2018年5月13日 (日)

さいたまゴールド・シアター「ワレワレのモロモロ」さいたま芸術劇場NINAGAWA STUDIO

<2018年5月12日(土)昼>

速報。上手いとか下手とかお約束とか風邪をひいて声がでないとかどうでもよくなる役者の存在感と、上手いとか下手とかお約束とか風邪をひいて声がでないとかどうでもよくなると思わせるくらいよくできた構成とががっちりかみ合った成功作。どうでもいい話から始めてどうでもよくない理由につなげる展開は見事の一言。場所が遠いけど時間があったらぜひお勧めしたい。

役者に持寄ってもらったエピソードを構成する岩井秀人の「ワレワレのモロモロ」シリーズ。壊れかけた冷蔵庫の代わりを探すが、ほしい冷蔵庫について妻と夫との微妙な意見の食い違い「わが家の三代目」、中学で出会い高校で亡くなったかつての友人の記憶がよみがえる「友よ」、ゴールドシアターに入団して初めて台詞をもらえたのがうれしくて「無言」、夫が亡くなってから家にやってきた猫を飼う「パミーとのはなし」、軍人一家の末っ子が予科練に入隊する「荒鷲」、長姉と長兄は出かけて母と次姉と家に残っていた日の話「その日、3才4か月」。

| | コメント (0)

2018年3月14日 (水)

小田尚稔の演劇「是でいいのだ」三鷹SCOOL(若干ネタばれあり)

<2018年3月10日(土)夜>

東日本大震災が起きた日の新宿駅近く。就職活動をしていた女子学生は面接が中止になった挙句に電車が止まって家まで歩いてかえる羽目になる。喫茶店で離婚届の書類を書いていた女性は埼玉に帰れずに公園で休んでいたところを、寝過ごして地震に気がつかず中野からやってきた学生に声を掛けられてカラオケボックスで休む。スマートフォンの調子が悪い会社員は仕事で六本木に来ている最中に地震に遭う。新宿の本屋で働く女性は入社2年目にして仕事に疑問を抱く。その日の話と、だいぶ経ってからの日の話。

東日本大震災に遭って大小の決断を下した登場人物たちを、カントの「道徳形而上学原論」とフランクルの「それでも人生にイエスと言う」とにひもづけて描く話とチラシに紹介されている再演もの。ここから引用した文章が芝居中に何度か読上げられる。前回と同じく、超スローな出だしに、一人語りが多いスタイル。多いどころか登場人物の2人は登場しない人物としか話さない。すごく地味な話だけど、やっぱり自分には面白かった。新宿近辺やさえない大学生やカラオケなど設定は前回と重なるところが多いけど(再演だから前回が重なっていたのだけど)、それも観ているうちに気にならなくなった。ただこんな学生演劇っぽい芝居のどこが気に入ったのか理解できていない。なので以下の文章もまとまりに欠ける。

似た芝居をしいて挙げれば自分の見聞の範囲ではチェルフィッチュが思いつくけど、「三月の5日間」の超ローカルな話を世界平和まで持っていく曲芸的なスケールの拡げ方に対して、こちらは東日本大震災を背景に持ってきながらそれは背景に留まって、個人が自分自身とひたすら対話して、もっとローカルに内側に向いて、少しだけ自分と上手く付き合えるようになる、格好良くいうと思索が深まるという話。今までの個人を応援する「物語」が、たとえば「ヒッキー・ソトニデテミターノ」ならマイナス100をゼロにしたり、「獣の柱」ではゼロを100にしたり、劇的に描いて振れ幅が大きくなっているところ、マイナス3がゼロに向かって動き始めるまでの細かいところを丁寧に描いた話。いい表現が思いつかないけど、平田オリザの芝居が「静かな芝居」なら、これは「小さな芝居」。

登場人物は自己評価が低かったり夫婦生活が破綻していたり今の自分に疑問を抱いていたりで、少なくとも最初から元気な人物は一人も出てこない。間が悪いことになる人物はいても悪い人物は出てこない。震災は発生するけどその後はイベントらしいイベントもほとんどない。たいていのことは独白で語らせてしまう台詞。登場人物間の関係も5人くらいなら全員がお互いに何か関係のありそうなところ、北斗七星みたいな一本線の関係。それも場所や時間や小道具を調整しての、同じ芝居に登場させる意味があるのかというくらい薄くて細い線のつながり。結局本屋の女性は地震に遭ったのかすら覚えていない。これだけ書いてみたらこんなもの演劇でやる意味あるのかと思えるのだけど、やっぱり演劇になっている。独白だらけの台詞だけど、「ラインの向こう」のように説明調で嫌になるという感じではない。何が違うのか上手く説明できないけど、物語を進行させるのではなく場面として書かれていて、しかも登場人物本人の思考が定まっていないあたりに鍵があるのか。登場人物が頭の中で考えて話が止まらない調子が、小説を読んでいるような気分になる。振返ると、結構言葉は選び抜かれていたように思える。

もっともらしいことを書くなら。

ツールやルートが整備されてすぐに世界につながれるようになった現代(日本の芝居も結構世界に進出してきていますね)では、活躍する人たちの実力や実績はより身近に感じられ、しかも一般の人たち、要領の悪い人たち、最初に行動し損ねた人たちとの差は指数的に開いていく。これら出遅れた人たちは、あるいは自己評価が不当に低くなって自分を貶めるような心情に至ったり、あるいは出遅れたことに焦って行動するもそれが自分の希望に添わない立場に置かれたりする。モノを買ったり趣味に詳しかったり学歴があったり正社員で忙しく仕事をしたりすることが、よくも悪くも素直に自信や誇りにつながる時代は終わって、でもそれに代わって一般人が自信や誇りを得られるような手段は今の日本では見つかっていない。そういう時代にこそ、カントの実践理性やフランクルのような人生を前向きに捉える姿勢の価値を再認識してもいいけど、それを知らない一般の人間がそこに気がつくためには、大震災くらいの衝撃や混乱があってようやく、個人が個人として生きていけるような第一歩を踏出せるようになる、その瞬間を描いた話。

という感じになるのかな。全然違う気がする。フランクルの「それでも人生にイエスと言う」が出てくるのはまさかの引用で、自分の大好きな一冊。あの感じが演じられているから好きなのかも。こんな芝居であんなラストだから、やっぱりあの地震と同じ時期に三鷹で再演したかった気持ちはよくわかるし、それを観られたのはラッキーだった。何となく想像はしたけど、狭い会場を生かして最後の暗転がはまったのはきれい。

役者は前回出ていたメンバーと新しいメンバーで弱い微妙な感じを演じられるメンバーをよく集めている。前回に続いて駄目な大学生役の伊藤拓は面白い身体の動きが観られたのでもっといろいろな芝居ができる役者なのかも。ミニマム感あふれて前回とあまり変わらない舞台美術は予算がないのだろうなという推測。この前観たのが「演劇部のキャリー」だからか、逆にこのくらいミニマムにしたほうが客に想像を強制していいかもと思わないでもない。照明は会場付属の機材に1点の工夫(ミラーボールではない)。そんな中でも音響にまともな環境を投入しているところは好感。

あともったいなかったことをいくつか。

演出。イベントがないわけではなくて、その数少ないひとつに帰宅途中で見かけたペットを亡くした女性とそれをはげます酔払いという場面がある。あれは酔払いにカントを重ねるのも、実家への不安を煽るのも、もっと掘れた。初演のダイジェストがYouTubeに上がっていて、確実に今回のほうが方向が定まっていい仕上がりだったけど、まだいける。

客席。狭い会場で客席数を稼ぐためか、コの字型の客先でさらに舞台上手奥に音響オペを配置するという大胆なレイアウト。音響オペをやったメンバーは目立たないように気配を消していたけど、この狭さだと他の客が視界に入る。あと観ていた感じでは下手の席が割りを食って、役者の後姿が多くなっていた。あれなら下手の椅子を上手に動かしてL字でやれば観やすくて演じやすかったのに、なぜ難しい囲みレイアウトにあえて挑戦したのか。梁があって照明器具が分散されていたのでやむなくか。

あと前回もあった客いじり。この地味な雰囲気の芝居には似合わないし、超少人数の客を相手にやっても盛上げるのは難しいので止めたほうがいい。

最後に上演時間。上演予定時間2時間半に対して終わったら2時間45分というのは夜の回だと三鷹からの帰宅には結構つらい時間帯。あの弱さを作るのにスローなテンポが一役買っているのは確かだけど、その分上演時間に効いている。都心部からやや遠いので平日に15時19時上演ってスケジュールはわかるけど、週末なら13時18時または14時18時のほうがありがたかった。

| | コメント (0)

2018年2月22日 (木)

オフィスコットーネプロデュース「夜、ナク、鳥」吉祥寺シアター(若干ネタばれあり

<2018年2月21日(水)昼>

看護学校の同期で同じ病院に勤める看護婦4人。彼女らが保険金目当てに共謀してその夫を殺すまでのいろいろについて。

すでに亡くなった大竹野正典の再発掘の一環による上演。2002年に福岡県久留米市で実際に起こった事件を元にした、穏やかな台詞と激しい台詞で交互に揺さぶってくる荒々しい脚本。夫を殺す場面も描いて、2003年の初演初日に拍手ゼロだったというのもうなずける。一般人が芝居に求める内容からすると極北の脚本だけどこういうのも芝居の醍醐味。ただ、よい感じだったけど脚本に呑まれて届ききれなかった印象。

松永玲子演じる看護婦が、友情といいつつ同期の夫に貸した借金を、貸した額以上にでっち上げて同期に保険金での返済を迫っていく。友達思いと患者に献身的な看護婦という職業、夫殺しへの追込みと保険金巻上げ、これらが並存して疑わないという濃い役で、世の中の不公平を自分の欲の正当化に転化する関西弁の台詞でまくし立てるど迫力。この面子なら松永玲子が一番悪い役だろうなと想像していたら、その上を行く悪い役だった。悪い役を悪いまま演じて観る側をそらさない演技はなかなかできるものではなくて、たぶんまっさきにキャスティングしたんだと思われる。

でも不公平を認められないでそんな論理に飛びついてしまうあたり、この看護婦が一番お嬢様育ちの世間知らずで弱い人間だったんじゃないか。そこがラストで松本紀保演じる同期の看護婦に抱きしめてあげたくなると言わせる要素だったんじゃないか。そこを出さずに恐ろしい面やずるい面を強調しすぎるのは片手落ちというか、せめて他のメンバーでもう少し弱い面を、ほんの一歩踏外したせいで悪い面に落ちていったというあたりを補えなかったものか。あとは出てきた男たちが、借金と浮気がひどかったにしろ、殺すのにふんぎるには愛嬌よすぎではなかったか。

松本紀保演じる看護婦が、重病の患者が歩こうとするのを見守って、転んだときに支えられるように腰を落として身構える場面の美しさ。「献身」を絵で表せと言われたらあの場面を撮影して額に入れる。看護婦4人の職業の日常はああいうものだったはずなので、あそこと夫殺しまでの間を結ぶ何かが、歪んだ「友情」というキーワード以外にもほしかった。脚本と演出、どちらに求めるべきものだったんだろう。

| | コメント (0)

2017年12月20日 (水)

チェルフィッチュ「三月の5日間 リクリエーション」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2017年12月16日(土)夜>

2003年3月、イラク戦争の最後通牒が突きつけられている夜、ライブで出合った男女が渋谷のラブホテルに泊まり、何となくいい感じになり連泊する。置いていかれた友人はライブに来るかもしれなかった女性のことを考える。渋谷では戦争に反対する人たちが連日デモ行進をしているが、参加者にも温度差がある。何となく緩いノリの若者たちが過ごす渋谷が、普段とは少しだけ違う風景に見えた5日間の話。

2004年初演の芝居。2006年に六本木のSuperDeluxeで上演されたときに観たけど、細かいことは覚えていないので脚本の変更有無は不明。最後の場面が少し長い気もするけど特に変えていないか? リクリエーションと銘打たれたけど以前よりは醒めた感想。率直に言ってすでに古さを感じた。劇場の紹介ページには「もはや"時代劇"とも呼べる本作」と書かれていたけど、時代劇としても現代劇としてもいまいちだった。

それで終わってはあまりなので理由を言葉にする。

・脚本が古い。日本が人も国土も直接影響するかもしれない戦争が起きるかもしれない現在、全部遠い場所で完結したイラク戦争の話は現実に追いこされた。もともと反戦を控えめなトーンで描く芝居ではあるけど、今の時代に対する強度が不足している。

・言葉遣いが古い。サンプルが少ないから実態はわからないけど、今時の25歳以下の若者の大多数は非常に礼儀正しく、ああいう言葉遣いをしないという印象を持っている。世界大会に出場するようなスポーツ選手のインタビューでの受け答えがここ数年で飛躍的に立派になったけど、今の25歳から40歳の間のどこかに賢さの谷間がある。2003年の時代風俗を反映した芝居ではあるけど、その反映が強すぎて今聞くと古い。

・だらしない動きを使った演出が古い。2006年当時、台詞と独立したあの動きは珍重するものではないと自分は批判的だった。けどそのころであれば、あの意味不明な動きやだらしなさがむしろ新しかった。当時の日本人の若者の身体には近いものがあったかもしれないけど、今となっては一時のあだ花になった感がある。

・役者の演技が追いついていない。動きについて言えば、たぶん腰をあまり使っていないせいだとおもうけど、だらしない動きではなくぎこちない演技に見える。MIKIKOがPerfumeの振付について、全身を使った白人黒人のダンスとは違う日本人向けの振付を模索して手先にメッセージを乗せた振付にたどり着いたという話を聞いたことがあるけど、そういうレベルではなく身体が固くて動いていないように見える。あと台詞回しもあのだらしない言葉遣いにに慣れていないように聞こえた。だらしない演技はかなり高度な演技力を求められるものだけど、音響を極力廃して(ひょっとして全然なかったかも)美術と照明を洗練させた舞台には力不足。動きと台詞回しをこなしてさらに役作りまで気が回っていたのは7人のうち渡邊まな実だけだった。あと終盤でデモに抗議するアメリカ大使館の近所の人をやっていたのが他の誰だか失念したけどそこはよかった。

・化粧が今風。自分が当時を覚えている程度には年配だからの違和感だけど、あれは2003年の化粧ではない。

2003年を上演したいのか2017年を上演したいのかがよくわからなく、それが上の否定的な感想の理由の半分くらいを占めるので、脚本を大幅に書換えて、2017年の若者が2003年の若者を演じながら当時の出来事を語る、という枠組みで脚本演出スタッフワークをそろえたほうがいろいろ丸く収まって説得力も増えたのではないか。個人的には分かる人にだけ分かればいいと開き直られたように感じた。それとも自分がイケてないおっさんになったのか。それは否定しない。脚本の構成を読みきれている自信もない(過去と今回の2回観ただけで、脚本を読んだことはない)。多様な芝居が存在することの価値も認める。でも隣の客は寝ていたし、カーテンコールの拍手の熱量も低めだった。この芝居を観て、少なくともこの回を観て、楽しんだり心に深く刺さったりした人が満員の客席にどのくらいいたんだろう。自腹で金と時間を費やして頭から最後まで観た人間として、自分には退屈な芝居だったと書く権利は行使したい。

| | コメント (0)

2017年12月14日 (木)

城山羊の会「相談者たち」三鷹市芸術文化センター星のホール(若干ネタばれあり)

<2017年12月9日(土)昼>

娘一人がいる夫婦の自宅。夫が妻に別れ話を相談しているが、夫が不倫していることを知っている妻は離婚を拒否する。そこへ両親は離婚したほうがいいと考えている娘が会社の先輩を連れて帰ってくる。結婚を前提に付合っていると両親に紹介するが、夫は社会人一年目の娘が早々に結婚することに反対する。気まずい先輩が帰りそびれているところへ、さらに夫への来客者がやってくる。

初見の城山羊の会。離婚したい人と結婚したい人が入混じって、きっかけごとに主導権が入替わって立場が逆転しながらすすんでいく喜劇。似たような経験をした人が観たら身につまされるんだろうか。愁嘆場から修羅場までの見事な展開。小声で演じる芝居と事前にアナウンスがあったが、劇場の規模を考えても本当に小声で演じられて、でも十分聞き取れてしかもぐっと雰囲気が出る。人気劇団になるのもうなづける出来。

全体に夫を中心に描いていて、確信を持って妻を説得するところ、いろいろばれて気まずいところ、自分を棚に上げて娘の結婚に反対するところ、でもおっさんの本気のエロさがかもし出す色気のところ、のそれぞれを演じてぴたりとはまっていた吹越満のキャスティングが成功の第一。両親が席を外した隙にいちゃつこうとする娘と先輩の場面を見せておいて、でもキスだけで親父はもっとエロい、という構成を吹越満が大成功させていた。そのほか全体、役者も脚本も練られていた印象。スタッフワークではモダンな一軒家という印象を持たせつつ椅子やテーブルの配置で立ち位置のバリエーションを増やせる美術がよい感じ。

ひとつだけ気になったのは前説。小声で演じる芝居というアナウンスを含めて劇場の職員が前説をやっていたのだけど、この劇場で上演する場合にはいつも同じ人に小芝居をさせるのが城山羊の会のパターンらしい。適度に話が上手い上にどことなくいじりたくなる雰囲気を持った人なので、前説を依頼したっておかしくないのだけど、自分の勝手な妄想では何となく劇団から劇場関係者への接待のように見えてしまった。何でそんな印象を持ったのか思い返すに、開演前の客入れでこの職員が走り回っているのを見たときの雰囲気と前説での雰囲気とにギャップがあったからだった。ひょっとしたら過去に役者をしていたような頼みがいのある人かもしれないし、そもそも意味不明な妄想と言われてもしょうがないのだけど、個人的な印象としてメモ。

| | コメント (0)

2017年11月13日 (月)

庭劇団ペニノ「地獄谷温泉 無明ノ宿」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2017年11月12日(日)昼>

北陸の奥地にある、一部の地元の人間しか来ない湯治宿。冬を間近に控えた季節に、余興を依頼されて東京から訪れた人形遣いの親子だが、その温泉宿はすでに持主が亡くなって所有者はいないという。帰りのバスもすでにないため、相部屋で一晩過ごしてから帰ることに決めた。その一晩の出来事。

これが最後の上演という岸田國士戯曲賞作の千秋楽は満員御礼状態。変態か絶望のどちらかを秘める登場人物たちが、一晩の交流のうちにそれをちらりと見せながら過ごす宿の出来事。ラストも一見平和に見えるけど、いろいろ考え合わせると平和には思えない。全体に粘度の高い芝居で、適度に不親切な脚本と併せて、過去に観た庭劇団ペニノもそんな感じたったよなと思い出す。

マメ山田ありきの脚本でマメ山田が人形遣いを演じたから成立した芝居かと思ったけど、よく考えたら他の役者でも成立するよくできた脚本。でもあの雰囲気はマメ山田ならでは。それも含めて不親切な脚本を不親切に役者は公演。あの狭いスペースに4分割で湯治宿を詰込んだ舞台美術と照明には拍手。

| | コメント (0)

2017年10月 9日 (月)

KAAT×PARCOプロデュース「オーランドー」神奈川芸術劇場ホール(若干ネタばれあり)

<2017年10月8日(日)昼>

16世紀に絶世の美少年として生まれ、詩人を目指すオーランド―。女王に見出されて宮廷に仕えることとなってから、17世紀を生き、18世紀にはなぜか美女となり、その後の時代も生き続ける彼のち彼女の話。

ヴァージニア・ウルフ原作小説の舞台化の翻訳。場面転換の多さや一人複数役をこなさないといけないところを、小劇場色の濃いキャスティングの妙と、生演奏と映像と衣装をスマートに振ったスタッワークとで、結果かなりモダンな芝居に仕上がった。自分はとても好み。

男が突然女になる点については、男だけで女も演じる劇団や、女だけで男を演じる劇団や、水やお湯をかぶると男女が入れ替わる漫画が存在する国の民としてはそんなに違和感はない。調べたら女性作家であるヴァージニア・ウルフが、そのころ付きあっていた女性詩人との関係をもとに書いたらしい。そういう背景なら男が女になる展開は理解できるけど、芝居の大きな嘘がもう一つ。16世紀からなぜかずっと生きるのは、筋を追うだけでは説明がなくて意味がわからない。そういう意味のわからないところがいかにも白井晃の企画だと思える。

そこはきっと舞台化するときに整理されていて、観た印象は「その時代でもっとも美しいとされていた存在」と「その時代で力を持ちもっとも美しいものを求めていた存在」との関係の変遷を描いて、その変遷の軌跡の上に現代ではその年齢の女性が一番美しくまた力を持っていて、そういう孤独な存在であるがゆえに他人を求めるという現代人への解釈兼賛歌に仕上がっていた。芝居中では21世紀が最後で、そこで詩人は読者を求めるという台詞と、タブレット端末を抱える詩人の現代女性という演出でとてもに今っぽく、格好良く、何というか、力強さを感じさせた。

これを成功させたのは一にも二にもキャスティング。オーランドーの多部未華子が、美少年も美女もやっぱり美しくて似合っていた。それを翻弄するロシア皇女の小芝風花が、回る装置の上で踊る場面を見ながら運動神経いいなと思ったらスケート経験者だった。見目麗しさを楽しむならなんといっても前半。それよりも脇がさすがで、宣伝では小日向文世の女王役が推されているけど、他の3人(戸次重幸  池田鉄洋  野間口徹)も含めて小劇場出身者が生きていた。芸達者というだけでなく、リアリティの処理が上手いと言えばいいのか。うっかりすると疑問を持ったり白けたりする場面だらけ、しかも詩的な台詞も多い脚本を、時に真面目に、時に笑わせながら成立させていた。女性陣の美しさに目を奪われがちなところ、男性陣の能力を見落してはいけない。ちなみに翻訳劇なのに小劇場っぽい台詞が多数。翻訳なのか現場で演出しながら直したのか、どっちなんだろう。

多部未華子の発声が喉声だったのだけが残念で、あの台詞群をしっかりした発声で言い回せていたらどれだけ説得力が増して芝居のレベルが上がったか。少年の場面はよくても大人の女性の場面がつらい。せっかくの大器なので、いまからでも発声を習ってほしい。

| | コメント (0)

2017年10月 1日 (日)

日本のラジオ「カーテン」三鷹市芸術文化センター星のホール

<2017年9月30日(土)夜>

周辺国と緊張の続く某国。近隣の島国を戦場とした戦争で一時併合し、今も島国に軍隊を駐屯させているため、島国からは本土と呼ばれる。島国の巫女の一家を担いで独立を目指す武装組織が、本土の国立劇場の上演中に、多数の観客と関係者を人質に取って劇場を占拠して、投獄中の仲間の釈放が要求した。その劇場内の、武装組織メンバーと人質の話。

劇場を使って劇場占拠事件を上演したいというアイディアから発展させたと思しき一本。音響照明なしが許される設定で公演ハードルを下げる代わりに、演じていない役者に人質を兼務させて実質出ずっぱりにさせて上演ハードルを上げる挑戦的な芝居で、個人的には好みのアイディア。MITAKA "Next" Selectionに選ばれただけあって、一定水準を満たした役者を多く集めて成立させていた。人質の日本人と武装集団の撮影係との間で苦心する通訳とか、島の雰囲気が嫌で出てきたという劇場職員とか、大学の同級生同士の会話とか、細かいやり取りからドライに終わるラストとか、90分のコンパクトな中にいろいろ見どころあり。

ただ脚本演出の工夫が行き届いていないところが散見。上に挙げた見どころは違う立場のやり取りに由来するところが多いけど、15人の役者(ダミーの人質人形でもう少し多く見せていた?)のうち10人を武装集団に割当てたせいで(立場や考え方の相違はあっても)仲間内での進行が多くなってしまったのは設定ミス。当日パンフレットに書いた以上の劇中世界を広げる機会がつぶれた。劇場占拠のリアリティを求めて見た目も声も地味な演技が多くメリハリに欠けたのは演出ミスで、それと思わせることができれば別に大声で話しても問題はなくて、実際、通訳を介して人質のわがままな日本人演出家が興奮する場面は成立していた。初めてのナレーションが中盤からだったため唐突な印象を受けたとか、もっといるはずの人質への言及がなく劇場スペースが余ったように見えてしまったとか、島の言葉と本土の言葉の使い分けがいまいち伝わらないとか、細かいところでは他にもあり。日本を皮肉に見て書いたであろう設定ももうひと押しほしい。伸びしろのある脚本なのでブラッシュアップして再上演に挑戦してほしい。

ただ最大のミスは、あのドライなラストを台無しにした脚本演出家(?)の終演アナウンス。物販だけでなく後半日程の予約状況からくるSNSへの宣伝依頼など、しかもそれがぐだぐだになって、余韻を台無しにするにもほどがある。アンケート記載依頼と役者挨拶の案内は終演後でもいいけど、少なくともこのラストなら、物販とチケット宣伝は開演前に回して手際よく済ませてほしい。あれで個人的には評価を下げた。

でも中々見られないスタイルでもあるし、次回は王子小劇場の佐藤佐吉演劇祭で評判をとったという「ツヤマジケン」でこまばアゴラ劇場登場なので、演劇フリークは今のうちに観ておいてよい1本。10月4日以降がガラガラなようなので、当日券でもふらっとどうぞ。

| | コメント (0)

さいたまゴールド・シアター「薄い桃色のかたまり」彩の国さいたま芸術劇場インサイド・シアター(若干ネタバレあり)

<2017年9月30日(土)昼>

福島県。原発事故による避難区域指定が解除された地域。戻ってきた住人達は家の片づけを行なうが、電車の線路は復旧半ば。復興業務を委託された会社に協力する形で住民たちも線路の敷設工事を手伝うが、イノシシが出没して怪我を負ったり、家族に不幸があったりして一筋縄では進まない。その地域にある日若い女性が東京からやってきた。地震の翌日に色がわからなくなったとメールで連絡を受けたきり、消息の知れない恋人を探しにやってきたという。

さいたまゴールドシアターにさいたまネクストシアターのメンバーが協力した、岩松了の新作。原発事故の直接の話よりも、影響を受けた人と生活の雰囲気を控えめにかつ確実に漂わせながら、復旧を目指す地域の話が進んでいく。不思議な透明感と力強さを残す話。

いろいろ隠すことの多い岩松了の脚本に、ネクストシアターのメンバーがついていくのもすごいけど、ゴールドシアターのこなれてきた女性陣と、まだゴツゴツしたところが残っている男性陣とが、上手さとか粗さとかを超えた存在感で芝居を立上げる。台詞の多寡はあっても脇役のない脚本が大勢の登場を成立させ、それが仕上がりに厚みを持たせる。服を使って互いの距離を縮める場面の技術はさすがだし、ごくシンプルな展開で最後に転結させて見せたあのラスト、線路の延伸を未来に見立てたのは美しさと相まって、観終わったこちらに力強さを与える素晴らしい場面。

台詞の多い妻役を演じた上村正子がさすが、ネクストシアターの堅山隼太、内田健司、佐藤蛍が好演。だけどこの結構凝った上演を実現できるメンバーを、スタッフを含めてここまで育てた蜷川幸雄の功績はいまさらだけどやっぱりすごい。

| | コメント (0)

2017年9月17日 (日)

風琴工房「アンネの日」三鷹市芸術文化センター星のホール

<2017年9月16日(土)夜>

大手化学メーカーの女性開発員は新型生理用ナプキン開発の追込み真っ只中。リーダーを務める女性に同じチームの同期の女性開発員から、実は普段は自社のナプキンを使っていない、天然素材のナプキンを開発できないかと持ちかけられる。それどころではないと喧嘩する2人に、今は企画部部長の元上司が、会社の「自由研究プロジェクト」を使えばよいと情報をもたらす。元上司のおぜん立てで集まった7人の女性で発足したプロジェクトの初回に、そのプロジェクトを知って混ぜてほしいと総務の女性が直訴に来て始まるナプキン開発と、それに関わるメンバーの生理についての物語。

15年ぶりくらいの風琴工房は、生理を巡る女性の話を、生理の基礎知識説明まで丁寧にしたうえで、あのアングラスタイルはどこに行ったのかというくらいポップかつ正面から描く。トランスジェンダーで性転換手術を行なった役まで登場させて8人8様の初潮の話から開発への思いにつなげる脚本スタイルは「ヴァギナ・モノローグス」を思い出すけど、それよりはもっと、ナプキン開発というテーマで1本の物語にして進めていく。役者も力みすぎず流しすぎず、真面目すぎず茶化さず、観る側が引かないようなラインで演じきっていた。これは脚本を含めた演出家の調整の賜物だと思う。難癖をつければ、8人の所帯で全員同じくらいのテンションで前向きに揃っている点に若干ひっかかるけど、開発者の物語としては満点の出来。観れば何かしら発見があるはず。

でも開発の物語ではない。チラシに生理用ナプキン「開発」の物語とあったので、もっと開発の話が前面に出てくるかと期待していた。でもナプキン開発を通して生理を描くことを通して生理を巡る女心を描いていた。どちらの誤解になるのかはともかく、そこが個人的に残念。

<2017年9月18日(月)追記>

そういえば最後列に何をやっても笑っているおっさんがいたけど、あれはなんだったんだろう。大きな劇場だとたまに見かけるけど、業界関係者か。一応こらえていたつもりなのだろうけど、あのサイズの客席ではつらい(実はかなり近い席だった)。あれだけ頻繁に笑われてもリズムを崩さなかった役者はあっぱれだけど、観ている側のリズムというか入り込み具合は損なわれた。ライブは難しい。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧