2017年11月 5日 (日)

野田地図「表に出ろいっ!」東京芸術劇場シアターイースト

<2017年11月4日(土)夜>

能の家元の家で、飼犬が出産を控えたある日の晩。仕事仲間と協会の行事に出かけようとする家元と、3か月前から計画していた予定に出かけようとする妻と、友人との約束に出かけようとする娘。今晩限りは何としても出かけたい3人は、互いに相手に押付けあいながらなかなか表に出られない。

今は亡き勘三郎との共演で制作された芝居を、今度はイギリスの役者と英語上演。舞台美術や衣装をポップにし、役と役者の男女を入替えることで、エスカレートしていく展開がリアルにならないようにする配慮。

ふざけた展開をもっとふざけるうちに深刻な話になるところがミソだと思うけど、これだけのふざけた設定をもってしても、イギリスの役者は真面目さが伝わってくる。日本での英語上演なのでアドリブに限度があることもあるけど、ふざけられないお国柄なんだろうか。そこに限界があるのが残念。

あと、野田秀樹だけでなく大竹しのぶや阿部サダヲがイヤホンガイドを務めていたということだけど、よさがわからなかった。録音のせいか、単純に英語と日本語の台詞があっていなかったし、情報量もかなり落ちていた感触。もうちょっと何とかならなかったか。

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2017年8月16日 (水)

日本総合悲劇協会「業音」シアターイースト

<2017年8月15日(火)夜>

母親の介護を理由に芸能界を引退していた歌手が、借金返済のため介護の美談を使って演歌歌手としての再デビューを目指す。が、自分が運転する車でマネージャーと移動の途中、歩道の女性をはねてしまう。その際に、実は亡くなった母親の死体を車に積んで再デビューまでは隠そうとしたことまでばれてしまう。マネージャーが身代わりで出頭するが、口止めと引換に歌手は女性の家庭に引き留められる。

荻野目慶子主演で2002年初演の芝居を大人計画メンバーで再演。松尾スズキが過激な時代の脚本で、新主演の平岩紙にいろいろ負担がかかるも物語の展開上は疑問が多く、初演時に荻野目慶子を追込みたかったという経緯を知らなければ強引に見える。いろいろ社会の暗いところを当時の基準で切取っていたけど、明るみに出たりそれ以上の問題が起きたりして時代遅れになった話題多く、「ふくすけ」同様脚本の古さは否めず。それよりこのサイズの劇場で役者の声にエネルギーを感じられなかったほうが問題。そもそも無茶な展開がある脚本なのだから丁寧に作る以前に熱量が必要。千秋楽までの改善を期待。観た回では皆川猿時が健闘、美術とプロジェクションマッピングよい。

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2017年8月 7日 (月)

東京芸術劇場企画制作「気づかいルーシー」東京芸術劇場シアターイースト

<2017年7月28日(金)夜>

おじいさんと馬と暮らす少女ルーシー。ある日おじいさんは馬に乗って出かけたが、馬から落ちて気絶してしまう。それを死んだと勘違いした馬は、ルーシーが悲しまないように、おじいさんの皮を剥いでかぶり、おじいさんに成りすます。バレバレだが、馬の気遣いがわかるルーシーは、気付かないフリをして馬に気遣いながら暮らしを続ける。

松尾スズキらしい無茶な展開と思って観ているうちに何となくこれはとてもいいものじゃないかという気分にさせられる不思議な芝居。岸井ゆきののルーシーと栗原類の馬鹿王子があまりにはまっていて、帰りに物販で原作の絵本を買ったらそのまんまだったので二度びっくり。他の役者もそれぞれよかったけど、この芝居の成功の半分は岸井ルーシーにある。ジェンガを模したシンプルな舞台がいろいろ展開していくところや丸見えの生演奏が、生々しさを中和してちょうどよい。再演した理由がわかる芝居だし、メンバーが集まるうちに再々演もやっておくべき。

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2017年6月 3日 (土)

イキウメ「天の敵」東京芸術劇場シアターイースト

<2017年5月20日(土)夜>

料理教室を主宰し、マクロビオティクスの料理研究家として最近売れている男。料理番組の収録にも出るくらいだが、過去の経歴は不明で、助手に任せて一切調理を行なわない。料理教室に通う生徒は、夫の健康を気遣って教室に参加していたが、医療健康分野の取材を重ねていた夫は経歴不明の主宰者に興味を持って取材を申込む。過去に食餌分野で名を成した医者の子孫ではないかと追及したところ、子孫ではなく本人だと伝えられる。生きていれば120歳を超えているはずの主宰者が話す、食餌医療追及の果てにたどり着いた長寿の秘訣とは。

元は短編を長編に仕立て直したとのこと。役者は好演。スタッフワークも相変わらずよくて、特に整然と作られた料理教室の美術はロングランの賜物か、このくらい作られていると小劇場感が抜けていい芝居を観に来た気になれる。

2役を演じる役者が多くて、助手と主宰者の妻の2役を演じた小野ゆかりがこの前よりもいい感じ。生徒役の太田緑ロランスもよさそうな印象だったけど、戦前からの回想の話が続くため、回想場面で当てられる役が少なくて役不足。話より先にキャスティングを押さえてしまったんだろうと推測。

長寿の秘訣を長年試して絶望する男と、試したばかりで絶賛する関係者とのやり取りは、どこまで意図したかわからないけど、「太陽」を暗示するかのような場面で、イキウメらしさがよく出た作風。最後、取材後の主宰者と取材する夫との隔たりもいい。ただ、主宰者が話すメインの出来事1本だけで2時間超を引張るにはちょっとつらくて、薄味な仕上がり。長編化するなら、並行して別の問題を進めるか、「生きてる時間」みたいに別の立場からの描写を増やすか、もう一工夫ほしかった。

次回の本編は映画化に合せてなにか奇跡が起きてる気がする名作「散歩する侵略者」、他に新作を長塚圭史演出で「プレイヤー」、脚本のみ提供の秀作「関数ドミノ」、と前川友大の活躍は追いかけたいところです。

で、最後に文句。今回は当日券で観たのですが、割当てられたのが追加椅子席の一番端。なのだけど、ひとつ内側の追加椅子席が最後まで空席だった。これと同じことが以前「獣の柱」のときもあった。なぜ内側の席を売ってくれないのか。受付の手元には10枚くらいチケットが残っていたのに選べないし、もちろん一番端だから観やすいなんてこともない。追加椅子席だから事前の指定席販売に含まれていたとは思えない。

今回はチケットサイトで席未定の当日引換券を販売していたから、チケット販売開始時点で観やすい席を当日引換券に優先的に割当てるならわかる。でも自分が開演15分前でチケットを買った時にはすでに誰も並んでいなかった。それなら残っているいい場所から当日券に引当ててもいいだろうに、何でこんな目に合わないといけないんだ。「獣の柱」のときは一応指定席だったから買った観客が来場できなかった可能性もあるけど、2回目に同じ目にあったので偶然とは思えない。急遽芸能関係者や評論家が来場したときに備えて少しでもましな席を用意しておくとかの理由でも、開演15分前に通用する理屈とは思えない。金を扱う場所なので受付担当は手伝いではなく制作メンバーの一人だと思うけど、そんなに当日券客の扱いが低いならチケットは当日引換含めて全部Web販売、当日券販売しない、くらいまで徹底してくれ。

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2017年3月31日 (金)

PARCO Production「不信」東京芸術劇場シアターイースト

<2017年3月18日(土)夜>

引越してきた夫婦。中庭をはさんで向かいの家にも夫婦が住んでいる。挨拶に行ったところきつい臭いに閉口して、付合いはほどほどにしておこうと気をつける。そのうち、隣町のスーパーで買物中の妻が、向かいの家の妻の万引きを目撃する。夫に訴えても人違いではないかと言うのだが・・・。

上手な4人によるサスペンス。誰が誰に不信を抱いているのかを変えながら最後の落としどころに持っていく展開。複数の不信の話を並行で仕込むあたりは「刑事フォイル」を彷彿とさせる。古畑任三郎の脚本家の面目躍如。なのだけど、個人的には釈然としない。

展開はよくできた脚本なのだけど、いろいろ移っていく場面で、4人のうちの誰かか、夫婦か、4人全員を外から観ているのか、どの視点から描いたのかがよくわからずに没入しづらかった。偉そうに言うと観客の視点が誘導できずにぶれていたのだと思うけど、何が原因でそうなったかはわからない。

情報量のバランスも問題。人物の背景に関する情報が大幅に制限されている上に、大切な情報が後半に突然ストレートに出てきたりするので、観ながら登場人物に想像を働かせるのが難しく、観ていて唐突感がある。

役者だと向かいの家の妻を演じた戸田恵子、見るからに不審な演技で始まって、後半は落着き気味の演技になるけど、この違和感が最後までとれなかった。推測では、観客側の邪推を誘発させようと三谷幸喜が演出したのだと思うけど、そうだとしたらもったいないの一言。あんなに上手な役者なのだから、普通を装ったほうがよほど怪しくなったのに。

あのラストを生かすためにはどうすればよかったのか、考えたのだけどわからなくてこんな文章になった。

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2017年2月23日 (木)

カタルシツ演芸会「生きてる時間」あうるすぽっと

<2017年2月18日(土)昼>

近未来の日本。税金を免除する代わりにすべての健康状態とライフログを市に提供することが義務付けられたモデルタウン。このデータから人間の残り寿命を測定するシステムを開発してしまった医者が自分の寿命を知ったことによる顛末。そのシステムの延長で人間の時間を売買できるようになり、ためしに時間を購入した老夫婦の結末。その情報たまたま知ったフリーライターが進める取材の行方。

今回のカタルシツは落語とのコラボレーション。寿命を知った顛末と老夫婦の結末が落語で、その合間に演劇形式の取材の行方が入る。たぶん、取材の行方が元の話で、その背景で匂わされていた寿命を知った顛末と老夫婦の結末を、落語として追加したと思われる。落語の話で背景が広がり、取材の話がぐっと面白くなる。

ただ、落語とのコラボレーションは実験的な要素もあるので、100%成功したわけではない。まず、イキウメはSF要素が多くて全体にかっちり話す脚本だけど、落語はやわらかく話すのでそこのギャップがひとつ。イキウメの看板で見に来た自分としては、柔らかく語るのではなく、もう少しかっちりした台詞術のような語りが聞きたいし、この脚本なら落語側をもう少し固いほうに寄せたほうがよさそう。

次に、落語側と演劇側との間で、登場人物の関係はあっても場面上の接点はないので、話がつかめるまでが長い。もう少しお互いの共通場面があると助かる。そして、それに関係するけど、落語、演劇、落語、演劇、の順番は反対にしたほうがいい。でなければ、頭に演劇を入れて5幕モノにしてほしい。交互に2つずつは落語のスタイルだけど、それに拘る必要はない。カタルシツだから語る時間が長いのは歓迎だし、真打を呼んでおいてもったいないけど、落語の体感時間がちょっと長い。

あとこれはないと思ったのは、演劇は生声で、落語はマイクを使ったこと。終盤に双方が話す場面があるけど違和感が大きい。あうるすぽっとなら生声で揃えてほしい。

苦情ばかり書いたけど、話は面白いし、この形式は発展の余地があるので、第2弾、第3弾と計画して育ててほしい。

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2017年2月22日 (水)

野田地図「足跡姫」東京芸術劇場プレイハウス(ネタばれあり)

<2017年2月11日(土)昼>

江戸初期、裸も見せる女の踊りで人気を博す興行の一座。役人の取締りをごまかすための男衆もおり、看板娘の阿国の弟サルワカもその一人だが、地球の反対側に行けないかといつも穴を掘っている。ある日、穴掘りの不始末で座長の不興を買って一座から追い出されそうになったところ、弟をかばう姉が、面白い物語を書かせると宣言する。詩的だが抽象的な話しか書けない弟に代わって、一座にいつの間にかもぐりこんでいた男が代筆した脚本が大当たりを取る。だがこの大当たりが仇となり、役人の取締に合ってしまう。妹分の踊子が身代りで捕まり、阿国とサルワカは逃げられたが働き口がない。かねてから裸以外にも客を喜ばせる表現があるはずだと考えていた阿国は、踊った足跡が絵になる足跡姫の演目を思い立つ。

時間が経ってしまったので粗筋が微妙に間違っているかもしれないけど御容赦。勘三郎の弔辞で三津五郎が語ったという「肉体の芸術ってつらいね、死んだら何も残らないんだものな」に対する野田秀樹のオマージュがこれ。踊子がいなくなっても足跡(あしあと)が残るという筋を、足跡(そくせき)が残ると掛けて、何も残らないわけじゃない、その先まで続いていく足跡を残したんだと実に明快な回答。

劇中では、芸能に生きるものの表現欲を描きつつ、そのあちらこちらに勘三郎ネタあり。代筆された脚本に仲のよかった仁左衛門の名前を出すくらいはご愛嬌のうち。倒れた阿国に救急車を呼ぶか呼ばないかという場面は宮沢りえの「すったもんだがありました」事件のパロディだけど、それを宮沢りえにやらせる野田秀樹も野田秀樹だし、やる宮沢りえも宮沢りえ(褒め言葉)。最後の場面が満開の桜なのは、反骨の先祖が桜の下に埋められたという劇中の展開もあるけど、太地喜和子の舞台の千秋楽に小道具の桜の花びらを差入れしたエピソードからなのかな。知っている人にはもっとわかるネタがあるのかも。助平な伊達の十役人という役もあるけど、モテた勘三郎のことだったりして。

前半のラスト、死の間際の阿国の母が言葉が上手に話せず「いいあい」と言っていたのは「死にたい」と言っていたのだと思い込んでいた阿国に対して、それは「生きたい」ではないかと返したサルワカに喜んで「だからお前は天才よ」と返す場面。野田秀樹が実際に似たようなことを言われたんじゃないのかな。それがラストでは、生きたいではなく行きたい、踊れない踊子がもっとも行きたかったのは死の床からもっとも遠い反対側、つまり舞台だと繋げて、ああそれは病室で見取った勘三郎のことかと思わせる。この時点ですでに感動しているところ、あの美しい長台詞でこの足跡は十八代までは続くだろうという締め。全然違う話でここまで上手に勘三郎を称えるのだから野田秀樹は天才だけど、この天才をそこまで心服させた勘三郎の魅力ってなんだったんだろう。

脚本ばっかり書いたけど、もちろん仕上がりはよい。宮沢りえが一番だったけど、池谷のぶえが張りきっていて、古田新太は比較的おとなしくしていた。コロスのメンバーが、踊りもいいし、武士集団の動きも切れがある。スタッフワークは言うに及ばず、簡素な美術の割に貧弱さも感じず。全体に質が高い。これは再演されないか、それとも十九代目の襲名があったら再演されるか。もう一度観たい。

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2016年5月28日 (土)

DULL-COLORED POP「演劇」王子小劇場(若干ネタバレあり)

<2016年5月25日(水)夜>

「僕」は卒業式間近の小学生。友達と遊びながら卒業式になんて出ないと言い合っている。夜中の外出中に、車椅子の少女と出会い、恋をする。一方、卒業式間近の学校。卒業間近の生徒が合唱の練習をしている最中、職員室では教師たちが相談を繰返す。自殺未遂を起こした生徒の親から連日問詰められており、本日の対応を協議していると、現れた父親がこれまでの非礼を詫びて「娘を卒業式に出席させたい」と教師に懇願する。

活動休止前の最終公演のうち長編のほう。タイトルにいろいろ重ねて、最終公演にふさわしい内容と、この規模の劇場らしからぬ仕上がりの高さに。無理やり観に行ってよかった。

人生は演劇でありそれぞれが誰かにとって主役であり脇役である(雑)、というシェイクスピアのような台詞をおもいっきりダイレクトに説明する場面を前振に、小劇場らしい「僕」の場面と硬派なストレートプレイの学校の場面という表看板を展開。最終公演に参加を希望しつつも体調不良でひとりだけ降板した劇団員という自分たちの劇団を想像させるような設定に、立場上演技せざるを得ない教師と保護者という演劇的な演劇を込めて、それぞれ自分の人生の新しい局面を新しい演劇として始めていくことをタイトルコールでメタ演劇で表現。「演劇」について多分ほかにもいろいろ入っている。

これだけいろいろな要素を入れつつも、表看板のストーリーが骨太でそれだけで堪能できる脚本。特に卒業式に出席させるかどうかを最終決定するクライマックスは、登場人物の誰もが役を演じて自分の望まない発言をしているのではないか、あの登場人物がそう発言するに至った背景は何か、について考えさせられる、ものすごく上手に観る側の想像力を促してくれる名場面。

最後に「僕」と教師が会話する場面はあまり明らかにされていなかったけど、「僕」の場面のいろいろからして、小劇場的には「僕があなたの若い頃」「わかったかい、俺」みたいな裏設定を思い浮かべた。これが上手く処理できるようなら映像化できないかこの脚本。映像にとても向いている予感がする。

劇団員は父親役の大原研二を筆頭に熱演揃いだったけど、客演陣がそれに負けず劣らず好演。特に井上裕朗の学園主任役と井上みなみ(日替ゲスト)の少女役は、よくできた小劇場芝居でよく見かける好演よりも振切りが大きくて、新鮮だった。

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2016年4月19日 (火)

ハイバイ「おとこたち」東京芸術劇場シアターイースト

<2016年4月14日(木)夜>

学生時代からの男友達4人組。彼らの最後の一人が卒業して全員が働き出してから、80歳を過ぎた晩年に至るまでの人生のイベントで綴る。

初演から2年経たずしての再演。男のダメな部分のうち、特に人間関係をこじらせるダメな典型例を4人に体現させてその行末を見届ける話。事前の予想通りの面白さだったけど、駄目が高じた先にあるものが見えてくるにつれて、あれだけ大量のネタ投入されているにも関わらず笑えなくなるという冷汗モノ。

カラオケで始まりカラオケにつきるオチは見事の一言だけど、この脚本家ならその出来には驚かない。それよりも、抽象化された舞台にわずかな映像でテンポよく転がしていく演出とか、それをこなしてもまったく大変さを感じさせない役者陣とか、観ているときはまったく気がつかなかったけど、後から考えるとひょっとしてものすごい高度なことをやっていたのではないか。何が高度だったのかまったくわからないけど、そこが気になるというか。

人生どこでそっちに転げるか分かったものではないと考えながら観ていると顔が引きつってくるけど、あれは女の側から見たらうんうんうんうんそうそうそうそう、くらいなものなんだろうか。引きつるようになってから観てもいいけど、これを中学生男子くらいのときに観たらどんな感想を持ったかな。

これから全国ツアーなので、観られるものならぜひお勧めしたい。

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2016年4月18日 (月)

劇団民藝「二人だけの芝居」東京芸術劇場シアターウエスト(ネタばれあり)

<2016年4月14日(木)昼>

公演で赤字を出したために巡業公演中の劇団。主宰者兼男優の弟と女優の姉とが狂っているとして見限った劇団員は、有金を持ってロンドンに帰ってしまう。今さら公演をキャンセルもできない弟は、残った大道具係に舞台美術だけ組んでもらい、渋る姉を説得して2人だけで出来る演目を再演する。父が母を殺して自分も自殺した事件のために近所から迫害され、自宅から出られない姉弟の会話劇が開演する。

テネシー・ウィリアムズの日本初演作というけど、ちょっと難しくて、こなれていなかった。では何が悪いと聞かれるとそれがよくわからないので、思ったことを挙げてみる。

・姉弟の役のキャスティングとして、奈良岡朋子と岡本健一はちょっと年が離れすぎていた。どれだけ声色を作っても声年齢が離れていてつらい。せめて見た目だけでも岡本健一をもっと年上にできなかったものか。

・劇場に残された2人と、劇中劇と、実際の観客を劇中劇の観客に見立てるのと、3つの場面設定というか関係を混ぜながらそれぞれの内容をリンクさせて進めていくのが脚本の構成のはず。終盤になって内容がリンクしていくのはいいのだけど、それは今どの場面設定かが明確になってこそ生きてくること。今回は場面の切替にメリハリがなくて、誤解はしないのだけど、観ていて不完全燃焼な気分になった。

・いろいろ声の調子は変えていたけれど、結構同じテンポで会話が続いていた。あと、姉が言いたくない台詞を飛ばすために弟に指示したり、客席の態度を指摘したりするところは、劇中劇っぽくない声だった。これも場面の切替のメリハリのなさにつながっている。

「やがてリハーサルはのっぴきならない真実をあぶりだしていく」ってチラシやサイトの粗筋に書いてあるけど、観客を劇中劇の観客に見立てる台詞から、あの劇中劇はリハーサルではなく本番だったと考える。ただ、酔っ払っているという設定とはいえ、劇中劇の姉の声をあれだけ露骨な調子にしていたところからすると、翻訳もした演出家は、劇中劇に見えた場面は狂ったいない観客もいるように想像してしまった姉弟のリハーサルだと判断したのかも。

でも、劇中劇(またはリハーサル)の場面で姉に飛ばされた、なぜ父が母を殺したかの詳細が、最後の場面で寒さを紛らわすために稽古するときにそれっぽい理由が示唆されて、それと同時に劇中劇(またはリハーサル)の内容が姉弟のある程度の過去を反映していて、ひょっとして逃げた劇団員が正しくて本当に2人は狂っているのかも、って思わせるところがこの脚本の見せ所なのは確実だと信じている。それにしてはそこに至るまで、結構乱暴に展開していた。

試行錯誤する時間が足りなかったのかもしれないし、脚本自体が実はつまらないものだった可能性もある。けど、芝居全体の構成についてすら芝居と自分との間に合意ができなかった結果を考えると、翻訳兼演出家がどういう理解で演出したのかは訊いてみたい。

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