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2024年12月28日 (土)

座・高円寺企画製作「トロイメライ」座・高円寺1

<2024年12月21日(土)昼>

ピアニストとして名声を博したクララ。ピアノの師である父の弟子だったロベルト・シューマンとの恋と結婚生活の前半生、その終盤に出会ったブラームスに頼り頼られながら過ごした後半生を、手紙の往復とピアノ演奏で綴る。

劇場恒例になっていた「ピアノと物語」の、シライケイタによる新作。どうやらやり取りした手紙が本当にたくさん残っていたらしいが、どこまで本物かは不明。役者二人にピアニストだけど、クララは月影瞳が通して、前半はロベルト、後半はブラームスを亀田佳明が二役。結婚するまでも結婚してからも、そして亡くなってからもロベルトが大好きすぎるクララだけど、晩年になって順番は音楽が第一と自覚するのが、音楽家だなあという。

手紙の往復を読む形式だけど、役者二人は上手である以上に、役の内に込められた感情の大きさが素晴らしくて、この情熱が昔の人であり音楽家だよなという役へ感想と合せて、この内の感情の大きさを持てることが素晴らしい役者の条件だよなと気付かされる。あれならロミオとジュリエットのバルコニーの場面もできるのではないかというくらいの見事なテンションとコントロールだった。ピアノ演奏は秋山紗穂で、ピアノをねじ伏せる力強い演奏が素人のこちらにも良さがわかる好演奏。ピアノ演奏会を聴きに来たつもりでも楽しめたのではないかと感じたくらい。新作初演にして役者もピアニストも人を得られた上演と仕上がりだった。

ただ脚本については、脚本演出の本人が当日パンフに書いていたけど、当初ブラームスとのやり取りで書くつもりが、ロベルト・シューマンを出さないとクララが描けないと方針転換を余儀なくされたらしい。観た内容も含めて考えると、当初は「ピアノと物語」シリーズとして、女性にして音楽大学の初女性教授になったり、子供が戦場に兵士として出征したりしたクララに託して、もう少し啓蒙的な内容を目指していたのではないかと想像する。これが斎藤憐なら、もっとそういう要素を意図して多く取出したのではないか。その点はシライケイタがクララに負けたともいえるし、そんな小賢しい思惑など蹴散らすくらいクララのロベルト・シューマンへの愛が深かったとも言える。そして出世のきっかけを作った恩人の妻へ生涯尽くしたブラームスの、今時では流行らないかもしれないけど、あれも愛と尊敬の1つの形だった。

2024年11月17日 (日)

松竹製作「明治座 十一月花形歌舞伎 夜の部」明治座

<2024年11月2日(土)夜>

敵味方に分かれた夫婦、戦の最中に病床の母を見舞いに訪れたものの母は面会を拒む、そして追手がやって来るが「鎌倉三代記」。刀を紛失してお家取潰しになった息子、その刀を手に入れて折紙を盗み取った番頭、あとあれこれ「お染の七役」。

「鎌倉三代記」は義太夫狂言で苦手なのですが、観たことがあって筋は知っていたので何とか。役者が全員凛々しいのだから義太夫でなしに観たいところ。勘九郎がどんと化ける高綱が見どころの一つ。「お染の七役」は七之助が七役を演じるのがもちろん見どころで、素早く化けてきっちり役も使い分けるのが見事。他の役者も合せてこれがこの日一番の出し物。何となく刀を盗んだ盗まれてお家が取潰しだというのは昔の定番の筋なんでしょうか。

この日1日観た感想では、役者が化けるところを見せる演目を揃えてみたのかなという感じ。勘九郎七之助の腕前を見せつけられました。

松竹製作「明治座 十一月花形歌舞伎 昼の部」明治座

<2024年11月2日(土)昼>

菅丞相を陥れた藤原時平、菅丞相に使える梅王丸と桜丸、時平に使える松王丸、分かれた兄弟がぶつかり合う「車引」。力士を目指したが見所なしと故郷に返されるものの腹が減って取手の宿でふらつく駒形茂兵衛、ごろつきを追払ったところを酌婦のお蔦に銭と簪を恵んでもらってもう一度力士になろうと江戸に戻って十年後、渡世人となって取手の宿にやってきた茂兵衛が出会ったのは「一本刀土俵入」。藤の精が満開の藤の下で踊る「藤娘」。

初日。なのにまさかの大遅刻をやらかして「車引」を丸ごと見逃す大失態。なのでそちらはコメントなし。「一本刀土俵入」はひもじい力士から礼儀正しいと思わせつつ凄みの出せる渡世人を魅せる勘九郎の変わり身。船大工の場面ことによし。ただまあ、今となっては時代にそぐわない1本で、今後これがまた見直される時代までは細々と演じられるくらいでいいのでは。「藤娘」はきれいな舞台できれいな衣装を次々と着替えて踊る中村米吉を眺めて安心

2024年10月20日 (日)

狂言ござる乃座「70th Anniversary」国立能楽堂

<2024年10月19日(土)昼>

猟師の霊が妻子の前で生前の猟の様子やその報いで地獄で鳥に追われる様子を描く「善知鳥」。遊山に出かけた主人と太郎冠者だが、川で舟の渡しを呼ぶときに太郎冠者はふなと呼ぶので、それはふねだと主人が教えたらそんなことはないと太郎冠者が言い返す「舟ふな」。親族すべて罠にかかって失った狐が僧に化けて猟師に狐を釣る罠猟を止めるようにと言い含め、それで罠を捨てさせて喜んでいたが「釣狐」。

動きの妙を観ていた「善知鳥」と「釣狐」。言葉遣いが古いところに節回しが重なって何を話しているのかわからない、大勢でユニゾンをやられるとなおわからない、やっぱり字幕がほしいと考えてしまった。古典だから筋を知って観るものだと頭ではわかるけど。

その点「舟ふな」は、ひらたい話を明晰に話すのでわかりやすい。万作はさすがだけど、太郎冠者の三藤なつ葉はその孫娘でまだ小学生らしいのに、あれだけしっかり姿勢を決めてはっきり話せるのはさすが。そのやや高い声ではっきりと話すのを聞いて、元の台詞の言葉遣いの古さとイントネーションの関西風なことを改めて認識した。

あれくらいはっきり話してもらって観客にはちょうどいいけど、やはり能狂言は重々しさも求められて、そのあたりの兼合いが観客としては悩ましい。

2024年9月29日 (日)

劇団青年座「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」吉祥寺シアター

<2024年9月28日(土)昼>

街から離れた砂漠のどこかにある移動式簡易宿泊所。やって来たのは病人を治して稼ごうとする医者と看護婦、それに亡くなる人に祈りを捧げて稼ごうとする神父。買出しに出かけていた宿の人も戻ってきて険悪な雰囲気になりかけたところに、遍歴する二組の騎士と従者がやってくる。どうにも話がまとまらない中、水を飲んだ看護婦の体調がおかしくなり・・・。

初日。ナンセンスな出だしからは思いつかないくらい殺伐とした話に進むのも不条理と言うべきか。遍歴する二人の騎士である山路和弘と山本龍二の掛合いが始まるあたりからが本調子になってくる演出。この年齢までやってきた二人だからこその凄みととぼけた感じを両立させるやり取りが見どころ。山路和弘が適当にアドリブをかまして周りの役者を笑わせていたけど、それより初日で比べるなら山本龍二を推したい。周りの役者もいい感じではあったけど、脚本にいろいろあった小ネタは流したのか上滑りして流されたか、できればそこでも笑いを取りたい。音楽に生演奏を入れることで雰囲気のライブ感がより高まる仕組みもいい感じ。年齢高い人の方が楽しめるかもしれない。初の別役実作品としてなかなかいい芝居を観られたので満足。

2024年9月17日 (火)

神奈川芸術劇場主催企画制作「リア王の悲劇」神奈川芸術劇場ホール内特設会場

<2024年9月16日(月)昼>

老いて国を三人の娘に分け与えようとする王。長女と次女の追従に喜ぶが、言葉を飾らず感謝を述べる三女に激怒して勘当してしまう。三女に与えるつもりだった領地も長女と次女に与えて自分は月替わりで世話になるつもりだったが、父親の癇癪ぶりを目の当たりにした長女と次女は一計を案じる。その裏で、王の家来である伯爵の私生児である息子が、後継ぎの座を狙って姉を追落としにかかる。

初日。見慣れたせいか自分が歳をとったのか、それとも翻訳がこなれているのか、特に翻案はしていないはずなのに日本語のシェイクスピアもここまで来たかというくらい明瞭な上演。リア王の木場勝己はここからさらに先を期待できる出来。ケント伯爵の石母田史朗、グロスター伯爵の伊原剛志、次女の森尾舞、コーンウォール侯爵の新川將人が快調。兄ならぬ姉になったエドガーの土井ケイトは場面によって良し悪しの幅が大きいからがんばれ、二役の原田真絢は道化はいいから三女をがんばれ、長女の水夏希はもっとがんばれ、エドマンドの章平とオズワルドの塚本幸男とオールバニ侯爵の二反田雅澄はいいけどもっといける、が初日寸評。スタッフはどれもいいけど和風の歌を歌わせた宮川彬良に一票。なぜか似合っていたし、あれを道化に歌わせることで芝居の調子が決まった感がある。雨だけ客席も巻込むつもりでもっと大袈裟にやってもよかった。

今回は配役でも訴える演出。三女と道化を同じ役者が二役兼ねることで追放した三女に道連れで助けられるというメタなところが出たし、グロスター伯爵も疑って追手を掛けた娘に助けられるというリア王と同じ境遇が造れた。あとはコロスにあたる兵士にきっちり演技をさせるところもよかった。あれをやればこそ、伝令を伝えるにしても止めに入るにしても、場面が生きる。行届いた演出。

客席削っているから距離は近くで観られるけど、舞台の間口は削らずに客席が横に長いから、前の端席だと首が痛くなる。当日券を狙うなら後ろでも中央寄りをお勧め。あれは客席の組み方をもう少し工夫してほしかった。

なお、芝居を観終わってこの感想を書こうとしたらちょうど社長が娘に刺されたという事件が目に入ってきました。何と普遍的な芝居だと感に入っているところです。

2024年7月 6日 (土)

坂本企画「天の光とすべての私」三鷹SCOOL

<2024年7月5日(金)夕>

まだ見ぬ惑星の開発隊に志願した女性。片道何百年と掛かる片道切符だが、選抜試験で数々の困難を乗越えて合格を手にする。複数の惑星を開発するために合格者のクローンを作成して送り込む計画だが、クローンのオリジナルである合格者は地球に残るようになっていた。夢を断たれた女性は地球で結婚し、娘をもうけるが、夫が病気で亡くなってしまう。そこで再び女性に声がかかる。

ダブルキャストで鳩川七海が主演、笠松遥未がゲストの回。公式サイトの粗筋をもう少し詳しく書くとこうなりますが、展開だけなら7割くらい書いています。SF的なアイディアで人間の葛藤を描いてコンパクトに65分くらいに収めた一人芝居でした。脚本は割と好きでしたし熱演でしたが、演出と役者の力不足で残念な仕上がりでした。

一人芝居といえどもたいていは複数の役が登場して、それはこの芝居も同様です。それを演じるのに役者が切替えることも、一人の役の視点から演じることも、あるいはその折衷もあります。ただ、どのような演じ方にしても一人全役を演じないといけないのは同じです。落語と同じですね。今回は一人の役の視点から演じる脚本でした。そうなると、主人公以外の役を「演じる」難易度は格段に高くなります。舞台には出てこない相手役の背格好、台詞、動き、そういったものを主人公の目線、声の距離感、間合い、反応で示さないといけません。なんなら主人公の役作りよりも優先度が高い。これがまったく駄目でした。

試験の最中に錯乱する仲間を相手にする序盤がわかりやすい例ですけど、銃を構えた仲間に物陰から話し始めるのはいいのですが、身を乗り出すのが早すぎる、主人公が次の台詞を言うのが早すぎる、声の距離感が近すぎるところからずっと同じです。これを演出家が指示するか役者が埋めるかは現場次第でしょうけど、せっかくダブルキャストなんだからもう一人に自分の勉強も兼ねて立たせて稽古すればばよかったのになと思います。それが難しければ人形でもポスターでも置いて稽古すればいい、何なら演出家が相手役を務めてもいい。そこまで稽古でやっていてあの出来なら、もう言うことはありません。

脚本についても割と好きと書きましたが、SFアイディアは設定であって描きたい本筋ではないのはわかります。だからこそ説明をすっきりさせてほしかった。自分で書いた冒頭の粗筋、合っているのかいまいち自信がありません。主人公のオリジナルだけが残されたのか、合格者全員のオリジナル本人が残されたのか。一応後者と判断しましたが、間違っていたらすいません。

スタッフワークで言うと、照明はやりたいことに対して会場が狭すぎたというか、アクティングエリアと客席がはっきり分かれた会場で観たかったです。会場全体が明るくなるような照明があって、ちょっと雰囲気が戻ってしまうことが何度かありました。

これが初演なら再演頑張ってください、なのですが、代表作と書かれているからおそらく再演以上ですよね。公演履歴のページが上手く開けないので確かめられませんけど。となると、うーん、とならざるを得ません。

2024年6月30日 (日)

ほろびて「音埜淳の凄まじくボンヤリした人生」STスポット(ネタバレあり)

<2024年6月29日(土)昼>

いい年齢の音埜淳はアニメ関係専門店で働いている息子と2人暮らし。外出から戻ってきて息子に宇宙人と会ったと打明け、熱心にパソコンに記録を残す。そこに音埜淳の弟がやってくる。妻と離婚することになったからここに住ませてほしいという。こうして三人暮らしが始まる。

名作にして傑作でした。当日チラシには観終わってから参考文献を読んでくださいと書かれていましたが、そこまで書かないと粗筋すらこれで終わってしまいますし、もう千秋楽なのでネタバレで書きます。

やや物忘れのひどくなっていた音埜淳の認知症が進む中での、本人の認知と振回される家族とを描いた作品です。宇宙人の話から始めて芝居の路線が不明確なところから、弟が来ると約束したのも、自分が食べたパンも、財布を持っていくのも忘れた話が重なる1場、やがて妻が亡くなっているのに帰ってこないと言って外出して靴を無くして帰ってくるあたりから観客に様子が共有される序盤の流れが本当に絶妙です。そこからどんどん不穏になり、家族にも事態がわかってくる中で、たまに笑いが入るところも本当に上手です。

音埜淳が話す宇宙人がどのように会話するかについての考察、人間は少しずつ順番に話すことしかできないのに、宇宙人は時間の概念がなくて過去も未来も丸ごと話すという考察が、そのまま周りの人から見た認知症の特徴になっているところが構成の要です。これにあるときは周りが振り回され、あるときは誤解されつついい方向に収まり、そしてラストの台詞のえええええ(さすがにネタバレ自粛)に繋がる見事さ。これぞ芝居でもあり、認知症を理解する方便のひとつなのかなと期せずして勉強になりました。

そして個人的にはアニメネタの最後、エヴァンゲリオンで動く使徒を機体が止めるけれども腕だけ動く話がぐっときました。アニメを観ていなくてもわかりますけど、よりによって転勤で数少ない身内が遠くに行ってしまう場面でそんなネタにするかという気持ちと、そこまでやってこそ芝居だという気持ちと半々です。今なら相談先も増えたでしょうからもう少し楽かもしれませんが。

で、これを演じた4人の役者が本当に見事です。音埜淳を演じて初演から唯一続投の吉増裕士の、真面目な声と表情を殺した演技とが、普段の場面でも独白場面でも回想場面でもぜんぶしっくりきて、ナイロン100℃の人なのに新劇の役者そこのけでした。その息子役の亀島一徳は受ける側の役ですが、初めは父親に乱暴な口をきいていたのが後半に行くにつれて周りのみんなに飲み込む言葉が増えていく様子が丁寧です。弟役の上村聡はなんとも胡散臭い雰囲気を出して上等で、胡散臭いところから終わりまで。そして息子からは叔父のはずなのに兄ちゃんと呼ばれる亡くなった妻の弟役の八木光太郎も、見た目を目いっぱい生かした優しい役に振って、親しいながらも疎遠で息子が相談できない叔父、という立場を好演です。

それと忘れてはいけないのが会場選びで、狭い会場を変形で使って、観客の出入り口、ふだんなら上演の上手下手で使われるであろう出入口、スタッフ控室? らしき出入口、4か所を家の扉に割当てて出捌けに使うことで、家の中で観ているような、至近距離よりさらに近い感覚を作り出していました。

「9年前に再始動したほろびての、最初の作品を作り直します。ずっとやりたかったけど、なかなか実現きなかった」と書かれているのは伊達ではなくて、再演に値する芝居でしたし、いまでも傑作ですが大勢の人目に晒して叩かれるともっといい芝居に成長する予感があります。これは当日パンフに書かれていましたが、狭い場所でも全国あちこちで上演できるように作ったそうで、そのためのショーケースも兼ねて会場選びをしたのでしょう。個人的には紀伊国屋ホールでの上演に耐えうる仕上がりだと思いましたが、ここまで狭い会場で観る臨場感も貴重です。照明は多少工夫していましたけどおそらく蛍光灯でも問題なくて、音響は吉増裕士の劇中パソコン操作だけですよね。これ、全都道府県制覇のツアーを目指すべきだし、全国あちこち、呼ぶべきです。劇場やホールでなくとも、医療や介護の関係者が呼んでもいい。ちょっと広い会議室なら上演できます。

タイトルで気になって、再演と読んで気になって、どこかで「ほろびて」の名前を観たなと思って、今期の数少ない発掘芝居に行くならこれだと思い極めて観に行ったのですが、大正解でした。芝居選びの勘が当たった時の喜びは観客の特権です。

2024年6月15日 (土)

劇団四季「オペラ座の怪人」神奈川芸術劇場ホール

<2024年6月8日(土)昼>

オペラ座の備品がオークションに出されている。それを競り落とす子爵夫人が昔を思い出す。それはオペラ座のオーナーが交代して、新作の稽古中に挨拶にやって来たときのことだった。座席と高額の報酬を要求する手紙と、それが叶えられない場合にとオペラ座で頻発する事故に立腹して、プリマドンナが降板してしまう。当時端役の1人だったクリスティーヌは急遽抜擢されて大成功を収め、子供のころに出会っていた子爵と再会する。だがその成功の裏には、「先生」として毎夜クリスティーヌの歌を訓練するオペラ座の怪人の存在があった。

有名な作品です。粗筋は知っているしミュージカルだしで、安い席で臨みました。それで見切れになるのは覚悟していたから納得しました。

ただ、「オペラ座」の怪人なんですよね。なので登場人物がことごとくビブラートたっぷりのオペラ歌唱でした。その上、席が悪かったのか安い席まで音響の手が回らなかったのか外部劇場では調整に限界があるのか、オーケストラの音が目一杯張り出して歌声に重なってしまいました。そうすると明晰な発声を旨とする劇団四季でも何を歌っているのか歌詞がわかりませんでした。

つまり見切れと不明な歌詞で、何のために観に行ったのかわかりませんでした。慣れた人なら歌詞を脳内補完しながらソプラノとテノールを楽しめたのでしょうが、ミュージカル素人の私には無理でした。慣れない分野ほどいい席を狙うべきだったと勉強になりました。

2024年2月27日 (火)

神奈川芸術劇場プロデュース「スプーンフェイス・スタインバーグ(安藤玉恵版)」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2024年2月24日(昼)>

自閉症として生まれ、小児癌で7歳にして死に直面している少女であるスプーンフェイスが語る自分の一生と死に臨んでの心構え。

出ずっぱりしゃべりっぱなしの一人芝居でこの日は安藤玉恵。脚本は片桐はいり版と同じで、あまり子供らしくも病人らしくもなくはっきり客席に語り掛ける演出。内面の大人びたところを外に出した役作りというか。人形に話す相手を割当てて進めるところが片桐はいり版にはない工夫。

多少幕の上げ下げを調整するとかマイクを使うとかはあるけどスタッフワークはほぼ同じ。全体にスタッフワークのはまり具合は安藤玉恵版のほうがよくて、こちらを基準に仕立てて片桐はいりもそれに合せたっぽく見えた。

それで仕上がりはというと、これは脚本負け。少女も自閉症もわざわざ見せん、自分流で丸ごと料理してやる、という意気込みはあったのかもしれないけど、重たい話を引受けきれていない。早めの台詞回しと場面ごとの間もあまり取らないのとで話がどんどん流れてしまった。安藤玉恵をもってしてもこれか、と脚本の手強さを再認識。あと15分余分に使ってもう少しゆっくりやってくれと演出で最短上演時間を縛ってもよかったのではないか。

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