2024年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

2024年4月18日 (木)

梅田芸術劇場企画制作主催「VIOLET」東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタバレあり)

<2024年4月17日(水)昼>

1960年代、まだおおっぴらに人種差別されていたころのアメリカ。その田舎で暮らしていたヴァイオレットは白人だが、子供のころの事故が元で顔にひどい傷が残っており、町では避けられるか憐れまれるかされるばかり。それでも昔テレビで見た、あらゆる傷を治す奇跡を起こす伝道師に会うことを励みに自宅の農園で働く。とうとう旅に十分な金が貯まったヴァイオレットは、長距離バスに乗って旅に出る。

ミュージカルですが、ロードムービーと呼ばれるような分野のものでしょうか。オチは途中で見えるとして、それよりはヴァイオレットの変化を追う芝居です。コロナでほとんど潰れたのを再演しようとしただけのことはある出来で、なかなか魅せて、聞かせてくれました。

ヴァイオレット役に顔の傷を付けたりはせず、黒人役だからといって役者が黒塗りにしたりはせず、そのあたりは脚本が本来持っていた、外見からくる差別の話が分かりにくくなっています。海外の芝居を上演するときの難点の一つです。ただその分だけヴァイオレットの成長というか、コンプレックスの克服の過程を追うところに重心が寄りました。それがむしろ、差別はいろいろあったにせよ黒人差別が身近でない日本には合っていたと思います。思春期から醜い傷を付けられて嗤われることがどのくらい女性にとって呪いとなるか、そこから次に進むためにどのくらいのエネルギーが必要となるか。だから終盤のあの対立は奇跡が起こったのだと納得させてくれる出来でした。

今回はダブルキャストのヴァイオレットが屋比久知奈の回でしたけど、頑ななところから入って終盤の対立で爆発させるところまで、芝居の組立てもよし、歌ってもよし、主役として満足できました。そして周りの役者も演技と歌と両方出来る人が揃っていて、怪しさを出してくれた伝道師役の原田優一、歌唱力に圧倒された谷口ゆうなとsara、それに台詞の第一声を任されてこちらも演技よし歌よしのヤングヴァイオレットの生田志守葉を挙げておきます。トリプルキャストの一人ですけど、調べたらあれで9歳ですよ。いまどきの子役って本当にレベルが高い。

ただ、歌はソロだといいのですが、複数人が歌うところはどうしても歌詞が混ざって聞き取りづらくなるところがあるのは惜しかったです。発声の問題なのか音響の問題なのかわかりませんが。演奏は力強くて満足なのですが。

あとは舞台美術で、場面転換に慣れているなあという椅子で場面を変えていく演出。それに加えて吊りものや映像や照明の使い方もいいのですけど、それより輪っかです。初めは床に置かれていた大きな輪が上がって、だけどそのあとさして使われないと思ったら照明が仕込まれていて、ああそうなんだ、だけどそれだけのためにもったいないな、と考えながら観ていたのですが、最後に舞台中央にヴァイオレットが立ったところに輪が降りてきて、ああ、これって天使の輪っかだ、ずっと見守られていて奇跡が起きたんだ、オープニングでびちょびちょだったヴァイオレットがきれいになったんだ、と思えました。演出案か美術案かわかりませんけれど、いい案です。

全体に、見た目も演出もシャープですよね。そのころのアメリカの田舎が舞台の芝居を日本で上演するともっと土臭い感じになりそうで、それはそれで正しいと思いますが、藤田俊太郎は美術や照明や衣装が土臭くなるのを避ける印象があります。その点は泥臭さが身上だった師匠の蜷川幸雄とは反対ですが、かといってただすっきりしているだけではありません。

これで藤田俊太郎演出はたぶん「天保十二年のシェイクスピア」「ラビット・ホール」に続いて三本目ですけど、他の演出家で言えば小川絵梨子と似ている感じがあります。なんだろうなこれと考えたのですが、カンパニーをまとめるのが得意なんですかね。役者もスタッフも全員が芝居の同じところを目指して頑張っているところが似ていました。

2024年3月31日 (日)

パラドックス定数「諜報員」東京芸術劇場シアターイースト

<3月10日(日)昼>

昭和初期の日本。ある日突然身柄を拘束された男たち。顔を塞いで連れてこられたので場所はわからないが、連行してきた男たちのことを考えると特高ではなく警察らしい。容疑を言われずに連れてこられた男たちも互いに様子を探り合うが、どうやら主義者として活動に関わっていたようだ。そして男たちを連行した男たちもどうもそこまで詳しく活動のことを把握していないらしい。ゾルゲとその協力者が逮捕されたことが引金となって慌てて動いたのだが……。

パラドックス定数の新作はおなじみの近代事件を扱ったもので、今回はゾルゲ事件の裏で協力していた男たちを巡る話。ただ、今回はいまいちでした。

過去の近代事件ものでは、登場人物の会話を通じて事件の真相を描く、そして登場人物の想いなり思惑なりも明らかになっていく、という作風でした。これがどの程度史実の事実なのかは関係ありません。ただ、その中で登場人物が自分の立場で全力を尽くして、その全力を会話に込めて、その会話を通して少しずつ真相が明らかになっていき、いかにもこういう事件だったのではないかと観客に思いこませていました。そのヒリヒリした会話劇が真骨頂です。

今回はそこを変えてきました。描かれるのはゾルゲ事件そのものではなく、その時代背景です。連れてこられた男たちはゾルゲの協力者の協力者、くらいのところで手伝ったことがあり、それと知ってなぜ協力したのかが演じられます。またその中に隠れて混ざって内偵していた警察の人間がいますが、そちらは主義者を捕まえる使命を胸に働いたものの一抹の共感を覚えます。

まず、あくまでも事件に近い関係者の立場から描いていた過去作と比べて、今回はゾルゲとその協力者を手伝うときに会話していた場面が回想場面として描かれます。それ自体は演劇の手法ですし、二役を演じた役者も上手にこなしていました。ただ、ある意味脚本が楽をしていました。ほぼ独立した場面として作ったため、そこに至る会話を組立てるでもなく、その場面の会話が後で生きてくるでもない。多少つながるところはあっても、それは芝居の展開にさほど影響を及ぼさない。少なくとも及ぼしたとは思えなかった。極めつけはラストで、どうしてそんなにべらべらしゃべっちゃうかな、と残念でした。

それと、時代背景を描くのにマイナーな立場の人間の想いを使うというのはつらかった。雑に言えば、令和のいまの時代は苦しい、もっと自由であるべきだ、と言いたいのかなと推察しました。それを戦前の共産主義者で直接描くとさすがに賛同しかねるけど、協力者の協力者くらいの人間ならいまでも共感できるところがあるのではないかというのは脚本家のひらめきです。ただ、それで描くには場面が牢獄というのはしんどすぎた。普通の場面がたくさんあって、そこで登場人物がいろいろな生活の場面をさらしていればこそ、その登場人物に、ひいては登場人物の想いに心が乗っていきます。いままでのパラドックス定数は大きな事件を中心にでんと据え、そこに事件の関係者を登場人物とすることで普通の場面を描く必要を飛ばしていました。が、登場人物の選定でそれを脇に避けざるをえなかったために、芝居に必要な場面がすっぽり抜けた形になりました。

これが初見の劇団なら印象は変わったかもしれませんが、パラドックス定数にはもっと上を望みたいです。長くやっているからひょっとしたら違う作風を模索しているのかもしれませんが、登場人物に想いを直接語らせるだけではつまらない。たどり着いた事件の真相を以て登場人物を翻弄することで想いの重さを語らしめていた過去作と違う作風を目指すなら、そこまでたどり着いてほしい。野木萌葱みたいな脚本を書ける人がいないだけに観客として期待しています。

2024年1月27日 (土)

ホリプロ/フジテレビ主催「オデッサ」東京芸術劇場プレイハウス

<2024年1月26日(金)夜>

1999年のアメリカはテキサス州の町オデッサで、町の老人が殺される事件が起きた。重要参考人としてバックパッカーの日本人を事情聴取したいが英語がさっぱりわからないという。他の事件の捜査で人手の足りない警察は、遺失物係の警部一人に事情聴取を任せきりにした上に、署の部屋も足りないからと貸さず、警部は近所の酒場を借りて通訳を手配して事情聴取の準備を行なうはめになる。通訳としてやってきた町に数少ない英語のわかる日本人だが、バックパッカーの男性ともどもお互い鹿児島県出身ということで盛上がってしまう。事情聴取が始まったら自分がやったといきなり自白するが、同じ地元で親近感を感じた通訳は英語では無実を主張していると話を曲げて、その間に男性に翻意を促す。

三谷幸喜の新作。いやいやそうはならんだろ、というところから話を転がしていくのはノリで言えば覚えている話だと「ショウ・マスト・ゴー・オン」に近い。ただ、よくできているのだけどもっと面白くできたよねという仕上がり。

やや真面目な要素も入ってくるけど根っこがとにかく無茶な話なので、それをもっともらしく見せるためには役者の力技が必要。しかも3人芝居ということで無茶をやり続けないといけないのだけど、だいたいの無茶の始まりになる柿澤勇人も、英語も日本語もスムーズに切替えての役作りが熱演はさすがの宮澤エマも、真面目に不真面目するには真面目すぎた。声芸一発で持っていった迫田孝也よりもさらに引出が求められて、しかも字幕と合せるための制約が多いだろうとはいえ、まだまだこんなもんで仕上がったつもりになってもらっては困る。これは誰だろうなと観終わって考えたけど、柿澤勇人に求められていたのは大泉洋かなと思った。無茶言うなと言われても困るけど。

ただひとつだけ言えば、脚本もひとつ矛盾があった。早く見ておけばってのは駄目。笑いの駄目押しのつもりで入れたと思うけど、あれは削らないと他の話と齟齬が出る。三谷幸喜らしくない見落しだった。

日本語と英語のちゃんぽんとなる舞台を、その脚本も英語で2人だけで話す場面では日本語に戻るところを舞台を動かして観客に教える工夫が親切設計。だけど一番の親切は字幕。舞台背面を目いっぱい使ってあのくらい自由に動かす字幕だとほとんど演技の一部。お笑いバラエティーの字幕をさらに先に進めていた。最後の役者紹介、あれはミステリードラマの役者紹介とフォントを合せていたのかな。なんかこちらも気づいていない仕込みが字幕にたくさんありそうです。

ネタバレにならないように感想を書くのは難しい芝居ですけど、これはツアーも含めた公演終盤に観たかった芝居です。

2023年9月30日 (土)

タカハ劇団「ヒトラーを画家にする話」シアターイースト

<2023年9月28日(木)夜>

美大生で画廊の息子の僚太は、卒業後に画家の道に進むか、両親から言われている画廊の跡取りになるべきか、進路に迷っている。すでに就職の進路を決めた朝利と板垣の二人と教授のゼミ室で悩んでいたら、教授の科学美術の発明により手違いで1908年のウィーンのタイムスリップしてしまい、そこで美術アカデミーへの入学を目指して練習するヒトラーと出会ってしまう。現代に戻れるまでの約一か月、ヒトラーを美術アカデミーに合格させることで後の世の悲劇を回避することを目指すと決めた三人だが、同じ下宿にやってきた、やはり美術アカデミー入学を目指すポーランド系ユダヤ人クラウスの画力は、ヒトラーとは比べ物にならないほど優れていた。

初日。タイムスリップやら何やらの理屈付けにはそれらしい話を用意していますが、メインは僚太、ヒトラー、クラウスを巡る進路の話です。ヒトラーを画家にできるかどうかのネタ勝負かと思ったらそういうわけでもなく、もちろんこのころもユダヤ人相手の差別はありますからそれも絡んできます。

タイムスリップしたのにスマホがつながるという無茶を押通して反対に設定に活用しながらも、ユダヤ人を巡る話は真摯に扱い、ただし画家を目指して絵を描くことを反対された人が画家を諦めさせる立場にもなる入れ子にして大きな柱に据えることで、差別の具体例が生きてくる。個人的には最後の場面二つだけ順番を入替えて、マイクの台詞で終わってほしかったですけど、それくらいです。小劇場が重たい話題を扱う際のアプローチとしてお手本にしたいような脚本でした。「レオポルトシュタット」は向こうに任せておけばいい。

その反面、役者の明暗が分かれて、ベテラン勢はみないい仕事をしていたのですが、メインの若手、特に男性陣が全滅でした。一瞬だけいい場面があっても続かない。進路の話と親との葛藤、絵を描くことの意味、才能と評価の話、ユダヤ人差別の状況に対してどのような態度をとるか。とっかかりはいくつもあって、役者という仕事を選んだ人たちには身近な話題も多かったはずですがすべて中途半端で、初日だからとはいえない力不足に見受けられました。良く言えば脚本全体に寄添っていましたが、設定からしてごりごりに小劇場な脚本なので、繊細を通り越して小さい、近頃の日常系小劇場の役作りは合いません。あれは演出でもう少し何とかしてほしかったです。

あとは額縁とかキュビズム? っぽい美術がシンプルな割に空間をきれいに埋めて、映像も頑張っていましたが、画家の話で絵をどこまで見せるかは難しい判断でした。小劇場なら絵を一切見せずに枠と照明だけで押通すのもありなのですが、ナチスの説明をするときに当時の写真を盛大に使ったのと、描いて破いた絵を進行の都合で一枚だけ見せたおかげで、他の絵を見せないのが逃げに思えてしまいました。ヒトラーの絵は権利を含めて適当な画像の入手が難しかったのかもしれませんが、それとは別に最後の一枚は、見せたかった。あれこそ観客の想像に委ねたかったのかもしれませんが、それなら照明でなく小道具としてベールをかぶせた絵を用意してベールを取らずに進めるべきだった。このあたりは演出や制作に関わるところですけど、まあ個人的な趣味の問題です。

これは再演するならどこかに脚本を託して再演したほうがいいです。ちょっともったいないことが多かったので。

2023年6月19日 (月)

野田地図「兎、波を走る」東京芸術劇場プレイハウス

<2023年6月18日(日)昼>

潰れかけた遊園地に子供のころに母親と見た不思議の国のアリスを再現したいと願いアトラクション構築中のオーナー。だが借金が過ぎて競売にかけられるのも間近となっている。そんな遊園地で娘を探して迷子相談所にやってきた女性だが、他の迷子かとおもいきや兎の後を追って娘を探しに行く。

不思議の国のアリスに、桜の園と、他の物語と、作家の話題と、昔の社会事件と、いまどきの話題をかき集めてきて、最後の着地点はそこかという芝居。個人的には「逆鱗」よりも「Q」よりも「フェイクスピア」よりもすごかったし、観てきつかった。

普通の人が普通にやったら怒っただろうし、上手にやっても怒ったと思う。でも作家の話の一環で「書かされている」って出てきたのが、皮肉な意味と作家の業の意味と両方に係っていたところで、シャッポを脱いだ。今なら野田秀樹が真摯に書けば「あり」です。チラシの「なんともいたたまれない不条理」「作家の無力をこれほど感じることはない」「『あー』としか言いようがない」は、本心でしょう。最後にきつい話題に振ってくるところは、なるべく高橋一生と松たか子と多部未華子(と山崎一とコロス)にしか触らせないように、茶化さないように気を付けていましたね。役者の格で許される話題というものがある。

コロスの動きや使い方もこなれていましたし、映像の使いどころも上手でした。美術、照明、音楽、衣装まではまって、素晴らしかった。

ネタばれがほしい人は、たぶん検索すればいろんな人が書いているだろうから、そちらを観てください。野田秀樹らしい言葉遊びもあって慣れない人には観るのが大変なのはいつも通りですけど、自分はネタばれなしで観て衝撃が大きかった。けど、黙っているべき話題ではないあたりが、難しい。

あと当日券狙いの人に注意。今回は力技で当日券をもぎ取ったのですけど、並ぶ場所になっている東京芸術劇場の2階は暑い。地下1階の涼しさと全然違います。入口前に申し訳程度に扇風機が動いているくらいで、屋根の作りのせいか角を曲がったあたりからぐっと暑くなる。この日はまだ大丈夫でしたけど、猛暑日に並んだら熱中症が危ないので、取れる限りの対策を取って並びましょう。

<2023年6月19日(月)追記>

山崎一の名前が抜けていたので追記。

2023年1月23日 (月)

風姿花伝プロデュース企画製作「おやすみ、お母さん」シアター風姿花伝(ネタばれあり)

<2023年1月21日(土)夜>

母と離婚して戻った娘が2人暮らしする家。母が娘に身の回りの世話を頼んでいるが、娘は亡くなった父の残した銃を探している。2時間後に自殺するために使いたいのだという。母は冗談だと思って取り合わないが、娘は自分が亡くなった後の身の回りの始末を進めていく。

今回の風姿花伝プロデュースは母と娘の2人芝居を、実の母娘である那須佐代子と那須凜が演じるという取り合わせ。しんどい会話劇は、客観的な感想だと脚本の読み違えがあったと言いたいけれど、個人的にはむしろそこに見応えがあったというややこしい感想です。2人ほぼ出ずっぱりの熱演なので観た人たちの感想が気になりますが、以下ネタばれで自分の感想を。

母が娘に家事をいいつけたり、自殺前に娘が家事のあれこれを片づけるところから、普段の生活で母がいろいろ娘に依存していることが伝えられます。この過程で、娘はてんかんの発作で子供のころからいろいろ上手くいかず、結婚して息子ももうけたものの夫とは離婚して息子は犯罪で逃亡中で人生になり、薬のおかげでここ1年ほど発作が収まったものの、それで頭が冴えた結果、人生に未練をなくして自殺に思い至ります。

脚本だけ追っていくと、よかれと思っていた母の振舞が娘から自信を奪うことになり、また母自身も自分の人生に我慢や諦めがあったことが明らかになります。ここを見ると、最近の言葉でいう毒親が、娘の行動からその事実を突きつけられて自覚する物語です。母役を演じた那須佐代子はおそらくこの線で役を作っていました。いい出来です。終盤にいろいろ気がついて食堂のテーブルで絶望した顔になる場面は絶品でした。

ただし今回、娘役を演じた那須凜が母役の引立て役に入らなかった。自分が亡くなった後の身の回りの始末をリスト化して積極的に進める様子だったり、ママのせいじゃないと伝える際の伝わらなさがわかっているニュアンスは、これだけきちんとした人でも、むしろきちんとした人だからこそ自殺を選んでもおかしくない世の中なのだと想像させてくれました。初演は1983年らしいですけど、この役作りの線が2023年にしっくり合っていました。

人によって意見はあれど、私は昔より今のほうが余裕のない世知辛い世の中になっていると思っています。特に先進国と呼ばれていた国は。世界が発展して国力が相対的に落込んでいるとか、社会が整う過程で無駄が省かれたとか、理由はいろいろあります。昔のほうがセクハラパワハラ上等でその点では今のほうが進歩しているでしょうし、やりたいことがあってそのパスを探せる人には最高の時代です。ただ、世間に求められるスキルが高くなり、それがこなせない人の就ける仕事や居場所はどんどん減っています。それが長く続いても耐えられる人と耐えられない人がいます。

母の説得に「それはここにいる理由にはならないの」と返すくだりの台詞回しは非常に胸に沁みました。理由なんてなくなってから人生本番なんだとおっさんになった今なら言えます。劇中の母も似たような台詞を言います。それでも自分は世の中に必要ないと考えるその真面目さは、今様の繊細な造形でした。

この線がもう少し掘れればよかったのですけど、残念だったことが2つあります。ひとつは那須凜が生き生きしすぎていて、人生への執着のなさが表現しきれていなかったこと。もうひとつは那須佐代子の役との調整不足で、脚本が求める以上にお互いのやり取りがチグハグに見えたこと。あと一歩で初演から40年後の日本にふさわしいところまで行けそうな手ごたえなのですけど、あと一歩が足りなかった。けど、見応え十分でした。

翻訳と演出は小川絵梨子ですけど、どういう方針で演出を進めていたのかは気になります。ちなみに翻訳だと、娘が母を普段はママと呼ぶところ、タイトルの台詞のところだけお母さんと呼ぶのが、娘の律儀さを最後まで表現していてよかったです。

最後にスタッフです。音響は効果音以外なしです。それで上演時間1時間45分を持たせた役者も凄いですけど、効果音以外要らないと決断できる音響も凄いです。衣装は母が身体にあった服装に対して娘には今どきのだぼっとした服装を当てて、年齢差以上に世代差を強調していました。あと美術は、この風姿花伝プロデュースでは毎回狭い空間に工夫しつつ安いわりに豪華に見える工夫がされています。今回だと家具を多く使って舞台の設営は奥の壁と台所だけ、屋根裏部屋は上手の劇場階段を奥に見せて利用、と毎度のことながら工夫された美術でした。

全部感想という名の妄想ですけど、妄想を誘ってくれるだけの熱演でした。

2022年9月18日 (日)

野田地図「Q」東京芸術劇場プレイハウス(ネタバレあり)

<2022年9月11日(日)昼>

源平両家が勢いを競う都で恋に落ちた、平の螂壬生と源の愁里愛。駆落ちが行き違いで心中になりかけたところ、未来の螂壬生と愁里愛が助けて一命を取りとめる。だが心中が美談となった都で2人は表立った活動を許されない。

初演も観て、なんか後半違うような気もするのですが思い出せません。相変わらず粗筋を書くのが難しい芝居という印象は共通です。ただ今回、初演のすっきりしなさの理由がなんとなくわかりました。ひたすらその言語化に務めます。

俊寛のオマージュとかクイーンの音楽とか、全部おまけと言って悪ければちょうどいいから選ばれた飾りです。名前が大事な時代だからこそ成立っていた「名前を捨ててやってきて」と願う有名なジュリエットのバルコニーの台詞、それが匿名が当たり前の時代になるとどうなるか。それを源平を舞台にしてロミオとジュリエットで前半、後日談で後半を描くのは、さすが野田秀樹の目の付け所です。

後日談のパートでは、匿名による相手への中傷と名を広めて相手を圧倒しようとする対立が源平の合戦に発展。偽名で戦に出陣したロミオが負けて捕虜になる。ここで一瞬だけジュリエットとすれ違うも、ロミオはスベリア(シベリア)送りになる。

過酷な環境で捕虜労働にこき使われ、無価値になった金による看守の買収も失敗する。耐えかねた仲間の一人がロミオの正体をばらして看守の買収を試みるも、すでにロミオの名前に価値がなかったため失敗。これで一命を取留めたものの、捕虜釈放のタイミングで偽名のロミオは名前がなかったため釈放にならず、最後には捕虜のまま亡くなる。

愛する人をロミオに殺されて復讐のために追っていたトモエゴゼ(巴御前)は、ロミオが亡くなったことを確認すると自分も力尽きる。

名を捨てたばかりに自分としての活動もできなくなり亡くなるロミオや、相手(の名前)への復讐が過ぎてその先につながらない巴御前。言葉遊びから引用から社会問題まで、いろいろな要素を取込んで匿名の行く末まで批判的につなげる一連の流れはまさしく野田秀樹調で、こういうのを観たいから野田地図を観るんだという会心の出来です。

ならば内容にも納得がいくかというと、そこが悩ましいところです。以下はこの芝居が現実社会への批判を込めているという前提に立って、批判対象の現実社会の理解が私の理解とずれている、という話です。

ひとつは名を捨てたに掛けた匿名の扱い。ロミオの最後は捕虜のまま野垂れ死にです。名前を捨てて活動した個人の哀れな末路、と見えます。そして源平の対立で匿名の中傷を流していたのは戦の情報戦、組織によるものです。

でも世の中の匿名の大半は、普段は日常生活を送りつつ、SNSなどではID、ハンドルネーム、芸名、何と呼んでもいいですが、日常生活を隠したペルソナで発信する人達です。ロミオの個人と戦の組織の中間に位置します。このボリュームゾーンへの言及が欠けていて、匿名の扱いが極端すぎるように、乱暴な表現をすれば雑と感じます。

そこに暴力性を見出すなら、匿名個人の誹謗中傷のほうが適切です。匿名個人が、茶の間のテレビに文句を言う感覚でSNSに書込む。そうやって発信された誹謗中傷を真に受けて、酷いときには対象者が自殺に至ったとして、でも誹謗中傷をSNSに書込むような人たちほどそんなことを気にしないし反省もしないでまた誰かについて同じような誹謗中傷を書くし、前に書いた内容と正反対の意見でも気にしない。考えが変わったのではなく、文句を書くことが目的になっているような状態ですね。それが大勢とは言いませんけど、それなりの数はいます。

その前提に立つと、死んだロミオを見つけて目標がなくなって倒れるトモエゴゼだけでは、役として一途すぎます。源平の対立時にはその時の支配者である平家に文句を書くけど、そのあとで都が源氏の支配になったら源氏の文句を書くような無責任なコロスがいると、もっと厚みが出たのになと思います。

もうひとつは戦争の扱い。初演では徴兵からシベリア送りまで、日本の太平洋戦争をあつかっていると思えたのですよね。今回も後半ぎりぎりまではそう考えながら観ていました。当時の日本の指導者層の無謀無策な開戦のツケを無名な兵士が払わされたと考えるなら、齟齬のない展開でした。

ただ、ラストの松たか子の長台詞、無名戦士として扱わないでください云々を聴いた瞬間に、現在進行形のロシアとウクライナに意識が向いてしまったんですよね。意見はいろいろあるでしょうが、ロシアが先に仕掛けて、ウクライナが急いで防戦した初期の展開には異論がないでしょう。そうすると、先に仕掛けたロシアはともかく、ウクライナ側は名を捨てるの拾うのと言っている場合ではない。正真正銘、生活と命を賭けて戦うことになる。そういう戦いが今まさに行なわれています。

そしてその一環で情報戦も必要になるし、それは公式(顕名)の発信だけでなく、匿名による発信も必要になる。それは自国を鼓舞し相手国を攪乱するだけでなく、周辺国を味方につけることの必要性も現代では大きいからです。

さしたる理由もなく軍隊が攻めてくることが現実にあるし、それは海を挟んだ隣国であるという現実は、戦争と言えば太平洋戦争だった多くの日本人の戦争観を変えたでしょう。少なくとも私は変えました。初演の2019年なら問題にならなかったのに、現実が3年前の想像を追越して、脚本の戦争観が古く見えてしまいました。

ここから先は独断と偏見です。野田秀樹は個人を、それも理由はどうあれ自分から動く個人を描くのが上手な人です。逆に社会問題を描くのは苦手な人です。社会問題を借景に持ちつつも最後は個人の物語に落ちるといいのですけど、最後に社会問題が全面に出てくると違和感が残ります。人種差別を扱いつつあの女の話でまとめた「赤鬼」や、原爆投下の責任問題を扱いながらミズヲとヒメ女で引張った「パンドラの鐘」は、上手くいったほうの例ですね。

ならば今回はどうか。会えない螂壬生と愁里愛がバラバラに動くので、主人公たちに向けるべき目が借景で収まってほしい戦争に向いてしまった。それは最後に抱き合うラストを引立てても、後半長く扱った戦争と捕虜の話を払拭するには至りませんでした。そこに匿名や戦争の扱い方の違和感が重なって、納得いかなかったのが今回の結論です。

繰返しますが、ロミオとジュリエットを源平の対立で置換えたことや、名を捨てたことの末路までつながる一連の流れは実によくできています。ただし、よくできていても自分の好みに合うかどうかは別の話というだけのことです。

最後に一般感想です。今回は女性陣が活躍して、広瀬すず、羽野晶紀、伊勢佳代が目を引く出来でした。松たか子も男性陣も文句はありませんが、ちょっと身体に鞭打って演技していたような印象を受けました。これだけ公演して、さらにこれから海外を含むツアーなので、一息入れて頑張ってほしいです。個別場面ではシベリアでロミオを売ろうとする小松和重の後ろ暗い感じが一等賞です。

初演では上手最前列で観たのを今回は1階センター後方で観られましたが、全体が見えたほうが美しいですね野田地図は。もともと私は全体を眺めるのが好きですけど、それを差し引いても。今回はフォーメーションに依存する演出ではありませんでしたが、白い舞台にひびのこずえの衣装が映えて、美しかったです。

なお今回はうっかり東京千秋楽が取れてしまったのですが、2回目のカーテンコールからスタンディングオベーション。5回目あたりで野田秀樹が一人で戻って収めようとしたのですが収まらず、7回目だったかな、そのくらいで野田秀樹がもう一度一人で出てきて、ようやくお開きになりました。贔屓の役者を間近で応援できるのはライブの醍醐味ですが、私は苦手ですね。もっと素直にスタンディングオベーションすればいいのに我ながら損な性分です。

2022年5月23日 (月)

イキウメ「関数ドミノ」東京芸術劇場シアターイースト

<2022年5月22日(日)昼>

自動車事故の再調査で保険調査員に集められた関係者たち。自動車が歩行者をはねたはずなのに、歩行者は無傷で自動車が大破、助手席の同乗者が瀕死の重傷となる。関係者の証言を再確認しても原因は不明のまま。話が行き詰って大半の関係者が帰ったところで、目撃者の一人が仮説として提案したのが「ドミノ理論」。世の中には願いが何でもかなう人間が存在し、その願いが通常は月や年単位でかなうところ、今回は思った瞬間に願いが叶う「ドミノ1枚」現象だったのではないかという。提案した目撃者はこの仮説を確かめるためにある手段で検証を開始する。

2014年の再々演2017年の別企画公演に続いて3度目。今回はちょっと仕上がりが粗かった。もともと多少のことは気にならないよくできた脚本だから、過去の脚本で古くなったところやつじつまが不明だったところを手直ししたものの、ほぼそのままです。一番の違いが新しくオープニングとラストを追加したことで、これがいろいろ悪手。普通の人は観て楽しめますが、私には残念でした。以下、ネタバレにならないように配慮した拗らせたメタな感想ばっかりです。観てない人にはまったく参考になりません。

新しく追加されたオープニングとラストは、芝居の解釈の余地を残さない直球のメッセージ。もともとこの芝居は寓話らしさが魅力のひとつで、ラストの異なる2014年版でも2017年版でも余韻が残りました。今回この台詞を受持った安井順平はメッセージを担う十分な出来でしたし、芝居全体の造りもより誤解なくソリッドになっていましたけど、余韻は全部飛びました。ああ、これが「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」ことへの対応の実例なんだと合点がいきました。

演劇は観ている側の想像力も試される余地の大きい表現形式でもあり、だけど生身の人間が目の前で演じることで多少の不明点も何となく通じるところが他の表現形式にはない武器のひとつです。演者と観客との間に第三の舞台が立ちあがるというアレですね。なのにここまで言う。今回は観客の想像力を信じるのを止めたんだと思いました。観客の反応を探る実験なのか時代への対応なのかはわかりません。

メッセージを追加した賛否について1日考えましたが、アリかナシかで言われればアリですけど、好きか嫌いかで言えば嫌いです。ただ、以前の脚本をそのまま上演したら、おそらく好きだけど古いという感想になったはずです。わがままな観客ですね。上演自体を古臭く感じさせないためのアップデートとしては必要だったのかなと思います。難を言えば、メッセージを出す側のポジションが曖昧でした。オープニングの親や教師や上司にっていう台詞、上演側の人たちもすでにそちら側の立場に入っていておかしくない年齢であり、自分たちをどういうポジションに置いてこの台詞を書いたのかは気になりました。

そして、直球メッセージの副作用として、お前らどうなんだというのが出てしまった。初演のころには特に気にせずに書いたであろう設定に、年月が追いついてきた。結果、この追加したメッセージに胸を張ってイエスと言える出演者がどれだけいるかという話です。新型コロナウィルスで公演中止も経験した後ならなおのことです。

それかあらぬか、本来なら劇団員も脚本の設定に近い年齢になって演じやすくなっているはずですが、今回はなんかチグハグ感の残る舞台でした。幕が開いて1週間経っていないといえばそうですが、それにしても仕上がりが悪い。さすがに演出家がもっと磨いておいてほしかったです。ここで話は飛んで、メタな感想もいいところですけど、これが精一杯なら劇団が解散するかもと想像しました。

役者では安井順平と温水洋一、たまに太田緑ロランスがいい感じでした。役でいうと小野ゆり子は、アップデートされたつじつま合わせの中で終盤の説得力の要なので、もう少しがんばってほしかった。後半の浜田信也と盛隆二のかけあいが今回好きな場面で胸を打つものがあって、決して上手くないものの成立させるために上手さだけではなく思いも要求されるところ、あんなやり取りが場面として成立するところが演劇だよなと観終わってから思いました。

2021年12月13日 (月)

風姿花伝プロデュース「ダウト」シアター風姿花伝

<2021年12月12日(日)夜>

ケネディ暗殺の翌年、という時代のアメリカ。教会は司祭と神父によって、教会に併設されるロースクールは校長を筆頭に修道女たちによって、運営されている。校長を務めるシスター・アロイシスは厳格で恐れられている。人はいいが生徒に甘いとみる教師シスター・ジェームスを叱咤し、子供たちに人気のフリン神父を警戒する校長。やがて、シスター・ジェームスが、担任する少年の様子がおかしかったことを校長に報告してくる。その報告にフリン神父への疑惑を確信に変えた校長は神父を問い詰めるが、神父は疑惑を否定する。

このほかに少年の母親役を含めて、4人だけの登場人物が時に励ましあい、時に激しく口論を交わす。これこれ、こういうのが観たかった、というごりごりのストレートプレイ。いいお値段だけど芝居好きなら観ておけよ損はさせないから、の一本。たまらん。シアタートラムや新国立劇場小劇場くらいならこのまま持っていける芝居をこの規模の劇場でやる濃密さ。

こなれた翻訳で交わされる激論が、よくよく聴いていると言質を取らせないとても上手な言い回し。教会関係者だから基本は神に誓って嘘は言わないはずとか、いやいや教会の大規模な不祥事とその隠蔽は海外で大きなニュースになっていたよねとか、たまたま私は知っているけど知らなくても楽しめる。そういう現実や材料を背景に、何があったのかを追求するのが縦糸。その追求の焦点となる少年にとって、この問題に対して周囲がどのように振舞うのが本人の幸せになるか、この少年の幸せを願ったとしてそれがより広い共同体にとって益になるのか害になるのか、が横糸。

この話をタイトル通り、神父だけでなく校長の過去も明かさず、疑いのまま進めるのがポイント。そうすることで観ている側に、お前ならどうする、と問いかける。「テロ」では投票で二択を観客に迫ったけど、この芝居は問いかける選択肢がもっと広い。

4人しかいない中でも中心人物の校長を演じる那須佐代子が実力全開の切れ味。人が良さそうでも校長と全力で議論する亀田佳明。その間で悩むシスターの伊勢佳代。校長との会話でまったく違う視点から真っ向ぶつかってくる津田真澄。4人のバラバラな方向が、どこか一方に傾かないように調整したというより、拮抗するように引出した演出はさすがの一言。

スタッフワークは、狭い劇場を狭いと感じさせない美術と照明を挙げておく。美術は広さに加えて、見切れを減らして座席を増やしたことも今回の功績に挙げたい。どちらも客として本当にありがたい。あと誰にも通じそうにないマニアな話として、適切な暗転の使い方を久しぶりに観た気がする。たぶん脚本で指定されている通りだと思うけど、今どきの芝居は、暗転なしで場面転換できて当たり前、みたいなところがあるので新鮮だった。

新型コロナウイルスが一時期よりは落着いてきたとはいえ、次はオミクロン株か第六波かと言われている中、この規模の劇場に来るのは迷った。迷ったけど、来てよかったし観てよかった。大満足。

2021年5月30日 (日)

野田地図「フェイクスピア」東京芸術劇場プレイハウス

<2021年5月30日(日)昼>

恐山でイタコ見習いを続けて50年、明日の試験で見習いから卒業することを目指すイタコ見習のもとに、珍しく指名が入ったと思ったらダブルブッキング。しかも憑依してほしい死者が客に勝手に憑依する始末。よく見たら片方は高校の同級生。恐山に来た理由を尋ねるうちにもう一人の客が逃げてしまう。

国や自治体の要請と、出演者の体調不良と、両方による公演中止の可能性を考えていたのでスケジュール初期で観劇。休憩なしで2時間5分。言葉遊びで展開を飛ばしていく、いかにも野田秀樹な新作だった。何も考えないで芝居単体に集中すると最後にきれいに締まった芝居で、4回目のカーテンコールでスタンディングオベーション。ただ個人的には、開幕1週間でまだ仕上がっていないというか、熱量不足というか。加えてメタな話を想像すると、うーん、という感想。

先にスタッフワークに触れておくと、ど安定。コロスも含めて衣装が好き。ただ、舞台上を横切る幕を使って早替えするのだけど、間に合っていなくて舞台中央で幕がスローダウンする。あれは幕の長さを倍にしてでも同じ速度で横切ってほしい。幕がワイヤーを伝う音と姿は一定速度を保ってほしい。それと効果音が重なって川平慈英の台詞が聞こえないところはタイミングを打合せてほしい。

で、ネタバレしない範囲で分析。分析というのもおこがましいですね。妄想です。こじらせた客の感想なのであまり気にしないでください。

野田秀樹にしては珍しく、はっきりとしたメッセージを台詞で伝えていました。観れば誰でもわかるし、物語単体としては単純だけど最高の台詞です。ではそのメッセージは、劇中では橋爪功演じる役に向けられていたけど、芝居のメッセージとしては誰に向けられていたか。客ではない、世間でもない、同業者に向けたメッセージだと私は受取りました。不要不急と言われて委縮した同業者に対する、野田秀樹からのメッセージです。そのメッセージのために「あの話」を持ってきて、芝居としてつなげてしまうのが野田秀樹の才能です。

ただ、この1年間、散々「業界」批判をしてきた身としては、先に芝居ではなく素の言葉によるメッセージを野田秀樹に期待したかったです。それを飛ばして芝居によるメッセージを選んだんだ、というのがひとつ。

そしてキャスティング。メッセージを受ける役に橋爪功を置いたのですが、おそらく今回の出演者の中で一番ふてぶてしい、メッセージなんかなくてもどうってことはないという人だと想像します。白石加代子も、ふてぶてしいとはいいませんが、世間の風には追い風も向かい風もあらあなと知っている人だと想像します。

翻ってメッセージを伝える側の高橋一生。丁寧すぎて線が細くなってしまいました。とりあえずもっと声を張ってほしい。そしてメッセージを補強する立場に前田敦子を置いたのは、アイドルとして活躍した経験に加えて「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と言ってのけた舞台度胸を買ってのことだと想像します。が、これがいまいち効いていませんでした。不慣れな野田芝居のさらに新作でポジションをまだ見つけられていないのか、私生活のごたごたが続いているのか、理由は不明です。

ただこの2名が頑張ったとして、それだけで良くなる感じがしません。全体に絵が共有されていない印象があって、その場合は仕上がり不足。あるいは、出演者たちがそもそもメッセージを信じられていないから弱く見えるのであれば、その場合は熱量不足。いつもだともう少し野田秀樹の出番が多くて、それで台詞のスピードや声量がノってくるのですけど、今回は最初の登場場面までが結構長くて、出番も限られています。それで全体の展開が遅くなったのも一因かと考えます。

こんなこと書きましたけど、よくできた芝居ですよ。繰返しますが、こじらせた客のこじらせた感想なので、あまり信用しないでください。白石加代子と村岡希美はとてもよかったです。

新型コロナウィルス対策メモ。驚くほど簡素。入場口は4列用意。手首検温だけ済ませたら、チケットを見せて自分でもぎり。アルコール消毒は入った後に置いてあるので自分で任意で行なう形。普段は閉めている、入って右側の屋外テラス部分を飲食場所として開放。来場者登録は入って右側にあるも任意。スタッフはマスクとフェイスガード。アナウンスに加えて会話しないでくださいのメッセージボードを持って注意喚起(ただそれでも客席はざわついていた)。最後はエリアを区切っての整列退場。

あと最後に、今回センターブロックは2階席最後方までS席という話を見かけたのですけど、A席がどこだかわかる人がいたら教えてください。観やすいし見切れもないだろうからS席と言われればそんなもんかとも思いますが、それにしたってねえ、ということで。

<2021年5月31日(月)追記>

2日前の公演で白石加代子の台詞がすっぽ抜けていたらしい(ネタバレありブログより)。そういえばカーテンコールではける時に川平慈英がエスコートしていました。今回もっと公演後半で観たほうがいいのかな。

より以前の記事一覧