2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

2019年9月15日 (日)

犬飼勝哉「ノーマル」三鷹市芸術文化センター星のホール

<2019年9月14日(土)昼>

美大に入ったばかりの佐藤ナオ。同姓同名のアイドルは世間をにぎわしている。一緒に展覧会を計画している同級生は親戚に芸術家がいて本人も取材を受けている。自分は普通で面白くないと年の近い叔母にこぼすのが口癖。やがて叔母の紹介で喫茶店でアルバイトを始めるが、やってきた客と展覧会の話をしたら挙動がおかしい。普通ではない。

主人公も自分で言うほど「普通」じゃなさそう、というさわりから始めて、芸能人や茶化されている評論家(モデルいるそうです)のような有名人の話から、近所の景色や他人のスマホを覗くような身近なところまで、人によって意見のわかれそうな「普通」を大小集めた世界。そこにどう見ても普通でない設定を混ぜられるのは小劇場の醍醐味。そうやって、何が普通で何が普通でないか、その境はなにか、じりじり積重ねていった先に急な転結がやってきて、普通であること普通でないことと価値や幸せとの関係はどうなのかを問う見事な展開。

後で振返って何がすごいって、5人の役者で6役、しかもそのうちの1役は前述のネタ要素の多い評論家なので実質5人5役だけのものすごい狭い世界で、2時間を切っている芝居なのに、日常の場所や時間の広さを想像させるように描けていること。実際にあった出来事を含めて、選んでいるネタや設定が、量や提供する順番も含めてものすごく厳選されている証拠。狭い世界を濃く深く描いた芝居はよくあるけど、広く描ける芝居は珍しい。それを具体化した5人の役者もはまっている。改めて公式サイトを見たら青年団に縁のある人が多いけど、演出家の役者を見る目の確かさ。ただ演出部に脚本家を含めて4人クレジットされているけど、いわゆる演出助手か、共同演出か、場面ごとに演出を分担したのか、ドラマターグで入ったのか、演技指導か、ネタ出しか、役割がわからない。

スタッフでは、まあまあ広い劇場を、吊ったテーブルやベンチや小道具を入替えることでアクティングエリアを狭く取って場面転換していく美術が、妙に劇場の雰囲気に似合っていたのもメモしておく。他でもありそうでなかなか見かけない仕上がりが光る、小劇場らしからぬスケールを秘めた、現代会話劇の潮流につながった、モダンな、「ノーマル」の題名にふさわしい1本だった。

ただ見終わって思ったのは、これを発掘してきたMITAKA "Next" Selectionのセンス。これまでそんなに数は観ていないけど、その中ではかなり異色の1本。もちろんここに見事な新作を提供した脚本演出家は第一に褒められるべきだけど、仮に自分が関係者だとして、今回の芝居1本だけを観てオファーできるかというとできない。大胆な展開もあるけど、どちらかといえば「神は細部に宿り給う」類の芝居で、これと同じクオリティが次回も担保されるとは信じきれない。ずっと以前からこの脚本演出家の芝居を何本も観ていたならその守備範囲の広い発掘活動に感服するし、1年前の前作1本だけを観てオファーしたならその度胸に感服する。気になったからこちらを参考に検索したらぴあに連載している企画運営担当者のコメントが見つかった。いつ消えるかわからないので引用しておく。

この企画を始める時から、その段階での集客数や、劇団としての継続年数などは一切気にせず、脚本や演出力に優れ、独自のオリジナリティを持っていて今後が楽しみだなと思える劇団を招致することだけを考えて実施してきました。あと「今年のテーマは」というようなことも全く考えてないので(同一年度の)招聘劇団に共通項を持たそうと思ったことも無いですし、会話劇主体の劇団からコンテンポラリーダンスまで、ジャンルにも全く拘っていません。そして、招聘する以上、どの劇団にも同じ敬意を持ってと思っているので、「今年の3劇団の中から、一等賞には100万円」というようなコンテスト形式にはしたくなかったですし、レセプションやパーティなども実施せず、とにかく作品で勝負してもらって、良い舞台を作り上げてもらえたらと思ってきました。先にも書きましたが、その時点での集客数を全く気にしていないので、招聘する際に「今、何人くらいの集客数ですか?」という質問に「150人くらいです」とお答えいただいた劇団もありました。けれども近年は、全ての劇団に「2週間公演しましょう」と言って交渉を進めます。三鷹市芸術文化センター星のホールは、割と簡単に客席が真っ平らになりますので、空間の使い方の自由度が高いという利点を生かして、「1ステージ30人でも寂しくないし、もしお客さんが増えて100人来てくださっても対応できる」ような舞台と客席作りになればと、相談したりしています。そして、舞台が評判となって、後半にお客様が増えるということを強く願っての「2週間公演しましょう」となります。木曜日や金曜日が初日で、日曜日が千穐楽だったりすると「面白いらしいね」と評判になっている頃には舞台が終わっているということが多くて、もったいないなと。だから、2週間公演すれば、評判になって、後半お客様がたくさん来てくださるという可能性があるかなと、それを願いつつ、とにかく良い舞台を作ってもらえたらとご相談しています。今から10年前の2009年、丁度“Next”Selection 10回目の年に公演していただいた、劇団ままごと『わが星』がまさにそんな感じで、初日二日目までは空席があったのに、千穐楽は当日券が長蛇の列となりまして、後に岸田國士戯曲賞を受賞したほか、再演・再々演においても、お客様に大きなご支持をいただける作品となりました。その「ままごと」のほかにも、その後大きく羽ばたかれた劇団が数多くあり、本当に微力ながら、演劇界の裾野の広がりに少しでも貢献できたなら嬉しくと思いますし、これからも、一歩一歩、丁寧に、実施できたらなと思っています。

公立劇場として民間劇場よりは予算や制作に自由度があるとしても、それを確保して活用するには相応の能力は必要とされるもの。それを維持して20年は並みの業績ではない。思い返せば客入れにも立っていた人で、以前「接待」とか書いてしまった人だった。申し訳ないと今さら謝っておく。

<2019年9月17日(火)追記>

全面修正。

2019年7月28日 (日)

五反田団「偉大なる生活の冒険」アトリエヘリコプター

<2019年7月28日(土)夜>

40歳の男は写真の仕事をしていたこともあったが今は無職で、元彼女の家にやっかいになっている。元彼女はスーパーのバイトをしながら、職場の男性と付合っているらしい。元彼女がバイトの間にゲームをやったり隣人とおしゃべりをしたりして過ごしているが、最近は昔なくなった妹の夢を見るようになった。

11年前の芝居を今のほうが切実と再演、というだけの前知識で観たら本当に切実な1本。それを、これしかないという必殺の間合いで笑いに変える役者陣の技量はさすが。その粛然とするしかない場面を笑いに変えた中に「俺もそれを見たことがある、そっち行っちゃ駄目だ」って値千金の台詞が混ぜているのは見事の一言。ゲームの扱いが巧み。10年くらい前の人を食ったような顔より今のほうが表情は若く見える前田司郎と、この芸達者な5人の中でも一段上に見える内田慈のコンビはさすが。

観終わったあとで客同士が「笑えない場面でみんな間違って笑っていましたよね」って話しているのを耳にしたけど、この話に笑いがないと悲惨の一言で終わってしまうので、笑うのは正しい。笑えないけど思わず笑ってしまうのも正しい。この範囲の中でできる限りの結末がそれか、という話なので観る前には体調をよく整えて笑えるようにのぞんでほしい。

すごい久しぶりにアトリエヘリコプターで観たけど、工場街だったはずなのに周りの建物が軒並み高層ビルやマンションになっていて、アトリエヘリコプターだけがぽつんと残っているのに時代の流れを感じた。あれだけマンションがあって休日なのに人がほとんど歩いていない、都心なのに新興住宅地で不思議な雰囲気だった。

2019年6月24日 (月)

神奈川芸術劇場プロデュース「ゴドーを待ちながら(昭和・平成ver.)」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2019年6月23日(日)昼>

街の外れにある、1本だけ木のある人通りの少ない広場。友人同士であるウラジミールとエストラゴンは、ゴドーを待つためにやってきたが、待っている間に主人と従者の2人が通りかかり、従者をこき使った様を見せて去っていく。そこに、ゴドーの使いという少年がゴドーは今日は来ない、明日は同じ場所で待ち合わせようという伝言を告げる。翌日に来た2人だが、昨日の2人がまた通りかかる。ゴドーは相変わらず来ない。

千秋楽で昭和平成バージョンを観劇。ネタはネタとして、初見ではどこまでアドリブなのか判別しづらい絶妙のノリで退屈を演じるメインの2人。そこにマッカーサーの格好をした主人と昭和天皇に顔を似せた従者を登場させて、日米国旗の付いたマイクを使って、ラストに君が代を流して、昭和はそういう時代だっただろうという直球の演出。

にもかかわらず、これが初見だから確かなことはいえないけど、ゴドーを待ちながらの脚本自体はきっちり上演されていた印象を受けた。退屈したり不安になったりわからなくなったり互いの仲に疑問を持ったりする脚本自身が、しっかりした強度を持っていたのがひとつ。あとメインの2人の、遊びに走りたがる小宮孝泰とそれに付き合ったりほどほどで止めようとしたりする大高洋夫との関係が役にも反映されていて、実にいい雰囲気だった。他の3人も上手だったけど、メインの2人の自由自在な感じはなかなか観られない貴重な仕上がり。

それを後押ししたのがスタッフワーク。青山円形劇場を思わせる囲み舞台を作って古い新聞を散らした美術が一押しで、会場に入った瞬間に、あ、これがこのスタジオの正しい使い方だ、と思わせるものがあった。それにつりあわせた衣装も見事。

定番なのに長年観られなかった芝居だけど、今回ようやく観られてすっきりした。欲を言えば、最初は単なるキャスト違いだろと思っていたけど、たぶん演出を変えていたはずなので、令和バージョンも観てみたかった。

2019年6月17日 (月)

serial number「機械と音楽」吉祥寺シアター

<2019年6月15日(土)昼>

ロシア革命期に少年時代を過ごし、革命後に絵の勉強を志望して国立学校に入学を認められ、やがて建築に針路を定めたたイヴァン・レオニドフ。共産主義に基づいた構成主義建築で脚光を浴びるも建築にはなかなかつながらない。やがてレーニンが亡くなりスターリンの時代に入り、構成主義建築自体が国家の主張に沿わなくなっていく中で構成主義建築のデザインを描きつづけていくが・・・。

風琴工房時代から数えておそらく再々演の演目。実務に芸術の要素を多分に含む建築と政治との関係、伝統的な日常の生活と遊離する構成主義の建築、理想と現実、などなど。実在の人物と時代を使って描かれる様々な要素は、骨太という形容がふさわしい脚本。

ただ演出が行き届いていない。役者のレベルにばらつきはあったものの、自分で書いた脚本を再々演で演出してここまで揺れるものなのか。それとも新しい演出を試みて失敗したか。女性陣の対主人公の関係はもう少し機能させてほしい。賛成していた革命で仲の良かった幼馴染を亡くしたことへの想いが未処理なのはあんまりだし、「へらず口同盟」が埋もれて見えたのはもったいないし、妻との関係が妻からの一方通行気味だったのは物足りない。脚本がよかっただけに他の演出家でも観てみたい。

良かったところでは、役者では主人公の友人の田中穂先と先輩教授の浅野雅博、イヴァンのデザインを模したらしく線で配置した球と2階のギャラリーまでつないだ美術、理解を促すのに確実に一役買った映像や字幕。

あと芝居とは関係ないけど、ユニット名は単語頭が大文字なのか小文字なのか、単語の間は空けるのかつなげるのか、どれが正しいのか不明。公式サイトやTwitterを調べても表記がばらついてどれが正解かわからないので、一番表記の多そうな小文字で空ける表記をこのエントリーでは採用した。

2019年6月 9日 (日)

劇団青年座「横濱短篇ホテル」亀戸文化センターカメリアホール

<2019年6月7日(金)夜>

横浜の老舗のホテルの部屋と喫茶店で、40年以上に渡って展開する2人の女性の物語を7本の短編で描く。

気がつくのが遅れたけど2日しか上演していないので慌てて観劇。短編一本ずつでも完結して面白いし、つなげればなお楽しい、絵に描いたような笑って泣いてでさすがマキノノゾミという娯楽作。ただし笑いにまぎれて「いつもあんたの反対を選べばたいてい上手くいったもん」という毒のある台詞も出てくる。

大勢の登場人物が出てくるので色んな役者が観られる点でも劇団向けの一本。主人公の大人を演じた椿真由美と津田真澄は初見かな、はっきり対照的な役を作ってよい感じ。那須凜は「砂塵のニケ」よりも出番は少ないけど今回のほうが絶対よい。

演出はゆったり、というほどでもないけど、ホテルの雰囲気優先という印象。同じ笑いでも、KERAとか平田オリザとか、ここで笑わせるというところを絶対外さないために最初から最後までテンポも間もコントロールする演出をしているのだなと気がつかされた。

2019年4月21日 (日)

演劇ユニットnoyR「ニーナ会議」若葉町ウォーフ

<2019年4月20日(土)夜>

 

チェーホフの「かもめ」に登場するニーナ。登場場面と登場しない場面で何を感じ、何を考え、何を決心していたか。恋人のトレープレフや作家のトリゴーリンに何を想っていたのか。

 

悩む以外に打算的なニーナや揺れるニーナも登場して、合計4人のニーナが登場。オープニングの寸劇を控えた突っ込み満載の気持ちから、変わり果てた姿を見せた後までが描かれる。どんなものかわからず観に行ったけど、堪能した。

 

4人のニーナが交わす会話とダンスパフォーマンスで描かれるニーナの心の揺れは、時代は昔でも、同じ年齢で同じ立場になったら同じように迷うよな、恋人や作家がにいろいろ想うとや、ととても身近で共感できるもの。作家のトリゴーリンと話すときに台詞ごとに4人のニーナが入替って揺れる心を描く場面の演出とそこに至る脚本の構成は見事。「魂が同じにおいがしない」といういい台詞があったけど、「かもめ」別の台詞をもじったか。とにかく全体に、「かもめ」を読みこんでそのエッセンスをニーナ、トレープレフ、トリゴーリンの3人で実現した印象。お互いをニーナと呼び合ってうるさい4人(笑)は前半からシリアスな後半まで熱演。一応ひとりだけ挙げるなら富岡英里子。あとトレープレフの仲道泰貴がたまに気になった。

 

すこし残念だったのは会場。手ごろな広さとその割に高い天井で、生演奏のピアノ伴奏も響く会場だったけど、遮音が弱くて外の音がよく入ってくる。オーディオの音が大きい車が通ったりするとまる聞こえで、またそういう車が何度も通る立地という難があった。

 

再演かつ座・高円寺の劇場創造アカデミー出身者ということでまるっきり外れにはならないだろうという見込みで観に行ったけど、個人的にはすごい楽しむと同時に勉強になった。大げさに言うとひとつの役を演じるときにはひとつの芝居が成立つくらい深く掘らないといけないし掘る余地があるということを教えてもらった。ただ、スピンアウト芝居としてはたとえば「ハムレット」からの「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」などもあるけど、スピンアウト作品の常として、原作を知らないと楽しみも半分以下という致命傷がある。自分はKERA版の記憶を頼りに観たけど案外なんとかなった。ただし今は新国立劇場で「かもめ」を上演しているので(実は新国立劇場と同日観劇を目指したけど失敗)、そこに合せた上演なら戦略的だし、偶然なら運を持っている。「かもめ」を観たばかりの人、芝居のベテランウォッチャーで「かもめ」をすでに観たことのある人にはぜひ拾ってほしい1本。

2019年3月29日 (金)

KUNIO「水の駅」森下スタジオ

<2019年3月27日(水)夜>

 

人が来ては去る道の真ん中に、一本の水道がある。流しっぱなしのその蛇口から水を飲む人達の様子。

 

舞台奥から人が来ては水を飲んで去っていくのだけど、ある人は喜びある人は興奮しある人は亡くなる。元の脚本がどのくらいはっきりした解釈を持っているのかは知らないけど、たぶん何とでも取れるように意図されたのだと思う。自分が観た印象は生々流転を表したかったのかなと考えたけど、いろいろな解釈はあり得るし、解釈を許容する芝居だと思う。

 

普通の芝居だと舞台が客の気をそらさないような工夫をしているけど、これは客の集中力を試すような芝居。なのに体調へろへろな状態で観に行ったので、つらかった。沈黙劇とはどんなものかと油断していたらマニア度高い。自分にとって声と言葉の重要度を思い知らされた。これを楽しめるようになったらまた出直す

2019年3月15日 (金)

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」三鷹SCOOL

<2019年3月9日(土)夜>

東日本大震災が起きた日の新宿駅近く。就職活動をしていた女子学生は面接が中止になった挙句に電車が止まって家まで歩いてかえる羽目になる。喫茶店で離婚届の書類を書いていた女性は埼玉に帰れずに公園で休んでいたところを、寝過ごして地震に気がつかず中野からやってきた学生に声を掛けられてカラオケボックスで休む。スマートフォンの調子が悪い会社員は仕事で六本木に来ている最中に地震に遭う。新宿の本屋で働く女性は入社2年目にして仕事に疑問を抱く。その日の話と、だいぶ経ってからの日の話。

1年前に観た前回から、脚本はおそらく同じで、一部キャスティングが代わり、その分良くも悪くも違う雰囲気に仕上がっていた。役者のレベルは今回のほうが上で、笑える場面も増えていた。ただし声も態度も強い感じの役者が増えて、小さい人間の弱いところを絶妙のバランスで描く感じはなくなっていた。観る人によるだろうけど、個人的には前回のほうが好み。こういうことがあるから演劇は難しい。

2018年11月21日 (水)

神奈川芸術劇場プロデュース「セールスマンの死」神奈川芸術劇場ホール

<2018年11月18日(日)昼>

1950年代のアメリカ。セールスマンのウィリーは、60歳を越えて成績不振から歩合制にされ、なおかつ車で数百キロ以上走る田舎の担当に回される。妻は励ましてくれるが、最近はまったく収入がなく、家や家財のローンがあと少し残っていて辞められない。自慢だった2人の息子も長男は職が定まらず全米を放浪し、次男は近所にアパートを借りて女遊びにうつつを抜かしている。数ヶ月ぶりに長男が家に帰って家族4人が揃うが、心身ともに疲労しているウィリーはふがいない息子に説教をし、それに反発する長男と衝突する。とりなした次男のアイディアで起業の準備を進めることになり、家族に平和が訪れたように思われたが・・・。

千秋楽。タイトルがすでにネタばれで、オープニングの演出もネタばれなのだけど、そこに至る過去と現在を休憩はさんで3時間20分でこれでもかと描く。観なければよかったかと一瞬思わせるくらい重たい前半から、父と長男の立場や長年の心境の変化を解いてみせる後半まで、きつくて、いたたまれなくて、どこにも正解なんてなくて、でもそれだけでは終わらない話は有名なだけのことはある。それを直球ど真ん中の演出で隅々まで明確に立上げた長塚圭史の力作。

疲れすぎて神経がまいって危ない父親の風間杜夫と、まったく笑わせない山内圭哉の2人が軸としてしっかりしているけど、周囲もとにかく素晴らしい。この日の出来のよさでいったら健気を絵に描いたような妻役の片平なぎさが一番。あと近所の友人役の大谷亮介の柔らかさと、その息子で長男の同級生役は加藤啓であっているかな、あの整った感じは記録しておきたい。少し迷ったのは芸達者なのにチャラい演技で通した次男役の菅原永二で、実際チャラい役どころだけど脚本上はもう少し幅を求める役で、あれは風間杜夫や片平なぎさが重量級の分だけ演出が全体のバランスを調整したか。

有名な話というだけでなく、脚本がよすぎて演技演出に求められるハードルも高いのにクリアしているというまたとない座組。横浜千秋楽だけど関西で公演があるから、そちら方面で興味のある人にはぜひお勧めしたい。ただし体調は整えて。

2018年6月24日 (日)

青年団「日本文学盛衰史」吉祥寺シアター(若干ネタばれあり)

<2018年6月23日(土)夜>

明治27年5月の北村透谷、明治35年9月の正岡子規、明治42年の二葉亭四迷、大正5年12月の夏目漱石、それぞれの葬儀後の場で交流する文人たちを通して、新しい日本にふさわしい日本語を発明しようと苦労した先人たちを「今風に」描く。

こんなあらすじだと堅苦しく見えるけど全然そんなことはなくて、「今風に」描くのでスマホも出ればラップもあれば、本当にタイムリーな時事ネタも混ざりつつ、突然チェルフィッチュとか何でもあり。原作があるせいか今までの青年団のないはっちゃけぶり。知識がなくても楽しめるけど、明治に活躍した作家や詩人の作品と、その作者である文人たちの私生活ネタまで知っているとなお一層楽しめる。それでいて現代批判と日本語の発達の経緯まで描いて無駄なく、混乱もせずに観られる。

西洋の文化の一環として日本に入ってきた文学と、それをあるいは言語で読みあるいは翻訳しあるいは影響を受けて自作を発表した文人たち。文語文をどこまで洗練させても「新しい日本」を伝えるに足りず悩んだ北村透谷、俳句の分野で「新しい日本」を見せた正岡子規、口語文という「新しい日本語」を発明したのに中身が伴わないと自身が評価しなかった二葉亭四迷、口語文の小説と一緒に「新しい日本」の日本人の悩みまで書いた夏目漱石。これらの人たちの活躍した時代は政治の分野でも「新しい日本」を目指す動きがあり、その活動を行なう人たちの中には文士もいた。森鴎外のように政府の要人になっている人もいれば、幸徳秋水のように政府に処刑された人もいて、目指すところは違っても「新しい日本」のために文字通り命がけだった。そしてようやく整ってきた日本語は「新しい考え」を可能にし、しかし新しい考えは傲慢な意識を芽生えさせ、一方その新しい考えが自分達に向かうのを恐れる支配者層は市民への取締りを強化していく。

というのが、メインの筋。これを、いろんな作家の作品の引用や私生活のエピソードを混ぜて描く内容が、どこまで原作でどこから平田オリザ創作かわからないけどものすごい上手。そもそもこの登場人物たちが一同に会したことなんてない(笑)。それを葬式後の会食という設定で無理矢理同じ部屋に登場させてそれっぽく会話させてしまうことができるのが、小説や芝居のいいところ。与謝野晶子から「自由恋愛を批判ってお前が言うなって顔していますね」と言われてその場の男性文士が全員うな垂れて、当時の文士の駄目人間だらけであることを一瞬で表す場面、楽しいですね。

一方で、ここに現代の時事ネタを取入れたり(幸徳秋水がもう一人と一緒にスネアドラムを叩きながら首相へのデモ調に「かつーら辞めろ」「かつーら辞めろ」とか)、現代の知識をメタに混ぜたり(夏目漱石の妻は悪妻というのが定評でしたが最近はNHKのドラマで名誉回復云々、とか)、現代のテクノロジーを登場させたり(モバイルスピーカーを持ってラップしながら登場する宮沢賢治とか)、こういうネタが笑いを誘って芝居の雰囲気をほぐしつつ、これは現在の話でもあるんですよ、とメインの筋を現代批判にもつなげる手腕が、もうこれは息を吸って吐くようにごく自然にそうなっている平田オリザ節。

一方で、坪内逍遥と島村抱月という日本近代劇の創始者を登場させたり、国木田独歩に鈴木メソッドで退場させたり、樋口一葉に「大つごもり」の粗筋をチェルフィッチュの「三月の5日間」と混ぜて語らせたり、うっすら演劇の話も混ぜている。そのものずばり「演劇のことば」という本(面白いです)を書いた平田オリザにしてみれば、芝居の日本語の近代化に興味も知識もあるし、何なら自分が芝居の日本語を一気に自然にしてみせたくらいの自負はあるかもしれない。

そういういろいろな話を混ぜて、4幕目はまったく年代が重ならない作家まで登場させて、紹介するのも面倒だから全員に名札を付けさせて、その雑な感じの勢いから静かな未来の提示、一転して踊り狂うあの乱暴なラストまでの流れ。原作があったとはいえ、昔と今の時間を混ぜる作りは唐十郎とか野田秀樹あたりがやっているザ・小劇場の芝居だけど、あんな小劇場っぽい芝居も作れるんだと平田オリザの実力と感性を見せ付けられた。本来ならこういう芝居は若手の小劇場が上演して評判を上げるべきところ、自慢の役者陣を大勢投入して、柱だけでふすまや壁を取払った和室といういつもながら見通しのいい美術や、着物や日本髪なども用意して抜かりのない衣装陣など、そこらの小劇場では用意できない誂えも準備して、大ベテランの平田オリザが隅々まで行き届いたお手本のような芝居。ここまでやられたらこの路線にはぺんぺん草も残らない、ってくらいよくできていた。

あと今回観て思ったのは、やっぱり青年団の演技は今っぽいというか、少し違う。同じ話をもし新劇系の役者で演じたら、よくも悪くももっと湿っぽい、役への思い入れが前に出た演技になったと思うし、それだと現代ネタを混ぜたこの話の上演は難しかったはず。ロボットにも同じ演出をするという平田オリザのことだから、動きや声の調整をメインにして雰囲気をコントロールできるような、役者の個人技でなく全体で雰囲気を作り出せるような演技を青年団の演技の基礎として求めているのだと感じた。それが実感できたのが今回の発見。

ひとつだけ迷った点を挙げるとすれば、大勢の役者以上に大勢の役があって、同じ役は同じ役者が演じていたけど、複数役を兼ねる役者もいたことと、あと男性役が多いのはしょうがないのだけど、そのうち結構な数を女優が演じていたこと。見た目も大幅に変えていたし、芸達者なことこのうえない青年団の役者陣だけど、最初はやや混乱した。それこそ4幕目はいるだけに近い役も結構あったのだけど、青年団なら一人一役で役者を用意できただろうし、かといってあのくらい芸達者な役者を1幕で退場させるのはそれこそもったいないし、どちらがよかったのかは今でもわからない。

でも個人的にはもう大満足の1本。この時代の作家や詩人の作品に造詣が深ければもっともっと楽しめたはずで、その方面の教養のなさが悔やまれる。

<2018年7月3日(火)追記>

全面更新。

より以前の記事一覧