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2023年9月18日 (月)

劇団☆新感線「天號星」THEATER MILANO-Za

<2023年9月16日(土)昼>

口入屋の主人半兵衛、実は裏家業の元締、と思いきや実は妻の元締の身替りに見た目の怖さだけで婿入りした元は流れの大工の気弱な男だった。だが裏家業の同業者、白浜屋真砂郎から手を組むように持ちかけられたのを断ったため、たまたま江戸に流れてきていた一匹狼の殺し屋、宵闇銀次を差向けられる。もともと暮らしていた長屋に立寄った帰り道、雨の中で銀次に襲われた半兵衛だが、そこに雷が落ちて二人は気を失う。そこにいた半兵衛の昔なじみの占い師弁天に介抱されて目覚めたが、半兵衛と銀次の二人が入替っていた。

久しぶりの劇団☆新感線はチャンバラでした。以上。そのくらいまあ、いのうえ歌舞伎と聞いて想像できるいつも通りの劇団☆新感線でした。やや渋めなもののネタもそれなりにあって、安心して見ていられます。タイトルになっている天號星の入替りの話だけ解決はなくて「そういうものだ」で進みますが、受入れましょう。そうすれば親切な脚本とチャンバラが最後まで運んでくれます。

裏事情のようなものを察するに、客が求めるもののそこまで動きたくない古田新太にほどほどのチャンバラをさせて、代わりに早乙女兄弟に存分にチャンバラをさせるための設定なのではないかと思います。一応後半は古田新太もチャンバラしますけど、主人公は入替ったりする早乙女太一です。

そしてそれでいいんじゃないかと思いました。やっぱりチャンバラは身体の切れがある人がやったほうが格好いいです。あれだけ芝居を通してチャンバラできるなら、もう劇団員として毎回呼んでもいいんじゃないでしょうか。そう思わせる立回りの格好よさがありました。早乙女友貴演じる渡世人の人切の朝吉とのチャンバラになる前半ラスト、格好いいですよね。あれは拍手が起きます。

若干もったいなかったのが山本千尋で、素手のアクションの方が上手だったので剣を持たせずにかんざしとか短剣とか、もう少し得物を考えたかった。ひょっとしたら公演後半にはもっと慣れているかもしれませんが。個人的にはうさんくさい役の池田成志が久しぶりに観られたのが楽しかったです。

割と場面転換が多い芝居でしたが、場面転換の早さとチャンバラの事情を汲んで、舞台美術でオブジェも床もあまりないのですね。そういうところでも工夫をするのだなと、次の日のミュージカルともども感心していました。

2023年6月16日 (金)

新国立劇場主催「白鳥の湖」新国立劇場オペラパレス

<2023年6月11日(日)昼>

父王が亡くなり、戴冠と結婚が求められている王子。友人の催してくれたパーティーでも気が晴れない。翌日には各国からきた姫のなかから婚約者を選ばないといけない。王子の友人は元気づけるために湖での狩りに誘う。そこには邪悪な魔術師と、その魔術師によって白鳥に姿を変えられた姫がいた。夜の間だけは人間の姿に戻れるという。愛を誓ってその場は別れた二人だが、翌日の婚約者選びの場に白鳥の姫とそっくりな邪悪な魔術師の娘が姿を現す。

バレエ初見です。少なくとも観た記憶はありません。最後は心中で終わるって私は初めて知りました。そのくらいの超がつく初心者です。あの有名な曲が流れたら「おお」って内心感動しました。ソロとか代表的な場面で踊るたびに拍手するのも知りませんでした。そのくらいの初心者の感想です。

そういう初心者に対して、当日パンフで説明してくれるとか、間に割と小芝居を挟んでくれるとか、なんというか全体に親切でした。鍛えられた人が踊るのはなんかいいもんですね。ダンサーでいうと、この日は王子の友人の速水渉悟が第一幕で身体のきれがよくて、素人目には一番きれいに踊っているように見えました。群舞というのかな、それだと第三幕頭の外国の使者たちの踊りの一番初めの踊りと、第四幕の白鳥の群舞が好きでした。

あとは演奏全般、いい感じでした。頑張ってセンターの席を取ったので、音響は問題ありません。単純に、知っている曲が多かったのもありますが。

日曜日の昼間だったせいか、客席に子供が多かったですが、あれはバレエを習っている子供ですね。終わった後にロビーでくるくる回っている子供がいました。あとは外国人も結構いました。言葉に頼らないだけ、客層の国籍を問いませんが、やっているほうは世界のダンサーと闘わないといけないので、大変でしょう。

それと劇場ですが、でかい劇場ですねオペラパレスは。一階前方をのぞけば、どの席からも等しく遠い。芝居や踊り抜きで演奏だけ聞くならどのくらいまで妥協できるのかな。どの劇場でもチケット区分の境目では不満が出るものですけど、ここが同じチケット区分かというくらい広いです。

私がバレエにはまることはないと思いますが、今後は有名な演目だけ一度は押さえていければなと考えました。

2023年5月18日 (木)

ホリプロ企画制作「ファインディング・ネバーランド」新国立劇場中劇場

<2023年5月17日(水)夜>

19世紀のロンドン。脚本家のジェームズは劇場主から新作を求められているが、注文はなるべく観客を驚かせないようにという。それで書いた脚本を、たまたま公園で会った未亡人のシルヴィアに見せたら以前観た脚本との共通点を指摘されてしまい、破棄する。落込んだ気分はシルヴィアの四人の息子たちと遊びながら回復させるが、子供たちと遊ぶ様子に妻からは大人になってほしいと責められるし、新作はまだ書けない。

それであれやこれやあって「ピーターパン」の初演ができます、というのは公式でも説明されている通り。歌ってよし踊ってよし芝居してよし、ミュージカル初心者の自分にも楽しめる王道の仕上がりでした。

ジェームズの山崎育三郎は初見で、なんとなく色ものの人かなと思っていましたけど、すいません、堂々たる主役でした。歌もうまいですけど、芝居から歌に入ってまた芝居に戻るのが自然ですね。対するシルヴィアの濱田めぐみは、初めから歌に合せて芝居パートの演技を少し派手目にするスタイル。これはこれで華やかでよかったです。

ミュージカル畑は全然詳しくありませんけど、歌も踊りも芝居も、脇も含めて観ていて戸惑う場面がまったくありませんでした。ひょっとして気合の入ったキャスティングだったのでしょうか。廣川三憲まで出ていたのはびっくりしました。ナイロン100℃からここにたどり着くのかと。

ただ登場人物では、子役の4人がすばらしかった。BELIEVEチームということで越永健太郎、生出真太郎、長谷川悠大、谷慶人の4人でしたけど、上から13歳、11歳、8歳、6歳であの歌と芝居ですよ。最近の子役はここまでできるのかという驚きと、ここまでできないといけないのかという驚きと、両方です。

スタッフも総じて高水準でしたが、ひとつだけ。演奏する楽器が多いときに声が埋もれがちでしたけど、ミュージカルの音響だとあんなものなのか、劇場の特性などで致し方ないものなのか、まだ調整の余地があるのか、どれなんでしょう。1階後方センターブロックだったので、座席の位置で音響の不利益を被ったことはなかったはずですが。

カーテンコールは2回目から全員スタンディングオベーションでしたけど、ミュージカル慣れしていない自分でもすごいなと思ったから、ミュージカル好きにはたまらなかったでしょう。エンターテインメントでした。

あとは余計な感想として、これは凝り固まった大人が童心を取りもどす話でもありますけど、たまたま同じ日の昼間に人の魂を扱った芝居を観ました。それで、疲れた人を受けとめるのがあちら、疲れた人に明日も頑張れと背中を押すのがこちら、みたいなことも思いました。なんか世の中みんな疲れているんですよね、やっぱり。

2023年4月24日 (月)

新国立劇場主催「エンジェルス・イン・アメリカ(第一部、第二部)」新国立劇場小劇場

<2023年4月22日(土)昼、夜>

1980年代のアメリカ。ゲイ同士で同居しているプライアーとルイスだが、プライアーのエイズ感染がきっかけでルイスが家を出る。ゲイであることを隠して結婚しているジョーは師とも父とも仰ぐ辣腕弁護士ロイ・コーンから引っ越しを伴う栄転を持ちかけられるが、妻ハーパーの情緒不安定のために話を受けるか悩む。あくどい弁護も多数手掛けたロイ・コーンは追及をかわすためにジョーの栄転を後押しするが、エイズであると診断される。大勢が混乱する中、ルイスとジョーが出会い、プライアーは天使から自身が預言者と告げられる。

これでもかと要素が詰め込まれてあらすじを書くのに難儀する大作です。ざっくり順不同で、隠すことが今よりも当たり前とされていたゲイの社会的な認められなさ、当時は死に至る病と恐れられていたエイズであること、政治的に強い立場にいる人間のせまいコミュニティ内のつながりを利用した横暴、薬物を常用するような人間の増加、白人と黒人(とユダヤ人)の対立、個人にとっての宗教と信仰の位置づけ、危機に瀕する社会主義と対立がひどい民主主義、それら全部をひっくるめて融和せずに対立と分断が激しい保守派とリベラル派の争い、みたいな感じでしょうか。お腹いっぱいです。

多分この中で、いまどきのLGBTな話、新型コロナウィルスで広まった感染症による死の恐怖、貧富の拡大による社会の分断、あたりが今の日本でも想像されるものがあると考えて上演を決めたのでしょう。それはわかるのですが、当てはまるものもあれば当てはまらないものもあり、それはしょうがないです。が、仕上がりの良かったところと悪かったところがあり、結果は悪かった部分が目立って、終演後は消化不良という感想でした。

先に良かったところを挙げると、ベテラン役者陣はさすがでした。ロイ・コーンを演じた山西惇、ジョーの母親をメインにしつつそのほかのチョイ役の大半を担った那須佐代子、ゲイで黒人の看護師のベリーズを演じた浅野雅博の3人は文句なし。ハーパーの鈴木杏と天使役の水夏希も別々の方向で難しい役だったところを好演でした。

個人的には「チック」以来の七変化を見せてくれた那須佐代子がイチ押しで、真面目にできる役は真面目に、真面目にやると無理がでる役は説得力優先で、とにかく担当したすべての役を専任役以上の水準で見せてくれました。那須佐代子の出る場面に外れなしです。第二部冒頭の社会主義の演説、好きでした。

山西惇は辣腕弁護士として、堂々の差別発言と、法律的にも倫理的にも問題な横暴を通しつつ、ジョーをコミュニティの仲間として引張りこもうとする場面の説得など、縦にも横にも斜めにも問題大ありな役です。なのに、この人はこういう生き方を自覚的に貫いてきたんだなと、盗人にも三分の理のようなものを感じさせてくれました。

そして日本人には設定が多すぎてお腹いっぱいなベリーズを演じた浅野雅博は、全体にトーンを押さえて、それがむしろ説得力や注目につながっていました。第二部の、直球の差別発言を連発するロイ・コーンを相手に落ちついて的確に反論しつつ、看護婦としての職業倫理を全うする場面はすばらしいです。

鈴木杏は情緒不安定になるといろいろな場面に飛ぶ役ですが、さすがのキャリアで捌いていました。天使にしては片桐はいりがやるような役ではないかという無茶な面(笑)もある役を引受けた水夏希は、元宝塚トップの貫録でこなしつつ、そのほかのチョイ役が美しいのもさすがでした。

スタッフワークだと、このてんこ盛りお腹いっぱいな脚本を、てんこ盛りお腹いっぱいのレベルまで伝えてくれた翻訳を挙げます。硬軟入り混じったうえに長い脚本ですが、終わってから思い返すまで翻訳についてまったく気にしていませんでした。仕上がりのよい翻訳だと思います。

だから見どころのたくさんある芝居でした。ですが、それ以上に残念が目立ちました。

まずは役者。ベテラン陣に対して、プライアーの岩永達也、ルイスの長村航希、ジョーの坂本慶介が熱演なのはわかりますがいまいちでした。

坂本慶介はジョーの優しさを出そうとしすぎて役の輪郭がぼやけて脚本に負けていました。長村航希は結構問題発言の多い役のルイスですが、問題発言が不愉快に聞こえるのは駄目です。山西惇が問題発言連発でもむしろ引込まれるのと正反対でした。そして個人的に一番駄目だったのが岩永達也。恐怖でパニックになる場面のプライアーが絶望でなく泣き言に聞こえたのも駄目ですが、それよりも台詞全般にテンポが悪いのが駄目でした。独白でも掛け合いでも出だしが遅いのと、芝居のテンポに乗らない単調な台詞の速度でした。耳が芝居に参加していません。群像劇ですけど主役といえる出番の役者がこれではつらい。

この三人の感想、普通の芝居なら頑張ったけど力及ばずで済ませるのですが、今回は高いチケット代に加えてフルオーディションした芝居であることを表に出した企画です。1600人から選んでその仕上がりですかと文句を言わざるを得ません。もちろん、1600人の中にはベテラン陣が演じた役だって含まれるのですが、那須佐代子と浅野雅博なんてオーディションしないでも新国立劇場の主催なら真っ先に候補に挙がる役者でしょう。選んだ最終決定権が誰にあったかまでは把握していませんが、もう少し耳も使って選んでほしいです。

今回の出来を見た限り、私は新国立劇場にフルオーディション企画を行なう余裕はあってもを生かす能力はないと判断します。一観客の意見としては、フルではなく部分オーディションにして、時間と選択眼を限られた役に集中するべきだと考えました。少なくともオーディション慣れするまでは。

そしてスタッフワーク。新国立劇場でここまでスタッフワークでぐだぐだになるとは。

まず音響が、選曲がなんかちぐはぐでした。当時の音楽に寄せるでもなく、盛上げに全振りするわけでもなく、なんとなく手元にあった曲を流しているような雰囲気です。第一部のラストだけはわかりました。あの場面はあのくらい派手な曲で強引に締めないといけない。でもあとはいまいちでした。

あと舞台効果というか、天使や天界の扱い。安全もあるからワイヤー多めで降ろすのは理解できる。でも降りた天使のワイヤーの付け外しに堂々と舞台スタッフが出てきたり、舞台セットのベッドを堂々と避けたりするのは興ざめです。あと天界に上る梯子をスタッフが見える形で横に流したのも。上下を使いたいのはわかるのですが、あの辺は舞台奥なのだから隠す手段を検討してほしかった。ト書きがどうなっていたかはわからないけど、無理に天井から降ろさなくてもよかった。

キレイ」なんかはどうやっていたかなあ。カスミお嬢様がブランコに座って降りてきて、バンジーでワイヤー1本でぶら下がって、降ろして、自分で外したか執事の格好をしたスタッフが外したか。覚えていないけど、覚えていないくらいに素早く捌いていた。そういえば今回の座組みに四代目カスミお嬢様がいますね。ハーパー。

そういういろいろ、個人的には駄目だと思った部分が多いので、ひっくるめて演出家の上村聡史が脚本に負けたという判定です。演出ではもうひとつ。ロイ・コーンとジョーが父だ息子だと慕いあう場面があって肯定的に描かれているのですが、あれは「ホモソーシャルな社会」とか「オールド・ボーイズ・ネットワーク」という問題提起もあったんじゃないかなと思っています。なにしろ問題のない場面がほとんどない芝居ですから。

あと脚本について文句を言うのもなんですが、いろいろ時代が進んだ結果、LGBTや人種問題がポリコレとかキャンセルカルチャーに結びついて、アメリカではディズニーすら原作改変するような事態になっています。そのあたり、表現の自由とか原作尊重との兼合いはどうなんだとまで言いたくなるような昨今、それら問題に対して同情的な扱いの多い脚本は、時代とはいえ楽観的でしたねという冷めた感想も持ってしまいます。戦って権利を勝ち取るのがアメリカでは日常であることと、このころからすでに病んでいたんだというのは伝わりましたが。

で、片桐はいりとか「キレイ」とかを思い出しながら、この脚本は松尾スズキが演出したらよかったんじゃないかなとぼんやり思いました。なんか、観終わった直後はたくさんの重たいテーマの割に小劇場っぽかったと思ったんですよね。特に、日本では身近にないテーマも多かったので、もう少し小劇場っぽい手法で戯画化して納得や説得につなげるようなこともありだったんじゃないかなと。小劇場っぽい手法ってどんなだと言われても困りますけど、野田秀樹の言葉を借りれば「省略と誇張」です。

2022年10月17日 (月)

新国立劇場主催「レオポルトシュタット」新国立劇場中劇場

<2022年10月16日(日)昼>

オーストリアに住むユダヤ人の家族。迫害から逃れて暮らすウィーンで長男がキリスト教に改宗してまで努力して成功者になったメルツ家と、父母は田舎に暮らすが子供たちがウィーンに出てきてメルツ家の長女と縁戚関係になったヤコホヴィッツ家。交流の多い両家が、メルツ家でクリスマスを祝う1899年から、1900年、1924年、1938年、1955年を通じて、一族の歴史を辿る。

一言でいえば近代のユダヤ人の苦悩の歴史を描く話。だから重たいに決まっているのだけど、観ているこちらと、上演しているあちら側と、両方とも脚本に歯が立たなかった感がある。

観ている側の話をすると、2家族4世代にわたる家系の把握に失敗した。公式サイトに役者付きで家系図が載っていて(会場にも掲載あり)、ネタバレにもならないから、最初に目を通しておいたほうがいい。覚えなくても、2家族あって苗字を知っておくだけでかなり変わるから。

小劇場だと同じ役者が子役から老人役まで務めることが多いから理解の助けになるけど、今回は本当に子役が参加していたのでそれは叶わなかった。ただ本物の子役を使うことで場面単位では出来が上がるし、特に最初の1899年とラストの場面は子役を参加させた甲斐があるだけに痛し痒し。

あとレオポルトシュタットがウィーンの区のひとつで、ドナウ川の本流と旧流に囲まれた場所で、ユダヤ人が多く住む地域というのも前知識として知っていると役立つ。帰ってからWikipediaで調べて知るよりは先に知っておいたほうがいい。台詞から察するにそこから出世して裕福な地域に移り住んだのが今回の舞台なのかな。移民の多い地域みたいだから、わかる人にはウィーンのレオポルトシュタット出身というだけでたぶん苦労とか差別を想像させる材料になるんだと思う。

そしてもうひとつ。自分はユダヤ人の歴史に詳しくない。ユダヤ教とキリスト教との違いとか、パレスチナとイスラエルの話とか、ホロコーストに限らずもっと昔からヨーロッパで迫害された歴史とか、あとおそらく現代でもその手の差別が残っているであろうこととか。それをはっきり伝える芝居だけど、いきなり観て理解しろというのも難しい。知識でも経験でもユダヤ人のことを知らなさすぎる。

最初の1899年の場面で家長であるエミリアが写真に名前を書く場面、あれは日本でも似た感覚があるからそこをとっかかりにしよう、と思ったらエミリアが早めに退場して、そこから自分の理解が迷走した。ラストで脚本のトム・ストッパードが投影されたレオが「昔のことは知らない」ってはっきり言った台詞で、改めてとっかかりを見つけたけど、遅い。

日本人の自分がこれを理解するためには、1955年からさかのぼって1899年になってさらにもう2場、中心にいたヘルマンが改宗する場と、それより前のエミリアが迫害された子供時代くらいをくっつけて、やっと理解がかするくらいだと思う。ユダヤ人の歴史を理解するのに2時間20分では短すぎた。

で、おそらく上演している側もユダヤ人の歴史をそこまで理解できていない。台詞の拡がりに壁があって厚みや奥行きが出せていない。かといって、自分の人生経験と役者の想像力で戦うところまでもほとんどたどり着いていない。エミリアの那須佐代子と、ローザの瀬戸カトリーヌが最後に見せたくらい。手強い脚本で見かける、脚本負けした仕上がりの典型。異論は認める。

相変わらずスタッフワークは盤石で、特に張出し舞台に柱を載せて盆を回して奥行きのあるアクティングエリアと場面転換をつくりつつ減っていく家具で羽振りを知らせる美術と、時代によって変わる衣装とが、力作。

2022年5月 7日 (土)

新国立劇場主催「ロビー・ヒーロー」新国立劇場小劇場

<2022年5月6日(金)夜>

ニューヨークのアパートでロビー駐在の夜勤警備員として働くジェフ。毎晩勤務を見回りに来る上司は真面目だが尊敬できる。毎晩のように勤務中にアパートを訪ねてくる警察官は住民の一人に入れあげている。そのパートナーとなった見習い中の女性警察官はそうと知らず頼れるパートナーに好意を寄せている。ある日上司の様子がおかしいのでジェフが尋ねると、弟が警察に逮捕されたといい、何かできることはないかと心配する。パートナーを待つ女性警察官には好意を知らずうっかり警察官が住民を訪ねる目的をばらしてしまい、警察官に睨まれる。

ネタバレを回避しつつ一言で言ってしまえば、論語の有名な一説。むしろ孔子がなぜああ言ったのかを現代のシチュエーションで描いた会話劇。もっと小さいところでは、言いたいけど言えないことが人にとってどれだけ辛いかを描いた話ともいえる。これが4人の会話量かというくらい台詞だらけで休憩込3時間弱の芝居だけど、後ろに行くほど引込まれる力作。

脚本上、上司役が黒人であることが最初はよくわからなかったこと(アメリカの上演なら黒人が演じるから問題にならない)を翻訳で調整できなかったかという願いと、これだけやったのにあのラストは緩くないかという点にツッコミはあるけど、それくらいどうってことないと言えるくらいの脚本だった。親世代の話が遠まわしに土台になっているのが上手い。

駄目な役も愛嬌があって憎めないので、どの役の立場に感情移入するかが観る人によって変わりそう。これは観た人の感想が知りたい。自分はおっさん組の立場に同情してしまった。

場面転換以外で効果音はあっても音楽がないにも関わらずダレさせなかった役者が大豊作。愛嬌のある表情と台詞回しにくにゃくにゃした動きでジェフを演じた中村蒼が、台詞を言っていないときの仕草も含めて目が引かれる。その愛嬌を際立たせるのが上司の板橋駿谷と警察官の瑞木健太郎の(役としてはぶれるけど)ぶれない役作り。見習い警察官の岡本玲は若干硬かったけど終盤の説得場面は素晴らしかった。

桑原裕子演出は久しぶりだったけど、ここまで仕上げて来るとは正直予想していなかったのでうれしい誤算。それを支えたのは万全にして安定のスタッフワークだけど、今回はアメリカ現代劇にも関わらず日本語として違和感をほとんど感じさせなかった翻訳を挙げておく。

2021年6月27日 (日)

新国立劇場主催「キネマの天地」新国立劇場小劇場

<2021年6月26日(土)夜>

昭和初期。大作映画の打合せと称して監督から劇場に呼ばれた4人の映画スター女優。キャリアの長短はあれど売れっ子の4人はそれぞれ自分が一番であることを主張しあう。ところが劇場に着いた監督は、1年前に監督の妻が同じ劇場で亡くなたった演目の稽古を伝える。不審に思った女優たちを引きとめたのは、監督の妻を殺した犯人を探すという言葉だった。

面白かった。誰が観ても面白いし、芝居を観たことがないひとに最初の1本としても勧められます。でもそれ以上に、解像度の高い演出が隅ずみまで行き届いていることが伝わってくる1本でした。新型コロナウィルス下なのと、あと1日の千秋楽に感想が間に合わないのとで控えますけど、そうでなければ緊急口コミプッシュを出していました。こじらせた観客の感想もありますけど、それは後半で。

井上ひさしは構成に凝った脚本家だったけど、加えて時期によって作風が変わる脚本家でもあります。初期はぶっとんだ作風、中期は設定のうまさで笑わせる作風、後期は政治色強めに訴える作風で、これは中期の1本。上演するだけである程度伝えられるものがある初期や後期と違って、面白さをきっちり伝えられないといけない。そこを、実力十分、しかも小川絵梨子と仕事をしたことがあって実力保証付きの役者を集められたことで、脚本に求められるハードルをクリアして芝居に臨めたのは、まず勝因のひとつです。

今回の設定は女優の嫌らしい面をコメディで描くことが一番に求められますが、稽古という劇中劇でそれぞれの立場を劇中劇でも表現していくことも必要とされます。さらに劇中劇にかこつけた演技論や役者論や芸術論が展開されますし、相手の演技のへたくそさを詰る場面もあります。本当にへたくそな役者を当てると笑うに笑えなく脚本上の設定ですが、今回起用された高橋惠子、那須佐代子、鈴木杏、趣里の4人が文句なしにいい出来です。

それは監督、助監督、助っ人役者の3人の役にも及んでいて、女優を相手に、一同を集めた理由を隠しながら話を進める立場です。やはりへたくそはキャスティングできない。千葉哲也、章平、佐藤誓の3人は適役で、特に助っ人役者は複数役を器用にこなすことができる設定で役中役(?)まで求められますが、佐藤誓が大活躍でした。

そして演出。脚本構成の読解ならまかせておけの小川絵梨子ですけど、この脚本は中学生の時に演劇部で上演して自分も出たことがあるというアドバンテージがあります。コメディだからわかりやすいと言われればそうかもしれませんが、だとしても場面のひとつひとつ、役それぞれの立場、役と役との関係性、本当にどれひとつとっても迷いのない演出がされています。

スタッフワークも芝居に集中できる仕上がりです。ただ、特に今回は、最初に劇場に入って、具体的で場面転換不要に作りこまれた美術を観てびっくりしました。最近観ていた芝居が、抽象的だったりひとつの場面を複数に使ったりする美術が多かったので。ストレートプレイらしいストレートプレイは1年以上観ていなかったかもしれません。女優陣の衣装も時代がかっていて見目がよかったです。

観ていてひとつだけひっかかたのは、照明機材を全員素手で触っていたところ。私の学生時代はまだ素手で触るのが危ないのが普通だったので、今はLEDだから熱くないのか、小道具として火傷しないように見た目だけの照明機材だったのか、いらぬ想像をしてしまいました。いちおう助手役は手袋を持っていたけどはめていませんでした、というのはまあ、荒探しですね。

面白い脚本を面白く立上げるのは難しいところ、大成功でした。劇中でも言及されていたアンサンブルを体現した仕上がりです。「井上ひさしを小川絵梨子が演出できるか気になる」なんて上から目線で書いてすいませんでした。

ここまでは、ですます調で一般的な感想。この後はこじらせた感想。ちょっとネタバレを含みます。

劇中に「優れた芸術は人間賛歌」という台詞があって、それはそうかもしれないけど、それを作り出す側の人間に、実に性格の曲がった役を取りそろえたところが井上ひさしの意地悪なところ。

新型コロナウィルスの騒動でいろいろ考えたことに、専門家は専門外の分野については素人だし、専門性は人間性を保証しないというのがある。芸術分野について具体的に言い換えると、人気や実力がすべてであり、人気や実力があれば人間性は目をつぶる。人間性がよくても人気も実力もない人の立場は低い。人間賛歌となるような優れた芸術があったとして、それを創り出した人間の人間性はまったく別の話。

その点、今回の脚本は実に良くできていた。監督の、亡くなった妻に対する想いがどれだけあったとしても、自分が監督する映画のために活用して疑問を抱かない態度。スター女優や監督の、無名の役者に対する無理解や、意地悪を超えた深刻な嫌がらせや態度の数々。大事と思った人への惜しまない説得と、大事と思わない人への残酷な仕打ちが共存している。「クローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇という」言葉そのまま。

ラスト場面なんて、最後までコメディで通したけど、あれは内容だけ見たらひどい場面で、ちょっと演出を変えるだけで悲劇の幕切れになる。むしろ書いたときには井上ひさしはそれを狙っていたんじゃないかとさえ疑っている。

あれだけ解像度の高い演出をやってのけた小川絵梨子がそこに気が付いていなかったとは思えない。今回は新国立劇場の「人を思うちから」というテーマに沿って選ばれた脚本で、もちろん上演準備のために新型コロナウィルスより前から決まっていたはず。だけど演出方針は稽古前まで、何なら稽古中でも、変えられる。明るい芝居を提供するためにコメディに徹したのか、どうなのか。ひょっとしたら、「人を思わないと人はどこまでも残酷になれる」みたいな裏テーマをこっそり課して、この脚本を選んだのではないか。

なんでそんなことまで疑うかというと、解像度の高い演出をされた芝居だったのは間違いないけど、だからというか、何となく、観終わって違和感が残ったのですよね。「タージマハルの衛兵」も解像度が高い演出の芝居だったけど、あのときはこういう違和感はなかった。それと井上ひさしの芝居にしては、女優同士の嫌味なやり取りがふんだんにあるにもかかわらず、すっきりとしたコメディに見えてしまった。井上ひさしは、こう、人間の悪い面を「人間のたくましさ」「庶民のしたたかさ」みたいな扱いで丸めてしまうところがあるけど、悪いものは悪い。本当にいい面だけの登場人物が目立ってくるのは後期です。

芸達者な役者と解像度の高い演出で完璧なコメディを立上げた結果、脚本に含まれているけど掬いとれていない何かも一緒に立上った、と仮定して考えた妄想です。穿ちすぎかもしれませんが、こじらせた観客は、そんなことも妄想してしまいました。

そういう妄想まで含めて、観られてよかった1本です。

<2021年6月28日(月)追記>

新型コロナウィルスの対策を書くのを忘れていた。小劇場は入口を地下(初台駅の改札を出てから最初に見えるところ)に限定して、中劇場やオペラの客と混ざって建物内が混雑するのを防いでいた(正面入口を入って右側の階段は封鎖)。開場は開演45分前から。外から中に入った時点で検温とアルコール消毒。ここで一旦入場前ロビースペースになってクロークだった個所に来場者カード記載スペースがあるので記載。チケットは通常の階段横カウンターとは別に、いつもだともぎり横にある関係者向けの引取カウンターを階段正面に配置してもぎり周辺で人が滞留しないよう調整。入場は、もぎり手前で来場者カードを回収してからチケットを見せて自分でもぎり。チラシ束はロビーに置いてありほしい人が自分で手に取る。物販はパンフレットのみ。スタッフは会話禁止のボードで案内、マスクはしていたけどフェイスガードはしていなかったか(失念)。場内アナウンスは、接触確認アプリを使うなら音が鳴らないように、使っていないなら電源オフにするようにアナウンス。

入場後ロビースペースに、いつもならポスターや解説文章の拡大コピーが貼ってあったり舞台美術模型が置いてあったりするけど、今回はその手のものは全部外して人が集まらないようにしていた。飲食は最低限にするよう案内。椅子は、個別の椅子は一方向きになるように間を空けて配置、ベンチは1人置きの間隔になるように座面貼紙で調整。トイレは小便器は1個飛ばしになるよう貼紙。荷物を預けるスペースがない代わりに、座席下に荷物を置くための使い捨てカバー? のようなものをロビーで提供。休憩時間は正面ガラス口を開けて外に出られるけど一方通行で、再入場時は検温とアルコールの入口側からに回す。この公演のチラシと配役表はいつも通りパンフレット物販の横で提供されていたのが個人的には非常に喜ばしい。

これまで考え出された対策を、広いスペースと多めに配置できるスタッフを十二分に生かして実践していた。慣れてきたのもあるけど、新型コロナウィルスの(少なくともこれまでの)対策と観客の快適さの、変な表現だけど妥協点の頂点という印象。ただし「広いスペースと多めに配置できるスタッフ」があってこそだよな、とも思う。

2020年10月 4日 (日)

新国立劇場主催「リチャード二世」新国立劇場中劇場

<2020年10月3日(土)昼>

側近に恵まれないリチャード二世が統治下のイングランド。諸国との戦争が続きしかも負けが込んでおり、国庫は足りず民は重税にあえいでいる。そこに従弟のヘンリーが、2人の叔父にあたるグロスター公暗殺の主導者として反目する貴族のボリンブルックを告発する。王の説得もむなしく反目が解消できなかったため、決闘で勝負をつけることになったが、当日立会った王は決闘を中止させ、2人を国外追放する。この処置を苦にしたヘンリーの父ランカスター公が病を得て亡くなると、リチャード二世は戦費に充てるためその財産と所領を没収する。あまりの対応に怒ったヘンリーは、名誉と財産所領の回復を求めるため、兵を率いてイングランドを目指す。

ヘンリー六世」「リチャード三世(見逃した)」「ヘンリー四世」「ヘンリー五世」と続いたシリーズの最後は押さえておきたくて観劇。ここで出てくるヘンリーが後のヘンリー四世で、リチャード二世からどうやって王位を受継いだのかが描かれる。満足度は高い、非常に高い芝居だったけど、その満足の理由に悩む不思議な仕上がりだった。以下、どこまでネタばれかわからない内容を含めて考えてみる。

誤解を恐れずに書くと、おそらくこの脚本はそこまで面白くない。ヘンリーが兵を率いて戻ってくるけど闘いを行なうわけでもなく、フォールスタッフのような道化役が出てくるわけでもない。普通に演出したら、昇り詰めるヘンリーが、わがままな王であるリチャード二世を引きずり下ろすよう演出されるはず。

ただし今回、ヘンリーは謙虚で、(タイトルロールだから当たり前だけど)リチャード二世の視点を強調した演出だった。それで観ると、リチャード二世の哀れなところがよくわかる。
・仲裁しても決闘を行なうことを止められないくらいに有力な臣下からは軽く見られていた
・フランスから王妃を迎えた結婚の時点で結婚式の費用を立替えてもらうほど国庫が不足していた
・耳に痛いことを忠告してくれる叔父たちは、自分に忠誠を尽くしてくれているわけではなく、亡くなった自分の父(叔父たちの兄)への畏怖と憧れから忠誠を誓っている
・それで頼った側近の政治能力がいまいちだった
・帰国が1日遅かったばかりに側近の傭兵隊が解散してしまった不運
・自分が招いた結果ではあるけど、ヘンリーが優勢と見るや次々と諸侯が鞍替えしていく様を目の当たりにする
・それでいて最後にもうひと謀反が企てられるくらいの臣下の忠誠は残っていたし、真っ先に処分された側近の中には死の直前まで忠誠を失わない者もいた
・王妃との仲は最後の最後までよかった
・ヘンリーを「民や使用人にまで挨拶して頭を下げている」と侮蔑していたが、最後に王や王妃に同情を寄せてくれたのは使用人だった

決して悪い面ばかりだったわけではなく、能力を備える前に王位について、能力をみがいて王位を固める前に戦争を重ねざるを得なかった男の悲劇として描かれていた。タイトルは「リチャード二世の悲劇」としたほうがしっくりくるくらいで、ひとことで言えば諸行無常。そこが自分の琴線に触れて満足度が上がった。それでいて庶民役の数名が舞台の外から騒動を眺める場面があって勝手にやってらあな感も出していた。

ここまで整理して考え直すと、岡本健一はリチャード二世の弱いところ、不安なところを強調して、諸行無常の演出に資していた。ただ、王妃と仲が良く、一部臣下の忠誠も残った魅力、おそらく優しさについて、王妃との別れの場面以外でももう少し前面に出せるとなおよかった(それは戦争能力の欠如にもつながるし、たぶん、神への祈りも欠かしたことはなかったんじゃないかという想像にもつながって、聖職者が最後の謀反を主導したことの裏付けにもなる)。演出で、冒頭の決闘と、病のランカスター公に対する場面とを工夫することである程度調整できたはず。

だからといって不満なわけではなく、休憩をはさんで3時間20分の大作を引っ張り続けた仕上がりは見事。役者はリチャード二世の岡本健一とヘンリーの浦井健治も含めて、台詞の量と評価が比例する状態で、脇まで含めてみんな上手という幸福な舞台。めったに味わえない大量のベテラン組の声と台詞回しを堪能するのが正解(配役表がないので役名と役者名が一致せず、さらに一晩たったら王族以外の役名も忘れて、誰がよかったのか具体的に言えない状態)。そういえば全然出てこないなと思った那須佐代子が終盤に笑いをさらったのはご愛敬。

スタッフワークも十分で、ラストの音楽は前にも聞いたような気がするけど演出に合っていて、曲名が知りたい。美術だけ、通常場面はいいけど、城の場面にあのハリボテが必要だったか、ハリボテ感を演出していたのだとしても疑問で、安く見えてもったいない。継続出演の役者、スタッフが多い中で数少ない理由あり交代だけど、予算が足りなかったか。

全体に、大河企画の締めにふさわしい1本だった。

以下新型コロナウィルスメモ。

・演出では、可能な場面では配慮したかもしれないけど、至近距離で言い合う場面もあり、わざわざ距離を確保したような雰囲気は感じられなかった。ごく素直に演出したように見える距離感。

・最初は1席飛ばしだったけど、途中から全席を売出したのは以前書いた通り。自分は狙っていたので全席売出しよりまえにチケットガイドで確保。

・入りは、センター前方が埋まって、左右前方が端は空いていたけど通路よりは埋まって、センター後方は前2-3列が埋まってそれより後ろは一部が隣あわせだけどおおよそ1席飛ばし、左右後方は前が1席飛ばしで後ろ数列は空席が目立った。2階席は不明。当日券でも1階良席が確保できる状態。距離が気になるなら後ろを選べる。ざっとした感覚で7割切るくらいの入り。

・来場者用紙に記載して入口前で渡す仕組み(充てられていたのはクロークスペースだったか)。他の人の鉛筆を使わないで済むよう、使った鉛筆は使用済みの箱に入れられるよう配慮。当日券限定か、チケットガイド経由で買った人は不要だったか、不明。とりあえず書いて出した。

・そのあとで、検温、アルコール消毒、チケット見せて自分でもぎり、チラシはほしい人が自分でピックアップ、だった。

・劇場全体が不要な個所を閉鎖していて、1階奥のテーブルスペース、2階の舞台衣装展示スペースに入れなかった(おそらく入場しないとトイレにたどり着けない)。入場後のロビーは、ペットボトルの飲物だけ売っているけど食事やコップ飲料の提供はなし。椅子とベンチが全部窓向きに配置、椅子は約1脚分スペースを空けて配置、ベンチは1人分のスペースが空くように張り紙。細かいところでは男子トイレの小便器もひとつ置きで、間隔が東京芸術劇場ほど広くないといっても本多劇場よりは広いし、それはさすがに念を入れすぎでは。

・過去には掲示されていて感動した王朝図などはQRコード掲示のみ。閲覧のための人混みができるのを嫌ったか。公式ページの関連資料からアクセスできるので、気になる人は事前に見ておくとよい。ただし、今回の芝居に限ればおそらく事前チラシ(掲載されているか不明)の中にある小さな家系図のほうが役に立つ。

・休憩時間中に場内消毒などはなし。見た目でわかった対策はドア開放のみ。

・場内アナウンスはうろ覚えで、「スマートフォンで接触確認アプリをご利用のお客様は音が出ない状態に、それ以外のお客様は電源からお切りください」だったか。ただそのせいかどうか、上演中にスマホを確認する客がいて集中をそがれた。こういう理由があるのに、アナウンスでそれを徹底するのは難しい。

・退場は順番にとアナウンスされていて、終演時はその通りだったけど、休憩時間のトイレやベンチの争奪には役に立っていなかった。休憩ありの芝居でどう運営するか難しいポイント。見かけた女性用のトイレ行列は三重の折返しになっていて、あれじゃ距離を空けても密になることは変わらなくて、並ばせ方も検討が必要。

・休憩時間中にマスクを外してしゃべる老紳士を発見。後半が始まるとマスクをしていたけど、意味が分からない。あれは頭の中にどういう新型コロナウィルス対応がインプットされているのだろう。

・大多数の観客はマスクつけっぱなし。客席では静かでロビーでは会話はそれなりにしていた。ロビーのざわめきは通常芝居を思い出させるものだった。センター前方の客席が埋まっていたためか、終演後の拍手も塊感が出ていた。

願わくはこの公演が最後まで完走できますように。

2019年12月16日 (月)

新国立劇場主催「タージマハルの衛兵」新国立劇場小劇場

<2019年12月14日(土)夜>

タージマハルの建設中、建設が終わるまで誰も見てはならないという皇帝の命令で、囲いの壁の前で夜中の警備を担当する2人の兵士。方や父親が将軍で真面目な性格、方や庶民の出だが空想癖がありおしゃべりが止まらない性格、正反対の2人だが子供時代からの親友である。建設が終わって明日が公開の晩、建設家が皇帝に頼みごとをして逆鱗に触れたという噂を話し合う。

どんな芝居かわからないけどこの座組みで変なことにはならないだろうと観に行ったらとんでもない。笑える場面もありつつ、現代的かつ普遍的な広い分野のテーマを複数扱って、「スポケーンの左手」もびっくりの舞台効果を駆使して、どうしてこうなったと言いたくなる展開から、美しいラスト。「ことぜん(個と全)」のシリーズにふさわしい内容と、1時間40分の2人芝居でここまでできるのかという仕上がりだった。成河も亀田佳明も言うことなし。

スタッフワークだってレベル高いのに、すべてが役者と展開に集中して、観終わるまで気にならないのが素晴らしい。翻訳もこなれて、公式サイト(こことかここ)によれば役者の意見も聞きながら仕上げたとの事。最近だとKERAが翻訳芝居を上演するときに潤筆として言葉の調整をするのが見事だけど、今回も見事。というか、最近は翻訳のレベルが全体に高い。狙ったわけでもないけどいかにも翻訳、という芝居がない。

話は戻って、脚本の出来が素晴らしい前提で、この色々のどこに演出が関わっているのか、観ただけではさっぱりわからない。わからないけど、やっぱり演出の妙があってこその仕上がりなんだろう。小川絵梨子はやっぱりすごい。

平たい舞台であまり端も使わず、見切れもほとんどないので、時間があるならZ席でいいから観てほしい。

テレビ朝日/産経新聞社/パソナグループ製作「月の獣」紀伊国屋ホール

<2019年12月14日(土)昼>

第一次世界大戦が終結した後のアメリカ。オスマン帝国から亡命したアルメニア人の男が、結婚相手として孤児院からひとりのアルメニア人少女を呼寄せる。厳格な家父長制の家族で育った男は同じような家庭を求めるが、おおらかな家庭で育った乗除とはなかなか馴染めない。男は子供を求めるがなかなか望みがかなわない中で、ふたりの生活はすれ違い始める。

翻訳ではトルコと言っていたようだけど、公式サイトや年代を調べるとオスマン帝国のほうが正しいか。オスマン帝国によるアルメニア人虐殺という重い話題を中心に、アメリカに亡命した男と、その男が写真だけで呼寄せた少女を通して、苦悩が克服されうるのかを描いた芝居。地味で重いけど緊張感の続く良作。

すれ違う夫婦の展開を描いた眞島秀和と岸井ゆきのはすばらしい。ただ映画的というか、前半の1幕がいきなりすごい分、その後が丁寧ながらもややゆったり目。後半幕開けに近所の孤児が登場してからがぐっと目の覚める展開に。語りの久保酎吉もよかったけど、孤児役の升水柚希が一番舞台らしいエネルギーを放射して、それに合せて周りも乗っていた。続けるならこのまま中途半端にまとまらず無事に伸びてほしい。スタッフでは照明が美しかったけど、場面転換でも会話中でも音楽を、しかも同じ音楽を使いすぎ。音楽減らしてもいける出来だったのに。

あとあんまりだったのがチケット管理。このテーマと価格で満席にならないのはしょうがないから、後ろが空席になるならまだしも、中途半端にセンター後方席に2列空席列を作って(1列が丸ごと空席、その後ろが両端に1-2人しか座っていない状態)、その後ろに2列くらい客が続く無様な客入れ。製作のどこかが招待用に押さえさせたのに集客努力もせずに放置した感。昔一度だけ、新国立劇場の小劇場で1列が空というのを見たことがあるけど(たしか「アジアの女」だったか)、今の日本で土曜日昼間という一番のゴールデンタイムでこんなもったいない客席を作るな、それなら後ろの客席から2列ずつ前に動かせ。

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