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2024年6月15日 (土)

劇団四季「オペラ座の怪人」神奈川芸術劇場ホール

<2024年6月8日(土)昼>

オペラ座の備品がオークションに出されている。それを競り落とす子爵夫人が昔を思い出す。それはオペラ座のオーナーが交代して、新作の稽古中に挨拶にやって来たときのことだった。座席と高額の報酬を要求する手紙と、それが叶えられない場合にとオペラ座で頻発する事故に立腹して、プリマドンナが降板してしまう。当時端役の1人だったクリスティーヌは急遽抜擢されて大成功を収め、子供のころに出会っていた子爵と再会する。だがその成功の裏には、「先生」として毎夜クリスティーヌの歌を訓練するオペラ座の怪人の存在があった。

有名な作品です。粗筋は知っているしミュージカルだしで、安い席で臨みました。それで見切れになるのは覚悟していたから納得しました。

ただ、「オペラ座」の怪人なんですよね。なので登場人物がことごとくビブラートたっぷりのオペラ歌唱でした。その上、席が悪かったのか安い席まで音響の手が回らなかったのか外部劇場では調整に限界があるのか、オーケストラの音が目一杯張り出して歌声に重なってしまいました。そうすると明晰な発声を旨とする劇団四季でも何を歌っているのか歌詞がわかりませんでした。

つまり見切れと不明な歌詞で、何のために観に行ったのかわかりませんでした。慣れた人なら歌詞を脳内補完しながらソプラノとテノールを楽しめたのでしょうが、ミュージカル素人の私には無理でした。慣れない分野ほどいい席を狙うべきだったと勉強になりました。

2024年2月27日 (火)

神奈川芸術劇場プロデュース「スプーンフェイス・スタインバーグ(安藤玉恵版)」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2024年2月24日(昼)>

自閉症として生まれ、小児癌で7歳にして死に直面している少女であるスプーンフェイスが語る自分の一生と死に臨んでの心構え。

出ずっぱりしゃべりっぱなしの一人芝居でこの日は安藤玉恵。脚本は片桐はいり版と同じで、あまり子供らしくも病人らしくもなくはっきり客席に語り掛ける演出。内面の大人びたところを外に出した役作りというか。人形に話す相手を割当てて進めるところが片桐はいり版にはない工夫。

多少幕の上げ下げを調整するとかマイクを使うとかはあるけどスタッフワークはほぼ同じ。全体にスタッフワークのはまり具合は安藤玉恵版のほうがよくて、こちらを基準に仕立てて片桐はいりもそれに合せたっぽく見えた。

それで仕上がりはというと、これは脚本負け。少女も自閉症もわざわざ見せん、自分流で丸ごと料理してやる、という意気込みはあったのかもしれないけど、重たい話を引受けきれていない。早めの台詞回しと場面ごとの間もあまり取らないのとで話がどんどん流れてしまった。安藤玉恵をもってしてもこれか、と脚本の手強さを再認識。あと15分余分に使ってもう少しゆっくりやってくれと演出で最短上演時間を縛ってもよかったのではないか。

神奈川芸術劇場プロデュース「スプーンフェイス・スタインバーグ(片桐はいり版)」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2024年2月22日(夜)>

自閉症として生まれ、小児癌で7歳にして死に直面している少女であるスプーンフェイスが語る自分の一生と死に臨んでの心構え。

出ずっぱりしゃべりっぱなしの一人芝居でこの日は片桐はいり。少女を演じながらいろいろなものや人形を相手にちょこまかと動いているうちになんとなくそれっぽく見えてくる。立てたくなるような台詞がたくさんあるにも関わらずかなり抑えめに進めて、最後に思い切りはじける演出。観客が自閉症の子供を観るような動きや話し方を少し出した役作りというか。

脚本では収容所でも遊んでいた子供の話が出てきて、どうしてもドイツで死の話というとナチスと収容所が出てきやすい。それはしょうがないけど、でもいまはイスラエルとパレスチナの話があって、やられてやり返すにはまあなかなか徹底しているな、みたいな話がある。だからそこがフックにならずにむしろ引いてしまった。上演時期の問題とはいえ不利に働いたのはつらいところ。

仕上がりは、あと少しで傑作に手が届きそうだったけれども手前で届かなかくて惜しい、くらいの出来。父親が酔ってスプーンフェイス相手に嘆く場面と最後にはじける場面がよかった。選曲が何となく合っていないように聞こえたけどこれは後で観た安藤玉恵版と共通で使っていたから。面倒でも選曲は変えたほうがよかったと思う。

この日は片桐はいりに演出の小山ゆうなと芸術監督の長塚圭史の三人でアフタートークがあったのでうろ覚えだけれどメモ。言葉遣いは私の脳内で勝手に変わっているので注意。

長塚:自分も公演中なので観るのが実は今日が初めてです。昔、パルコ劇場で麻生久美子さん朗読を演出したことがあります(2010年4月)。それは2日しか上演しなかったけれど頭の片隅に引っかかっていて、今回芸術監督として上演演目に選びました。

小山:自分の周りではパルコの朗読を観た人が何人かいて評判がよかった。

長塚:イギリスのキャサリン・ハンターが一人芝居で上演したのは知っているけど観たことがないからどうやったのかわからない。そうしたら片桐はいりさんと安藤玉恵さんを提案された。前に片桐はいりさんと一緒に仕事したときには「もう人間とか演じないで物とかやりたいんだよね、物」と話していたので(笑)そんな人がどうやるのかとても興味があった。

片桐:そんなこと言いましたっけ。

長塚:片桐はいりさんは小野寺修二さんの舞台に出たりしてフィジカル寄りの印象を持っていた。

片桐:近ごろは(ひざ? 脚? をさすりながら)身体の調子が悪くてフィジカルな舞台に出られないんです。もともと台詞を言うのは苦手だったけれどもそれでも舞台に出たいと思ったら台詞をやるしかない、と。だから一人芝居に挑戦したけれどいつも悩んでいます。特にこんなご時世(戦争のことか)だから火花の話(終盤)の台詞なんてどうやって言おうとか。

小山:片桐はいりさんは理想が高くて妥協しないから毎公演で終わった後に舞台裏に戻ってきたら「上手くいかなかった」って言っているんです。

片桐:そういう舞台裏はお話しないでください。だったら金返せって言われても返せませんから(笑)。

長塚:オープニング、顔を出すところからすでによかった。

片桐:稽古は安藤玉恵さんと一緒でした。それで初めは幕に影を映しながらゆらゆらとやるオープニングを提案したけどこれは演出で却下されました(笑)。安藤玉恵さんは「それなら私は天井から降りてきたい!」って話していましたけどそれはありません(笑)。でも私とは別のオープニングです。

長塚:稽古はどうでしたか。

片桐:安藤玉恵さんと共通にするポイントだけ決まっていて間は好きにしていいという演出でした。で、元がラジオドラマだからト書きの一切ない脚本なんですね。つまり自由にやらせてもらおうと。カメラを使うのは小山ゆうなさんの提案です。

小山:でも発想がすごい。スプーンフェイスがカセットテープを相手に吹込む場面は片桐はいりさんの提案なんです。しかもそれを隠したところが父親の荷物の間なんですよね。

長塚:朗読はほとんど稽古期間が取れなくて、それでも頼んで5日間稽古したけれど、翻訳も同じ常田恵子さんなのに「あれ、こんな場面あったかな」と観ていて焦りました(笑)。ああいうことはどうやって思いつくんですか。

片桐:わざわざ考えることはなくて、周りのもので何とかするというか。カセットテープのことだと稽古場をぐるっと見渡して、よしこれ、ってそこまで深く考えずに試しました。

長塚:人形に話しかけたり。

片桐:自分版の演出はいつも台詞を誰に話すか問題があるので。あまり話すとこれから向こうも観てくれる人にネタばれになるから言いませんけど安藤玉恵さんはもっと客席に語り掛けるスタイルです。自分はストレートにそのままやりたくないからわざわざ面倒な演出を試してしまって。

それで出来れば両方観てください、みたいな話をして終わったのかな。こんな感じの話でしたけれど、昔はもっと覚えられたのに(嘆)。

2023年8月 6日 (日)

範宙遊泳「バナナの花は食べられる」神奈川芸術劇場中スタジオ

<2023年8月5日(土)夜>

独身、詐欺師、前科一犯、アルコール中毒で説教癖のある男性。出会い系のサイトで成りすましメールを送ってきた男性と会って、一緒に仕事を始める。その中で、出会い系を使って商売する人間を追ううちに出会った人物たちと巻き起こす騒動のあれこれ。

岸田國士戯曲賞作。粗筋の描きにくい話ですが、傑作でした。若干ネタバレで無理やり書くと、自己評価が低くて社会的に上手くいっていない人たちが、本名も知らずにあだ名で呼合いながら、それでも人を救いたい助けたいと思って行動するうちに自己評価が回復していく一連の話です。一人語りと役者同士の対話を行き来するので、生身の人間が演じることでもっとパワーアップされていました。

誤解を恐れずに言えばそこまで下品でない「フリーバッグ」の複数人バージョンです。観る順番が反対だったらもっと衝撃を受けたのにと嘆きました。「フリーバッグ」だと「芸人みたいに話さないで」と主人公が突き放される台詞がありましたが、この芝居だと「何とかしてよファンタジー」が登場人物の叫びでした。

起承転々結々くらいな展開だったり、こちらかと思わせて実はこちらでしたと思わせる演出だったり、いろいろあって最後はどちらに落とすかなと最後まで読ませないあたり、上手いです。その辺は観た人の楽しみということで、それ以外の感想をふたつ。

まず、一人語りと役者同士の対話を行き来する形式の芝居なのに、役者がみんな自然にこなしています。平田オリザの現代口語演劇、チェルフィッチュ岡田利規の「三月の5日間」に代表されるようなダダ語りを経由して、ここまで来たのかという印象です。いまどきの役者はこのくらいさらっとこなして当たり前なんでしょうか。

それとスタッフワークですが、中スタジオ、といってもそれなりに広くて高さもある場所を、正面のスクリーン脇以外は机やベッドといったセットで埋めてアクティングエリアを自在に動かす(全体を使うこともある)美術、カメラを含むこなれた映像の使い方、これらをサポートする照明、クリアで考えられた音響、適度に着替える衣装、などなどなどなどなどなどなど、公演規模の割りにすごく洗練されていました。私が最初に思いついた言い方だと、貧乏くさいところがひとつもありませんでした。

私の思い込みだと、演劇は身ひとつで何とかできる表現芸術の元祖で、その分だけ貧乏くさいところが付きまとって、それを払拭するのが商業演劇、みたいなところがありました。でも、出発点から志が新しいとここまですっきりした舞台が作れるんだというのは、発見でした。

神奈川芸術劇場ということで集客は苦戦気味だったみたいですが、スタジオを使えたという点では適した会場を使えたのだと思います。都内でもシアタートラムとか新国立劇場中劇場とか東京芸術劇場シアターイースト/ウエストとか、プロセニアムアーチがない劇場に向いた舞台ですね。

2023年5月29日 (月)

木ノ下歌舞伎「糸井版 摂州合邦辻」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2023年5月27日(土)夜>

俊徳丸はそのあたり一帯を治める高安の息子。正室だった産みの母は亡くなり、ほとんど歳の変わらない継母の玉手御前と、高安の妾の子である兄の次郎丸と暮らす。高安が病がちになり、家督が俊徳丸に譲られること納得いかずまた俊徳丸の婚約者に横恋慕している次郎丸は俊徳丸を亡き者にしようとし、玉手御前は俊徳丸に懸想したと迫ろうとする。

話だけなら古典で、いろいろあって実は、という話だけれども、いろいろなフォーマットを混ぜこぜにしているのに一本の芝居になっている、なんとも不思議な、だけど本筋の芝居は楽しめた、よくできた芝居でした。

日本の小劇場はいろいろなことをやるものですけど、今回はまたいろいろだらけでした。古典を現代の服で上演するのはまあ観たことはある。オリジナルと思しき場面はオリジナルの言葉で上演するのは木ノ下歌舞伎がそういうものだと聞いていたから知っていたけど、現地イントネーションで進めるのは想定外。そこに物語の補足で後から現代語の場面を足すのは想定外だったし、さらに物語の補足と言えるような言えないような場面まで足してくるのも想定外。それを現代風の歌詞を使った妙ージカルで振付付きで演出するのはやっぱり想定外(よく読めば糸井版って書いてあるから思いつきそうなものですが)。そして太夫とバイオリンとトランペットで語りまで入れて、てんこ盛りです。

これだけごった煮にしたら普通は訳が分からなくなりそうなものですけど、3演目のためか役者が馴染んで当たり前のようにこなしていることで、完成形が見られました。おおむね成功していました。いまある都会の昔の場所が舞台の話ですよという導入と、神代の昔から現代に至るまで続く夫婦親子の情という背景の補強を通して、極端な物語に思えるかもしれないけどそんなこともないよと言えるラインまで芝居側に歩み寄らせることを目指したのだという理解です。

成功でなくおおむね成功と言っているのは音楽のところです。全般に一曲当たりの歌が長すぎた(特にオープニング)のと、後半に場面の割りに緩い音楽が流れたのと、字幕があってわからないことはなかったものの字幕に頼らないとわからない歌詞(特にパートごとに違う歌詞を歌う歌)は、妙ージカルとはいえ改善の余地ありです。でも後半の冒頭は歌も含めて好きでしたから、直しゃあいいってもんでもないのが、難しいです。

役者はなんて芸達者ばかりそろえたんだと思います。玉手御前でたまに大竹しのぶもかくやみたいな顔を見せたりした内田慈、オープニングで歌っているときから誰だと思った合邦道心の武谷公雄は挙げておきます。羽曳野の伊東沙保とか、合邦道心の妻の西田夏奈子とか、まあ見どころの多い役者陣でしたが、全員水準が高くてでこぼこを感じさせませんでした。

スタッフだと、美術は島次郎のクレジットが(角浜有香と合同で)残っていました。柱の組合せで抽象的に場面を切替えるのは小劇場らしい発想です。以前の木ノ下歌舞伎を当日券で見逃したから今回は観られてよかったです。

ただ客入りですが、惨憺たるものでした。土曜日とはいえ夜の公演が嫌われたか、次の日のアフタートーク付きの回に客が集中したか、3演目なので客側が落着いたか、横浜で9時終演というのが敬遠されたか。もったいないの一言です。興味がある人はこの機会に観ておきましょう。

あとは余談。この芝居は歌舞伎にもなっていますが、文楽がオリジナルです(それも、能とかいろいろな元ネタがあって作られましたが、「摂州合邦辻」のオリジナルが、という意味で)。ちょうどこの前に文楽を観て「ただでさえ耳で聞き取るのは難しい言葉をうなられるともっとわかりません」と書いたばかりなのですが、期せずして文楽の現代版アレンジを観ることになりました。

今回は極端なアレンジではありますが、これならいいかというと、文楽にとっては駄目ですね。脚本は生き残っていますが、これで役者を人形に替えても文楽らしさは残りません。ただ、武谷公雄が太夫相当の語りをつとめる場面が少しだけありますが、やっぱりはっきり語る余地はあるんじゃないかと思います。全部をはっきりとは言わなくとも、主なところだけでも。

あと、三味線以外にも楽器を足して、語りから音色要素の負担を分担する方法がないかと思います。和物の楽器を足すなら、笛だと音色が高すぎるから尺八かなと想像しますが、文楽規模の劇場だと太夫と三味線と管楽器とで音量のバランスをとるのが難しいですね。悩ましいです。

2022年11月27日 (日)

松竹主催「平成中村座 十一月大歌舞伎」平成中村座

<2022年11月12日(土)夜>

入れ上げた花魁に見捨てられ家からも勘当された若旦那、かばった八百屋の主人から唐茄子(かぼちゃ)を売って来いと言われて始めて棒手振りに挑戦したはいいが帰りにひもじい母子を見つけてしまい「唐茄子屋」。隅田川で舟を待つ客が七福神に見立てた踊りを踊る「乗合船恵方萬歳」。

「唐茄子屋」目当て。元となった落語があるそうで、ハロウィンに掛けた演目。だから頭としっぽはものすごくしっかりした歌舞伎。演出のノリが派手でも宮藤官九郎でなくともいいのではという内容。中盤の花魁が忘れられずに吉原に入ったところが腕の見せ所で、子役活用まで含めてにぎやかに盛上げる。世話物の途中に小劇場を混ぜた展開。

配役が不思議だった。勘九郎の若旦那はわかる、駄目でも憎めない主人公を好演。七之助の花魁とお仲の二役もわかる、派手な花魁も苦しいお仲も真面目に役を突詰めた形で、しかも芝居に馴染んだ好演。子役2人も上々。

不思議だったのは他。まず荒川良々が盛上げ役のイントロやアメンボ役なんかもやるけど、メインの八百屋の主人をまっすぐな演技で大人計画では観られない役どころ。そして片岡亀蔵が蛙のゲゲコを超が付くくらい真面目に演じていたのが、観る側にはありがたい。素人考えだとこの2人は逆になると思いますけど、入替えてどちらも熱演でした。悪い意味で気になったのは、大工の熊の橋之助と大家の坂東彌十郎。上手いけど浮いていたというか、一人で役を作って演じて対話していないように見えた。

なんか歯切れの悪い感想なのは冒頭とか途中とかで引っかかったから。冒頭で荒川良々が「自粛自粛ってやってられねえなあ(大意)」と客席を煽ったところは、体調不良で中止の回に当たってチケットキャンセルになった身としてはそれなら体調管理しっかりやってくれよとか。途中で「金にならないことなら何でもできる若旦那」「これが不要不急(大意)」ところは、いやそういう商売だろう今さらかよとか。ここら辺に長らく実力脚本家の座を張る宮藤官九郎の反骨精神みたいなものが見受けられるんですけど、観たときの心境と合わなかった。

「乗合船恵方萬歳」は踊りづくし。七之助が一番キレのある、って表現が歌舞伎の踊りで適当かわからないけどキレがあってきれいに見えた。驚いたのは表情。ものすごくまぶしい笑顔で、さっきまでお仲をやっていた人がこれだけ違う表情が作れるのは、やっぱり役者ってすごいんだなと再認識。勘九郎の踊りはそこまでキレがないのだけど動きに愛嬌があって、若旦那役もそうだったけどあの愛嬌が色気に見える人もいるんだろうな。

あとは劇場というか小屋の話。ものすごく観やすい。シアターコクーンと同じくらいの規模で、このくらいの規模だと熱気が集まって盛上がりやすい。いい劇場だった。十八代目勘三郎にちなんで隈取が劇場内の18か所にあるって紹介されていたけど、3か所しか見つからなかったのは無念。

2022年11月 4日 (金)

まつもと市民芸術館企画制作「スカパン」神奈川芸術劇場大スタジオ(ネタバレあり)

<2022年10月30日(日)昼>

港町ナポリで港湾労働者として日雇いをしつつ、頼まれたら嫌とは言えないスカパン。世話になっている町の金持ちのボンボンからは一目ぼれした女性と結婚した直後に父から許嫁を紹介されたと泣きつかれ、その友達の別のボンボンもジプシー育ちの女性に一目ぼれしたが金が用意できなければ相手の親から結婚が許されないと泣きつかれる。双方の父親から金を引出して解決してやろうと一肌脱ぐことにする。

モリエールだから古典芝居の範疇で、筋書きは現代劇に比べればシンプルなもの。だけど仕上がりは不思議な手触りの舞台で「K.テンペスト2019」を思い出す。いいものを観たとは思うのだけど、ちょっと普通のいい芝居とは種類が違う。

古典喜劇だけど素直に終わらない。ボンボンを助ける過程で口八丁が過ぎて折檻され、その仕返しをするもののばれる。金持ちの父親に殺し屋を差し向けられて、助かるかと思いきや事切れて終わる。助けたはずのボンボンたちは偶然の勘違いで結婚が認められてめでたくなるも、スカパンの怪我を気にせずに盛上がり、スカパンが倒れて幕になる。古典らしからぬ展開はモリエールの脚本通りなのか演出なのか迷うところ。

スカパンだけ見れば金持ちの都合に振回された挙句に報われない末路を迎える悲劇だけど、芝居にそこまでの悲壮感はない。この演出を自分なりに言葉にすると、劇場で芝居をしているのではなく「祭に呼ばれて小屋で上演するけど祭だから観に来た客を楽しませる演目を持ってきた旅回りの一座の芝居」みたいな雰囲気を出すのに注力していた。たぶん美術もそういうイメージで作っていたはず。串田和美がいつもそんな感じだけど。

それでいて演出が投げっぱなしではないんだなと思わされるのが特にラストの場面。包帯を巻いたスカパンを金持ち親子は笑って迎えるけど、周りの人間は「この人大丈夫か」って顔で遠巻きに眺めたり、依頼主の金持ちが殺し屋をねぎらう動作があったり、いろんな想いの人間が同席していた。こういう細かいところがリアル。

ただしそれ以外の場面はなるべく明るく描く。スカパンがひとりだけの場面でふてぶてしいところも描くけど、明日は明日の風が吹くし何かあっても何とかならあな、というおおらかさがある。「先のことばっかり考えて何もしないやつなんか大嫌いだよ」の台詞がすごく似合っていた。最近そういう話をあまり見かけないので古典なのにむしろ新鮮に見える。それで結局悲劇に終わるのだけど、真面目に生きたからって大往生できると保証されるわけでもなし、いっそリアルに感じる。

たぶん演劇に求めるリアルの勘所がいまどきの一般的なリアルとは違う。現代的なストレートプレイよりも、極端な衣装や化粧と客席を意識した派手な演出をしながらも観客の心をつかもうとする歌舞伎に近い。元からそうだったのか、コクーン歌舞伎を演出してそうなったのかはわからないけど。

そのスカパンを演じた串田和美。声が若干小さかったけどこの劇場サイズなら大丈夫だし、おっさんがおっさんを言いくるめようとするマシンガントークが台詞回しを超えた味だった。そして身体がよく動くこと動くこと。やられたり逃げたりででんぐり返る元気もさることながら、腰を落とした姿勢の決まり具合やスローモーションの滑らかさは保たれていた。金持ちをからかう食卓の小細工なんかも器用にこなして、まだまだ役者を続けられる感がある。あとあの表情がスカパンですよね。若手役者にはできない面構えです。

役者は大森博史とか小日向文世もよかったし、二世組もいい感じだったけど、脇にいい役者が揃っていた。特に従僕仲間のシルヴェストルの武居卓と、ジプシー育ちの女性ゼルビネットの湯川ひなが、役どころを押さえた役作りと今回の演出に合った大きい演技を両立。殺し屋になるカルルの細川貴司はスカパン以外ではひとりだけ芝居の陰を作るところをきっちり。若手に恵まれるのは、これまでの芝居人生が報われている証拠。

長々と書いたけど一言でいえばやっぱり、何かいいものを観たという感触が残る芝居だった。観てよかった。観に行ったのがたまたま大千秋楽で、カーテンコールで「5年くらいしたらまた」って言っていたから期待したい。

2022年3月14日 (月)

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」三鷹SCOOL

<2022年3月12日(土)夜>

東日本大震災が起きた日の新宿駅近く。就職活動をしていた女子学生は面接が中止になった挙句に電車が止まって家まで歩いてかえる羽目になる。喫茶店で離婚届の書類を書いていた女性は埼玉に帰れずに公園で休んでいたところを、寝過ごして地震に気がつかず中野からやってきた学生に声を掛けられてカラオケボックスで休む。スマートフォンの調子が悪い会社員は仕事で六本木に来ている最中に地震に遭う。新宿の本屋で働く女性は入社2年目にして仕事に疑問を抱く。その日の話と、だいぶ経ってからの日の話。

上演自体は今回で6回目(2016年初演で、2018年から毎年この時期)のはず。自分は2018年版2019年版を観ていた。過去2回と比べて、就職活動をしていた女子学生の話と、本屋で働く女性の話、スマートフォンの調子が悪い会社員の話はほとんど変わっていない。けど、今回は離婚届の女性と学生との話が妙に比重が多い印象。そのおかげで芝居全体にようやく納得がいった。

過去に観た回になかった演出として、YouTubeとサッカーだけが興味の学生を表現するのにサッカーをさせて、興味のないとき、あるいはどう振舞っていいかわからないときにユースという(内面の自分)役を登場させて相手そっちのけで(脳内)サッカーを始めてしまうという場面が何度も追加されていた。これが補助線として、観ているこちらが痛くなるほど有効に効いていた。ずうっと、相手よりコンテンツのほうに興味があったんだってのがよくわかった。

最後、ユースと髪型を整えるのと、女性に振られた帰り道にYouTubeでいつも観ていた大食いの芸能人と会って思わず声を掛けるところ。振られたとはいえ、コンテンツ内の登場人物から実在の他人へと興味が広がったこと。あの瞬間に「是でよかったのかも」が成立していた。

それと離婚届の女性。森ビルの屋上でこのあとどうするって訊いたときの雰囲気が素晴らしかった。震災の晩からフラットだったわけではなく、天秤の揺れるタイミングもあったんだというのがよくわかった。そこを経たから、謝る夫を許した(あるいはこれでも上等なほうだと認識した)展開に納得いった。こちらの夫も妻への気配りが今一つだったのを認めて謝って、復縁した2人に「是でいいのだ」が成立していた。

本屋で働く女性は退職して教員試験を受けることを選んだ選択を「是でよかったのかな」と悩む。けれど、選んだ選択肢を正解にするために努力しようとしているところに「是でいいのだ」が成立していた。

そして自己評価の低さに悩んでいた就職活動の女子学生は、一念発起した徒歩での帰宅にくじけそうになるところ、被災地の親と連絡がついて元気を取り戻す。このあと何とか帰宅したであろうと想像できる最後で終わって「是でいいのだ」が成立していた。

震災から翌年の年末まで、あるいは震災の年末、あるいは震災の晩、タイムスパンはそれぞれ違うけど、震災をきっかけに何かが動いて、それぞれがそれぞれなりの「是でいいのだ」と言えるところに落着く展開。いちゃもんをつけるなら、震災をダシにしたと言えなくもない。でも、よほどのことがないと人間そうそう変わることはできないところに震災というよほどの出来事があった、震災ですら変われない人が大勢いる中で変われたような登場人物を称えたい、というのが私個人の印象。そこはもう「是でいいのだ」と言うのがふさわしい。

過去に本作別作含めて出演経験のある役者が多かったおかげで、芝居全体の安定度は高かった。1人挙げるなら離婚届の女性役は鈴木睦海であっているかな、本作唯一、複数人(といっても2人だけど)と絡む役だからもともと目立つのだけど、そこをきっちり演じていた。あと客入れと音響と一部照明をしながらユース役をやったのは福島慎太かな。出ずっぱりなのも含めてずいぶん無茶な役どころをこなしたことに敬意を表したい。

理解があっているか間違っているかはどうでもよくて、自分としてもこの芝居にようやく納得がいったので、この芝居は「是でいいのだ」としたい。

2021年12月26日 (日)

座・高円寺企画製作「ジョルジュ」座・高円寺1

<2021年12月26日(月)昼>

恋多き女として知られたフランスの女流作家ジョルジュ・サンド。恋人だった弁護士に連れられて聴いたショパンにほれてショパンとつき合い始め、にも関わらず2人を支える弁護士。病がちなショパンの看病と社会運動の盛上がりにやがて分かれるまでを、ジョルジュと弁護士との往復書簡で描く。

同じ斎藤憐脚本で往復書簡にピアノを加えた「ピアノと音楽」シリーズだけど、「アメリカン・ラプソディ」がガーシュイン中心に描いていたのに比べると、こちらはタイトル通りショパンではなくジョルジュの話。ただしショパンとつき合っていた時代のジョルジュを取りあげることで、音楽家のことも描く「ピアノと音楽」シリーズの形式に寄せている。

それはジョルジュが恋多き女というわかりやすい面に加えて、女性の自立とか社会の変革のために奔走した活動家の面があったから。「アメリカン・ラプソディ」でガーシュインが行なっていた活動の役回りを担っていたのが、今回だとジョルジュ。やっぱりそういう志向があったんだろうな脚本家、と勝手に裏読みする。

今回はさすがに芝居成分多め。簡単そうにやっているけど絶対簡単じゃない演技というか朗読をさらっと展開する竹下景子。何年もやっているからこその境地か。一方の植本純米はおどけたおおげさな演技に小ネタを加えることでドロドロさせずにおしゃれさを維持しつつ引いた線は壊さない芸達者。相手の読みにも細かいリアクションを入れておりそれが楽しめるのはこの規模の劇場の特権。関本昌平のピアノは曲によって細やかさと激しさを使い分けて自由自在。いまさら「あの曲もショパンだったんだ」という発見も多かった。

弾いていたのは「アメリカン・ラプソディ」と同じピアノだったけど、今回のショパンの曲は馴染んでいた。たぶん、ピアノ自体がこういう曲向けで、さらに軽く弾いても音の響きが強く出るように作られている。前回不思議な音と思ったのはピアノが理由だった。

何年か前から気になっていた演目を今年になって観ることができたのに満足だし、実際に楽しかったことにも満足。

あとは劇場メモ。劇場に入るところで検温と消毒、場内マスク着用依頼、くらいしか前回はしていなかった。今回行なわれていた工夫で「おっ」と思ったのは、場内入場口に台と固定したスマホを用意して、スマホのカメラで動画撮影しっぱなしにしておき、焦点距離の合った台にチケットを置いてから(客が)もぎりを行なっていたこと。券面に名前が書かれているから、その記録を省力化するためだと思われる。いろいろ応用できそう。

もうひとつ。盲人の客を見かけた。白杖の人を劇場の人が案内していたり、夫婦で片方が盲人で盲導犬と一緒に入場していたりした。音楽朗読劇なので相性がいいのだろうけど、こういうところで融通が利くのはほどほどの規模の公立劇場ならでは。劇場の客席は段差が多いから危ないのだけど、何年もやっている企画だから慣れているのか案内も無事だった。機会があれば芝居はいろんな人が観に来るものだと今さらながらに考えさせられた。

2021年12月19日 (日)

座・高円寺企画製作「アメリカン・ラプソディ」座・高円寺1

<2021年12月19日(日)昼>

ユダヤ系ロシア人の移民の息子として、貧しい生活からピアノと作曲の腕でアメリカを代表する音楽家となったガーシュイン。数多いたガーシュインのパートナーの一人である女性作曲家と、同じユダヤ系ロシア人としてガーシュインの理解者だったバイオリニスト、友人だった2人の手紙のやり取りを通して描かれるガーシュインの生涯。

多少は立って動きもあるけど、脚本は手にもって、朗読で交互に手紙を読んで進める「ラヴ・レターズ」形式。そこにピアニストが入ってたくさんガーシュインの曲を弾き、歌入りの場合は作曲家役が歌う。

時代背景もあり、実際にガーシュインが行なった活動もあって、よく聞いていると差別に対する抗議を込めた場面も多々ある、穏やかならざる脚本。最初は翻訳モノだと勘違いしていたけど、後で見返したら斎藤憐だった(この劇場の館長も務めていました)。ただし今回はそこには踏込みすぎず、最後の曲だけ少し力を入れて弾いていたくらいで全体にはフラットに、ガーシュインの功績と曲を紹介することをメインにした演出。ほどよい規模の空間にピアノと歌で、休憩を挟んで2時間10分のおしゃれなコンサートを楽しんだ気分。

秋本奈緒美の歌も上手かったし、田中美央も抑え気味にすすめて好印象。不思議だったのは佐藤允彦のピアノ演奏。鍵盤の見える席だったけど、軽く弾いているのにザクザクとした荒っぽさと整った印象とが両立してさらに音色がカラフルで音の情報量が多い、目と耳が一致しない演奏だった。あれは腕前なのかピアノ(Shigeru Kawaiって河合ですね)なのか両方なのか。曲は素直に楽しんだけど、音色の謎はわからなかった。

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