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2019年5月21日 (火)

オフィスコットーネプロデュース「山の声」GEKI地下リバティ

<2019年5月19日(日)昼>

単独登山で有名な加藤文太郎が、たまたま同じく登山家の吉田登美久と共に槍ヶ岳に登って消息を絶った、昭和11年の遭難事故を通して、なぜ人は山に登るのかを描く。

これは先に「埒もなく汚れなく」を観ていたのである意味ネタばれ状態だったけど、自身も登山家だった脚本家がわざわざ厳しい冬山に登る登山家に仮託して、なぜ生きるのか、なぜ演劇を続けるのか、を描いた1本。

山の景色に魅せられた話や、山は金持ちだけのものでもない、誰のものではないという信念のような台詞ももちろんある。けど、単独登山の途中で他のグループに着いていってラッセル泥棒と罵られた(結果そのために命が助かった)エピソードや、たまたま合流した学生登山家のサポートを得て自分ひとりでは登れない氷壁のクライミングに成功した体験を引いて自分は技術のない脚力だけの男だったという台詞など、自分の小ささを見つめなおすような台詞多数。それに加えて、単独登山の名人だった2人が一緒に登山して遭難することを嘆く場面は、「埒もなく汚れなく」の後で観ると痛々しい。別に登山や演劇でなくても、何か長く続けていることがある人なら胸を突かれること間違いなし。

全編ほぼ会話だけで力強さを出す近頃なかなか観られない脚本は、むしろイギリスあたりの芝居に近く、外国語に翻訳しても通じそう。そこに関西弁であることの柔らかさが加わって絶妙なバランス。反面、役者は熱演していたけどあれでは不十分。頂上にも胸突き八丁にもたどり着いていない。いつものことながら面白い脚本を面白く立上げるのは難しい。

そこからいろいろ端折って思考は飛ぶけど、「埒もなく汚れなく」は適切に薄情な距離感を保って描いた1本で、瀬戸山美咲はさすがプロの脚本演出家だったなと改めて見直した。

2019年5月13日 (月)

オフィスコットーネプロデュース「埒もなく汚れなく」シアター711

<2019年5月11日(土)夜>

大竹野正典は関西で劇団を主宰していた実在の人物で、2009年に海で亡くなった。結婚して働きながら脚本演出を行ない、山登りが趣味だった人が演劇を始めてから、最終公演「山の声」を書上げて亡くなる直前までを、関係者への取材を元に描く。

2016年の初演は気になっていたけど見逃した。演劇をやっていく能力がありながら演劇をやっていくのに向いていない人となり、それが高じたであろう山登りへの傾倒、本人に最も近くて最も遠かった妻との関係、それらが集約されて「山の声」の執筆へとつながる流れ。素晴らしかった。

出演者もいい役者を揃えている。西尾友樹と占部房子の夫婦役が素晴らしい。実在が疑われるくらいけなげな妻に造形されていたど、そこがまた、けなげにさせるだけの魅力が本人にあったのだろうことを推察させるのと、夫婦喧嘩でのギャップを際立たせていい感じ。脇は好みだけど、学生時代の先輩を演じておいしい役回りの福本伸一に目が行く。ひとりネタ出演となった柿丸美智恵の贅沢な無駄遣い(笑)は、素直に楽しむべし。

観て損はさせないのでぜひ。

アフタートークはネタ出演のモデルのプロデューサー綿貫凜、脚本演出の瀬戸山美咲、あと主演夫婦の西尾友樹と占部房子の4人。プロデューサーと脚本演出家にしゃべりたいことがありすぎて出演者のトークが削られぎみ。亡くなったのが事故とも自殺とも取れる(そこにはあまり踏込まない)ので、創っていて何か想像するところがあったのか最後に質疑応答の時間で聞いてみたかったけど、ちょっと無粋な質問かと遠慮してしまった。

後日追記するかも。

<2019年5月21日(火)追記>

山の声」も観た。結果、瀬戸山美咲のプロ意識が伝わった。面白い芝居にはある種の薄情さ、残酷さが伴うことがわかった。そして「山の声」を書いたときの大竹野正典は、諦念とか絶望かな。この2本を観た勝手な感想としては。

2019年3月24日 (日)

燐光群「あい子の東京日記 / 生きのこった森の石松」ザ・スズナリ

<2019年3月23日(土)昼>

 

燐光群の中山マリが、母で作家の中山あい子が書いた「私の東京日記」を元に、母と自分の生活を語る「あい子の東京日記」。森の石松が現代でおでんの屋台をひきながら客と語る中に様々なエピソードが語られる「生き残った森の石松」。

 

2本立て。最初のタイトルとは順番が入替わっていたのでその順で記載。「あい子の東京日記」が不思議な雰囲気で抜群に引きこまれる。これですべてではないけど今なら話せそうなところまで話してみました、という奥ゆかしさにあふれる仕上がり。一人芝居(劇中劇の場面では援軍が入る)を引張った中山マリの、子供劇団から役者を続けていたという実力も堪能。母と娘の演じわけが、そんなに素早くないメガネの有り無しというベタな方法を律儀に続けていたけど、それすら雰囲気。珍しい経歴で育って母と過ごした娘が、大きくたくましい母が娘をよく見て書き残した本を通じて演じてみせることによって(ややこしい)、人生と母への愛情が伝わる一本。これは中山マリが元気なうちに再演されるべき名作だと思うけど、書いている時点であと1日2回公演しかなく、再演される保証もないので、間に合えばお勧めしたい。

 

一方「生き残った森の石松」は、当日パンフによると森の石松モノの名場面を元に構成したとのこと。残念ながらその知識が皆無だったので、設定を理解するまでに時間を要した上に、その理解の前に現代の風刺ネタが混ざったりしたので、かなり混乱した。これはひょっとしたらメイン上演の「九月、東京の路上で」を観たあとに観たほうがよかったのか。

2019年3月20日 (水)

名取事務所「ベッドに縛られて / ミスターマン」小劇場B1

<2019年3月14日(木)夜>

 

10年間ベッドに寝たきりの若い女性の元に父親を名乗る男がやってきて2人で交互に語りつくす「ベッドに縛られて」。母と2人暮しで信心深い息子が、その信心深さから孤立していく「ミスターマン」。アイルランド芝居の2本立て。

 

後で気がついたら昼も夜も小田島恒志の翻訳という1日。2人芝居と1人芝居(声だけの出演あり)で登場人物が少なく、セットも固定で、勢い多い台詞への比重が高くなる2本。

 

これでもかという早口で全編通した「ベッドに縛られて」は、早口に囚われて起伏の付け方に失敗。様子がわかってくる後半はまだしも前半はつらい。その点は時間の短い「ミスターマン」のほうが1人芝居ということもあってまだつけやすかったようだけど、これでも起伏は不足している。2本立てで時間が足りなかったか、全体に、演出がHowにこだわってWhatやWhyを掘下げきれなかった印象。「ベッドに縛られて」の寺十吾と小飯塚貴世江、「ミスターマン」の斉藤淳とも適材適所だったのにもったいない。ただ斉藤淳はこいつヤバイ感が全開の怪演で、探せば名手はいるものだ、の感を新たにした。

 

それにしてもネタばれだけど、2本立ての両方とも殺人が起きる。マーティン・マクドナーといい、このエンダ・ウォルシュといい、苦しい環境で精神に異常を来たして人を殺す以外のアイルランド芝居はないのか。

加藤健一事務所「喝采」下北沢本多劇場

<2019年3月14日(木)昼>

 

1950年のアメリカ。初演を3週間後に控えている舞台が、契約上の手違いで主演俳優が映画撮影のため離脱してしまい、制作者、演出家、脚本家が代役に頭を悩ませている。アンダースタディのベテラン俳優の起用を主張する演出家に対し、新しい役者を手配しようとする制作者。かつて彼の舞台を観た演出家にはその実力が忘れられないが、アルコールによる失敗を懸念する制作者は反対する。不安定な契約ながらも主張を通した演出家。だが当の俳優自身が不安を抱き、その妻はそれ以上に心配する。

 

加藤健一事務所は初見。いまどきこんなバタ臭い芝居があるかと思いきやよくよく見ると、バタ臭いベテラン俳優の加藤健一、バタ臭さに付合うけど一線は守る演出家の小須田康人、最初からバタ臭さに付合うつもりのない妻の竹下景子、バタ臭さに付合うことで見せ場との落差を作って盛上げるプロデューサーの奥村洋治など、役者によって微妙に違うスタンスに興味をそそられる。小須田康人がとてもよい感じ。

 

舞台は1950年のアメリカ・・・と始まるナレーションで舞台設定を説明しながら開演するのは脚本の指示なのか演出の工夫なのか、芝居初心者へのハードルを下げる工夫として感心。ただ、最初はベテラン俳優が主役だったのが、途中からその妻が主役の話に移ってやや困惑。有料パンフレットでは、原題が「The Countory Girl」で、そこに作家の思いが込められていると演出家が文章を寄せていた。そこまで考えていてなぜこういう演出になる。それと、どこかつながりの悪さを感じる脚本で、特に演出家がそこまでベテラン俳優に拘る理由が、昔観て感激したという説明はあっても希薄だった。時間短縮のために一部場面をカットしていたのかもしれない。次回も翻訳モノだけど今回に増して文学座のエースが集結する座組なので、もう一度観たいところ。

 

あと細かいところで、開演前のアナウンスが、他所では「携帯電話やスマートフォンをお持ちのお客様は・・・」と流すところ、「スマートフォンや携帯電話をお持ちのお客様は・・・」と流していた。この順番で聞いたのは自分は初。今のスマホの普及率を考えると他所もこの順番に直したほうが時勢に合う。

2019年2月12日 (火)

タカハ劇団「僕らの力で世界があと何回救えたか」下北沢小劇場B1(若干ネタばれあり)

<2019年2月10日(日)夜>

かつて漁業が主要産業だった海辺の町。誘致合戦に勝抜いて建設された素粒子研究所が稼働を始めるのを記念して、科学イベントが開催される。そこにトークイベントの参加兼この町を舞台にした小説の執筆を依頼されたでライトノベル作家がやってくる。取材先の学校では、科学らしい企画を頼まれた無線部OBやその先輩OGたちが企画に頭を悩ませていた。そこで何気なく電源を入れた無線に、ラジオのジングルが聞こえてくる。かつて無線部のメンバーが自主的に流していたもので、それを知っている人間は当時の無線部のメンバー以外にはありえない。そこで話は、唯一この場にいない、かつてのメンバーについての話となる。

劇団初見。いないメンバーは実は事故で亡くなっているはずで、それを防げなかった責任の一端は自分にあると苦にしている無線OBが市長の息子で、他のOBが働き始めたり大学院に通ったりしているなか、いろいろ学校に通っても中退して上手くいかない、というのがメインの話。この背景に、漁業が廃れた町の存亡をかけて誘致にこぎつけた市長と、素粒子研究所は危険だから今でも反対する人間がいる、という設定は原発そのもの。事実と異なる記憶を不特定多数の人が共有している「マンデラエフェクト」という現象を振っておいて、後半、亡くなっているはずのメンバーの声が聞こえるのは素粒子研究所の施設稼動に伴って、あったかもしれない複数の並行世界が混線しているからだ、という話がSFというかライトノベルっぽい。ここに、東日本大震災がなかったという登場人物も出してくるあたりが、10年経たずに何事もないように過ごそうとする日本社会への作者の主張だとは思う。

それはそれとして、東日本大震災のような単語をチラ見せするのではなくダイレクトに出してしまうとか(その後の鼻血が止まらない登場人物というのは東日本大震災を想定させる出来事の中でも悪手)、無線部OBとその先輩のOGの過去や現在の情報がほとんどないとか(市長からOGに協力を強要させる情報がそのとき初公開とか)、脚本の情報の出し方がまずかったのがひとつ。

あと、いない(亡くなった)メンバーへの思いの精算に話が集約されてしまっていたけど、それが弱くて終わってしまったのがもうひとつ。何と言うか、話の大きな筋は足し算ではなく掛け算で働くので、弱い小さい筋を掛けるととたんに全体が小さくなってしまうから注意が必要。かつ、原発や東日本大震災は(この芝居の通り)なかったことにしたい意識が働くテーマなので、よほどしっかりした筋をあの手この手で掛け算しないと成立しないのだけど、そこまで手が回っていなかった。

薄味だった仕上がりが、ライトノベル作家を登場させて、ライトノベルっぽい設定で、仕上がりもライトノベルっぽく、というところまで狙ったのかどうかは不明。ただ、昼に観た「るつぼ」が超重量級で、次の日に観た「過ぎたるは、なお」がまさに原子力の話題を扱いながら笑いも含めていろいろな設定を混ぜて気をそらさなかったのに比べると、不満。まして、原発(を想定させる設定)や東日本大震災を扱ってこの仕上がりか、と残念な気持ち。

役者は健闘。ただ、背景もその背景を想像させる台詞も多かった市長の松永玲子と、ライトノベル作家のもたい陽子を除くと、健闘にも限度がある。

この回はアフタートークがあって、脚本演出の高羽彩とゲストはミナモザの瀬戸山美咲。これはよほど原発寄りの話になるかと想像したらそこは避けたのか、脚本成立の話。いろいろあったけどメモが遅れたら大半を失念した。無線については相当勉強や取材をしたらしい。最後のQ&Aで、劇中の無線のコールサインはどのように決めたのかという質問に、コールサインは前半が地域を後半が個人を表す、地域は自分の出身地として静岡県という設定にした、個人は無線部の4人が同じ時期に試験を受けて合格したと想定して末尾1番違いで割振った、他に団体用のコールサインもあるがそれも団体用になるようにした、実在のコールサインと重ならないように気をつけた、これらには早稲田大学の無線部に取材してお世話になった、とのこと。

<2019年2月23日(土)追記>

感想を清書。

<2019年3月6日(水)追記>

国際リニアコライダー(ILC)の東北誘致」なんてことを実際にやっているのですね。それならなおのこと、原発と結びつけた話にするのはよくない。この施設が危険だと批判するならこれ単体の危険性を批判してほしい。

劇団東京乾電池「授業」アトリエ乾電池

<2019年2月9日(土)夜>

博士号を取るために教授の自宅に個人授業を受けにきた女性。知性高いと思っていた女性に授業を始めたら、頓珍漢な答えが返ってくる。それを受けて教授は奮闘していくが。

不条理劇と言われているけど、笑えるところは笑いをふんだんにちりばめて、こうありたいと思わせる演出。腕章をつけるところまで見せたのは演出なのか脚本なのか、そこまでやるなら後からの自戒を込めた風刺劇なことは明確だけど、不条理劇のくくりに入ってしまうのか。

狭い空間いっぱいに満ち溢れる、映像で観たことがなければ怪優と評したくなる柄本明の怪演ぶり。でもこの怪しさが本職だろうと思わせる。所々にメタなアドリブも入って、あちこちで「学芸会でいい」と言っていたのがどういうものか、少しだけわかった。いい年だろうにあのテンション、と思ったら最後に息切れしたのはご愛嬌。

終演後のあいさつでも言っていたから知っていると思うけど、1時間強の芝居でも腰が痛くなった。座席のクッションはぜひ考えてほしい。あと下北沢で駅の工事が行なわれて、アトリエまでの地図画像が役に立たなかった。踏切がなくなったから、本多劇場側から元踏切を超えて一直線が親切かと。

2018年12月26日 (水)

月刊「根本宗子」「愛犬ポリーの死、そして家族の話」下北沢本多劇場

<2018年12月23日(日)昼>

母が駆落ちし父はアル中になって亡くなって祖母に引取られた4人姉妹。祖母も亡くなった後で上の3人は結婚して家を出たが、若い頃に引きこもりになった四女は飼犬と本だけに関心をつないで生きている。22才の誕生日を祝いに姉夫婦たちが集まるが、その最中に飼犬が死に、義兄たちが嫌いな四女は義兄たちのせいだと恨む。その直後に、いつも読んでいる本の作家から四女にSNSでコンタクトが届く。

高圧的、マザコン、浮気性と駄目な男性の見本市のなか、それを見ていた四女が何をどうしてどうなるか。男性の駄目さを描く腕前は冴えていて、特に浮気性の夫が妻に言い訳する場面は台詞も演出も秀逸。演じた田村健太郎の逆切れぶりが素晴らしく、イキウメの「図書館的人生」の爽やかなストーカーを思い出す。

それに反して駄目な男性と別れない女性陣の描き方は最後まで筆が鈍ったまま。納得させるわけでもなく、突き抜けるわけでもなく、消化不良のぬるぬるが残る。演技演出が上手な分だけ演劇的な突き抜けた感のなさが目立つ。タイトルにも入っている愛犬ポリーは開始早々に忘れ去られて、でもポリーを活用しようとした痕跡は残っていたので、一度書いたプロットに納得がいかず書き直したものと推測。だとしても観ていて納得のいかないラスト。

あと全員の演技に文句はないけど、根本宗子だけ声の小ささが目立った。自分の芝居だけでなく「水の戯れ」とか役者出演でもいい腕前の人なので惜しかった。細かいところでは、歌とダンスの場面で4人の女性陣が踊るとき、根本宗子ひとりだけが笑顔の場面があった。当日チラシだと振付も本人なので、そこまで目が届かなかったんだろう。

結局、根本宗子の不出来または不行届にいきつく仕上がり。主役が直前で体調不良で交代するという不利はあったけど藤松祥子は代役をこなしていたし、何より脚本が迷走していた。チラシ作成時点で脚本未完成だったとしても「一人の少女が自分と周りを信じて家族を変えるお話です」と書いてあのラストはどうなのか。本多劇場ではあまり見かけない質感に仕上がりましたと当日チラシで言われても、まずは質感より質がほしい。

2018年12月10日 (月)

M&Oplaysプロデュース「ロミオとジュリエット」下北沢本多劇場

<2018年12月8日(土)夜>

2つの名家が反目を続けて勢力が二分されている街、ヴェローナ。一方のモンタギュー家の御曹司であるロミオは恋に破れたばかり。いたずら好きの友人にそそのかされて、もう一方のキャピュレット家が主催する仮面舞踏会に潜り込む。そこでキャピュレット家の一粒種の娘、ジュリエットと出会う。

「なるべくまんまやる!」という宣言通り、笑わせるためにところどころで役者に面白いことをさせたり台詞のニュアンスをいじったりしていたけど、だいたい脚本には忠実だった。なので粗筋は前回観た新国立劇場研修所版と同じ。シェイクスピアが生きていた時代はもっとごちゃごちゃ猥雑な雰囲気で上演していたはずだからこれもいけるはず、という狙いがあるとどこかで読んだけど、「ヘンリー四世」の佐藤B作を観たあとだと、そういう狙いも外れていないという予感はあった。で、結果は半分成功していて半分失敗していた。

先に成功していたところを書くと、まず笑い。このくらいいじっても耐えられる強度のある脚本だったというのはひとつの発見だった。その前提で、芸達者なベテランを配置して、崩し具合をコントロールしていた。

皆川猿時が飛び道具をこなしていたのはわかりやすいけど、ごく素直にいい感じの役者が多い中で細かくネタをこなして好感を持てたのがキャピュレット家の安藤玉恵と池津祥子と大堀こういち、大公の今野浩喜。そして意外にも三宅弘城のロミオも、年齢は高くとも身体が動く点で若々しさをカバーして、もちろん演技力もあって、成立していた。

抜群によかったのが神父役で、誰がやっているのかわからなくて終わってから確認したら田口トモロヲだった。真面目とネタの切替え、それでいて脚本の本筋にも関わる神父の真摯さを保ったあのバランスが、今回の演出に一番あっていた。「秘密の花園」の一風変わった演技よりもさらに上で、あの神父はもう一度観たい。ここを守ればあとはいくらでも崩せるという線を見極めていた模様で、その秘密が知りたい。一度にふざけるのは一人までとか声のトーンは一定の範囲を維持するとか、何かルールがありそうなのだけど分からずじまい。

スタッフワークでいうと、衣装を頑張ったのがいい感じ。あと半分は役者だけど、剣を使った喧嘩のアクションが身体にあたるすれすれで、観ていてどきっとした。

残念だったのが、ジュリエットの森川葵。キャンセル騒動からの代役で初舞台でジュリエットであの台詞量がきついのはわかる。ただそれら悪条件を差引いても、女優魂を感じさせてくれる台詞回しがなかったのは残念。強度のある脚本ではあるけど、それだけに特にロミオ役とジュリエット役は人材が求められる。三宅弘城があれだけ成立していたなら、いっそ片桐はいりとか連れてこられなかったか。

次に演出。ネタに時間を割くためか、長めの脚本を休憩無しの時間(今回約2時間15分)に収めるためか、全体にそうとう早回しの一本調子になっていた。登場人物が多いうえに脇役は複数の役者が兼ねるので、ある程度丁寧にやってくれないとややこしい両家の関係が頭に入りにくい。加えて、言葉にしづらいけど、本来の雰囲気を目指して入れたネタと、みんなロミオとジュリエットの粗筋くらいは知っているだろうという前提で崩したネタとが混ざっていたような印象。今回の演出だと後者のネタは混ぜてはいけないのではないか。どこがどうとは指摘が難しいけど。

スタッフワークでは音響が、どうも演出の雰囲気に沿っていない。今回の演出だと、笑わせるところと真面目なところの区別を客席にはっきり伝えるのが重要で、音響はそれを促進する役割があったはずのところ、いまいちわかりにくかった。

もっと猥雑な雰囲気を出せるはずという企画と演出の挑戦には敬意を表するし、所々成功はしていたけど、残念ながら満足には届かず。値段を考えたらなおのことこの出来では不満。「メタルマクベス」という名作を書いた宮藤官九郎にして、演出の狙いを整理し切れなかった、あるいは時間切れで詰めきれなかった印象。脚本の難しさを再認識する結果になった。どこかで再挑戦してほしい。

2018年10月26日 (金)

KERA・MAP「修道女たち」下北沢本多劇場

<2018年10月25日(木)夜>

とある国の、主と聖女を崇める宗教の修道院。冬には毎年、この宗教の聖地とされる山荘のある村まで出かけて過ごす習慣に従って、出発の準備をしている。が、半年前のある「事件」のため、47人いた修道女たちの大半が亡くなり4人まで減って、新たに加わった2人を加えた6人しかいない。この宗教を快く思っていない国王に交代してから信者への迫害が続き、出発前から波乱含みだったが、果たして山荘に着くまでも着いてからも相手にされない事態が続く。生き残った修道女の一人と仲のいい村の娘と、その娘を気遣う村の男との世話でかろうじて山荘の生活を開始するが、そこからさらに数々の事件が起こる。

うっかり調べなかったら平日夜には厳しい3時間15分の大作。長い時間をフルに使った表の物語は信仰と罪と宗教と赦しを扱って生きるとは何なのかを描く壮大な一本。裏の物語は声を上げるべきときに上げられない時代の末路を予言的に、「ちょっと、まってください」よりは現実の直接的な連想を抑えるよう狙って描いた一本。張った伏線はきっちり回収するし、悲劇的な背景の中にも少し前のナイロン100℃を思い起こさせるノリで適宜笑いがあって飽きないし、ここ一番ではきっちり締めて、緊張感とクオリティのコントロールは折紙つき。

KERAが下手な役者を連れてくるわけはないし全員いいのは言うまでもないけど、鈴木杏がおいしくもややこしい役を見事にこなして、完全にベテラン女優の域。あとこの中では相対的にそこまで目立たない伊勢志摩の、出すぎず引きすぎずちょうどよいポジションを維持する技量は改めて見直した。今回スタッフワークもいつも以上に方向が揃った印象だったけど、雰囲気にあった音響と、普段の場面にも見栄えよく最後にそう見立てて使うかという美術と、単純ながら効果的な使い方を提供した映像を挙げておく。

今日見た時点では当日引換券をまだ売っているし、後ろや端の席なら当日券でもいけそうなので、ここはひとつ試してみてほしい。ただし繰返すけど3時間15分なので、その都合のつく人に限る。

<2018年10月28日(土)追記>

ひとつ書き忘れていた。今回、公演チラシがA4のものとA3のものと2種類あって、たぶんA3が正式版だと思われるけど、A4のチラシが表面に引用したエドガー・エンデの絵と裏面の修道女の絵、あれは線画というのか何というのか。どちらもものすごいはまっていて、観終わった後になったらなおさらA4チラシのほうがよくできていたと感じる。あれは何でA3のチラシまで作ったんだろう。A4チラシの取っておきたくなる素晴らしさは記録しておきたい。

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