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2024年8月25日 (日)

イキウメ「奇ッ怪」東京芸術劇場シアターイースト

<2024年8月14日(水)昼>

人里離れた山奥にある、昔は寺だったという旅館。有名な小説家が長逗留して小説を書いているところに、2人の男が泊りにやって来る。小説家はこの地方の怪談を集めて書いており、2人の男も似たような目的でやって来たところだという。話の流れでお互いに知っている怪談を披露することになる。

小泉八雲が集めた日本の怪談5本を基に構成した芝居。当日パンフによれば「常識」「破られた約束」「茶碗の中」「お貞の話」「宿世の恋」の5本です。非常によい仕上がりで、お盆の季節に相応しい怪談を楽しみました。

初演は世田谷パブリックシアターの企画で上演されていたので、仲村トオル、池田成志、小松和重といった一癖も二癖もある役者が出ていて、全体にいい意味での雑味も含めて楽しんだ記憶があります。それが今回は磨きに磨いた趣きで、上善如水とでも言わんばかりの仕上がりです。笑えるネタもありますし、怪談話の再現が終わった後で「女将、髪が乱れています」なんて言って引っ込めさせるようなメタな手口も使っています。そこに現在捜査中の事件を絡めるという、小劇場らしい展開と言えば展開です。それやこれやをやっても、芝居の透明度が落ちません。緊張感とはまた違った、静謐な雰囲気が最後まで続きます。怪談に相応しい出来でした。

それと、初演が15年前ですが、いまどきのテクノロジーが出てこないのに成立たせているところが素晴らしかったです。宿の評判を確かめるとか、スマホのひとつも出てきてよさそうなものですが、そういうものを出さずにしかも気にさせないのは、脚本と演出の両方の力でしょう。

それを体現したのが劇団員なのは間違いなくて、方向性もレベルもものすごく揃っていました。女性陣3人はゲストですが、女将役の松岡依都美がいい感じです。スタッフもいい感じでしたが、今回は美術を挙げておきます。出だしで役者が腰を落として回る、ということで能舞台を模したものでしょうか。奥に廊下、手前に柱の立ったシンプルな舞台、そこに白い庭を挟んで梅と祠と、天井からの砂落とし。そして最後の変化。静謐な雰囲気の構築に預かって力ある、怪談に相応しい美術でした。

それにしてもここのところイキウメの出来が素晴らしいです。2022年の「関数ドミノ」が再演にも関わらず微妙で、その後の「天の敵」はスキップしたのですが、2023年の「人魂を届けに」、世田谷パブリックシアターの企画製作ですが実質イキウメの「無駄な抵抗」、そして今回と、新作再演織り交ぜて3本続けて高水準です。何かを掴んだのでしょうか。

2024年7月14日 (日)

Serialnumber「神話、夜の果ての」東京芸術劇場シアターウエスト

<2024年7月13日(土)夜>

拘置所の患者個室でベッドの上に座りっぱなしの一人の男。とある殺人を犯して裁判を控えているが、精神疾患ではないかと疑われているためここに隔離されている。男の弁護士が裁判を控えて精神科医に面接を申込むが今は面会謝絶で会えない。男が殺人を犯した経緯はいったいどのようなものなのか。

久しぶりのSerialnumberは宗教二世の話。社会性のある重たい話題に真正面から突っ込むのはいかにも詩森ろばらしいですけど、ちょっと今回はいまいちな仕上がりでした。

今の拘置所と、人里離れた宗教の施設時代との二重構造で話が進んでいきます。そこで多少解説が入ったり別の人の話を絡めたりするのが工夫と言えば工夫です。が、基本は重たい話題を重たい通りになぞって追体験する形で進めます。それは親切ですが、真っ正直すぎていささか芸が足りない脚本でした。

そこに演出で明るさを足すのは自分で許せなかったのか、ベッド以外ほぼ素舞台で、主人公の男はひたすらしゃべります。が、坂本慶介はテンションが足りず力及びませんでした。それと最後に物語を締める役割を持たされた弁護士の田中亨も力及びませんでした。廣川三憲や杉木隆幸がいい出来を見せて、川島鈴遥がまずまずでも、5人芝居で2人が力不足だとつらい。あと弁護士以外の4人が裸足なのも意味不明でした。

脚本の面で言えば、二世本人の心情を掘下げていましたが、これと対になる、入信した母親の話は終盤にさらっと触れただけで流されてしまいました。でもあの流し方では相手の言い分にも五分の魂となってしまう。それを認めるなら主人公は不運に巻込まれただけというオチになってしまう。主人公は救いのない人生だったと言われればその通りですが、そう言いたいためにこの話題を取上げたわけでもないでしょう。

重い話題に一方的な結論を出すにせよ、簡単に結論は出せないと観客に考えさせるにせよ、脚本の切口も演出の切口もこの話題に対しては間違っていたなというのが感想です。

範宙遊泳「心の声など聞こえるか」東京芸術劇場シアターイースト

<2024年7月13日(土)昼>

埼玉県のとある住宅街。新築が分譲されたころに引越してきた夫婦だが、夫は妻にセックスを拒否されて浮気を疑い、妻は隣人の妻にゴミ捨てを監視されていらいらが募る。隣人の妻はプラスチックごみを宇宙ごみと呼び、その様子を見ながら隣人の夫は妻への愛は変わりない。夫婦同士でも隣家同士でも心の中の言いたいことを我慢し続ける関係の行方は。

前の公演がよかったので観劇。たまに主張強めなところが出てくるものの、それも含めてひっくり返す展開は見事でした。

音を立てたりおかしな動きをしたり、なんなら妄想とか現実と書かれたTシャツを着た人まで出してきて、心の声が聞こえるという仕組みを用意してあります。そうして心の声を観客に聞かせながら、途中で出てくる現実場面のネタが現実っぽくないことも多々ありながら、チラシにも載せている「キミがどんなに世界に軽蔑されても、ボクはキミを軽蔑する世界のほうを軽蔑するし、してきた」という台詞を捨てるように使いながら、それも含めて最後になんじゃそりゃーとひっくり返してきます。

終わってみればたしかに愛の話です、が、その展開は叙述トリックのミステリーのようでもあります。衣装を初めとしていろいろネタがありすぎて、日本の小劇場だから許される叙述トリックと言えなくもありません。

再演らしいですが、だとしてもこのややこしい芝居をきっちり仕上げた役者には(脚本演出の本人を含めて)拍手です。ただ、初演のメンバーがなかなか気になるので、そちらでも観られればよかったなというところだけが心残りです。

2024年4月18日 (木)

梅田芸術劇場企画制作主催「VIOLET」東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタバレあり)

<2024年4月17日(水)昼>

1960年代、まだおおっぴらに人種差別されていたころのアメリカ。その田舎で暮らしていたヴァイオレットは白人だが、子供のころの事故が元で顔にひどい傷が残っており、町では避けられるか憐れまれるかされるばかり。それでも昔テレビで見た、あらゆる傷を治す奇跡を起こす伝道師に会うことを励みに自宅の農園で働く。とうとう旅に十分な金が貯まったヴァイオレットは、長距離バスに乗って旅に出る。

ミュージカルですが、ロードムービーと呼ばれるような分野のものでしょうか。オチは途中で見えるとして、それよりはヴァイオレットの変化を追う芝居です。コロナでほとんど潰れたのを再演しようとしただけのことはある出来で、なかなか魅せて、聞かせてくれました。

ヴァイオレット役に顔の傷を付けたりはせず、黒人役だからといって役者が黒塗りにしたりはせず、そのあたりは脚本が本来持っていた、外見からくる差別の話が分かりにくくなっています。海外の芝居を上演するときの難点の一つです。ただその分だけヴァイオレットの成長というか、コンプレックスの克服の過程を追うところに重心が寄りました。それがむしろ、差別はいろいろあったにせよ黒人差別が身近でない日本には合っていたと思います。思春期から醜い傷を付けられて嗤われることがどのくらい女性にとって呪いとなるか、そこから次に進むためにどのくらいのエネルギーが必要となるか。だから終盤のあの対立は奇跡が起こったのだと納得させてくれる出来でした。

今回はダブルキャストのヴァイオレットが屋比久知奈の回でしたけど、頑ななところから入って終盤の対立で爆発させるところまで、芝居の組立てもよし、歌ってもよし、主役として満足できました。そして周りの役者も演技と歌と両方出来る人が揃っていて、怪しさを出してくれた伝道師役の原田優一、歌唱力に圧倒された谷口ゆうなとsara、それに台詞の第一声を任されてこちらも演技よし歌よしのヤングヴァイオレットの生田志守葉を挙げておきます。トリプルキャストの一人ですけど、調べたらあれで9歳ですよ。いまどきの子役って本当にレベルが高い。

ただ、歌はソロだといいのですが、複数人が歌うところはどうしても歌詞が混ざって聞き取りづらくなるところがあるのは惜しかったです。発声の問題なのか音響の問題なのかわかりませんが。演奏は力強くて満足なのですが。

あとは舞台美術で、場面転換に慣れているなあという椅子で場面を変えていく演出。それに加えて吊りものや映像や照明の使い方もいいのですけど、それより輪っかです。初めは床に置かれていた大きな輪が上がって、だけどそのあとさして使われないと思ったら照明が仕込まれていて、ああそうなんだ、だけどそれだけのためにもったいないな、と考えながら観ていたのですが、最後に舞台中央にヴァイオレットが立ったところに輪が降りてきて、ああ、これって天使の輪っかだ、ずっと見守られていて奇跡が起きたんだ、オープニングでびちょびちょだったヴァイオレットがきれいになったんだ、と思えました。演出案か美術案かわかりませんけれど、いい案です。

全体に、見た目も演出もシャープですよね。そのころのアメリカの田舎が舞台の芝居を日本で上演するともっと土臭い感じになりそうで、それはそれで正しいと思いますが、藤田俊太郎は美術や照明や衣装が土臭くなるのを避ける印象があります。その点は泥臭さが身上だった師匠の蜷川幸雄とは反対ですが、かといってただすっきりしているだけではありません。

これで藤田俊太郎演出はたぶん「天保十二年のシェイクスピア」「ラビット・ホール」に続いて三本目ですけど、他の演出家で言えば小川絵梨子と似ている感じがあります。なんだろうなこれと考えたのですが、カンパニーをまとめるのが得意なんですかね。役者もスタッフも全員が芝居の同じところを目指して頑張っているところが似ていました。

2024年3月31日 (日)

パラドックス定数「諜報員」東京芸術劇場シアターイースト

<3月10日(日)昼>

昭和初期の日本。ある日突然身柄を拘束された男たち。顔を塞いで連れてこられたので場所はわからないが、連行してきた男たちのことを考えると特高ではなく警察らしい。容疑を言われずに連れてこられた男たちも互いに様子を探り合うが、どうやら主義者として活動に関わっていたようだ。そして男たちを連行した男たちもどうもそこまで詳しく活動のことを把握していないらしい。ゾルゲとその協力者が逮捕されたことが引金となって慌てて動いたのだが……。

パラドックス定数の新作はおなじみの近代事件を扱ったもので、今回はゾルゲ事件の裏で協力していた男たちを巡る話。ただ、今回はいまいちでした。

過去の近代事件ものでは、登場人物の会話を通じて事件の真相を描く、そして登場人物の想いなり思惑なりも明らかになっていく、という作風でした。これがどの程度史実の事実なのかは関係ありません。ただ、その中で登場人物が自分の立場で全力を尽くして、その全力を会話に込めて、その会話を通して少しずつ真相が明らかになっていき、いかにもこういう事件だったのではないかと観客に思いこませていました。そのヒリヒリした会話劇が真骨頂です。

今回はそこを変えてきました。描かれるのはゾルゲ事件そのものではなく、その時代背景です。連れてこられた男たちはゾルゲの協力者の協力者、くらいのところで手伝ったことがあり、それと知ってなぜ協力したのかが演じられます。またその中に隠れて混ざって内偵していた警察の人間がいますが、そちらは主義者を捕まえる使命を胸に働いたものの一抹の共感を覚えます。

まず、あくまでも事件に近い関係者の立場から描いていた過去作と比べて、今回はゾルゲとその協力者を手伝うときに会話していた場面が回想場面として描かれます。それ自体は演劇の手法ですし、二役を演じた役者も上手にこなしていました。ただ、ある意味脚本が楽をしていました。ほぼ独立した場面として作ったため、そこに至る会話を組立てるでもなく、その場面の会話が後で生きてくるでもない。多少つながるところはあっても、それは芝居の展開にさほど影響を及ぼさない。少なくとも及ぼしたとは思えなかった。極めつけはラストで、どうしてそんなにべらべらしゃべっちゃうかな、と残念でした。

それと、時代背景を描くのにマイナーな立場の人間の想いを使うというのはつらかった。雑に言えば、令和のいまの時代は苦しい、もっと自由であるべきだ、と言いたいのかなと推察しました。それを戦前の共産主義者で直接描くとさすがに賛同しかねるけど、協力者の協力者くらいの人間ならいまでも共感できるところがあるのではないかというのは脚本家のひらめきです。ただ、それで描くには場面が牢獄というのはしんどすぎた。普通の場面がたくさんあって、そこで登場人物がいろいろな生活の場面をさらしていればこそ、その登場人物に、ひいては登場人物の想いに心が乗っていきます。いままでのパラドックス定数は大きな事件を中心にでんと据え、そこに事件の関係者を登場人物とすることで普通の場面を描く必要を飛ばしていました。が、登場人物の選定でそれを脇に避けざるをえなかったために、芝居に必要な場面がすっぽり抜けた形になりました。

これが初見の劇団なら印象は変わったかもしれませんが、パラドックス定数にはもっと上を望みたいです。長くやっているからひょっとしたら違う作風を模索しているのかもしれませんが、登場人物に想いを直接語らせるだけではつまらない。たどり着いた事件の真相を以て登場人物を翻弄することで想いの重さを語らしめていた過去作と違う作風を目指すなら、そこまでたどり着いてほしい。野木萌葱みたいな脚本を書ける人がいないだけに観客として期待しています。

2024年1月27日 (土)

ホリプロ/フジテレビ主催「オデッサ」東京芸術劇場プレイハウス

<2024年1月26日(金)夜>

1999年のアメリカはテキサス州の町オデッサで、町の老人が殺される事件が起きた。重要参考人としてバックパッカーの日本人を事情聴取したいが英語がさっぱりわからないという。他の事件の捜査で人手の足りない警察は、遺失物係の警部一人に事情聴取を任せきりにした上に、署の部屋も足りないからと貸さず、警部は近所の酒場を借りて通訳を手配して事情聴取の準備を行なうはめになる。通訳としてやってきた町に数少ない英語のわかる日本人だが、バックパッカーの男性ともどもお互い鹿児島県出身ということで盛上がってしまう。事情聴取が始まったら自分がやったといきなり自白するが、同じ地元で親近感を感じた通訳は英語では無実を主張していると話を曲げて、その間に男性に翻意を促す。

三谷幸喜の新作。いやいやそうはならんだろ、というところから話を転がしていくのはノリで言えば覚えている話だと「ショウ・マスト・ゴー・オン」に近い。ただ、よくできているのだけどもっと面白くできたよねという仕上がり。

やや真面目な要素も入ってくるけど根っこがとにかく無茶な話なので、それをもっともらしく見せるためには役者の力技が必要。しかも3人芝居ということで無茶をやり続けないといけないのだけど、だいたいの無茶の始まりになる柿澤勇人も、英語も日本語もスムーズに切替えての役作りが熱演はさすがの宮澤エマも、真面目に不真面目するには真面目すぎた。声芸一発で持っていった迫田孝也よりもさらに引出が求められて、しかも字幕と合せるための制約が多いだろうとはいえ、まだまだこんなもんで仕上がったつもりになってもらっては困る。これは誰だろうなと観終わって考えたけど、柿澤勇人に求められていたのは大泉洋かなと思った。無茶言うなと言われても困るけど。

ただひとつだけ言えば、脚本もひとつ矛盾があった。早く見ておけばってのは駄目。笑いの駄目押しのつもりで入れたと思うけど、あれは削らないと他の話と齟齬が出る。三谷幸喜らしくない見落しだった。

日本語と英語のちゃんぽんとなる舞台を、その脚本も英語で2人だけで話す場面では日本語に戻るところを舞台を動かして観客に教える工夫が親切設計。だけど一番の親切は字幕。舞台背面を目いっぱい使ってあのくらい自由に動かす字幕だとほとんど演技の一部。お笑いバラエティーの字幕をさらに先に進めていた。最後の役者紹介、あれはミステリードラマの役者紹介とフォントを合せていたのかな。なんかこちらも気づいていない仕込みが字幕にたくさんありそうです。

ネタバレにならないように感想を書くのは難しい芝居ですけど、これはツアーも含めた公演終盤に観たかった芝居です。

2023年9月30日 (土)

タカハ劇団「ヒトラーを画家にする話」シアターイースト

<2023年9月28日(木)夜>

美大生で画廊の息子の僚太は、卒業後に画家の道に進むか、両親から言われている画廊の跡取りになるべきか、進路に迷っている。すでに就職の進路を決めた朝利と板垣の二人と教授のゼミ室で悩んでいたら、教授の科学美術の発明により手違いで1908年のウィーンのタイムスリップしてしまい、そこで美術アカデミーへの入学を目指して練習するヒトラーと出会ってしまう。現代に戻れるまでの約一か月、ヒトラーを美術アカデミーに合格させることで後の世の悲劇を回避することを目指すと決めた三人だが、同じ下宿にやってきた、やはり美術アカデミー入学を目指すポーランド系ユダヤ人クラウスの画力は、ヒトラーとは比べ物にならないほど優れていた。

初日。タイムスリップやら何やらの理屈付けにはそれらしい話を用意していますが、メインは僚太、ヒトラー、クラウスを巡る進路の話です。ヒトラーを画家にできるかどうかのネタ勝負かと思ったらそういうわけでもなく、もちろんこのころもユダヤ人相手の差別はありますからそれも絡んできます。

タイムスリップしたのにスマホがつながるという無茶を押通して反対に設定に活用しながらも、ユダヤ人を巡る話は真摯に扱い、ただし画家を目指して絵を描くことを反対された人が画家を諦めさせる立場にもなる入れ子にして大きな柱に据えることで、差別の具体例が生きてくる。個人的には最後の場面二つだけ順番を入替えて、マイクの台詞で終わってほしかったですけど、それくらいです。小劇場が重たい話題を扱う際のアプローチとしてお手本にしたいような脚本でした。「レオポルトシュタット」は向こうに任せておけばいい。

その反面、役者の明暗が分かれて、ベテラン勢はみないい仕事をしていたのですが、メインの若手、特に男性陣が全滅でした。一瞬だけいい場面があっても続かない。進路の話と親との葛藤、絵を描くことの意味、才能と評価の話、ユダヤ人差別の状況に対してどのような態度をとるか。とっかかりはいくつもあって、役者という仕事を選んだ人たちには身近な話題も多かったはずですがすべて中途半端で、初日だからとはいえない力不足に見受けられました。良く言えば脚本全体に寄添っていましたが、設定からしてごりごりに小劇場な脚本なので、繊細を通り越して小さい、近頃の日常系小劇場の役作りは合いません。あれは演出でもう少し何とかしてほしかったです。

あとは額縁とかキュビズム? っぽい美術がシンプルな割に空間をきれいに埋めて、映像も頑張っていましたが、画家の話で絵をどこまで見せるかは難しい判断でした。小劇場なら絵を一切見せずに枠と照明だけで押通すのもありなのですが、ナチスの説明をするときに当時の写真を盛大に使ったのと、描いて破いた絵を進行の都合で一枚だけ見せたおかげで、他の絵を見せないのが逃げに思えてしまいました。ヒトラーの絵は権利を含めて適当な画像の入手が難しかったのかもしれませんが、それとは別に最後の一枚は、見せたかった。あれこそ観客の想像に委ねたかったのかもしれませんが、それなら照明でなく小道具としてベールをかぶせた絵を用意してベールを取らずに進めるべきだった。このあたりは演出や制作に関わるところですけど、まあ個人的な趣味の問題です。

これは再演するならどこかに脚本を託して再演したほうがいいです。ちょっともったいないことが多かったので。

2023年6月19日 (月)

野田地図「兎、波を走る」東京芸術劇場プレイハウス

<2023年6月18日(日)昼>

潰れかけた遊園地に子供のころに母親と見た不思議の国のアリスを再現したいと願いアトラクション構築中のオーナー。だが借金が過ぎて競売にかけられるのも間近となっている。そんな遊園地で娘を探して迷子相談所にやってきた女性だが、他の迷子かとおもいきや兎の後を追って娘を探しに行く。

不思議の国のアリスに、桜の園と、他の物語と、作家の話題と、昔の社会事件と、いまどきの話題をかき集めてきて、最後の着地点はそこかという芝居。個人的には「逆鱗」よりも「Q」よりも「フェイクスピア」よりもすごかったし、観てきつかった。

普通の人が普通にやったら怒っただろうし、上手にやっても怒ったと思う。でも作家の話の一環で「書かされている」って出てきたのが、皮肉な意味と作家の業の意味と両方に係っていたところで、シャッポを脱いだ。今なら野田秀樹が真摯に書けば「あり」です。チラシの「なんともいたたまれない不条理」「作家の無力をこれほど感じることはない」「『あー』としか言いようがない」は、本心でしょう。最後にきつい話題に振ってくるところは、なるべく高橋一生と松たか子と多部未華子(と山崎一とコロス)にしか触らせないように、茶化さないように気を付けていましたね。役者の格で許される話題というものがある。

コロスの動きや使い方もこなれていましたし、映像の使いどころも上手でした。美術、照明、音楽、衣装まではまって、素晴らしかった。

ネタばれがほしい人は、たぶん検索すればいろんな人が書いているだろうから、そちらを観てください。野田秀樹らしい言葉遊びもあって慣れない人には観るのが大変なのはいつも通りですけど、自分はネタばれなしで観て衝撃が大きかった。けど、黙っているべき話題ではないあたりが、難しい。

あと当日券狙いの人に注意。今回は力技で当日券をもぎ取ったのですけど、並ぶ場所になっている東京芸術劇場の2階は暑い。地下1階の涼しさと全然違います。入口前に申し訳程度に扇風機が動いているくらいで、屋根の作りのせいか角を曲がったあたりからぐっと暑くなる。この日はまだ大丈夫でしたけど、猛暑日に並んだら熱中症が危ないので、取れる限りの対策を取って並びましょう。

<2023年6月19日(月)追記>

山崎一の名前が抜けていたので追記。

2023年1月23日 (月)

風姿花伝プロデュース企画製作「おやすみ、お母さん」シアター風姿花伝(ネタばれあり)

<2023年1月21日(土)夜>

母と離婚して戻った娘が2人暮らしする家。母が娘に身の回りの世話を頼んでいるが、娘は亡くなった父の残した銃を探している。2時間後に自殺するために使いたいのだという。母は冗談だと思って取り合わないが、娘は自分が亡くなった後の身の回りの始末を進めていく。

今回の風姿花伝プロデュースは母と娘の2人芝居を、実の母娘である那須佐代子と那須凜が演じるという取り合わせ。しんどい会話劇は、客観的な感想だと脚本の読み違えがあったと言いたいけれど、個人的にはむしろそこに見応えがあったというややこしい感想です。2人ほぼ出ずっぱりの熱演なので観た人たちの感想が気になりますが、以下ネタばれで自分の感想を。

母が娘に家事をいいつけたり、自殺前に娘が家事のあれこれを片づけるところから、普段の生活で母がいろいろ娘に依存していることが伝えられます。この過程で、娘はてんかんの発作で子供のころからいろいろ上手くいかず、結婚して息子ももうけたものの夫とは離婚して息子は犯罪で逃亡中で人生になり、薬のおかげでここ1年ほど発作が収まったものの、それで頭が冴えた結果、人生に未練をなくして自殺に思い至ります。

脚本だけ追っていくと、よかれと思っていた母の振舞が娘から自信を奪うことになり、また母自身も自分の人生に我慢や諦めがあったことが明らかになります。ここを見ると、最近の言葉でいう毒親が、娘の行動からその事実を突きつけられて自覚する物語です。母役を演じた那須佐代子はおそらくこの線で役を作っていました。いい出来です。終盤にいろいろ気がついて食堂のテーブルで絶望した顔になる場面は絶品でした。

ただし今回、娘役を演じた那須凜が母役の引立て役に入らなかった。自分が亡くなった後の身の回りの始末をリスト化して積極的に進める様子だったり、ママのせいじゃないと伝える際の伝わらなさがわかっているニュアンスは、これだけきちんとした人でも、むしろきちんとした人だからこそ自殺を選んでもおかしくない世の中なのだと想像させてくれました。初演は1983年らしいですけど、この役作りの線が2023年にしっくり合っていました。

人によって意見はあれど、私は昔より今のほうが余裕のない世知辛い世の中になっていると思っています。特に先進国と呼ばれていた国は。世界が発展して国力が相対的に落込んでいるとか、社会が整う過程で無駄が省かれたとか、理由はいろいろあります。昔のほうがセクハラパワハラ上等でその点では今のほうが進歩しているでしょうし、やりたいことがあってそのパスを探せる人には最高の時代です。ただ、世間に求められるスキルが高くなり、それがこなせない人の就ける仕事や居場所はどんどん減っています。それが長く続いても耐えられる人と耐えられない人がいます。

母の説得に「それはここにいる理由にはならないの」と返すくだりの台詞回しは非常に胸に沁みました。理由なんてなくなってから人生本番なんだとおっさんになった今なら言えます。劇中の母も似たような台詞を言います。それでも自分は世の中に必要ないと考えるその真面目さは、今様の繊細な造形でした。

この線がもう少し掘れればよかったのですけど、残念だったことが2つあります。ひとつは那須凜が生き生きしすぎていて、人生への執着のなさが表現しきれていなかったこと。もうひとつは那須佐代子の役との調整不足で、脚本が求める以上にお互いのやり取りがチグハグに見えたこと。あと一歩で初演から40年後の日本にふさわしいところまで行けそうな手ごたえなのですけど、あと一歩が足りなかった。けど、見応え十分でした。

翻訳と演出は小川絵梨子ですけど、どういう方針で演出を進めていたのかは気になります。ちなみに翻訳だと、娘が母を普段はママと呼ぶところ、タイトルの台詞のところだけお母さんと呼ぶのが、娘の律儀さを最後まで表現していてよかったです。

最後にスタッフです。音響は効果音以外なしです。それで上演時間1時間45分を持たせた役者も凄いですけど、効果音以外要らないと決断できる音響も凄いです。衣装は母が身体にあった服装に対して娘には今どきのだぼっとした服装を当てて、年齢差以上に世代差を強調していました。あと美術は、この風姿花伝プロデュースでは毎回狭い空間に工夫しつつ安いわりに豪華に見える工夫がされています。今回だと家具を多く使って舞台の設営は奥の壁と台所だけ、屋根裏部屋は上手の劇場階段を奥に見せて利用、と毎度のことながら工夫された美術でした。

全部感想という名の妄想ですけど、妄想を誘ってくれるだけの熱演でした。

2022年9月18日 (日)

野田地図「Q」東京芸術劇場プレイハウス(ネタバレあり)

<2022年9月11日(日)昼>

源平両家が勢いを競う都で恋に落ちた、平の螂壬生と源の愁里愛。駆落ちが行き違いで心中になりかけたところ、未来の螂壬生と愁里愛が助けて一命を取りとめる。だが心中が美談となった都で2人は表立った活動を許されない。

初演も観て、なんか後半違うような気もするのですが思い出せません。相変わらず粗筋を書くのが難しい芝居という印象は共通です。ただ今回、初演のすっきりしなさの理由がなんとなくわかりました。ひたすらその言語化に務めます。

俊寛のオマージュとかクイーンの音楽とか、全部おまけと言って悪ければちょうどいいから選ばれた飾りです。名前が大事な時代だからこそ成立っていた「名前を捨ててやってきて」と願う有名なジュリエットのバルコニーの台詞、それが匿名が当たり前の時代になるとどうなるか。それを源平を舞台にしてロミオとジュリエットで前半、後日談で後半を描くのは、さすが野田秀樹の目の付け所です。

後日談のパートでは、匿名による相手への中傷と名を広めて相手を圧倒しようとする対立が源平の合戦に発展。偽名で戦に出陣したロミオが負けて捕虜になる。ここで一瞬だけジュリエットとすれ違うも、ロミオはスベリア(シベリア)送りになる。

過酷な環境で捕虜労働にこき使われ、無価値になった金による看守の買収も失敗する。耐えかねた仲間の一人がロミオの正体をばらして看守の買収を試みるも、すでにロミオの名前に価値がなかったため失敗。これで一命を取留めたものの、捕虜釈放のタイミングで偽名のロミオは名前がなかったため釈放にならず、最後には捕虜のまま亡くなる。

愛する人をロミオに殺されて復讐のために追っていたトモエゴゼ(巴御前)は、ロミオが亡くなったことを確認すると自分も力尽きる。

名を捨てたばかりに自分としての活動もできなくなり亡くなるロミオや、相手(の名前)への復讐が過ぎてその先につながらない巴御前。言葉遊びから引用から社会問題まで、いろいろな要素を取込んで匿名の行く末まで批判的につなげる一連の流れはまさしく野田秀樹調で、こういうのを観たいから野田地図を観るんだという会心の出来です。

ならば内容にも納得がいくかというと、そこが悩ましいところです。以下はこの芝居が現実社会への批判を込めているという前提に立って、批判対象の現実社会の理解が私の理解とずれている、という話です。

ひとつは名を捨てたに掛けた匿名の扱い。ロミオの最後は捕虜のまま野垂れ死にです。名前を捨てて活動した個人の哀れな末路、と見えます。そして源平の対立で匿名の中傷を流していたのは戦の情報戦、組織によるものです。

でも世の中の匿名の大半は、普段は日常生活を送りつつ、SNSなどではID、ハンドルネーム、芸名、何と呼んでもいいですが、日常生活を隠したペルソナで発信する人達です。ロミオの個人と戦の組織の中間に位置します。このボリュームゾーンへの言及が欠けていて、匿名の扱いが極端すぎるように、乱暴な表現をすれば雑と感じます。

そこに暴力性を見出すなら、匿名個人の誹謗中傷のほうが適切です。匿名個人が、茶の間のテレビに文句を言う感覚でSNSに書込む。そうやって発信された誹謗中傷を真に受けて、酷いときには対象者が自殺に至ったとして、でも誹謗中傷をSNSに書込むような人たちほどそんなことを気にしないし反省もしないでまた誰かについて同じような誹謗中傷を書くし、前に書いた内容と正反対の意見でも気にしない。考えが変わったのではなく、文句を書くことが目的になっているような状態ですね。それが大勢とは言いませんけど、それなりの数はいます。

その前提に立つと、死んだロミオを見つけて目標がなくなって倒れるトモエゴゼだけでは、役として一途すぎます。源平の対立時にはその時の支配者である平家に文句を書くけど、そのあとで都が源氏の支配になったら源氏の文句を書くような無責任なコロスがいると、もっと厚みが出たのになと思います。

もうひとつは戦争の扱い。初演では徴兵からシベリア送りまで、日本の太平洋戦争をあつかっていると思えたのですよね。今回も後半ぎりぎりまではそう考えながら観ていました。当時の日本の指導者層の無謀無策な開戦のツケを無名な兵士が払わされたと考えるなら、齟齬のない展開でした。

ただ、ラストの松たか子の長台詞、無名戦士として扱わないでください云々を聴いた瞬間に、現在進行形のロシアとウクライナに意識が向いてしまったんですよね。意見はいろいろあるでしょうが、ロシアが先に仕掛けて、ウクライナが急いで防戦した初期の展開には異論がないでしょう。そうすると、先に仕掛けたロシアはともかく、ウクライナ側は名を捨てるの拾うのと言っている場合ではない。正真正銘、生活と命を賭けて戦うことになる。そういう戦いが今まさに行なわれています。

そしてその一環で情報戦も必要になるし、それは公式(顕名)の発信だけでなく、匿名による発信も必要になる。それは自国を鼓舞し相手国を攪乱するだけでなく、周辺国を味方につけることの必要性も現代では大きいからです。

さしたる理由もなく軍隊が攻めてくることが現実にあるし、それは海を挟んだ隣国であるという現実は、戦争と言えば太平洋戦争だった多くの日本人の戦争観を変えたでしょう。少なくとも私は変えました。初演の2019年なら問題にならなかったのに、現実が3年前の想像を追越して、脚本の戦争観が古く見えてしまいました。

ここから先は独断と偏見です。野田秀樹は個人を、それも理由はどうあれ自分から動く個人を描くのが上手な人です。逆に社会問題を描くのは苦手な人です。社会問題を借景に持ちつつも最後は個人の物語に落ちるといいのですけど、最後に社会問題が全面に出てくると違和感が残ります。人種差別を扱いつつあの女の話でまとめた「赤鬼」や、原爆投下の責任問題を扱いながらミズヲとヒメ女で引張った「パンドラの鐘」は、上手くいったほうの例ですね。

ならば今回はどうか。会えない螂壬生と愁里愛がバラバラに動くので、主人公たちに向けるべき目が借景で収まってほしい戦争に向いてしまった。それは最後に抱き合うラストを引立てても、後半長く扱った戦争と捕虜の話を払拭するには至りませんでした。そこに匿名や戦争の扱い方の違和感が重なって、納得いかなかったのが今回の結論です。

繰返しますが、ロミオとジュリエットを源平の対立で置換えたことや、名を捨てたことの末路までつながる一連の流れは実によくできています。ただし、よくできていても自分の好みに合うかどうかは別の話というだけのことです。

最後に一般感想です。今回は女性陣が活躍して、広瀬すず、羽野晶紀、伊勢佳代が目を引く出来でした。松たか子も男性陣も文句はありませんが、ちょっと身体に鞭打って演技していたような印象を受けました。これだけ公演して、さらにこれから海外を含むツアーなので、一息入れて頑張ってほしいです。個別場面ではシベリアでロミオを売ろうとする小松和重の後ろ暗い感じが一等賞です。

初演では上手最前列で観たのを今回は1階センター後方で観られましたが、全体が見えたほうが美しいですね野田地図は。もともと私は全体を眺めるのが好きですけど、それを差し引いても。今回はフォーメーションに依存する演出ではありませんでしたが、白い舞台にひびのこずえの衣装が映えて、美しかったです。

なお今回はうっかり東京千秋楽が取れてしまったのですが、2回目のカーテンコールからスタンディングオベーション。5回目あたりで野田秀樹が一人で戻って収めようとしたのですが収まらず、7回目だったかな、そのくらいで野田秀樹がもう一度一人で出てきて、ようやくお開きになりました。贔屓の役者を間近で応援できるのはライブの醍醐味ですが、私は苦手ですね。もっと素直にスタンディングオベーションすればいいのに我ながら損な性分です。

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