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2022年10月17日 (月)

新国立劇場主催「レオポルトシュタット」新国立劇場中劇場

<2022年10月16日(日)昼>

オーストリアに住むユダヤ人の家族。迫害から逃れて暮らすウィーンで長男がキリスト教に改宗してまで努力して成功者になったメルツ家と、父母は田舎に暮らすが子供たちがウィーンに出てきてメルツ家の長女と縁戚関係になったヤコホヴィッツ家。交流の多い両家が、メルツ家でクリスマスを祝う1899年から、1900年、1924年、1938年、1955年を通じて、一族の歴史を辿る。

一言でいえば近代のユダヤ人の苦悩の歴史を描く話。だから重たいに決まっているのだけど、観ているこちらと、上演しているあちら側と、両方とも脚本に歯が立たなかった感がある。

観ている側の話をすると、2家族4世代にわたる家系の把握に失敗した。公式サイトに役者付きで家系図が載っていて(会場にも掲載あり)、ネタバレにもならないから、最初に目を通しておいたほうがいい。覚えなくても、2家族あって苗字を知っておくだけでかなり変わるから。

小劇場だと同じ役者が子役から老人役まで務めることが多いから理解の助けになるけど、今回は本当に子役が参加していたのでそれは叶わなかった。ただ本物の子役を使うことで場面単位では出来が上がるし、特に最初の1899年とラストの場面は子役を参加させた甲斐があるだけに痛し痒し。

あとレオポルトシュタットがウィーンの区のひとつで、ドナウ川の本流と旧流に囲まれた場所で、ユダヤ人が多く住む地域というのも前知識として知っていると役立つ。帰ってからWikipediaで調べて知るよりは先に知っておいたほうがいい。台詞から察するにそこから出世して裕福な地域に移り住んだのが今回の舞台なのかな。移民の多い地域みたいだから、わかる人にはウィーンのレオポルトシュタット出身というだけでたぶん苦労とか差別を想像させる材料になるんだと思う。

そしてもうひとつ。自分はユダヤ人の歴史に詳しくない。ユダヤ教とキリスト教との違いとか、パレスチナとイスラエルの話とか、ホロコーストに限らずもっと昔からヨーロッパで迫害された歴史とか、あとおそらく現代でもその手の差別が残っているであろうこととか。それをはっきり伝える芝居だけど、いきなり観て理解しろというのも難しい。知識でも経験でもユダヤ人のことを知らなさすぎる。

最初の1899年の場面で家長であるエミリアが写真に名前を書く場面、あれは日本でも似た感覚があるからそこをとっかかりにしよう、と思ったらエミリアが早めに退場して、そこから自分の理解が迷走した。ラストで脚本のトム・ストッパードが投影されたレオが「昔のことは知らない」ってはっきり言った台詞で、改めてとっかかりを見つけたけど、遅い。

日本人の自分がこれを理解するためには、1955年からさかのぼって1899年になってさらにもう2場、中心にいたヘルマンが改宗する場と、それより前のエミリアが迫害された子供時代くらいをくっつけて、やっと理解がかするくらいだと思う。ユダヤ人の歴史を理解するのに2時間20分では短すぎた。

で、おそらく上演している側もユダヤ人の歴史をそこまで理解できていない。台詞の拡がりに壁があって厚みや奥行きが出せていない。かといって、自分の人生経験と役者の想像力で戦うところまでもほとんどたどり着いていない。エミリアの那須佐代子と、ローザの瀬戸カトリーヌが最後に見せたくらい。手強い脚本で見かける、脚本負けした仕上がりの典型。異論は認める。

相変わらずスタッフワークは盤石で、特に張出し舞台に柱を載せて盆を回して奥行きのあるアクティングエリアと場面転換をつくりつつ減っていく家具で羽振りを知らせる美術と、時代によって変わる衣装とが、力作。

2022年5月 7日 (土)

新国立劇場主催「ロビー・ヒーロー」新国立劇場小劇場

<2022年5月6日(金)夜>

ニューヨークのアパートでロビー駐在の夜勤警備員として働くジェフ。毎晩勤務を見回りに来る上司は真面目だが尊敬できる。毎晩のように勤務中にアパートを訪ねてくる警察官は住民の一人に入れあげている。そのパートナーとなった見習い中の女性警察官はそうと知らず頼れるパートナーに好意を寄せている。ある日上司の様子がおかしいのでジェフが尋ねると、弟が警察に逮捕されたといい、何かできることはないかと心配する。パートナーを待つ女性警察官には好意を知らずうっかり警察官が住民を訪ねる目的をばらしてしまい、警察官に睨まれる。

ネタバレを回避しつつ一言で言ってしまえば、論語の有名な一説。むしろ孔子がなぜああ言ったのかを現代のシチュエーションで描いた会話劇。もっと小さいところでは、言いたいけど言えないことが人にとってどれだけ辛いかを描いた話ともいえる。これが4人の会話量かというくらい台詞だらけで休憩込3時間弱の芝居だけど、後ろに行くほど引込まれる力作。

脚本上、上司役が黒人であることが最初はよくわからなかったこと(アメリカの上演なら黒人が演じるから問題にならない)を翻訳で調整できなかったかという願いと、これだけやったのにあのラストは緩くないかという点にツッコミはあるけど、それくらいどうってことないと言えるくらいの脚本だった。親世代の話が遠まわしに土台になっているのが上手い。

駄目な役も愛嬌があって憎めないので、どの役の立場に感情移入するかが観る人によって変わりそう。これは観た人の感想が知りたい。自分はおっさん組の立場に同情してしまった。

場面転換以外で効果音はあっても音楽がないにも関わらずダレさせなかった役者が大豊作。愛嬌のある表情と台詞回しにくにゃくにゃした動きでジェフを演じた中村蒼が、台詞を言っていないときの仕草も含めて目が引かれる。その愛嬌を際立たせるのが上司の板橋駿谷と警察官の瑞木健太郎の(役としてはぶれるけど)ぶれない役作り。見習い警察官の岡本玲は若干硬かったけど終盤の説得場面は素晴らしかった。

桑原裕子演出は久しぶりだったけど、ここまで仕上げて来るとは正直予想していなかったのでうれしい誤算。それを支えたのは万全にして安定のスタッフワークだけど、今回はアメリカ現代劇にも関わらず日本語として違和感をほとんど感じさせなかった翻訳を挙げておく。

2021年6月27日 (日)

新国立劇場主催「キネマの天地」新国立劇場小劇場

<2021年6月26日(土)夜>

昭和初期。大作映画の打合せと称して監督から劇場に呼ばれた4人の映画スター女優。キャリアの長短はあれど売れっ子の4人はそれぞれ自分が一番であることを主張しあう。ところが劇場に着いた監督は、1年前に監督の妻が同じ劇場で亡くなたった演目の稽古を伝える。不審に思った女優たちを引きとめたのは、監督の妻を殺した犯人を探すという言葉だった。

面白かった。誰が観ても面白いし、芝居を観たことがないひとに最初の1本としても勧められます。でもそれ以上に、解像度の高い演出が隅ずみまで行き届いていることが伝わってくる1本でした。新型コロナウィルス下なのと、あと1日の千秋楽に感想が間に合わないのとで控えますけど、そうでなければ緊急口コミプッシュを出していました。こじらせた観客の感想もありますけど、それは後半で。

井上ひさしは構成に凝った脚本家だったけど、加えて時期によって作風が変わる脚本家でもあります。初期はぶっとんだ作風、中期は設定のうまさで笑わせる作風、後期は政治色強めに訴える作風で、これは中期の1本。上演するだけである程度伝えられるものがある初期や後期と違って、面白さをきっちり伝えられないといけない。そこを、実力十分、しかも小川絵梨子と仕事をしたことがあって実力保証付きの役者を集められたことで、脚本に求められるハードルをクリアして芝居に臨めたのは、まず勝因のひとつです。

今回の設定は女優の嫌らしい面をコメディで描くことが一番に求められますが、稽古という劇中劇でそれぞれの立場を劇中劇でも表現していくことも必要とされます。さらに劇中劇にかこつけた演技論や役者論や芸術論が展開されますし、相手の演技のへたくそさを詰る場面もあります。本当にへたくそな役者を当てると笑うに笑えなく脚本上の設定ですが、今回起用された高橋惠子、那須佐代子、鈴木杏、趣里の4人が文句なしにいい出来です。

それは監督、助監督、助っ人役者の3人の役にも及んでいて、女優を相手に、一同を集めた理由を隠しながら話を進める立場です。やはりへたくそはキャスティングできない。千葉哲也、章平、佐藤誓の3人は適役で、特に助っ人役者は複数役を器用にこなすことができる設定で役中役(?)まで求められますが、佐藤誓が大活躍でした。

そして演出。脚本構成の読解ならまかせておけの小川絵梨子ですけど、この脚本は中学生の時に演劇部で上演して自分も出たことがあるというアドバンテージがあります。コメディだからわかりやすいと言われればそうかもしれませんが、だとしても場面のひとつひとつ、役それぞれの立場、役と役との関係性、本当にどれひとつとっても迷いのない演出がされています。

スタッフワークも芝居に集中できる仕上がりです。ただ、特に今回は、最初に劇場に入って、具体的で場面転換不要に作りこまれた美術を観てびっくりしました。最近観ていた芝居が、抽象的だったりひとつの場面を複数に使ったりする美術が多かったので。ストレートプレイらしいストレートプレイは1年以上観ていなかったかもしれません。女優陣の衣装も時代がかっていて見目がよかったです。

観ていてひとつだけひっかかたのは、照明機材を全員素手で触っていたところ。私の学生時代はまだ素手で触るのが危ないのが普通だったので、今はLEDだから熱くないのか、小道具として火傷しないように見た目だけの照明機材だったのか、いらぬ想像をしてしまいました。いちおう助手役は手袋を持っていたけどはめていませんでした、というのはまあ、荒探しですね。

面白い脚本を面白く立上げるのは難しいところ、大成功でした。劇中でも言及されていたアンサンブルを体現した仕上がりです。「井上ひさしを小川絵梨子が演出できるか気になる」なんて上から目線で書いてすいませんでした。

ここまでは、ですます調で一般的な感想。この後はこじらせた感想。ちょっとネタバレを含みます。

劇中に「優れた芸術は人間賛歌」という台詞があって、それはそうかもしれないけど、それを作り出す側の人間に、実に性格の曲がった役を取りそろえたところが井上ひさしの意地悪なところ。

新型コロナウィルスの騒動でいろいろ考えたことに、専門家は専門外の分野については素人だし、専門性は人間性を保証しないというのがある。芸術分野について具体的に言い換えると、人気や実力がすべてであり、人気や実力があれば人間性は目をつぶる。人間性がよくても人気も実力もない人の立場は低い。人間賛歌となるような優れた芸術があったとして、それを創り出した人間の人間性はまったく別の話。

その点、今回の脚本は実に良くできていた。監督の、亡くなった妻に対する想いがどれだけあったとしても、自分が監督する映画のために活用して疑問を抱かない態度。スター女優や監督の、無名の役者に対する無理解や、意地悪を超えた深刻な嫌がらせや態度の数々。大事と思った人への惜しまない説得と、大事と思わない人への残酷な仕打ちが共存している。「クローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇という」言葉そのまま。

ラスト場面なんて、最後までコメディで通したけど、あれは内容だけ見たらひどい場面で、ちょっと演出を変えるだけで悲劇の幕切れになる。むしろ書いたときには井上ひさしはそれを狙っていたんじゃないかとさえ疑っている。

あれだけ解像度の高い演出をやってのけた小川絵梨子がそこに気が付いていなかったとは思えない。今回は新国立劇場の「人を思うちから」というテーマに沿って選ばれた脚本で、もちろん上演準備のために新型コロナウィルスより前から決まっていたはず。だけど演出方針は稽古前まで、何なら稽古中でも、変えられる。明るい芝居を提供するためにコメディに徹したのか、どうなのか。ひょっとしたら、「人を思わないと人はどこまでも残酷になれる」みたいな裏テーマをこっそり課して、この脚本を選んだのではないか。

なんでそんなことまで疑うかというと、解像度の高い演出をされた芝居だったのは間違いないけど、だからというか、何となく、観終わって違和感が残ったのですよね。「タージマハルの衛兵」も解像度が高い演出の芝居だったけど、あのときはこういう違和感はなかった。それと井上ひさしの芝居にしては、女優同士の嫌味なやり取りがふんだんにあるにもかかわらず、すっきりとしたコメディに見えてしまった。井上ひさしは、こう、人間の悪い面を「人間のたくましさ」「庶民のしたたかさ」みたいな扱いで丸めてしまうところがあるけど、悪いものは悪い。本当にいい面だけの登場人物が目立ってくるのは後期です。

芸達者な役者と解像度の高い演出で完璧なコメディを立上げた結果、脚本に含まれているけど掬いとれていない何かも一緒に立上った、と仮定して考えた妄想です。穿ちすぎかもしれませんが、こじらせた観客は、そんなことも妄想してしまいました。

そういう妄想まで含めて、観られてよかった1本です。

<2021年6月28日(月)追記>

新型コロナウィルスの対策を書くのを忘れていた。小劇場は入口を地下(初台駅の改札を出てから最初に見えるところ)に限定して、中劇場やオペラの客と混ざって建物内が混雑するのを防いでいた(正面入口を入って右側の階段は封鎖)。開場は開演45分前から。外から中に入った時点で検温とアルコール消毒。ここで一旦入場前ロビースペースになってクロークだった個所に来場者カード記載スペースがあるので記載。チケットは通常の階段横カウンターとは別に、いつもだともぎり横にある関係者向けの引取カウンターを階段正面に配置してもぎり周辺で人が滞留しないよう調整。入場は、もぎり手前で来場者カードを回収してからチケットを見せて自分でもぎり。チラシ束はロビーに置いてありほしい人が自分で手に取る。物販はパンフレットのみ。スタッフは会話禁止のボードで案内、マスクはしていたけどフェイスガードはしていなかったか(失念)。場内アナウンスは、接触確認アプリを使うなら音が鳴らないように、使っていないなら電源オフにするようにアナウンス。

入場後ロビースペースに、いつもならポスターや解説文章の拡大コピーが貼ってあったり舞台美術模型が置いてあったりするけど、今回はその手のものは全部外して人が集まらないようにしていた。飲食は最低限にするよう案内。椅子は、個別の椅子は一方向きになるように間を空けて配置、ベンチは1人置きの間隔になるように座面貼紙で調整。トイレは小便器は1個飛ばしになるよう貼紙。荷物を預けるスペースがない代わりに、座席下に荷物を置くための使い捨てカバー? のようなものをロビーで提供。休憩時間は正面ガラス口を開けて外に出られるけど一方通行で、再入場時は検温とアルコールの入口側からに回す。この公演のチラシと配役表はいつも通りパンフレット物販の横で提供されていたのが個人的には非常に喜ばしい。

これまで考え出された対策を、広いスペースと多めに配置できるスタッフを十二分に生かして実践していた。慣れてきたのもあるけど、新型コロナウィルスの(少なくともこれまでの)対策と観客の快適さの、変な表現だけど妥協点の頂点という印象。ただし「広いスペースと多めに配置できるスタッフ」があってこそだよな、とも思う。

2020年10月 4日 (日)

新国立劇場主催「リチャード二世」新国立劇場中劇場

<2020年10月3日(土)昼>

側近に恵まれないリチャード二世が統治下のイングランド。諸国との戦争が続きしかも負けが込んでおり、国庫は足りず民は重税にあえいでいる。そこに従弟のヘンリーが、2人の叔父にあたるグロスター公暗殺の主導者として反目する貴族のボリンブルックを告発する。王の説得もむなしく反目が解消できなかったため、決闘で勝負をつけることになったが、当日立会った王は決闘を中止させ、2人を国外追放する。この処置を苦にしたヘンリーの父ランカスター公が病を得て亡くなると、リチャード二世は戦費に充てるためその財産と所領を没収する。あまりの対応に怒ったヘンリーは、名誉と財産所領の回復を求めるため、兵を率いてイングランドを目指す。

ヘンリー六世」「リチャード三世(見逃した)」「ヘンリー四世」「ヘンリー五世」と続いたシリーズの最後は押さえておきたくて観劇。ここで出てくるヘンリーが後のヘンリー四世で、リチャード二世からどうやって王位を受継いだのかが描かれる。満足度は高い、非常に高い芝居だったけど、その満足の理由に悩む不思議な仕上がりだった。以下、どこまでネタばれかわからない内容を含めて考えてみる。

誤解を恐れずに書くと、おそらくこの脚本はそこまで面白くない。ヘンリーが兵を率いて戻ってくるけど闘いを行なうわけでもなく、フォールスタッフのような道化役が出てくるわけでもない。普通に演出したら、昇り詰めるヘンリーが、わがままな王であるリチャード二世を引きずり下ろすよう演出されるはず。

ただし今回、ヘンリーは謙虚で、(タイトルロールだから当たり前だけど)リチャード二世の視点を強調した演出だった。それで観ると、リチャード二世の哀れなところがよくわかる。
・仲裁しても決闘を行なうことを止められないくらいに有力な臣下からは軽く見られていた
・フランスから王妃を迎えた結婚の時点で結婚式の費用を立替えてもらうほど国庫が不足していた
・耳に痛いことを忠告してくれる叔父たちは、自分に忠誠を尽くしてくれているわけではなく、亡くなった自分の父(叔父たちの兄)への畏怖と憧れから忠誠を誓っている
・それで頼った側近の政治能力がいまいちだった
・帰国が1日遅かったばかりに側近の傭兵隊が解散してしまった不運
・自分が招いた結果ではあるけど、ヘンリーが優勢と見るや次々と諸侯が鞍替えしていく様を目の当たりにする
・それでいて最後にもうひと謀反が企てられるくらいの臣下の忠誠は残っていたし、真っ先に処分された側近の中には死の直前まで忠誠を失わない者もいた
・王妃との仲は最後の最後までよかった
・ヘンリーを「民や使用人にまで挨拶して頭を下げている」と侮蔑していたが、最後に王や王妃に同情を寄せてくれたのは使用人だった

決して悪い面ばかりだったわけではなく、能力を備える前に王位について、能力をみがいて王位を固める前に戦争を重ねざるを得なかった男の悲劇として描かれていた。タイトルは「リチャード二世の悲劇」としたほうがしっくりくるくらいで、ひとことで言えば諸行無常。そこが自分の琴線に触れて満足度が上がった。それでいて庶民役の数名が舞台の外から騒動を眺める場面があって勝手にやってらあな感も出していた。

ここまで整理して考え直すと、岡本健一はリチャード二世の弱いところ、不安なところを強調して、諸行無常の演出に資していた。ただ、王妃と仲が良く、一部臣下の忠誠も残った魅力、おそらく優しさについて、王妃との別れの場面以外でももう少し前面に出せるとなおよかった(それは戦争能力の欠如にもつながるし、たぶん、神への祈りも欠かしたことはなかったんじゃないかという想像にもつながって、聖職者が最後の謀反を主導したことの裏付けにもなる)。演出で、冒頭の決闘と、病のランカスター公に対する場面とを工夫することである程度調整できたはず。

だからといって不満なわけではなく、休憩をはさんで3時間20分の大作を引っ張り続けた仕上がりは見事。役者はリチャード二世の岡本健一とヘンリーの浦井健治も含めて、台詞の量と評価が比例する状態で、脇まで含めてみんな上手という幸福な舞台。めったに味わえない大量のベテラン組の声と台詞回しを堪能するのが正解(配役表がないので役名と役者名が一致せず、さらに一晩たったら王族以外の役名も忘れて、誰がよかったのか具体的に言えない状態)。そういえば全然出てこないなと思った那須佐代子が終盤に笑いをさらったのはご愛敬。

スタッフワークも十分で、ラストの音楽は前にも聞いたような気がするけど演出に合っていて、曲名が知りたい。美術だけ、通常場面はいいけど、城の場面にあのハリボテが必要だったか、ハリボテ感を演出していたのだとしても疑問で、安く見えてもったいない。継続出演の役者、スタッフが多い中で数少ない理由あり交代だけど、予算が足りなかったか。

全体に、大河企画の締めにふさわしい1本だった。

以下新型コロナウィルスメモ。

・演出では、可能な場面では配慮したかもしれないけど、至近距離で言い合う場面もあり、わざわざ距離を確保したような雰囲気は感じられなかった。ごく素直に演出したように見える距離感。

・最初は1席飛ばしだったけど、途中から全席を売出したのは以前書いた通り。自分は狙っていたので全席売出しよりまえにチケットガイドで確保。

・入りは、センター前方が埋まって、左右前方が端は空いていたけど通路よりは埋まって、センター後方は前2-3列が埋まってそれより後ろは一部が隣あわせだけどおおよそ1席飛ばし、左右後方は前が1席飛ばしで後ろ数列は空席が目立った。2階席は不明。当日券でも1階良席が確保できる状態。距離が気になるなら後ろを選べる。ざっとした感覚で7割切るくらいの入り。

・来場者用紙に記載して入口前で渡す仕組み(充てられていたのはクロークスペースだったか)。他の人の鉛筆を使わないで済むよう、使った鉛筆は使用済みの箱に入れられるよう配慮。当日券限定か、チケットガイド経由で買った人は不要だったか、不明。とりあえず書いて出した。

・そのあとで、検温、アルコール消毒、チケット見せて自分でもぎり、チラシはほしい人が自分でピックアップ、だった。

・劇場全体が不要な個所を閉鎖していて、1階奥のテーブルスペース、2階の舞台衣装展示スペースに入れなかった(おそらく入場しないとトイレにたどり着けない)。入場後のロビーは、ペットボトルの飲物だけ売っているけど食事やコップ飲料の提供はなし。椅子とベンチが全部窓向きに配置、椅子は約1脚分スペースを空けて配置、ベンチは1人分のスペースが空くように張り紙。細かいところでは男子トイレの小便器もひとつ置きで、間隔が東京芸術劇場ほど広くないといっても本多劇場よりは広いし、それはさすがに念を入れすぎでは。

・過去には掲示されていて感動した王朝図などはQRコード掲示のみ。閲覧のための人混みができるのを嫌ったか。公式ページの関連資料からアクセスできるので、気になる人は事前に見ておくとよい。ただし、今回の芝居に限ればおそらく事前チラシ(掲載されているか不明)の中にある小さな家系図のほうが役に立つ。

・休憩時間中に場内消毒などはなし。見た目でわかった対策はドア開放のみ。

・場内アナウンスはうろ覚えで、「スマートフォンで接触確認アプリをご利用のお客様は音が出ない状態に、それ以外のお客様は電源からお切りください」だったか。ただそのせいかどうか、上演中にスマホを確認する客がいて集中をそがれた。こういう理由があるのに、アナウンスでそれを徹底するのは難しい。

・退場は順番にとアナウンスされていて、終演時はその通りだったけど、休憩時間のトイレやベンチの争奪には役に立っていなかった。休憩ありの芝居でどう運営するか難しいポイント。見かけた女性用のトイレ行列は三重の折返しになっていて、あれじゃ距離を空けても密になることは変わらなくて、並ばせ方も検討が必要。

・休憩時間中にマスクを外してしゃべる老紳士を発見。後半が始まるとマスクをしていたけど、意味が分からない。あれは頭の中にどういう新型コロナウィルス対応がインプットされているのだろう。

・大多数の観客はマスクつけっぱなし。客席では静かでロビーでは会話はそれなりにしていた。ロビーのざわめきは通常芝居を思い出させるものだった。センター前方の客席が埋まっていたためか、終演後の拍手も塊感が出ていた。

願わくはこの公演が最後まで完走できますように。

2019年12月16日 (月)

新国立劇場主催「タージマハルの衛兵」新国立劇場小劇場

<2019年12月14日(土)夜>

タージマハルの建設中、建設が終わるまで誰も見てはならないという皇帝の命令で、囲いの壁の前で夜中の警備を担当する2人の兵士。方や父親が将軍で真面目な性格、方や庶民の出だが空想癖がありおしゃべりが止まらない性格、正反対の2人だが子供時代からの親友である。建設が終わって明日が公開の晩、建設家が皇帝に頼みごとをして逆鱗に触れたという噂を話し合う。

どんな芝居かわからないけどこの座組みで変なことにはならないだろうと観に行ったらとんでもない。笑える場面もありつつ、現代的かつ普遍的な広い分野のテーマを複数扱って、「スポケーンの左手」もびっくりの舞台効果を駆使して、どうしてこうなったと言いたくなる展開から、美しいラスト。「ことぜん(個と全)」のシリーズにふさわしい内容と、1時間40分の2人芝居でここまでできるのかという仕上がりだった。成河も亀田佳明も言うことなし。

スタッフワークだってレベル高いのに、すべてが役者と展開に集中して、観終わるまで気にならないのが素晴らしい。翻訳もこなれて、公式サイト(こことかここ)によれば役者の意見も聞きながら仕上げたとの事。最近だとKERAが翻訳芝居を上演するときに潤筆として言葉の調整をするのが見事だけど、今回も見事。というか、最近は翻訳のレベルが全体に高い。狙ったわけでもないけどいかにも翻訳、という芝居がない。

話は戻って、脚本の出来が素晴らしい前提で、この色々のどこに演出が関わっているのか、観ただけではさっぱりわからない。わからないけど、やっぱり演出の妙があってこその仕上がりなんだろう。小川絵梨子はやっぱりすごい。

平たい舞台であまり端も使わず、見切れもほとんどないので、時間があるならZ席でいいから観てほしい。

テレビ朝日/産経新聞社/パソナグループ製作「月の獣」紀伊国屋ホール

<2019年12月14日(土)昼>

第一次世界大戦が終結した後のアメリカ。オスマン帝国から亡命したアルメニア人の男が、結婚相手として孤児院からひとりのアルメニア人少女を呼寄せる。厳格な家父長制の家族で育った男は同じような家庭を求めるが、おおらかな家庭で育った乗除とはなかなか馴染めない。男は子供を求めるがなかなか望みがかなわない中で、ふたりの生活はすれ違い始める。

翻訳ではトルコと言っていたようだけど、公式サイトや年代を調べるとオスマン帝国のほうが正しいか。オスマン帝国によるアルメニア人虐殺という重い話題を中心に、アメリカに亡命した男と、その男が写真だけで呼寄せた少女を通して、苦悩が克服されうるのかを描いた芝居。地味で重いけど緊張感の続く良作。

すれ違う夫婦の展開を描いた眞島秀和と岸井ゆきのはすばらしい。ただ映画的というか、前半の1幕がいきなりすごい分、その後が丁寧ながらもややゆったり目。後半幕開けに近所の孤児が登場してからがぐっと目の覚める展開に。語りの久保酎吉もよかったけど、孤児役の升水柚希が一番舞台らしいエネルギーを放射して、それに合せて周りも乗っていた。続けるならこのまま中途半端にまとまらず無事に伸びてほしい。スタッフでは照明が美しかったけど、場面転換でも会話中でも音楽を、しかも同じ音楽を使いすぎ。音楽減らしてもいける出来だったのに。

あとあんまりだったのがチケット管理。このテーマと価格で満席にならないのはしょうがないから、後ろが空席になるならまだしも、中途半端にセンター後方席に2列空席列を作って(1列が丸ごと空席、その後ろが両端に1-2人しか座っていない状態)、その後ろに2列くらい客が続く無様な客入れ。製作のどこかが招待用に押さえさせたのに集客努力もせずに放置した感。昔一度だけ、新国立劇場の小劇場で1列が空というのを見たことがあるけど(たしか「アジアの女」だったか)、今の日本で土曜日昼間という一番のゴールデンタイムでこんなもったいない客席を作るな、それなら後ろの客席から2列ずつ前に動かせ。

2019年9月20日 (金)

こまつ座「日の浦姫物語」紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

<2019年9月19日(水)夜>

夫婦子連れの説教聖が語るのは日の浦姫の物語。平安時代の奥州の豊かな庄。都から迎えた妻を愛する領主との間に双子の兄妹が生まれたが、産後の肥立ちが悪く妻は亡くなってしまう。そこから15年後、双子は順調に育ったが領主である父が亡くなる。その葬儀の晩、仲の良かった双子は交わり、妹である日の浦姫は身ごもってしまう。領主の弟の宗親は、兄を都へ遠ざけ妹を引取るが、兄は都への道中で亡くなり妹は元気な子を産む。このままではいけないと宗親は産まれた子を海に流すことに決める。

ちなみにここまでで前半。その後で助かった子が無事に育ち、というのが後半で、近親相姦モノというのはチラシからなにからネタばれだから書いていいとして、問題は仕上がり。説教聖夫婦の辻萬長と毬谷友子はいいとして、他の役者はエネルギー不足。特に前半は、収録用のカメラに合せて演技したかというくらい声に元気がなかった。初期の井上ひさしらしく、近親相姦という危ない設定と笑える台詞が同居した脚本で、それを御す勢いと切替が大事なはずだけど、そこも曖昧に進めて、笑うところで笑えず泣くところで笑いが起きる始末。最後の数場面で思い切り話が進むのでそこで少し持ち直したか、くらい。中日も過ぎてこの出来は、本当に鵜山仁が演出したのか疑われる。がっかりの一言。

鵺的「悪魔を汚せ」サンモールスタジオ

<2019年9月15日(日)夜>

とある製薬会社の創業者一族。痴呆で寝たきりになっている会長を筆頭に家族間で憎みあったり軽蔑しあったりしているが異様にプライドは高く、嫁や婿に入ったものたちの肩身は狭い。長女の3人の子供たちはそんな状況をそれぞれ皮肉な目で眺めている。殺された猫の死骸が庭に放置されていた日を境に、その状況がさらに加速していく。

金田一耕助も警部も出てこない金田一耕助モノという印象。後味悪い系の劇団だと思っていたけど、後味どころか最初から最後まで酷い場面の続く芝居だった。ただそれが続きすぎて麻痺したのと、一番悪い役の末孫娘がカラっと演じられていたのとがあって、どこまで狙ったかはわからないけど全体には内容ほど酷い印象を受けないで観られた。

役者の中では、唯一家族外の登場人物である総務部長役を演じた池田ヒトシを、選んだキャスティング手腕ともどもメモしておく。こういう役にこういう役者をキャスティングすることが芝居の厚みになる好例。もったいなかったのが2つあって、設定ではこの規模の家なら使用人がいそうなものなのにいなかったこと。名前だけでも出していればよかったのにと思う。あと脚本で、ラストがちょっと長くて間を持たせるのが難しかったところ。

でも全体には今時こんな小劇場らしい勢いの芝居がまだできたんだという好印象。これだけ酷い場面の続く芝居ができるのは、当日パンフにもあったけど、若さならでは。再演とはいえあの狭い劇場に目一杯建て込んで襖を二重にした美術や、最後にロビーまで漏れるくらい大量に煙を出した照明などのスタッフワークにもある種の若さを感じる。劇団(というか演劇ユニット)としていいタイミングの上演だったと思う。

2019年7月17日 (水)

新国立劇場主催「骨と十字架」新国立劇場小劇場

<2019年7月14日(日)昼>

イエズス会の神父にして古生物学者でもあるシャルダンは、カトリックの教義に反する進化論の論文発表や講演を通じてバチカンの検邪聖省ににらまれる。穏便に済ませたいイエズス会総長の取計らいで、研究と講演を制限する誓約書へ署名すればよいところまで検邪聖省の担当者をなだめたが、神父は署名を拒否する。やむを得ず、かつて似た経緯を辿った先輩神父の赴任先兼研究先である北京に飛ばされるが、そこで発掘を続けた結果、北京原人の頭蓋骨を発掘し、進化論の欠けていたコマを埋めることになる。

パラドックス定数でおなじみの男5人芝居は、張出し舞台の後ろに大き目のオブジェだけのシンプルな舞台で、いつもよりは抑え目に、だけど答えのない会話が続く一本。神の存在について、信仰と信念が相反したときにどう行動するかについて、それまで当然とされていたことを疑い声を上げることについて、昔の実話を元にしているのに実に考えさせるタイムリーな話。ちなみに検邪聖省は異端審問所の後継部署で、そこの諮問官は神父の資格について生殺与奪の権を握っている。

ただ感想は、野木萌葱の台詞マジックに騙されている。格好いい台詞をそのまま受取ると奥行きが足りないので、それぞれの役に台詞とは違う秘する心情を持っていてほしいのだけど、素直に見えた役者多し。検邪聖省の近藤芳正でもぎりぎり、イエズス会総長の小林隆は最後まで蛇の狸で通してほしかったし、他の3人ももっと裏設定を工夫する余地はあった。

スタッフでは、ろうそくがあったとは言え、照明が美しかった。ごく普通っぽく、影をそこまで出していたわけでもないのにソリッドに見えた理由がわからない。ただ音響は効果音はともかく音楽はあんなにいらなかったんじゃないか。去年まとまった数のパラドックス定数を観たからなおさらそう思う。あと別に大掛かりな舞台転換があるわけでなし、休憩15分を含めて1時間55分なら休憩無しの100分一本勝負にできなかったか。

なんだかんだ言って飽きずに観られたのは演出がよくできていた証拠だけど、何か物足りない。統一感というか雰囲気というか息苦しいくらいの濃密さが足りない。まだまだ行ける一本。いつものことながら面白い脚本を面白く立上げるのは難しい。

<2019年7月17日(水)追記>

そういえば降板と代役の話があったのを忘れていた。でもそれで、というかその時期だったら、むしろ作品の方針には影響させる暇がないはずで、やっぱり台詞マジックに騙されていた感はある。

2019年6月17日 (月)

ラッパ屋「2.8次元」紀伊国屋ホール

<2019年6月15日(土)夜>

老舗の新劇劇団。学校巡回公演の失注と会員数減で経営危機に見舞われて次回の公演も危ぶまれている。そこに、かつて劇団で働きやがて独立した制作者が、2.5次元ミュージカルの企画を持ってくる。主役陣以外をベテラン俳優で固めてほしい原作者の意向だが、まとまったベテラン俳優がいないためだという。相談の結果、演出家と主役陣を客演で招いた劇団公演とすることが決まったが、いざ稽古が始まると、ノリと身体の切れが違う客演陣との軋轢が絶えない。

ラッパ屋初見。役者にスタッフに制作に演出家振付家まで役を作って、生演奏に支えられた、誰が観ても笑えるであろう小劇場の王道のような喜劇を堪能。ラッパ屋の劇団員は平均年齢高めだけど安心して観ていられる。そこに混ざる客演役兼本物の客演で目を引くゲストの豊原江理佳は歌も身体の切れも良くて、正統派(?)の役者は今時は若くてもあのくらいできないと駄目なのかという驚き。そこに一生懸命が行き過ぎてたまに失礼になる役を当てた脚本家はさすが。ただ、正統派のゲスト役者が混ざることで、むしろ正統派ではない役者の味のよさも引立って相乗効果。

格好よく書けば悲劇と喜劇は同じとなるけど、ひとつひとつの笑えるディテールが、落着いて考えるといかにもありそうな話で生々しい。当日パンフに、よく知っていることだからこそ書きづらかったとあったのもうなずける。やや定型的な登場人物や展開も、むしろ生々しい現実はこのくらい定型化しないと笑いに持っていけないのだという理解。惜しまれるのは人数多めで役の濃淡ができてしまっていたことだけど、2時間切るためにはしょうがない。最近は平気で2時間3時間越える芝居を観る機会が多いので、この展開の早さでこれだけ笑わせてもらって1時間55分ということにありがたみを感じる。この面白さなら1ヶ月公演やってもいけたと思う。ドメスティック感満載のこんな芝居こそブロードウェイに行ってほしい。

ついこの前にベテランの劇団が実際に倒産したので、経営危機も他人事ではないだろうけど、ラッパ屋自体は今年で35周年とのこと。これだけ長く続くことが奇跡だと再認識。今回実に素直に楽しめたので、とりあえず40周年を目指してほしい。

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