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2024年6月23日 (日)

ナイロン100℃「江戸時代の思い出」本多劇場(ネタバレあり)

<2024年6月23日(土)夜>

江戸時代、峠の茶屋を通り過ぎる侍を捕まえて、町人が話を聞いてほしいという。聴きたくない侍を無理やり捕まえて話を始めるが、その思い出話は今の話だったり何故かずっと将来の現代の話であったり。

初日。業界関係者もそれなりに多そうな客席の中、不条理劇というかナンセンスというか、そちら方面の仕上がりで笑わせてもらいました。あらすじを書くのは野暮なのでこれから観る人はまず楽しんでください。四話に分割されているのですが、冒頭の一話のかっ飛ばしかたは他では絶対真似できないであろうハチャメチャ振りなので、遅刻厳禁です。

役者で上手いけどこれ誰だろうと思ったら奥菜恵だったとか山西惇だったとか坂井真紀だったとか、あれっと思ったら池田成志が出ていたとか、あまり気にせずに観に行ったらゲストも力が入っていたので驚きました。ただ、散々KERA芝居に慣れている劇団員やゲストの中においても、メインの武士之助を初日から力強く立上げた三宅弘城は、エースの風格でしたと特記しておきます。

で、ここから先はネタバレを含みますが。

江戸時代の思い出と称して江戸時代から現代を思い出すあたりはナンセンスですが、それが20年前(30年前だったかも)のタイムカプセルを掘ろうと集まったら死体が出てきたのは意味深です。その後の疫病で飢饉の話であるとか、瓦版を買いたい人に餃子を売って餃子を買いたい人に瓦版を売るとか、茶屋を乗っ取って女郎屋になった主人が稼ぎ手の女郎を殺すとか、2年前(3年前)の新型コロナウィルス真っ最中の思い出話ですよね。飢饉でお客さんを食べた設定のあたり、あれは一般観客への恨みもあったんじゃないかと思います。死体を埋めた人たちがタイムカプセルを埋めたつもりになっているのも、終わったことにして勝手に美化しやがってというほどの意味ではないかと。

Don't freak out」のときはもっと恨み骨髄という印象でしたが、それを江戸時代まで遡った芝居にして笑いに昇華するあたりはさすがKERAという思いと、まだ納得していないんだろうなという推測と、観終わった後はその両方を考えました。私は志村けんが亡くなったあたりから芝居中断はやむなしと考えていましたから、今回の芝居だとみのすけ演じる人物から石を投げられる側です。だとしてもあの頃に「不要不急で無駄だからこそ芝居は文化たりうる」と考えたことは今のところ変わらないでいます。

2024年6月15日 (土)

ゴツプロ!「無頼の女房」本多劇場

<2024年6月7日(金)夜>

昭和二十三年の東京。人気作家の塚口は自宅に押掛ける編集者を待たせて二階で原稿を書き続ける。言論の鋭さと、躁鬱が激しくて二階から庭に飛び降りたりするような奇行を行なうことから無頼派作家と呼ばれる塚口を内縁の妻は支えるが、その妻にも我儘を言っては編集者や作家仲間の付合いを優先させてしまう。そんなある日、塚口が原稿を書き上げて編集者と飲みに行くが、編集者が原稿を忘れてしまう。それは塚口が以前に愛していた女流作家との話を描いたものだった。

坂口安吾をモデルにしつつ、その妻と周りの人物に焦点を当てた1本。中島淳彦脚本は初見ですけど、いい意味で小劇場らしい大らかさに溢れた仕上がりでした。

それぞれ欠点なり弱点なりの多い登場人物たちを前向きに仕上げてくるところはお手本です。一方で、熱量を前面に出した塚口に対して登場人物全員、距離感にある程度の齟齬があり、塚口が面倒見のいい相手は冷静で、塚口に親身な人ほど塚口が我儘をいうのは、世の中そういうところがあるよね、といったところでした。それがある出来事をきっかけに爆発する脚本、よくできています。

ただ、「贋作・桜の森の満開の下」は観たことがあっても、私は坂口安吾を1本も読んだことがないんですよね。だから一生懸命原稿を書いているのはわかっても、女流作家の話と、台詞でいくつか出てくる話以外、どういうことを書いている作家なのかがわかりませんでした。職業作家として生活のために原稿を書く必要があるのはわかりますが、無頼派として飲み歩く以外に作家としてのインプットをどこでしているいのかがわからなかった。「原稿を走る筆の音が、まるで身を削る刃物の響きに聞こえて」という台詞が浮いていた。脚本に足りなかったことをひとつだけ挙げるとしたら、塚口の作家面です。

ただしタイトルロールはその妻ですし、その分だけ周りの人間を描いています。いまなら編集者はもっと無礼な人間に描かれてもいいんじゃないかと思いますが、初演が2002年らしく、それならしょうがないです。個人的に好きな場面は、お手伝いのかんのひとみが爆発するところ、匿われに来た女流作家の妹を作家仲間の久保酎吉が口説こうとするところ、その妹の鹿野真央が姉の靴を置いて姉の身体を順番に思い出すところ、です。本筋と関係あるようなないようなところにも見所、演じどころの多い芝居でしたし、役者もそれによく応えて、しかも最後はばっさりと終わるところが、いろいろ見事でした。

近ごろの流行りである精密に深彫りしていく演出の芝居とは反対でしたが、脚本には合っていましたし、それで楽しめました。急に芝居を観られることになったので何を観ようか迷って選んだのですが、我ながらいい選択でした。

2024年3月 7日 (木)

MONO「御菓子司 亀屋権太楼」ザ・スズナリ

<2024年3月6日(水)夜>

江戸時代から続く老舗、のはずが、実は創業者の社長による作り話らしいと話題になって非難を浴びている和菓子屋。売上が大幅に下がっているところで、和菓子屋でなく会社員として働く長男と、後継ぎとして和菓子屋で働いている次男とで話題への対応に意見が分かれ、長男の娘は学生時代の先輩を呼んで和菓子カフェによる打開を図る。そんな中、社長が入院してしまう。今回は危ないという。

ここから半年とか一年半といったまとまった時間が何度か過ぎて、和菓子屋と一家、それにそこで働く人たちの10年くらいの行く末が語られます。非常によく出来た芝居で、久しぶりにいい小劇場を観た気分になりました。お勧めできる出来でしたので間に合う人は挑戦してはいかがでしょうか。

出てくる話の後ろには、悪評を見て突撃してくる炎上といった今様な問題、昔ならそれほど大きな問題にならなかったかもしれないけれど今だと叩かれる創業話の嘘、昔から問題になっている部落出身の話などが横たわっています。そこに乗って家族の仲、経営家族と従業員、上司と部下、先輩と後輩といった上下の絡む人間関係が出てきます。最後のひとつ手前、喫茶店で家族が話す場面があるのですが、そこまでの積重ねで説得力の増した名場面でした。

これだけ書くと湿っぽい話に聞こえるのですが、そこに自然な笑いと力技の笑いを絡めることで湿っぽくならないように運ぶのが上手いです。結果、登場人物のほとんどに長所と短所が出てきて、劇中のあちこちに想いを馳せて楽しめました。この日は観客席も笑うべきところは笑って湿っぽくなりすぎない日だったので、その点でもついていました。

どの役も微妙に不自然なところ意図的にを残さないといけないのが難しい中でみな好演していましたけど、そんな中で思いっきり胡散臭い役の作演出はちょっとずるかったですね。スタッフでは、いかにも和菓子屋っぽい箱型の模様の壁から机や椅子を出したり片づけたりしながら場面転換するのが素晴らしかったです。具象と抽象の間を取った小劇場ならではの名美術でした。

MONOはこれまで一度も観ていなくて、それはもう随分と昔に同じザ・スズナリの上演で当日券狙いで観に行ったところ、列整備がまったく行なわれずにチケットを取れず、腹を立ててそれ以来避けていました。が、今回観に行って満足できて、勝手に和解できた気分です。

2023年9月30日 (土)

ヨーロッパ企画「切り裂かないけど攫いはするジャック」本多劇場

<2023年9月28日(木)昼>

19世紀のロンドン。下町の同じ場所で4日で3人が攫われてロンドン中で騒がれている。3人目が攫われたときには花売り娘の叫び声を聞いて付近の住民が現場に駆けつけたが、犯人も花売り娘も姿が見えなかった。事件を調べるためにやって来た警部だが、自分で犯人を推理して押しつけてくる人たちを相手に聞込みにも難渋する。

25周年企画にして初見。ミステリーコメディらしいですけど、どたばたコントですね。辻褄を合わせようとはしていますが、発散することすること。適度に考えつつも深く考えないのが正しい見方だと気がついてからは素直に笑って楽しめました。

テンションと突っ込みの間合いで勝負の2時間みたいなところがあって、それで最後まで走り切った技量はすごかったです。ただし、100求められるところにきっちり100で答えていた感はあります。勢いがあるように見えて、振りきってはいなかった。ミステリー要素とコメディ要素、両方とも外したらいけない間があるのでそこは守らないといけないのですが、引出しは3000くらいあるけどそのうち100だけ出してみましたというような役者はいなくて、みんな真面目に100を積んでいました。

カーテンコール含めて観終わったあとでこの雰囲気はどこかで観たことがあるなと思い返していたのですが、演劇集団キャラメルボックスの舞台がちょっとこんな雰囲気でした。良くも悪くも劇団と観客との間で信頼が大きいようです。泣かせる話が得意な向こうと笑わせてなんぼの今回とは違いますが、多少強引な設定を最後まで持っていきつつ、絶対に客席に不快を与えないであろうと思わせる安心感も似ています。

この日はおまけトークがありましたが、「役者によっては出ずっぱり」「たくさん推理できる人とできない人がいる」「台詞が多いので緊張感が切れると台詞が出て来なくて真っ白になることがある」「当時の言葉に寄せつつもミステリー関係の言葉だけは現代の言葉を使わせてもらった」「某役を追詰める場面の方法はミステリーとしてぜひやってみたかった」などなど、いろいろ面白かったです。

それで言えば、脚本は言葉選びで微妙に作品世界に馴染んでいないところがいくつかあったのですが、理由は納得です。それと、某役を追詰める場面の方法をやってみたかったというのはわかります。私もあの場面は好きでした。

ネタばれしたら面白くないのでネタばれはしません。観た人が楽しんでください。

2023年8月 4日 (金)

asatte produce「ピエタ」本多劇場

<2023年7月30日(日)昼>

18世紀のベネツィアにある孤児院ピエタ。バイオリンと合唱が有名で、外の娘も含めて音楽教育とその演奏を売りにしている。そこでかつてヴィヴァルディが教えていた娘たちが、ヴィヴァルディの死後に織りなす人間模様。

粗筋書きにくいです。バイオリン演奏が上手な役にバイオリン奏者を、歌手役に歌手を起用する意欲的なキャスティングです。高級娼婦を演じた峯村リエがここまで来たかという演技で目いっぱい場を作って、ヴィヴァルディの妹を演じた伊勢志摩、有名歌手の姉を演じた広岡由里子で場を持たせた一方、本来主役のピエタ運営の小泉今日子と、かつてヴィヴァルディにバイオリンを習った貴族の未亡人の石田ひかりが撃沈。芝居の出来は音楽付きとはいえ芝居でこの値段でこの仕上がりではさすがに失敗作です。

直接の原因は孤児院やヴィヴァルディがいまいち感じられないうえに会話の弾まない脚本なのですが、いくらなんてもペヤンヌマキがここまでやらかすとは思えなかったので、勢いで原作本を買って読みました。

結果、そもそも一人語りが多くて芝居に向いていないうえに、原作ですでに孤児院の影は薄くてヴィヴァルディも設定のひとつとしか扱われていない、非常に芝居化の難しい原作に挑戦して玉砕したというのが私の結論です。

私が原作を読んだ理解では、楽譜を探すというのは、人物紹介のための理由と、最後の詩のための都合です。原作でもそこまで必死に楽譜は探していません。それよりは、一度は流行に乗ったものがやがて忘れ去られていくということと、ある程度年を重ねて子供のいない女性の立場とを重ね合わせた小説です。ヴィヴァルディは前者の代表、主要役者の演じた役は後者のバリエーションです。

ベネツィアと孤児院はこれを描くための設定で、東京と仕事に生きる現代女性でもいい。というか、東京と仕事に生きる現代女性で描くと生々しくなりすぎるからベネツィアと孤児院に置換えたのが原作と言ったほうがおそらく正しい。

木戸銭を払った客としての下世話な推測を言わせてもらえば、芸能界という水商売で酸いも甘いも味わった役者陣、特にアイドルという最前線で身体を張っていたプロデューサーの小泉今日子は原作に共感するところ大でしょう。「むすめたち、よりよく生きよ。」は後輩にも自分自身にも掛けたい言葉でしょう。

ただ、そういうのを全部すっ飛ばして芝居のことだけを考えるなら、もう少し翻案は考えられなかったかと思います。いくつか落とした個所はあっても、わりと原作小説に忠実な脚本にした結果、そのままやってもつまらない脚本になってしまいました。これで行くなら演出も担当したペヤンヌマキには小泉今日子と石田ひかりを峯村リエと同水準まで引張り上げてほしかったですが、でもこのとっかかりのない脚本ではそれも難しかったと思います。

そのあたり、原作者の条件、プロデューサーの希望、ペヤンヌマキの判断のそれぞれで、脚本化に当たって翻案の余地がどのくらいあったのかは、気になるところです。

<2023年8月9日(水)>

感想を投稿。原作を読んでいたら時間がかかりました。

2023年3月14日 (火)

ナイロン100℃「Don't freak out」ザ・スズナリ(若干ネタバレあり)

<2023年3月11日(土)夜>

大正から昭和戦前ごろの山奥。精神病院の院長一家が住まう屋敷では、兄が地下に閉じ込められ妻が弟と再婚しているものの、その弟は母親の言いなりで、娘は婚約者と遊び歩き、息子は学校で孤立している。そんな屋敷に住込みで長年奉公する女中の姉妹から見た家族の事情と姉妹の事情。

コンパクトに見えてぎっしり詰込まれたスズナリに不気味な歌まで登場。久しぶりのナイロン100℃はよくできているけどこちらに引っかかることなく終わってしまいました。

精神病院を経営する一家が、他人に対して酷薄で自分勝手でいっそ精神病患者みたいである、という設定はきっちりしています。ただ地下に自分から閉じ込められた(といいつつ・・・)とか、母親が孫に対していじめをした3人の復讐のことだけを覚えておけばいいとか、どことなく新型コロナウィルスの医療機関の振舞を揶揄したような設定ですね。長男は医師会会長(外出制限が言われていた時期にお出かけ報道がありました)、母親が政府の対策委員会(3人は三密を連想させます)、その言いなりの次男が首相(最後とか)、あたりが基本線でしょうか。そのへんはまあ、いいです。立場と意見によって見えた景色も違ったでしょうから。

問題は、全体に役者がつるっと流れてしまったところ。休憩なしの2時間20分でこの筋立てならもっと濃密にできたであろうところ、ほとんど全員の役者がそのまま流れていきました。メインの1人である妹女中の松永玲子とか、他の舞台だったら何かしら残してくれるような役者なのに、あれだけ見せ場もあったのに、あっさり流れてしまいました。姉女中の村岡希美も、他のベテラン勢もほとんど同様。二役をやった入江雅人と、ちょい役の大石将弘あたりには役の体温を感じましたが、そのくらいでした。

半分ホラーなので体温高めで演じられるほうが困るかもしれませんが、まあまあステージ数の進んだ状態でこれってどうなんだというのが終演直後の感想です。KERA芝居だって当たりはずれもあれば、こちらの好き嫌いもありますけど、こんな感想は初めてです。これはこれでアリなのか、自分の芝居の好みが変わってきたからこの感想になったのか。しばらく考えましたけどこれを書いている時点で結論は出ませんでした。

2022年6月26日 (日)

日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」下北沢本多劇場(2回目)

<2022年6月25日(土)昼>

おかわり

もう一度観ておきたいなと願っていたら都合のいい日程で良席が確保でき、公演初日直後と東京千秋楽直前の1か月で何か変わるかも興味があって、珍しい二度見です。

ネタの場面に多少アレンジというかアドリブがあったみたいだけど、驚くことにほとんど変わっていなかった。この変わっていなかったというのは、初日直後で観た時点でほぼ完成したクオリティで提供されて、それが1か月後もダレていなかったことを指します。構成のしっかりした脚本だからやりやすいだろうし、プロならそれができて当たり前と言えなくもないけど、やっぱりすごいです。

麻生久美子が学生から現在まで声色を変えて幅広く演じているのにも今さら感心しましたけど、阿部サダヲがあのテンションをきちんと出し続けていたのはもっと感心しました。

他の役者も含めて、脂の乗りきった仕事ですね。いい時期にいい再々演が巡り合った公演でした。

2022年6月13日 (月)

鵺的「バロック」ザ・スズナリ

<2022年6月11日(土)昼>

娘が放火して屋敷が火事になり行方不明になった名家。ひとりだけ生き残った妹は屋敷を再建し家庭を持つも、怪しい雰囲気の消えない屋敷を敬遠した家族は結局別の家に暮らして屋敷は空き家となる。やがて病気になり余命いくばくもない妹は、屋敷の解体を了承し、子供たちと一晩を屋敷で過ごす計画を立てる。集まった夫も子供たちも不満や不安を抱えて一家団欒とは程遠く、悪天候で外出もままならない中で、屋敷の不思議な現象に巻きこまれる。

新型コロナウィルスの初期に上演された芝居の再演で、その前に上演された「悪魔を汚せ」に近いテイスト。その数十年後の続編に見えるけど、姉妹関係や屋敷の場所が違うみたいだから別設定で、これ単発で観ても楽しめる。

前回は「金田一耕助も警部も出てこない金田一耕助モノ」という酷い話だったけど、今回はホラー要素のある酷い話ベースにしつつ、救いのある描写に落着いた。そうは言っても酷い話なので勢いが重要なところ、テンションの高さで最初から最後まで押切ることに今回も成功して、楽しめた。ただ、脚本でラストがちょっと長くて間延びしたところも前回と同じで、あれはもったいなかった。

スズナリだから場面転換で美術を動かすなんてことはできなくて、屋敷のロビーだけで展開される。だけど場面数のやたら多い脚本。これを実現するのが、決して広いとは言えないスズナリに目いっぱい建込んで奥行きも出した2階建ての舞台と、それを生かしていろいろな場面を切りかえるための照明と音響。ホラーなんてうっかりするとギャグになるところ、今回成功した理由の半分くらいは劇場の限界まで挑戦したスタッフワークで、前回以上に感心しきり。

<2022年6月14日(火)追記>

全面改訂。

2022年5月31日 (火)

日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」下北沢本多劇場

<2022年5月28日(土)夜>

毎年の竹神様の祭が唯一の楽しみである田舎の、さびれた食堂兼ホテルの「ドライブイン カリフォルニア」。経営者の妹が離婚して中学生の息子と戻ってきた。その息子が事故で死んでしまうが、成仏する前に幽霊となって、母が店で働いていたころからの店と家族の歴史を辿る。

粗筋だけだと何とも味気ありませんが、2004年の再演版を楽しんだ観客として今回も楽しめました。松尾スズキの代表作のひとつに数えられるべき素晴らしい芝居です。出だしが若干固かったけど、途中から乗ってくる大人計画の面々と、大人計画以上に大人計画っぽい熱演のゲスト達とが一体となって繰広げる、悲劇と喜劇の混在や、小劇場感とプロ感の両立。特定の役者やスタッフパートを取りあげるのが忍びない、全方面に底が高い仕上がり。

2004年当時は純粋に笑える場面で笑って、感動する場面で感動していました。今回少し違う感想として、この脚本は誰かを悼む心情で書かれたのではないかと思えるような、追悼の情を照れ隠しの笑いで覆った弔辞のように見える場面が度々ありました。いやまあ、幽霊が振返る設定だし、日本総合悲劇協会名義だから、そう見えて不思議ではないのですけど。役者の熱演ゆえでしょうか。

休憩なしで2時間15分。いい芝居には短時間で密度濃く描くものと、長時間経ったことに気が付かないものとがありますけど、これは後者です。新型コロナウィルスの中止とか起きずに千秋楽まで走りきれることを願います。

2022年3月14日 (月)

加藤健一事務所「サンシャイン・ボーイズ」下北沢本多劇場

<2022年3月12日(土)昼>

長年コンビを組んで一世を風靡したが、解散してしまったコメディコンビのウィリーとアル。ウィリーはニューヨークの安ホテル住まいをしながら現役を続けているつもりだが、たまに来るオーディションもモノにできず甥の世話で暮らしている。そこにきたのがコメディの歴史を振返るテレビ番組の企画。破格のギャラを提示されるもアルとのコンビ再開が嫌で断るウィリー。そこを甥になだめられて企画を承諾したのだが、稽古の顔合わせから衝突を繰返す。

前提としてベテラン役者を充てることが要求される芝居で、加藤健一のウィリーと佐藤B作のアルはその条件を満たした2人。そのうえでコメディだから素直に楽しめばいいところ、いろいろ考えさせられた。

まずテンポ。海外コメディの、初演が1972年だから50年前(そこからさらに54年前がコンビ結成時期)という設定。古い時代とはいえ、ゆったりと話を運んで休憩を挟んで2時間半は長い。日本ならコント55号や横山やすし西川きよしが活躍していた時代。その時代の芝居なら、日常部分の芝居ももう少し早くしてもいけるはず。その場合、そこからさらに古い時代に演じられたという設定の劇中コメディとのテンポ合わせが問題になるけど、それも含めてテンポは演出がなんとかしてほしかった。

次に劇中劇。診察室を舞台に医者と税理士とのやり取りがメインだけど、その導入に看護婦が出てきてお色気ネタをやる。劇中の設定では戦前のネタだから悪いことはないし、そもそも本ネタ導入前の準備運動みたいなものだから大したネタではないのだけど、これが今のご時世では舞台ですらスレスレに見える。自分がテアトル・エコー版を観たのはたしか2002年で、その時は別に何とも思わなかったし、なんなら志村けんがテレビでお色気ネタをやっていた。だからって省略しろというわけではない。ここ数年、せいぜいここ10年の間に、ものすごい勢いで世の中の「清潔化」が進んでいるのだと気がつかされた。

そして主演の2人。加藤健一の演技がバタ臭いのは前と同じだけど、そこじゃない。何か役が生きていない。対照的なのが佐藤B作で、あのゆったりとしたテンポの中でもきっちり笑いを取ってくるし、芝居全体を通して加藤健一よりずっと自然に見えた。笑いはさておき、役作りで何が違うのか考えたけどわからない。無理やり言葉にすると、加藤健一は自分を脚本に寄せていて、佐藤B作は脚本を自分に寄せていた。あるいは、加藤健一は脚本から自分の役の内面を抽出して内に向かって役作りしていたけど、佐藤B作は脚本から相手役との関係性を抽出して外に向かって役作りをしていた。これであっているかはわからないけど、今回の芝居は佐藤B作に軍配を上げる。

最後に客席。最後列とその脇を除いてほぼ埋まっていたけど、ざっと眺めた限り、これが昼の下北沢かという高い年齢層だった。自分ですら若いほうから数えて一割に入っている自信があった。晩年のコメディアンが主演の演目だから、年齢が高いほうが面白味は増すかもしれないけど、若い人だって笑えるネタだし、伏線を張ってのネタもある王道のコメディのはずなのにこれ。若者人口は減っているし若者も忙しくて金もないしで難しく、既存の観客は年を取るものであり、自分もそちらの枠に片足突っ込んでいるんだなと認識させられた。

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