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2024年12月29日 (日)

新国立劇場主催「くるみ割り人形」新国立劇場オペラハウス

<2024年12月28日(土)夜>

クリスマスイブの晩に行なわれたパーティーで、少女クララは来客のドロッセルマイヤーから贈り物としてくるみ割り人形を貰う。兄が壊してしまうが、ドロッセルマイヤーに無事に直してもらう。夜遅くなってクララが寝ると、夢の中で大人になったクララが、ねずみの王が率いるねずみの兵士に襲われる中、人形の兵士がやってきて戦いが始まる。

1度くらい観ておきたいじゃないかと考えていたのでここで観劇。この曲はくるみ割り人形だったのかという気付きと、平和な話でいいなあという感想とは別に、子供のバレエチームが、メインの2人だけでなくみんな上手で驚いた。子役の分野も競争が激しいですね。大人キャストではねずみの王で踊った木下嘉人が目に付いた。大袈裟な動きの多い役どころだからかなと初めは考えたけど、観終わるとそういうわけでもなさそうで、まあ、素人の感想です。あとは演奏もよかったですねとこれも素人の感想です。

これで「白鳥の湖」「眠れる森の美女」にこの「くるみ割り人形」とチャイコフスキーの3大バレエは観られたので、今後バレエは機会があればということで。

2024年12月 8日 (日)

新国立劇場主催制作「ロミオとジュリエット」新国立劇場小劇場(若干ネタバレあり)

<2024年12月7日(土)夜>

ヴェローナの街の有力者にして勢力争いで街を二分するモンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家のロミオは仲間と一緒にキャピュレット家の開く仮面舞踏会に潜り込むが、そこでキャピュレット家の一人娘ジュリエットと出会う。たちまち恋に落ちた2人は翌日神父のもとに出向いてこっそり結婚するのだが・・・。

初日。新国立劇場演劇研修所が最終年度に3回行なう上演の2つ目。三間四方の素舞台に囲み客席。始まる前から役者に客席をうろつかせて冒頭の台詞を話させるのは客席の雰囲気を高める手段でもあり、役者の緊張を解く手段でしょうか。開演前のアナウンスもうろつく役者にやらせてから、すっと舞台を始める出だし、好きですね。そして観終わったら結構面白かった。

この日はマキューシオとパリスの2役を演じた横田昴己、大公の萬家江美、キャピュレット婦人の高岡志帆、キャピュレットの中西良介が気になりましたけど、全員万遍なく、割と上手でした。とにかく勢いだけは切らさないところはよかったし、若い役者の上演なだけはあって、走り回ったりアクション激し目にこなしたりしても息が切れないのはいいですよね。あえて難点を言えば、ロミオの中村音心とジュリエットの石川愛友は嘆き悲しむ場面でもっと外に出してほしいところ。芝居の設定上は内に向かうところでも、そのまま内に向かって演じられると、激しく嘆くほどうじうじするなと引っぱたきたくなる。その点、怒鳴っても演技上のいらつきは感じさせない中西良介がよかったのですけど、こちらは10期生なので今年の18期生からはだいぶ年上なので、慣れの差でしょうか。

演出が現代音楽で、あれは芝居の使い方というよりは音楽ライブっぽさがあって、演出の岡本健一のセンスが出たところでしょう。音楽製作の田中志門は岡本健一のバンド仲間ですね。あとはアクションも激しさ優先で演出していて、さして距離のない至近距離でもいい感じに見えました。

ただ、これが若干ネタバレの話になりますが、演出でエンディングをがらっと変えてきました。

本来は納骨堂に皆が集まって、ロレンス神父がことの経緯を話して、それで大公が両家を諭して、2人の像を立てて仲直り、で終わります。ところが今回はロレンス神父が逃げて、両家がいがみ合ってアクションをしたまま終わります。マクロには戦争で世界が争っている現代でもあり、ミクロにはSNSで主義主張が飛び交って少しずつ分断が進む個人単位の現代でもあります。他にも両家で主人が妻を足蹴にしていたり、キャピュレットが勝手に性急に娘の結婚を決めたところで妻(ジュリエットの母)が夫を怒らせないことを優先したように見せたところも現代的な演出でした。計画を提案したのに、神父なのに、事情を話さないで逃げたロレンス神父が個人的には現代的すぎて嫌すぎました。いますよね、言いだしっぺで逃げるこういう人。

演出全体に方向性がはっきりしていて、岡本健一はただの名前貸しの演出ではなかったと認識しました。大人側に絶望的な要素を集める一方で、希望の欠片をロミオとジュリエットの2人に集める演出プランだから、2人の役者に掛かる期待と責任はとても大きい。いくら奮起しても足りないくらいですが、一層奮起してほしい。

スタッフワークは安定安心の新国立劇場ですけど、今回は素舞台に、天井だけ吊って電飾を飾って上下させていましたけど、あれでも素舞台に近いと言えば近い。衣装も白いTシャツとパンツに汚しを入れて、芝居にも役者にも似合っているけど簡素。何となく、2回目の公演は勢いで押切って、その分は3回目の公演に突っ込むのかなと制作的予算配分も頭をよぎりましたが、パワーマイムで観劇人生を始めた人間としてはむしろこういう素舞台で動き回る芝居のほうが好きだったりします。5日間やればまだ伸びそうな印象を受けたので、できれば千秋楽と見比べてみたかった。そういえば仮面舞踏会から納骨堂まで、ロミオとジュリエットも5日間の物語ですね。5日間走り抜けてほしいです。

2024年11月24日 (日)

新国立劇場主催「テーバイ」新国立劇場小劇場(ネタバレあり)

<2024年11月23日(土)昼>

古代ギリシャ、疫病の蔓延するテーバイの国を救うために悩んでいるオイディプス王は、先王を殺した犯人を追放するようにとの神託を得る。だがそれを調べるうちに他ならぬ自分がその犯人だと知ることになったオイディプスは、己の目を潰し、子供たちを妻の弟であるクレオンに託して自らに追放の命令を下す(「オイディプス王」)。その命令は叶えられずに幽閉されていたが、あるとき市民による追放の決定を受けて追放されることになる。従ったのは長女のアンティゴネただ一人。長年の放浪の末にやがてたどり着いたのはアテナイにある復讐の女神に呪われた森。若い日に受けた神託の場所だとオイディプスは死に場所をそこに定め、アテナイを収めるテセウスに後始末を頼む。そのころテーバイではクレオンから1年交代で王を務めるように託されていたオイディプスの息子のポリュネイケスとエテオクレスが王権を争っていた。オイディプスの身柄を得たものが勝つとの神託が出て、クレオンと長男ポリュネイケスと次女イスメネがオイディプスの元にやってくるが、オイディプスは全員を拒否する(「コロノスのオイディプス」)。やがてテーバイの戦は終わったが、ポリュネイケスとエテオクレスはともに亡くなる。自らも長男メノイケウスを亡くしたクレオンは再び王座に就き、テーバイの国をまとめるために他国の軍勢を率いてテーバイを攻めたポリュネイケスの埋葬を禁ずる。だがポリュネイケスと仲のよかったアンティゴネは放置された亡骸に砂と花を撒いて捕まる。クレオンたちの前に連れてこられたアンティゴネは亡くなった兄弟を悼むことの何がいけないのだと謝らない。国を治めるために一度はアンティゴネの幽閉を決めたクレオンだが、信頼する預言者テイレシアスに諭されて撤回するが、時すでに遅かった(「アンティゴネ」)。

テーバイを巡る3本のギリシャ悲劇をつなげて1つの物語にすることで、オイディプス王の悲劇と、クレオンとアンティゴネの悲劇が一層深まる脚本は見事で、それでいて一連の出来事の関連がよくわかるように整理されている。その点は、長年を掛けて戯曲に取組む新国立劇場のこつこつプロジェクトとしてはまず成功の部類と言ってもいいのでは。

ただし演出では好き嫌いが分かれるところ。服装や小道具の一部を現代風にしたところは今更気にならない。ただ、本筋としてクレオンに焦点を当てたのはいいけど、それがよく言えば現代の身近な造形、悪く言えば小さく描きすぎたうらみがある。やはりギリシャ悲劇の登場人物、それも国の運営に携わった人間として、神々の神託という形で示される運命に振回されるためには、もっと大きく構えたほうが個人的には好みだった。

クレオンを小さく描くなら、対にするべきは久保酎吉演ずるテセウスだったはずで、こちらは埋葬の問題にかこつけてテーバイを攻めるぞと後半パートで使者を出すやり手です。市民代表とかどうとかはおまけで、そこはクレオンの「市民が代表を選ぶ制度がいいのではなく、そこにテセウスがいたのだろう」という台詞が掘り甲斐のあるところだったはずですが、「コロノスのオイディプス」に出てきたテセウスは無茶苦茶話の分かるおじさんでした。そこはもう少し、強かな面を混ぜてほしかった。そうすると話が混乱するかもしれませんが、そこに解決の糸口を見つけるようなこともできるのがこつこつプロジェクトのはずであって。

全体に、初めて観た「コロノスのオイディプス」のパートが、役者の自由度が高いというか、熱量が一番込められているように見えたのが、いいのか悪いのかわからない。あのパートでクレオンがアンティゴネに詰られて「あのときはああするしかなかった!」と声を張る魂の叫び、オイディプスが息子のポリュネイケスに双方が殺しあって亡くなると呪いをかける声、あれはよかった。

なので主要3人の寸評ですが、散々書いたクレオンの植本純米は、実力はわかっていても演出と折合いを付けすぎでした。オイディプスの今井朋彦も実力派で好きな役者の一人ですが、一番初めのオイディプス王はさらに大きく演じてほしかった。アンティゴネの加藤理恵は脚本の被害者というか、「コロノスのオイディプス」でオイディプスに付添った苦労や舐めた辛酸の数々があってなお兄弟の埋葬に拘るアンティゴネを演じるためにはネックレス以上の大きさがほしかった。全体にほしかったのは大きさです。前に観て比べているのが蜷川幸雄演出野村萬斎主演の「オイディプス王」と栗山民也演出生瀬勝久蒼井優の「アンチゴーヌ」なので比べるなという話なんですが。

ただ、発声がいい感じで、あれは1音1音ごとにはっきり話すような台詞術を意識していたのでしょうか。非常に合っていました。古典芝居にはこの方が似合いますね。それに気が付いたのは高川裕也演ずるテイレシアスの台詞に妙な説得力を感じたからです。いい感じと思って調べたら無名塾出身で、納得でした。

あとは簡素な舞台美術や範囲を絞った照明、あまり明るくない音響にすっきりさせた衣装、すべて芝居の雰囲気に合っていて、スタッフワークは安心と信頼の新国立劇場芝居。ただ、近頃は音響で芝居を盛上げる演出が減っていて、なくて成立つものならない方がいいと考えるのはわからないでもないけど、音響含めてもう少し盛上げてもよかった。これは別の座組みと別の演出家でも観てみたい。

2024年11月17日 (日)

新国立劇場主催「眠れる森の美女」新国立劇場オペラパレス

<2024年11月3日(日)夜>

幼い姫の洗礼式に王と王妃は森の精たちも呼ぶが、式典長の手違いで呼ばれなかった精霊カラボスが洗礼式に乗りこんできて、姫が針を指に刺して亡くなるだろうと予言する。やがて育った姫は、カラボスの持ちこんだ針を指に刺してしまい亡くなりそうになるところ、森の精が城中の人間を眠らせて城を茨で覆う。100年後に狩りで現地を通りかかった王子は森の精にいざなわれてカラボスを倒し、城の人間は目を覚まして姫と王子は結ばれる。

そういえば一度くらい観ておきたいと思い立ってバレエ観劇。ああこんな話だったんだとあらためて感心。冗談抜きの天井桟敷席で観たけれど、少なくとも正面寄りであれば音楽は遜色なしに聴けるし、上から見下ろすのでダンスのフォーメーションがわかるから、バレエならこれはありだなという発見だった。そのくらいの遠目で観てもおっ上手と思わされたのは姫の池田理沙子で、やっぱりタイトルロールはそれなりの人が張っていました。

こまつ座「太鼓たたいて笛ふいて」紀伊國屋サザンシアター

<2024年11月3日(日)昼>

「放浪記」で売れた林芙美子。二人暮らしで元行商人の母は小説なんていつ書けなくなるかわからないと必死に切詰めた暮らしを送る。やがて出版した本が発禁処分になってしまうが、ここで腐れ縁の音楽業界の男から従軍記者の仕事をもらう。初めは調子よく書いていたのだが・・・。

初演を観ていたけど中身はすっかり忘れてこの再演。今観たらあれで反省した気分にならないでくれという後半だけど、それはそれとしてよく出来ているのはさすが。序盤の台詞にあった、昔の貧乏暮らしの種を全部売ったらもう書くことがなくなるかもしれない(大意)という台詞は当時の井上ひさしの気分もあったかなかったか。

ただし、役者としてメインを張る大竹しのぶが、強かな面は出せているにしても「あれっ」というくらいのパワー不足。この劇場でその程度の声では本当かよと疑ってしまった。それに合せたか、周りの役者も小さく始まったけど、そちらはそのうち解消。母親役があまりに上手で、誰だこれと休憩時間に確かめたら高田聖子でびっくり。新感線からこんな役までなんと幅の広いことよと感心しきり。あとは音楽業界から渡り歩いていく胡散臭いプロデューサーの福井晶一はここぞというところで声を張って盛上げてくれる。だけど主人公の大竹しのぶがあのパワー不足ではちと厳しい。この日限りの出来か今の実力かは不明だけど、まあまあいい歳になっているからマイクなしの芝居は厳しいか。

2024年10月20日 (日)

新国立劇場主催「ピローマン」新国立劇場小劇場

<2024年10月18日(金)昼>

とある検閲の厳しい国家で警察に呼ばれた男。兄と二人で暮らしており、趣味で短編小説を書いている。一緒に押収された小説は子供が酷い目に遭って終わる話ばかりだが、それで警察に呼ばれるとは考えられないと訴える。やがてやり取りの末に聞かされた話は、自分の書いた小説の通りに殺された子供がいて、兄と共謀して子供を殺した容疑であることと、隣の取調室に兄も呼ばれていること。自分も兄もそんなことはしていないと必死に訴えるが・・・。

悲惨な話で定評のあるマーティン・マクドナーの一本を小川絵梨子が演出。十分に素晴らしい出来だけど脚本の裏テーマである小説家と読者と物語の話を掘りすぎて表である酷い目に遭った子供の話が置いていかれた感あり。まだまだ役者にできることがたくさんある印象。

劇場の壁にも貼られていたしこの日あったアフタートークの頭でも話していたけど、物語を創ることを演出家が追及した結果こうなったのは想像が付く。ただ、アフタートークで真っ先に、救われましたよねと司会が話していたけど、誰が何から救われたかといえば観客が絶望から救われたのは第二で、第一には作家の弟がそこに至るまでの酷い人生のはずだから、そこは両方追及してほしかった。

ちなみに小川絵梨子の過去の本人演出は観逃したけど、パルコ劇場の日本初演(のはず)は観たことがある。あのときはロンドン留学前でバイオレンス全盛時代の長塚圭史が演出して、高橋克実、山崎一、中山祐一朗、近藤芳正が主要4人だった。今回よりももっと乱暴な演技で表の話を強調しながらも、物語を創る裏の話は脚本に十分織込まれているのだからそれでも通じた覚えがある。記憶の美化はあるかもしれないけど。

今回は対面舞台。距離が近いのは結構なことで、奥側の席で観たけれど多少正面寄りの場面はあってもさして損した気分はなかったからそこは気を使って演出されていた。ただし舞台前面端に置かれた美術の数々は客の陰に隠れて後ろからは見えなかったから、前2列くらいとそれより後ろとでは受ける印象はかなり変わるはずで、あれはもったいなかった。バルコニー席は不明。音響が選曲と会場の音響構築と両方でいい感じ。

アフタートークは次があって途中で抜けたからあまり書かないけど、役者全員に小川絵梨子に司会は中井美穂であっているか。全員で英語脚本と小川絵梨子の翻訳を見比べながら細かい語尾や単語は役者が調節もしたらしい。あとは非常に雰囲気のいい現場だと役者が全員強調していたけど、それなら余所の現場はどうなんだとツッコミのひとつもほしいところ。人が多すぎて話を回すのに一苦労で分散していたのがもったいない。

2024年8月13日 (火)

KOKAMI@network「朝日のような夕日をつれて2024」紀伊国屋ホール

<2024年8月12日(月)夜>

とあるおもちゃ会社。他社の真似で出した商品が当たらずに倒産寸前。何とかヒット作を出すべく色々な遊びを試しているうちにいつの間にかゴドーがやって来るのを待つようになる。ゴドーは来ないと言われたが、そこで考え付いたゲームを販売してみる。そのゲームとは・・・。

第三舞台の旗揚げ作品ですが、初見です。上演されるたびに改稿されているらしく、近年のネタを取込んでの仕上がり。開演しばらくはやっちまったかもと思いましたが、そのまま見ているうちに楽しめてきて、観終わったら割と楽しめました。

唐十郎や野田秀樹の芝居の系統、もっと雑な括りでは80年代小劇場芝居ですよね、あっちこっちの世界を行き来してひたすらネタと訳のわからない台詞を大量に浴びているうちにそれっぽいラストに連れて行かれて、結局全てはその数行か数十行の台詞に集約させるためのどたばただったという作りは。序盤が終わった後はダンス以外に黙っている瞬間がないというくらいの台詞の洪水で、ああこれは考えるより先にまずどっぷり浸かるのが先の芝居だと気が付いてからは乗れました。野田秀樹ですら近年はもっとかっちりした芝居が多いし、そもそも80年代演劇は名残を観たくらいだから、この手の芝居の楽しみ方を完全に忘れていました。久しぶりすぎてこの手の芝居の粗筋をまとめることすら下手になっている。

そういう芝居なので、観終わった感想のひとつが「よくここまで芝居に似合う役者を揃えたな」です。身体を鍛えて動けて、膨大な台詞を噛むことなしに明瞭に話せて、小劇場のノリをこなせて、圧倒的なテンションを2時間維持し続けられる役者ばかりを5人揃えていました。誰がいいとはいいません。観たのは2日目ですが、5人全員ばっちり仕上がっていました。

それと脚本が、古いようで古くなりきらない。改稿したって古い芝居は古くなる。構成に関わるネタに「ゴドーを待ちながら」があるから当然のように思えますけど、そちらはおまけで、むしろ古くなりかけている。大本のメッセージが真っ直ぐだから、上演に耐えるのでしょう。そのメッセージ自体が今時の時代精神からすると傍流のような気もしますが、それでもありかなしかで言えばありです。

ただし、ならば脚本が古びていないかというと、古びているかどうかよりも、出てくるネタやメッセージに、年代の齟齬がある。当日のごあいさつによれば、鴻上尚史が22歳のときに出し惜しみせずにネタをぶち込んだと書いていました。おそらくこの芝居の初演時、ネタもメッセージも鴻上尚史の22歳の感性で統一されていたでしょう。それを上演にあたって改稿する際に、ネタの部分が時代だけでなく年齢を重ねた鴻上尚史の感性に引っ張られて、完全に若い感性で統一というわけにはいかなくなった。そこを統一してみせたのは演出というよりは役者の肉体でした。

元ネタがわかると楽しめる場面と、わからなくても楽しめる場面があって、個人的にはこの日一番湧いていたと思われる2.5次元の場面を推します。ただし、ネタとして取上げるにあたってはあれで攻めたつもりになられては困る。どれだけ面白くてもおふざけの範疇です。あとは、こういう芝居なら今朝のネタをそのままアドリブで出すような鮮度の高い場面があってもよかったかと思いましたが、その手の役者の仕掛け合戦はありませんでした。

スタッフワークだと、おそらく学生時代のテント舞台を模した舞台美術と、音響はよかったです。ただ、照明はもっと大量に機材を投入してほしいなと思う場面もありました。こちらは劇団☆新感線のほうが発達しましたね。それと映像はスクリーンを使ったのが場面によっては損で、後ろの幕を目いっぱい使う形にすればよかったのに、ちんまりした印象を受けました。ちんまりした印象がはまる場面もありましたが、後で脇のトラスも気にせずに線を出すのを見せられるとなおさらです。こちらはKERAがプロジェクションマッピングを毎回上手に使っていますね。照明と映像、このあたりは負けずに追いついてほしいところです。

だから楽しめる場面の合間に、ちょっと微妙に感じる場面が混じって、でも全体では楽しめた2時間5分、という感想です。ただし私の感想はおそらく少数派で、この日の来場者は圧倒的に楽しんでいた。その証拠にカーテンコールの拍手がすごかった。過去の芝居を振返ってもあんなに熱い拍手を聞いたのは数えるほどでした。劇場を出てから客席の年齢層をもっと注意して見ておけばよかったと気が付きましたが、若い人多目だったか、元若い人多目だったか、どちらだったろう。

2024年7月 8日 (月)

新国立劇場主催「デカローグ9・10」新国立劇場小劇場

<2024年7月7日(日)昼>

有能な心臓外科医の夫は友人の医者の診断を受けて不能になったと告げられる。子供のいない夫婦でもあり、まだ若い妻には別れようと切り出すが、妻は夫を励ます。だが妻はもっと若い学生と浮気をしていた(デカローグ9「ある孤独に関する物語」)。父を亡くした兄弟が、父の暮らしていた部屋を訪れる。必要以上に警備装置が設けられていた部屋にあったのは、切手のコレクション。処分しようと父の友人を呼んだら、その道では国一番と知られた高額なコレクションだと告げられる。その前に息子に渡していた切手を取返そうとするが、すでに他人の手に渡ったところだった(デカローグ10「ある希望に関する物語」)。

デカローグ9は疑いと事実とすれ違いが重なりあう、芝居らしい展開。どこからどうみても妻が悪いはずの設定を、夫の不能という男性にとっては致命的な設定ひとつで夫側の力関係をへこませるのが実によくできた1本。クローゼットで泣く場面のあのいたたまれなさ、からの後半のもう一転は手に汗握るところですが、そうなるんだというラストが、デカローグのテーマなのかなと。後述します。

出だしがやや硬かった夫役の伊達暁と妻役の万里紗でしたが、途中からギアが入って観入りました。図々しい浮気相手の宮崎秋人はもっと図々しくてもよかったかも。スタッフワークはおおむね問題ありませんでしたけど、Ⅸの文字映像は舞台美術の枠にきっちり収めてほしかった。美術のセンターがずれていることが連絡されていなかったのか。センターブロックで観たので目立ちました。

デカローグ10も切手を巡って兄弟の関係がどんどん変わっていく芝居らしい展開。締めの1本らしい展開に、兄弟の役作りの明るさもあって割とさっぱり終わりました。こちらは落着くところに落着いたラストで、デカローグ9の反対みたいな話です。

兄役の石母田史朗と弟役の竪山隼太だけでなく、怪しい役の人たちも含めて、全員割と楽しんで演じていたように思えた1本でした。

で、プログラムAプログラムBプログラムCプログラムD、そしてこのプログラムEと、10本全部観た感想です。

一応無理やり考えたこととしては、人は大いに間違えるというのがテーマだったのかなと。それが丸く収まることもあれば、自分にも相手にも致命傷になることもある。何なら本当に命を奪うこともあって、残された人はそれを抱えて生き続けることになる。間違いがどう転ぶかは本当に紙一重で、そこには人知を超えた何かが働いているとしか言い様のないことがある。10本の芝居はそれを描いていたのかなと。

その目で眺めると、ハッピーエンドかバッドエンドかはともかく、10本中8本は一応の結論が出ました。が、デカローグ7と9の2本は、このあとでこの人たちは新しい関係を構築していかないといけないのだな、紙一重はハッピーエンドかバッドエンドかの2択を許さないのだなと重い感想を投げかける話でした。

そこから推測して、人生が本当に紙一重なればこそ、自分はできる限り善く生きるべきで、相手の過ちはできる限り許すべきで、そのような寛容こそが世の中には求められていると訴えていたのだ、と考えました。

ならばよく出来た企画でした、となるかというと、なりません。役者はほぼ全公演で熱演でした。このプログラムEは、単発で観ても面白いかもしれません。ただ、プログラムA、B、Cの印象が悪すぎたのがひとつ。10本観てテーマを浮かび上がらせるような趣向なら1日での一挙上演まで含めて工夫するべきだったという考えが変わっていないのがもうひとつです。演出しきれないならもう一人演出家を呼んできてもよかった。

プログラムAの感想に書いた通り、私のここまでの不満はすべて企画の段階で撒かれた種のように思えます。手のひらを返す準備はしていましたが、私は返すには至りませんでした。もったいない企画だったなというのが観終わっての感想です。

2024年7月 6日 (土)

新国立劇場主催「デカローグ7・8」新国立劇場小劇場

<2024年7月5日(金)夜>

高校生のときに教師の子供を産んだ女性。生まれた子供は自分の母親の娘として届けが出されて自分の妹として暮らしているが、子供を子供として名乗れない生活に我慢の限界が来た女性は娘を誘拐してその父親の元に隠れる(デカローグ7「ある告白に関する物語」)。大学で倫理学を教える女性教授は著作を何冊も出してもいる。その翻訳をしてくれている女性翻訳者がアメリカから訪ねてきて、ゼミの倫理討論を見学する。そこで話を聞いていた女性翻訳者も、倫理の議論としてひとつの題を出す。第二次世界大戦下で、ユダヤ人の少女がホロコーストから身を守るためにカトリックの洗礼が必要となったが、事前に請負ってくれていた立会人の女性が土壇場で拒否したのは倫理の観点からどうかというのだ。実は女性翻訳者がその少女、拒否した女性は女性教授だった(デカローグ8「ある過去に関する物語」)。

デカローグ7は子供を産んだ女性と娘の話かと思わせつつ、女性とその母親との確執に加えて、それぞれの相手との関係を描いた話で、牧師と教師の子はグレるという言葉を思い出しました。役者はなかなかの出来でしたが、主要登場人物全員に観ていて癇に障るところや煮え切らないところがあって、さらわれた妹実は娘の態度も掴みかねて、よくできてはいるものの観終わってから不完全燃焼が残りました。

デカローグ8は女性教授と女性翻訳家が相手と過去に向合う話。女性教授の高田聖子も、女性翻訳家の岡本玲も、抑え気味に進めていたのが好印象です。上演上は、昔のアパートを訪ねてさまよう場面が初め何の場面なのかわかりにくかったのが惜しいところ。企画上は、岡本玲の見た目が物語から推測される年齢よりかなり若く見えてしまうところと、ホロコーストとユダヤ人の話が昨今は昔ほど素直に観られなくなっているのが時期を外してしまったところ、その2点が惜しいです。住職の娘の高田聖子に教会にいかないという台詞を言わせたところに内心受けたのは駄目な小劇場ファンです。天使役の亀田佳明が初めて口をきいたところも含めて、こちらが最終プログラムになった人向けにも終わった感を味わってほしかったのだろうなという演出でした。

今回は過去6作よりも映画的な無駄が少ない2作だったというのが、観終わった直後の感想です。

2024年6月15日 (土)

フライングシアター自由劇場「あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た」新宿村LIVE

<2024年6月7日(金)昼>

王が滅ぼした国の女王との結婚を数日後に控えたある日、家来が王に訴える。息子の婚約者がである女性が、息子の友人と心を寄せ合っているのだという。女性は友人の女性に別れを告げて森に駆落ちするが、これが息子に告口して二人で森に向かう。その夜の森では職人一同が王の結婚式で上演するために稽古に励んでいた。だが森の中では妖精の王と女王が喧嘩中であり、これを何とかするために妖精王はいたずら好きの妖精パックに命じて目を覚まして初めて見た者を好きになる媚薬を女王に塗るように渡す。妖精パックがあちらこちらで媚薬を塗ってしまい・・・。

えーと、すいません、日にちを置いて感想を書こうとしたらチラシがどこかに紛れてしまいました。が、Wikipediaを見たところ家来の「娘」が婚約者の「男性」がいるにも関わらず別の「男性」と恋仲になり、という筋ですね。なんか間違いながら観ていたようです。大勢に影響はありませんが、そのくらいの集中力だったということで、あらかじめ断っておきます。

元は「真夏の世の夢」ですが、人間の王と家来に関わる話、妖精の話、稽古する職人の話、役者がそれぞれで1役ずつ持った上で、さらに役者としての独白を持たせるように構成された芝居です。全員白い衣装で、舞台は白い幕に、木とか城とかの形に切り出した白いパネルを役者が動かします。だからしつらえだけなら学芸会と言っても当たらずとも遠からずです。

そのくらいぎりぎりまで削った舞台美術にも関わらず、やっぱり観るに値する出来に仕上がっています。ひと言でいえば役者が達者。王様から壁(笑)までこなす島地保武と、軽く明るい声がアクセントの谷山知宏のコンビがいい味出しています。この2人に、割とフラットに演じた大空ゆうひの3人が身体に存在感がある。四角関係の婚約騒動組も頑張ります。

なのですが、役者だけではない。やっぱりこれは演出の串田和美の意思が色濃く貫かれているから観られる芝居になっているんですよね。終盤に暗転して「壁を壊せ」という声と工事機器で壁を壊す音を挟んでくる。この壁が、劇中の王と職人と妖精であったり、それを演じ分けないといけない役者であったり、あるいは芝居の世界と役者自身の独白による現実の世界との壁でもあり、しっかり作り込んだ商業演劇とそこまでやらなくたって芝居は芝居というミニマムな演劇との壁でもあり、宝塚からダンサーまで多岐にわたる出自の役者の混成チームのことでもあり、いろいろ捉えられます。とにかく役者になんでも分け隔てなく演じさせることで、そういう壁を取っ払って見せたところに意味があるのかな、と受取りました。もちろん、客に向けても壁を取っ払ってみろよと訴えるところもあるのでしょう。

それは今の時代となってはやや純朴に過ぎるメッセージではないかと思わないでもないのですが、それにも関わらず一定の説得力を持って成立っているんですよね。挙げたようないろいろな壁を取っ払った芝居を実際に創ってみせたというだけでなく、様々な立場から長年芝居を創り続けてきた、松尾スズキに「真面目に不真面目をしている」と言わしめた串田和美の矜持みたいなものが支えになっているのでしょうか。「K.テンペスト2019」もそうでしたけど、いろいろなアレンジを施すことがあっても芝居の核は外さない自信があるのかもしれません。

その串田和美の役者ぶりですが、やや声は小さくかすれているものの以前とさほど変わりません。それより独白の場面とは一転、パックを演じているときのあのじゃれるような、思い出しながらやっているような、ふざけた様子はまさにいたずら好き妖精ですね。

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