2017年3月31日 (金)

PARCO Production「不信」東京芸術劇場シアターイースト

<2017年3月18日(土)夜>

引越してきた夫婦。中庭をはさんで向かいの家にも夫婦が住んでいる。挨拶に行ったところきつい臭いに閉口して、付合いはほどほどにしておこうと気をつける。そのうち、隣町のスーパーで買物中の妻が、向かいの家の妻の万引きを目撃する。夫に訴えても人違いではないかと言うのだが・・・。

上手な4人によるサスペンス。誰が誰に不信を抱いているのかを変えながら最後の落としどころに持っていく展開。複数の不信の話を並行で仕込むあたりは「刑事フォイル」を彷彿とさせる。古畑任三郎の脚本家の面目躍如。なのだけど、個人的には釈然としない。

展開はよくできた脚本なのだけど、いろいろ移っていく場面で、4人のうちの誰かか、夫婦か、4人全員を外から観ているのか、どの視点から描いたのかがよくわからずに没入しづらかった。偉そうに言うと観客の視点が誘導できずにぶれていたのだと思うけど、何が原因でそうなったかはわからない。

情報量のバランスも問題。人物の背景に関する情報が大幅に制限されている上に、大切な情報が後半に突然ストレートに出てきたりするので、観ながら登場人物に想像を働かせるのが難しく、観ていて唐突感がある。

役者だと向かいの家の妻を演じた戸田恵子、見るからに不審な演技で始まって、後半は落着き気味の演技になるけど、この違和感が最後までとれなかった。推測では、観客側の邪推を誘発させようと三谷幸喜が演出したのだと思うけど、そうだとしたらもったいないの一言。あんなに上手な役者なのだから、普通を装ったほうがよほど怪しくなったのに。

あのラストを生かすためにはどうすればよかったのか、考えたのだけどわからなくてこんな文章になった。

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2017年2月23日 (木)

カタルシツ演芸会「生きてる時間」あうるすぽっと

<2017年2月18日(土)昼>

近未来の日本。税金を免除する代わりにすべての健康状態とライフログを市に提供することが義務付けられたモデルタウン。このデータから人間の残り寿命を測定するシステムを開発してしまった医者が自分の寿命を知ったことによる顛末。そのシステムの延長で人間の時間を売買できるようになり、ためしに時間を購入した老夫婦の結末。その情報たまたま知ったフリーライターが進める取材の行方。

今回のカタルシツは落語とのコラボレーション。寿命を知った顛末と老夫婦の結末が落語で、その合間に演劇形式の取材の行方が入る。たぶん、取材の行方が元の話で、その背景で匂わされていた寿命を知った顛末と老夫婦の結末を、落語として追加したと思われる。落語の話で背景が広がり、取材の話がぐっと面白くなる。

ただ、落語とのコラボレーションは実験的な要素もあるので、100%成功したわけではない。まず、イキウメはSF要素が多くて全体にかっちり話す脚本だけど、落語はやわらかく話すのでそこのギャップがひとつ。イキウメの看板で見に来た自分としては、柔らかく語るのではなく、もう少しかっちりした台詞術のような語りが聞きたいし、この脚本なら落語側をもう少し固いほうに寄せたほうがよさそう。

次に、落語側と演劇側との間で、登場人物の関係はあっても場面上の接点はないので、話がつかめるまでが長い。もう少しお互いの共通場面があると助かる。そして、それに関係するけど、落語、演劇、落語、演劇、の順番は反対にしたほうがいい。でなければ、頭に演劇を入れて5幕モノにしてほしい。交互に2つずつは落語のスタイルだけど、それに拘る必要はない。カタルシツだから語る時間が長いのは歓迎だし、真打を呼んでおいてもったいないけど、落語の体感時間がちょっと長い。

あとこれはないと思ったのは、演劇は生声で、落語はマイクを使ったこと。終盤に双方が話す場面があるけど違和感が大きい。あうるすぽっとなら生声で揃えてほしい。

苦情ばかり書いたけど、話は面白いし、この形式は発展の余地があるので、第2弾、第3弾と計画して育ててほしい。

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2017年2月22日 (水)

野田地図「足跡姫」東京芸術劇場プレイハウス(ネタばれあり)

<2017年2月11日(土)昼>

江戸初期、裸も見せる女の踊りで人気を博す興行の一座。役人の取締りをごまかすための男衆もおり、看板娘の阿国の弟サルワカもその一人だが、地球の反対側に行けないかといつも穴を掘っている。ある日、穴掘りの不始末で座長の不興を買って一座から追い出されそうになったところ、弟をかばう姉が、面白い物語を書かせると宣言する。詩的だが抽象的な話しか書けない弟に代わって、一座にいつの間にかもぐりこんでいた男が代筆した脚本が大当たりを取る。だがこの大当たりが仇となり、役人の取締に合ってしまう。妹分の踊子が身代りで捕まり、阿国とサルワカは逃げられたが働き口がない。かねてから裸以外にも客を喜ばせる表現があるはずだと考えていた阿国は、踊った足跡が絵になる足跡姫の演目を思い立つ。

時間が経ってしまったので粗筋が微妙に間違っているかもしれないけど御容赦。勘三郎の弔辞で三津五郎が語ったという「肉体の芸術ってつらいね、死んだら何も残らないんだものな」に対する野田秀樹のオマージュがこれ。踊子がいなくなっても足跡(あしあと)が残るという筋を、足跡(そくせき)が残ると掛けて、何も残らないわけじゃない、その先まで続いていく足跡を残したんだと実に明快な回答。

劇中では、芸能に生きるものの表現欲を描きつつ、そのあちらこちらに勘三郎ネタあり。代筆された脚本に仲のよかった仁左衛門の名前を出すくらいはご愛嬌のうち。倒れた阿国に救急車を呼ぶか呼ばないかという場面は宮沢りえの「すったもんだがありました」事件のパロディだけど、それを宮沢りえにやらせる野田秀樹も野田秀樹だし、やる宮沢りえも宮沢りえ(褒め言葉)。最後の場面が満開の桜なのは、反骨の先祖が桜の下に埋められたという劇中の展開もあるけど、太地喜和子の舞台の千秋楽に小道具の桜の花びらを差入れしたエピソードからなのかな。知っている人にはもっとわかるネタがあるのかも。助平な伊達の十役人という役もあるけど、モテた勘三郎のことだったりして。

前半のラスト、死の間際の阿国の母が言葉が上手に話せず「いいあい」と言っていたのは「死にたい」と言っていたのだと思い込んでいた阿国に対して、それは「生きたい」ではないかと返したサルワカに喜んで「だからお前は天才よ」と返す場面。野田秀樹が実際に似たようなことを言われたんじゃないのかな。それがラストでは、生きたいではなく行きたい、踊れない踊子がもっとも行きたかったのは死の床からもっとも遠い反対側、つまり舞台だと繋げて、ああそれは病室で見取った勘三郎のことかと思わせる。この時点ですでに感動しているところ、あの美しい長台詞でこの足跡は十八代までは続くだろうという締め。全然違う話でここまで上手に勘三郎を称えるのだから野田秀樹は天才だけど、この天才をそこまで心服させた勘三郎の魅力ってなんだったんだろう。

脚本ばっかり書いたけど、もちろん仕上がりはよい。宮沢りえが一番だったけど、池谷のぶえが張りきっていて、古田新太は比較的おとなしくしていた。コロスのメンバーが、踊りもいいし、武士集団の動きも切れがある。スタッフワークは言うに及ばず、簡素な美術の割に貧弱さも感じず。全体に質が高い。これは再演されないか、それとも十九代目の襲名があったら再演されるか。もう一度観たい。

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2016年5月28日 (土)

DULL-COLORED POP「演劇」王子小劇場(若干ネタバレあり)

<2016年5月25日(水)夜>

「僕」は卒業式間近の小学生。友達と遊びながら卒業式になんて出ないと言い合っている。夜中の外出中に、車椅子の少女と出会い、恋をする。一方、卒業式間近の学校。卒業間近の生徒が合唱の練習をしている最中、職員室では教師たちが相談を繰返す。自殺未遂を起こした生徒の親から連日問詰められており、本日の対応を協議していると、現れた父親がこれまでの非礼を詫びて「娘を卒業式に出席させたい」と教師に懇願する。

活動休止前の最終公演のうち長編のほう。タイトルにいろいろ重ねて、最終公演にふさわしい内容と、この規模の劇場らしからぬ仕上がりの高さに。無理やり観に行ってよかった。

人生は演劇でありそれぞれが誰かにとって主役であり脇役である(雑)、というシェイクスピアのような台詞をおもいっきりダイレクトに説明する場面を前振に、小劇場らしい「僕」の場面と硬派なストレートプレイの学校の場面という表看板を展開。最終公演に参加を希望しつつも体調不良でひとりだけ降板した劇団員という自分たちの劇団を想像させるような設定に、立場上演技せざるを得ない教師と保護者という演劇的な演劇を込めて、それぞれ自分の人生の新しい局面を新しい演劇として始めていくことをタイトルコールでメタ演劇で表現。「演劇」について多分ほかにもいろいろ入っている。

これだけいろいろな要素を入れつつも、表看板のストーリーが骨太でそれだけで堪能できる脚本。特に卒業式に出席させるかどうかを最終決定するクライマックスは、登場人物の誰もが役を演じて自分の望まない発言をしているのではないか、あの登場人物がそう発言するに至った背景は何か、について考えさせられる、ものすごく上手に観る側の想像力を促してくれる名場面。

最後に「僕」と教師が会話する場面はあまり明らかにされていなかったけど、「僕」の場面のいろいろからして、小劇場的には「僕があなたの若い頃」「わかったかい、俺」みたいな裏設定を思い浮かべた。これが上手く処理できるようなら映像化できないかこの脚本。映像にとても向いている予感がする。

劇団員は父親役の大原研二を筆頭に熱演揃いだったけど、客演陣がそれに負けず劣らず好演。特に井上裕朗の学園主任役と井上みなみ(日替ゲスト)の少女役は、よくできた小劇場芝居でよく見かける好演よりも振切りが大きくて、新鮮だった。

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2016年4月19日 (火)

ハイバイ「おとこたち」東京芸術劇場シアターイースト

<2016年4月14日(木)夜>

学生時代からの男友達4人組。彼らの最後の一人が卒業して全員が働き出してから、80歳を過ぎた晩年に至るまでの人生のイベントで綴る。

初演から2年経たずしての再演。男のダメな部分のうち、特に人間関係をこじらせるダメな典型例を4人に体現させてその行末を見届ける話。事前の予想通りの面白さだったけど、駄目が高じた先にあるものが見えてくるにつれて、あれだけ大量のネタ投入されているにも関わらず笑えなくなるという冷汗モノ。

カラオケで始まりカラオケにつきるオチは見事の一言だけど、この脚本家ならその出来には驚かない。それよりも、抽象化された舞台にわずかな映像でテンポよく転がしていく演出とか、それをこなしてもまったく大変さを感じさせない役者陣とか、観ているときはまったく気がつかなかったけど、後から考えるとひょっとしてものすごい高度なことをやっていたのではないか。何が高度だったのかまったくわからないけど、そこが気になるというか。

人生どこでそっちに転げるか分かったものではないと考えながら観ていると顔が引きつってくるけど、あれは女の側から見たらうんうんうんうんそうそうそうそう、くらいなものなんだろうか。引きつるようになってから観てもいいけど、これを中学生男子くらいのときに観たらどんな感想を持ったかな。

これから全国ツアーなので、観られるものならぜひお勧めしたい。

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2016年4月18日 (月)

劇団民藝「二人だけの芝居」東京芸術劇場シアターウエスト(ネタばれあり)

<2016年4月14日(木)昼>

公演で赤字を出したために巡業公演中の劇団。主宰者兼男優の弟と女優の姉とが狂っているとして見限った劇団員は、有金を持ってロンドンに帰ってしまう。今さら公演をキャンセルもできない弟は、残った大道具係に舞台美術だけ組んでもらい、渋る姉を説得して2人だけで出来る演目を再演する。父が母を殺して自分も自殺した事件のために近所から迫害され、自宅から出られない姉弟の会話劇が開演する。

テネシー・ウィリアムズの日本初演作というけど、ちょっと難しくて、こなれていなかった。では何が悪いと聞かれるとそれがよくわからないので、思ったことを挙げてみる。

・姉弟の役のキャスティングとして、奈良岡朋子と岡本健一はちょっと年が離れすぎていた。どれだけ声色を作っても声年齢が離れていてつらい。せめて見た目だけでも岡本健一をもっと年上にできなかったものか。

・劇場に残された2人と、劇中劇と、実際の観客を劇中劇の観客に見立てるのと、3つの場面設定というか関係を混ぜながらそれぞれの内容をリンクさせて進めていくのが脚本の構成のはず。終盤になって内容がリンクしていくのはいいのだけど、それは今どの場面設定かが明確になってこそ生きてくること。今回は場面の切替にメリハリがなくて、誤解はしないのだけど、観ていて不完全燃焼な気分になった。

・いろいろ声の調子は変えていたけれど、結構同じテンポで会話が続いていた。あと、姉が言いたくない台詞を飛ばすために弟に指示したり、客席の態度を指摘したりするところは、劇中劇っぽくない声だった。これも場面の切替のメリハリのなさにつながっている。

「やがてリハーサルはのっぴきならない真実をあぶりだしていく」ってチラシやサイトの粗筋に書いてあるけど、観客を劇中劇の観客に見立てる台詞から、あの劇中劇はリハーサルではなく本番だったと考える。ただ、酔っ払っているという設定とはいえ、劇中劇の姉の声をあれだけ露骨な調子にしていたところからすると、翻訳もした演出家は、劇中劇に見えた場面は狂ったいない観客もいるように想像してしまった姉弟のリハーサルだと判断したのかも。

でも、劇中劇(またはリハーサル)の場面で姉に飛ばされた、なぜ父が母を殺したかの詳細が、最後の場面で寒さを紛らわすために稽古するときにそれっぽい理由が示唆されて、それと同時に劇中劇(またはリハーサル)の内容が姉弟のある程度の過去を反映していて、ひょっとして逃げた劇団員が正しくて本当に2人は狂っているのかも、って思わせるところがこの脚本の見せ所なのは確実だと信じている。それにしてはそこに至るまで、結構乱暴に展開していた。

試行錯誤する時間が足りなかったのかもしれないし、脚本自体が実はつまらないものだった可能性もある。けど、芝居全体の構成についてすら芝居と自分との間に合意ができなかった結果を考えると、翻訳兼演出家がどういう理解で演出したのかは訊いてみたい。

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2016年2月11日 (木)

野田地図「逆鱗」東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタばれあり)

<2016年2月10日(水)夜>

日本の海岸にある海中水族館。イルカのショーが名物だったが、人魚研究者である館長の娘の肝煎りで新たな目玉として人魚ショーの導入が進められる。海中に設けた大きな専用の水槽に、水族館の下に沈んでいる古代遺跡からダイバーたちが人魚を連れてくる計画。このショーの訓練中におぼれたダイバーが夢の中で人魚と出会う。一方、娘の研究を信じていない館長は人魚役のオーディションを開催するが、そこに自分は人魚と言い張る女性が応募してくる。彼女はダイバーが夢の中で会った人魚と同じ女性だった。

粗筋を書いていると一昔前のアングラ芝居と見間違えるけど、「キル」とか「パンドラの鐘」とか、あのくらいの時期の言葉遊びや複数世界の往来がとびかう、いわゆる野田秀樹っぽさが満載の芝居。だけど後半は最近の野田秀樹。そのギャップがものすごく大きいのにぴたりと合わさって、壮大な展開になった。後半で取上げていた内容が最近の自分の興味にハマったこともあり、観終わった後に全力で拍手した。

野田秀樹の芝居に満足するときは役者が少しやり過ぎなくらい前に出てくるところを演出で上手にまとめて仕上げている印象が多かった。だけど今回はこれだけ有名どころを集めたのにアンサンブルというか、池田成志や阿部サダヲがどれだけ前に出てきても、脚本の世界観を豊かにするだけになるという不思議な感覚だった。ちなみに後半の阿部サダヲは多分今まで観た中で一番献身的な演技。

唯一目立っていたのが人魚役の松たか子で、主役なだけに強い台詞や詩的な台詞が他より集まっていたけど、その強さに負けない台詞回しで芝居を牽引して、主役を張る役者はかくあるべしというのを体現していた。野田秀樹といえば最後は主役の長台詞と思っていたら、今回それはそれは美しい詩を冒頭に持ってきて、ラストは比較的短く締めていた。そのラストの松たか子の「声」が短さを気にさせない声で、演出のすべてがそこに集約するような声だった。

あと今回はコロスが美しくて、体がよく動いてぴたっと止まれるメンバーが揃っているのに加えて、振付の井出茂太、衣装のひびのこずえと、美装の柘植伊佐夫あたりが決まった感がある。人魚の衣装に限らず他の出演者の分も含めて、あの衣装はよかった。

チラシにもサイトにも「全公演、当日券を販売します!!」と明記していて、当日券も立見込みで平日夜で50枚くらいは出ている模様なので、ここは挑戦してほしい。休憩無し2時間15分だけど、立見だとぐっとチケット代は安くなるので、体力のある人はそちらを狙うのもあり。素舞台に近い美術だから、役者が後ろ向きになってしまうことはあるけど、見切れらしい見切れはないので、買えるならどの場所でもいいから買っておくのが吉。センターが当然いいのだけど、左右で選ぶことになるなら下手のほうが親切。

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2016年1月29日 (金)

ハイバイ「夫婦」東京芸術劇場シアターイースト

<2016年1月28日(木)夜>

職場では手術の名手で関係者の面倒見もよい名医。家では酔って妻や子供に暴力を振るう独裁者。病気で入院するも術後の経過が思わしくなく亡くなった父と、横暴に耐えて連れ添った母の話。

再演と再々演を観た「」の続編にあたるもので、脚本演出である岩井秀人の父の話。再々演の「て」に続いて父役の猪俣俊明と兄役の平原テツと、前回よかった役者2人が同じ役でキャスティングされているため、ちょうどよい続編感を感じられる。そして母役の山内圭哉が、動きで多少笑いを取りに来たけど台詞は真面目で通していたのが、台詞とのギャップがあってそのほうがむしろ面白かったとはいえ、非常に新鮮。岩井本人役には「て」の母役からコンバートされた菅原永二だけど、次女は今回登場しない。何かあったのかな。

観ていて受けた印象は、公正であろうとする努力。どこまで話が本当かわからないけど、「て」がほぼ実話らしいのでこれもほぼ実話だとすると、殺してやりたいくらい憎んでいる家族の立場から、でもさすがにこれは取上げざるを得ないと思わせるよい面のエピソードを織り交ぜて、適切な按配。狙いしましたラストも含めて、少なくとも芝居として上演するにはよいバランスで、公正な印象は最後まで保たれた。ちなみに前回は葬儀関係で不審なネタが満載だったけど、今回は医療関係で不審なネタが満載で、事実なら医療過誤じゃないかこれは。

病気の話が出てくるので観た回の客席は深刻気味だったけど、笑える場面ももちろんあるので、「て」を観た人も観ていない人も楽しめる。当日券は毎公演発売するようなので、何を観るか迷っている人はぜひどうぞ。あと小ネタとして、「て」を観た人は開演前の曲にも注目。

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2015年12月18日 (金)

劇団チョコレートケーキ with バンダ・ラ・コンチャン「ラインの向こう」東京芸術劇場シアターウエスト

<2015年12月17日(木)夜>

1946年に降伏して終戦を迎えた結果、ソ連管轄の北日本とアメリカ管轄の南日本とに分断された日本。県境で国境が引かれたため、山奥の県境にまたがる、親戚同士の農家が2家族が住むだけの集落が北と南とに分かれることになる。家族は互いの農作業を手伝いつつ、両国の国境監視の兵士が1人ずつ駐在するも、見回り以外何もしない平和な状態が続く。そこに、北と南との戦争が勃発し、北日本の軍に入隊していた息子が脱走して戻ってきてから、村の雰囲気が少しずつ変わっていく。

初日。観に行ったこちらの引きの強さというか、前回に続いて暗い日本の話。昨今はこういうテーマの芝居が多い。豪華ゲストを迎えて大きな設定を持ってきた割には保守的な仕上がり。上記あらすじまで進んだ時点で3パターンくらい考えたら、その中の一番穏当な結末だった。無理に破天荒な芝居が観たいわけではないけど、この筋だと現実の重苦しさに力負けしている。あとひと転がしがほしかった。

台詞がほぼすべての状況と心情を説明する脚本は観る側に想像する余地を与えない。演出で笑いやシリアスのメリハリをつけようとしたり、深く掘ろうとした気配もない。初日とはいえ近藤芳正がいて戸田恵子と髙田聖子を呼んで、この出来は不満の一言。

南日本の兵士の西尾友樹が肩の力が抜けた感じで好印象。劇場一杯の飛行機の効果音は臨場感を上手に煽っていた。

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2015年11月 1日 (日)

てがみ座「地を渡る舟」東京芸術劇場シアターイースト(若干ネタバレあり)

<2015年10月30日(金)夜>

民俗学者として活躍した宮本常一。1935年に渋沢敬三に認められてからの活躍と、アチックミューゼアムで働いた研究員たちとの10年を描く。

脚本家、長田育恵の評判を一躍高めた芝居の再演。確かに戯曲賞にノミネートされるだけの実力ある芝居だった。けど、それだけにいろいろ気になるところも目についた芝居だった。脚本がよくて演出が負けていて、それはたまに見かけるけど、脚本がよくて脚本自身の物足りなさまで目につくのはとても珍しい。

ひとつは、宮本常一と渋沢敬三にフォーカスしすぎて、周りの研究員が薄くなったこと。アチックミューゼアムの休眠を前に思いのたけを台詞にされる場面を盛上げたいなら、その前に各人のエピソードをもっと入れてほしい。宮本常一にフォーカスするなら、そのあとの「自分勝手」が思い当たるようなエピソードをもっと入れてほしい。

もうひとつ、時期が第二次世界大戦に突入して敗戦になるまでの10年を選んで、軍人や戦争に協力した研究員をかなりはっきり嫌な奴として描いている。そこまではいいとして、他の人が善人に見えすぎないか。女中頭の弟の出征と戦死の話があって、ここに民俗学の調査結果(死者の魂は故郷に帰る)を重ねて軍人にたたき返してしまうのが、脚本家の実力であり、惜しいところ。庶民禁止という個人的趣味からすると、その前にラジオを聴いて喜んでいた場面からつなげて、もっと因果応報な描き方にしてほしかった。渋沢敬三の妻はその点で好みの線で描かれていたけど、財閥出身者なので普通はあれも軍人たちと同じ側で見えてしまう。

演出について言えば、泣きたい感情を全面に押し出した湿度の高い演出で仕上げているけど、薄く見せるほうがいいような内心もはっきり台詞にした脚本なので、もっとドライな芝居に仕上げた方がこの脚本にはよかった。最後の70年後の現代人の通行。いい感じの選曲と、冒頭の70年前という台詞と合せて、たぶん戦時中の庶民のたくましさ、たとえば飢えさせないように農民ががんばったから今日がある、みたいな美談にしたいのだろうけど、自分には、よいところ以上に悪いところも温存して今日まで来てしまったようにしか見えない。

ほんの少し脚本と演出を変えるだけで激変しそうで、それが今は自分の好みではないほうに振られている。観られてよかったとは思うけど、いろいろ書いて気が付くのは、やっぱり自分は政治的な芝居は原則苦手。政治的な悪人を想定して自分は無条件で善人のふりをする芝居は特に苦手。なので政治的な話はもっと上手に隠してほしい。

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