2019年2月12日 (火)

新国立劇場演劇研修所「るつぼ」@新国立劇場小劇場

<2019年2月10日(日)昼>

1962年、アメリカの片田舎であるセイラム。娘や姪たちが夜の森で踊っているのを牧師が見つけたところ、娘が寝込む。姪がかつての勤め先の主人と不倫していたが振られて解雇されたのを恨んで、近所の少女たちを集めてその妻を呪い殺すための儀式を行なっていたのだが、驚いて寝込んだままの娘のことを魔女だという噂が広がる。姪はそれを隠すために、悪魔に取りつかれたと嘘の告白を行なうが、それを信じた村人たちの誤解を逆手にとって、何でもない村人たちを次々と魔女扱いで告発していく。

ロビーや当日チラシに書かれていたけど、魔女裁判の実話を扱った超重量級の脚本。「面白い脚本を面白く演じるのは難しい」のが舞台だけど、これを鑑賞に耐える水準を超えて脚本に対抗しうるところまで仕上げた力作。

立場も心情もばらばらな登場人物が絡んだりすれ違ったりするのを描くのは、場面ごとの役者の方針を合せつつ、最後まで役の方針も筋を通さないといけないけど、観た感じでは全員成立していた。全員は挙げないけど夫妻、2人の牧師、姪、家政婦などを演じた12期生や、夫妻の友人や副総督を演じたヘルプの修了生など、活躍している役者が多い。1幕最後の嘘の告白をする絶妙のタイミングや、2幕で引いた伏線をきっちり見せる3幕の裁判所の場面など、観ていて惹きつけられる。あと今回の上演は、場面転換時に賛美歌は歌っていたけど、効果音はあってもほとんどBGMはなかった。つまり演技で何とかしないといけないけど、それであそこまで仕上がったのは技量とエネルギーと両方あってのこと。

演出の宮田慶子が当日パンフに、この難しい脚本にするか迷ったけど一度は体験しておいてほしいから選んだと書いていた。でも、この脚本でもこのメンバーならいけるかもと思わせる何かがあったからこそ選んだのだと思う。舞台こそ簡素だけど衣装照明音響などスタッフ面の心配はなかったのも後押ししたかもしれない。そしてその賭けには勝った。長丁場のシリアスな芝居だったけど、タイムリーな要素を数多く含んでいたこともあって楽しめた。

願わくはこの修了生たちがより多くの機会をつかみ取れますように。

<2019年2月19日(火)追記>

感想を清書。

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2018年12月15日 (土)

新国立劇場主催「スカイライト」@新国立劇場小劇場

<2018年12月14日(金)昼>

ロンドンの、治安がよくない地域でアパートに独り暮らしをする女性の元に、かつて一緒に暮らした一家の息子が訪ねてくる。女性が出て行き、母が亡くなってから父の様子がおかしいので会ってほしいと言う。息子が帰ったあと、父である男性が訪ねてくる。女性は実家を出て男性が経営するレストランで勤務し、その一家に見込まれて一緒に住んでいたが、男性と不倫関係にあり、関係が妻に知られてから姿を消していた。話は近況の報告からお互いの価値観、そして過去の出来事と様々に進む。

小川絵梨子の芸術監督就任後初演出。ほぼ出ずっぱりの蒼井優と浅野雅博が、とにかくしゃべる。その会話の内容がいかにもイギリス芝居っぽい。相手をしゃべらせて、非難して、その言葉から相手を非難し返して、仲直りして、またしゃべらせて、がなんども続く。同じ出来事に対してこれだけ違う見方を提示しながら会話を続けるのは立派。1995年初演らしいけど、それにしたって浅野雅博演じる男性は余計なことを言い過ぎで、あれでよくひっぱたかれないなという脚本。ラスト15分ごろ、タクシーを呼ぶところからの蒼井優が突然いい感じになって、この人は高い声を普段無理して出しすぎで、もっと低い声のほうが楽に発声できるのではないか。

劇場の中央横に舞台を置いて、舞台を挟む席とギャラリーを囲む席の配置だったけど、役者の顔はやっぱり正面席優遇の感は否めず。今回入って奥側で観たけど、台所から食卓までの導線が正面向くようになっていたけど、それなら椅子や床に座ったときで顔の向きの按配を調整してほしかった。何度も書くけど、囲み舞台をやるなら稽古場の演出家席がわかるようなバランスはやめてほしい。あと入って正面から見て下手側の席だと、上手側と比べて窓が内よりに配置された舞台美術で、あれが役者に重なってストレス。床から上がる玄関を配置したのと、窓から差込む光を照明で作るために位置と距離を稼ぎたかったのが理由だと思うけど、あれでS席として同じチケット代ってことはないだろう。座席の不満が大きくて感想が薄い。

<2018年12月16日(日)追記>

寝て落着いたから思い出したことを若干ネタばれで追記。

表向きは不倫していた2人が過去や互いのよかったこと悪かったことを振返る話だけど、その振返る内容のかなりの部分に貧富の問題が含まれていて、そちらが本筋ではないかと思う。特に、治安のよくない地域からレストラン経営で身を起こして一代で富裕層になった男性と、弁護士の娘に生まれて大学を優秀な成績で卒業したのに治安のよくない地域に住みながら教育に力を注ぐ女性との対比は、役の基本背景として隅々まで行き渡っていてほしかった。それが最後に、あなたはどんなときでも現状では満足できない人、君は自分の身を他人に預けることが出来ない人、のすれ違う台詞で締めくくるような脚本になっていたはず。

この線でいくと、寝室を豪華に作ることが罪滅ぼしになったと考えていた男性と、もう花は見たくないと言った男性の妻とのすれ違いもあって、そこに貧民にも成金にも共通な軽蔑される要素を描くという、いかにもイギリスっぽい、ある意味嫌味な面もあったはず。

そんなことをつらつらと考えると、男性を演じた浅野雅博が紳士すぎた。人に命令しなれて、見下して、成功がさらに自意識を拡大して、でも飽くなき上昇欲を持ち、創業者ならではのエネルギッシュな魅力を放出して、少なくとも料理については唐辛子を先に入れる以外にも豪華な朝食を食べるなど一家言あり、それらが今はぺしゃんこになっているけど認められないという、少なくとも紳士ではない面をもっと見せてほしかった。相手を非難するときも、言葉の割に攻撃感が少ないというか。

もうひとつ違和感があったのは、ワンルームが広すぎたこと。囲み舞台にしたせいで壁を立てられなくて台所やストーブでしかボロさを出せなかったのはわかる。でもその場合にどこで貧しさを感じるかといえば日本人としては広さで、貧しい地域とはいえ1995年でロンドンで手ごろな家賃であの広さが借りられるのか。いや舞台美術なのはわかっているけど、それでも手狭さを出せなかったものか。

あと芝居とはまったく関係ないけど、終演後のカーテンコールで蒼井優のお辞儀に感じた真剣味というか深刻さというか、あれは何だったんだろう。単に少し長くお辞儀しているのがそう見えただけなのかな。

<2018年12月17日(月)追記>

何でろくに知らないイギリスの芝居にこんなコメントが出てきたのかと自分で疑問だったけど、これだ。「イギリスでは労働階級出身だと芸能人になれないらしい」ってエントリーを書いていたんだ。

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2018年10月20日 (土)

新国立劇場主催「誤解」新国立劇場小劇場

<2018年10月20日(土)昼>

ヨーロッパの片田舎で使用人をおいて小さな宿を経営する母娘。父は亡くなり息子は20年前に出奔したきり。いつか海と太陽の町に引越すことを夢見て、裕福な独り客を殺害しては金品を強奪している。そこへ仕事で成功し結婚もした息子が帰ってくるが、母娘は気がつかない。それを見た息子は、名乗り出る言葉が浮かぶまで独り客として泊まりたいと妻を説得し、妻を近隣のホテルに返して自分は偽名で宿に泊まる。疲れたので今回は殺害を見送りたいという母に対して、これを見逃す手はないと説得する娘。

公演も終わったしそこはネタばれしてもいいから書くけど、結局殺害してしまい、その後で息子の身元がわかる。この殺害をはさんで、息子の身元が分かってから、母の絶望と、絶望する母に絶望する娘の圧倒的な台詞が繰広げられる。母を助けるために若い時期を田舎町で過ごして、それが海と太陽の町への憧れを経て、歪んだ動機を生んでしまう娘。娘しか頼る家族がいないばかりに娘を田舎町に縛りつけてしまっているが、その負い目から娘の殺人を手伝うようになってしまった母。どちらが先かわからない入れ子の依存関係から、息子の身元に気がついた瞬間に母は目が覚めるが、そこで突然置いてきぼりにされたことに気がついて母を詰る娘。

展開だけ観たら救いようのない話だけど、母娘の言い分に理解できるところ多数。殺人ほど大げさではないにしても、こういう親子関係を他人事とは思えない家族は現代日本には多いのではないか。あと、民衆と国家と山、という台詞があったけど、初演が1944年で第二次世界大戦中だった痕跡か。その時代の閉塞感も、残念ながら今の日本に近い気がする。

原文なのか翻訳なのか、独特な言い回しの多い脚本だったのも特徴的。これが「台詞に生理が同調するような台詞術の役者だとまだるっこしくていえないような台詞だが、作られたリズムを楽しめる役者だと大丈夫」な台詞の例なんだろう。少なくとも原田美枝子と小島聖は完璧に消化していた。母の原田美枝子の柔らかさと疲れとの混ざり具合も絶妙だったけど、娘の小島聖の、他人への頑なな態度で始まる前半から、母を詰る場面から絶望を語る場面が圧巻。長台詞をものともしないテンションで絶望を台詞で紡いで、代表作といってもいい仕上がり。あれだけ言われたらおもわず納得させられてしまう迫力。あと使用人役は最後に二言しか台詞がないけど、それを演じる小林勝也の存在感が素晴らしい。やっぱり神様とか運命という裏設定だったのか、普段なら無駄遣いと書くところだけど、あの立って見つめているだけで格好になる雰囲気は若い役者には出せないし、おもわぬ軽い動作もいい。息子の水橋研二は、人心を軽く見ること甚だしくて、あれは殺されてもしょうがない(笑)という意味で好演。その妻の深谷美歩だけ、今回台詞が身につかずに苦戦。

スタッフワークは安心の新国立劇場レベルだけど、シンプルな舞台に適度な透過度の大布を駆使して場面を転換した美術と、国籍がヨーロッパにも日本にも見える衣装を取上げておく。一言で言えば成功の部類で、この重たい話を真正面から取上げた演出家の稲葉賀恵の勝利。

<2018年10月22日(月)追記>

速報を清書。

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パラドックス定数「蛇と天秤」シアター風姿花伝

<2018年10月13日(土)昼>

大学病院の医師にして準教授が、若手の医師と一緒に翌日の公開講座の練習を行なっている。そこに製薬会社の営業担当と、制止を振りきって製薬会社の研究員が乗り込んでくる。半年前に8人の若い患者が亡くなり、その製薬会社の看板薬が理由だと決め付けた論文を準教授が発表したが、他の病院ではそのようなことにはなっていないため、何度目かの「話し合い」に来たのだった。ちょうど時間の空いていた医師は応対しようといい、立場が弱いはずの営業員もいつになく食い下がる。

それぞれ手持ちの隠していた情報を少しずつ出すごとに、製薬会社3人医師3人の立場と意見が目まぐるしく入替わるスリリングな展開は、脚本のお手本にしたくなる。名作になりそうなところ、そこでその台詞はないだろうがひとつ、その台詞を流すなよがひとつで、観ているこちらのトーンが下がって佳作に留まる。

前者は「お金は理想と現実の交差点」という、出典があるなら教えてほしい名台詞なのだけど、それを発言した人物はクレバーなので、そのとき開示されていた情報からどれだけ衝撃を受けていたとしても、その後の振舞を見ても、このタイミングでそんな発言しないだろうという違和感。後者は「案外簡単にできるんだよ」という台詞だけど、そんな簡単に出来るわけないだろうという突込みがほしかった。脚本でいえば傷はこの2箇所だけで、前者の台詞が出てくるまではものすごく食いついて観ていたのだけど、こういう緻密な脚本だと傷2つだけでも影響が大きい。

手元の当日パンフがすぐに出てこないけど、役者では医者側の講師役だったアフリカン寺越と、営業担当は阿岐之将一だったか。この2人の、言いたいことは山ほどあるけど話合いを穏便に収めるために何とかしようとする感じが緊張感を切らせないでよかった。逆に研究員の1人の宮崎吐夢と準教授医師の横道毅は、まだまだやれることあっただろうという印象。

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2018年9月26日 (水)

シス・カンパニー企画製作「出口なし」新国立劇場小劇場

<2018年9月23日(日)昼>

扉がひとつだけで窓もなく、椅子と明かりとささやかな調度品だけが置かれた部屋に、3人の男女が連れられて来る。一度閉まると扉は内側から開かない。どうやら死んだ魂が案内されてきたようだが、なぜ集められたのかがわからない3人は、互いに自己紹介しながらその理由を探っていく。

こういう芝居だと大竹しのぶが俄然映える。ねちっこい台詞回しもそうだけど、多部未華子に迫るときのあの興奮の仕方の危なさがすごい。その向こうを張る段田安則は「ヘッダ・ガブラー」もそうだったけど、あの声は悪い場面に実に似合う。多部未華子は見とれるような完璧な横顔で綺麗なだけではない綺麗どころの役を熱演。「オーランドー」より出ていた声がよい感じだけど、発声お化けの2人に対抗するにはあと一歩。

観終わって、これだけ密度が高い芝居なのに80分しか経っていなかったのがまず驚き。世の中の芝居は長すぎる。結構激しい言葉が飛交っていたけどそれでいて全然台詞が立っていなかったのがまた驚き。あの台詞を全部消化して自分のものにしていたってこと。その後ろには翻訳含めてここまで整理した演出の腕があるだろうとは推測がつく。理屈が必要とされる西洋芝居の演出が小川絵梨子は本当に上手い。

ちなみに三度目の正直でようやく当日券を入手。人気者が出るにはせまい劇場なので当日券の枚数が少ないことはしかたないにしても、並んだ順の当日券販売でキャンセル発券ゼロ枚は長い当日券歴でも史上初の経験。キャンセル待ち番号すらもらえずに説明で事前に帰される人が10人以上。同じシス・カンパニーの「子供の事情」とは規模が違うけど、それでも毎回抽選にしたほうがよかったのではないか。

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2018年9月21日 (金)

小田尚稔の演劇「聖地巡礼」@RAFT(ネタばれあり)

<2018年9月16日(日)夕>

大学時代の後輩の結婚式に呼ばれた女性が、青森まで出かける。ドレスの入ったかばんを高速バスに忘れたり散々だったものの、無事に結婚式は終わって、突然思いついた恐山への1日がかりの旅行を強行する。後輩は、先輩との思い出や夫との馴れ初めを語る。

これまでは行き詰った個人が、小さい、けど大事な希望を見つけるような展開につなげていた芝居だったけど、今回はより暗い方向に。トラブルはあったものの恐山の旅を満喫する先輩女性が観察する周囲の旅行客は、様子がただならない人ばかりで、供養を頼んだり、エリック・クラプトンのそっくりさんを見つけたり。一方で後輩女性には学生時代に知り合った夫とのエピソードで社会人になったばかりのころが一番幸せだったと語らせたり。クラプトンの自伝からも引用して、これだけ並べれば分かるだろという状態にして、最後に後輩から幸せな葉書が届いて、今後を暗示して終わる。引出物の風鈴の音を登山の杖につける鈴の音と重ねる見立てが効果的。

後輩女性が青森出身のはずなのにあまり青森に詳しくなさそうな様子とか、ドレスなしで結婚式に参加したはずの先輩女性の様子を描くのを端折るとか、この芝居なら語尾をもたつかせる台詞回しは減らしたほうがいいのではないかとか、ミラーボールの照明を音響が手伝うのはアイディアではあるけど回すのは諦めて転がした照明から照らせばいいのにとか、細かいところで瑕疵はある。けど観終わった感想として、こういう芝居は嫌いではない。暗い話が好きというのではなく、とにかく情報は出すけどつなげるのは客の頭の中でやらせる話。あと「聖地巡礼」とタイトルをつけたセンスも好き。使ったクラプトンの曲が有名すぎる(これまでも有名な曲を使うことが多い)のが難だけど、あの内容ならもう直球でしょうがないかとも思う。

ギャラリーを使った会場で、奥から外を見る形で客席を組んで、役者は正面入口と脇の通用口を使って会場外から出入りするという変則舞台。あれは雨のときはどうするつもりだったのだろう。観たのが夕方の回で外が明るかったため、通行人や車が目に入るのだけど、あれは通行人を恐山の幽霊に見立てたか。夜だともう少し怪しい雰囲気になったかも。

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2018年7月27日 (金)

新国立劇場主催「消えていくなら朝」新国立劇場小劇場

<2018年7月23日(月)昼>

東京に出て以来、初めて実家に帰った劇作家はバツイチ。一緒に連れてきた結婚するつもりの彼女は売れない女優。母は劇作家が子供の頃から宗教にのめり込んで父との仲は冷えて久しい。サラリーマンでこれもバツイチの兄や、父の会社で働く独身の妹もやってきて、十数年ぶりに家族が揃う。互いの立場への思いやりの欠如、仕事への無理解、母の宗教活動への遠慮が及ぼすよそよそしさなどが積もって罵りあいになる一晩の出来事。

これで芸術監督最後となる宮田慶子の演出作品は蓬莱竜太の家族体験に基づいたという新作。やりたいことをやっていていいよなという兄からの言葉や、売れていることがいいことではないのかという父からの言葉に返答が詰まったり、自分が言った言葉を否定する形で相手を貶めたり、いい意味で歯切れの悪さが出ている。反面、主人公以外の登場人物の日常や仕事についてはあまり描かれず。劇中の主人公に他の登場人物への想像力や理解が足りないのはよいけど、芝居を観ているこちら側にはもう少し想像する種を渡してほしい。家族の話だからと脚本の配慮で省いたのではなく、本当に知らなくて描けなかったのではないかと疑われる。

どこまでが実体験なのかはわからないけど、以前観た蓬莱竜太芝居に出演していたこともあり、宗教にはまりつつ恋愛もする母の造形は定期的に世間を騒がせる斉藤由貴がモデルなのかもと想像。この母の台詞の「誰もかまってくれなかったじゃない」が山場。互いの無関心の行き着いた果てのひとつを描いた芝居とも受取れる。演出がかなりフラットというか、よけいな脚色抜きで脚本を立上げるようにした結果、終わってみるととてもちっぽけな家族の話に着地したのが不満。ただその分、身近な問題をきっちり描いた感触も残って、良し悪し半々。平日で客席の年齢層が高かったためか、客席はしっかり受取っていた印象が強い。

主人公を演じた鈴木浩介の絶妙な上から目線加減と、そこまで多くない台詞で父親の微妙な立場を表した高橋長英が好印象。

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2018年6月 4日 (月)

新国立劇場主催「ヘンリー五世」新国立劇場中劇場

<2018年6月2日(土)夜>

父の後をついで即位したヘンリー五世は、祖父の権利を行使するとしてフランス王に領土を渡すよう要求する。それを拒否したフランス王は内通者を仕立ててイギリス軍を害しようとするが、事前に察知したヘンリー五世は内通者を処分する。かくしてフランスに侵攻したイギリス軍とフランス軍との戦いが始まる。

出征する兵士の場面や、戦いの前夜にヘンリー五世が兵士を見回る場面などで多少のアクセントはあるものの、戦争予告で始まり、戦争して条約締結で終わるというびっくりするほど単純な芝居。新国立劇場のシェイクスピア王家話シリーズとして実力派メンバーが大勢続投しているけど宝の持ち腐れ。それでいいのかシェイクスピアと言いたくなるし、ここまで後回しにされた理由も納得。

ヘンリー五世を演じた浦井健治がとてもさまになっていたのと、横田栄司の役作りとアドリブで客席をわかせたのが救い。鈴木瑞穂が体調不良で降板していたのは残念。「ヘンリー四世」から再利用された美術は見通しがよくて高さも使えて万能かもしれないけど今後もシェイクスピアをやるなら新しい美術希望。

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2018年5月 4日 (金)

新国立劇場主催「1984」新国立劇場小劇場

<2018年4月30日(日)昼>

世界が3つの国に分かれた世界。主人公の属する国では「ビッグブラザー」による管理が行き届いており、国民の行動と思想を監視してから数十年が経過している。公務員の主人公は「ビッグブラザー」から合わないと判断された人間を過去の記録や写真から抹消していなかったことにするのが仕事である。それが行き過ぎていったい今がいつなのかもわからなくなった主人公は、監視カメラから隠れて禁止された日記をつけ始める。ある日、食堂で職場の女性から偶然を装って手紙を渡される。国に忠実を誓っているように見えた女性が実はそうではないと知り、2人は愛し合うようになる。それが犯罪とされていることを知りながら、監視カメラのない民間人の部屋を借りて2人は逢瀬を重ねていたが・・・。

原作の小説は読んでいて、あの長いディストピア物語のどこを芝居にまとめるのかと思ったら後半重視。若干の希望は足しているけど、観て楽しくなる芝居ではなく、現実が小説を追越したかどうかという今の社会を見つめたい人向けであり、洗練された舞台が好きな人向け。

いろいろなインタビューで「あの長い小説をよくここまでまとめた」ってコメントが多かったけど、小説を読んだ身としてはまとめきれていないという感想。2時間に収めるにはしょうがないけど、今がどんな監視社会なのかを説明する前半がものすごい駆足。職場の女性から手紙をもらうまでや、上層部のオブライエンから声を掛けられるまでや、古道具屋の主人との会話など、対人関係に警戒する様子や警戒せざるを得ない背景を小説では丁寧に語っているところ、そこはだいぶ端折っているので展開が唐突。その代り後半のきつい場面がきっちり入っている。

このきつい芝居がきつい内容に集中して観られるのは洗練された演出とスタッフワークの賜物。映像とライブカメラを組合せた展開や、スムーズに切替わる舞台美術、芝居によって差が出がちな衣装をきっちり押さえている。照明が珍しい印象だったのは客席側からの明かりをほとんどつかわないせいで、あれが舞台側の箱をきっちり形どってシャープな印象を与えるだけでなく、きつい場面で客席を巻込むための布石にもなっている。音響だけ、悲鳴の効果音が嫌だったのだけど、効果を考えると狙い通りか。このくらい丁寧にやらないと成立しないラインを軽々とクリアしているのはさすが新国立劇場の主催公演。

主人公の井上芳雄は熱演。上層部のオブライエン役を大杉漣の代役となった神農直隆が好演していて、M.O.P.で観たことあったかと調べなおす始末。個人的にはともさかりえに一番期待していたのだけど、演出の希望か洗練が行き過ぎていて、もうひと踏張り野性味がほしかった。

いちおうラストで希望が見えるような枠組みに収めていた脚本だけど、人間は非力なものだと観客に思い知らせるところは小説と同じなので、体調を整えてから観に行きましょう。

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2018年4月24日 (火)

小田尚稔の演劇「凡人の言い訳」新宿眼科画廊スペースO(若干ネタばれあり)

<2018年4月21日(土)夜>

大学から東京に出てきた女性。アルバイトをしながら仕事を探すため、オーバードクターとして大学に籍を置き、大学の寮に暮らしている。アルバイト先への通勤電車で痴漢を見つけても何も言えず、同じ寮に住む留学生の友人にはその気がないのに言い寄られる。そんなある日、全然帰っていない実家の母から、祖父が亡くなったと連絡があり、急ぎ実家に帰る。

女性主人公の一人芝居で約100分、ダブルキャストで観たのは宇都有里紗の回。東久留米の国際学生寮ということで検索したら東京学芸大学が背景か。平凡な日々に埋もれそうになる凡人が新たに前向きになるまでの話。誤解を恐れずに言えば前回前々回と同じ展開。それなら気に入ってもよさそうなものだけど今回はだいぶ様子が違う。

脚本に違和感があって、何だろうと考えていたのだけど、話の抜きだし方が合わなかった。主人公の日常からイベントがあってまた戻って最後まで約3ヶ月。それを100分でやるのだから省略は必要なのだけど、そこから最後、急転直下で前向きになってしまう主人公。大きい出来事よりは、小さい、細かい出来事を積上げてラストに向かっていた前回や前々回より、よく言えば省略がきいているけど、ちょっとこれは急すぎる。時間の感覚も納得いかなくて、広島行き最終ののぞみで着いたら葬式が終わるところ(通夜?)って日付が変わっているだろうにそんな遅くまでやっているのかとか、冬の話のはずなのにちょっと暖が足りなそうな衣装とか。

あと一人芝居にしては導線や位置関係の想定が雑。横に長く取った舞台なのであのくらい動かないと空間が埋まらないのかもしれないけど、そこでそんなに動けるかとか、それはさっき向こうにあったのではないかとか。最初からそこで説得力を出すつもりはなかったのか、ダブルキャストで稽古時間が足りなかったのか。でも細部重要。移動中の場面とか、祖父が亡くなったことを伝えて友人に抱きしめられる場面とか、いろいろよい場面もあったのだけど、それも違和感に押し流された。

公式サイトによれば2本目のオリジナル脚本ですでに四演目のようだけど、それにしては脚本演出ともブラッシュアップの余地が大きいのではないか。

<2018年4月24日(火)追記>

エントリーを書いてからさらに考えたのだけど、「話の抜きだし方が合わなかった」のではなくて「この脚本で本来描かれるべき何かを意識的にか無意識的にか隠していた」からではないかと考えを改めた。なまじ一人で100分持たせられる役者が上手に演じたことで、脚本の違和感が立上がってしまったしまったのではないか。

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