ある状況に追込まれた人間が出てきて、その追込まれたところでいかに振舞うかが見所です。そもそも宗派によって細かい違いがあるみたいですが、Wikipediaに載っていたカトリック風の十戒をメモとして写しておきます。少なくともここまで1-4はその通りでした。

1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。

ただ、元が映像の芝居をおそらくほぼ同じ時間(50分から60分)で上演しようとしたのでしょうか。全体に間延びしました。元のテレビドラマはそこを映像で魅せていたのではないかと推察します。今回の舞台でもところどころで映像を使っていました。だけどテレビや映画では映像だけで主役を張って演出として魅せられますけど、舞台の映像はあくまでも芝居を助ける立場だと私は考えます。だから特に、それで時間を持たせようとした3だったり、鳥の飛び立つ映像で娘の先行きの不安を暗示した4などは映像の使い方が間延びに感じられました。

先にスタッフワークを書くと、美術と映像が喧嘩していました。まず美術自体、団地らしさを出すために2階建てにしていましたが、2階建てにしなくても全然いける話ばかりでした。しかも部屋の間取りを思いっきり無視した演出です。あれで通した役者の演技はさすがでしたが、いやもう平場の舞台を場面転換すればいいじゃないかといいたいです。そしてその2階建ての美術の手前に小さいスクリーンを設けるのはいいですが、奥にも映像を映します。これが2階建ての美術に邪魔されて映像の効果を半減させていました。音響照明が頑張っていた分だけ、もったいなかったです。

間延びの話に戻ると、これは脚本(上演台本)にも拠ります。10本の話をこの後も含めて5公演に分けての上演にまとめていますけど、それでも長い。私の感覚では「デカローグ1・3」を一本にまとめて前半、「デカローグ2・4」を一本にまとめて後半、休憩を20分を挟んでも3時間の1公演に押込むくらいでよかったです。

そうなると元のテレビドラマの設定を若干いじるところが出てしまうかもしれなくて、それは著作権の都合で無理かもしれませんし、昨今は原作を無視しすぎて映像化したところが叩かれたりしていますけれど、そこは何とかならなかったか。はっきり言えば10本通して1日上演できるくらいにしてほしかったです。「グリークス」という10本のギリシャ劇によるひとつの物語の前例があって、これはギリシャ悲劇ですから著作権はありませんけど、演出と予算は別にして脚本はそれができるくらいまで圧縮してほしかったです。

それと脚本はもうひとつ。元のテレビドラマでは10本の間に緩いつながりがあって、登場人物であったり話であったり、ちらっと別の話で触れるところが売りなようです。それは特に、登場人物のチラ見で今回は実現しています。ただ、本当にちらっとしか出てきません。同じ団地という、おそらく映像なら誰でもわかる設定があったらその世界への没入感につながったかもしれませんが、今回はいらなかったのではないでしょうか。話を圧縮するとこのあたりの緩いつながりが崩れて、反対にテレビドラマにはなかったつながりが生まれてしまいそうですが、それはそれとして挑戦してほしかった。

その緩いつながりのひとつに、10本全部に出てくる天使の男性があるらしくて、今回は亀田佳明が受持っていますけど、ここまでのところ1人多役以上のものが見えません。そこは脚本か演出でわかりやすくするところでした。

かれこれ考えると、企画の発案者とされている今回の演出家の小川絵梨子も、上演台本を書いた須貝英も、きっと原作のテレビドラマを好き過ぎたんでしょうね。「団地らしさを出すために二階建ての美術は外せない」「この展開にあの映像が挟まるのは再現したい」「あの1本のあの場面でこっちの1本のあの役が出てくるのは実現したい」とか盛上がったのではないかと妄想します。10本を1日で上演するために脚本演出を工夫せよと押付けてくる人がいなかった。私のここまでの不満はすべて企画の段階で撒かれた種のように思えます。妄想ですけど。

これだけ書きましたが、この後の「デカローグ5&6」「デカローグ7&8」「デカローグ9&10」の出来が役者以外にも素晴らしかったら手のひらを返す準備はしています。

で、ここまで吐きだしたので本編の感想は短めです。

デカローグ1。息子役の石井舜が熱演、高橋惠子が安定でしたが、芝居全体で見ればノゾエ征爾の父親役に負うところが大。役者ノゾエ征爾を初めて意識しました。

デカローグ3。小島聖の不倫相手役と、人探しに付合って熱心でマメな男役の千葉哲也、どちらも好演です。特に小島聖の役は、男と女とで見え方の違う役ではないでしょうか。怖いです。この1本には、クリスマスイブでご機嫌な警官と不機嫌な警官が出て来ますけど、なんか浮いているというか、都合で出したように見えるのが惜しいです。もう少し方々にクリスマスイブらしさを出す演出を足してもよかったのではないでしょうか。

2023年11月19日 (日)

阿佐ヶ谷スパイダース「ジャイアンツ」新宿シアタートップス

<2023年11月18日(土)昼>

息子の暮らしていた街を歩く男は長年会っていなかった息子と道端で会って自宅に招かれる。息子の妻に迎えられ、孫は友達の家に出かけていた。次の日はお返しに手土産でも持って行って、と思ったら邪魔くさい男女が付いてくる。目玉探偵とその秘書と名乗る二人を振切れずに息子の家を訪ねたが別人が住んでいた。隣の家で訪ねたらずっと昔に引っ越したという。ならば昨日会った息子夫婦はなんだったのかと混乱する男に、宙に浮かぶ目玉を指した目玉探偵が、これは「けいとう」なのだという。

久しぶりの阿佐ヶ谷スパイダースは父が息子を追いかける物語。けいとうは傾倒で合っているかな。違いそうな気がするけど。それはそれとして地味だけど悪くないけど地味です。ばーん、わー、きゃーとかそういう話ではない。これっぽっちもない。だけど悪くないのが困る。

今っぽいところで言えば終盤の息子の台詞。シチュエーションは違えどコスパタイパが流行る先を見せてくれた。ただし男がそこで止まっているところが20世紀の芝居です。普遍的といえば普遍的、古いといえば古い。

役者ですけど、男を演じた中山祐一朗が、こんな地味な役を熱演できたんだという好演でした。他にも村岡希美とか中村まこととか富岡晃一郎とか伊達暁とか長塚圭史本人とか、目につくのは一昔前の小劇場でのしていた人たちです。役を作り上げようふくらませようとしていますよね。他の人は脚本から役を掘り起こそう的確に演じようとしていますが、いまいち物足りません。そもそも脚本にそこまで書かれていませんから当然です。そこは劇団付合いの中で新作をがんがん作ってきて脚本に足りないところは稽古場で埋めてきた経験の多寡なのかなと思ったり思わなかったり。

スタッフもこの規模の劇場なのに上品かつ必要十分。奈落まで使っての舞台の場面転換はお見事でした。毎日バックステージツアーをやっていたのに気が付かなかった。入場時に早い者勝ちで申込む必要があります。興味のある人は早めに劇場に行きましょう。

そのほかにも開演前に村岡希美が会場内でパンフレットを売っていたり、終演後のあいさつだったり物販だったりと、芝居の出来の割に運営に手作り感が満載でした。劇団として初心忘るるべからず、なんでしょうか。

メタな話だと、セールスマンの死みたいな芝居を演出してきたから長塚圭史もこういう芝居を書きたくなったのかなと勝手に妄想します。「ジャイアンツ」というタイトルとチラシ写真から察するに父の長塚京三との関係を参考に、そうはいっても父にはなかなか届かない、あたりの話なのかな。ただ、いまの日本なら息子とのやり取りすら途中で、そもそも男は結婚できずにそんな息子もいなかったところまで遡るくらいまでやってほしかった。「ジャイアンツ2030」とかどうでしょうか。

2023年11月 2日 (木)

新国立劇場主催「終わりよければすべてよし」新国立劇場中劇場

<2023年10月21日(土)夜>

未亡人である伯爵夫人の一人息子バートラムと、医者の父がなくなり伯爵夫人が引取って侍女としているヘレナ。ヘレナはバートラムに恋しているが、バートラムにはまったくその気がない。バートラムはフランス王に召しだされて王の元に向かうが、王は病が重く医者も匙を投げたところだった。バートラムを追いかけたいヘレナは亡き父の薬で王を治すといい伯爵夫人も後押しをする。無事に王は病が治り、ヘレナはその褒美としてバートラムとの結婚を認めてもらうが、そもそもバートラムはまったくヘレナを愛していなかった。王と母の命令を断れないため、バートラムは策を弄して戦地へ赴くと称して初夜のないまま逃げてしまう。

2本立てのその2(もう1本はこちら)。こちらのほうがもう1本と比べて素直な演出で楽しめるところも多かったですが、そうしたらダークコメディじゃなくてホラーじゃないのかという出来になりました。私の感想ですが。

もともとそういう脚本ですが、もう1本と合せて女性を主人公として応援する、今回だとヘレナを徹底的に応援する演出です。その分だけバートラムと、バートラムの部下のペーローレスが嘘つきな男として描かれます。バートラムは女性に対する嘘つき、ペーローレスは男性に対する嘘つきですがバートラムが策を弄するのにも協力します。

バートラムから見れば、怖いですよね。家で働いていた母の侍女にまったく何も興味がなかったし王の元に向かう前に何か言われたわけでもないのに、母を味方につけて、王の信頼を勝ち取って、王命で無理やり結婚を迫ってくるんですから。しかも戦場の帰りに口説いた女性がいつの間にか入替っているとか。素直にコメディとして上演すればバートラムは遊び人の年貢の納め時になるはずですが、ストレートプレイで上演したらヘレナが有能過ぎるストーカー女性に見えてしまって話が変わります。

バートラムを演じた浦井健治がもっと遊び人で応じるならよかったですが、おそらくわざと、感情をあまり表に出さない演技で応じるものだから、見た目が格好いいだけでろくに話もできなかった男性に執着するヘレナがますます怖く見える。このあたり、演出を好意的に解釈するならもう1本のアンジェラの岡本健一や公爵の木下浩之がやっていたことを女性が男性にやるとこう見えるんですよ、と訴えているのかもしれませんが、怖いものは怖い。芸能界だと思い込みの強いファンに結婚を迫られるようなこともあるのかなとか考えたり考えなかったり。

そういう場面とのバランスを、ペーローレスの亀田佳明の場面で取っていました。こちらは大げさにふざけて、戦場で自分の手柄にほらを吹くだけでなく味方の情報を敵に売るような役ですが、大げさにやってみせました。白状させる場面は全員ノリノリでしたよね。ああいう場面できっちり笑わせるからこそ真面目な場面も真面目に観ようと思うわけで、よかったです。

こちらはやや前方の席で観られたので芝居が小さいと感じることはありませんでした。初登場の場面では誰が演じているのかわからなかった王様の岡本健一もいい味だしていましたし、真面目な役でも安定の那須佐代子でした。やっぱり浦井健治の使い方がもったいないとは思いますが、こちらのほうがまだ納得いきます。

スタッフのコメントはもう1本と同じです。他のスタッフはよくてもやっぱり音響が中途半端でした。

最後に終わりよければすべてよし云々と王様が客席に台詞を言いますが、全然よくないですよねという芝居です。今回は2本とも意地悪な演出のシェイクスピアでした。

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