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2025年10月13日 (月)

東京舞台芸術祭実行委員会主催「Mary Said What She Said」東京芸術劇場プレイハウス

<2025年10月11日(土)昼>

フランス王妃にしてスコットランド女王だったメアリー・スチュアート。その血筋と結婚により国と国との対立、そして本人の王位継承権を巡る争いに否応なしに巻込まれ、そして処刑された人生。

これは役者依存の1人芝居で見逃したら2度と観る機会がないのではと直感が訴えて観劇。それは正しくて、圧巻の1人芝居だった。

後半少しだけ音響で録音台詞が入るけど、ほぼ出ずっぱりで芝居らしい芝居はなくひたすら語り倒す、それも同じフレーズを多用して、タイプは異なるけれどもままごとの「わが星」と「あゆみ」を混ぜたような構成。ただし時間軸がかならずしも順番ではなくて、いったり来たりする。素舞台でほとんど小道具もないところでやってのけるのはレベルが高いのはたしか。芝居の内容がシリアスだけど、そこをきっちりかっちり仕上げたところは、イザベル・ユペールのすばらしい実力。ただ、フランス語はさっぱりなので字幕で内容を追いかけたのだけど、あれは本人の回顧だけではなくて侍女の回顧も混ざっていたのか? そこが混乱して、 途中からもっと声の調子に注意を向けたほうがいいと考えたのだけど手遅れだった。芝居を耳で観る人間ではあるけれど、活字にはもっと強く引付けられるのだなと自分を思い知った。

それと芝居については、元の史実を把握していないため見落とし多数でもったいなかった。Wikipediaが比較的コンパクトにまとまっていたから、これを読んでおけばもっと劇場でリアルタイムで楽しめたのにとは後悔。血筋としては下れば今のイギリス王室は全員この人の子孫。そして3代遡ればヘンリー7世、大伯父がヘンリー8世、おまけで書けば処刑された年にシェイクスピアが3歳、というヨーロッパの血生臭さ全開の時代を主役として生きた1人です。波乱万丈という言葉が相応しい。

近頃は歳をとったのか揉め事が多すぎて目が覚めたのか、ヨーロッパの暗い面も目に付くようになったけど、こういう芝居を観ると個人の自立と自覚を欧米が求めているのがわかるというか、欧米は孤独な世界なので自立と自覚がないと生きていけないというか、神も仏もありゃしない世界だからこそキリスト教が嵌まったというか、そういう世界で生まれた宗教だからこそキリスト教は団結しても融和しないというか。

今なら同じような1人芝居をできる日本人の役者も探せばいると思えるけど、こういう芝居を日本人がやるともう少し柔らかく仕上がるはず。芝居の内容も役者の強度もかっちかちに硬かった。

最後にスタッフワークについて書くと、1人芝居を支えるためか弦楽の音楽がかけっぱなしだったけど、音響の抜けの良さが普段観る芝居と全然違う。機材の違いなのか録音品質の違いなのか会場チューニングの違いなのか。たまに音が新しい芝居に出会うたびに考えるけど、個人的にはこのクリアさ(と録音品質?)が標準になってほしい。

2025年9月28日 (日)

パルコ企画製作「ヴォイツェック」東京芸術劇場プレイハウス

<2025年9月27日(土)昼>

冷戦時代の西ベルリン。共産主義からの防衛のためにイギリスから兵士が派遣されている。そこに赴任したヴォイツェックは、アイルランドの赴任時に知合った事実婚のマリーと赤ん坊と一緒にやって来たが、結婚していないため兵舎に入れず肉屋の上の部屋を借りて暮らすも、兵士の給料では暮らしが厳しい。幼少時のトラウマに悩まされるヴォイツェックはアイルランドで騒動中に持場を離れた前科があるため少数の兵士を除いて他の兵士から評判が悪く、母の反対を振切ってやって来たマリーはドイツ語が出来ない中で上官の妻のボランティアの手伝いを押付けられる。厳しい環境に追詰められてトラウマに悩まされるヴォイツェックを、慣れない環境で子供の世話をしながら苦しむマリーは少しでも繋ぎとめようとするが・・・。

小川絵梨子演出で観てみれば、いかにも小川絵梨子好みで初めから終わりまできつい話です。そしてこのきつい話にも関わらずきっちり仕上げてきました。19世紀に書かれた未完の原作を冷戦時代に置きかえたという元脚本ですが、冷戦で兵士云々はそんなことがあったと薄い背景として知っていれば差支えなく、ヴォイツェックとマリーを追えばいいです。それをさらに整理した演出と、役者の努力ががっちりかみ合った仕上がりですが、かみ合うほどに話のきつさが伝わって、観る側に体力が求められます。

追詰められるほどに自分のことしか話せなくなる、相手のことを話しているようで結局自分のことを話してしまうヴォイツェックですが、そこまで余裕がないことにも十分以上の理由がある。そんなヴォイツェックを何とか励ますマリーも、少しずつ余裕が削られていくだけの理由がある。この2人の会話がかみ合わなくなっていく様子を演じる役者が、がっちりかみ合っています。

弱く追詰められていくヴォイツェックを森田剛が演じるのは意外ですが、これがびっくりする好演で、卑屈な様子も長台詞も格好つけることなくやってのけました。ただこれは長いキャリアを考えれば褒められこそすれ驚かなくてもいい。マリーを演じた伊原六花がびっくりで、けなげで明るくヴォイツェックに寄添うところから段々と余裕がなくなっていく様子をきっちり演じて、しかもヒロインとしての華を保っている。調べたらこれで26歳、ただしそれでキャリアは14年なのかな、事務所所属から数えても8年、今時の若い人は本当にすごい。これを追詰める側は現元イキウメの浜田信也と伊勢佳世に、突き放すのが大ベテランの冨家ノリマサと栗原英雄 。全員よく似合っていた。伊勢佳世は2役をこなしつつ、マリーへの意地悪な奥様の様子が実にいいですね。もっとこういう役をやるべき。スタッフワークでは高い空間を埋めつつ頻繁な場面転換を上手に具現化した美術が見事。

仕上がりはほんとうにいいですが、話はきついですし、見た目は地味です。芝居を耳で観る人にはすばらしい出来ですが、芝居を目で観て楽しむ人にはしんどいかもしれません。だから座席に余裕があったのでしょう。2階席のある劇場よりはパルコ劇場の規模向きでした。この後ツアーでまた東京に戻ってくる変則日程なのでどうですか、と勧めるにはいささかチケット代が高い。歯ごたえを望む観客には勧めたい。

<2025年11月12日(水)更新>

役者名訂正。

2025年1月13日 (月)

ポウジュ「リタの教育」シアター風姿花伝

<2025年1月12日(日)夜>

酒手ほしさに初めての社会人講座を引受けた教授。そこにやってきた美容師の女性は、何とか今の生活から抜出したいと願う。無遠慮な様子に断ろうとしたものの女性の熱意に負けて始めた講座も初めは滅茶苦茶だったが、きっかけを掴んだ女性は少しずつ勉強に目覚めていく。

旗揚公演にして2人の役者で2演目同時上演という無茶な企画の、2演目目の初日。昔観たことがあった翻訳物なのでこちらを観劇。出だしは浮ついていたもののマクベスのあたりから少しずつ乗って来て、終わってみれば役者は素直に演じていたなという感じ。

ただ、役者の出来とは別に仕上がりにどうもしっくりこない点があって、なんだろうと考えていた。

ひとつは演出で、なんだか時制が上手く出ていなかった。序盤から中盤に飛ぶところが急だったり、ラストのラストを考えると序盤でもう少し教授側に歩み寄らせるというか引張り回されるところを出してもよかったのでは。変わるリタに教授も揺さぶられて変わるかどうかが見所のひとつなので。スタッフに関するところで言えば、イギリスだから夏でも寒いのはわかるけど、教授のフランクが終始コートを持っていないのは季節感に目が届いていなかった。

もうひとつは翻訳で、教授が元詩人という設定なので、元は駄洒落というか韻を踏むような台詞が多かったように記憶している。だから翻訳で苦労していて不自然な台詞も残っていたのが以前観た時の感想。今回は不自然さを感じなかったかわりに駄洒落感はごっそり間引かれていた(「る韻(?)」だけはわからなかった、検索してもわからない)。とは言え、それで自然になったかというとまだ不自然が残っていて、具体的には序盤のリタの労働者階級らしいがさつさも抜け落ちていた。

この話はアフタートークでも出ていて、日本の訛りは地方の方言を意味することが多いけどイギリスは労働者階級とアッパークラスとで上下の言葉が違う、窮して今回は標準語(共通語)の中で「わたし」を「あたし」にするなど差をつけたと話していた。ただ悪気はなくともがさつで乱暴な言葉遣いというのもあるはずで、それは日本だと武家言葉と町人言葉とか、山の手言葉と下町言葉に該当すると思うので、小説なら銭形平次とか芝居なら歌舞伎とかからエッセンスを抽出して工夫してほしい。

上下の言葉遣いの差は現代口語演劇の発展で取残された分野ではないかとひそかに考えているので、翻訳に力を入れるユニットらしいから期待したい。

2024年9月16日 (月)

木ノ下歌舞伎「三人吉三廓初買」東京芸術劇場プレイハウス

<2024年9月15日(日)昼>

将軍家から拝領の脇差を盗まれたためにお家断絶して吉原に沈んだ妹の厄介になりながら悪事を働くお坊吉三、旅回りの役者上がりで娘のふりをして盗みを働くお嬢吉三、これが盗んだ百両を巡って寄越せ寄越さないと揉めたところを仲裁した和尚吉三。義兄弟の契りを結んだ三人だが、この百両を巡って三人に縁のある人間の運命が動き出す。

初日。歌舞伎の台詞も節回しを止めて話してみれば実に明瞭。よくぞこれだけ色々な役者を揃えたもので、初日にして仕上がり十分。目を惹いたのはお坊吉三の須賀健太と吉野の高山のえみ。特に須賀健太はこの役のためによくぞ見つけてきたなの一言。出来のよさなら伝吉の川平慈英が文句なしの一番で、和尚吉三の田中俊介が後半尻上がりに調子を上げていく。そのままやったら役に負けるところ役を手中に入れた文里の眞島秀和とおしづの緒川たまき。おいしい役を楽しそうにやった武兵衛の田中佑弥と金貸太郎右衛門の武居卓。役に徹して控えめにやって見せた武谷公雄と山口航太と緑川史絵。スタッフは和洋ごちゃ混ぜの衣装がことによし、音楽は一幕が薄い割に後ろが濃いのはバランス調整の余地あり、が初日寸評。

一度観るにはいい座組みですけど、当日券は余裕あるも、上演時間が休憩2回挟んで5時間20分なのは覚悟してください。今思えばコクーン歌舞伎の3時間40分は素晴らしかった。地獄の場が初演以来カットされてきたのももっともで、あそこを切って休憩1回減らせば30分以上縮まりますよね。せめて4時間半に収まってくれれば他の芝居の夜の部に当日券狙いで駆けつけられたものを。それでもやるなら、長引くからと自虐するよりもっと笑わせに来いや、と言いたくなる。あの場面だけが瑕疵。

詳細後日、は書かなくてもいいかな。

2024年8月25日 (日)

イキウメ「奇ッ怪」東京芸術劇場シアターイースト

<2024年8月14日(水)昼>

人里離れた山奥にある、昔は寺だったという旅館。有名な小説家が長逗留して小説を書いているところに、2人の男が泊りにやって来る。小説家はこの地方の怪談を集めて書いており、2人の男も似たような目的でやって来たところだという。話の流れでお互いに知っている怪談を披露することになる。

小泉八雲が集めた日本の怪談5本を基に構成した芝居。当日パンフによれば「常識」「破られた約束」「茶碗の中」「お貞の話」「宿世の恋」の5本です。非常によい仕上がりで、お盆の季節に相応しい怪談を楽しみました。

初演は世田谷パブリックシアターの企画で上演されていたので、仲村トオル、池田成志、小松和重といった一癖も二癖もある役者が出ていて、全体にいい意味での雑味も含めて楽しんだ記憶があります。それが今回は磨きに磨いた趣きで、上善如水とでも言わんばかりの仕上がりです。笑えるネタもありますし、怪談話の再現が終わった後で「女将、髪が乱れています」なんて言って引っ込めさせるようなメタな手口も使っています。そこに現在捜査中の事件を絡めるという、小劇場らしい展開と言えば展開です。それやこれやをやっても、芝居の透明度が落ちません。緊張感とはまた違った、静謐な雰囲気が最後まで続きます。怪談に相応しい出来でした。

それと、初演が15年前ですが、いまどきのテクノロジーが出てこないのに成立たせているところが素晴らしかったです。宿の評判を確かめるとか、スマホのひとつも出てきてよさそうなものですが、そういうものを出さずにしかも気にさせないのは、脚本と演出の両方の力でしょう。

それを体現したのが劇団員なのは間違いなくて、方向性もレベルもものすごく揃っていました。女性陣3人はゲストですが、女将役の松岡依都美がいい感じです。スタッフもいい感じでしたが、今回は美術を挙げておきます。出だしで役者が腰を落として回る、ということで能舞台を模したものでしょうか。奥に廊下、手前に柱の立ったシンプルな舞台、そこに白い庭を挟んで梅と祠と、天井からの砂落とし。そして最後の変化。静謐な雰囲気の構築に預かって力ある、怪談に相応しい美術でした。

それにしてもここのところイキウメの出来が素晴らしいです。2022年の「関数ドミノ」が再演にも関わらず微妙で、その後の「天の敵」はスキップしたのですが、2023年の「人魂を届けに」、世田谷パブリックシアターの企画製作ですが実質イキウメの「無駄な抵抗」、そして今回と、新作再演織り交ぜて3本続けて高水準です。何かを掴んだのでしょうか。

2024年7月14日 (日)

Serialnumber「神話、夜の果ての」東京芸術劇場シアターウエスト

<2024年7月13日(土)夜>

拘置所の患者個室でベッドの上に座りっぱなしの一人の男。とある殺人を犯して裁判を控えているが、精神疾患ではないかと疑われているためここに隔離されている。男の弁護士が裁判を控えて精神科医に面接を申込むが今は面会謝絶で会えない。男が殺人を犯した経緯はいったいどのようなものなのか。

久しぶりのSerialnumberは宗教二世の話。社会性のある重たい話題に真正面から突っ込むのはいかにも詩森ろばらしいですけど、ちょっと今回はいまいちな仕上がりでした。

今の拘置所と、人里離れた宗教の施設時代との二重構造で話が進んでいきます。そこで多少解説が入ったり別の人の話を絡めたりするのが工夫と言えば工夫です。が、基本は重たい話題を重たい通りになぞって追体験する形で進めます。それは親切ですが、真っ正直すぎていささか芸が足りない脚本でした。

そこに演出で明るさを足すのは自分で許せなかったのか、ベッド以外ほぼ素舞台で、主人公の男はひたすらしゃべります。が、坂本慶介はテンションが足りず力及びませんでした。それと最後に物語を締める役割を持たされた弁護士の田中亨も力及びませんでした。廣川三憲や杉木隆幸がいい出来を見せて、川島鈴遥がまずまずでも、5人芝居で2人が力不足だとつらい。あと弁護士以外の4人が裸足なのも意味不明でした。

脚本の面で言えば、二世本人の心情を掘下げていましたが、これと対になる、入信した母親の話は終盤にさらっと触れただけで流されてしまいました。でもあの流し方では相手の言い分にも五分の魂となってしまう。それを認めるなら主人公は不運に巻込まれただけというオチになってしまう。主人公は救いのない人生だったと言われればその通りですが、そう言いたいためにこの話題を取上げたわけでもないでしょう。

重い話題に一方的な結論を出すにせよ、簡単に結論は出せないと観客に考えさせるにせよ、脚本の切口も演出の切口もこの話題に対しては間違っていたなというのが感想です。

範宙遊泳「心の声など聞こえるか」東京芸術劇場シアターイースト

<2024年7月13日(土)昼>

埼玉県のとある住宅街。新築が分譲されたころに引越してきた夫婦だが、夫は妻にセックスを拒否されて浮気を疑い、妻は隣人の妻にゴミ捨てを監視されていらいらが募る。隣人の妻はプラスチックごみを宇宙ごみと呼び、その様子を見ながら隣人の夫は妻への愛は変わりない。夫婦同士でも隣家同士でも心の中の言いたいことを我慢し続ける関係の行方は。

前の公演がよかったので観劇。たまに主張強めなところが出てくるものの、それも含めてひっくり返す展開は見事でした。

音を立てたりおかしな動きをしたり、なんなら妄想とか現実と書かれたTシャツを着た人まで出してきて、心の声が聞こえるという仕組みを用意してあります。そうして心の声を観客に聞かせながら、途中で出てくる現実場面のネタが現実っぽくないことも多々ありながら、チラシにも載せている「キミがどんなに世界に軽蔑されても、ボクはキミを軽蔑する世界のほうを軽蔑するし、してきた」という台詞を捨てるように使いながら、それも含めて最後になんじゃそりゃーとひっくり返してきます。

終わってみればたしかに愛の話です、が、その展開は叙述トリックのミステリーのようでもあります。衣装を初めとしていろいろネタがありすぎて、日本の小劇場だから許される叙述トリックと言えなくもありません。

再演らしいですが、だとしてもこのややこしい芝居をきっちり仕上げた役者には(脚本演出の本人を含めて)拍手です。ただ、初演のメンバーがなかなか気になるので、そちらでも観られればよかったなというところだけが心残りです。

2024年4月18日 (木)

梅田芸術劇場企画制作主催「VIOLET」東京芸術劇場プレイハウス(若干ネタバレあり)

<2024年4月17日(水)昼>

1960年代、まだおおっぴらに人種差別されていたころのアメリカ。その田舎で暮らしていたヴァイオレットは白人だが、子供のころの事故が元で顔にひどい傷が残っており、町では避けられるか憐れまれるかされるばかり。それでも昔テレビで見た、あらゆる傷を治す奇跡を起こす伝道師に会うことを励みに自宅の農園で働く。とうとう旅に十分な金が貯まったヴァイオレットは、長距離バスに乗って旅に出る。

ミュージカルですが、ロードムービーと呼ばれるような分野のものでしょうか。オチは途中で見えるとして、それよりはヴァイオレットの変化を追う芝居です。コロナでほとんど潰れたのを再演しようとしただけのことはある出来で、なかなか魅せて、聞かせてくれました。

ヴァイオレット役に顔の傷を付けたりはせず、黒人役だからといって役者が黒塗りにしたりはせず、そのあたりは脚本が本来持っていた、外見からくる差別の話が分かりにくくなっています。海外の芝居を上演するときの難点の一つです。ただその分だけヴァイオレットの成長というか、コンプレックスの克服の過程を追うところに重心が寄りました。それがむしろ、差別はいろいろあったにせよ黒人差別が身近でない日本には合っていたと思います。思春期から醜い傷を付けられて嗤われることがどのくらい女性にとって呪いとなるか、そこから次に進むためにどのくらいのエネルギーが必要となるか。だから終盤のあの対立は奇跡が起こったのだと納得させてくれる出来でした。

今回はダブルキャストのヴァイオレットが屋比久知奈の回でしたけど、頑ななところから入って終盤の対立で爆発させるところまで、芝居の組立てもよし、歌ってもよし、主役として満足できました。そして周りの役者も演技と歌と両方出来る人が揃っていて、怪しさを出してくれた伝道師役の原田優一、歌唱力に圧倒された谷口ゆうなとsara、それに台詞の第一声を任されてこちらも演技よし歌よしのヤングヴァイオレットの生田志守葉を挙げておきます。トリプルキャストの一人ですけど、調べたらあれで9歳ですよ。いまどきの子役って本当にレベルが高い。

ただ、歌はソロだといいのですが、複数人が歌うところはどうしても歌詞が混ざって聞き取りづらくなるところがあるのは惜しかったです。発声の問題なのか音響の問題なのかわかりませんが。演奏は力強くて満足なのですが。

あとは舞台美術で、場面転換に慣れているなあという椅子で場面を変えていく演出。それに加えて吊りものや映像や照明の使い方もいいのですけど、それより輪っかです。初めは床に置かれていた大きな輪が上がって、だけどそのあとさして使われないと思ったら照明が仕込まれていて、ああそうなんだ、だけどそれだけのためにもったいないな、と考えながら観ていたのですが、最後に舞台中央にヴァイオレットが立ったところに輪が降りてきて、ああ、これって天使の輪っかだ、ずっと見守られていて奇跡が起きたんだ、オープニングでびちょびちょだったヴァイオレットがきれいになったんだ、と思えました。演出案か美術案かわかりませんけれど、いい案です。

全体に、見た目も演出もシャープですよね。そのころのアメリカの田舎が舞台の芝居を日本で上演するともっと土臭い感じになりそうで、それはそれで正しいと思いますが、藤田俊太郎は美術や照明や衣装が土臭くなるのを避ける印象があります。その点は泥臭さが身上だった師匠の蜷川幸雄とは反対ですが、かといってただすっきりしているだけではありません。

これで藤田俊太郎演出はたぶん「天保十二年のシェイクスピア」「ラビット・ホール」に続いて三本目ですけど、他の演出家で言えば小川絵梨子と似ている感じがあります。なんだろうなこれと考えたのですが、カンパニーをまとめるのが得意なんですかね。役者もスタッフも全員が芝居の同じところを目指して頑張っているところが似ていました。

2024年3月31日 (日)

パラドックス定数「諜報員」東京芸術劇場シアターイースト

<3月10日(日)昼>

昭和初期の日本。ある日突然身柄を拘束された男たち。顔を塞いで連れてこられたので場所はわからないが、連行してきた男たちのことを考えると特高ではなく警察らしい。容疑を言われずに連れてこられた男たちも互いに様子を探り合うが、どうやら主義者として活動に関わっていたようだ。そして男たちを連行した男たちもどうもそこまで詳しく活動のことを把握していないらしい。ゾルゲとその協力者が逮捕されたことが引金となって慌てて動いたのだが……。

パラドックス定数の新作はおなじみの近代事件を扱ったもので、今回はゾルゲ事件の裏で協力していた男たちを巡る話。ただ、今回はいまいちでした。

過去の近代事件ものでは、登場人物の会話を通じて事件の真相を描く、そして登場人物の想いなり思惑なりも明らかになっていく、という作風でした。これがどの程度史実の事実なのかは関係ありません。ただ、その中で登場人物が自分の立場で全力を尽くして、その全力を会話に込めて、その会話を通して少しずつ真相が明らかになっていき、いかにもこういう事件だったのではないかと観客に思いこませていました。そのヒリヒリした会話劇が真骨頂です。

今回はそこを変えてきました。描かれるのはゾルゲ事件そのものではなく、その時代背景です。連れてこられた男たちはゾルゲの協力者の協力者、くらいのところで手伝ったことがあり、それと知ってなぜ協力したのかが演じられます。またその中に隠れて混ざって内偵していた警察の人間がいますが、そちらは主義者を捕まえる使命を胸に働いたものの一抹の共感を覚えます。

まず、あくまでも事件に近い関係者の立場から描いていた過去作と比べて、今回はゾルゲとその協力者を手伝うときに会話していた場面が回想場面として描かれます。それ自体は演劇の手法ですし、二役を演じた役者も上手にこなしていました。ただ、ある意味脚本が楽をしていました。ほぼ独立した場面として作ったため、そこに至る会話を組立てるでもなく、その場面の会話が後で生きてくるでもない。多少つながるところはあっても、それは芝居の展開にさほど影響を及ぼさない。少なくとも及ぼしたとは思えなかった。極めつけはラストで、どうしてそんなにべらべらしゃべっちゃうかな、と残念でした。

それと、時代背景を描くのにマイナーな立場の人間の想いを使うというのはつらかった。雑に言えば、令和のいまの時代は苦しい、もっと自由であるべきだ、と言いたいのかなと推察しました。それを戦前の共産主義者で直接描くとさすがに賛同しかねるけど、協力者の協力者くらいの人間ならいまでも共感できるところがあるのではないかというのは脚本家のひらめきです。ただ、それで描くには場面が牢獄というのはしんどすぎた。普通の場面がたくさんあって、そこで登場人物がいろいろな生活の場面をさらしていればこそ、その登場人物に、ひいては登場人物の想いに心が乗っていきます。いままでのパラドックス定数は大きな事件を中心にでんと据え、そこに事件の関係者を登場人物とすることで普通の場面を描く必要を飛ばしていました。が、登場人物の選定でそれを脇に避けざるをえなかったために、芝居に必要な場面がすっぽり抜けた形になりました。

これが初見の劇団なら印象は変わったかもしれませんが、パラドックス定数にはもっと上を望みたいです。長くやっているからひょっとしたら違う作風を模索しているのかもしれませんが、登場人物に想いを直接語らせるだけではつまらない。たどり着いた事件の真相を以て登場人物を翻弄することで想いの重さを語らしめていた過去作と違う作風を目指すなら、そこまでたどり着いてほしい。野木萌葱みたいな脚本を書ける人がいないだけに観客として期待しています。

2024年1月27日 (土)

ホリプロ/フジテレビ主催「オデッサ」東京芸術劇場プレイハウス

<2024年1月26日(金)夜>

1999年のアメリカはテキサス州の町オデッサで、町の老人が殺される事件が起きた。重要参考人としてバックパッカーの日本人を事情聴取したいが英語がさっぱりわからないという。他の事件の捜査で人手の足りない警察は、遺失物係の警部一人に事情聴取を任せきりにした上に、署の部屋も足りないからと貸さず、警部は近所の酒場を借りて通訳を手配して事情聴取の準備を行なうはめになる。通訳としてやってきた町に数少ない英語のわかる日本人だが、バックパッカーの男性ともどもお互い鹿児島県出身ということで盛上がってしまう。事情聴取が始まったら自分がやったといきなり自白するが、同じ地元で親近感を感じた通訳は英語では無実を主張していると話を曲げて、その間に男性に翻意を促す。

三谷幸喜の新作。いやいやそうはならんだろ、というところから話を転がしていくのはノリで言えば覚えている話だと「ショウ・マスト・ゴー・オン」に近い。ただ、よくできているのだけどもっと面白くできたよねという仕上がり。

やや真面目な要素も入ってくるけど根っこがとにかく無茶な話なので、それをもっともらしく見せるためには役者の力技が必要。しかも3人芝居ということで無茶をやり続けないといけないのだけど、だいたいの無茶の始まりになる柿澤勇人も、英語も日本語もスムーズに切替えての役作りが熱演はさすがの宮澤エマも、真面目に不真面目するには真面目すぎた。声芸一発で持っていった迫田孝也よりもさらに引出が求められて、しかも字幕と合せるための制約が多いだろうとはいえ、まだまだこんなもんで仕上がったつもりになってもらっては困る。これは誰だろうなと観終わって考えたけど、柿澤勇人に求められていたのは大泉洋かなと思った。無茶言うなと言われても困るけど。

ただひとつだけ言えば、脚本もひとつ矛盾があった。早く見ておけばってのは駄目。笑いの駄目押しのつもりで入れたと思うけど、あれは削らないと他の話と齟齬が出る。三谷幸喜らしくない見落しだった。

日本語と英語のちゃんぽんとなる舞台を、その脚本も英語で2人だけで話す場面では日本語に戻るところを舞台を動かして観客に教える工夫が親切設計。だけど一番の親切は字幕。舞台背面を目いっぱい使ってあのくらい自由に動かす字幕だとほとんど演技の一部。お笑いバラエティーの字幕をさらに先に進めていた。最後の役者紹介、あれはミステリードラマの役者紹介とフォントを合せていたのかな。なんかこちらも気づいていない仕込みが字幕にたくさんありそうです。

ネタバレにならないように感想を書くのは難しい芝居ですけど、これはツアーも含めた公演終盤に観たかった芝居です。

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