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2019年11月23日 (土)

鳥公園「終わりにする、一人と一人が丘」東京芸術劇場シアターイースト

<2019年11月22日(金)夜>

友達とも不倫中の男性とも話のかみ合わない女性がその後付き合った男性と旅行する話と、死体清掃業のバイト先の先輩が掛持ちで働いている介護先の話のかみ合わない老女の話。

話がかみ合わない人たちがいろいろ出てきて、話がかみ合わないことに関するいろいろな場面を並べてみた芝居。と書くと荒すぎて申し訳ないけど、「話がかみ合わない」話が上手に構成されて、最後につながるのは脚本の腕前。それをすっとんきょうな衣装や動作で上演する演出は、アフタートークでは「内臓をさらけ出すような」と表現されていたけど、夢や空想で見たものをそのまま舞台に乗せていた、と言うのが個人的には近い。あれだけでたらめにやっているようで統一感を感じられたのが不思議で、何が統一感を出していたのか理由がわからない。

最後まで観て個人的には楽しんだけど、表向きはテンション抑え目なこともあって、「ヨブ呼んでるよ」よりは客を選ぶスタイルだった。

ひとつ偶然があって、たまたま劇場に来るときに荒川洋治の「詩とことば」を読んでいたら、読んだばかりの箇所から引用があったので驚いた。厳密に台詞が一致していたかはわからないけど、「詩は、その言葉で表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する」とか。確かに、詩の言葉は分かりにくい、と書かれた同書は、話のかみ合わない人たちを言葉の面から取上げているから引用するのにぴったりとも言える(なお帰りにこの本を読みきったら、詩に対する苦手意識が確実に下がった良本)。

アフタートークは脚本演出の西尾佳織がワワフラミンゴの鳥山フキを相手に。観終わってそうとう戸惑っていた模様。以下短めのメモだけどだいぶ忘れている。間違っていたら謝ります。


西尾:芸劇eyesの「God save the Queen」で鳥公園とワワフラミンゴが一緒だったので知合った。今回の上演も芸劇plusの枠で声を掛けてもらっている。

鳥山:アトリエイーストで行なわれたリーディング公演を聞いていたが、上演を観たら全然違っていた。
西尾:城崎のワークショップの一環で最初は書いて、そのときはカップルの話だけだった。他の話は頭の中にはあって、後から追加した。

鳥山:特に前半が分からない。
西尾:前半はわからないまま頭の片隅に置いておいてもらえば、公演が上手くいったときは最後にわかるように作っているつもり。別に今日の公演が上手くいかなかったということではなくて。

鳥山:演出が強い。脚本が線画だとすると、演出の色塗りが線をはみ出している。内臓をさらけ出しているよう。
西尾:演出はその瞬間に面白そう、と思ったことを優先してしまう。


前半がわからなくて後半でつながるのなんて、ちょうど上の階で上演している芸術監督の野田秀樹が最たるものなんだから、そこで遠慮する必要はないのに。

2019年10月15日 (火)

野田地図「Q」@東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタばれあり)

<2019年10月14日(月)昼>

あの悲劇で生き残って30年後、僻地のロミオから都のジュリエットに宛てた手紙。だがそこには何も書かれていなかった。何が書かれたのかを想像して出合った頃を思い返した2人は、あの悲劇で自分たちが死んでしまわないよう過去の自分たちの暴走を改めて止めようとするが・・・。

粗筋読んでもわかりませんね。Queenの音楽でどうなるかと思いましたけど、いつも通りの野田地図です。ただし歌詞が一部内容に反映されていて、近年よくある大きな話につながっていて、現代の風刺になっている。差支えない範囲だと、ロミオが平家、ジュリエットが源氏の対立関係に置換えられていて、いわゆる「ロミオとジュリエット」をやりつつ、他のシェイクスピアもネタにしつつ、若い2人の暴走を止められるかどうか、からその後までいろいろ。最終盤、バックに控えた橋本さとしや羽野晶紀、小松和重のあしらわれ方や伊勢佳世の最後などに、複数のメッセージを凝縮して存分にこめる場面はやっぱり野田秀樹ならでは。ただ、筋の複雑さ以上に個人的にはややすっきりしないところがあり、4人主役というのは野田秀樹をもってしても若干重いのではないかと推測。

役者ではフレッシュ主役の広瀬すずと志尊淳がまったく見劣りしない活躍、特に志尊淳は声よし姿よし身のこなしよしで、これは今後の野田地図3公演以内の再登場を確信させる出来。他に経験組の羽野晶紀はノリがよく、松たか子は実に望ましいタイミングで望ましい演技をしてくれる(そして何もしていないときでも実によい表情)。逆にベテランでも初参加組が控えめで、上川隆也や伊勢佳世が真面目なのは想定内として、橋本さとしや竹中直人がもっと怪しく遊んで拡げられる役のところ、脚本内に収まっていたのはやや不満。小松和重も経験組の割にはあまり遊んでいなかった。休憩はさんで3時間の上演時間が長すぎて野田秀樹が抑えたか。あと今回はコロスの人数がいつもより少なかったけど、いつもより多めの台詞を割振って、見せ場を作りつつ役者陣をシェイプアップするのに一役かっていた。まったく違和感なかったのでもう少し台詞をそちらに振ってもよさそう。

と文句はあるけど、観終われば満足するのはいつものこと。こんなの世界中探しても観られない芝居なので、野田秀樹が元気なうちにできるだけ観ておきましょう。それにしても野田秀樹が毎回放り込んでくる「近年よくある大きな話」がまったくネタに困る様子がなくて、検証されずにふたをされた行為たちの何と多いことかと今さらながらに思う。

ちなみに台風の影響は少なくともここにはなくて、昼の回はいつも通りの当日券100人越えでした。それでも全員立見も含めて入れていたけど、列の進みが遅くて何事かと思ったら座席確認と会計を一人で兼ねていた。窓口の種類が多すぎて場所と人手が足りていなかったのかもしれないけど、100人以上捌くのにそんなダサいことは止めてもらって、座席確認と会計を分離してほしい。そこまで並びたくない人は夜の回のほうが人数少なかったです。

<2019年10月15日(火)追記>

「A Night At The Kabuki」と副題にあって意味不明でしたけど、あれ、冒頭の場面は「俊寛」でしたね。何か観たことがあるとは思ったけど忘れていました。ということは、他の場面でもシェイクスピア以外にも、歌舞伎からの引用で構成された場面があるかもしれません。私の知識では追えないので誰か詳しい人が後で引用元をまとめてくれることを期待します。

2019年10月 7日 (月)

風姿花伝プロデュース「終夜」シアター風姿花伝

<2019年10月5日(土)夜>

夫の母の葬式から骨壷と共に戻ってきた夫婦。夫婦は娘が一人いるが、夫は離婚した前妻との間にも娘がおり、その娘からの電話をきっかけにいつもの喧嘩が始まる。やがて夜が遅いからと弟夫婦が泊まりに来るが、仲の良くない兄弟で喧嘩が始まり、また弟夫婦の間でも言い争いが始まる。お互いが溜めていた言葉がほとばしり出て止まない一晩の話。

公式では4時間半だったのが劇場案内では3時間50分となり実測は休憩2回を挟んで3時間40分。攻守ところを変えてひたすら言い争いが続く、一言でまとめると「それを言っちゃあおしまいよ」を言ってしまう芝居。少し笑える場面もあるけど、シリアスというか伝わらないとか諦めとか絶望とかそういう言葉が似合う場面がほとんど。これでよく芝居が続くなと思うところを続けられるのは役者スタッフが一丸になった賜物。

4人それぞれの役が抱える問題は、どことなく日本でも同じ問題を抱える人がいそうなもの。そこで、岡本健一にくたびれた中年役を、栗田桃子がエキセントリックな役を、それぞれ振るのが意外で、これがまた上手い。栗田桃子は当面の代表作になるかという出来。那須佐代子はだんだんはじけていく、やっていて美味しい役ではないかと想像していたらその通りだった。そもそも少人数芝居だから脇役を用意する余裕はないのだけど、プロデュース公演ではちゃんといい役が用意されている芝居を選びますねこの人は(笑)、というのを差引いても上手で、過去に観たいろいろな芝居とも違う役を造形。ちょっともったいなかったのが斉藤直樹で、後半に道化的な演技が目立って、多少息抜きがほしかったのだと推測するけど、この脚本と芝居なら4人全員シリアスで押し切ってもよかったんじゃないか。とは思うけど、表に出たり秘めたりしている熱量が4人とも激しくて、それでこそ成立する芝居を見せてもらった。

スタッフワークがまた素晴らしくて、黒一色の素通し舞台に葬式の写真を思わせる黒縁をもうけて、葬式帰りという設定で黒い衣装メイン。そこに影を多く作る照明と、ほぼ効果音だけの音響。すごいしっくり来た。やっかいな言い争いを上手に整理して、スタッフワークと統合させた上村聡史の手腕が凄い。

華やかな演技や演出は一切なし、その代わり質は保証、夫婦生活を長く続けて酸いも甘いもかみ分けた大人向け。そういう芝居。前売売切の回でも当日券は用意されていて、角度はさておき見切れは全然ない至近距離の舞台なので、我こそはという人は是非。

2019年8月17日 (土)

DULL-COLORED POP「第三部:2011年 語られたがる言葉たち」東京芸術劇場シアターイースト

<2019年8月16日(金)夜>

大津波と原発事故が起きた2011年の年末。地元テレビ局の報道スタッフは仮設住宅に避難している住人に取材を試みるが上手くいかない。報道局長は双葉町の町長の弟だが、町長は神経を病んで入院しており、取材できる状態ではない。取材が進まない中、年末の特番を控えて、復興を後押しする報道をしたいスタッフと、視聴率がほしいスタッフとで意見が割れる。

福島三部作の第三部は第一部とも第二部とも打って変わって、原発よりも住人に焦点を当てたドキュメンタリー調。原発を取上げるよりも復興をテーマに据えた未来志向とも言える。仮設住宅の住人のエピソードも、テレビ局のいろいろも、何か取材元があるんだろうなということが観ながら想像できて、重かった。

トークディスカッションの回にまた当たって、そこで話された内容によれば、やっぱりこの第三部はいろいろ取材で聞きこんだ情報を盛込んだとのこと。力作ではあるけど、事実が重すぎて観る側の想像力の入る余地が少ない。ここが前2作と大きく違うところ。

トークディスカッションのメモを覚えている限りで。客席の質問に答えるQ&Aのスタイル。はてなまでが質問、そのあとが回答。間違っていたら文責はこのブログにあり。

・津波の被害と原発の被害は分けて描くべきだったのでは? 自分が東北3県を取材した限りでは津波に対する意見もそれなりに多かったので、自分の中で消化した結果、津波に関する話もそれなりに多くなった。

・劇中で福島放送を実名でネガティブな要素も含めて描いており、しかもロゴに本物を使っていたが、タイアップしているのか(私は気がつかなかったが、カメラに貼ったステッカーや封筒などに記載されていた模様)? 劇中でのロゴの使用を申請したが断られた、脚本を提示したわけではない(ので検閲ではなく単に許可がもらえなかった)、制作と相談して実物を使うことにした、福島放送のエピソードは多少脚色しているが取材した内容に基づいており表現の自由の範囲と信じている、先方の法務部門から訴えられたら対応する。

・この話題を演劇で描くことについてと、この話題に対する距離の取り方についてどう気をつけたか? ギリシャ悲劇の昔から演劇は違う意見の対立を描くものだというのが自分が演劇の脚本を勉強した理解、なので今回の内容はむしろ演劇向き、距離の取り方は難しく特に第三部はエピソードを聞いた人の顔が思い浮かんで自分で演出しながら泣きそうになった、演出家の仕事は冷静に距離を取ることなので将来改めて振り返りたい。

・ネットでの評判だと第二部だけ毛色が違うと言われているが、三部作を執筆した順序や時期に違いがあるか? 書いたのは順番通り、前の作品を書き終わってから次の作品を書いた、第二部は町長に興味があって描きたかったが、三部中でもっとも資料の入手しづらい箇所でもあったので、数少ないインタビューと書籍を参考に脚本家の想像で補った部分が最も多い作品となった、そのためそういう評判になったのではないか。

自分が三部を全部観た感想だと、第二部が一番考えさせられたのだけど、事実より想像が多い作品の方が観ていて想像力をかきたてられたというのは、貴重な経験だった。

あとロゴの話は微妙。むしろ悪行を告発するような芝居で実物を使うのならまだわかるけど、今回はそうとは限っていない。取材に基づいたエピソードを実名で描くのは表現の自由だけど、ロゴの使用は商標権の話(気が付かなかったけどこれこれか)。表現の自由で商標権に挑戦しない方がいいというのが個人的な意見。この芝居の価値はそこではない。せっかくの力作にそういう細かいところでケチをつけられないように、自作のロゴに改めるのが吉。

<2019年8月17日(土)追記>

書くのを忘れていた。報道局長の「資本主義と真面目な報道は相性が悪い、民主主義と真面目な報道は相性が悪い」というインパクトの強い台詞があったけど、これは間違っている。テレビ業界は時間の制約が絶対なので、その分お金をかけるか報道内容を絞るかしないと品質を保てない、さらに大規模な報道内容に挑むならお金をかけないといけないけど、そこまでできない、というのが正しい。もっと身近な例なら、取材に3年かけたというこの三部作自体が報道に近い内容を含むけど、それを1か月でやれと言われてできたか、と考えればよい。

プロジェクトで品質を維持するための時間と費用と範囲のトレードオフ」は報道を含むあらゆる分野に通用する内容で、資本主義でなくても民主主義でなくても事情は同じ。そういう自覚を業界で、少なくともその局で持っていないから無茶な要求がまかり通って報道が荒れていく、というなら話は分かる。あるいは最終的な品質の評価を視聴率でしか行なわないから時間と費用と範囲のトレードオフが正しく判断されないというのでも話は分かる(視聴率に関する台詞は少しあった)。台詞の強さ、発するまでの展開とシチュエーション、役者の演技力、すべて揃って説得させられそうになるけど、そこは違う視点でも考えられるべき。

2019年8月11日 (日)

DULL-COLORED POP「1986年:メビウスの輪」東京芸術劇場シアターイースト(ネタばれあり)

<2019年8月9日(金)夜>

双葉町に原発が建ってから15年。税収が街を潤し、原発反対を声高に訴える人が少なくなった中、原発反対を訴えて県議会に立候補しては落選を繰返していた男がいた。飼犬が亡くなった晩、家族からの反対もあってもう政治には関わらないと決めていたが、町長の不正によって対立政党から出馬依頼を受ける。建ってしまった原発が安全に運営されるために監視する人が必要という説得に負けて立候補、無事に当選が決まるが、その翌年にチェルノブイリの原発事故が発生する。

第一部に続いて福島三部作の第二部はほぼ会話劇。立候補することを決めるまでの前半と、町長になってチェルノブイリ事故が発生してどう対応するかを問われる後半。粗筋だけならほぼ上記で言尽くしているけど、この芝居の価値はそのプロセスを描く会話劇、説得劇の箇所にある。あのときのあの立場で関係者がどう振舞うのかが正解かなんて、現在進行形で答えられる人なんていなかったことがよくわかる。そこに寡黙な妻を用意しておいたのは数少ない脚本の救い。亡くなった犬を、狂言回しではなく、生者を見つめる死者に位置づけることで、変わらざるを得なかった運命の皮肉が強調される。

一番上手いのは、対立政党の政治家の秘書に典型的な悪人要素も描きつつ、その実が日本人の振舞や反応を代表させる構造。極論を求めるその態度だけ取上げたら、原発自体が日本人には向いていなかった技術、過ぎた技術と見える。この秘書がどう見えるかが、その観客の芝居への反応を体現することになる。どの程度意識して描いたのか気になる。

知らずに観に行ったら脚本演出家と観客のトークアンドディスカッション(だったか?)を実施している回だった。父が電力会社の技術者、母が原発の近所出身、昔は原発を素直にすごいと思っていたけど今は反対、などの情報はあった。

ただ、原発反対している人たちは、反対なのはわかるけど、止めた後の話を言っている人がいない。ただ止めるのか、節電を進めて原発不要なところまで目指すのか、代替エネルギーを探すのか、そこの意見がわからない。原発の建設を決定した人たちは、想定されうる事故の対策検討に目をつぶって原発を推進した人たちとして扱われていたけど(うろ覚え、トークアンドディスカッションだったかも)、止めた後のことは知らないけど止めろという人たちといったい何が違うのだろう。シンプルに考えるといっても、せめてもう一言、その後についての意見があってしかるべきではないのか。

みたいなことを、その場で質問できたら良かったのだろうけど、帰りの電車から数日かけて感想をまとめるタイプの人間にはそういうやり取りは難しいし、何より直接芝居と関係ない。第三部を観てからまた考える。

2019年8月10日 (土)

東京芸術劇場主催「お気に召すまま」東京芸術劇場プレイハウス

<2019年8月9日(金)昼>

兄である元領主が弟である現領主に追放された領地。娘の願いで姪だけは除名して館に住まわせていたが、開催したレスリング大会で兄の忠臣の息子が優勝し、その戦いを見物していた姪と互いに一目惚れする。現領主は男の出自を知り殺そうとするが召使いの機転で脱出し、追放を命じた姪は男装して娘と道化と一緒に領地を去る。2組が目指すのは元領主が命を永らえているというアーデンの森。

粗筋を書くと格好よさそうだけど、森の出来事は男同士の乱交騒ぎといった趣で、シェークスピアの中でも強引な展開による喜劇。演出もそれを強調して格調とは縁がない。ただ、シェイクスピアは役者のキャラで客席狙いするようなところが多々あって、四大悲劇のほうが例外的というか、十六世紀の芝居はそっちが標準ではないかと最近考えている。だから客席も多用した今回の演出は何となくオリジナルに近づけることを目指したのではという印象を受けた。

という前提で、それにしては正統派の役者を集めたなあ、そして正統派の役者も結構はっちゃけるんだなあ、と余計なことを考えながら観ていた。とりあえずシェイクスピアなら中嶋朋子出しとけ、という理由で呼んだのではないことは「おそるべき親たち」以来の縁だろうからわかるけど硬軟使い分けていたし、山路和弘や小林勝也や久保酎吉のベテラン勢も結構ノってみせていた。むしろ道化役の温水洋一がちゃんとした喜劇を目指そうとして遊びが足りなかったし、広岡由里子は出番が少なくてもったいなかった。

ヒロインの姪役の満島ひかりが、一言で言えば華があった。言い方が難しいけど、演技で言えば観られるけどそこまで上手ではない。ただ、一番伸びやかに演技していた。ニンに合った演出だったのか、観客を信用していたか、自分がしゃべれば客は納得するだろうという売れっ子の自信かはわからないけど、あれは主役にふさわしい態度だった。これまでよさそうな芝居に出ているみたいだから、そろそろ劇団☆新感線とか登場しそう。相手役の坂口健太郎はちょっと真面目すぎ、満島真之介は出番が少ないのがもったいない王道演技だった。

もうちょっとだけキャスティングを入替えて、演出方針を徹底できていたら、もっと面白くなっていたはずだけど、惜しい。

2019年5月27日 (月)

まつもと市民芸術館企画制作「K.テンペスト2019」東京芸術劇場シアターイースト

<2019年5月25日(土)夜>

弟の裏切りにあって一人娘ともども追放され、孤島に流れ着いた元ミラノ大公。一人娘を育てつつ魔法を身につけた彼は、ミラノ大公となった弟がナポリ王一行の船に乗っていることを知り、魔法で船を難破させて島に上陸させる。そうとも知らず、一緒にいた王子が行方不明で意気消沈しているナポリ王を殺害して王位を取るよう、ナポリ王の弟を唆すミラノ大公。一方、わざとひとり分かれて島を探索させられていたナポリ王の王子は、元ミラノ大公の一人娘と出会い、恋に落ちる。

囲み客席の舞台には会議室のような机と椅子、かぶりつきの席まで用意。現代風の服装の役者がいて、おもむろに始まる芝居は、生演奏や声を多用して原始的な雰囲気を足しつつ、一応ミラノとかナポリとか設定はあっても無国籍風で、時代も超越したような不思議な仕上がり。すごい狭いエリアで展開するのだけど、それに反して芝居のスケールが、話が進行するほど大きくなっていって引きこまれる。

遊びたいように遊んで作ったような印象があるけど、それでも紛れもなくシェイクスピア。なんて表現すればいいんだろう。脚本が好きすぎて自分のやりたいようにやって、それでも成立させたというか。あれだけやりたいようにやっているのに、品位が保たれているのがすごい。そう、品位ある仕上がりだった。個人的には若い2人を祝福する光の場面が好きだった。簡単といえば簡単な演出なのに美しい。あとやっぱり声を足した音楽でより多幸感が出ていた。

役者はまあみんな上手。しいて言えば串田和美の声が、この会場でもだいぶ小さかった。病気したはずだけど、まだ活躍してほしい。でも他の役者がみんな役に対して構えている中でのぶらっと無造作に歩いている感じ、あれは自分で演出をやっているからできるのか、意思と経験のなせる技なのかは知りたい。アフタートークではそのときは演出家っぽいことを考えていると言ってはいたけれど。

そのアフタートークはほぼ日に縁があったということで糸井重里と河野通和。古典とはいえ何となく世界中が知っているシェイクスピアはむしろ古典ではないという串田和美のコメントと、魔法や小さいものたちの存在を今は日本のほうが信じているのではないかとピーター・ブルックから言われたという客席にいた松岡和子のコメントを記録しておく。糸井重里より松岡和子のほうがアフタートークに適任だったんじゃないのかという感想も残しておく。

総じて、何かいいものを観たという感触が残る芝居だった。観てよかった。

2019年3月24日 (日)

パラドックス定数「Das Orchester」シアター風姿花伝

<2019年3月22日(金)夜>

 

ナチスが政権をとった直後のベルリン。世界を代表するオーケストラと、最高の音楽を要求してオーケストラに君臨する指揮者。民族の優秀さを示すため、またユダヤ人の追放を画策するため、オーケストラを支配下に置こうと工作を進めるナチス。最高の音楽のためには民族など関係ないと一蹴する指揮者だったが、時代の流れはそこまで迫っていた。

 

1年間7本公演の最後。固有名詞を出さないあたりが一種の作劇術なのかもしれないけど、オーケストラはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で、みんなからマエストロと呼ばれる指揮者はフルトヴェングラー(ここは「ヴ」を使いたい)。大学時代の初脚本をリライトして上演とのことだったけど、新作と言われてもわからないくらいこれまで観た事件モノの芝居とまったく同じ雰囲気。脚本家としての趣味はまったく変わっていない模様。

 

大勢の楽団員を率いる指揮者と国民を熱狂させたヒトラーを重ねたり、楽団員がいないと何もできないという指揮者のありようが演劇の演出家に重なったり、演劇は言葉を扱う芸術だからか簡単に扱えましたよというゲッペルスの言葉は日本も似たようなものだったり、音楽は抽象的であるがゆえに直接的であるという(元ネタがあるのかわからないけど)切れる台詞が出てきたり、扱っている話題がかなり奥行きを持っていてしかも狙ったものかどうか今の日本にタイムリー。国立つながりで、6月に予定されている新国立劇場の脚本にこれをぶつけたら面白かったのではないか。

 

その一方で直接的な表現かつヒロイズムに満ちた台詞が多い。これなら演技をもっとクールに振ってバランスを取ってほしかったところ、そこに付き合って甘めの演技が多かったのが残念。そんな中で指揮者の秘書を演じた松本寛子が気丈なところから絶叫まで見所を体現。ちなみに野木萌葱の芝居で女性登場人物を観たのはこれが初めて。今後も出てこない気がする。

 

今回も面白いけど、これは演出家が違うと化ける脚本なので、将来どこかの団体で上演してほしい。シス・カンパニーあたりでやってもらえないものか。

2019年3月15日 (金)

パルコ製作「世界は一人」東京芸術劇場プレイハウス

<2019年3月2日(土)夜>

小中学校の同級生だった男女3人。ろくでもない経験をしながら大人になり、そのうち2人は結婚して子供をもうける。その子供が振返る両親の子供時代は幸福だったのか。

今回は筋を細部まで追えた自信がない。誤解混じりで書くと、子供のころの本当にささいな出来事と、子供にはどうにもできない周りの環境とが巡り巡って子供に伝わっていく話。観劇後の印象はチラシのイメージそのまま。暗い話題を扱いつつ笑い飛ばすハイバイの演出と違って、笑いを挟みつつも暗くて何が悪いと開き直ったような演出。むしろ大人計画っぽい。低音多めで不吉な音楽が多くて、そこに松尾スズキと瑛太が低めの声でなお一層暗くなる舞台を、松たか子の声で支える形になっている。この舞台の半分くらいが松たか子の声の不思議な明るさで成立している。

ただ、暗いのは構わないけど、全体にスピード感に欠けた。ハイバイがいつも難しいことをやっているように感じた秘密の一端は、とにかく速いのに速さを感じさせないところにあったと気付いたのは収穫。

2019年2月 4日 (月)

東京芸術劇場制作「父」東京芸術劇場シアターイースト

<2019年2月3日(日)昼>

パリに暮らす父と長女。長女が在宅の介護士を手配するも、3人雇って3人とも介護士を追い出してしまい、次女は優しいのにと長女に当てこすりを言う。ところが長女の言うことが毎回違う。どうやら父には認知症の気配があるようだが、父は自分の症状を認めない。

演技がこなれすぎていて、登場人物の名前や室内靴履きなど一部小道具以外は日本の脚本なのではないかと疑われる仕上がり。介護の問題を真正面から扱っているけど、軽い種明かしとしては、認知症の父の視点から見た場面と、長女の立場から見た場面が混在している芝居。大筋はわかっても詳細がどんどんずれて、認知症の人から見えている世界はこうなんだろうなと思わせる展開。

橋爪功の(文字通り)ボケかたに説得力があったけど、今回は追詰められる長女役の若村麻由美がその向こうを張ってさらに素晴らしい出来。脇を固めるメンバーも、相対的に出番は少ないけど手抜き一切無し。ラスト場面の柔らかさが見事だった女優は全然知らなくて、控えめに演じているのに存在感が強くて背も高くて、日本のどこにこんな女優がいたかと壮一帆を調べたら元トップだった。宝塚侮れん。

終演後のロビーで「認知症の父の視点から見た場面と、長女の立場から見た場面が混在している芝居」という点を同伴者に説明している人多数だったので、そこだけ承知して臨めばいろいろ感じるところのある芝居。まもなく介護される人も介護経験者も、年齢や経験を積んだ人ほど観てみては如何。当日券はまだあったけど、会場前方端だと見切れるので注意。大して広い劇場でもないので、選べるなら最後列端のほうがよい。

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