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2024年9月29日 (日)

劇団青年座「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」吉祥寺シアター

<2024年9月28日(土)昼>

街から離れた砂漠のどこかにある移動式簡易宿泊所。やって来たのは病人を治して稼ごうとする医者と看護婦、それに亡くなる人に祈りを捧げて稼ごうとする神父。買出しに出かけていた宿の人も戻ってきて険悪な雰囲気になりかけたところに、遍歴する二組の騎士と従者がやってくる。どうにも話がまとまらない中、水を飲んだ看護婦の体調がおかしくなり・・・。

初日。ナンセンスな出だしからは思いつかないくらい殺伐とした話に進むのも不条理と言うべきか。遍歴する二人の騎士である山路和弘と山本龍二の掛合いが始まるあたりからが本調子になってくる演出。この年齢までやってきた二人だからこその凄みととぼけた感じを両立させるやり取りが見どころ。山路和弘が適当にアドリブをかまして周りの役者を笑わせていたけど、それより初日で比べるなら山本龍二を推したい。周りの役者もいい感じではあったけど、脚本にいろいろあった小ネタは流したのか上滑りして流されたか、できればそこでも笑いを取りたい。音楽に生演奏を入れることで雰囲気のライブ感がより高まる仕組みもいい感じ。年齢高い人の方が楽しめるかもしれない。初の別役実作品としてなかなかいい芝居を観られたので満足。

2024年9月17日 (火)

神奈川芸術劇場主催企画制作「リア王の悲劇」神奈川芸術劇場ホール内特設会場

<2024年9月16日(月)昼>

老いて国を三人の娘に分け与えようとする王。長女と次女の追従に喜ぶが、言葉を飾らず感謝を述べる三女に激怒して勘当してしまう。三女に与えるつもりだった領地も長女と次女に与えて自分は月替わりで世話になるつもりだったが、父親の癇癪ぶりを目の当たりにした長女と次女は一計を案じる。その裏で、王の家来である伯爵の私生児である息子が、後継ぎの座を狙って姉を追落としにかかる。

初日。見慣れたせいか自分が歳をとったのか、それとも翻訳がこなれているのか、特に翻案はしていないはずなのに日本語のシェイクスピアもここまで来たかというくらい明瞭な上演。リア王の木場勝己はここからさらに先を期待できる出来。ケント伯爵の石母田史朗、グロスター伯爵の伊原剛志、次女の森尾舞、コーンウォール侯爵の新川將人が快調。兄ならぬ姉になったエドガーの土井ケイトは場面によって良し悪しの幅が大きいからがんばれ、二役の原田真絢は道化はいいから三女をがんばれ、長女の水夏希はもっとがんばれ、エドマンドの章平とオズワルドの塚本幸男とオールバニ侯爵の二反田雅澄はいいけどもっといける、が初日寸評。スタッフはどれもいいけど和風の歌を歌わせた宮川彬良に一票。なぜか似合っていたし、あれを道化に歌わせることで芝居の調子が決まった感がある。雨だけ客席も巻込むつもりでもっと大袈裟にやってもよかった。

今回は配役でも訴える演出。三女と道化を同じ役者が二役兼ねることで追放した三女に道連れで助けられるというメタなところが出たし、グロスター伯爵も疑って追手を掛けた娘に助けられるというリア王と同じ境遇が造れた。あとはコロスにあたる兵士にきっちり演技をさせるところもよかった。あれをやればこそ、伝令を伝えるにしても止めに入るにしても、場面が生きる。行届いた演出。

客席削っているから距離は近くで観られるけど、舞台の間口は削らずに客席が横に長いから、前の端席だと首が痛くなる。当日券を狙うなら後ろでも中央寄りをお勧め。あれは客席の組み方をもう少し工夫してほしかった。

なお、芝居を観終わってこの感想を書こうとしたらちょうど社長が娘に刺されたという事件が目に入ってきました。何と普遍的な芝居だと感に入っているところです。

2024年7月 6日 (土)

坂本企画「天の光とすべての私」三鷹SCOOL

<2024年7月5日(金)夕>

まだ見ぬ惑星の開発隊に志願した女性。片道何百年と掛かる片道切符だが、選抜試験で数々の困難を乗越えて合格を手にする。複数の惑星を開発するために合格者のクローンを作成して送り込む計画だが、クローンのオリジナルである合格者は地球に残るようになっていた。夢を断たれた女性は地球で結婚し、娘をもうけるが、夫が病気で亡くなってしまう。そこで再び女性に声がかかる。

ダブルキャストで鳩川七海が主演、笠松遥未がゲストの回。公式サイトの粗筋をもう少し詳しく書くとこうなりますが、展開だけなら7割くらい書いています。SF的なアイディアで人間の葛藤を描いてコンパクトに65分くらいに収めた一人芝居でした。脚本は割と好きでしたし熱演でしたが、演出と役者の力不足で残念な仕上がりでした。

一人芝居といえどもたいていは複数の役が登場して、それはこの芝居も同様です。それを演じるのに役者が切替えることも、一人の役の視点から演じることも、あるいはその折衷もあります。ただ、どのような演じ方にしても一人全役を演じないといけないのは同じです。落語と同じですね。今回は一人の役の視点から演じる脚本でした。そうなると、主人公以外の役を「演じる」難易度は格段に高くなります。舞台には出てこない相手役の背格好、台詞、動き、そういったものを主人公の目線、声の距離感、間合い、反応で示さないといけません。なんなら主人公の役作りよりも優先度が高い。これがまったく駄目でした。

試験の最中に錯乱する仲間を相手にする序盤がわかりやすい例ですけど、銃を構えた仲間に物陰から話し始めるのはいいのですが、身を乗り出すのが早すぎる、主人公が次の台詞を言うのが早すぎる、声の距離感が近すぎるところからずっと同じです。これを演出家が指示するか役者が埋めるかは現場次第でしょうけど、せっかくダブルキャストなんだからもう一人に自分の勉強も兼ねて立たせて稽古すればばよかったのになと思います。それが難しければ人形でもポスターでも置いて稽古すればいい、何なら演出家が相手役を務めてもいい。そこまで稽古でやっていてあの出来なら、もう言うことはありません。

脚本についても割と好きと書きましたが、SFアイディアは設定であって描きたい本筋ではないのはわかります。だからこそ説明をすっきりさせてほしかった。自分で書いた冒頭の粗筋、合っているのかいまいち自信がありません。主人公のオリジナルだけが残されたのか、合格者全員のオリジナル本人が残されたのか。一応後者と判断しましたが、間違っていたらすいません。

スタッフワークで言うと、照明はやりたいことに対して会場が狭すぎたというか、アクティングエリアと客席がはっきり分かれた会場で観たかったです。会場全体が明るくなるような照明があって、ちょっと雰囲気が戻ってしまうことが何度かありました。

これが初演なら再演頑張ってください、なのですが、代表作と書かれているからおそらく再演以上ですよね。公演履歴のページが上手く開けないので確かめられませんけど。となると、うーん、とならざるを得ません。

2024年6月30日 (日)

ほろびて「音埜淳の凄まじくボンヤリした人生」STスポット(ネタバレあり)

<2024年6月29日(土)昼>

いい年齢の音埜淳はアニメ関係専門店で働いている息子と2人暮らし。外出から戻ってきて息子に宇宙人と会ったと打明け、熱心にパソコンに記録を残す。そこに音埜淳の弟がやってくる。妻と離婚することになったからここに住ませてほしいという。こうして三人暮らしが始まる。

名作にして傑作でした。当日チラシには観終わってから参考文献を読んでくださいと書かれていましたが、そこまで書かないと粗筋すらこれで終わってしまいますし、もう千秋楽なのでネタバレで書きます。

やや物忘れのひどくなっていた音埜淳の認知症が進む中での、本人の認知と振回される家族とを描いた作品です。宇宙人の話から始めて芝居の路線が不明確なところから、弟が来ると約束したのも、自分が食べたパンも、財布を持っていくのも忘れた話が重なる1場、やがて妻が亡くなっているのに帰ってこないと言って外出して靴を無くして帰ってくるあたりから観客に様子が共有される序盤の流れが本当に絶妙です。そこからどんどん不穏になり、家族にも事態がわかってくる中で、たまに笑いが入るところも本当に上手です。

音埜淳が話す宇宙人がどのように会話するかについての考察、人間は少しずつ順番に話すことしかできないのに、宇宙人は時間の概念がなくて過去も未来も丸ごと話すという考察が、そのまま周りの人から見た認知症の特徴になっているところが構成の要です。これにあるときは周りが振り回され、あるときは誤解されつついい方向に収まり、そしてラストの台詞のえええええ(さすがにネタバレ自粛)に繋がる見事さ。これぞ芝居でもあり、認知症を理解する方便のひとつなのかなと期せずして勉強になりました。

そして個人的にはアニメネタの最後、エヴァンゲリオンで動く使徒を機体が止めるけれども腕だけ動く話がぐっときました。アニメを観ていなくてもわかりますけど、よりによって転勤で数少ない身内が遠くに行ってしまう場面でそんなネタにするかという気持ちと、そこまでやってこそ芝居だという気持ちと半々です。今なら相談先も増えたでしょうからもう少し楽かもしれませんが。

で、これを演じた4人の役者が本当に見事です。音埜淳を演じて初演から唯一続投の吉増裕士の、真面目な声と表情を殺した演技とが、普段の場面でも独白場面でも回想場面でもぜんぶしっくりきて、ナイロン100℃の人なのに新劇の役者そこのけでした。その息子役の亀島一徳は受ける側の役ですが、初めは父親に乱暴な口をきいていたのが後半に行くにつれて周りのみんなに飲み込む言葉が増えていく様子が丁寧です。弟役の上村聡はなんとも胡散臭い雰囲気を出して上等で、胡散臭いところから終わりまで。そして息子からは叔父のはずなのに兄ちゃんと呼ばれる亡くなった妻の弟役の八木光太郎も、見た目を目いっぱい生かした優しい役に振って、親しいながらも疎遠で息子が相談できない叔父、という立場を好演です。

それと忘れてはいけないのが会場選びで、狭い会場を変形で使って、観客の出入り口、ふだんなら上演の上手下手で使われるであろう出入口、スタッフ控室? らしき出入口、4か所を家の扉に割当てて出捌けに使うことで、家の中で観ているような、至近距離よりさらに近い感覚を作り出していました。

「9年前に再始動したほろびての、最初の作品を作り直します。ずっとやりたかったけど、なかなか実現きなかった」と書かれているのは伊達ではなくて、再演に値する芝居でしたし、いまでも傑作ですが大勢の人目に晒して叩かれるともっといい芝居に成長する予感があります。これは当日パンフに書かれていましたが、狭い場所でも全国あちこちで上演できるように作ったそうで、そのためのショーケースも兼ねて会場選びをしたのでしょう。個人的には紀伊国屋ホールでの上演に耐えうる仕上がりだと思いましたが、ここまで狭い会場で観る臨場感も貴重です。照明は多少工夫していましたけどおそらく蛍光灯でも問題なくて、音響は吉増裕士の劇中パソコン操作だけですよね。これ、全都道府県制覇のツアーを目指すべきだし、全国あちこち、呼ぶべきです。劇場やホールでなくとも、医療や介護の関係者が呼んでもいい。ちょっと広い会議室なら上演できます。

タイトルで気になって、再演と読んで気になって、どこかで「ほろびて」の名前を観たなと思って、今期の数少ない発掘芝居に行くならこれだと思い極めて観に行ったのですが、大正解でした。芝居選びの勘が当たった時の喜びは観客の特権です。

2024年6月15日 (土)

劇団四季「オペラ座の怪人」神奈川芸術劇場ホール

<2024年6月8日(土)昼>

オペラ座の備品がオークションに出されている。それを競り落とす子爵夫人が昔を思い出す。それはオペラ座のオーナーが交代して、新作の稽古中に挨拶にやって来たときのことだった。座席と高額の報酬を要求する手紙と、それが叶えられない場合にとオペラ座で頻発する事故に立腹して、プリマドンナが降板してしまう。当時端役の1人だったクリスティーヌは急遽抜擢されて大成功を収め、子供のころに出会っていた子爵と再会する。だがその成功の裏には、「先生」として毎夜クリスティーヌの歌を訓練するオペラ座の怪人の存在があった。

有名な作品です。粗筋は知っているしミュージカルだしで、安い席で臨みました。それで見切れになるのは覚悟していたから納得しました。

ただ、「オペラ座」の怪人なんですよね。なので登場人物がことごとくビブラートたっぷりのオペラ歌唱でした。その上、席が悪かったのか安い席まで音響の手が回らなかったのか外部劇場では調整に限界があるのか、オーケストラの音が目一杯張り出して歌声に重なってしまいました。そうすると明晰な発声を旨とする劇団四季でも何を歌っているのか歌詞がわかりませんでした。

つまり見切れと不明な歌詞で、何のために観に行ったのかわかりませんでした。慣れた人なら歌詞を脳内補完しながらソプラノとテノールを楽しめたのでしょうが、ミュージカル素人の私には無理でした。慣れない分野ほどいい席を狙うべきだったと勉強になりました。

2024年2月27日 (火)

神奈川芸術劇場プロデュース「スプーンフェイス・スタインバーグ(安藤玉恵版)」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2024年2月24日(昼)>

自閉症として生まれ、小児癌で7歳にして死に直面している少女であるスプーンフェイスが語る自分の一生と死に臨んでの心構え。

出ずっぱりしゃべりっぱなしの一人芝居でこの日は安藤玉恵。脚本は片桐はいり版と同じで、あまり子供らしくも病人らしくもなくはっきり客席に語り掛ける演出。内面の大人びたところを外に出した役作りというか。人形に話す相手を割当てて進めるところが片桐はいり版にはない工夫。

多少幕の上げ下げを調整するとかマイクを使うとかはあるけどスタッフワークはほぼ同じ。全体にスタッフワークのはまり具合は安藤玉恵版のほうがよくて、こちらを基準に仕立てて片桐はいりもそれに合せたっぽく見えた。

それで仕上がりはというと、これは脚本負け。少女も自閉症もわざわざ見せん、自分流で丸ごと料理してやる、という意気込みはあったのかもしれないけど、重たい話を引受けきれていない。早めの台詞回しと場面ごとの間もあまり取らないのとで話がどんどん流れてしまった。安藤玉恵をもってしてもこれか、と脚本の手強さを再認識。あと15分余分に使ってもう少しゆっくりやってくれと演出で最短上演時間を縛ってもよかったのではないか。

神奈川芸術劇場プロデュース「スプーンフェイス・スタインバーグ(片桐はいり版)」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2024年2月22日(夜)>

自閉症として生まれ、小児癌で7歳にして死に直面している少女であるスプーンフェイスが語る自分の一生と死に臨んでの心構え。

出ずっぱりしゃべりっぱなしの一人芝居でこの日は片桐はいり。少女を演じながらいろいろなものや人形を相手にちょこまかと動いているうちになんとなくそれっぽく見えてくる。立てたくなるような台詞がたくさんあるにも関わらずかなり抑えめに進めて、最後に思い切りはじける演出。観客が自閉症の子供を観るような動きや話し方を少し出した役作りというか。

脚本では収容所でも遊んでいた子供の話が出てきて、どうしてもドイツで死の話というとナチスと収容所が出てきやすい。それはしょうがないけど、でもいまはイスラエルとパレスチナの話があって、やられてやり返すにはまあなかなか徹底しているな、みたいな話がある。だからそこがフックにならずにむしろ引いてしまった。上演時期の問題とはいえ不利に働いたのはつらいところ。

仕上がりは、あと少しで傑作に手が届きそうだったけれども手前で届かなかくて惜しい、くらいの出来。父親が酔ってスプーンフェイス相手に嘆く場面と最後にはじける場面がよかった。選曲が何となく合っていないように聞こえたけどこれは後で観た安藤玉恵版と共通で使っていたから。面倒でも選曲は変えたほうがよかったと思う。

この日は片桐はいりに演出の小山ゆうなと芸術監督の長塚圭史の三人でアフタートークがあったのでうろ覚えだけれどメモ。言葉遣いは私の脳内で勝手に変わっているので注意。

長塚:自分も公演中なので観るのが実は今日が初めてです。昔、パルコ劇場で麻生久美子さん朗読を演出したことがあります(2010年4月)。それは2日しか上演しなかったけれど頭の片隅に引っかかっていて、今回芸術監督として上演演目に選びました。

小山:自分の周りではパルコの朗読を観た人が何人かいて評判がよかった。

長塚:イギリスのキャサリン・ハンターが一人芝居で上演したのは知っているけど観たことがないからどうやったのかわからない。そうしたら片桐はいりさんと安藤玉恵さんを提案された。前に片桐はいりさんと一緒に仕事したときには「もう人間とか演じないで物とかやりたいんだよね、物」と話していたので(笑)そんな人がどうやるのかとても興味があった。

片桐:そんなこと言いましたっけ。

長塚:片桐はいりさんは小野寺修二さんの舞台に出たりしてフィジカル寄りの印象を持っていた。

片桐:近ごろは(ひざ? 脚? をさすりながら)身体の調子が悪くてフィジカルな舞台に出られないんです。もともと台詞を言うのは苦手だったけれどもそれでも舞台に出たいと思ったら台詞をやるしかない、と。だから一人芝居に挑戦したけれどいつも悩んでいます。特にこんなご時世(戦争のことか)だから火花の話(終盤)の台詞なんてどうやって言おうとか。

小山:片桐はいりさんは理想が高くて妥協しないから毎公演で終わった後に舞台裏に戻ってきたら「上手くいかなかった」って言っているんです。

片桐:そういう舞台裏はお話しないでください。だったら金返せって言われても返せませんから(笑)。

長塚:オープニング、顔を出すところからすでによかった。

片桐:稽古は安藤玉恵さんと一緒でした。それで初めは幕に影を映しながらゆらゆらとやるオープニングを提案したけどこれは演出で却下されました(笑)。安藤玉恵さんは「それなら私は天井から降りてきたい!」って話していましたけどそれはありません(笑)。でも私とは別のオープニングです。

長塚:稽古はどうでしたか。

片桐:安藤玉恵さんと共通にするポイントだけ決まっていて間は好きにしていいという演出でした。で、元がラジオドラマだからト書きの一切ない脚本なんですね。つまり自由にやらせてもらおうと。カメラを使うのは小山ゆうなさんの提案です。

小山:でも発想がすごい。スプーンフェイスがカセットテープを相手に吹込む場面は片桐はいりさんの提案なんです。しかもそれを隠したところが父親の荷物の間なんですよね。

長塚:朗読はほとんど稽古期間が取れなくて、それでも頼んで5日間稽古したけれど、翻訳も同じ常田恵子さんなのに「あれ、こんな場面あったかな」と観ていて焦りました(笑)。ああいうことはどうやって思いつくんですか。

片桐:わざわざ考えることはなくて、周りのもので何とかするというか。カセットテープのことだと稽古場をぐるっと見渡して、よしこれ、ってそこまで深く考えずに試しました。

長塚:人形に話しかけたり。

片桐:自分版の演出はいつも台詞を誰に話すか問題があるので。あまり話すとこれから向こうも観てくれる人にネタばれになるから言いませんけど安藤玉恵さんはもっと客席に語り掛けるスタイルです。自分はストレートにそのままやりたくないからわざわざ面倒な演出を試してしまって。

それで出来れば両方観てください、みたいな話をして終わったのかな。こんな感じの話でしたけれど、昔はもっと覚えられたのに(嘆)。

2023年8月 6日 (日)

範宙遊泳「バナナの花は食べられる」神奈川芸術劇場中スタジオ

<2023年8月5日(土)夜>

独身、詐欺師、前科一犯、アルコール中毒で説教癖のある男性。出会い系のサイトで成りすましメールを送ってきた男性と会って、一緒に仕事を始める。その中で、出会い系を使って商売する人間を追ううちに出会った人物たちと巻き起こす騒動のあれこれ。

岸田國士戯曲賞作。粗筋の描きにくい話ですが、傑作でした。若干ネタバレで無理やり書くと、自己評価が低くて社会的に上手くいっていない人たちが、本名も知らずにあだ名で呼合いながら、それでも人を救いたい助けたいと思って行動するうちに自己評価が回復していく一連の話です。一人語りと役者同士の対話を行き来するので、生身の人間が演じることでもっとパワーアップされていました。

誤解を恐れずに言えばそこまで下品でない「フリーバッグ」の複数人バージョンです。観る順番が反対だったらもっと衝撃を受けたのにと嘆きました。「フリーバッグ」だと「芸人みたいに話さないで」と主人公が突き放される台詞がありましたが、この芝居だと「何とかしてよファンタジー」が登場人物の叫びでした。

起承転々結々くらいな展開だったり、こちらかと思わせて実はこちらでしたと思わせる演出だったり、いろいろあって最後はどちらに落とすかなと最後まで読ませないあたり、上手いです。その辺は観た人の楽しみということで、それ以外の感想をふたつ。

まず、一人語りと役者同士の対話を行き来する形式の芝居なのに、役者がみんな自然にこなしています。平田オリザの現代口語演劇、チェルフィッチュ岡田利規の「三月の5日間」に代表されるようなダダ語りを経由して、ここまで来たのかという印象です。いまどきの役者はこのくらいさらっとこなして当たり前なんでしょうか。

それとスタッフワークですが、中スタジオ、といってもそれなりに広くて高さもある場所を、正面のスクリーン脇以外は机やベッドといったセットで埋めてアクティングエリアを自在に動かす(全体を使うこともある)美術、カメラを含むこなれた映像の使い方、これらをサポートする照明、クリアで考えられた音響、適度に着替える衣装、などなどなどなどなどなどなど、公演規模の割りにすごく洗練されていました。私が最初に思いついた言い方だと、貧乏くさいところがひとつもありませんでした。

私の思い込みだと、演劇は身ひとつで何とかできる表現芸術の元祖で、その分だけ貧乏くさいところが付きまとって、それを払拭するのが商業演劇、みたいなところがありました。でも、出発点から志が新しいとここまですっきりした舞台が作れるんだというのは、発見でした。

神奈川芸術劇場ということで集客は苦戦気味だったみたいですが、スタジオを使えたという点では適した会場を使えたのだと思います。都内でもシアタートラムとか新国立劇場中劇場とか東京芸術劇場シアターイースト/ウエストとか、プロセニアムアーチがない劇場に向いた舞台ですね。

2023年5月29日 (月)

木ノ下歌舞伎「糸井版 摂州合邦辻」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2023年5月27日(土)夜>

俊徳丸はそのあたり一帯を治める高安の息子。正室だった産みの母は亡くなり、ほとんど歳の変わらない継母の玉手御前と、高安の妾の子である兄の次郎丸と暮らす。高安が病がちになり、家督が俊徳丸に譲られること納得いかずまた俊徳丸の婚約者に横恋慕している次郎丸は俊徳丸を亡き者にしようとし、玉手御前は俊徳丸に懸想したと迫ろうとする。

話だけなら古典で、いろいろあって実は、という話だけれども、いろいろなフォーマットを混ぜこぜにしているのに一本の芝居になっている、なんとも不思議な、だけど本筋の芝居は楽しめた、よくできた芝居でした。

日本の小劇場はいろいろなことをやるものですけど、今回はまたいろいろだらけでした。古典を現代の服で上演するのはまあ観たことはある。オリジナルと思しき場面はオリジナルの言葉で上演するのは木ノ下歌舞伎がそういうものだと聞いていたから知っていたけど、現地イントネーションで進めるのは想定外。そこに物語の補足で後から現代語の場面を足すのは想定外だったし、さらに物語の補足と言えるような言えないような場面まで足してくるのも想定外。それを現代風の歌詞を使った妙ージカルで振付付きで演出するのはやっぱり想定外(よく読めば糸井版って書いてあるから思いつきそうなものですが)。そして太夫とバイオリンとトランペットで語りまで入れて、てんこ盛りです。

これだけごった煮にしたら普通は訳が分からなくなりそうなものですけど、3演目のためか役者が馴染んで当たり前のようにこなしていることで、完成形が見られました。おおむね成功していました。いまある都会の昔の場所が舞台の話ですよという導入と、神代の昔から現代に至るまで続く夫婦親子の情という背景の補強を通して、極端な物語に思えるかもしれないけどそんなこともないよと言えるラインまで芝居側に歩み寄らせることを目指したのだという理解です。

成功でなくおおむね成功と言っているのは音楽のところです。全般に一曲当たりの歌が長すぎた(特にオープニング)のと、後半に場面の割りに緩い音楽が流れたのと、字幕があってわからないことはなかったものの字幕に頼らないとわからない歌詞(特にパートごとに違う歌詞を歌う歌)は、妙ージカルとはいえ改善の余地ありです。でも後半の冒頭は歌も含めて好きでしたから、直しゃあいいってもんでもないのが、難しいです。

役者はなんて芸達者ばかりそろえたんだと思います。玉手御前でたまに大竹しのぶもかくやみたいな顔を見せたりした内田慈、オープニングで歌っているときから誰だと思った合邦道心の武谷公雄は挙げておきます。羽曳野の伊東沙保とか、合邦道心の妻の西田夏奈子とか、まあ見どころの多い役者陣でしたが、全員水準が高くてでこぼこを感じさせませんでした。

スタッフだと、美術は島次郎のクレジットが(角浜有香と合同で)残っていました。柱の組合せで抽象的に場面を切替えるのは小劇場らしい発想です。以前の木ノ下歌舞伎を当日券で見逃したから今回は観られてよかったです。

ただ客入りですが、惨憺たるものでした。土曜日とはいえ夜の公演が嫌われたか、次の日のアフタートーク付きの回に客が集中したか、3演目なので客側が落着いたか、横浜で9時終演というのが敬遠されたか。もったいないの一言です。興味がある人はこの機会に観ておきましょう。

あとは余談。この芝居は歌舞伎にもなっていますが、文楽がオリジナルです(それも、能とかいろいろな元ネタがあって作られましたが、「摂州合邦辻」のオリジナルが、という意味で)。ちょうどこの前に文楽を観て「ただでさえ耳で聞き取るのは難しい言葉をうなられるともっとわかりません」と書いたばかりなのですが、期せずして文楽の現代版アレンジを観ることになりました。

今回は極端なアレンジではありますが、これならいいかというと、文楽にとっては駄目ですね。脚本は生き残っていますが、これで役者を人形に替えても文楽らしさは残りません。ただ、武谷公雄が太夫相当の語りをつとめる場面が少しだけありますが、やっぱりはっきり語る余地はあるんじゃないかと思います。全部をはっきりとは言わなくとも、主なところだけでも。

あと、三味線以外にも楽器を足して、語りから音色要素の負担を分担する方法がないかと思います。和物の楽器を足すなら、笛だと音色が高すぎるから尺八かなと想像しますが、文楽規模の劇場だと太夫と三味線と管楽器とで音量のバランスをとるのが難しいですね。悩ましいです。

2022年11月27日 (日)

松竹主催「平成中村座 十一月大歌舞伎」平成中村座

<2022年11月12日(土)夜>

入れ上げた花魁に見捨てられ家からも勘当された若旦那、かばった八百屋の主人から唐茄子(かぼちゃ)を売って来いと言われて始めて棒手振りに挑戦したはいいが帰りにひもじい母子を見つけてしまい「唐茄子屋」。隅田川で舟を待つ客が七福神に見立てた踊りを踊る「乗合船恵方萬歳」。

「唐茄子屋」目当て。元となった落語があるそうで、ハロウィンに掛けた演目。だから頭としっぽはものすごくしっかりした歌舞伎。演出のノリが派手でも宮藤官九郎でなくともいいのではという内容。中盤の花魁が忘れられずに吉原に入ったところが腕の見せ所で、子役活用まで含めてにぎやかに盛上げる。世話物の途中に小劇場を混ぜた展開。

配役が不思議だった。勘九郎の若旦那はわかる、駄目でも憎めない主人公を好演。七之助の花魁とお仲の二役もわかる、派手な花魁も苦しいお仲も真面目に役を突詰めた形で、しかも芝居に馴染んだ好演。子役2人も上々。

不思議だったのは他。まず荒川良々が盛上げ役のイントロやアメンボ役なんかもやるけど、メインの八百屋の主人をまっすぐな演技で大人計画では観られない役どころ。そして片岡亀蔵が蛙のゲゲコを超が付くくらい真面目に演じていたのが、観る側にはありがたい。素人考えだとこの2人は逆になると思いますけど、入替えてどちらも熱演でした。悪い意味で気になったのは、大工の熊の橋之助と大家の坂東彌十郎。上手いけど浮いていたというか、一人で役を作って演じて対話していないように見えた。

なんか歯切れの悪い感想なのは冒頭とか途中とかで引っかかったから。冒頭で荒川良々が「自粛自粛ってやってられねえなあ(大意)」と客席を煽ったところは、体調不良で中止の回に当たってチケットキャンセルになった身としてはそれなら体調管理しっかりやってくれよとか。途中で「金にならないことなら何でもできる若旦那」「これが不要不急(大意)」ところは、いやそういう商売だろう今さらかよとか。ここら辺に長らく実力脚本家の座を張る宮藤官九郎の反骨精神みたいなものが見受けられるんですけど、観たときの心境と合わなかった。

「乗合船恵方萬歳」は踊りづくし。七之助が一番キレのある、って表現が歌舞伎の踊りで適当かわからないけどキレがあってきれいに見えた。驚いたのは表情。ものすごくまぶしい笑顔で、さっきまでお仲をやっていた人がこれだけ違う表情が作れるのは、やっぱり役者ってすごいんだなと再認識。勘九郎の踊りはそこまでキレがないのだけど動きに愛嬌があって、若旦那役もそうだったけどあの愛嬌が色気に見える人もいるんだろうな。

あとは劇場というか小屋の話。ものすごく観やすい。シアターコクーンと同じくらいの規模で、このくらいの規模だと熱気が集まって盛上がりやすい。いい劇場だった。十八代目勘三郎にちなんで隈取が劇場内の18か所にあるって紹介されていたけど、3か所しか見つからなかったのは無念。

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